三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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「安積親王と葛城王」 あ と が き 安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』の歌が有名です。この小説は、私なりのこの歌の解釈が主題となりました。その結論は本文中に載せましたが、これはあくまでも推論であって、これが正しいとは主張しておりません。私見ということでご覧頂ければ幸いです。 これを書いていてさらに驚かされたことは、時代は下がるのですが、橘為仲の存在でした。彼が詠んだ歌、『陸奥の芳賀の芝原春くれば吹く風 いとどかほる山里』もまた、安積と微妙に関係していたのです。そこで郡山市や奥羽大学図書館で橘為仲に関係する書籍にあたりインターネットで調べましたが、何ら進展することがありませんでした。 橘為仲の話は、表題の『安積親王と葛城王』の付録のようなものとして書き綴ったのですが、むしろその調査は困難を極めました。苦しんだ末、思い切って私は自分のブログ『福島の歴史物語』に情報提供依頼のコメントを載せたのです。そして約三ヶ月、いささか諦めかけたころ、岩手県の白戸明氏よりブログ上に反応があったのです。 白戸氏は実に真摯に対応してくださっていました。国会図書館や岩手県立図書館に足を運び、月刊誌の『国語と国文学』『和歌文学研究』など私が知り得なかった文書を見つけ出して教えてくれたのです。結論から言えば、氏もまた『陸奥の芳賀の・・』の歌を見つけることは出来ませんでしたが、将来に望みをつなげる内容の文書を送ってくださったのです。その内容につきましては、『橘為仲』の稿にその要点を引用しましたが、実は白戸氏に助けられたのはこれが二度目でした。 最初は2006年に忠臣蔵の前後を書いた『大義の名分』を出版した直後でしたが、それは赤穂浪士・小野寺十内の養女の行動についてでした。一度ならず二度までもお世話になったことを、この場をお借りして心よりお礼を申し上げます。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.12.11
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資 料 安積親王に関係の深い人の略歴を載せておきます。 阿倍内親王(基王の実姉・安積親王の義姉)天平十(738)年、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子 もなかった。将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。天平勝宝元(749)年、父・聖武天皇の譲位により即位した(第四 十六代・孝謙天皇)。母の光明皇后が後見したが皇太后のために皇太 后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が紫微中台を新設。長 官には藤原仲麻呂が任命され、皇太后を後ろ盾にした仲麻呂の勢力 が急速に拡大した。これに反抗した橘奈良麻呂(橘諸兄の子)は討 たれる。また天武天皇の孫である何人かの王が皇位を狙って挙兵し たが、いずれも失敗におわった。 天平宝字二(758)年、孝謙天皇は退位して孝謙上皇となったが、 次の第四十七代・淳仁天皇と軋轢を繰り返して追放し、孝謙上皇が 重祚して第四十八代・称徳天皇となった。神護景雲四(770)年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸、ここで崩 御した。称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀な くされた。 井上内親王(安積親王の長姉)養老五(721)年、井上内親王は五歳で伊勢神宮の斎王(斎宮)に 卜定され、六年後の神亀四(727)年、伊勢に下向した。天平十六(744)年、弟の安積親王の薨去にともなって斎王の任を 解かれ、退下した。帰京後、白壁王(第四十九代・光仁天皇)の妃 になる。天平勝宝六(754)年、三十七歳という当時としては高齢の出産で 酒人内親王を産む。天平宝字五(761)年、四十五歳で他戸親王を産むが、あまりにも高齢であるため現代の学者の間でも真実かどうかで意見が別れている。宝亀元(770)年、夫の光仁天皇が即位すると、それにともなって 立后され、また翌年には他戸親王が立太子される。宝亀三(772)年、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸 親王も皇太子を廃された。宝亀四(773)年、井上内親王と他戸親王は、大和国宇智郡(現在 の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、幽閉先で他戸親王と共に 薨じた。なお、この不自然な薨去には暗殺説も根強い。 不破内親王(安積親王の次姉) 天平十(738)年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王 に嫁ぎ、志計志麻呂、川継の二人の息子を産んだ。塩焼王は天平宝 字元(757)年、臣籍降下をして氷上真人塩焼と改名した。しか し天平宝字八(764)年に塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとし て処刑される。 神護景雲三(769)年、称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂を皇 位に就けようとしたとして、厨真人厨女(飯炊き女の意)と名を改 名された上、平城京から追放され、志計志麻呂は土佐国に流罪とな った。しかし宝亀二(771)年、それが冤罪だったと判明し帰京 する。 宝亀七(776)年から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の 怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。井上内 親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、悪霊扱い されたと思われる。延暦元(782)年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして 伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。延暦十四(795)年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、不破内親王はこの頃に亡くなったもの と思われる。 大伴家持天平勝宝七(755)年、防人閲兵のため難波に赴く。天平勝宝九(757)年、兵部大輔に昇進。 天平宝字七(763)年、恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂 一人罪を問われ、大伴家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せら れる。 天平宝字八(764)年、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件 による左遷と思われる。神護景雲四(770)年、正五位下に昇叙される。天平二十一年以来、 二十一年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重ん ぜられ、急速に昇進を重ねることになる。天応二(782)年、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上 苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれ、陸奥の多賀城に赴任。延暦二(783)年、陸奥駐在中、中納言に任じられる。 延暦三(784)年、持節征東将軍を兼ねる。延暦四(785)年、死す。家持は単に歌人だけではなく、武人、そ れも高い位置にあった武人であった。そして家持は、万葉集編者の 一人であると言われる。 橘諸兄その後天平十八(746)年、橘諸兄は大宰帥を兼ねた。大宰帥は大宰府の 長官で、九州における外交・防衛の責任者である。西海道の九国二 島を管轄した。天平感宝元(749)年、正一位に陞階した。生前に正一位に叙され た人物は日本史上でも六人と数が少ない。天平勝宝元(749)年、孝謙天皇・聖武太上天皇らが東大寺に行幸 した際、詔を左大臣橘諸兄に読み上げさせた(「続日本紀」記載)。 正一位を賜る。天平勝宝二(750)年、朝臣の姓を賜り、橘朝臣諸兄となった。天平勝宝七(755)年、飲酒の席での聖武太上天皇誹謗の言辞を密 告され、翌年二月、この責を負って官界を引退した。天平宝字元(757)年死去。七十三歳と推測される。 参 考 文 献(安積親王と葛城王)貞享4年 奈良曝 洛南書坊西村嘯月堂(春日大社・松村氏より提供)明治44年以降か 郷土史第二編(郡山市誌第二編) 和紙にペン書きのもの1928 万葉集新考 井上通泰 国民図書1958 国語と国文学 10月号 橘為仲とその集・古代末期の歌 人像 犬飼廉 東京大学国語国文学会編 〃 新校万葉集 沢潟久孝 佐伯梅友 創元社1963 今昔物語集 山田高雄 山田忠雄 山田英男 山田俊雄 岩波書店1968 万葉秀歌 斎藤茂吉 岩波書店 〃 新釈古今和歌集上巻 松田武夫 風間書房1971 国語と国文学 4月号 「橘為仲集」考 久保木哲夫 東京大学国語国文学会編1975 私家集大成 中 和歌史研究会 明治書院 〃 万葉集発掘 原田大六 朝日新聞社1976 作者類別年代順万葉集 沢潟久孝 森本治吉 芸林舎 〃 万葉集注釈巻第十六 沢潟久孝 中央公論1977 古今集総索引 西下経一 滝沢貞夫 明治書院1984 郡山の歴史 不二印刷1985 都路村史 都路村1987 大系・日本の歴史 佐原眞 小学館1988 古今和歌集 小町谷照彦訳注 旺文社1989 和歌文学研究 11月号 「橘為仲朝臣集」における問題 〜編年性をめぐって 高重久美 和歌文学会編1993 歴史読本「古史古伝」論争 新人物往来社1995 逆説の日本史 井沢元彦 小学館1998 万葉集・本文篇 佐竹昭宏 木下直俊 小島憲之 塙書房2000 万葉集・訳文編 佐竹昭宏 木下直俊 小島憲之 塙書房2001 あさか乃神社史 あさか乃神社史編集委員会2003 福大史学 74・75合併号 安積采女と多賀城創建 鈴木啓 福島大学史学会2004 郡山の歴史 ル・プロジュ2006 日本古代史年表 前田求恭 吉川弘文館2006 大和物語(下) 雨海博洋・岡山美樹 講談社2008 郡山市遺跡ガイドブック〜清水台と古代郡山 郡山市教育委員会 〃 みちのく ふくしま歴史文学紀行 永塚功 歴史春秋出版2009 歴史読本・古代史を書き換える21の新・論点 新人物往来社2010 郡山地方史研究 第40集 郡山地方史研究会 H P 万葉秀歌・斎藤茂吉 http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html H P デンマンの書きたい放題・日本史 http://denman705.exblog.jp/i5 お世話になった方々 (五十音順・敬称略) 荒井政男 尾形徳之 笹森伸児 白戸明 鈴木俊哉 高館作夫 西山忠則 野沢謙治 氷室利彦 星美智子 松村和歌子 宮沢淑子 柳沼賢治 吉川貞司ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.11.22
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橘 為 仲 この安積親王や橘諸兄の時代から約300年後、橘諸兄の十一代の裔である橘為仲(長和三・1014年頃〜応徳二・1085年)が郡山の伝説となって再登場する。1984年、『郡山の歴史(郡山市 不二印刷)』が出版されているが、その30頁に次の記述がある。 かつて、郡山の地名は、橘為仲のよんだという『陸奥の芳賀 の芝原春くれば吹く風いとどかほる山里』の歌の『かおる山』 から 出たと言われ、芳山の字を当てていた。しかし現存する『橘 為仲朝臣集』の歌のなかには、この歌はない。仮に『橘為仲朝臣 集』にその歌があったにしても、『かおる山』が訛ってから郡山に なったというのは当たらない。郡山の名は郡衙の所在地というと ころから出たと考えるべきであろう。 しかし2004年に発行された『郡山の歴史(ル・プロジェ)』の『「郡山」の地名のおこり』には、古代の郡衙のあったところには、『こおりやま』という地名が多いという説明のみで、橘為仲の歌についての記述が除かれている。その理由の記述はないが、恐らくこの歌が『橘為仲朝臣集』などにないことによるものであろう。私も『橘為仲朝臣集』をはじめ関連する文献に当たってみたが、見つけることができなかった。それにしても、1984年発行の本にあの橘為仲の歌を載せたということは、どこかにあったからではなかったのかと思った。この歌はどう考えても、現代人が作ったものとは思えなかったからである。 そこで私も、郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみたが、やはりそこにその歌はなかった。次いで私は郡山歴史資料館に足を運んでみた。そして見つけたのは、明治四十四(1911)年ころに和紙にペン書きされた『郷土史第二編 第十六章口碑伝説』であった。そこには次のように記されていた。 阿加岐山及郡山ノ起原 比止祢命方八丁ニ社稷ノ神ヲ祀ルベキ地ヲ求メ阿岐に加ヲ 加ヘテ阿加岐山ト称シ國神人祖霊ヲ鎮祭シ山河ヲ望●シテ國 界ヲ定メ荒壌ヲ墾キ田圃ヲ作リ人民ヲ撫育シ始メ芳賀ノ里ト 号シ日中古訛リテ加保里ト云フ阿加岐山ノ山ヲ取リ加保里山 ト云フ後世改メテ郡山と号セシトゾ。又昔橘為仲陸奥ニ下リタル 時此地ニ至リタルニ山桜盛リニシテ花ノ香旅ノ衣ヲ打ツ其時 ニ為仲歌ヘツラク 陸奥の芳賀のしの原春くればふく風いと丶かほる山里 コノ歌ノかほる山里ヲ転ジテ里トナシかほり山ト号シ後ニ 郡山ノ文字ヲ用ヘシゾ 注 ●は判読不明 しかし残念ながら、ここにはこの歌の原典についての記述はなかった。ただ承平五(935)年頃に成立したとされる『和名類聚抄』によれば安積郡には、入野・佐戸・芳賀・小野・丸子・小川・葦屋・安積の八郷があったことが分かる。すると『陸奥』の『芳賀』という固有名詞は郡山に他ならないことになるが、この歌の存在が確認されない以上、それとて推測となる。それでもこれで、明治四十四年まではさかのぼることができたが、こう記述されている以上、これを書いた人は当然ながらこの歌の原本を知っているはずである。しかしながら、今の時点で見つけることができなかった。 橘為仲は、長和三(1014)年ころ生まれたと推定され、二十歳になった長元八(1035)年『賀陽院水閣歌合』にて方人(かたひと・歌合わせなどで二組に分けられた一方の人)を勤めた。長久二(1041)年、『源大納言師房家歌合』が編纂されているが、ここに和歌六人党の顔ぶれが出ている。メンバーについては流動的であるが、為仲はいわゆる「追加メンバー」的な存在であったようである。のちに為仲は、家集『為仲朝臣集』や日記『橘為仲記』(散逸)を残すことになる。 永承二(1047)年十二月一日、橘為仲は六位蔵人・式部少丞となった。蔵人とは令外官の一つで天皇の秘書的役割、また式部少丞とは、大学寮 ・散位寮 の二寮を管掌していた役職である。その後も橘為仲は順調に昇進、駿河権守、淡路守、皇后宮大進、五位蔵人・左衛門権佐、従四位下、越後守を歴任し、承保二(1075)年秋、陸奥守として陸奥に赴任したが、六十歳位での赴任は相当の衝撃を与えたようである。この年の十一月七日、橘為仲は白河関を越え、その後竹駒神社の北にある武隈の松(宮城県岩沼市)で歌を詠んでいる。 たけくまのあとを尋ねて引うふる松や千とせの初めなるらむ すると『陸奥の芳賀の・・』の歌は春を詠んだものであるから、往路に詠んだものとは思えない。そしてその年末には多賀城に着いたものと思われる。六年後の永保元(1081)年秋、橘為仲は帰京しているが、その間に詠んだと思われる次の三首が、『橘為仲朝臣集』に残されている。 はなかつみ かつみしたにもあるものを あさかのぬまの あさきしのよや(46) 山の井の そこに心はあるものを あさかのぬまに かけやみゆらん(60) おもひくる かけしうつらは山の井の水はむつはし にこりもそする(61) これらの初めの二つの歌には『あさかのぬま』が、後ろの二歌には『山の井』が詠われている。これらの歌が実際に郡山を訪れて詠んだものか単に想像によるものかは不明であるが、『陸奥の芳賀の・・』という歌の実在を想像させられるものがある。そう考えてくると『陸奥の芳賀の・・』という歌がもし橘為仲の歌ではないとしても、少なくとも為仲は、安積について歌っていたことは確認できる。そうすると、『陸奥の芳賀の・・』の歌は、誰かが明治四十四年の文書から見つけ出して『郡山の歴史(不二印刷)』に載せたものなのであろうか。では明治四十四年の文書の歌の出典は何であったのか。どうしても疑問が残る。 橘為仲は、応徳二(1085)年十月二十一日に没した。 ところで月刊誌『国語と国文学』や『和歌文学研究』に記載されている『橘為仲集考』、『橘為仲とその集』、『「橘為仲朝臣集」における問題』に、これにつながると思われる記述がある。『陸奥の芳賀の・・』の歌の再発見の可能性があると思える記述を『 』で箇条書きにし、抽出してみた。 『もともと為仲集というのは、一首の歌を共用する全く異 なった二つの歌集があって、現在一般に流布している群書類 従本系では、その二つの為仲集が合体した形をとっている』 『要するに為仲集には、西行筆の本文と定家筆の外題をもっ たもの(甲本)があったこと、それはすでに三、四枚の落丁 を持っていたらしいこと、もう一つ全く別な為仲集があって、 それを合体した』 『伝本は宮内庁書陵部に甲乙二本が現存。 甲本(501・3 05) 188首 乙本(501・185) 56首 巻頭 より28首はほぼ一致するが、それ以降は乙本で大部分が欠 落』 『伝西行筆で佚名家集切とか未詳家集切、あるいはただ単に 歌集切と呼ばれている古筆断簡がある』 『佚名家集切は、実は為仲集切であった』 『各断簡はばらばらで少しもつながりがない』 『しかも実際にはまだほかにも落丁の部分がある』 『落着き場所不明の佚名家集切二葉(中略)から考えて、あ る部分では相当量の落丁 も考えられよう。伝西行筆本その ものの出現もさることながら、同種の断簡の発見が望まれる わけである』 『まだまだ発見が期待できるものとして、ここにその点を報 告しておく』 これらの古筆断簡などを念頭に置きながらも、散逸したという日記、『橘為仲記』も気になる。つまり『陸奥の芳賀の・・』の歌を現在見つけることが出来ないとは言っても、佚名家集切や断簡の中に含まれているのではないかと思えるからである。学者による今後の発見に、大きく期待したい。 ただ私がこの歌にここまで執着するのは、この歌が郡山市内の小学校の校名になったとも言われていることにある。曰く、芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校などである。 安積親王と橘諸兄そして橘為仲の存在は、どこかで古代の安積や現代の郡山と密接につながっているように感じられてならない。 (終)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.11.11
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安 積 山 の 歌 4 この文面によると、この歌は奈良の『浅香山』と『山ノ井』を歌ったと考えても無理ではなくなる。すると私が先に示した『山ノ井(一般名詞説)』は、取り下げるべきかも知れない。やはり安積の文字を『あさか』と読むことを知った葛城王は、『あづみ親王』を安積山になぞらえたことから、葛城王伝説が郡山と結びつけられたとも考えられる。なぜなら、万葉集にある歌の数からだけ言っても、安積山より安達太良山の方が有名であったことになるからである。そのためもあってか、安積山は額取山ではなく安達太良山ではないかという説もある。しかし、もしそうであったとすれば、むしろスッキリと『安達太良山(または額取山) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』 にした方がよかったと思われるのであるが、どうであろうか。 春日大社は、社伝によると神護景雲二(768)年、藤原北家の藤原永手(和銅七・714年〜宝亀二・771年)が藤原氏の氏社として創建したといわれている。しかしここが神域としての歴史は深く、この地で養老元(717)年、遣唐使の航海安全を祈る祭司を御蓋山(みかさやま)の南で行ったという記録、また創建間もない東大寺とその周辺を描いた図(東大寺山堺四至図)もある。この春日大社については、興福寺が実権を掌握した神仏習合説が称えられているが、当時の東大寺の寺禄が二千五百石、法隆寺千石に対して興福寺のそれが三千二百石ということは、藤原氏の優遇度が異常に高かったことを示している。この春日大社のある御蓋山に水源とする山ノ井があったということは、『安積香山』を『浅香山』と誤解させることで藤原氏に対しての目眩ましにしようとしたのではあるまいか。 ここで大胆な推理を加えれば、前述した安積山製鉄遺跡の読みがアヅミであることから、アサカではなくアヅミシンノウであったらどうか、ということである。もしこの推理が許されるなら、アヅミシンノウは浅香山に隠されることになり、藤原氏に対しての目眩ましが完全に成功することになる。 またこの歌の作られた年代を推定するには、歌そのものではなく、作者とされる『陸奥国前采女某』に隠されていると思われる。陸奥国は大宝元(701年)の国郡制定の際置かれたが、養老二(718)年に一旦廃止されて神亀(724〜728)年中再び陸奥国が置かれたものである。このことから安積山の歌は、718年以前か724〜728年以後に作られたと推測され、安積親王が生まれた神亀四(727)年と微妙に重なる。この頃は藤原氏の勢力の強い時であったことから、安積親王=安積山説を裏付ける一つとなるのではあるまいか。 沢潟久孝氏はその著『万葉集注釈巻十六(85頁)』において、『確証がないからこそ、安積山の歌が京師の歌人によって作られた歌であると、筆者はそう考えたい』と述べられている。 万葉集に安積山の歌が一首しか無いのにもかかわらず歌枕とされていったのは、安積山が安積親王であるという無言の認識、もしくは合意があったからではあるまいか。そしてそれと重なると思われるのが安積親王の祀られた山が『和豆香山(わづかやま)(和束山)』である。つまりこの『天香山』、『和豆香山』のなかに『香山』が含まれており、また万葉集が成立したのは七世紀後半から八世紀後半にかけてであるから、安積親王が和豆香山に埋葬された後のこととしてもよいと思われる。するとここにも、和豆香山から安積香山と替えた可能性が考えられる。この『香山(かおるやま)』が、郡山の地名の起こりとする説もあるからである。 これら推定のまとめとして、もしも万葉集の編纂中に橘諸兄と大伴家持の間で話し合いが行われ、万葉集の中に安積親王名指しの歌が一首もないのを残念がって橘諸兄が安積に行ったことにして詠み、作者も不明として左注を書いたという可能性が無いこともないと考えられる。伝聞としてこのような左注を書ける人は、橘諸兄本人か大伴家持以外にはないのではないかと思われるからである。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.10.21
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安 積 山 の 歌 3 では何故このように異質と思われるような『あさか山の言葉』が『歌の父母』の二とされたのであろうか。考えられるのは、海と山を比較してみた場合、安積親王はやはり山と比喩した方が雰囲気としては合うのではあるまいかということである。また現実に安積が海に面していない以上、その公算は大と思われる。例えば、山を御神体とする神社は少なくない。そう考えてくると、仮名序で歌の父母としたのは、単に安積山の歌の出来映えがよかったから(一文字余りではあるが)ということだけではなく、それ以上のもの、つまり『安積山』が『安積親王』を象徴的に表していたからではないかと考えられる。そうすれば、『安積山の歌』が『歌の父母』として推奨された二つの歌のなかの一つであることの意味が分かるような気がする。 その上で、もう一つの疑問に『安積香山』がある。一文字一音という原則があったにせよ、なぜ『安積』に『香』という文字を重ねたのであろうか? 奈良県橿原市には天の香具山、畝傍山、耳成山の大和三山があり、持統天皇の御製の歌に『天の香具山』が出てくる。 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山 (万葉集 01/0028) この大和三山で『天の』の付くのは香具山のみである。この山は天皇が国見をする山であったことから、天から降ってきた『聖なる山』と考えられていたようである。とすればくどいようだが、『安積香山』は安積の『聖なる山』、つまり安積親王を表現しようとしたのではあるまいか。なおこの『安積山』が枕詞とされる例が多いが、原田大六氏の『万葉集発掘』には次のように記載されている。 『万葉集』では、枕詞と序詞というものは一切なく、歌の背 景は古神道であった。平安朝における和歌では枕詞と序詞が 存在し、歌そのものは仏教的思想に支配されていた、 古神道ということになると、やはり安積山イコール安積親王説を補強することになると思われる。その関係もあってか、万葉集約4,500首の歌のうちに『安達太良山』が三首もあるのに、この歌以外、『安積山』、もしくは『安積』のつく歌を見つけ出すことはできなかった。しかも安積山の歌を含めたすべての歌(四首)の作者が、そろって不詳とされているのである。 安達太良の 嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも 我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね(安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。私もお前のところへ通い続けるから、いつでも共寝できるように待っていてね)。 (作者不詳 万葉集 14/3428) 陸奥(みちのく)の 安達太良真弓 弦(つら)着(は)けて 引かばか人の我を言(こと)なさむ (檀(まゆみ)で作った弓に弦をつけて引っ張るように、あの女の気を引いたら 世間の人はあれこれと噂を立てるだろうなぁ) (作者不詳 万葉集 07/1329) 陸奥の 安達太良真弓 はじき置きて 反(せ)らしめきなば 弦はかめかも (陸奥の安達太良山でできる弓のつるを外しておいて、反らせておいたならば、もう一度つるをはめようとしてもはめられようか。それと同じで、逢わないでいてよりを戻そうとしてもだめでしょう) (作者不詳 万葉集 14/3437) それにしても安積山を詠った歌は一首しかないことから、安積山という山が普遍的に知られていての歌であったとは考えにくい。これに対し、安達太良山の歌が三首もあるということは、実在の山と架空の山との差であったのではなかろうか。安積山が架空の山であったということは、前述したように安積山が安積親王であったという仮定に基づく。そのことはまた、安積山という名の山が実在しない以上、『浅香山』が正しくないとも言い切れないのではあるまいか。大和物語に出てくる、『安積郡の安積山』という固有名詞が「あさかやま」を安積山に固定していった理由の一つと考えられる。 ところで最近、知人からの又聞きとして、次のようなことを聞いた。「奈良・春日大社の建つ丘の名が『安積山』だということを、春日大社の宮司に聞いた」というのである。しかしすでに鬼籍に入られているその方の著書を図書館で漁ってみたが、見つけることができなかった。やむを得ず春日大社に、事実かどうかを問い合わせてみた。ほどなく春日大社宝物殿学芸員の松村和歌子さんより『奈良曝(丁卯暦孟夏吉日、洛南書坊西村嘯月堂)』のカラーコピーに添えて次の説明が寄せられてきた。なお奈良曝の序には、『古き京の残れる跡春日・興福・東大或ハ栄行今の寺社・名師・名匠・諸職・商店・町々の竪横を書あつめしより奈良曝としかいふ』とある。 お尋ねの安積山(浅香山)は、「奈良曝」貞享四(1687) 年刊行、(全5巻)の第三巻に記載があり、荒池畔の奈良ホテ ル(奈良市高畑町)がある小高い丘が浅香山と呼ばれ、近く に山の井があったことが分かります。 采女神社のある猿沢池から言えば、南東方向になります。 奈良曝の浅香山の項には、お手紙にあった万葉集の安積山の 歌をあげたあとに、「ぼだい谷成身院のうしろなる山をいへ り・・・」とあります。 山の井については、「水上が春日大社の建つ御蓋山(みかさ やま)で、その清流にある水谷川から流れてくるとあります。 近世の地誌ですので、これが、万葉集の安積山という確証は ありませんが、近世にはそう信じられていたようです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.10.11
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安 積 山 の 歌 2 前にも述べたが、葛城王の安積来訪については、神亀元(724)年、多賀城創建に際してその祝賀行事に出席、途中に寄ったとする説がある。しかし私はこの説を採りたくない。理由として、多賀城創建の祝賀行事に出席したとすれば天皇の名代であったと考えられること、そのため多くの付き人を引き連れていたであろうこと、さらに往路にしろ復路にしろ郡山に立ち寄ったとすれば、歴史上何らかの記述が残されているはず、と思えるからである。多賀城までの長い道中で、他の土地に寄ったという記録が一切なく、郡山だけなのである。この説は何とも不自然と思える。 このようなことがあったにしても、安積山の歌自体は、長い時間をかけて、専門家によって解釈されている。しかしそれに敬意を表しながらも、あえて私見を述べてみたい。ポイントは『安積山』と『山ノ井』である。 まず安積山であるが、『安積山は、安積親王を比喩的に表現したものではあるまいか』ということである。万葉集の編者であった葛城王か大伴家持が、安積親王を藤原氏からの目からそらすために、山という暗号を使って『安積山の歌』を詠み、作者を『陸奥国前采女某』、つまり実質的『詠み人知らず』として載せたとも考えられる。それでも万葉集に載せる時点で安積香山にしたのは、安積香山が安積親王ではないという言い逃れの余地を残そうとしたのではあるまいか。 それでは『山ノ井』とは何を表したものであろうか。大辞林によると、『井は井戸、掘井戸。泉の地下水をためた水汲み場』とあり、井戸は、『地面を深く掘り、あるいは管を地中に打ち込んで地下水を地上に汲みあげるようにしたもの(三省堂・大辞林)』とある。また郡山の葛城王伝説では『清水』、奈良新発見伝では『井戸』となっている。するとこの井戸、また場合によっては『水汲み場』のような小さな池、しかも山にある。それに『安積山』という大きな山容が写るものであろうかという疑問になる。つまり覗き込めば顔くらいの大きさなら写るであろうが、山まで写し出すのには小さすぎるし、水位も低いのではないかということである。大和物語では、娘が『山ノ井』に自分の顔を写している。そのことから、『山ノ井』とは歌の内容から言って、文字通り『山にある井戸』という一般名詞であると思いたい。もしこれらの推測を許して頂けるなら、この歌の意は次のようになると思われる。『安積親王のお顔を写す山ノ井戸は、あまり深くはありません。しかし私(安積派・たとえば葛城王)の(安積)親王への思いはとても深いのです』 こう考えられるもう一つの理由は、前にも述べたように日和田町の安積山は丘程度のものであったことと山ノ井の前に掲載した写真のように小さなものであったこと、そして片平町の安積山は額取山と比定されているがここの山ノ井は丘に囲まれていて直接額取山を目視できない位置にあること、にある。 ところでこの『安積山』の歌は、『難波津』の歌とともに『古今和歌集』の『仮名序(かなじょ)』の中で『歌の父母』とされている。ところが安積山の歌が万葉集に載っているにもかかわらず、難波津の歌は、古事記、日本書紀、万葉集のいずれにもなく、文献上は平仮名で記された古今和歌集の前書きである仮名序にしか載っていないという。『古今和歌集仮名序』は、『古今和歌集』の序文で、仮名で書かれていることから『仮名序』と呼ばれている。執筆者は紀貫之である。しかし平安時代になると、難波津の歌『難波津に 咲くや この花 冬ごもり 今は 春べと 咲くや この花』と言えば『誰でも知っている歌』の代名詞とされ、それだけによく知られた歌であったという。その仮名序は次の通りである。 なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり あさか山のことばは うねめのたはぶれよりよみて このふたうたは、 うたのちちははのやうにてぞ 手ならふ人の はじめにもしける (難波津の歌は 帝(第十六代・仁徳天皇)の御初(おほむはじ)めなり 安積山の言葉は 采女の戯(たはぶ)れより詠みて この二歌(ふたうた)は 歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ 手習(てなら)ふ人の初めにもしける) 仮名序のこの部分は、あえて説明を加えなくとも、その意味が理解できると思われるが、ここに二点、不思議なことが書いてあるように思える。第一点は『なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり』であり、第二点は『あさか山のことばは うねめのたはぶれよりよみて』である。 第一点の難波津は『歌』と書かれ天皇を称(たた)えているのに対して、第二点のあさか山は『言葉』と書かれていて『歌』ではない。しかも紫香楽宮跡で出土した木簡の後半が『安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓』(あさき心を・七文字、わがおもはなくに・八文字)つまり三十二文字の一文字余りで歌の原則に合っていない。通常、『わが思(も)はなくに』とされているが、木簡から考えられるのは『わが思(おも)はなくに』と読むのが正しいのではないかということである。さらに詠み人は陸奥国前采女某、つまり作者を特定できない人の『戯れ歌』とされていることである。確かに『難波津の歌』は天皇の弥栄を祈るという内容から言っても、『歌の父母』の一つとされたのは理解できる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.09.21
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安 積 山 の 歌 1 2008年5月23日(金)の読売新聞の一面トップで、『木簡に万葉歌』『滋賀・紫香楽宮跡で発見』と報道された。 第四十五代・聖武天皇が造営した紫香楽宮(742~745 年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡で、甲賀市教委が五月 二十二日に発表したもの、今をさかのぼること千二百六十三 年前のことである。この『安積山の歌』は、平安時代に紀貫 之が、古今和歌集の仮名序(905年頃に成立したとされる) で和歌を習得する際に必ず学ぶものとして『歌の父母』と記 していた。万葉集は、七世紀後半から八世紀後半ころにかけ て編纂された最古の歌集である。天皇、貴族から下級官人、 防人など様々な身分の人間が詠んだ歌を四五〇〇首以上も集 めたもので、成立は天平宝字三(759)年以後と見られる。 木簡の埋まった年代は万葉集編纂以前に記された木簡とみら れる。 阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎 和可於母波奈久尓 あさかやまかげさへみゆるやまのゐのあさきこころを わがおもはなくに 万葉集の原文はすべて漢字の一字表記である。中国大陸および朝鮮半島から輸入した漢字を日本語の音にあてて用いていたものであって、まだ「ひらがな」はなかった。それであるから万葉集に載せる以前と考えられるこの『阿佐可夜麻』の文字列から、『浅香山』か『安積山』かの確認はできない。なおこの木簡の斜文字は確認された文字で、栄原永遠男・大阪市立大大学院教授によると、天平十六(744)年末から翌年の初めに書かれたものとされる。これは安積親王薨去の年(天平十六年)に近いが、単に偶然の一致なのであろうか。 ともあれこのニュースは、葛城王伝説を持ち、采女まつりを催す郡山で大きな反響を呼ぶことになった。しかしここに出てくる木簡の文字は、現在では使われていない形式のものである。そして万葉集には『安積山』ではなく『安積香山』と記載されている。『阿佐可夜麻』が『安積香山』になり、いつの時代から『安積山』になったのかは不明であるが、ただこの『阿佐可』に似た『阿佐鹿』の文字が、三重県津市に伝わっている。日本武尊の伯母で、後に日本武尊に草薙の剣を与えたとされる倭姫命が、藤方片樋宮(三重県津市にある加良比乃神社とされる)に着くと、そこには阿佐鹿の悪神が阿佐加の嶺に坐していたというのである。ではこの阿佐鹿の悪神とは誰なのであろうか。成務天皇の時代に熊襲退治や日本武尊の八握脛(やつかはぎ)という悪者退治の話が出てくるが、『大和にまつろわぬ民』として熊襲や蝦夷が出てくるから、阿佐鹿の悪神とは熊襲か蝦夷を意味していたのかも知れない。確かに三重県は福島県より都に近いから、ここの阿佐鹿つまりアサカが使われたのではないかということは、イメージとしては理解できる。しかしはたして、父である聖武天皇は『阿佐鹿の悪神』の『阿佐鹿』をわが子の名にするであろうか。その理由からも『阿佐鹿親王』ではなく、『安積親王』にした気配が濃厚になってくる。それでも当時都から見て辺境の地と思われていたはずの安積という地名を、何故わが子につけたのかという疑問が残る。ただし日本書紀が編纂される七年前の和銅六(713)年、元明天皇が各国の国司に命じてこれの資料とした一つの『播磨国風土記』に、安積山製鉄遺跡(兵庫県宍栗市一宮町安積字丸山)があるが、これは『あづみやま』と呼ばれている。ここから考えられるのは、もともと『あづみしんのう』と呼ばれていたものが、『あさかしんのう』となったのではあるまいかという憶測である。しかし養老四(720)年、北奥に蝦夷の大乱があった。それに対抗するために神亀元(724)年、陸奥国府が郡山(いまの仙台市太白区郡山)からさらに北方の多賀城に移され、安積は多賀城への兵站基地となった形跡がある。つまり都から見て、安積は蝦夷経営のための重要な地域であったことになる。すると蝦夷との境という重要な地域といった意味で、為政者の間では安積の名が知られていたと考えられる。しかも安積親王はこの大乱から八年後、前述した『播磨国風土記』編纂からは十五年後に生まれているのである。その蝦夷との境界、つまり軍事的に最重要な地域から、安積という名には猛き者、強い者という情念を感じて親王の名としたのかも知れない。『あづみ』を『あさか』と変えた理由が、ここにもあるのではあるまいか。 安積香山の歌の収められている万葉集の巻十六までは、天平十七(745)年以前の作品とされている。安積親王が亡くなったのが天平十六(744)年であるから、親王生前の作品ということになる。このこと自体が、安積香山が安積親王であったことを示唆してはいないだろうか。 さて『陸奥国前采女某』によるとされるこの歌の原文は、『安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國(校本万葉集)』である。しかし郡山には安積香山、もしくは安積山という山は実在しない。つまり誰も見たことも、聞いたこともない山が題材とされたということはどういうことなのであろうか。この安積山の歌について、斎藤茂吉氏がその著、『万葉秀歌』で次のように述べている。 葛城王が陸奥国(みちのくのくに)に派遣せられたとき、 国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒っ て折角(せっかく)の御馳走にも手をつけない。その時、嘗 (かつ)て采女(うねめ)をつとめたことのある女が侍して いて、左手に杯(さかずき)を捧げ右手に水を盛った瓶子 (へいし)を持ち、王の膝(ひざ)をたたいて此歌を吟誦し たので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、とい う伝説ある歌である。 葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄(たちば なのもろえ)が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そ のいずれとも不明であるが、時代からいえば(第四十代)天武天 皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であって もかまわぬのである。また、「前(さき)の采女」という女も、嘗 (かつ)て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女 とする必要もないわけである。 「安積 (あさか)山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡 日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云 われている。 木立などが美しく写っている広く浅い山の泉の趣で、上の 句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接 せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、 あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。 そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬ というに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡とし て伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、 遊行女婦(うかれめ)は作歌することが一つの歓待方法であ ったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していい だろうか。この一首の言伝(いいつた)えが面白いので選ん で置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女 婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。 伝説の文の、「右手持レ水、撃二之王膝一」につき、種々の疑問 を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で 王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.09.11
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挽 歌 安積派の人びとが、「しまった」と思ったのは間違いのないことであろう。安積親王の薨去は、依るべき柱を失った安積派の壊滅と藤原氏の隆盛を意味したからである。 天平勝宝元(749)年、父・聖武天皇の譲位により、長女の阿倍内親王が第四十六代・孝謙天皇として即位した。阿倍内親王は基王の実姉であり、安積親王の義姉であった。皇室は、その後も懊悩を繰り返していた。この安積親王の突然の薨去に際して、二十七歳であった家持が、安積親王への挽歌を詠っている。 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子(みこ)のみこと(命) よろづよ(万代)に 見したまはまし おほやまと(大日本) 久邇の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きをゐり 川瀬には 鮎子さ走り いや日けに 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人よそひて 『和束山』(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべもなし 注 『和束山』の『』は筆者による。(心にかけて思うのも 畏れおおく 言葉にだすのも 憚りおおいことながら オオキミが 万代までも 安積親王が これを継いで万代までも 治めたまうおほやまと(大日本)の 大和の 久邇の都は 春になれば 山辺に花咲き 川瀬には 若鮎がついついと泳ぎ 日に日に 栄えてゆく時に 和束山に 安積皇子は 御輿を停めて 天上を治めに 昇ってしまわれた 人を惑わす 空言ではなかろうか 事もあろうに 舎人達は白栲の喪服を着て 伏し悶え 涙にまみれて泣くのだが いまは どうするすべもない 嗚呼) (万葉集 03/475) 反し歌 我が大君 天(あめ)知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山(わづかそまやま) (我らが大君である 安積皇子が ここ和束の杣山を 常宮(とこみや)になさろうとは 思いもかけなかったので いままで なおざりにみていたのだった この和束の杣山を) (万葉集 03/476) 反し歌 あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも 注 この花は桜であろうと言われている。(山のくまぐままで 照り輝いて 咲き誇っていた 花が にわかに 散ってしまったような 我らが大君 徳高き 安積皇子よ) (万葉集 03/477) 次は安積皇子の薨去より七十一日目に、大伴家持が作った歌である。なお七十一日目は四十二日目の六七日(むなのか)の誤記との説もある。 かけまくも あやにかしこし 我が大君 皇子(みこ)のみこと(命)もののふの 八十伴(やそとも)の 男を 召し集へ あども(率)ひたまひ 朝狩に 鹿猪(しし)踏みおこし 夕狩に とり(鶉雉)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口抑へとめ 御心を見し明らしめ 活道山(いくぢやま) 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり 世のなかは かくのみならし ますらをの 心振りおこし 剣大刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負いて あめつち(天地)と いや遠長に よろづよ(万代)に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の さばへ(五月蠅)なす 騒く舎人は 白栲(しろたへ)に 衣取り着て つねなりし ゑま(笑)ひ振舞ひ いや日異(ひけ)に 変らふ見れば 悲しきろかも(心にかけて思うのも 畏れおおく 言葉にだすのも 憚りおおいことながら 我れらが大君と たたえる皇子の命(みこと)であった 安積皇子は 数多くの臣下達を 呼び集め 引き連れられて 朝の狩には 鹿や猪を追い立て 夕べの狩りには 鶉や雉を飛び出させ 乗馬の手綱を引いて馬を止め あたりを眺めて 心を晴らされた 活道(いくぢ)の山 活道山の 木々は伸び放題に伸び 咲いていた花も 皇子とともに 散ってしまった 世のなかは こんなに儚いものであるらしい ますらおが 雄々しい心を振りおこし 剣大刀(つるぎだち)を 腰に佩き帯び あずさ弓を手に 矢入れの靫(うつぼ)を背負って 天地とともに ますます遠く久しく 万代(よろずよ)までも こうしてお仕えしたいと 頼みにしてきた その皇子の御門に かっては賑わしく お仕えしてきた舎人達は 今は 白栲の喪服を身にまとい いつもの立ち居振る舞いが 日々に失われていくのを 見ると 悲しくて やりきれない) (万葉集 03/478) 反し歌 はしきかも 皇子のみことの あり通い 見しし活道の道は 荒れにけり(嗚呼 いたましい 安積皇子が 愉しみ通われた 活道の道は 荒れはててしまった 嗚呼 安積皇子よ) (万葉集 03/479) 反し歌 大伴の 名負ふ靫(ゆき)帯びて よろづよに 頼みし心 いづくか寄せむ(武門の大伴の名を 靫負う大伴の名を 帯して 万代までも お仕えしようと 頼りにしていた心を 安積皇子が 崩御された今はいったいどこに寄せたらいいのか) (万葉集 03/480) 家持は、このような長歌、反し歌をそれぞれ二首奉った。この後、家持は四月の頃まで平城京の自宅で喪に服していた形跡がある。 天平十八(746)年、大伴家持は越中守に遷任され、七月、越中へ向け旅立った。橘諸兄とはこの後も連絡をとりあっている。 いにしへに 君が三代経て 仕へけり 我が大主は 七代申さね(過ぎし御世には 大君三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたと申しますが わが主君(橘諸兄)はどうか七代までもお仕え下さいますよう) (万葉集 19/4256) 万葉集の編者とも目される二人が、このような歌を万葉集に堂々と載せていることは、藤原氏に気兼ねなく、亡くなった安積親王を称えることができる状況に変わったということであろう。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.08.21
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安 積 派 の 人 び と 3 【塩焼王】 祖父は天武天皇。父は天武天皇と五百重娘との長子・新田部親王であるが、祖母の五百重娘は藤原不比等の異母妹である。不破内親王の夫。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平五(733)年三月、親王の子に対する蔭位として、無位から従四位に叙せられた。天平十二(740)年一月には従四位上に昇叙。同年十月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年十一月には 正四位下に昇叙。時期は不明であるが、この間に中務卿に任ぜられている。 天平十四(742)年十月、女嬬四人とともに投獄されて伊豆国に配流された。いわゆる塩焼王配流事件である。真相は不明であるが、聖武天皇の皇子でありながら立太子出来ないでいた義弟・安積親王に対する同情が発端となったらしい。 天平十六(744)年閏一月、安積親王がわずか十七歳にて薨去された。 天平十七(745)年、塩焼王は赦免されて帰京し、翌天平十八(746)年閏九月には本位(正四位下)に復している。復帰と同時に不破内親王は親王の名を削られた。 【藤原八束】 藤原房前(ふささき)の第三子。母は美努王の娘・牟漏女王(むろのおおきみ)(尊卑分脉)。橘諸兄の甥にあたる。若くして才を顕し、聖武天皇には特に目をかけられ、春宮大進として官途に就いた。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平十二(740)年、正六位上より従五位下、さらに従五位上に昇叙され、二十六歳の若さで大夫となる。 天平十五(743)年、安積親王を自邸に招いて宴を開いた。この宴には大伴家持も出席している。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平勝宝三(751)年十一月二十五日、橘諸兄宅の宴に聖武上皇・大伴家持らと臨席、歌を詠んだ。 島山に 照れる橘髻華(うず)に挿し 仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち (庭園の山に輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えしているのは、大君の御前に伺候する官人たちである) (万葉集 19/4276) 髻華は髪飾り。橘は常世から持ち来たったとの伝承をもつ目出度い木の実。この場合、『橘諸兄を主導者として仰ごう』との政治的暗喩があるとされる。藤原八束は母が諸兄の妹だったこともあり、藤原氏でありながら親諸兄派(安積派)であった。万葉集には八首あり、安積親王、橘諸兄、大伴家持、山上憶良らとの親交が窺える。古く万葉の撰者にも擬せられている。 【僧・玄ボウ(日辺に方)】 養老元(717)年、遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ。在唐は十八年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平七(735)年、経論五千巻の一切経を携えて帰国した。 天平九(737)年、玄ボウは僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、天平十二(740)年、藤原広嗣が玄ボウを排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平十七(746)年、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年任地で没したが暗殺されたとの説もある。 【下道真備 (後の吉備真備(きびのまきび))】 吉備真備は日本の歴史において菅原道真と並ぶ天才と称されているが、当時の中央政権内にあっては大した身分ではなく、真備の父親である下道圀勝氏は平城京に上京して警護兵を務めていた程度であった。しかし真備は若い頃より学問の才能をもち、十五歳の頃、当時の大学とよばれる中央の学校に入学、卒業する時には既に従八位下という官位を与えられ、また大学卒業後間もなく遣唐留学生に選ばれ阿倍仲麻呂、僧の玄ボウらとともに唐へ渡航した。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平六(734)年、多くの典籍を携えて唐より帰国した。 天平九(737)年、橘諸兄が大納言となって政権を掌握。同時に帰国した僧玄ボウとともに重用され、 真備は右衛士督の役職を兼ねた。 天平十二(740)年、藤原広嗣、真備 と玄ボウの排除を主張して反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平十八(746)年、真備、吉備朝臣真備の姓を賜るが、天平勝宝二(750)年、筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として唐へ渡航(第二次)する。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂の陰謀説がある。 天平勝宝五(753)年、鑑真を伴って帰国する。 天平宝字八(764)年、藤原仲麻呂が反乱をおこし、真備らによって鎮圧された。(藤原仲麻呂の乱、恵美押勝の乱ともいう) ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.08.11
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安 積 派 の 人 び と 2 「やがては」、と安積親王に期待する気持ちが詠われている。宴は安積親王を慰める、または元気づけるためのものであったと思われるし、もしそうであるとすれば、記録にはないがこれ以前にも多くの宴が開かれたものと思われる。藤原氏は、四人兄弟の次の世代に移っていた。しかしすでに広嗣は九州で反乱を起こして故人となっていたし、仲麻呂は阿倍内親王に取り入ることを試み、八束は安積親王を囲むメンバーの一人として宴の場を持っていた。 聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、留守官の橘諸兄と内舎人の大伴家持は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮(京都府木津川市)に留まった。 天平十六(744)年正月、安積親王の邸があったとみられる『活道岡(いくじおか)』で家持や市原王(第三十八代・天智天皇の五世孫)らが集まって宴を開き。歌を詠んでいる。 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも(この一本松は、どれほど長い年月を経ているのか。吹き抜ける風の音がなんとも清らかなのは、幾多の年輪を重ねてきたからなのだろうか) (市原王 万葉集 06/1042) 皇統から疎外された市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子大伴家持との、安積親王に対する夢多い祝福の歌であったのであろう。彼らにとっての最大の願望は安積親王の即位にあった。この歌は安積親王への正月の祝賀歌であると同時に、『一つ松』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。 閏一月、聖武天皇は左大臣・橘諸兄に難波宮(大阪市中央区)を皇都とすると宣言させ、難波宮に行幸した。 この年、安積親王が薨去された。 天平十七(745)年、橘諸兄の遷都計画は失敗に帰し、以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われることになる。 【大伴旅人と家持】 大伴旅人とその子・大伴家持は歌人として有名であるが、むしろ武人としての家系にあった。大伴氏は、天孫降臨のときに先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、古代日本の有力氏の一つである。大伴氏は物部氏と共に軍事の管理を司っており、現在でいう皇宮警察や近衛兵のような役割をしていた。今も宮城の正門に、大伴門(朱雀門)の名を残している。そのような立場にもあって、旅人は長屋王派と言われ、その重鎮として活動していたようである。 養老四(720)年、旅人は山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧、そして八月、不比等の死に際して勅命を受けて京に帰還した。これらの事情から反藤原の人たちは、旅人などを中心に結束を固めはじめた。しかし未だ、その核とするべき人物はいなかった。 そのような神亀五(728)年、安積親王が生まれた。大伴旅人六十二歳、その子・家持は九歳のときであった。 天平三(731)年、『安積派』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。十二~三歳になっていたその子・家持は、三歳となった安積親王に歌を贈ったとされている。しかしここでは、『安積親王』の名は使われていない。見まつりて未だ時だに更 (かは) らねば年月の如思ほゆる君 (お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ) (万葉集 04/0579) 足引の山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも(山に生えている菅の根が土にしっかりと絡みついているように、つくづくとお顔を拝見したい君であることよ) (万葉集 04/0580) 家持は亡父・旅人や葛城王とともに、安積親王の有力な支持者となっていた。家持が天平八(736)年以前に安積親王を詠んだとされる歌に、次のものがある。『安積親王』は八歳となっていた。 我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せず ほとほと散らしつるかも (我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている子に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました) (万葉集 08/1565) 天平十五(743)年、聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、内舎人の大伴家持と留守官の橘諸兄は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮に留まった。このことから、家持は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。 天平十六(744)年閏一月、安積親王が薨去された。 その後大伴氏は藤原氏の台頭によって衰退していくが、万葉集などでの文化的な面で活躍をみせる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.07.22
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安 積 派 の 人 び と 1 【葛城王(橘諸兄)】 葛城王は、『王』の名が示すように、敏達天皇の曾孫の美努王(みぬおう)を父に、三千代を母にして684年に生まれている。 注)第三十代・敏達天皇—難波皇子—栗隈王—美努王— 葛城王 幼少期の葛城王の記録はまったく残されていない。ただ母の三千代は皇室の信頼が厚かったのであろう、この葛城王を育てながら軽皇子(のちの文武天皇)の乳母(めのと)を務めていた。文武天皇と葛城王はいわゆる乳兄弟ということになる。持統天皇八(694)年、美努王が筑紫大宰帥に任命されて赴任して行ったのであるが、三千代は何故か中央に残り藤原不比等と再婚した。父が遠くに赴任している間に母が再婚したのであるから、幼少期の葛城王は決して幸せな生活であったとは言えないと思われるし、母をとられたということで藤原に憎しみさえを感じていたと思われる。彼は『反藤原』として成長していったのであろう。しかし葛城王にとって、文武天皇の妃・宮子は、母親の三千代を通じて父違いの兄妹の間柄にあり、しかも宮子の姉の多比能を妻にしていたことで、藤原氏とは微妙な関係にあったことになる。 片平町の王宮伊豆神社の由緒によると、葛城王が和銅四(711)年に安積を訪れたことになっている。しかし和銅三年、 葛城王二十七歳のとき従五位下に、和銅四年には馬の軍事的な重要性から令外官である馬寮監(めりょうげん)に叙せられて左右の両馬寮を統括している。はたしてこのような年に、葛城王は安積に派遣されたであろうか。しかも葛城王が二十七歳になるまで任官できなかったのは、文武天皇との乳兄弟という身近な関係が藤原氏の側から嫌われたのかも知れない。その後も、葛城王の出世の速度は決して速いとは言えなかった。 養老五(721)年、葛城王は従五位上・右大臣となったがすでに三十七歳となっており、最初の叙任から十年が経っていた。元正天皇の即位から六年目である。そして二年後の養老七(723)年、正五位上に叙せられた。この二年ぶり三度目の叙位は三十九歳の頃と推測される。神亀元(724)年、葛城王は聖武天皇の即位と同日、従四位下・左大臣に進んだ。そのような神亀五(728)年、安積親王が生まれた。葛城王四十四歳のときであった。いわゆる『安積派』は、安積親王の誕生とともに発生したと考えてもよかろう。 神亀六・ 天平元(729)年、葛城王は正四位下に、次いで九月二十八日、朝廷の最高機関である左大弁に任じられた、葛城王の昇任の多くは、元明・元正天皇の時代にあたる。恐らくこの二人の天皇は、藤原を、『良し』としていなかったのではあるまいか。また葛城王自身も、天皇への道を閉ざされた地位にあったことを自覚して行動していたと思われ、そこを二人の天皇に好まれたと想像できる。二人の天皇は葛城王に叙任という恩を売ることで、首皇子の将来の後援者にしようとしたのではなかろうか。しかしそうすると二人の天皇は反藤原では葛城王と一致するが、首皇子を葛城王に支持させるということでは矛盾を生ずることになる。それにもかかわらず、二人の天皇がそうしたことは、首皇子(聖武天皇)についてはやむを得ないと考えながらも、せめて安積親王を次の天皇に立てたかった。そのための接近であったとも考えられる。 天平三(731)年、葛城王は参議となり、天平四(732)年には従三位 となった。この年の 十一月十一日、葛城王は弟の佐為王と共に臣籍降下をし、母・三千代の姓氏である橘宿禰を継ぐことを願い許可された。橘諸兄(たちばなのもろえ)と称した。この王の位を捨て、わざわざ朝臣より下の宿禰の姓を授かるという一見不可思議な行為は、 藤原氏に対する処世術ではなかったかと推測されている。 元正上皇は葛城王が橘の氏を賜与された宴会で、橘をことほぐ歌を作っている。 橘の とをの橘 八つ代にも 我れは忘れじ この橘を (めでたい橘の中でも とくに枝もたわわに実ったこの橘 いつの代までも私は忘れはしない この橘を) (万葉集 18/4058) 天平九(737)年、疱瘡の流行によって、藤原四兄弟が相次いで亡くなったため、藤原氏の勢力は大きく後退した。藤原氏抜きで橘諸兄が政権を担い、安積派の勢力が拡大した。 天平十(738)年、橘諸兄は正三位右大臣に任命され、一躍朝廷の中心的地位に出世した。これ以降の国政は事実上橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐する形となった。これに対し、藤原宇合の嫡男広嗣は強烈に反発した。 この藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)の後見する阿倍内親王と、橘諸兄の後見する安積親王に、房前の三男・藤原八束(ふじわらのやつか・諸兄の甥に当たる)と大伴家持も安積派として結束し、どちらを次の天皇にするかの争いが表面化した。 この年、亡くなった基皇子の姉で二十一歳の阿倍内親王が皇太子として立てられた。しかし聖武天皇には広刀自との間に、十歳になる安積親王がいた。ただ一人の皇子であるから次期天皇の最有力候補と考えるのが自然である。貴族層は聖武天皇の方針や藤原氏に反感を抱いていた。その貴族層の考えを集約しようとしたのが橘諸兄であったのであろう。 天平十五(743)年、橘諸兄は従一位左大臣に任じられた。その一方で安積親王は藤原房前の子・八束邸にて宴を開いている。この宴には、当時、内舎人であった大伴家持も出席し、そのときに詠んだ歌が万葉集に残されている。安積親王は十六歳、諸兄五十九歳、八束二十九歳、家持二十八歳頃かと思われる。 久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ(ひさかたの 雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そしたら、私の大切に思っているあの子(安積親王)が帰れなくなってここに今夜はお泊りになるだろうから) (大伴家持・万葉集 06/1040)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.07.10
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天皇家の懊悩 4 神亀六・ 天平元(729)年、大事件が発生した。『長屋王の変』である。 二月十日、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあづまびと)より『長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す(呪術で聖武天皇を呪った)』との密告があり、それを受けて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲して捕らえ、 次第に藤原氏寄りに傾斜していた舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃・吉備内親王と子の膳夫王らを縊(くび)り殺されて服毒自殺をした。讒言(ざんげん)であったとする説が強い。これにより、この陰謀を企図した藤原四兄弟の発言力が強化されたが、その後、災害や疫病が多発し、巷では『長屋王の崇り』がささやかれていた。政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には長屋王が男系皇族での皇位継承の最有力者であったことも、藤原氏による『長屋王排除』の理由として注目すべき点であろう。 聖武天皇は勅を下して光明子(安宿媛)を皇后とした。光明皇后である。藤原四兄弟は、亡父・不比等と三千代の間の娘の光明子を、皇族出身でもないのに、つまり臣下の出の最初の皇后に据えた。三千代はわが娘・光明子の立后を見届けたことになった。 天平五(733)年、皇室を巡って藤原氏の同盟者として、またときには競争者として藤原氏の前に立ちはだかった光明皇后の生母の三千代が亡くなった。三千代が亡くなったあとでは小心で神経質な聖武天皇に代わって光明皇后が主導権を握ることになる。しかしそれが、安積親王を排除しようとする藤原四兄弟の策であることを見抜いた反藤原派の怒りを買うこととなった。そのために反藤原が『親安積派』として結集することになるのであるが、親安積派が擁立しようとする肝心の安積親王は、まだ二歳に過ぎなかった。なおこの『安積派』とは、筆者の造語である。 天平九(737)年、疱瘡の流行によって、さしもの権勢を誇った藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が相次いで亡くなったため、藤原氏の勢力は大きく後退した。再び『長屋王の祟り』が噂された。その上、舎人親王を初めとして多くの高官が死亡したため議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は葛城王と鈴鹿王のみとなってしまった。葛城王と鈴鹿王、それに大伴道足(大伴旅人の死後、一時的に大伴一族の総帥になった)が任命されて応急的な体制が整えられた。藤原四兄弟の子どもたちの中で、最年長は豊成(武智麻呂の長子)で、まだ三十三歳であった。参議にもなっていず、再建政権に入ることはできない状態であった。そこで藤原氏抜きで再建政権が組まれることになり、安積派の勢力が拡大した。 天平十(738)年、聖武天皇と光明皇后の皇女・阿倍内親王(のちの四十六代・孝謙天皇)が皇太子に冊立された。しかし阿倍内親王の弟の基王のときは生後二ヶ月で立太子させながら、安積親王は十歳でも幼いとされて二十歳の阿倍内親王が皇太子とされた。伊勢にあった二十一歳の井上内親王は、実弟の安積親王が皇太子であるべきであるとして強力に反対した。内親王の立太子は前例がないが、藤原氏の強力な巻き返しの結果であり、皇室としても当面の安定策として採用したものと思われる。 この年、藤原宇合の嫡男・広嗣は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。当時、災害が頻発していたが、それは天皇の人格・資質に対する天の警告であるという理由で 天平十二(740)年、九州に挙兵した。(藤原広嗣の乱)しかし戦いに敗れた広嗣は、弟の綱手と共に処刑された。 天平十四(742)年、塩焼王配流事件が発生した。塩焼王の母が藤原不比等の姉であったことから、裏で『安積派』の策謀があったのかも知れない。伊豆の三島に流されたが後に許され復帰している。復帰と同時に不破内親王は親王の名を削られた。 天平十五(743)年、聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に行幸した。さらに天平十六(744)年閏一月、聖武天皇は難波宮に行幸に際して、恭仁宮の留守官に鈴鹿王と藤原仲麻呂を任命した。この聖武天皇の難波行幸に同行した安積親王は、途中の桜井頓宮で脚の病により引き返し、その日のうちに恭仁宮へ戻って来た。そしてその二日後、わずか十七歳にて薨去されたのである。ともかく、死の病とは思われない脚の病によるこの安積親王の早過ぎる死は、恭仁京に留守で残っていた藤原仲麻呂か、もしくはその妻である藤原宇比良古によって暗殺されたのではないかという説になっている。この間、安積派の人たちはどこにいたのであろうか? 誰が留守居役であったかは知っていたはずなのに、なぜ安積派の誰かが供に付かなかったのか? 藤原四兄弟没後六年。藤原の力を甘く見て親王が殺されるとは想像もしなかったのであろうか? はたまた天皇に供奉していたからやむを得なかったのか? これらの解答は歴史書の中からは見えてこない。 井上内親王は、弟・安積親王の死を受けて伊勢神宮斎王の任を解かれて奈良に戻された。その理由は分からないが、実妹の不破内親王とともに反藤原となっていったことは、十分に理解できよう。安積親王の葬儀の監護には、大市王(天武天皇の孫)と紀飯麻呂があたり、恭仁京の東北、和束香山(京都府相楽郡和束町白栖)に葬られた。ここに安積派はその柱を失うことになったのである。そして安積親王の姉たちのその後の人生も、波乱に満ちたものであった。いずれも不幸な死に方をしている。しかし聖武天皇にとっては、阿倍内親王も井上内親王も不破内親王もそして安積親王も我が子であることに変わりはない。自分の意志とはかけ離れたところで起こるこの皇嗣をめぐる争いを、聖武天皇はどう感じていたのであろうか? では、『安積派』のどのような人たちが、安積親王にどのように関わっていたのであろうか。重複を恐れず、次に何人かの人を挙げてみる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.06.21
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天皇家の懊悩 3 和銅三(710)年、平城京が造られた。人口は十万程度で、貴族・役人の家族がその六〇%を占めていた。『咲く花のにほふがごとく』と詠われて栄えた平城京は、不比等が中心となって造り上げた都であったことから、藤原氏の勢力がさらに強固なものとなった。この頃より右大臣となった藤原不比等が政界の中心となって権力を振るい、天武天皇の皇子の舎人親王や長屋王らがこれに対抗する形となった。ただし長屋王は不比等の娘の長娥子を嬪(ひん・そばめ)としていた関係で、不比等の生存中は親藤原氏的存在であったとみる説もある。 和銅七(714)年、十四歳の首皇子が皇太子となったが病弱であったことと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされた。しかし和銅八年、故・高市皇子擁立の急先鋒であった長親王が亡くなり、文武天皇の未婚の姉で二十五歳の氷高皇女が『中継ぎ(元明天皇)の中継ぎ』となって即位し、第四十四代・元正天皇となった。ここは不比等の計算通りにはいかなかったが、あとは末娘の安宿媛(あすかべひめ)を首皇子に嫁がせ、時期が来て即位するのを待てば天皇の外戚として影響力を駆使出来る立場となり、父・鎌足の失敗を取り戻せることになるのである。 霊亀二(716)年、首皇子は不比等と三千代との娘・安宿媛を妃とした。同じ十六歳で叔母と甥の関係であった。不比等は文武天皇に娘の宮子を、そしてまた今度は首皇子に安宿媛を入内させることで、皇室との関係をさらに強めることとなった。ところが同じ頃、三千代は自分の一族の娘の県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)を首皇子の嬪(ひん・そばめ)にした。なお刀自とは、一族の女主人的な立場の人の意味であるから、三千代の本家筋にあたる女性であったのかも知れない。三千代にとってこのことは、安宿媛であれ広刀自であれ、どちらに男児が生まれても天皇家に血をつなげる『両面待ち』となり、『単騎待ち』の不比等より優位に立つことになった。この辺りの両者の駆け引きは、呉越同舟の感が否めない。 霊亀三(717)年、三千代は従四位下より三階昇進して従三位となった。これは前年の安宿媛入内による昇叙とされている。この年、天武天皇の孫である長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占めることになった。このことにより、藤原氏と『反藤原』の対立を、皇室内部にまで持ち込むことになったのではあるまいか。ただ『反藤原』は首皇子の母・宮子と首皇子の妃の安宿媛との関係もあって『反首皇子』にもなりかねなかった。そのため『反藤原』は潜行することになる。 養老二(718)年、首皇子と安宿媛の間に阿倍内親王が生まれた。このようななかにあっても安宿媛は藤原を誇示して、『藤三娘(とうさんじょう・藤原の三女)』と自称していた。これは、藤原氏の発展を強く願っていたということであろうし、彼女の藤原氏としての自負心、そして自覚が強かったという何よりの証拠であろう。 養老三(719)年、長屋王は、新羅からの使者を自邸に迎えて盛大な宴会を催した。これは不比等を出し抜いた形になった。 養老四(720)年八月、権力の中枢にあった藤原不比等が死去した。不比等が没すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)のうち議政官は当時参議の地位にあった房前のみとなったため、長屋王は一躍政界の主導者となった。このような長屋王の勢力拡大は、藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、長屋王は舅と娘婿という間柄もあって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後、文武天皇の妃である宮子の称号を巡って長屋王と藤原四兄弟が衝突し、その対立が表面化したのである。 不比等の血を引く首皇子が第四十五代・聖武天皇となったのは、神亀元(724)年のことであった。聖武天皇は叔母の元正上皇や伯母の吉備内親王の夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれるから反藤原派に好意を寄せていたと思われる。長屋王は、聖武天皇の即位とともに左大臣となり、政治の重要な地位を握ったが、これは反藤原派の台頭を示していると言えよう。 この年、多賀城は按察使大野東人により築城されたとされる。葛城王四十一歳のときになるが、このような時期、郡山の葛城王伝説のいうように、皇親政治の中心的存在であった葛城王が、この年多賀城にまで行って安積に立ち寄れたであろうか? もしこれが事実とすれば多くのお供を従えての出御となるはずであり、しかも国を挙げての大きな行事となるはずであるから、何らかの歴史上の記述が残されてもおかしくないと思われる。しかしそれが、全くないのである。 神亀四(727)年閏九月、聖武天皇と光明子(安宿媛)の間に待望の皇子『基王(もといおう)』が生まれ、しかもわずか二ヵ月後の十一月に皇太子にしたのである。この這い這いもできぬ赤ん坊を皇太子にしたということは、藤原の血を引く者を早く、そして確実に皇位に就けようとする藤原四兄弟の焦りと強い願望であったのであろう。ところが、その期待の基王は翌年の十月に薨じてしまったのである。光明子の悲嘆のほどは想像するにあまりあるが、産後の精神状態も不安定で、以後の出産が不可能とされた。 この基王の誕生を藤原氏興隆の好機到来と喜んでいた四人の兄弟たちは、それだけにその死の衝撃は大きかった。同じ年、聖武天皇の嬪である県犬養広刀自に『安積親王』が誕生した。つまり安積親王は、先に亡くなった基王の異母弟にあたる。生まれた日が記録にないため、安積親王の生まれたのが基王の死の前か後かは明確ではない。安積親王には、養老元(717)年生まれの井上内親王と、養老七(723)年生まれの不破内親王の二人の姉がいた。安積親王は基王亡き後、聖武天皇唯一の男児であったから次の天皇に安積親王がなるのは当然と誰もが思っていた。しかし神亀四(727)年、井上内親王はわずか十一歳で、伊勢神宮の巫女として仕える斎王となって家族と別れて伊勢に下向した。藤原氏は自分の血筋に当たらない県犬養広刀自の子を、排除しようとしたのであろう。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.06.11
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天皇家の懊悩 2 さてここでもう一方の主役、藤原不比等が出てくる。不比等は藤原鎌足の子であるが、鎌足が『壬申の乱』で天智天皇についたため天武朝は不遇の時代であった。そのため不比等は、下級官吏からの出発を余儀なくされる。686年、前述したように草壁皇子が歿したが、このとき不比等が草壁皇子の持っていた皇室の宝物である黒作懸佩刀を与えられている。このことから、不比等は、草壁皇子の舎人であったとも推測されている。しかしいかに優秀な舎人であろうとも、それまで官位のない下級役人に持統天皇はなぜ皇室の宝物である刀を授けたのであろうか。何事もなくてそのような厚遇はあり得ない。不比等は持統天皇にとって都合の良い何らかの働きをしたのかも知れない。それは軽皇子の擁立にかかわる功績であったかも知れないし、皇親政治の確立を目指していた持統天皇の政策に協力したということであったのかも知れない。もしそうであるとすれば、すでにこの頃から、軽皇子に自分の娘・宮子を嫁がせようとしていた不比等の、したたかな計算が読みとれる。このしたたかさの中で、不比等は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(以後、三千代と略す)と知り合い、持統天皇の皇統を守る、つまり軽皇子を次の天皇とする同志として、絆が生まれていったのではないかと思われる。県犬養氏は、犬を使って県の守衛にあたった犬養部を管掌する氏族の一つで、宮廷警備の任にもあたっていた氏族である。 三千代の夫の美努王(みぬおう)は、第三十代・敏達天皇の曾孫であった。美努王は、二人の間の子の葛城王が十歳になった頃、九州の太宰帥(だざいのそち)に赴任していったが、妻の三千代はこのとき夫に従わず、都にとどまって女官として仕え続けていた。この年の暮れには藤原京への遷都があった。この新都の華やいだ雰囲気の中で、不比等と三千代の不倫関係が深まっていったのであろう。やがて三千代は美努王と離婚する。不比等は女性関係でも精力的で、同じ時期に天武天皇の嬪(ひん・そばめ)である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になり、二人の間に不比等の四男の麻呂が生まれている。ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足であったから、五百重娘は不比等の異母妹ということになる。もしこれが、不比等が自分の子を皇統に入れ、五百重娘の子を皇統から除外するための行為であるとしたら、その遠謀深慮には計り知れないものがある。現に、五百重娘の孫の塩焼王は皇統から抹殺されている。天智天皇に加担して不遇にさらされた父の鎌足を知っていた不比等は、皇室との関係を自分の血で固めることで磐石のものにしようとしたのであろう。 不比等がかかわったとされる日本書紀は、天皇の支配を正当化し合理化するためにまとめられたものであった。それもあって不比等は、持統天皇の強い支持を受けたことが想像される。持統天皇は単に軽皇子の中継ぎの天皇としてだけではなく、政事の執権を握る最初の女帝となっていた。そしてその政権では、天武天皇の長男である高市皇子が最高官職の太政大臣となって持統天皇を補佐した。このとき不比等は軽皇子の後見役として、また教育係として持統天皇の庇護を受ける立場にあった。藤原氏にとって天武天皇の長男である高市皇子は危険な存在とされた。もし軽皇子に万が一の事があった場合、高市皇子が皇太子になり、持統天皇を継いで即位する可能性が十分にあったからである。軽皇子に長女の宮子を入内させようと考えていた不比等にとって、それは何としても避けたいことであった。 持統天皇七(696)年、高市皇子が急逝した。反藤原派の有力な一員であった高市皇子の急逝は、不比等の魔の手を想像させる。697年、持統天皇は孫の軽皇子へ皇位を移譲した。軽皇子は十四歳で第四十二代・文武天皇として即位し、持統天皇自らは太政大臣となり、不比等の補佐を得て政事にたずさわった。この年、不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせることで皇室と密接に関わることになり、さらに持統天皇の後ろ盾もあって一躍、脚光を浴びることになる。不比等としては、これから生まれて来るであろう宮子の子を、どうしても次の天皇にさせたかった。藤原氏の未来永劫にわたる繁栄の基礎になると考えていたからである。 大宝元(701)年、大宝律令が成った。律令選定にかかわったのは、刑部親王、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂らであった。このような立場にあった不比等の大きな期待を担って、軽皇子、つまり文武天皇と宮子の間に首皇子(おびとのみこ)が生まれた。しかし宮子は産後ひどい鬱病にかかり、部屋にとじこもるなどして母子の対面はなかった。そのとき不比等が利用したのは、内命婦(うちのみょうぶ)(五位以上の位階をもつ女官の称)として宮廷に実力のあった三千代であった。 翌・大宝二(702)年、持統上皇が薨(こう)じられ、さらに慶雲四(707)年に文武天皇が在位わずかに十一年で薨(こう)ずると、文武天皇の母の阿閉(あべ)皇女(草壁皇子の妃)が第四十三代・元明天皇として即位した。これには首皇子が七歳でまだ立太子もしていなかったことが、その理由であったのかも知れない。しかし不比等とすれば自身の孫となる首皇子を次期天皇にするための、強力な一手を指したものと思われる。 和銅元(708)年、三千代は元明上皇より橘宿禰の姓を賜わり、橘氏の始祖となった。このとき首皇子が詠んだ歌が万葉集に残されている。 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いても いよいよ栄える木である) (万葉集 06/1009) ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.05.21
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天 皇 家 の 懊 悩 西暦660年、百済(くだら)が唐・新羅(しらぎ)に滅ぼされたため、朝廷は日本に滞在していた百済の王子・ 扶余豊璋(ふよほうしょう)を送り返して百済の復興を図った。第三十七代・斉明天皇の子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、百済救援を指揮するために筑紫(福岡県)に滞在していたが、翌年、斉明天皇が崩御された。 663年、中大兄皇子は天皇に即位しないままに百済の白村江(はくすきのえ)で戦い(百済復興戦争)、大敗を喫した。この年、中大兄皇子の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)(のちの第四十代・天武天皇)と鵜野讃良(うのさんら)皇女との間に草壁皇子が誕生したが、その後、大海人皇子(おおあまのみこ)は鵜野讃良皇女の姉の大田皇女を嬪(ひん)(そばめ)とした。 そして翌年、大田皇女との間に大津皇子が生まれた。ただしこの近親結婚は、当時、皇后は皇籍からの出身者であることが求められていたから不思議なことではない。 白村江の敗戦以後、中大兄皇子は国土防衛政策の一環として九州より畿内まで数多くの水城や烽火・防人を設置した。水城とは城の周囲を巾の広い濠で囲んだためそう呼ばれた。無理をしてでも大兵力を保持して国土保全をしようとした意図があったと考えられている。 667年、中大兄皇子は大津へ遷都し、翌年になってようやく第三十八代・天智天皇として即位した。天智天皇は旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代えて、唐にならった嫡子相続制を導入、自身の太子・大友皇子(おおとものみこ)(明治三・1870・年、第三十九代・弘文天皇の称号を追号)への継承を考慮していた。 672年、大海人皇子は天智天皇の出した嫡子相続制を不満とし、地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえした。この『壬申の乱』での勝利により、大海人皇子は第四十代・天武天皇として即位する。これについては日本書紀にも若干記述されているが、日本書紀を編纂したのが川島皇子(天智天皇の皇子)や忍壁皇子であり、のちには舎人親王が中心となって編まれている。しかし天武天皇の皇子であった忍壁皇子や舎人親王が、自分たちの『父である天武天皇が甥の弘文天皇から皇位を簒奪(さんだつ)(帝王の位を奪い取ること)した』とはとても書けなかったのであろうと推察される。 天武天皇は、兄である天智天皇の嫡子相続制に反抗して『壬申の乱』を起こしておきながら、自身の直系である草壁皇子への皇位継承の手順を踏み、天皇・皇族中心の政治形態を強化した。皇親政治である。皇親政治とは、天武天皇の子および孫たちによって政治の実権が握られ、天皇一族の支配力が強かった時期の政治を指している。 朱鳥元(686)年、天武天皇が崩御された。その翌月,大津皇子は川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ,従者三十余人とともに捕らえられた。そして翌日、自邸で自害させられた。二十四歳の若さであった。大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死したという。これは鵜野讃良皇后が自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするために謀ったことだとも言われている。草壁皇子の妃は、この鵜野讃良皇后の妹であった。 大津皇子が『謀反』とされて自害させられた後、草壁皇子は皇太子となった。しかしその五ヵ月後、わずか二十八歳の若さで病没してしまう。鵜野讃良皇后は夫である天武天皇の遺志を継ぎ、孫の軽皇子を次の皇位につけるための画策をはじめた。しかしそうするには軽皇子がまだ幼少であったため、そのつなぎとして鵜野讃良皇后自身が天皇になる必要があった。690年に即位した第四十一代・持統天皇がそれである。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.05.11
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葛 城 王 伝 説 いつの時代からであったのかは不明であるが、安積地方に次のような伝説が残されている。恐らくこれは、万葉集の左注の部分が伝説化して一人歩きをしたものであろう。 今から千二百年ほど前のこと、安積の里は朝廷への 貢ぎができないほどの冷害が続き、調査のため都から、 葛城王が安積の里を訪れた。 里人たちは王に窮状を訴えるとともに、年貢を免除 してくれるように頼んだが聞き入れてもらえず、困り 果てていた。 安積の里の山の井には、笛の名手・小糠治郎と、相 思相愛の許婚(いいなずけ)・春姫が住んでいて、二人 は、ひとときも離れていたくないほどに愛し合ってい た。治郎は野良仕事へ行く時はいつも春姫の絵姿を持 って出かけるほどだったという。 里人が窮状を訴えた日に宴が催されたが、王の機嫌 がよくなく十分にもてなすことができなかった。その 時、出席していた里長の娘・春姫が王の目にとまり接 待を命じられることとなった。春姫は言われるままに ふるまい、盃を捧げながら王の膝を軽くぽんとたたき 次の歌を王に献上した。 あさか山影さへ見ゆる山の井の浅き心を わが思(も)はなくに すると、王はたいそうよろこび、歌の美しさや意味 の深さ、すばやく詠んだ春姫の才能を褒め称え、春姫 を宮廷の采女として参内することを条件に、貢物を三 年の間免除されることとなった。 しばらくして春姫が都に上がると、愛しい許婚を失 った治郎は嘆き悲しみ、夜毎、春姫への変わらぬ心を 笛に託していつまでも吹きつづけた。里人の窮状を救 う為には仕方がないと、悲しみをこらえる毎日であっ たが、ついにこらえきれなくなり、治郎は永久の愛を 誓いながら山の井の清水に身を投げた。 その頃春姫は帝の寵愛を受け、大変華やかに暮らし ていたが、片時も治郎のことを忘れることができなか った。そうしているうちに中秋の名月の宴が開かれ、 春姫はこの時とばかり賑わいに紛れ猿沢の湖畔に駆け 込んだ。そして湖畔の柳に十二単を掛けて入水を装い、 治郎の住む安積の里へとひた走った。 帝は春姫が亡くなったと思い込んで深く嘆き、春姫 を供養する祠(ほこら)をつくり次の歌を詠んで捧げた。 吾妹子(わぎもこ)の ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と みるぞ悲しき(恋しかりし人よ、あなたが朝起きたときに乱した髪も今となっては恋心となって蘇ってくる。わたしは、猿沢の池に浮かぶ藻が、あなたのその髪のように見えて嘆き悲しんでいるのだよ) (柿本人麿) 一方春姫は走りつづけ、やっとのことで故郷に着い たが、待っていたのは治郎のせつない死であった。体 の芯まで疲れ果てていた春姫は、悲しみに追い討ちさ れ病の床に伏した。そして、雪の降る寒い夜のこと、 治郎のもとへ行くことを願った春姫は、治郎と同じ山 の井の清水に身を沈めた。 やがて雪がとけ、安積の里にいよいよ春が来たと思 われた頃、山の井の清水のまわり一面に、名も知れぬ 薄紫の美しい、可憐な花が咲き乱れた。この花につい て、だれ言うともなく「二人の永久の愛が土の下で結 ばれて咲いたのだ」という話が広がり、それ以来、里 の人たちはこの花を「安積の花かつみ」と呼んだそう な。 奈良市の『奈良新発見伝』には、采女伝説として次のように記されている。 福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住ん でいました。奈良の都から葛城王が東北巡察使として 彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮 中に仕えさせることになりました。 美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けたが、そ の寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えら れています。 池の南東には、采女が入水するときに衣服を掛けた という衣掛柳があり、北西には、采女神社があります。 この采女神社は自分が身を投げた池を見るのは嫌だと いって後ろを向かれたということで、道のある池側と は反対の方向を向いています。 ところが、采女の出身地の郡山の方では、こんな風 に伝えられています。 春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、 衣を柳に掛けて身投げをしたように装い、故郷まで苦 労して帰り着きました。しかし恋人は春姫を失ったこ とを悲しんで井戸で入水自殺をしていました。春姫も その井戸に身を投げてなくなったということです。 また奈良市橋本町の采女神社の案内板には、次のようにある。 奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女 (女官)が、猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為、 祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池 を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を 向けたと伝えられる。 例祭当日は、采女神社本殿にて祭典が執行され、中 秋の名月の月明りが猿沢の池に写る頃、龍頭船に花扇 を移し、鷁首船と共に、二艘の船は幽玄な雅楽の調べ の中、猿沢の池を巡る。 これら郡山や奈良の伝説に関して原型の一つと思われるものが、十世紀の中頃に成立したとされる大和物語の一五五段に記載されている。 昔、大納言のむすめいとうつくしうてもちたまふた りけるを、帝にたてまつらむとてかしづきたまひける を、殿にちかうつかうまつりける内舎人にてありける 人、いかでかみけむ、このむすめをみてけり。顏容貌 のいとうつくしげなるをみて、よろづのことおぼえず、 心にかゝりて、夜晝いとわびしく、やまひになりてお ぼえければ、「せちにきこえさすべき事なむある」とい ひわたりければ、「あやし。なにごとぞ」といひていで たりけるを、さる心まうけして、ゆくりもなくかき抱 きて馬にのせて、陸奧國へ、よるともいはずひるとも いはず逃げて往にけり。安積の郡安積山といふ所に庵 をつくりてこの女を据へて、里にいでつゝ物などは求 めてきつゝ食はせて、とし月を經てありへけり。この 男往ぬれば、たゞ一人物もくはで山中にゐたれば、か ぎりなくわびしかりけり。かゝるほどにはらみにけり。 この男、物求めにいでにけるまゝに三四日こざりけれ ば、まちわびて、たちいでて山の井にいきて、影をみ れば、わがありしかたちにもあらず、あやしきやうに なりにけり。鏡もなければ、顏のなりたらむやうもし らでありけるに、俄にみれば、いと恐しげなりけるを、 いとはづかしとおもひけり。さてよみたりける、 あさかやま かげさへみゆる 山の井の あさくは人を 思ふものかは とよみて木にかきつけて、庵にきて死にけり。男、物 などもとめてもてきて、しにてふせりければ、いとあ さましと思けり。山の井なりける歌をみてかへりきて、 これをおもひ死に傍にふせりて死にけり。世のふるご とになむありける。 これらの話を比べてみると、万葉集左注からはじまったと思われる奈良の葛城王伝説が、時代を追うごとに、安積のそれへ変化していったとの想像ができる。しかし気になるのは、万葉集が『浅き心を我が思(も)はなくに』とあるものが大和物語では『浅くは人を思(おも)うものかは』などとの若干の差であり、時代を下ってみても万葉集の『安積香山』、古今和歌集の『あさか山』、大和物語の『あさかやま』、奈良曝の『あさか山』などとあることである。この微妙な言葉の言い回しの差は、意味において大きな違いはないと思われるが、なぜ替えたのかという疑問が残る。その他にも大和物語には『安積の郡安積山』という固有名詞があり、さらには『山ノ井』で写したのは安積山ではなく娘の顔であり、歌はその娘の作とされていることなどの差がある。 結論から言えば、作者とされた『陸奥国前采女某』が本当に安積に住んでいて詠んだのかどうかは大いに疑わしい。もし彼女が実在の人物であれば、万葉集の中に他にも安積という文字のある歌があってもおかしくないと思って目を通してみたが、見つけることが出来なかった。つまり約四千五百首の歌が収められた万葉集のなかに、『安積』のつく歌は一首しかないということである。ところでこれらの話に共通するキーワードがあった。それは水である。郡山では、『山ノ井』と奈良の『猿沢池』とは地中でつながっており、『猿沢池』に身を投じた采女の亡骸が『山ノ井』に浮いた、と伝えられている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.04.21
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安 積 親 王 と 葛 城 王 安 積 香 山 遠 望 福島県に安積(あさか)という郡があった。明治二十二(1889)年、安積郡郡山村が郡山町となり、大正十三(1924)年、小原田村を合併して郡山市となった。昭和に入ってからも周辺の村を次々と吸収、昭和四十(1965)年の大合併において全安積郡と田村郡の一部をその市域に収め、安積郡は消滅した。現在安積の地名は、旧安積郡永盛町が昭和二十九(1954)年に豊田村の一部を吸収して安積町となり、そのまま郡山市安積町としてその名を残している。ところで安積をアサカとスムーズに読めるのは福島県出身の人たちくらいではあるまいか。安積という地名は難読地名にもなっている。人名などに使われている例も少なくないが、アツミと読まれる方が多い。 万葉集に次の歌(16/3807)が収められている。 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに (陸奥国前采女某) 安積香山の歌は、『郡山の歴史』の中の葛城王伝説に記述されており、歌の訳が次のようになっている。 安積山の影さえ映って見えるほどの浅い山の清水、 そのように浅い心であなたを思っているのではありま せんのに、深くお慕い申しあげていますのに・・・。 それにもかかわらずあなたは・・・。 この訳文の『あなた』については葛城王を指していると考えられるが、この歌には次の左注がある。 右の歌伝へて云はく、『葛城王、陸奥国に遣はされ たる時に、国司の祇承の、緩怠なること異に甚だし。 ここに王の意悦びずして、怒りの色面に顕はれぬ。 飲饌を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女 あり、風流びたる娘子なり、左手に觴を捧げ、右手に 水を持ち王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなわち 王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり』といふ。 葛城王伝説の原型は左注を忠実に引用したものと考えられ、後の世までも安積(郡山)との関連を強く意識づけることになったと考えられる。しかし考慮しなければならないのは、左注はあくまでも『右の歌伝へて云はく』、つまり伝聞であるということではあるまいか。そう考えてくると、この歌の本当の作者は誰であったのかという疑問になる。この歌の作者は『陸奥国前采女某』によるものとされているが、『某』ということは、『名を特定できない』つまり実質的には『詠み人知らず』ということになるのではあるまいか。するとこの歌を詠んだ人は、本当に葛城王を詠んだのかという疑問にもなってくる。なぜなら葛城王が陸奥に派遣されたという史実は、残されていない。しかも万葉集には、この歌そのもの以外、歌にも、作者名にも、そして左注にも安積という文字は勿論、それを示唆する地名は何もないのである。 近世以後、安積香山もしくは安積山が安積郡内のどこにあったかが議論の対象になってきた。比定される場所として、日和田町と片平町があったからである。これについて、天正十六(1588)年の『伊達治家記録』には、日和田の山が采女の歌に詠まれた安積山であると記されている。また元禄二(1689)年、松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で安積山を訪れているが、芭蕉も随行の曾良も日和田にあると思った山ノ井清水がここから三里も離れた帷子(片平)村にあることを里人に聞いて、不思議に思ったようである。曾良は『随行日記』に、安積山の伝承地に二説あることを記録している。 ・・ヒハダノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、 あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。 アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。 惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。 いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ西ノ方 三リ程間有テ、帷子ト云村ニ山ノ井清水ト云有。 古ノにや、ふしん也・・ 芭蕉も見たと思われるここの丘は、大正四年に安積山公園として整備されて歌碑が建てられ、その後には市営日和田野球場が作られている。この安積山公園のある場所は日和田町字安積山であり、隣接して字山ノ井(明治二十二年の合併以前は山ノ井村)であったことから、ここが安積山の地とする説がある。ただしここに公園や野球場を建設するため整地されているが、もともとが山と呼ばれるほどの規模ではなく、丘程度のものであったという。ここには『あさか山・・・』の碑が建っている。 もう一つは、片平町王宮にある王宮伊豆神社と采女神社(祭神葛城王)の近くにある額取山(ひたいとりやま)が、安積山と比定されている。額取山の近くにある『山ノ井公園』には歌碑と『山の井清水』という小さな池があり、ここでも日和田町と同じ葛城王伝説が語り継がれている。ここには采女神社が祀られていることから、毎年この物語にちなんだ『郡山采女まつり』が行われるようになった。奈良市とは姉妹都市の締結をしている。なおここは逢瀬川の上流の地域であり、近所には逢瀬町がある。なお古くは青瀬(あふせ)と言われたが、逢瀬と訛ったとされる。また逢瀬とは『恋人同士が密かに逢う機会 (三省堂・大辞林)』とあることから、この伝説に関連させた美称なのかも知れない。 ところで今から約1300年前、この安積の文字を冠した皇子が生まれた。安積親王(あさかのしんのう)である。安積親王は側室との間の皇子とは言え、第四十五代・聖武天皇唯一の男児であった。本来なら第四十六代の天皇になるはずであったが、藤原不比等の孫・仲麻呂に暗殺された(ような)のである。もうこれだけで一つのドラマを予感させられるのであるが、気になったのは『安積』という文字と発音であった。 国郡制が敷かれたのは大宝元(701)年の大宝律令によるものであるが、アサカを安積と表記されたのは和銅六(713)年に行われた全国的な組織変更からである。それ以前は、阿尺が使われていたとされている。それから約十年後の神亀元(724)年、陸奥の国衙・多賀城が現在の宮城県多賀城市に造られ、中央から上級役人が国司として派遣され、その下部組織としての安積郡の役所である安積郡衙が現在の郡山市清水台に置かれた。 安積親王の誕生は、この地域が安積と表記された年から十五年後、しかも多賀城の設置から、たかだか四年後のことである。それであるからこの時代、安積という地名があまねく都人(みやこびと)に知られていたとはとても思えないにもかかわらず、この辺境の地であった安積の地名が皇子の名として付けられたのである。なぜ安積親王という名になったかは不明であるが、それでもこのように考えてくると、安積親王、安積香山、安積郡、そして『あなた(葛城王)』との間に、何か特別な関係があったのではないかと思えてならないのである。 日和田の安積山歌碑 日和田の山ノ井 片平の山ノ井 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.04.11
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は じ め に 安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』の歌が有名です。この小説は、私なりのこの歌の解釈が主題となりました。その結論は本文中に載せましたが、これはあくまでも推論であって、これが正しいとは主張しておりません。私見ということでご覧頂ければ幸いです。これを書いていてさらに驚かされたことは、時代は下がるのですが、橘為仲の存在でした。彼が詠んだ歌、『陸奥の芳賀の芝原春くれば吹く風 いとどかほる山里』もまた、安積と微妙に関係していたのです。そこで郡山市や奥羽大学図書館で橘為仲に関係する書籍にあたりインターネットで調べましたが、何ら進展することがありませんでした。 橘為仲の話は、表題の『安積親王と葛城王』の付録のようなものとして書き綴ったのですが、むしろその調査は困難を極めました。苦しんだ末、思い切って私は自分のブログ『福島の歴史物語』に情報提供依頼のコメントを載せたのです。そして約三ヶ月、いささか諦めかけたころ、岩手県の白戸明氏よりブログ上に反応があったのです。 白戸氏は実に真摯に対応してくださっていました。国会図書館や岩手県立図書館に足を運び、月刊誌の『国語と国文学』『和歌文学研究』など私が知り得なかった文書を見つけ出して教えてくれたのです。結論から言えば、氏もまた『陸奥の芳賀の・・』の歌を見つけることは出来ませんでしたが、将来に望みをつなげる内容の文書を送ってくださったのです。その内容につきましては、『橘為仲』の稿にその要点を引用しましたが、実は白戸氏に助けられたのはこれが二度目でした。 最初は2006年に忠臣蔵の前後を書いた『大義の名分』を出版した直後でしたが、それは赤穂浪士・小野寺十内の養女の行動についてでした。一度ならず二度までもお世話になったことを、この場をお借りして心よりお礼を申し上げます。 なお2012年3月、『安積親王と葛城王』のタイトルで『北からの蒙古襲来』と『戒石銘』の3話で出版の準備に入りました。実はこの本は昨年中に出版の予定で校正も済み、表紙の選定中に2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が発生したのです。我が家も半壊となり、家の前の道路も大きく壊れ、今なお片側通行の状態です。私は「このような大事件の中で出版でもあるまい」と思い、出版を中止したのです。しかしその後が大変でした。 ハワイ・ホノルル福島県人会が義援金の募金活動を開始し、4月には集まった義援金を持って前会長のロイ・トミナガさんが来福、佐藤雄平福島県知事に贈呈するとともにアロハ・イニシャティブの活動が発表されたのです。アロハ・イニシャティブはこの大災害に対応してハワイ・マウイ郡副郡長のキース・レーガン氏を中心に立ち上げられたもので、この自然災害と人災とも言える放射線量に追われた避難民のうちの子どもたち約100人を全額ハワイ側で負担して最長3ヶ月の期間を招待、ちょっとの間でも心を癒してもらいたいという趣旨の運動でした。そこで福島市に住むホノルル福島県人会会員のマリアン・森口を中心にこの趣旨に沿ってマスコミなどの協力を得、参加者の選定を終えて成田を出発したのが7月、これに私も同行しました。 ホノルル空港にはハワイ州知事をはじめホノルル市長、マウイ郡長、キース副郡長、それに日本大使も顔を出し、多くのボランテアとホストファミリーの大歓迎を受けました。そしてハワイ滞在中も、多くのイベントなどで楽しませて楽しませてくれたのです。その上11月、ホノルル福島県人会会長のジェームス・サトウさんが2度目の義援金を持参して来福、松本友作副知事に手渡しました。 そして今年の3月2~4日、ホノルル・フェステバルが開かれるのを機に、ホノルル福島県人会も「福島への旅」をテーマにブースを出すことになりました。この度重なる善意に対し、お礼の意味を込めて渡布することにしました。 このようなことがありましたので、今までに出版された話をブログに上げてきましたが今度ばかりはそうはいかなくなりました。ブログの方が先になったのです。いずれ出版されましたら、カテゴリー『いろいろのこと』に販売書店名を載せたいと思います。そのときは、よろしくお願いします。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2012.03.21
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