三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
全10件 (10件中 1-10件目)
1
あとがき と 参考文献 寛延二(1749)年、二本松藩で発生した寛延一揆は、歴史研究者によって詳しく調べられています。しかしこの一揆も、地方の歴史の中に埋没しようとしています。私がこの一揆に注目したのは、その発生のきっかけでした。もちろん一揆は、長年の不作が原因であることは論を待ちません。慢性的不作が一揆につながったことは、歴史研究者が等しく指摘する点です。しかしその理由の一端が、極めて政治的であったことに気がついたのです。 二本松藩は、武士たちの意識改革を図るため、戒めの文を彫った『戒石銘』を建立しました。本来、素晴らしい内容であったこの碑文が、農民たちの怒りに火を付けてしまったのです。そしてこの一揆の結末に、二本松藩は三つの結末を付けたのです。一つは死罪であり、もう一つは苗字帯刀の授与であり、三つめは『戒石銘』を建立した岩井田昨非の左遷だったのです。 寛延一揆は、この『戒石銘』にはじまり、『戒石銘』に終わったのです。ここに寛延一揆の別の切り口を求めてみたのがこれでした。 参 考 文 献1969 東北諸藩百姓一揆の研究 庄司吉之助 お茶の水書房1970 福島県史第三巻近世2 福島県 小浜印刷1971 福島県史第二巻通史2 福島県 小浜印刷1976 新編物語藩史 新人物往来社1977 福島の民俗 第5号 福島県民俗学会 〃 ふくしまの農民一揆 吉田勇 FCT企画1980 福島県民百科 福島民友新聞社1982 二本松市史第六巻 資料篇4 二本松市 明和印刷1983 三春町史第九巻 近世資料2 三春町 凸版印刷1991 二本松市史第一巻 通史篇1 二本松市 明和印刷 〃 江戸お留守居役の日記 山本博文 読売新聞社1993 「おかげまいり」と「いいじゃないか」 藤谷俊雄 岩波書店1997 餓死一揆碑めぐり 杉山勝 近代文芸社 三春町史42000 本宮町史 本宮町 平電子印刷所2001 二本松・安達の歴史 二本松・安達の歴史編纂委員会 〃 南奥州の幕藩支配と領民 糠沢章雄 歴史春秋出版社2002 村から見た日本史 田中圭一 精興社2003 本宮の歴史 本宮町史編纂委員会 歴史春秋出版社 〃 二本松藩の寛延一揆に関する考察 糠沢章雄 講演2004 ふくしまの百姓一揆 福田和久 歴史春秋出版社 お世話になった方々 (五十音順・敬称略) 荒井政男 尾形徳之 笹森伸児 白戸明 鈴木俊哉 高館作夫 西山忠則 野沢謙治 氷室利彦 星美智子 松村和歌子 宮沢淑子 柳沼賢治 吉川貞司ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.21
コメント(0)
三 つ の 結 末 2 これが自主的に出されたものか、藩側の工作によるものかは傍証が無く不明であるが、少なくとも一揆参加者を出した村では、厳罰を免れるために半免辞退を申し出ざるを得ない状況が醸成されていたと考えられる。苗代田村が十二月二十五日に出した次の願書は、それを物語っている。 乍恐以書付奉願候 一 御領内一同半免に成し下され恐れ入り存じ奉り候。当村百姓共の儀、 半免念願の筋申し上げ候所存にて御座なく候得共、安積より大勢押し かけかれこれと脅かし申し候につき、驚き入り、是非なく一揆にまか り出で申し候。右御用捨のところお除き下されたく願い奉り候。恐れ ながら御上様御立ち遊ばされ候上、村方にも別して貧窮の者共取続ま かりなり兼ね候はば、何分にもお慈悲を以て相立ち候様お救い下され たき旨、御百姓共願い奉り候につき、恐れながら右の趣書き付けを以 て申し上げ候。 以上 苗代田村名主 伊藤長左衛門 吉田兵右衛門様 こうした動きが軌道に乗り、藩は自信を持ったと思われる。ただし本宮組と同様の願いが、他のすべての組から出された訳ではないらしい。例えば小浜組の上長折村惣百姓が翌寛延三年一月に出した願書には、『この度半免御用捨成し下し置かれ、有り難く存じ奉り候。何分にも惣百姓共相立候様に仰せつけられ下し置かれ候はば、有り難く存じ奉り候』と記しながら、半免御用捨辞退については一言も触れていない。こうした村には弾圧の脅しがかけられたのであろう。 第一の結末にあたる山根地方に対する処分は、このように過酷なものであった。こうまで過酷な処分に至った理由として、藩の都合により新検地を実施したこと、実施した村に対して行われた年貢増徴、そしてそれよる不公平の是正という極めて経済的色合いが強かったということが上げられるのではあるまいか。さらに付け加えるならば、戒石銘の曲解というこれまた情緒的な、しかしながら政治的な、一揆側としては決して見逃すことのできない問題を取り上げたことにあったのかも知れない。封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を祀ることができなかった。宝暦四(1754)年建立された供養塔の碑面には三十三所供養塔とあるが、実際には善右衛門の供養塔であるという。そして250年目の正木善右衛門の供養祭が、ようやく平成十二(2000)年十一月になって行われたのである。だがいずれ、一揆の結末は悲しいものだということは百姓たちの心に深く浸透していくことになる。 第二の結末は、大槻組の五箇郷に対する処分と冬室彦兵衛についてである。まず五箇郷に対する処分は三人が村替えになっただけであり、山根地方とは大きく異なったことが上げられる。これは冬室彦兵衛が大槻組の一揆総代を説得、帰村解散させた後二本松藩に出頭、穏便な処置を願い出て許されたことに関係があるのであろう。彦兵衛は商人とは記録されているが何をどのように商っていたかは不明である。しかし一市井人である彦兵衛がこのような大役を受けたについては、城出入りの商人であったことが考えられる。そして彼の取扱商品の一部が、藁工品など農家の作る物であったと考えれば、五箇郷での百姓の動きをいち早く察知、藩に報告したと想像できる。少なくとも安積の動きが、山根地方より二〜三ヶ月早かったということが、このことを示唆しているのではあるまいか。つまり藩としての重要な情報源であったということである。彦兵衛はこの功績により名字帯刀が許され、冬室彦兵衛保秋を名乗るようになるのである。この五箇郷の軽い処分と彦兵衛への過大とも思える温情、そして針道組に対する過酷とも言える処分との差には、際だったものが感じられる。なお彼の顕彰碑が本宮市仁井田の坂道の途中にあり、大要次の文が記されている。 積達騒動鎮定之遺跡 『寛延二年の稲作は、平均四分作という不作にもかかわらず、年貢割付は例年通りのため、農民たちは作況を調査して、年貢を軽減する旨の嘆願をしました。藩では役人を派遣して調査にあたりましたが、わずかの軽減にすぎず、毎年の不作続きに餓死者も出ていることから、不穏の形勢がつのり、安達東部や北部で一揆が起まました。 このような状勢の中で、安積一揆は大槻から始まり、約一万八千の群集がこの地(仁井田下の原)に結集し気勢をあげました。 この碑には、これらの騒動に際し、流血することなく鎮定し、藩と交渉して農民の願いを実現するに至るまで中心となって活躍した 冬室彦兵衛 の名が刻まれ、当時の世情をしのぶことができます。』 昭和六十三年七月 本宮町教育委員会 第三の結末は岩井田昨非である。 一揆は昨非の説得もあって鎮圧されたが、反昨非派の批判は高まる一方であった。ついに昨非も病と称して出仕遠慮の意志を固めたが、宝暦三(1753)年に罷免された。またこのとき責任者であったとして、勘定奉行諸田兵四郎が閉門追放された。これにより藩政改革は失敗のうちに終了したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなったのである。以後、昨非は詩作の生活を送り、宝暦八(1758)年三月十四日病没した。二本松市竹田台運寺の高台に、臨終のとき詠んだ一編の漢詩を刻んだ墓石の下に眠っている。享年、六十歳であった。 天生異人 (天生人と異なり) 名曰希夷 (名に曰く希なる夷と) 有濟世才 (濟世の才有り) 不得其時 (其の時を得ず) 唐虞忽焉 (唐虞忽焉) 沈淪所宜 (沈淪宜しき所) 死葬此山 (死して此の山に葬るべし) 月冷風悲 (月は冷たく風は悲しむ) 天生(テンセイ)=生まれつき、生まれつき身についていること。天賦。 希(キ) =まれ 夷(エビス) =未開人 濟世(サイセイ)=世を救う。世の弊害を除き人民の困難を救うこと。 唐虞(トウグ) =中国古伝説上の尭・舜の二帝をいう。尭の姓を陶唐氏 といい、舜の姓は有虞氏という。 忽焉(コツエン)=たちまち。突然。 沈淪(チンリン)=深く沈む。零落する。落ちぶれる。 (以下、郡山歴史資料館・柳田春子さん解釈)(世が世であれば天下を治めたであろう自分も、その時勢に巡り合えずむなしくこの山に葬られるのである、 悲しいことよ。 筆者訳・「希夷」は昨非のこと)。 なお昨非の名は、【昨非今是】からとったものであろう。『大辞泉』には、次のようにある。 〔補説〕 陶潜の帰去来辞「実迷 レ途其未レ遠、覚 二今是而昨非 一」による。 昨日誤りだと思ったことを今日は正しいと思うこと。是非判断が相対的なものであることをいう。今是昨非。 ついに昨非は、故郷の土を踏むことは出来なかった。不調に終わった改革が、その理由の一つであったのかも知れない。この漢詩に、故郷へ戻ることが叶わなかった昨非の望郷の念が感じられる。 終 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.02.11
コメント(0)
三 つ の 結 末 1 藩政を揺り動かした大一揆が一応収まった寛延二(1749)年十二月二十一日以後、二本松藩はただちに一揆首謀者の探索を開始した。 先ず領内十組の各代官が『遠慮』を申し出るが、杉田組代官鱸治部弥と本宮組代官吉田兵衛門だけは、組下の百姓、町人が一揆に加わらなかったため『遠慮御免』とされた。十二月二十六日には、針道組代官三沢定左衛門が役職取り上げられて小普請入り、郡代原勘兵衛と郡奉行三浦治太夫、錦見幸右衛門も役儀取り上げられ謹慎を命じられ、代わって新郡代に渡辺弥次兵衛、新郡奉行に上崎藤馬、石黒角太夫、丹羽紋右衛門が任ぜられた。針道組代官以外の九代官は従前通り務めることになった。針道組の新代官には広瀬七郎右衛門が任じることなどで、藩としての処断を現した 他方領民支配の安定化対策と、一揆指導者の処断の準備も着々と進められた。今回の一揆に際し、積極的に蜂起したのが針道組と大槻組であり、同調に留まったのは小浜組、糠沢組、渋川組、郡山組、片平組であり、動かず批判的であったのが本宮組、玉ノ井組、喜久田組であった。 寛延三(1750)年の正月下旬、二本松藩は一揆首謀者らの捕縛のため四〇〇余騎を準備した。そして二月二日午前二時より、村々の頭目と目される者の捕縛をはじめたのである。善右衛門は自らが自首して出た。「責任者は自分一人であり、全員が無罪である」と主張したのである。しかしこの主張にもかかわらず、一揆頭取らの探索や捕縛は、この一月下旬から二月中にかけて徹底的に行われたのである。 針道組の村々に対しては、物頭、町奉行、郡奉行、代官らが四百余騎を率いて出張し二月一日夜、小浜の名主郡右衛門、伝兵衛宅を本陣として、同二日から二手に分かれて村々を襲い、頭取と思われる二十四人を捕縛した。安積三組、糠沢組へも捕り手が派遣され、多数が召し捕られた。捕らえられた百姓たちは『棒問、鉄砲問、湯問、水問、木馬問、種々の拷問にかけられ』たという。このことは、一揆解散の切り札とした。年貢半免その他を約束した御教書も反古となったことを意味した。半免御用捨は高百石につき『御救金』二両の下付と引き替えに撤回され、さらに『御用米金』『未進残米』の納入は、翌年(寛延三年)六月まで延期するはずが二月から徴収されたのである。 一揆の指導者、活動家に対する処罰、騒動参加の村々へのお咎めについての藩の最終的な評定は寛延三年十一月から十二月にかけて行われ、十二月十二日にその判決が言い渡された。もっとも積極的に動いた針道組六ヶ村(田沢、上太田、東新殿、西新殿、南戸沢、茂原)と安積郡大槻組五箇郷に対する詮議が特に厳しかったことは言うまでもない。その内訳は獄門二人、死罪一人のほか財産没収、領分払い、田宅取り上げ、他村への村替えなどである。なお五箇郷については三人が村替えとなったのみで、十八人全員が針道組からの処分者であった。針道組の善右衛門は『村民の不参加を脅し出訴強要、役人への雑言』を理由に獄門となった。家族全員も他領に追われた。代官が二〜三年で替わる天領とは違って、封建支配の厳しい二本松藩では、自分たちのために死んだ善右衛門を義民として祀ることもできなかった。次は、今に残る処分の詳細である。針道組 田沢村 宗右衛門 百姓(頭取) 小浜町で組頭をして村人帰村の足止め、 役人への雑言獄門。針道組 上太田村 善右衛門 百 姓 出訴強要 役人への雑言獄門。針道組 東新殿村 寿右衛門 長百姓願書連判強要 死罪。針道組 南戸沢村 理左衛門 長百姓(頭取) 徒党勧誘 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 西新殿村 伝右衛門 長百姓(頭取)城下願書直訴 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 茂原村 勘次 百 姓 願書下書きを書く 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 東新殿村 加兵衛 長百姓 村方勧誘 田畑家財家屋敷没収領分払。針道組 東新殿村 藤左衛門 長百姓 連判世話 領分払。針道組 田沢村 辰之助 百 姓 村方勧誘 領分払。針道組 田沢村 小四郎 百 姓 村方勧誘 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 定八 百 姓 白状しないので 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 喜六 百 姓 役人への雑言、足軽に手向かい白状せず 田畑三分の一取上げ領分払。針道組 田沢村 三右衛門 百 姓 出訴強要、白状せず 田宅取上白岩村村替え。針道組 田沢村 重蔵 百 姓 勧誘、 田宅取上玉井村村替え。針道組 茂原村 卯兵衛 百 姓 願書文言世話 田宅取上八丁目村村替え。針道組 西新殿村 惣左衛門 百 姓 願書判名主取次強要 田宅取上片平村村替え。針道組 杉沢村 多三郎 百 姓 連判願世話 過料人足三十人。 針道組 杉沢村 吉兵衛 百 姓 連判願世話 過料人足二十人。大槻組 大槻村 十郎兵衛 百 姓 村役人と藩役人への応対雑言 船津村村替え。大槻組 大槻村 林右衛門 百 姓 村方世話、白状せず稲沢村村替え。大槻組 大槻村 善蔵 百 姓 役人へ虚言報告 駒屋村村替え。 (2001 二本松・安達の歴史 二本松・安達の歴史編纂委員会より) これら頭取らへの処分のほか、針道組六ヶ村の惣百姓と村役人らに対して過料銭が課された。すなわち惣百姓に対しては『頭取申す旨に任せ、寺院または山寺に寄り合い延穀あるいは半免御用捨御願い小物成、小役等御免許御願い等、徒党強訴に及び候段重々不埒につき』として田沢村に四十四貫文、茂原村に十七貫文、東新殿村に二十九貫文、西新殿村に三十八貫文、南戸沢村に三十二貫文、上太田村に四十八貫文が課されている。村役人に対しては、『村々より徒党強訴を致し候儀を差し止めず役儀の甲斐これなく重々不埒につき』として六ヶ村の各名主一人につき二貫文、組頭一人につき一貫文、村目付一人につき一貫文、百石廻り(高百石単位に順番で勤める組頭)一人につき五百文の過料が課された。 藩は寛延三(1750)年十二月に、以上の処分について「出訴落着請証文」を提出させたが、これには処罰者のうち『領分払い』『村替』の十六人、針道組六ヶ村の名主、組頭、村目付、百石廻り、長百姓代表(総百姓の代表として)および大槻村の長百姓代表が署名している。なおこの請証文には、領内全村の名主、組頭、村目付、長百姓を藩会所に呼び出して署名捺印させ(十二月十六日)さらにこの写しを全村に廻達して徹底させた。廻り達しの順序は杉田組→玉井組→本宮組→安積三組→糠沢組の順で、例えば糠沢組和田村の新左衛門手合いでは『寛延四年閏六月五日に高木村より請け取り写し取り』『扱下総百姓壱人も残らず逐一読み聞かせ、私共名主、組頭判形仕り同六日、同村名主源内方へ相渡し』ている。のちに藩は、両人の処罰の理由を次のように述べている。(落着請証文) 一 西新殿村長百姓伝右衛門、去(寛延二年)冬同村西泉寺江村中百姓集まり 候節、頭取仕切り、御金納米代当(寛延三年)夏迄延穀に御願申すべき旨 相談に及び、願書の条文を認めさせ、村中の者共壱人たりとも収納致し候 はば、その者より金米を借るべき由申し、一味致させ、願書同文言に三通 認め、村役人江願出しても取り次ぎ申さず候はば、二本松へまかり越し御 願申すべき旨、徒党致し候段不届至極・・・。 二 西新殿村百姓宗右衛門、去十二月強訴以前、名主方へ村の者共願書持参仕 り候節、同文三通の願書何故持参致し候かと名主相尋ね候えば、名主取り 次ぎ申さず候は、御役人様方へ直に差し上げ候為三通持参致し候申し・・・。 この一揆鎮圧の際に約束された年貢半免は、二つの一揆勢の猛威を恐れて単に一時しのぎに出したものであった。財政窮迫に苦しむ二本松藩がこの通り実行できるはずがなかったのである。藩は半免の約束を白紙に戻すため、一揆関係者の処分の後、さまざまな工作を行った。例えば十二月二十四日、本宮組村々の名主、検断らは、「半免御用捨」を辞退したいと、次のような口上書を提出した。 乍恐以口上奉申上候 一 近年打続き凶作につき、百姓共願い申し上げ、領内一同に半免御用捨成し 下され候得共、恐れ入り存じ奉り候。私等持ち高の儀、右御用捨のところ お除き下されたく願い奉り候。もっとも村々小役人共の儀も私共同心の存 じ寄りには相見え候得共、つぶさに相談つかまらざる者も御座候。此度は 申し上げず候。 以上 十二月二十四日 本宮組 名主 検断ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.21
コメント(0)
山 ノ 内 五 箇 郷 寛文十一(1671)年、会津藩は『猪苗代湖上船行之法令』を定めた。これによれば公用以外の猪苗代湖上の航行を禁じ、戸ノ口、笹山港を出港した船は一旦湖南浜坪に寄港し舟番所役人の荷改めを受けなければならない。これに反した者は厳しく罰する、というものである。これは会津の産物を二本松領に移出させない手段であった。 この会津藩の経済政策で最も打撃をこうむったのは湖南山ノ内五箇郷(安佐野村、舟津村、舘村、横沢村、浜地村)であった。それまで繁盛した舟津、舘などの港の回漕業、酒造業、問屋、浜路の港、旅籠、茶屋など軒並みに衰微倒産し、生活の道が絶たれてしまったのでる。その上、五箇郷民の生活路線である御霊櫃峠、三森峠の改修工事については、二本松藩の財政上の理由で遂に行われることはなかった。これは二本松藩が親藩会津藩に対する気兼ねからであったと思われる。つまり幕府が企画する相互監視と、猪苗代湖上権制覇の策に、二本松は会津から疑念を抱かれるのを警戒し、故意に両峠の改修を行わなかったのではないか、と考えられている。これがために五箇郷は湖上交通の恩恵を受けられなくなり、なおかつ急峻な両峠に阻まれた寒冷地に孤立し、余儀なく狭い田畑での耕作に追い込まれることになった。 五箇郷は湖上封鎖の逃げ道を塞がれた形となり、寒冷地の稲作に依存せざるを 得ず、不作連年の如く、蔓を掴んで登る険阻な両峠を娘を花街か奉公に連れて ゆく父娘連れの哀れな姿がすれ違う旅人の涙をさそったという。 (福島の民俗第5号) 寛延二(1749)年十月、安積郡の百姓数千人が嘆願の筋ありとして日和田原に集結した。村々より続々集合の報に接した藩は、村越某を出張させて鎮圧しようとしたが、「門出の血祭りにする」などと騒がれて引き上げたほど百姓たちの喚声に押しまくられた。このとき郡奉行の桑原六之丞は、本宮の町人冬室彦兵衛や塩田半兵衛を通じて、百姓たちの願意を一まず聞き届けることになった。しかしそれとは別に、安達郡の油井村・塩沢村そのほかの村でも数百人ずつ竹槍・むしろ旗を立て城下に押し寄せるとの風聞が広がった。このように十二月の山根地方一揆発生以前の十月から騒ぎが起こり、村々がばらばらではあったが行動が起こっていた。 十二月十四日、安積郡の村々も安達郡に呼応して立ち上がった。それは山ノ内五箇郷の蜂起にはじまった。 安積郡大槻組の百姓共、安達郡に先を取られし無念の炎鎮めかね山ノ内五ヶ村 より三千余人蜂起して郡山に押出。 この安積での一揆が十月に起こったという記録もあるが、十二月十八日前後が正しいという説もある。五箇郷の百姓たちは積雪に深く覆われた三森峠を越えた。頂上は雪交じりの烈風に襲われ歩くのも容易ではなかったが、大槻組の本村に入ると手厚く歓待されて宿泊した。しかし山間地で作柄の悪い五箇郷と比較して、検地が甘く不作の度合いの少なかった大槻はまだ状況がよかった。そのため穏和に対応しようとしていたのであるが、生活が楽ではないことでは一致していた。大槻本村も大槻組として共闘態勢に入ったのである。 十二月十八日、五箇郷と大槻の人数を加えた三千余人が郡山へ押し出し、如宝寺付近で夜を明かした。翌十九日、全員が日和田原へ向かった。 十二月十九日、『郡山組、片平組の百姓共雲霞の如く馳せ集まり、強訴の評議一決して、兎角御城下へ押し寄せて愁訴叶わぬそのときは町屋を焼き払い、一同枕を並べて討ち死にせん』と気勢を上げ、そのときには『既に人数相極まり都合一万八千余人に膨れ』あがったという。安積の一揆勢は『道中宿々酒屋、穀屋に立ち寄りて、酒を呑む事傍若無人之振舞』もしつつ北上し、『日和田、高倉にて食事をしたため』た上で吹上、(本宮市仁井田)三本松(本宮市荒井)に向かった。 一揆勢が吹上、三本松に集結して陣を取ったのは二十日の朝方ないし午前中と思われる。このころには、蜂起に積極的ではなかった本宮組の西郷の村も、一揆勢の気勢に押されて一部参加することになったらしい。例えば、一揆鎮定後に苗代田村(本宮市岩根)の名主や組頭らから出された願書に、『当村百姓共之儀、(半免)念願之筋申し上げ候所存にて御座なく候得共、安積より大勢押しかけかれこれとおびやかし申し候に付き、驚き入り是非なく(一揆に)まかり出申し候』とある。 これより先、本宮組代官吉田兵右衛門は十八日の朝本宮の長百姓らを招集し、『川東(山根地方)騒動につき、この上安積蜂起致すにおいては当所の儀御関所も同然の場所に候はば、何卒当地において御防ぎ止め成されたく・・・、当所の者強訴同意の心底これなきにおいては長百姓申し合わせ力を尽くし差し止めるように申しつけ』ている。長百姓らは、予想される一揆勢の乱暴から本宮宿を護る意味でも、代官の意を受けてその鎮定に動くことになる。その代表がのちに仁井田原で一揆勢を食い止めるのに功のあった本宮南町の冬室彦兵衛と塩田半兵衛である。 安積の一揆勢は二十日朝方から仁井田原に押し寄せ、昼ごろには大勢力となって気勢を上げた。一方藩庁は、鎮定のため郡奉行村越酒之丞に手勢をつけて派遣したが、『数万(ママ)の百姓一々悪口雑言吐き散らし、石つぶてを打』つ有様であった。そこへ城からの使者今泉丈助が、山根地方の一揆勢へ出された御教書を持参したので、村越は『安達の百姓も半免用捨にて皆一同引き退きたり、その方共も早々に引くべし』と呼びかけたがなかなか一揆勢は信用せず、『兎角半免皆免は要らぬこと、郡奉行、郡代を申し受け、三ヶ年の間百姓をさせ民の辛苦を思い知らせたく候。早々に郷方役人を御渡し候得と口々に罵』った。身の危険を感じた村越は仁井田村の名主宅に逃げ込み、裏道を伝って城下へ逃げ帰った。この頃、山根の一揆は、一応の終息をみている。 二十日の夕方には、杉田薬師堂の大鐘を突き鳴らす者も出た。また、『道々注進に、百姓共雲霞の如く城下へ寄り集まる』との噂が広がり、一揆勢が通ると思われる道筋は、恐慌状態に入った。城では『合図の陣太鼓数ヶ所の矢倉に鳴り渡り』家中の面々が武装して続々と登城し、二本松城下もまた大騒ぎとなった。他方仁井田原に群集した一揆勢の一部は、とうとう本宮の町に入り込み『酒屋孫八、同与四郎、平七の所へ押し入って酒を飲み干し、酒蔵へ乱入、酒樽、酒桶切り散らし』という狼藉がはじまった。冬室彦兵衛らが、代官吉田兵衛門の意を受けて、決死の覚悟で仁井田原に出向いたのはこのときである。『彦兵衛・・・単身死を決してこれを鎮静せんと図り、身には麻上下を着し、白扇を持ち、本宮南町の南端人取橋に至りて暴徒と会合し、説くに利害を以てす』とのべ『本宮の長百姓一同に仁井田原まで一揆勢を出迎え、種々弁舌をもってなだめすかしが放逸の猛勢説得致しかね、やむを得ざる事と仁井田より紙筆を用意し、願書に事よせ、原にて食い止め願いのあらましを書き留め、方便の文方をもって原にて抑え置き』と記している。つまり彦兵衛らは一揆の代表者たちから一々願いの筋を聞き取り、それらをすべて藩重役に上申すると約束し、願書として書き記すことで時間稼ぎをし、一揆勢の気持ちが鎮まるのを待ったのである。この方策は塩田半兵衛が提案したという。これは二十日夜から、二十一日未明にかけての動きである。 二十日夜には、改めて上使として派遣された町奉行鈴木亦左衛門、渡辺弥次兵衛、郡奉行桑原関左衛門が数百人の手勢を率いて本宮に到着し、吉田代官の配下とともに本宮宿に入っていた者たちを追い出し、『上使なりと触れ回し、そのとき桑原馬上にて、此度強訴の者共へお慈悲の御教書下されたり、仁井田原へ馳せ集まり聴聞せよ』と呼びかけた。 二十一日朝、鈴木、渡辺、桑原、吉田らは仁井田原に出馬し、町奉行鈴木亦左衛門から群集した一揆勢に対して御教書を読み聞かせ、一揆勢もようやく納得し、同日午ノ刻(昼)までには各在所に引き上げた。 冬室彦兵衛らが一揆頭取らから聞きとって書き上げた「安積安達惣百姓願書」は、町奉行鈴木亦左衛門が写しとって城へ持ち帰った。その大要次の通りである。 乍恐以書付奉願候条々 一 「殿様御仁政之思召」と違い、役人たちの取り計らいは、当年の凶作にも かかわらず、加免されるなど、百姓取り続き難く迷惑している。 一 右につき、一同「御訴訟のため」城下へ詰める所存のところ、御上使から 本年の年貢半免と伺い、有り難く思うが、連年の困窮不作のため、一切夫 食もない有様なので左の通りお願いする。許容されれば引き上げる。 一 来年の正月十五日から春麦収穫のときまで、男女を問わず一人につき一日 六合の夫食米を拝借したい。 一 諸運上はすべて停止してほしい。 一 新検の村は「不作御検地」も願い出られず困窮している。よって古来の高 (旧検)に戻して頂ければ「御成箇高免」になっても不服はない。ただし 梅沢村だけは別である。 一 潰れ百姓が「上地(あげち)」を願い出ると他村の上地に付け替えさせると のこと、難儀千万であり、中止してほしい。上地願いの状況を吟味され他 国よりの引っ越し百姓同様に救済してほしい。 一 郷方役人の内、事情不案内の役人は辞めさせてほしい。これは東安達の要 求通りなので特に指名はしない。 一 年貢米納入のとき、「升の上中引」で取られるので、代官所によって不公平 である。以後は「何割入」と一定して取りたててほしい。 一 「宛出人の儀(家中奉公人の割り当て)」は、川東(東安達)の申し立てと 同じである。 一 年貢完済の日限が代官所により不同なので、一定にしてほしい。 右のほか様々あるが、川東の者たちと同じなので省略する。 右の条々、城下で申し上げる所存であったが、私共の敬愛する桑原関左衛 門様(大槻、本宮、郡山組の代官を歴任した)の説得があったので、仁井 田原に差し控え、熟読の上、この書き付けを桑原様へ差し上げる次第であ る。 寛延二年十二月廿日 安積・安達 惣百姓 上 御役人中様 十二月二十日から二十一日にかけて、冬室彦兵衛はこの一揆を止めるため麻裃に白扇を持ち、死を覚悟して強訴の無謀を説き、昨非に代わって戒石銘の本来の意味を解釈し、藩の趣意を説明し、各村から一〜二人の総代を選んで帰村解散させた。勝利を収めた一揆勢は、潮の引く如く整然と引き上げたという。彦兵衛は残された総代と相談し、翌日、二本松の役所に出頭してその願意を陳情した。このときも藩は、年貢半減と延納を認めたことになる。しかし二本松藩は、安達郡と安積郡から同時に押し出してきた一揆勢に対し、同じ『御教書』を与えて鎮定したことになった。藩庁は事件を長引くことを嫌がっていたのである。安積の一揆勢と妥協の工作をした冬室彦兵衛と塩田半兵衛の面目は、これで十分に立つことになったのである。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.01.11
コメント(0)
山 根 地 方 2 十二月十九日、山根地方の一揆の状況は急転回する。たまたま公用で城下に詰めていた山木屋村の名主惣左衛門は、所用終わって帰村する途中、大平村島之内で一揆勢の代表と面会して『先ほど太守公御鷹野先より・・・御内々にて御上使下さるところ、その甲斐もなく相返し候段、不調法至極』と説得したので一揆勢も思い直し、改めて上使に願いに筋を言上したいと答えるに至った。惣左衛門はただちに城へ戻ってその旨を言上した。それを受けて、先に上使に指名された松井、平松の両人は惣左衛門に先導させて早馬で島之内に行き、一揆勢に向かい「この度上使として我々両人を差し向けらる。願いの趣、一々申し上げよ」と呼びかけた。これに対し一揆の代表者らは、はじめて具体的な願意を次のように申し述べた。 乍恐奉願上一札之事 一 近年打続き凶作にて、猶更当年は別して飢饉に相成り、御年 貢半途に納め候得ば、後に残る米は只一粒も之れなく・・・ 御救下さるといへども御物成は一躰に増(まさ)り候得ば、是 以て御救之有難き事少しも之れなく候、依って百姓共日々疲 衰仕り、今日を営みかね候故、よんどころなく強訴、騒動致 し候処、御上様厚き御憐れみにて御使者御下ヶ下され、願書 早速御取り上げ下し置かる段仰せ付けられ、有り難き御言葉 に随ひ願書差し上げ申候(下略)。 ケ条書 一 近年打ち続き百姓凶作故、上納延引之事。 一 郡代、郡奉行、検見の仕方宜しからず、上作、凶作一円に御 存知之れなく候事。 附、百姓の言い分聞き入れざる事。 一 不作に付検地願上候所、その場所ばかり御用捨にて、外高へ は平均に免上げ候事。御領内諸運上、御免下さるべく候事。 一 漆不足代、御免下さるべく候事。 一 領分人足、昼扶持下されず候事。 一 出人の儀、高百石に面有一人宛の事。 一 同与内金、二分三百文ずつ先規の通り仕りたき事。 一 郡代、郡奉行、役替下さるべく候事。 一 岩井田舎人、百姓方へ下さる事。 以上 右の通り願上奉り候。此外願いの筋数多(あまた)有之候得共、先 は荒増(此分)御用捨下し置かれ候はば、残らず引退(ひきのき)申 すべく候。 注1出人とは、若党・小者と称する藩・家中の奉公人を各村々に 割り当てて出させたもの。享保二(一七一七)年の「御壁書」 では、若党は高二百石に一人ずつ計五百人、小者は高百石に 一人ずつ、計千人を毎年、町、在に申しつけるとしている。 この割り当て人数が増えていたのであろう。 注2出人の給金ははじめ年に一両二分であったが、のちには年二 両二分に上げられた。それでも出人の支度金、生活費(江戸 奉公の場合は旅費も含む)経費にはまったく不足だったので、 各村では自主的に金銭を集めて補助するようになった。これ を与内金と称した。やがて藩はこの与内金を年貢同様に賦課 し、強制的に取り立てるようになった。はじめは出人一人に つき二分三百文の負担であったが、延享のころには、この負 担がさらに増したと思われる。 注3岩井田昨非の身柄要求は、戒石銘の誤解によるものと思われ る。 右のケ条書は上使の両人が書き留めたものと思われる。これを持って両人はただちに帰城して藩主に報告した。藩主丹羽高庸はこれを聞き、「一には御噴(いきどお)り、二ツには御落涙、第三には御先祖之御事を思し召させられ、この国の騒動する事も畢竟我が不徳にて如此(かくのごとし)・・・」と反省し、ややあって「(年貢)反面御用捨、未進残米等引延之事、用捨あるべし」と申しつけたという。この上意を受けて、一揆勢に対し次のような「覚」が発せられた。 覚 一 打続凶年に付、半面用捨の事。 一 御用米金上納、来六月迄引延之事。 一 未進残米、六月上納之事。 右之分願共聞届候、此外諸願之分追って吟味之上沙汰に及ぶべき 也 寛延二年極月十九日(廿日) 丹(丹羽) 図書判 成(成田) 監物判 この騒動は昨非の責任とする城内での声が多数を占めていたため、昨非自らが唯一騎にて一揆勢に乗り込み、説得に向かった。そして蜂起をした百姓たちを前に、戒石銘本来の主旨を説き聞かしたのである。 おまえたちの俸禄はすべて、民の流す汗と脂である。民を虐げる ことは容易いが、上天を欺くことは出来ない。 それを聞いた一揆勢の中には、『感涙に咽ぶものもあり』という状態であったという。しかし一揆勢としては、戒石銘の主旨は理解したものの年貢の問題は譲れなかった。諸記録はこのときの文書を「御教書」としているが、山木屋村名主惣左衛門にこの御教書が渡された(二十日未明か)。島之内に集っていた一揆勢にこれが示され、そして読み上げられた。この譲れなかった年貢の問題は、この御教書により、一揆側勝利の再確認を担保したものと思われた。一揆勢は『勝どきを作って・・・宿所々々に引退いた。所々を固めていた藩の諸役人も廿日午の刻(昼)には城内に引き上げた』。 これですべてが解決し、生活がよくなるという保証はなかったが、概ね所期の目的は達成されたと思われた。一揆勢は、それぞれが笑顔で村へ戻って行ったのである。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.12.21
コメント(0)
山 根 地 方 1 一揆は針道村からはじまった。針道村は山根地方と呼ばれる阿武隈川東岸の阿武隈山地に属し、三年に一度は凶作に遭う地域であったので餓死から身を守ることは大変なことであった。欠落・逃散や質物奉公人なども多数出ていた。百姓たちは近くの神社や入会地に集まり、話し合いを繰り返していた。各村々は、ばらばらに動きはじめたが、各村の間で相談をした訳ではなかった。しかし相談はなくとも、凶作と藩への恐怖と怒りの共有があった。その恐怖と怒りが不安な空気を生み、その不安な気持ちが不穏な騒動となって爆発しようとしていた。藩の側としても、『寛延二年の暮十二月初めより、針道組の百姓ども所々の山林に寄騎して、飢餓難儀の談合、訴えの企て取々なり』という情報を手にしていた。「お前、お城に作られたという戒石銘の話を聞いたか?」「うん。聞いた。何でもそこには『民草はいくらでも騙せるし、虐げたって別にどうってことはないから、汗でも脂でもごっそり搾って武士の給料にすればいい』と書いてあると言うではないか」「おお、知っていたか。誰に聞いた」「村を通って行った修験者に聞いた。学のある修験者様が言うことだから、間違いはあるまい」 そのことは過酷な年貢とはまた別の問題として、百姓たちの気持ちを逆なでしていた。しかしそれはそれとして、善右衛門は人をまとめるためには凶作だけの理由だけでは駄目であり、何か政治的理由を付け加える必要を感じていたから、この話は価値があると考えた。そこへ他領の一揆に関する情報が入って動きが一段と活発化し、『一同出訴』の意志を固めた。 奥州安達郡私共村々(南戸沢・東新殿・西新殿・田沢・茂原・上太田)の者共、去寛延 二年不作に月お願いに出ずべきかと存じ罷有候処、御他領の百姓共出訴仕り候えば御願 相叶候筋もこれある由風聞仕り候につき一同延穀願い仕りたき旨相談に及び・・・。 この文中『御他領の百姓共出訴仕り候えば御願相叶候』とあるのは、元文元(1736)年の三春一揆のことと思われる。三春藩の領内総百姓が十二月十二日に城下に集合して起こした強訴で、翌十三日、当年の年貢を半免とすること、百姓たちに味方したとして解職された家老の復職、悪政の噂高かった郡代、郡奉行の引き渡しなどの回答をかちとったのである。しかも同じ日、越後高田藩の分領である浅川で、一揆が発生した。これらが山根地方の百姓たちの心を揺さぶった。「やれば出来る」 十二月十四日(この日付は「二本松藩史」)、西新殿村の農民らが西泉寺に集合し、次の三点を要求としてまとめ上げた。 1 永年六月まで御用米金に延納 2 年貢半免 3 小物成御免 組織者は長(おさ)百姓伝右衛門であったが、願書を名主宅へ持参し藩庁への取り次ぎを依頼したのは百姓宗右衛門であった。同じころ東新殿村、田沢村、杉沢村などでも広沢寺に集合して話し合いが行われ、延穀願書に署名している。寒さで吐く息が白かった。 十二月十六日には田沢、茂原、東新殿の者たちが村を出て安野沢寺山に集まり、西新殿村もこれに加わった。各村ごとの自然発生的であった騒動は、それぞれが雪ダルマ式に次第に人数を増していった。しかしこの間、これらの寺々の住職たちが、一揆勢たちとの相談に応じたとの記録はない。通常住職は、領民と藩庁との間の仲介役を兼ねていたにもかかわらず、橋渡しの記録がないということは、それだけ一揆勢の動きが先鋭化していたということであろうか。 十二月十七日の昼前には、田沢村、茂原村が、百目木村に押し寄せた。百目木村の総百姓も同調、山木屋村、針道村、南戸沢村、北戸沢村、上太田村、西新殿村、内木幡村、外木幡村、杉沢村も加わり三千七百余人が小浜村に向かった。正木善右衛門を中心とする上太田村では三十五人が五福田に集結して早坂から上寺・梅沢を経て小浜に向かったと伝えられる。一揆には経済闘争の他に、『反戒石銘』の政治的要求が含まれ、さらには岩井田昨非の引き渡しを求めていた。野山には、雪が積もっていた。 一揆勢が小浜に着く頃、小浜組の成田村、鈴石村、平村、上長折村、下長折村、外木幡村、平石村、西勝田村、下大田村、さらに糠沢組の長屋村、白岩村、稲沢村、松沢村、初森村、高木村も参加、三万石を耕作する総百姓が小浜の山野に充満、大一揆の様相を呈してきた。百姓たちも二本松城下に押し寄せる道すがら、沿道の村落に参加を求めて動いていた。善右衛門は、それらの人数の多さに恐怖さえ感じていた。その統一した行動が取れなくなるのではないかという恐れから、指導者としての善右衛門は次のような一揆作法を提示し、それは直ちに決定された。 一 酒屋へ入り酒を飲んだときは、代金を支払うこと。ただし銭が無いときは帳面に 書いて貰い、あとで支払うべし。 一 持参の食事が無くなったときは、町方で穀屋に頼み食すること。 一 道筋の田畑に障らぬこと。並びに町方にて商売物にムザと手を付けぬこと。 一 町方にて戸障子に触れぬこと。町人に悪口雑言をしないこと。 右の通屹度相慎むべし。もし相用いざることあらば、仲間にて打ち殺すべく候。 以上 一揆勢は手に手に山刀や『まさかり』を持ち、鎌を差した麻の指着物を鎧とし、簑笠を甲冑にかえて上帯には荒縄をした。食事には焼飯、香煎(麦こがし)、焼食(米雑穀)、栗、稗、粟、などを入れた俵を背負っての出立であった。一揆勢は大平村島ノ内に移動、阿武隈川を挟んで藩主側と対峙した。一方この動きは西安達や安積郡にも広がりを見せ、全藩一揆の様相となってきた。藩側では一揆勢を鎮めるため、一揆勢の要求をすべて受け入れる形で教書を出し「年貢米の半免と納期の半年延期」を約束した。一揆勢の全面的勝利であった・・・はずであった。しかし事は、そう簡単には済まなかったのである。 この有様は各村の名主、組頭、目付らによって代官、郡奉行に注進され、城会所でその対策の評定がはじまった。とりあえず郡代原勘兵衛の命令で郡奉行綿見幸右衛門、桑原関左衛門、針道組代官三沢定左衛門、小浜組代官白石源太右衛門が鎮定のため小浜に派遣された。四人は小浜村名主水梨郡右衛門宅を仮役所とし、捕手同心を二手に分けて小浜村を探索させたところ、たまたま食事のためうろついていた田沢村、茂原村の百姓四・五人を捕まえた。捕らわれた農民たちは頭取名や一揆のねらいなどを白状せよと拷問にかけられた。しかしそれを知った一揆勢は、「ただ一人でも召捕らわれる者あらば、我々共の言い訳が立たず」としてただちに名主宅を襲い、門や台所を打ち壊して捕縛された者たちをとり戻した。このとき一揆の目的を問われた一揆勢は口々に「願いの筋は海山なり、然れども我々は御城下へ相詰めて御太守公へ直々に申し上げる所存なり。近年打ち続き凶作の上、年貢上納急かせ、艱難辛苦の根元はこれみな郷方役人の仕業なり・・・願わくば岩井田とやら舎人とやら、そのほか郷役人を申し請け、百姓の仕業をさせて思い知らせん」と返答したという。出張役人らは為す術もなく城下へ逃げ帰った。勢いづいた一揆勢は小浜から城下を目指して移動し、再び大平村島之内広野(二本松市大平)に集結して近辺の『居久根持山立木共伐倒し、なぎ倒し、数百ヶ所にかがり火をた』いて一夜を明かした。一揆は先鋭化し、第二段階を迎えたことになる。 翌十八日までに島之内の広野に集まった一揆勢は都合一万八千七百余人に達し、さらに後陣として小瀬川台に四千九百余人が集結したという。この日藩主丹羽高庸は鷹狩りにことよせて宮戸川原に出馬しており、御使番の松井槙太、平松志賀を上使として派遣し、願いの筋を問わせたが一揆勢は彼らを使者として信用せず、これを追い返した。一方、二本松城下防備のため、家老丹羽図書、成田監物をはじめ物頭二人、大目付一人が士卒、郷同心ら総勢一千余人を動員して供中河原に陣を張った。さらにこの日は渋川組の村々も動きだし、沼袋、上川崎、下川崎、吉倉、米沢、二本柳、小沢など(両塩沢もか?)『十ヶ村の百姓共二千余人蜂起』し小沢、川崎の山の手に集まって数百ヶ所にかがり火をたき、気勢を上げた。藩はこれに対する備えとして物頭上田蔵人、小川平助に手勢二百余騎をつけて川崎口を固めさせ、さらには渋川組代官上崎金兵衛、杉田組代官鱸(すずき)治部弥に、それぞれ組内の村々を巡回、警戒させた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.12.11
コメント(0)
昨 非 登 場 2 元文元(1736)年、隣藩・三春藩の東郷で強訴が起こった。 このような周辺の状勢もあり、昨非は民勢の回復こそ年貢収納向上の基本であると考えていた。そこで改革の基本方針を次の三点とした。 1 年貢収納法を現行の田からは米、畑からはカネを止めて元に戻し、三カ年の定免 制を実施する。 2 手余り地対策に公田作りを推進する。 3 社倉(お救い倉)の運営を実態に合わせて改善する。 ところが、この年は冷雨が続いて元禄の凶作をしのぐ大不作となり、翌年も冷雨で不作となって期待された財政の好転にはならず、社倉も空のままであった。 元文二(1737)年、昨非は郡奉行に抜擢された。郡奉行は藩全体の年貢収納、民事・治安行政全般を統括し、その下に郡代がいて担当地域における年貢の管理や民事・治安などを担当していた。つまり昨非は、ようやく藩政改革の地位に就いたことになる。 昨非の改革は軍制、教育、農政、税制など藩政全般にわたる広範囲なものとなった。さらに昨非は手余り地の公田化が進捗しないため百姓に耕作を強制したり、半知借上を強行したり、税種目を増加するなどしたため、重臣をはじめ藩士や領民からの反感も強かった。しかし藩主の高寛、家老の忠亮などの後ろ盾により、多くの反対を押し切って文武両道の義務化等の教育制度をはじめ、軍制・士制・刑律・民政などの重要施策を次々と改革していった。特に、刑律では耳そぎ・指一つ切り・両足大指切り・焼きごてなどの残虐な刑罰を禁止し、民治の面でも藩主外遊の際には先触れなどの煩雑な制度を廃止して農民の作業の妨げとなるのを防ぎ、また役人が出先の民家で長い時間にわたって接待を受けないように弁当持参の原則を確立した。さらに藩士教育では、毎月城内において三日間、昨非の自宅において六日間の受講を義務化することで教育普及にも力を注いだ。当時、藩の租税は年貢(地代)と小物成(雑穀、現金納)から成り立っていた。また毎年四月に人別改め人面改めや宗門改めが行われ、そのために村人が集められた。郡山村の宗門改めは如法寺の境内で施行されていた。 元文三(1738)年、二本松藩はまたも大雨洪水に襲われた。その損耗一万七千九百石と言われる。九月十八日、平藩では百姓総一揆が発生した。そして翌・元文四(1739)年八月十八日、平藩は一揆の首謀者十二名を処罰したのである。迅速な対応であった。二本松藩では寛保二(1742)年、またも発生した大雨のため、甚大な被害を被ることとなった。三春分領(五千石)でも訴訟が起こり、白河藩でも百姓の打ち壊しが発生した。このようなときに進められた昨非の改革ではあったが、肝心の経済振興策がなかった。結局、百姓たちの負担は増え、家臣の既得権益は侵されることになり、反対派の声が次第に大きくなっていった。しかし昨非は、不作の続く状況の中で夫役(労役)が相当あり、農事の時節に遅れて田畑の手入れも雑となり、結果引き起こさせる収入減という百姓の生活の現実を憂えた。さらに百姓たちの労働意欲をもっと高めるためにも、実収入を増やすべきだと考えた。 寛保三(1743)年、昨非は郡代となり、江戸用人となった。郡代は代官と同じで支配地においての藩主の代理であり、用人は家老に次ぐ重臣で家老の職務全般を補佐、いわば事務役・連絡役・折衝役としての性格を持っていた。昨非に期待した大抜擢であった。 延享元(1744)年、福島藩の渡利村の百姓たちが減免を願い、江戸表に訴え出た。それを知った昨非は、藩の兵制・刑法の改正、藩財政確立を急ぐために酒税や新税の賦課を要請した。 もともと二本松の国許で藩政に携わっていた藩士たちには、昨非が江戸に住んで楽をしているように思えた。それであるから江戸から命令を下し、推し進めようとする改革が面白くなかった。重臣たちの中にも、猛烈に反対した人も結構多くいたのである。これまで自分たちの手の内で好きなように政治を担ってきた重臣たちの目には、突然やってきた余所者に何から何まで慣例を覆されると考えられる事態は、何とも始末の悪い状況であった。「武芸は武士の本分、儒学は弱々しい人間のやることだ」と考えていた藩士たちにとって、昨非の半強制的な学問のおしつけに反発を感じ、あげくの果ては脱藩する者も出た。しかし昨非は一向に気にせず学問を奨励した。改革反対派は、昨非を陥れようと内密に画策をはじめていた。藩主や家老を後ろ盾とした昨非の施策に、表だって反対はできなかったのである。 延享二(1745)年、福島藩で増免反対打ち壊し一揆が発生した。二本松藩でもまた 不作の上、江戸屋敷が類焼してしまったのである、この復興のための御用金取り立てが行われ、そのための「領内村々大概帳」を作成提出させるなど、種々の方策を講じた。この年、藩政改革を志し、日夜奔走している間に心身共に使い果たした家老丹羽忠亮が志なかばにして病に倒れ死去したために反対派の声が次第に大きくなり、藩政改革に熱意を失った藩主高寛は隠居をし、長男・高庸にその家督を譲ってしまった。高庸も最初は昨非とともに改革を進めたが領民や家臣の批判が高まっていったため、高庸と重臣たちは、新参の昨非の方針に非協力的になっていった。残された家老たちも、はじめのうちこそ忠亮の政策を踏襲していたが次の藩主丹羽高庸の消極的態度に引かれ、昨非は次第に浮いていった。藩主高庸は改革の遅滞の反動で保守派の家臣を登用し、「昨非討つべし」と叫ぶだけで、何の対案もない家臣が重用された。このような中でも幕府の課役は相次ぎ、主なものだけでも享保十五(1730)年には、日光廟の修理を命じられている。この修築費用を出すのは藩にとっては、大変な物入りであり、さらに俸給をけずられる藩士たちも出てきた。藩士たちの生活もまた苦しくなっていたのである。 翌・延享三(1746)年、二本松藩に御巡検使が入国した。藩では幕府の御目付衆が視察に来るというのに、『政策の変更など目立つことをするのは不味い』という思惑から、昨非に提案を取り下げさせていた。この年の作柄は中作であったが、延享四年は不作となった。会津藩でも気候不順のため、三万石余の年貢がとどこおっていた。江戸の昨非は旗奉行格となり、十一月、番頭格に任じられて伊勢・美濃国の川浚い手伝い普請に副奉行として赴き、翌年に工事が終わって幕府に賞された。旗奉行は家老に属し、藩主の軍旗・馬標(うまじるし)などを管掌した。番頭は、平時は警備部門の内で最高の地位にあるものを指し、戦時には備の指揮官となることが多い。昨非は軍政農政を掌握し、実質的最高位についたことになる。 寛延二(1749)年三月、昨非は高まる抵抗に抗して、藩政改革と綱紀粛正の指針を明示し、また藩士を戒める目的で二本松城内の藩士たちが通る通用門の地点に巨大な花崗岩の天然石を据え付け、黄庭堅の『戒石銘』を刻印させた。戒石銘は、毎日ここを通る藩士たちはいやが上にもこの碑を見なければならなかった。反対派にすれば、それはそれで癪の種であった。 爾俸爾禄 汝の俸 汝の禄は 民膏民脂 民の膏 民の脂なり 下民易虐 下民は虐げ易きも 上天難欺 上天は欺き難し(お前たちの俸給は、領内の農民達の汗と脂で働いたたまものより得ているのである。農民から年貢を搾り取るなど虐げることはできるが、天までだますことはできない) この碑は昨非の提言により建立されたとされているが、実際は前の藩主・高寛の命によって刻まれたものであるという。戒石銘の原典は、中国の後蜀(こうしょく)の君主・孟昶(もうちょう)が935年に作った二十四句九十六字の戒諭辞(かいゆじ)(戒め諭(さと)すことば)に求められ、さらに北宋時代の君主・太宗が大平興国八(983)年(日本年号永観元年)四月に戒論辞から四句十六字を抜出し、戒石銘として州県の官吏に示し、官吏の戒めとして用いられたとされているものである。中国では日本の平安時代中頃に戒石銘が誕生し、平安時代末頃には広く各州県の門前に戒石銘碑が建てられたことが知られている。戒石銘は、武士に対しての戒めの意味であったが、藩主の自省を求める意もあった。 非常時の際の改革であるからこそ団結して事にあたろうとする昨非に、『公儀共に一統の御定め』という形式論を楯に、結局重役たちは「今まで通りでよい」と決議し、昨非の提案を葬ってしまった。提案はなかったことになり、重役たちの判断も責任も回避されることになった。『百姓の意欲を高め、民力回復を第一に』という甘い提案があったことが漏れて百姓の間に広まれば、「どうなるか分からない」ということの方が、重役たちの関心事であったのである。 このような状態の中で、昨非に対して快く思わぬ者たちが会合を重ねていた。ともあれ突然やってきた他所者に政策を覆されたのであるから、もうそれだけで面白くなかったのである。「それにしても、先年、昨非は隣の会津藩との間で起きていた藩境を巡っての領土問題をうまく丸めたからな」「うーん。それがあるから、やりにくい」「何とか奴を、早いうちに引きずり落とす方法がないかね」 相談のために集まっていた藩士たちの話が途切れた。「昨非を引きずり落とすいい方法がある」 藩士たちは、一斉に発言者の顔を見た。「戒石銘を利用しよう」「あれをどう利用する?」「左様。どうせ百姓どもは字が読めぬし、読めたとしても城中の戒石銘のある所にまで入れるはずがない。そこでだ。戒石銘を別に解釈して百姓どもを煽るのよ」「・・・」「まだ気付かぬか。この周辺でも、丁度一揆が多く起きている。もちろん領内の百姓どもも動揺しておる。恐らく煽られれば、一揆に走るに違いない。戒石銘が一揆の原因ともなれば、昨非も安泰ではおられまい」「なるほど、で、戒石銘をどう利用する?」「『下民は欺き易い、虐げてでも民の膏脂(あぶら)をしぼり、それをお前らの俸禄とせよ。どうせ上に立つ者は何も知らず、騙すのは簡単である』ではどうだ」「おう・・・」 どよめきが走った。「しかしそれを、誰が言いふらす? 我らでは事が露見しよう」「そこはそれ・・・修験者にでもカネをにぎらせればいい」 そう誰かが言い出すと、話し合いの輪が縮まった。反対派はこの読み方をして昨非を貶めようとしていた。わざと曲解した意味を、領内に喧伝しようとしていたのである。そしてこの画策は、見事に成功した。「一揆が起こるかも知れない」という情報により行われた緊急会議で、「このような事態にまで発展した最大の要因は、昨非の戒石銘にあるようだ」という声が大多数を占めたのである。 城内での会議も紛糾した。小姓役の上田某が、「事の起こりは岩井田昨非にある。昨非の首を斬ってこれを城外にさらせば、騒動は自ら鎮まる」などと公然と言い出したのである。藩内においても、昨非は難しい立場に追い込まれていた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.21
コメント(0)
昨 非 登 場 1 幕藩封建制(武士本位制)の中で士・農・工・商の身分制度が確立し、租税は幕府・藩の費用とされた。そのため幕府には、社会政策のうち領民に富を再配分するという考えはまったく無かった。『農は納也』であったのである。この時代の租税制は、天正十八(1590)年の太閤検地以来、明治五(1872)年地租改正まで続くことになる。その課税は藩が村毎に割り当て、村役人(名主、庄屋、肝煎、組頭、長百姓)が耕地高に応じて個人賦課の割当を計算し、これを納入させるものであった。しかも生活苦に耐えかねて逃亡したり、家族が少なくなって未耕作地が出て年貢高が減った場合、この立て替え分は村全体からとされたのであるが、実質は相互扶助の五人組制が代納させられていた。それも不可能な場合、名主は名主職を売り払ってでもその責任で納付させられていた。文化文政年間の名主職は、五十両位で売り買いされたという。村役人には村政代表者が任命された。彼らには戸籍調、年貢完納と村内統治の責任があり、この他にも年番名主、割頭大庄屋、郷頭の組織が定めてあり、代官所に常勤した。この村役人の下に、百姓代表の監視役を兼ねた長百姓や、五人組頭、若者組、目付等各役職を置かせた。 連年の不作に襲われ、年貢の減少に悩んでいた幕府は、享保の改革により定免法(じょうめんほう)を取り入れた。それまでの年貢徴収法では、年毎に収穫量を見てその量を決める検見法がとられていたが、これでは収入が安定しなかった。そこで取り入れられたのが定免法であった。定免法とは過去数年または数十年の収穫率の平均から年貢率を決めるもので、手間もかけず、豊凶を問わず一定の年貢を納めさせることにあった。これにより幕府はもちろん、各藩の収入は安定化した。しかし、余りにも凶作のときは破免(年貢の大幅減)が認められることがあった。それであるから、享保の凶作のような不作が続き、農民の生活が苛酷な状況に追い込まれた場合は破免の対象になると考えられていた。 二本松藩丹羽氏は長秀の時代から累積された資産が多くあり、常陸から棚倉に移る際もその財宝を積んだ荷駄が長蛇の列をなしたという。幕府が丹羽氏に、棚倉城や前任地の白河小峰城築城を命じたのも、この財宝を消費させるのが目的であったといわれ、丹羽氏はそのほかにも江戸城普請や日光廟造営などの公役を割り当てられていた。二本松に入部した丹羽光重に対し幕府は二本松城の修築を強いた。さすがに丹羽氏が長年にわたって蓄えた資産も底をつき、二本松城は天守もなく城中には土居や板張も多かった。丹羽氏は二本松に入ったときには、既に財政難に見舞われていたのである。 二本松藩の領地は安達郡六十九ヶ村約七万一千百石余り、安積郡四十一ヶ村約三万二千六百石余りの合計約十一万六千六百石余りであった。その安達郡を渋川、杉田、玉ノ井、本宮、小浜、針道、糠沢の七組に、安積郡は郡山、大槻、片平の三組に分け代官による支配を行っていた。地代官と呼ばれていた代官は二本松城下で執務し、達代官が現地に赴任していたが全ての組に代官所があった訳ではなく、例えば安積郡の郡山、大槻、片平の三代官所は全て郡山に置かれていた。いまもその地は、『陣屋通り』として市内一の繁華街となっている、 享保九(1724)年、新検地が実施された。新検地とは、慶安二(1649)年、郷村支配の柱として幕府が布達した検地の方法によるもので、それまでに行われていた検地は、古検と言われていた。しかもこの新検地は、いままで入会地(共用地)であったものまで共用資産として課税し、さらにこれまで年貢付加の対象ではなかった河川敷や山林まで「新田」とみなして年貢の対象としたものである。ところが新検地が実施された村と古検のままの村があったことから課税標準に差が発生し、新検地が実施されて不利となった村から不満が噴出した。 年貢は生産高の六割三分で、農家は残る三割七分で一年間の生活と来年の種籾を賄う必要があった。年貢を納める者は本百姓(正税納入者) と水呑百姓(一軒前を所持出来ない者)とされ、一軒前とは水田を一町歩前後と屋敷周りに畑一反歩を所有する者であった。なお二本松藩の農家の住居は一戸当り三間×五間の十五坪に制限され、天井、廊下、長押、床の間を作ることは許されなかった。ただし作かけ、すのこ、土間は許された。『(百姓は)死なぬように生かさぬように合点致し収納申し付』けというのが幕府の農業政策の根幹であった。 各地各藩の一揆は、この政策によって不作にもかかわらず領主側が年貢を規則通りに徴しようとしたことにあり、また農家側には年貢・諸税の収奪による長年の困窮の累積があり、百姓の暮らしはさらに苦しいものとなっていたことにあった。その上で藩役人の采配に不適切かつ不公平な決定が多々あったため、百姓の間に不満が増幅した。なお五代将軍綱吉治世の延宝八(1680)年に発布された条々に、『民は国の本であり、代官は常に民の辛苦をよく察して飢餓などの憂いのないようにすること』とあり、代官に対して頻繁に戒告や警告が出されていることから、心得通りの民政が行われていなかったと考えられている。 二本松藩でも不作凶作が続いていたが、特に山根地方や山ノ内五箇郷(いまの湖南町地方)では、隔年というほどの不作に見舞われていた。享保八(1723)年には八月七日より大雨となり、その損耗高は一万四千八百石にのぼった。しかし、これといった特産品もなく米作だけの単一農業地帯であったため、天災等の影響を受けやすく凶作が襲う度に百姓は疲弊していった。 享保十(1725)年、城下本町裏より出火した火事は、久保町の侍屋敷百軒が類焼する大火災となった。享保十三(1728)年には大雨が降り、その損耗高は一万八千石となった。貧窮に瀕した二本松藩は、重臣丹羽庄兵衛だけが五千石の知行地を持ち、ほかは全て知行地を持たない俸禄制であった。しかし丹羽庄兵衛の知行地も名目だけのもので、実際はその管理を藩で行っていて実質的には俸禄制となんら変わりはなかった。このような時期、二本松藩としても手を拱いていた訳ではなかった。家臣に対しても早い時期から俸禄米の強制的な借上げが行われ、倹約令が盛んに出され、やがてそれは士風の退廃に繋がっていった。汚職・博打・遊芸・刃傷沙汰などが絶えず、藩士の中には自分の名前すら書けないものが数多くいたという。 享保十四 (1729) 年には、幕領信夫郡の百姓らが二本松城下に越訴するという事件が起きていた。 享保十五(1730)年五月、二本松城の本坂門脇石垣が大雨のため破損、これの修理に多くの費用を費やした上、この大雨が続いての損耗高が一万四千石という被害を被った。二本松藩は十万石であったから、実に一割四分の損失である。しかも被害は、この年だけではない。その後も不作などが続いていた、 享保十六(1731)年、またも二本松藩では大雨洪水に見舞われ、被害三千七百四十九石にも及んだ。十七年には長雨と蝗の害により、享保の大飢饉が追い打ちをかけていた。江戸でも打ち壊しが起きていた。二本松藩主・丹羽高寛は藩財政の逼迫と士風の退廃を見て改革の必要を感じていた。 高寛は、文武に優れ人望があった丹羽忠亮(ただすけ)を家老に抜擢し藩財政改革を命じた。この忠亮の依願に、友人であった幕府の儒官・桂山彩巌(かつらやまさいがん)が自分の弟子の岩松昨非(さくひ)を推挙したのである。昨非は、父・岩松伝兵衛可住、母・脇屋氏の子として、元禄十二(1699)年、下野国(栃木県)芳賀郡に生まれた。名は希夷(きい)、通称を舎人、号を昨非と称した。神童の誉れ高く、若くして気宇高邁と噂され、江戸に出て幕府書物奉行桂山彩巌に師事し、儒学を極めていた。 彩巌の要請を受けた昨非は、二本松藩の実情をつぶさに調査した。その結果として、百姓の生産物を再生産も出来ないほど収奪し、逃散やつぶれ百姓が続出したため手余り地(耕作放棄地)の耕作が強制され、さらには人口減少が続く中での財政再建など出来るはずがないと考えていた。二本松藩への仕官を躊躇していたのである。 それでも享保十九(1734)年、高寛に藩財政改革を急ぐよう命じられた家老の忠亮は、彩巌を通じて昨非に強く要請をし、儒者として百五十石で召し抱えるのに成功して改革の責任者に据えたが、またもこの年、二本松藩は不作であった。江戸育ちの高寛にしてみれば、文化的にはるかに遅れていた二本松藩を財政改革と同時に文化的にもっと進んだ地にしようという気持もあり、昨非に期待することも大きかったのである。岩松昨非は岩井田昨非とその姓を改めた。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.11
コメント(0)
伏 流 水 2 しかし貧しさは極まって遂に歳ごろの娘を売る者も出てきた。人買いたちは娘たちの価格を安く談合し、「内緒。特別」と言って値を少しだけ釣り上げ、娘を手放すことを決心させていた。安政五(1858)年、年季奉公に出た飯盛り女『よしの』の証文が残されている。なんとも辛い文章である。 私の娘よしのは六才になったが、年貢上納金に困ったので、 八年間は養育して頂き、のち十年間を奉公させたい。ついて はこの十年間の奉公賃を十七両二分とするが、うち八年間の 養育費を十両とみて差し引き、残り七両二分を確かに頂きま した。もし途中で死亡した場合は、法名だけでもお知らせ願 いたい。 ここの五百戸の家を調べてみると、常に米を食える家は十戸あるかどうかという状態であったという。そのような事情にあったから、一揆は必ずしも周到なる横のつながりを持って十分な準備のもとに立ち上がったものではなかった。「まったく、水呑み百姓とは、馬鹿にされたもんだ」 寿右衛門が呻くように言った。少し間をおいて善右衛門が言った。「とにかくこれは、庄屋の段階で何が出来るというものでもない。もう少し多くの人と相談した方がいいのではないか?」「ということは、善右衛門さん。各村の百姓全部を集めて相談するということか?」 寿右衛門が聞いた。「しかしそうすると生活が楽な者は誰もいないのだから、話し合いは激しい方に傾くぞ」「すると一揆になるか?」 寿右衛門が宗右衛門の問いかけを中断するかのように言った。「うーん。それは不味い。他藩の例を見ても分かるように一揆の報復は恐ろしいぞ。場合によっては殺されるかも知れねえ。」 善右衛門がおずおずと言った。「しかし九年前の三春藩一揆の例もある。必ず駄目、という訳でもあるまい・・・」 寿右衛門が言った。「うーん。それにしても二人とも聞いたか? 今度江戸から二本松藩に抱えられた岩井田という野郎が城内の大きな岩を磨いて、『下民は欺き易い、虐げてでも民の膏脂(あぶら)をしぼり、それをお前らの俸禄とせよ。どうせ下にいる者は何も知らないから、騙すのは簡単である』と言ったそうだ」 宗右衛門が額に深い皺を寄せて言った。「うん。聞いた聞いた。俺の村では皆んな知っていて怒っている。まったくとんでもない話だ」「そうか・・・。寿右衛門の村でもそうか・・・」 善右衛門は下に目を向けたままそう言った。 ——本当の意味はそうではないのだが・・と思っていたのである。しかしその横顔は、すでに死を見据えているかのように見えた。 当時の幕府勘定奉行は、「胡麻の油と百姓は搾れば搾るほど出るものなり」と放言したと言われる神尾春央(かんお はるひで)であった。そして二本松藩預かりから幕領に戻された信達地方へ代官として赴任していたのが、この神尾に目を掛けられていた岡田庄太夫俊惟であった。「うん。その話は俺も聞いた。そう言えば大分前の秋、幕領・信夫の三十五ヶ村二千人の百姓たちが、長引く不作と更なる上納命令に立子山村(いまの福島市)の組頭の小左衛門は、忠次郎、伊三郎とともに代表となって大森陣屋に減免と延納を願い出た。小左衛門らの前に表れた岡田庄太夫は、土下座して依願する百姓たちの話を聞くどころか、『年貢についてはすでに御公儀において決せられたこと。その方らの村のみ破免をすれば、すべての幕領から同じ要求が出よう。その用件には聞く耳もたぬ!』と一方的に決めつけた。それでもと懇願する小左衛門らに、代官の岡田庄太夫俊惟は、『百姓はそう簡単には死なぬ。ワラにコヌカでも入れて食いつなげ! それに老人子供は屁の役にも立たぬ、餓死などしても差し障りはない』と言ったということを覚えているか? あのときは、五十人近くが処刑された・・・」「まったくな。しかしああ言われては、代官に『死ね』と言われているのと同じことではないか。しかしいまも事情に変わりはない。このままずるずると腹を減らして村中みんなが死に絶えるのを待つのか・・・」「結局、家族みんなも働き詰めの上食うや食わずで苦し紛れに娘まで売って、すべてを失って餓死するなら、いっそ一揆をして犠牲者が出たとしても、何人かが助かったら、それはそれでもいいのではないか」「やるのか?」 寿右衛門がそう言うと、垢にまみれた三人の目が光った。「しかしそうもいくまい・・・」 そう善右衛門が言うと、三人は肩を落とした。騒動は自然発生的に一局部からはじまっていた。 十二月十六日、針道組の田沢村・茂原村・東新殿村などの百姓たちが安野沢寺に集まった。組内から餓死者も発生していたのである。その集まりでは、「一揆やむなし」の声が高まっていった。すでに少なからぬ百姓たちが、二本松の城下に物乞に出ていた。城下で同じ村同士の者が鉢合わせしたときなど、どちらかが連れてきた乳飲み子を借りた。寒さの中で腹を減らし、弓なりになって泣く子に同情が集まったから痩せて元気のない子に人気があり、太った子は敬遠された。それに対し藩では、物貰い禁止令の高札を立てたのみであった。このようなときの善右衛門の『一揆実行』の檄(げき)に、百姓たちは、「どうせやるなら、二本松城に直接押しかけて殿様に直訴しよう」という結論になった。目をギラギラさせた男たちの、異様な雰囲気がみなぎっていった。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.10.21
コメント(0)
伏 流 水 1 奥州は農業生産力が低く、連年続く不作に悩まされていた。その中でも特に被害の大きかったのは享保の大飢饉であった。これらの不作は、多くの一揆を誘発していたが、享保以後に限っても次のように多発していた。 享保五 (1720)年 白河 南会津 指導者 小栗山喜四郎 打ち首獄門 六人。 処罰者 三五〇人。 享保十三(1728)年 二本松藩 大雨、一万八千石もの損耗高を数えた。 享保十四(1729)年 信達幕領(信夫郡、伊達郡) (立子山)指導者 立子山小左衛門。 (大森)指導者 佐原太郎右衛門。 死罪獄門 小左衛門、忠次郎。 遠 島 九名。 所 払 五名。 田畑家財取上 検断一名、組頭一名を含む五名。 田畑取上 五名。 役儀取上 七十日戸〆皷岡村名主一名、 その他、組頭九名の十名。 過 料 七十日戸〆 一名。 七十日戸〆 十一名。 五十日戸〆 三名。 叱 り 一名。 享保十七(1732)年 享保の大飢饉。 元文元 (1736)年 三春藩 一揆側の勝利。 元文三 (1738)年 平 藩 死罪 九人。 処罰者 十九人。 元文四 (1739)年 白河藩 百姓打ち壊し。 三春分領 訴訟。 延享元 (1744)年 福島藩 渡利村の百姓が減免を 願い、江戸表に訴。 しかしこれらの一揆の多くは三春藩を例外とし、生活をかけた百姓たちの血で償わされられるという一揆側の敗北となって終わっていた。 本格的な二本松藩の治世は、丹羽光重が入部してからのこととなる。織田信長の家老格であった父の丹羽長秀は安土城の普請を担当するなど築城術に長け、その流れで丹羽家には、家臣にも技術を持ったものが多かったとされる。そのためか棚倉、白河と新城普請を命じられ、完成すると転封という処遇を受けている。二本松に入部した丹羽光重に対し幕府は、二本松城の修築を強いた。丹羽氏は二本松に入ったときから、既に財政難に陥っていた。 寛延元(1748)年、この年の春先は天気が良く良作が期待されたが、七月からは長雨が続き気温も低く、すでに凶作の様相を見せていた。五穀は稔らず公租は高く、農家は飢饉の心配と人足割付で心まで冷たくしていた。このような事情の中で、年貢をどのようにして上納すべきか、農民たちは諸所に集まり声を潜めて憂えていた。納付方法は、作柄にかかわらず平均に固定された定免法を取り入れていた。そのため藩側としては収入の安定が見込まれたが、百姓にとっては不作時の負担が大きくなっていた。藩全体としては、四割の減収になるのではないかと噂されていた。村々から愁訴が出され、藩主丹羽高寛(たかひろ)の上聞にも達して不作検地の実施が命じられたが、それは決して救済にはならなかった。何故なら、郷方役人は当座の利得に心を寄せ、百姓の難儀を救おうとはせず、そのため検地された場所はわずかに九千石分のみであって、残り九万石以上の農地への年貢率はさらに増加し、検地を受けても何の甲斐もなかったという不満が高まっていた。百姓たちは、「何だかんだと理屈をつけて、ただ年貢を召し上げるだけではないか」と藩への不信を増幅させていた。 寛延二(1749)年の春先には日照りが続き、七月上旬から秋の終わりまでは連日雨降りで片時の晴れ間もなかった。ここ数年引き続いて起きていた不作に二本松藩全体の作毛が平年の四割となり、特にここ山根地方(阿武隈川の東)は収穫皆無の状態となって年貢米はもちろんのこと種籾の確保すら困難な状況となっていた。このような状況の中で、上太田村の正木善右衛門はただ一人で庄屋の屋敷に向かった。 庭に土下座し頭を下げていた善右衛門は、縁側に座って苦い顔をしている庄屋の顔を見上げた。そして「お願いしますだ」とか細い声で言うと、もう一度頭を下げた。庄屋の微かに震える手には、善右衛門が持ってきた訴状が握られていた。何年か前から続く天候不順が領内の不作を招いていたことを、庄屋といえども知らぬ訳ではなかった。この年も初夏が近づいているにも拘わらず気温が上がらず、ようやくの思いで取り置いた種籾の作付けもならず、すでに凶作の様相を呈していた。これは全国に広がっていた飢饉の一環であり、願いを受けているこの庄屋に限らず藩もその対応に苦しんでいた。しかし上太田村の庄屋とすれば、他村から訴状が提出された後ならともかく、自分の村が最初であることに不安を感じていた。場合によっては百姓共の監督不行届きということで、叱責または処罰もあるかも知れぬと考えていたからである。 ──領外で騒動が起きているがまだ領内では起きていない。この訴状、なんとか他村から出た後にすることはできないものか。 その時間稼ぎの思いが、次の言葉となった。「善右衛門、この文中、藩の対応についても言及しているが、これでは如何にも不穏当。これを外して、お前たちの願いという形をとった方が、穏便に行くと思うが・・・」「外してでございますか?」「うむ、藩に対してこのような批判がましいことを申し上げては、丸く治まるべきものも治まらぬかも知れぬ」「しかし庄屋様、私どもはすでに食べるに米無く、このままでは村から餓死者が出るかも知れません。何とか早急に手を打って頂きたく、言葉がきつくなったのは申し訳ありませんでしたが、何とか事情を藩にお知らせするのが目的でございます。決して他意はございません」 善右衛門は深々と頭を下げてそう言った。「それについてはよく分かっている。しかし言葉というものは使い方次第、使いようによっては丸いものでも角が立つ。だから恐ろしいのだ。そこの所をよくわきまえて、書き直せ。悪いことは言わん」「・・・」「とにかくこの訴状は預かっておく。皆でよく考えて書き直して来い。分かったな?」 この庄屋の返事の内容では、凶作から村を守ることができないと考えた善右衛門は、田沢村の宗右衛門、東新殿村の寿右衛門に相談を持ちかけた。この天候で晩稲は全滅、野菜も、栗も不作となった。米は一升銭三百になり、富者は飢え、貧者は先に死んだ。翌春になってからでは、たとえ千金を用いても五穀を買うことが出来ないと思われた。それを見て、庄屋は糠、松皮、葛根、野草の食べ方までを教えていた。(常慶寺発行パンフレットより)。 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.10.01
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1