三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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海軍元帥・伊東祐亨 伊東祐亨(すけゆき)は、天保十四年(1834年)、薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下の清水馬場町に生まれました。今の宮崎県日南市にあった飫肥藩主、伊東氏に連なる名門の出身です。日向伊東氏と日向国との関係は、『曽我兄弟の仇討ち』で殺された工藤祐経の子の伊東佑時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて諸家を下向させたことがはじまりです。伊東氏が日向を支配するようになったのは、建武二年(1335年)、足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からです。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子(あかばしとうし)の所領であった今の宮崎市の穆佐院(むかさいん)を守るため、今の宮崎県西都市にあった都於郡(とのこおり)に300町を賜ったと言われています。祐持は国大将として、下向した畠山直顕(ただあき)に属して日向国内の南朝方と戦っています。征西将軍に任じられた後醍醐天皇の皇子懐良(かねなが)親王が御在所の称である征西府の拡大、観応の擾乱など情勢が変わるたびに国内は混乱したのですが、日向伊東氏は基本的に北朝方の立場を守り、幕府に忠節を尽くしています。息子の祐重(すけしげ)も足利尊氏から諱(いみな)を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名しています。 日向伊東氏は、南北朝時代までは守護職である島津氏に対して、国衆(くにしゅう)、または国方(くにかた)と呼ばれていました。しかし、その島津家が、庶流を巻き込んで内紛状態になり、その関係性が消滅するのです。 木崎原の戦いは、元亀三年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)で伊東義祐と島津義弘の間で行われた合戦です、しかし、眼前の島津軍劣勢との誤った判断から決戦の機会を失った義祐は、この間にノロシにより吉田、馬関田、吉松郷および北薩の各地から急ぎ集まった島津軍に包囲され、一大激戦を交えました。島津・伊東両氏は、この一戦を境として、その後、島津氏は日向、大隅、薩摩制圧の夢を果たし、一方、伊東氏は居城都於郡(とのこおり)を追われ衰退の一途をたどるということになります。しかしその後、伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉の九州平定に参加し、秀吉軍の先導役を務め上げた功績によって飫肥の地を取り戻し、近世大名として復帰を成し遂げたものです。 ところで、今夜の伊東祐亨の話に至るまでに、天正十年(1582年)に行われた天正遣欧少年使節の伊東祐益、いわゆる伊東マンショ、天正十六年(1588年)に伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前、そして万治三年(1660年)、伊達騒動に巻き込まれた伊東七十郎と、いずれもその祖を、郡山最初の領主・伊東祐長の父としています。この先祖が同じということもあって、これらの人々の話の中には、重複する場面が少なくありません。ご了承願います。 ではここで、伊東祐亨の話に戻ります。祐亨は、開成所においてイギリスの学問を学びました。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このときに祐亨は、海軍に興味を持ったと言われています。江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)のもとで砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学び、薩英戦争にも従軍しています。鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件では江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍しています。 明治維新後は、海軍に入り、明治四年に海軍大尉に任官。明治十年には、装甲巡洋艦『日進』の艦長に就任しました。明治十五年には海軍大佐に任官、木造鉄帯装甲艦の『龍驤』、甲鉄艦『扶桑』、さらには『比叡』の艦長を歴任し、明治十八年には、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられました。同年イギリスで建造中であった防護巡洋艦『浪速』の回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられ、明治十九年には海軍少将となりました。そののち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治二十五年には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官兼海軍将官会議議員を拝命。明治二十六年に常備艦隊長官を拝命し、明治二十七年の日清戦争に際しては、初代連合艦隊司令長官を拝命しています。 明治二十七年七月に勃発した日清戦争において、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊との間の黄海海戦では、戦前の予想を覆し、圧倒的有利であった清国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保しました。この時の日本側の旗艦「松島」の4217トンに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220トンと、倍近い差があったのです。この戦いは、日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点となったのです。清国艦隊はその後も抵抗を続けましたが陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治二十八年に山東半島の威海衛で北洋艦隊は降伏しましたが、丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げています。伊東は没収した艦船の中から商船の『康済号』を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことがタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめたと言われます。 日清戦争後は子爵に列せられ、軍令部長を務めて、明治三十一年には海軍大将に進みました。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治三十八年の終戦の後は、元帥に任じられました。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしています。明治四十年、祐亨は伯爵に叙せられ、従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与されています。大正三年に死去。腎臓炎のための70歳でした。通称は四郎左衛門。家紋は庵木瓜(いおりにもっこう)で、郡山最初の領主・伊東佑長に連なるものでした。この伊東氏に脈々と続く人脈に、ただ脱帽するのみです。
2023.08.20
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樅の木は残った 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動、いわゆる『伊達騒動』を題材にしたものです。『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで、従来は悪人とされてきた原田甲斐を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描き、新しい解釈を加えたものです。この小説は、昭和四十五年に放映されたNHKの大河ドラマになっていますので、ご記憶にある方も多いと思われます。 ここに出てくる伊東七十郎重孝の先祖は、郡山最初の領主・伊東祐長からはじまったとされています。そして戦国時代になって、安積にあった伊東氏は、仙台・伊達氏の麾下に属していましたが、天正十六年(1588年)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍の攻撃に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東祐長より14代目の伊東肥前重信が政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られて壮烈な戦死を遂げたという武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にをした地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、その碑は現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、この合戦の際の伊達軍の前哨基地であったとされる所です。 伊東七十郎重孝は、この伊東肥前重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、さらに京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃(おびつ)与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で七十郎は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。 さて本題の伊達騒動は、江戸時代の前期に仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、日本三大お家騒動と呼ばれる事件の一つでした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌めたのですが聞き入れられず、やむを得ず親族と家臣との連名で、幕府に綱宗の隠居と嫡子の亀千代の家督相続を願い出たのです。そこで幕府は、21歳であった綱宗を強制的に隠居させ、それを継ぐ4代藩主に、わずか二歳の亀千代を伊達綱村として相続させたのです。 ところが幼い綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と仙台藩家老の原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横の限りを尽くすようになったのです。伊東七十郎は伊達家の安泰を図ろうとして、権勢を振るう伊達宗勝を討つことを本家筋の伊東重門と謀ったのです。しかし仙台藩の家老であった伊東重門は、二歳の藩主・伊達綱村の後見役となっていた伊達宗勝と岩沼藩主の田村宗良に、叛逆をしないという誓書を書かせるのには成功したのですが、まもなく重門は病に倒れ、後事を分家の七十郎に託して死去したのです。ところが、この伊達家を乗っ取ろうとした伊達宗勝に対し、これを阻もうとした七十郎の計画が事前に漏れて、捕縛されてしまったのです。 七十郎は、入牢の日より33日の間絶食をして抗議したのですが、許されることはありませんでした。処刑の日が近づいたのを知った七十郎は、『人の心は、肉体があるから物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない』と書き残しています。この言葉の出典は中国の書経(しょきょう)であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものとされます。こう書き残した四日後の寛文八年(1668年)四月二十八日、七十郎は死罪を申し渡され、『我が霊魂、三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、米ヶ袋の刑場で処刑されたのです。 七十郎は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神の御魂が宿ると知れ。われは三年のうちに疫病神となって必ず伊達宗勝殿を亡すべし」と言ったというのですが、それを聞いての恐れのためか、万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れなかったという。そこで七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧みて、「あわてるな、心を鎮めて斬られよ」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で七十郎の首を斬り落としたというのですが、同時に七十郎が言った通りに、体が天を仰いだといわれます。その後の七十郎の一族は、御預け・切腹・流罪・追放などとなっています。七十郎の遺骸は、いまの仙台市若林区新寺の阿弥陀寺に葬られました。後になって処刑役の万右衛門は、七十郎が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、七十郎の霊を祀ったとも伝えられています。 のちになって七十郎の遺骸は、伊東家の菩提寺である、いまの仙台市若林区連坊の栽松院に墓が造られました。法名は鉄叟全機居士です。栽松院は、仙台藩初代藩主伊達政宗の祖母の久保姫、(のちの栽松院)の菩提供養のために、慶長八年(1603年)、政宗が建立した位牌寺で、ここには多くの伊達家臣の墓もあり、この地に残るシラカシの古木は、伊達政宗が毎日遥拝した樫の木と伝えられています。七十郎の死の三年後の寛文十一年(1671年)、原田甲斐の弁明が退けられ、伊達宗勝一派の施政が咎められることになりました。そこで不利な立場に立たされた原田甲斐は、仙台藩老中の酒井雅楽頭の屋敷の控えの間において、背後から突然、伊達宗勝の側であった伊達安芸に斬りつけました。不意をつかれた伊達安芸は、負傷しながらも刀を抜いて応戦したのですが、深手を負ってその場で絶命しました。 騒ぎを聞いて駆けつけた柴田の聞役・蜂屋可広(よしひろ)が原田甲斐を斬り、その後になって、伊達兵部は土佐に流されました。その結果、七十郎の名誉は回復されてその忠烈が称えられ、四代藩主の伊達綱村により伊東家は再興したのです。 いま七十郎の墓石の中央の戒名が刻まれている部分が少しくぼんでいますが。ここには当初は、『罪人』であることが刻まれていたのですが、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻まれたと伝えられています。 七十郎の墓に並んで、父・重村と兄・重頼の墓もあります。のちにこの裁断を下した板倉重昌は福島藩に転封され、いまの福島市杉妻町の板倉神社に祀られました。福島市では、重昌の訃報が届いた一月七日に門松を片ずける習わしが、今も続いています。なお明治三十年、仙台市太白区向山の愛宕神社境内の神門の前、愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎の遺骸が発見されました。遺骸は、伊達一族の菩提寺である裁松院に葬られていたのですが、明治四十年に発見された場所に、二百四十回忌の招魂碑が建立されました。しかし後にこの碑は愛宕神社に移されています。 この伊東七十郎の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた七十郎の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正や悪政が明るみに出ることとなり、宗勝一派が処分されることで伊達家が安泰となり、七十郎の忠烈が称えられたのです。また、当時の人々が刑場の近くに七十郎の供養のため建立したいまの仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で地蔵尊を縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に七十郎神社が創建され、その霊が祀られています。 なお七十郎には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の七十郎の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎は、郡山とは深い関係のあった人でした。 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713年)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、その後の重要な作品として、安永六年(1777年)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785年)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。現在、歌舞伎は伝統芸能の一つとして、昭和四十年に重要無形文化財に指定されています。なおこの時の仙台藩主の伊達綱村は、参勤交代などで郡山を通った時には、七十郎の三代前と思われ、しかも伊達政宗の身代わりとなって戦死した伊東肥前重信の碑に、必ず足を止めてぬかずいたと言われます。これには、七十郎の功績を讃える気持ちもあったのかもしれません。 ところで、山本周五郎の『樅ノ木は残った』に戻ってみます。 お家騒動の発端以後、ひたすらに耐え忍ぶことを貫き通した原田甲斐。私利私欲のためでもなく、名誉のためでもなく、ただただ伊達藩とそこに属する人々を守るために、彼は進んで悪名を被り、そうすることで黒幕の懐深くへ入り込む。甲斐にとって更に修羅場なのは、かつて甲斐と親しくしていた者たちが、非業の死を遂げていくことである。伊達兵部は、自分の邪魔をする者に対して、容赦することはなかった。部屋住みだが甲斐と親しかった伊東七十郎は、彼と絶交した後、兵部の暗殺を計画するが、家来の鷺坂靱負の裏切りにより捕らえられる。そして七十郎の一族は、共々罪死する。原田甲斐は道を違えて以降、この血気盛んな若い志士の七十郎とは、最後までわかり合うことができず、甲斐もまた、七十郎の死を止めることができなかった。 このNHKの大河ドラマ、『樅の木が残った』において伊東七十郎役を演じたのは、伊吹吾郎でした。いま、船岡城址公園の遊歩道を『樅の木が残った』の舞台となった『樅の木』を目指して行くと、左手に『伊東七十郎辞世の碑』があります。『いつの世でも、真実国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛坊、人の眼につかず名も表れないところに働いている力なのだ』 著者の山本周五郎が一番伝えたかったのは、この一文にあったのかも知れません。
2023.08.14
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天正遣欧少年使節 天正年中、九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信は、彼らの名代をローマへ派遣することになりました。4名の少年を中心とした、いわゆる『天正遣欧少年使節』です。そのメンバーには、セミナリヨで学んでいた伊東祐益(すけます)を含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられたのです。大友宗麟は自分の名代として、祐益を選びました。伊東祐益は、永禄十二年(1569年)の頃、今の宮崎県西都市の都於郡城(とのこおりじょう)にて、伊東祐青(すけはる)と母である伊東義祐の娘の間に生まれました。しかも祐益は、遣欧少年使節の主席正使となったのです。これは祐益が宗麟の姪の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係もあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったのですが、このとき祐勝は、今の近江八幡市安土町にいて出発に間にあわず、祐益が代役となったとも言われます。 天正十年(1582年)二月二十日、使節の一行は目的地ローマを目指し、長崎港を出発しました。生還率50%以下という大航海時代でした。この時、少年使節の一員であった千々石(ちぢわ)紀員(のりかず)の母親は「無事に帰国することは叶わないでしょう。すでに覚悟は決めています。」と語ったと言われます。 安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員で、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍していたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節派遣を計画し、実施した人です。ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明しています。 第一、ローマ教皇と、スペインとポルトガルの両王に、日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。 第二、日本の少年たちにヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光と偉大さを、彼ら自身に語らせるこ とにより、布教に役立てたい。ということだったのです。 天正遣欧使節の4名と随員8名は、マカオ、マラッカ、インドのコチン 、セントヘレナ島を経て、ポルトガルのリスボンに到着しました。のちに伊達政宗が派遣した支倉常長の慶長遣欧使節が、約一年でヨーロッパに到達しているのに対し、天正遣欧使節は二年半もかかっていたのです。リスボンに着いた一行は、当時の超大国であったスペインの首都マドリードを訪問、海路にて現在のイタリアのトスカーナ州にあったトスカーナ公国に上陸してローマ教皇領のバチカンに入りました。キリスト教総本山のバチカンでは、東の果ての国からキリストの教えを乞うてきたとして、大歓迎を受けたのですが、それに至る道のりは、苦労の連続だったのです。ローマから復路は、イタリア国内で拮抗していた有力諸侯のもとを歴訪し、再び海路でスペインに戻ってからリスボンへと帰着したのです。 『天正遣欧使節記』または『遣欧使節対話録』の中に、4名の少年たちの生きた声として引用されているのが『デ・サンデ天正遣欧使節記』ですが、これはヨーロッパに行って日本を留守にしていた少年使節と、日本にいた従兄弟の対話録として著述されているのです。しかしこれは、両者の対話が不可能であることから、フィクションとされています。歴史学で使われる一次資料としては、大名および少年使節からの書簡、各国使節の報告書簡、会議録、会計帳簿等がありますが、これらを集めて分析した歴史学者の記録と『天正遣欧使節記』は厳密に区別されており、『デ・サンデ天正遣欧使節記』に記述された少年たちの対話録や目撃証言は、ヴァリニャーノが伝えようとした虚構と考えられているそうです。使節の少年たちの正確な生年月日は不明ですが、派遣当時の年齢は13歳から14歳とされ、14歳の中浦ジュリアンが最年長で、原マルティノが最年少と言われています。 リスボンから帰国する時のエピソードになりますが、少なからぬ日本人が帰りの船旅の長さに恐れをなし、使節団の一員として来訪したまま現地に留まった者がいたそうです。英語では日本のことをジャパンと言いますが、スペイン語ではハポンと言います。スペインのセビリアの近くに、日本の侍の子孫とされる人々が暮らす町、『コリア・デル・リオ』があります。ここには、慶長遣欧使節が滞在していたことから、その子孫であるとし、しかも『日本』を意味するハポンという苗字を持つスペイン人が約600人も暮らしています。この町の教会にある洗礼台帳のうち、1604年から1665年までの洗礼記録は失われているため、この間の手掛かりはありません。しかしこの教会に残る最古のハポン姓の人物の記録は、1667年のフアン・マルティン・ハポンとマグダレナ・デ・カストロの娘カタリナ・ハポン・デ・カストロの洗礼の記録です。なおこの町の河岸(かわぎし)には支倉常長の像が立てられ、市役所には日の丸が掲げられています。この町は、我々日本人にとって実に興味深い町であると思っています。 天正遣欧少年使節は、天正十八年(1590年)に帰国しました。この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語の書物の活版印刷が初めて行われて、キリシタン版と呼ばれました。しかし苦労をして帰国した少年使節4人の運命は、その後の徳川幕府によるキリシタン禁制により、過酷なものとなってしまいました。おそらくこの幕府による禁制は、西国の大名たちが貿易を通じて近代的武器を購入して軍備を増強するのではないかと恐れていたこと、そしてキリシタンが教える人間の平等が、幕府の士農工商などの差別的政策に合わなかったためではなかったかと想像されます。伊東祐益、洗礼名マンショは、後に司祭に任じられたのですが、慶長十七年(1612年)長崎で死去しています。千々石ミゲルは、後に棄教してキリスト教から離れました。副使の中浦ジュリアンは、後年、司祭になったのですが、キリシタン禁制の下で二十数年にわたって地下活動を続けています。しかし寛永十年(1633年)、長崎で穴吊りにされて殉教しました。平成十九年に福者に列せられています。副使の原マルティノは、後年、司祭に叙階はしたものの、寛永六年(1629年)、追放先のマカオで死去しました。彼らは皆、いまの長崎県南島原市北有馬町にあったセミナリヨという初等神学校の生徒でした。 ところで、マカオと言えば、観光の目玉となっている『聖ポール天主堂』の壁面があります。16世紀当時、アジアで一番大きく美しい礼拝堂だったそうですが、1835年の火事で正面の壁と階段の一部だけが残りました。正面の壁には多くの漢字が彫られており、これらにの建設には、日本人キリシタンが関わったとされています。当時の日本では禁教令が出たため、国外追放された多くの日本人キリシタンが、マカオに逃れ住んでいたそうです。原マルティノも、ここに逃れたものと思われています。
2023.08.01
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伊東氏、キリスト教と出会う 伊東祐長の兄の伊東祐時は、日向国の地頭職を与えられています。それが、南北朝の時代になってからですが、祐時の後裔にあたる祐持が、今の宮崎県西都市都於郡(とのこおり)に所領を与えられ、都於郡城を築きました。伊東氏は、この都於郡城を拠点に勢力を拡大し、俗に『伊東四十八城』と呼ばれる支城網を築き上げ、日向一国の支配に乗り出したのですが、それを阻んだのが薩摩の島津義久でした。こうした島津氏の進出に対し、伊東義祐(よしすけ)は抵抗を続けたものの、元亀三年(1572年)、今の宮崎県えびの市の木崎原の戦いで島津氏に大敗してしまいました。この木崎原に陣を構えて敗れたのが伊東祐青(すけはる)で、次の戦いの綾城が落城した際に戦死しています。綾城は、今の宮崎県綾町にあった城です。 天正五年(1577年)、都於郡城を落とされた伊東義祐は一族を引き連れ、姻戚にあたる大友宗麟を頼って豊後に逃れました。豊後に逃れてきた伊東氏の一族を、九州での大勢力であった大友宗麟が庇護し、伊東氏の旧領を回復するという大義名分によって日向へと侵攻していったのです。しかし天正六年(1578年)、今の宮崎県中央部の耳川の戦いで、大友氏は島津氏に大敗を喫したのです。これによって大友氏の勢威は著しく衰退し、伊東氏の旧領回復は絶望的となってしまったのです。そしてこれら伊東一族を庇護した大友宗麟は、キリシタン大名だったのです。当時の領民の多くが、領主である大友宗麟の影響を受けて、キリシタンとなっていきました。綾城が落城した際に戦死した伊東祐青(すけはる)には、祐益・祐平など4人の子どもがいましたが、この影響を強く受けていったと思われます。 最初のキリシタン大名は、永禄六年(1563年)年に洗礼を受けた肥前国の大村純忠(すみただ)であると言われています。当時のヨーロッパでは、宗教改革によるプロテスタントの動きが活発でしたが、カトリック側も勢力の挽回をはかり、アジアでの布教に力を入れる修道会が数多くあったのです。イエズス会もその1つで、ザビエルは日本滞在期間2年3ヵ月で、約700名を改宗させたと言われます。キリスト教宣教師たちは、布教のためには日本の習慣や生活様式に従うことが重要であると考え、日本語や日本文化を熱心に研究していました。教会も従来の仏教寺院を改造したものが多く、新たに作られた教会も、日本の建築様式を重視して木造・瓦葺きで作られたのです。仏教が浸透している日本に、突然西洋の教会を建設したのでは日本人の警戒心を強めてしまうだけと考えたようです。教会は南蛮寺と呼ばれたように、日本人になじみの深い「お寺」を教会にすることで、日本人のキリスト教に対する警戒心を解こうとしたと思われます。 時代を30年ほど遡ります。天文十七年(1549年)、ポルトガルのキリスト教宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌年に長崎県の平戸で布教をはじめました。そしてこの頃、現在の長崎県大村城の領主 大村純忠(すみただ)が、キリスト教に入信したのです。大村純忠はポルトガルとの貿易をするために、今の長崎県西海市横瀬と長崎県諫早市福田の二つを開港しました。そして天正七年(1579年) 、イエズス会の布教先の状況を視察する役割の巡察師、ヴァリニャーノが、長崎県島原半島の口之津に来航したのです。翌年、大村純忠が、カトリック修道会イエズス会に長崎と茂木の土地を寄進したことで、領内には多くの教会が建てられるようになりました。南蛮船の寄港、町を行き交う南蛮人、領内に建つ教会。こうして長崎は、『日本のローマ』と称されるほどの国際都市へと発展していったのです。大村純忠はキリスト教の教えに従って側室を離縁し、正室との結婚式を挙げ直しました。そして領内の神社仏閣を、さらには領民の先祖の墓まで破壊させたのです。その上で僧侶や神主を殺害し、改宗しない領民までも殺したのです。これは、キリスト教の教えに傾倒したからではなく、一言で言うと、キリスト教に隠れて『恐怖政治』を強行していたのです。しかしヴァリニャーノは、領民たちが、貿易の利益が目当てで入信した領主によって、強制的に改宗させられていたことを見抜いていました。九州のキリシタン大名らは、神の教えより、貿易による利益と武器の確保を望んでいたのです。 こうした状況に目をつぶりながらも、ヴァリニャーノは、日本でのキリスト教の布教活動を推し進めていきました。しかしそれは強制によってではなく、本当の信仰心を高めるため、その布教活動の一環として、日本人による使節をヨーロッパに派遣して世界を見せ、彼らを司祭に登用することで、日本人による日本での布教を推し進めようと考えたのです。天正九年(1581年)当時の日本のキリスト教の教徒数は約15万人、慶長五年(1600年)頃は約30万人、慶長十年(1614年)は約37万人でしたが、この年に発せられた禁教令以前には、九州の多くの有力者たちが、キリシタンとなっていたのです。しかし宗教界では、カトリックは、プロテスタントの勢力の下になっていました。ヴァリニャーノには、なんとかそれを、跳ね返そうとする考えがありました。それが、『遣欧少年使節』の派遣だったのです。
2023.07.20
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物見台と桃見台 さてここで、ちょっとウンチクを傾けてみましょう。ただしこれには、想像も入っていますから、『史実である』とばかりは、思わないで頂きたいと思います。まず久保田合戦の陣立てですが、政宗はその本陣を、今の日東紡富久山工場の向かいの人家の密集する中にある、小十郎坦に置いたようです。片倉小十郎は、『智』と『武』を兼ね備えた、政宗の右腕といわれた人物です。政宗と小十郎は、ここから前線に近い、今の富久山町久保田の日吉神社の陣営に督戦や視察に出掛けていたと思われます。視察のルートは、日吉神社から西の高台の久保田三御堂あたりかと思われます。ここから眼下に、敵の舘と思われる、いまの並木一丁目の茶臼舘がよく観察できる場所だったのです。さあここで、ちょっと説明が必要ですね。今のベニマル富久山店前の国道4号線は切り通しで造成したので、元の市道の高さでつなぐために、陸橋が掛けられたのです。それから茶臼舘です。ここは現在、桜木一丁目となっていますが、うねめ通りの両側が高台になっています。ここでうねめ通りが上り坂になっているのは、ここも切り通しだからです。昔この辺りは、『幕の内』と呼ばれていました。それは茶臼舘の敷地内であったからと思われ、その西側には、『西の内』の地名が残されています。恐らくこれは、幕の内の西を表したものであろうと推測できます。そしてもう一つあったという地名の『幕の外』はなくなりましたが、今の桜木一丁目から久保田字伊賀河原の郡山警察署宿舎前に架かる『幕の外橋』に、その片鱗が残されています。 茶臼舘は、沼舘愛三著の『会津・仙道・海道地方諸城の研究』によると、稲荷舘とも呼ばれていたようです。なお稲荷舘は、この茶臼舘よりそう遠くないJR郡山駅近くにもあったため、識者でもどちらが戦いに関わった舘か結論が出ないでいます。ところで、この茶臼舘の北には逢瀬川が流れ、舘の西側を南から水無川が、舘の東側を南から夜討川が逢瀬川に注いでいます。ただし今は、どちらの川も暗渠になっています。地図で見ても、『西の内』を含んでいたと思われますから、茶臼舘は、結構大きな舘であったと想像できます。三方が川でしたからそれなりの防御力は備えていたと考えられるのですが、南には何も防御の施設がなかったようなのです。 私がここに館があったのではないかと思う理由は、茶臼舘という地名があることと、さらに『西の内』という地名、そして今の太田西ノ内病院の近くに、三島神社が祀られていることにあります。この神社は、安積郡を賜った伊東祐長が、自身の生まれた地であった伊豆の地から守り神として勧請した神社ではないかと考えられるからです。この三島神社は、先ほど説明した三つの川に囲まれた内側にあるのです。つまりそれらの川が、茶臼館の範囲であり、防衛ラインになっていたのではないかと想像したのです。しかしもしそうであるとすると、気になるのは、川がないため防衛に弱いのではないかと思われる茶臼舘の南側です。どうも素人の私が見た範囲では、茶臼舘の南側に、空堀などの防衛の施設の跡のようなものがないように思えたのです。ところが不思議と、茶臼館の南側にあたる咲田町2丁目に、急激に下がった地形があるのです。ご存知でしょうか? 私はそれが防衛線かと思ったのですが、聞くところによると、郡山に鉄道が引かれた際、駅周辺が低地だったので、ここの土を掘っていって埋め立てたというのです。ところで現在、夜討川の一部は暗渠化しており、また水無川は全面的に暗渠化していますから、見たところ、川があったことが分かりません。ちなみに夜討川の一部は、『せせらぎ小径』として、水辺を生かした郡山市の公園となっています。 これらもあって、私が現地を歩いていて桃見台という町名で、ハッと気がついたのです。ひょっとして桃見台は、物見台が変化した地名ではなかったかと。私はここに、茶臼館の見張りや防御施設としての『物見台』があったのではないかと想像したのです。しかしこれは、単なる私の想像に過ぎませんでしたから、大っぴらに言えないなと思っていました。ところがあるとき、郡山地方史研究会の高橋康彦さんより、陸軍第二仙台師団参謀本部が、明治の初期に制作した福島県中通りの地図の郡山の中に、『モノミ台』と片仮名で書いてあるのを見せられたのです。位置は、今の桃見台です。私は自分の想像が事実であったので、鬼の首を取ったような気分だったのですが、ある史家にこう言われました。「あのころの地図には、間違えて書かれている地名が多いのです。」そう言われて私は頭を抱えました。しかし良く考えてみると、昔使われていた地名を、後世の人たちが語呂や文字を変えて使った例は、市内にも散見できます。そしてこの陸軍第二仙台師団参謀本部に作られた地図に『モノミ台』の地名が存在することから、少なくとも明治の初期までは、地元の人たちは今の『桃見台』を『モノミ台』と呼んでいたであろうことが想像できます。私は、『桃見台』という地名は、『モノミ台』から変化したものではないかと思っています。 この想像、皆さんはどう思われますか?
2023.07.10
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逢瀬川の戦い 去る日、私は郡山地方史研究会による、伊達郡国見町へのバス旅行に参加しました。実はその行程の中に、『安積屋敷』の見学があったからであり、なぜ国見町に安積屋敷があるのかと疑問に思ったからです。そのとき、国見町の歴史家である菊池利雄さんが、案内と説明に立ってくれました。そして頂いた昭和六十三年十月十五日付の『広報くにみ(No184)』に掲載されていた、『ふるさとの文化財35 安積屋敷跡(前田舘)菊池利雄』というパンフレットに、次のように記されていたのです。この文章を要約してみます。 『安積氏は伊東あるいは工藤とも称し、工藤左衛門尉祐経の次男伊東祐長を祖とし、承久の乱の戦功として鎌倉将軍藤原頼経(よりつね)より、奥州の安積郡に四十五邑を賜って来住し、姓を安積氏と改めた。室町時代のはじめ頃、伊東祐長九世の後裔の祐時は、伊達氏十一代の伊達持宗に仕えてその麾下に属した。天文二十二年(1553年)、伊達氏十五代の伊達晴宗は本拠地を西山城、いまの桑折町から米沢に城を移し、南奥羽の中心的存在になった。一方、祐長十四代の伊東肥前重信は、若年にして父に死別したが伊達晴宗によって所領が安堵された。次いで伊東肥前重信は、伊達晴宗・政宗の父子に仕えたが、天正十三年(1585年)十月、政宗が佐竹・蘆名氏などの連合軍と戦った際に人取橋の戦いに戦功をあげ、天正十六年、郡山の夜討川の戦いにおいて戦死した。この戦いに伊東肥前重信が出陣して行ったのは、この舘からであろう。天文二十二年(1553)正月、伊達晴宗が重信に与えた『所領安堵状』の中に、『伊達郡前田(現国見町小坂)ノ内、屋敷手作・・・がある。(中略)これらのことから肥前が本拠としたのは、この前田舘とみてまず間違いがなかろう。この肥前は、祐長から数えて14代目とされている』とありました。 ところで天正十三年(1585年)、伊達政宗は、安達の針道にある大内定綱の小手森(おてのもり)城を攻めました。定綱は政宗に味方すると言いながら裏切ったのです、しかし伊達勢が迫る中、定綱は後の守りを側近たちに任せて、本城である二本松城に逃げ出したのです。怒った政宗は、陥落させた小手森城で、『撫で斬り』と言われる大虐殺を行ないました。その内容は、政宗の叔父である最上義光に宛てた書状に告白されています。『大内定綱に直属する者を500人以上討ち捕りました。そのほか女子供だけでなく犬までも撫で斬りにしました。合計1000人以上を切らせました』つまり城内にいた大内家の家臣と奉公人のほか、動物まで殺したというのです。なおこの様子は、昭和六十二年に放映されたNHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』の『八百人斬り』に描かれています。 その三年後、佐竹、相馬、蘆名の連合軍が、二本松救援を名目にして、郡山方面に向かって兵を進めてきました。それを迎え撃った伊達と田村の連軍は、逢瀬川周辺で激突したのです。しかし政宗は、北の大崎氏との抗争が継続していたため兵力の集中できず、軍勢の数では蘆名、佐竹、相馬方と比べて非常に劣っていたのです。政宗記によれば連合軍は約八千騎、伊達、田村勢は約六百騎と記録されています。政宗はその本陣を、いまの富久山町福原字陣場の小十郎坦に置き、先鋒を久保田の山王館、いまの日吉神社に置きました。 七月、久保田を守っていた伊達勢の前方を蘆名方の部隊が通過しました。それを伊達勢が深追いをし過ぎて、蘆名勢に囲まれてしまったのです。伊東肥前が30騎余でこれの救援に向かったのですが、ここで政宗を助けるための身代わりとなって戦死をしたのです。ここでの戦いが、いわゆる『久保田合戦』、ですが、通称は郡山合戦です。しかし古くは、『夜討川の戦い』と言われていました。この『夜討川の戦い』と言われたということは、夜討川の周辺の戦いであったことを示唆していると思われます。いずれこの戦いは郡山が主戦場になっていますから、私は、伊東肥前は伊東祐長の末裔ですから安積郡に住んでいたとばかり思っていたのです。そのことがあって、国見町への旅行に参加したのです。 私は、吾妻鏡を調べてみました。すると、宝治元年(1247年)五月十四日の項に、『御台所左々目谷の故武州禅室経時(つねとき)の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服を着け供養す』とあり、その中に、『駿河の九郎・千葉の八郎・安積新左衛門』の名があったのです。ところが『広報くにみ』では、安積金四郎、または新左衛門、さらには伊東肥前が同一人としているのですが、吾妻鏡にある安積新左衛門は1247年の人であり、『広報くにみ』では1553年に伊達晴宗が伊東肥前に屋敷を与えたとあるのです。どうも年代が合いません。しかし歴史上、天正十六年の、『夜討川の戦い』で戦死したという部分は、『広報くにみ』と合致しています。ともあれ、菊池利雄さんの論文によると、『重信が出陣して行ったのは、この舘、つまり今の国見町からであろう』としているのですが、私には、どうも国見から郡山の戦場までの距離が遠過ぎるように思われたのです。しかし伊達晴宗が肥前に与えた『所領安堵状』から類推すると、肥前は国見から出陣したと説が正しいと思われます。 さて肥前の戦死後のことになりますが、仙台藩第4代の藩主伊達綱村によって、肥前を称える碑が建てられました。この碑は、陣所が置かれた日吉神社に『伊東肥前の碑』として現在も残り、郡山市指定文化財に指定されています。この碑の前に立つ案内板を、紹介します。 『伊東肥前は、手兵30余騎と共に伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後、参勤交代の途上;必ずここに駕をとめ香華を手向けたと言われる。尚この碑は逢瀬川の北にあったが水害で崩壊したので天文五年(1740年)に現在の郡山機関区付近に移されていたが、昭和15年10月に改修、同32年1月に機関区構内に移されていたが、同45年10月県道拡張に伴い、伊達家本陣と言われるこの地に移された』(郡山市観光協会) そして万延元年(1791年)に亡くなった郡山出身の朱子学者・安積艮斎は、七言絶句を作っています。 川原吊古獨傷情・川原古(いにしえ)を吊(とぶら)ひ独り情を傷ましむ 一片殘碑苔暈生・一片の残碑 苔暈(たいうん) 後世莫憂文字滅・後世憂ふる莫かれ文字の滅するを 忠臣埋骨不埋名・忠臣骨を埋むるも名は埋れず
2023.07.01
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四つの苗字 前回の『イラク日本人人質事件』に続きます。・私は、図書館に行って宮崎県の電話帳を見てみました。ところがなんと、宮崎県には多くの郡山さんばかりか安積さんが住んでいたのが分かったのです。「う〜ん。これは一体どうしたことか?」そうは思いましいたが、この苗字からだけでは、郡山さん、そして安積さんが、安積の伊東氏との関係者、もしくはここの郡山の出身者であると肯定する訳にはいきません。そこで調べていて、幕末まで続いていた宮崎県日南市飫肥にあった飫肥藩主が、伊東祐帰(すけより)であったということでした。伊東の苗字と佑の文字に惹かれてさらに調べてみましたら、伊豆の伊東氏が先祖だと記されていたのです。一説に、祐長は郡山に来てから伊東に姓を変えたとも言われます。そしてそこには、岡山県真備町岡田にあった岡田藩が、同じ先祖であると書いてあったのです。そこで岡田藩を調べてみました。すると、幕末最後の藩主の名が、伊東長□(ながとし)、『とし』の字は、卆業の卆の左下に百、右下に千を書くとあったのです。そしてこの面倒な文字のトシの字はともかくとしても、この二つの藩主の名を比べてみると、飫肥藩の伊東氏は『祐』の文字を、また岡田藩の伊東氏は『長』の文字を通字として歴代使用していたのです。そこでこの2藩の藩主の通字を合わせてみたら、なんと『祐長』の綴りになってしまったのです。私はこれには本当に驚きました。このことは出来過ぎの感無きにしもあらずではありましたが、郡山の伊東祐長の子孫が九州や岡山に移ったという片平の常居寺の口伝の傍証になるのではないかと思いました。ここの郡山が、ついに岡山県や宮崎県にまで繋がってしまったのです。 そこまで調べてきて、私はまた電話帳に気が付きました。そこで岡山県真備町の電話帳を当たってみたのです。すると旧岡田藩の範囲に、安積さんが一人、郡山さんが二人おりました。ところがなぜか浅い香と書く浅香姓や、香る山と書く香山(こおりやま)の姓の人が結構多いのです。香る山については、ここの郡山と同じ郡山のすぐ次に出ているのですから同じ『こおりやま』の読みで、また浅香についても、ここの安積と読みが同じところにあるのです。この飫肥藩や岡田藩の歴史では、2藩とも伊豆の工藤氏とのつながりを強調しているのですが、すると、現在でもそれぞれの地元に残されている安積・浅香・郡山・香山の姓の人びととは、一体何を表しているのでしょうか? 安積、ひいては郡山との関係を無視する訳にもいかない、という意味なのでしょうか。不思議なつながりです。これらのことを考えれば、この郡山さんや安積さんたちが郡山出身者であるということを、肯定も否定する材料も、いまのところありません。ちなみに郡山市には、安積さんは電話帳にありますが、郡山さんはいないのです。 私はさらに、熊本県や鹿児島県の電話帳を繰ってみました。すると人吉市やその周辺の地域にも、安積・浅香・郡山・香山姓の人が結構多く住んでいたのです。これらのことから、もし伊佐市の郡山八幡神社が大和郡山から勧請されているものであるとしたら、直接伊豆とは関係のない安積や郡山の姓の多さは何を表しているのでしょうか? ここからも、人吉藩の相良氏と常居寺に伝わる「祐長の子を国富に派遣した」という言い伝えに、「大槻町の相楽氏も含まれていた」と考えるのは、私の考え過ぎとは思うのですが気になることではあります。付け加えれば、宮崎県日南市にあった飫肥藩主の伊東氏も岡田藩主の伊東氏も、さらには人吉藩主の相良氏も同じ先祖であるとも書いてあり、しかも鎌倉時代の初頭にそれぞれに入封したとされています。このことから私は、郡山から祐長の子が日向国へ行ったという常居寺の口伝とは時期は合う、と考えています。 古い話になります。私は学生時代に人吉に住む友人を訪ねた時に、次のような話を聞いていたのです。「現在は鹿児島県伊佐市になっているが、もともと伊佐市は人吉藩領であった。それが廃藩置県の際、人吉藩から切り離され、鹿児島県に移された。その伊佐市大口大田の郡山という所に、国指定文化財の郡山八幡神社が祀られている。郡山八幡神社は、建久五年(1194年)に創建されたと伝えられているが、それは永正四年(1507年)以前の建物で、室町及び桃山形式の手法と琉球建築の情調が強く加味されたものである。昭和二十四年に国の重要文化財に指定された。 なお現在の本殿建物は、昭和二十九年に改築されたものです。この神社は、もとは奈良の大仏殿にあった八幡神社が大和郡山に移され、さらにそれが伊佐市の郡山に移されたとも伝えられている。演技は8種類11演目あり、天狗、獅子、おかめ、山伏、太鼓、笛などの役を約80名の男性が演じます。歌や踊りはすべて口伝えで伝承されている、そこでは、年に一度の祭礼の日に、伝統芸能の『郡山棒踊り』が奉納されている。この、郡山八幡神社のある伊佐市大口の牛尾小学校では、毎年の運動会で、子どもたちが一生懸命に稽古をしてきた『郡山棒踊り』が披露されています。 のちになって思ったことは、ここの郡山市に古くから伝わっている餅つき行事の、『千本杵』のことでした。そこで伊佐市の郡山八幡神社での踊りを、インターネットで確認してみたのです。確かに伊佐市の『郡山棒踊り』は、杵を使った餅つきではなく武芸調の感じのところが多かったのですが、残念ながら、私にその棒さばきが『千本杵』と同じようであったとは思えませんでした。ただ何故『郡山』八幡神社なのか、そして『郡山棒踊り』なのかが不思議です。それでも私は、伊佐市の『郡山棒踊り』が、郡山市の『千本杵』と何らかの関連があったのではないかと気にしているのです。皆さんも、インターネットでご覧になって確認して頂ければ、幸いです。なお現在の鹿児島市内に郡山という町があるのも、不思議だと思っています。それにしても、伊東さん、相良さん、そして狩野さんの末裔の方が現在も郡山に住んでおられることも凄いと思っていますが、郡山が岡山県や宮崎県の歴史にまで繋がってしまったのにも驚いています。 ところで『相楽半右衛門伝』に、『相良荘を苗字の地とした武士に相良氏がいる。この相良氏は、元久二年(1205年)、相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、惣領家が九州へ移住した』という文脈が気になりました。そこで九州の相良氏について、インターネットで調べてみました。それによりますと、人吉の相良氏の初代は、相良長頼(1177〜1254)ですが、その20代目の相良頼房(よりふさ)(1574〜1636)は、人吉藩の初代藩主となっています。私は以前に片平の常居寺の和尚に次のような話を聞いていました。「伊豆に住んでいた伊東祐長の兄の祐時の頼みに応じて、祐長はわが子を、日向国の国富に派遣したとの言い伝えが残されています」この言い伝えから想像できることは、祐長は我が子を、一人で遠い日向国へ派遣したとは考えにくく、何人かのお供の中に相良氏が混じっていたのではないか、ということです。もしそうであるとすれば、常居寺での言い伝えは、『相楽半右衛門伝』の記述と、そして人吉の相良氏の歴史と一致する部分があることになります。不思議な一致です。
2023.06.20
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イラク日本人人質事件 2001年9月11日、複数の航空機が国際テロ組織アルカイダにハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突っ込む瞬間や、そのビルが崩れ落ちるショッキングな映像がリアルタイムで放送され、まさに世界中が震撼にさせられるテロ事件が発生しました。同時にこの事件では、アメリカ国防総省のペンタゴンの建物などにも激突、日本人24人を含む2977人が犠牲となりました、いわゆる『アメリカ同時多発テロ事件』です。そしてこれを契機に復活を図ろうとするアルカイダに対し、10月、アメリカの国防次官が、アルカイダが1〜2年で、アメリカ本土を攻撃する能力を持つ可能性がある、と指摘する警鐘を鳴らしていました。そしてそれは、主にイスラム過激派を対象とする『対テロ戦争』の時代の幕開けともなったのです。 この9・11同時多発テロ発生後、ブッシュ大統領は、当時アフガニスタンの支配勢力であったタリバーンに対し、庇護者であるオサマ・ビンラディンの引き渡しを要求しました。しかしタリバーン政権の副首相のカビールは、9・11同時多発テロがオサマ・ビンラディンによるものであるという証拠を求め、事実であれば第三国に出国させるとの返答をしたのです。しかしブッシュ大統領はカビール副首相の提案を拒否し、『不朽の自由作戦』の開始を指示しました。これによるアフガニスタン紛争は、反米テロを繰り返すアルカイダの活動拠点の破壊とタリバーン政権の転覆を試みるため、アメリカ軍と多国籍軍がアフガニスタンに侵攻したことで始まったのです。それでもこの年の末までに、タリバーンとアルカイダは、多国籍軍によってイラク国内でほぼ壊滅したとみられたのです。 ブッシュ大統領は、2002年初頭の一般教書演説において『悪の枢軸』発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難しました。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、イラク政府関連施設などの査察を繰り返し要求していました。一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にネタニヤフ首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのです。そしてその年の5月、イスラエルのペレス外相がCNNの取材に、「サダム・フセインは、同時多発テロ事件首謀者とされるビン・ラディンと同じくらい危険」と答え、シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めたのです。 2003年1月、国際連合監視検証査察委員会のブリックス委員長とIAEAのエルパラダイ事務局長は、国連安全保障理事会に調査結果の中間報告を行いました。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は見つかってはいないものの、昨年末に行われたイラク側による報告には「非常に多くの疑問点」があり、そのなかには、生物兵器や化学兵器廃棄の情報が確認されず、申告書には矛盾があるとしたのです。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議144に違反したものとして攻撃の準備を始めたのです。3月17日、ブッシュ大統領は全米に向けてテレビ演説を行い、48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じて全面攻撃の最後通牒を行い、その2日後の3月19日、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した戦いを開始したのです。ところが政権の座から追い出されていたタリバーンは、オマル師によって再編成され、この年から、多国籍軍とその傀儡とみなすアフガニスタン政府に対する反抗を開始したのです。 この戦いに、日本もまた巻き込まれることになるのです。自衛隊のイラク派遣です。しかし日本の自衛隊は、他国からの攻撃に対して自衛するのみで、ましてや他国に進出して戦うことを、憲法で禁じていたのです。そこで日本政府は、いわゆる『イラク特措法』を急遽成立させ、これに基づいて派遣をしたのです。活動の柱は、人道復興支援活動と安全確保支援活動であり、その活動は『非戦闘地域』に限定されていたのですが、「戦闘地域ではないか」との論議のある地区に陸上自衛隊をはじめて派遣したのです。 陸上自衛隊は、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市のサマーワを中心に、活動をしていました。そのような時に勃発したのが、イラク日本人人質事件だったのです。 2003年4月8日、カタールのテレビ局『アルジャジーラ』が、犯行グループから送られてきた映像を全世界に放送しました。その映像は、三人の日本人を後ろ手に縛ってひざまづかせ、パスポートを示し、首に刀を擬したショッキングなものでした。それはすでに他国の人質を公開処刑し、その映像を世界に発信したあとだったのです。犯行グループは、サマーワに駐留している自衛隊の撤退を要求していたのです。 4月10日、小泉純一郎首相は、自衛隊を撤退する意思がないことを明らかにするとともに、人質の救出に日本政府として全力をあげるよう指示しました。また、人質となった日本人3人の家族が、東京でアルジャジーラの取材に応えて人質解放を訴え、その映像が中東全域に放送されています。同日、逢沢一郎外務副大臣や、塩川実喜夫警察庁警備局国際テロリズム対策課長らが、ヨルダンの首都アンマンに派遣されました。 4月11日、武装グループからアルジャジーラに当てて、イラク・イスラム聖職者協会の求めに応えるとして、『3人の日本人を24時間以内に解放する』との内容のファックスによる声明が届いたため、日本では一時楽観ムードが漂ったのですが、期限内の解放は実現しませんでした。 4月13日、イタリア国籍の4人が別の武装グループに拘束され、イタリア軍に対してイラクから撤退が要求されました。この間にも外国人の誘拐人質事件が相次ぎ、占領行政を行う連合国暫定行政当局の発表では12か国、40人前後が人質に捕われたとされます。 4月14日、イタリアのベルルスコーニ首相は、日本と同様に撤兵を断固として拒否する声明を出していたのですが、イタリア人人質の一人の殺害が公表されました。 4月15日、日本人3名はイラク・イスラム聖職者協会の仲介もあり、何とか無事に解放されました。ところがのちに、解放の仲介をしたとされる地元有力者が殺害されています。 4月17日、拘束されていた日本人3人がバグダード市内のモスクで解放されました。それでも国内では、『裏で身代金を払った』と噂されていたのです。この時解放されたのは、高遠菜穂子、郡山総一郎、今井紀明の3人でした。 武装勢力から解放されて帰国した郡山総一郎らに対して、危険な地に自ら向かった被害者が悪い、という『自己責任論』の嵐が吹き荒れており、郡山は驚きを通り越して呆れ、「なぜ自分がイラクに行き、なぜ誘拐されたかを考えた人がどれほどいたのか。国の言う自己責任は責任転嫁でしかない」と、当時の日本政府の姿勢を批判していました。私は、この街と同じ苗字で、宮崎県佐土原町出身の郡山さんが気になったのです。 私は早速、郡山の電話帳を調べてみましたが、ところが郡山さんは、一人もいないのです。それなのに宮崎県に郡山さんがいたのです。私は、常居寺で聞いていた「伊東祐長が我が子の祐朝を、日向国の国富に派遣した」という話を思い出したのです。郡山総一郎さんの住んでいた宮崎県佐土原町は、いまの宮崎県国富町の隣町であって、その国富町は、常居寺で聞いていた日向国の国富だったのです。「ウ〜、何かあるな」私は宮崎県の歴史を調べはじめました。これは次回の、『四つ苗字』に続きます。
2023.06.10
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伊豆から来た郡山の地名 郡山という地名は、伊東氏の始祖が奈良県の大和郡山を領しており、安積に来てから郡山という地名にしたという説があります。伊東氏はその祖を藤原鎌足としているのですが、その系図によりますと、この話に出てくる伊東祐隆は16代目となるそうですから、その間は約400年あったということになります。この長い間に、伊東氏が大和郡山に住んでいた時期のあったのではないかということは、大和前司という職名からも十分に考えられます。 熱海という地名については、伊東氏、つまり伊東市との関連もあって、静岡県熱海市以外に考えようがないと思います。いずれ、この熱海という地名こそが、郡山と伊豆との関連を示す決定的かつ象徴的なものであると考えています。 熱海町に、上伊豆島・下伊豆島という字名があります。私は当初、これについては、単に伊豆地方、もしくは伊豆半島から命名されたものと考えていたのですが、東京都三宅島の中に『伊豆』という字名を見つけるに及んで、これから採ったものだと考えるようになりました。しかしなぜ上伊豆『島』・下伊豆『島』とシマがつけられたのを不思議に思っていました。そこで現地に行ってみたとき、水の張られた広い田の中に、小さな丘が点々としているのを見たのです。「ああ、それでシマを付けたのか。そう思い込んでいました。そしてある時、三宅島村伊豆にある大久保海岸が、通称、伊豆下(いずしも)海岸と呼ばれているのが分かったのです。この伊豆下と伊豆島、ここに微妙な接点を感じたのですが、果たしてこれは、どうでしょうか? やはり熱海町に、安子ヶ島という大字があります。この『島』の付く地名に、伊豆との関連を感じていたのですが分かりませんでした。ところが、郡山市立安子島小学校の学童たちが、『安子ケ島』の地名について地元の伝承を調べていたことを知ったのです。そこで学校に問い合わせをしたところ、そこでは『姉が島』が安子ヶ島になったとの説が紹介されていたのです。しかし姉が島は、文久元年(1861年)十二月、外国奉行の水野忠徳(ただのり)が、幕府の命により小笠原諸島に赴き、住んでいたアメリカ人のナサニエル・セイヴァリーら欧米系島民に対して同地が日本領であることを確認させています、東京から約1050キロの位置にあり、伊豆からは余りにも遠すぎますから、その昔の伊東氏の領地であったとは考えにくいのです。その他にも伊豆との関連を指摘する子どもたちの声は多かったのですが、具体的な関連を示唆するものはなかったのです。ところがその後、三宅島に『阿古』という字名があるのを知りました。そこで『阿古』のある島から、安子ケ島の地名になったのではないかと考えています。 熱海町高玉字富士壇は、市立熱海中学校そばの高台の地名です。周辺に富士に似た山があるのかも知れないと期待して見に行ってみたのですが、それはありませんでした。近くで農作業をしていた人に「この近所に、○○富士という名の山がありませんか?」と聞いてみたのですが、首をひねっているだけでした。しかししばらくすると「あぁ、あるわ。ずー、と向こうに三春富士(いまは田村富士ともいう)がある」と言って指で指して教えてくれたのです。澄んだ冬空の遙か東に、富士に似た形の片曽根山(田村市船引町)が意外に近く見えていました。これに似た例として、東京などに富士見坂とか富士見町などがあります。これなども富士山がよく見えることから付けられたというのです。今だからこそ、多くの人が富士山の形を知っていますが、この地名を付けたと思われるのが800年も前のことであれば、ここの地名は伊豆から来た人たちが付けたとしか考えようがありません。なおこれに関連すると思うのですが、喜久田町前田沢に字藤坦が、さらには日和田町高倉に字藤坦がありました。文字は、花の藤の台地なのです。現地に行ってみましたら、どちらからも片曽根山がよく見えたのです。これは、富士壇が花の藤坦に変化したものではないかと思っています。 片平町に木宮、木宮東、木宮南、木宮道東、木宮道西という小字が、また熱海町に木ノ宮という小字があります。これは静岡県熱海市の来宮からきたものと思われます。 富田町に大島、大島前という字名があります。また市内の町名表示が変る前、いまのおおよそ並木一丁目 並木四丁目 桑野五丁目の範囲に大島、大島向、大島東、大島前、大島上、大島下という地名があったのです。これは私は、伊豆大島から名付けられたと考えています。なお地名としては失われてしまいましたが、この地域には大島小学校、大島公民館、大島東公園、大島中央公園、大島西公園など、旧大島の字名を冠した施設があるのです。せめてこれらの公共施設の中に、大島の名を残しておいてほしいと思っています。 逢瀬町に河内という字名があります。普通この字は『かわうち』とか『かわち』または『こうち』とは読むのですが、『こうず』とは読まれません。ところで本来、伊東氏の本家であるべきであった伊東祐泰が、いまの静岡県賀茂郡河津町に住み『河津』祐泰に姓が変わっています。いま、この河津は『かわつ』と読まれますが、当時は『こうづ』と呼ばれていたのではないでしょうか。それは祐長の父の仇の姓であったために、『津』の字を『内』の字に変えたとも考えられます。またこれらの地名は、市内の久留米という地名に見られるように、伊豆から移住させられた人々が、出身地の地名を持ってきたとも想像できます。
2023.06.01
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12 伊豆から勧請された郡山の神社 伊東祐長は、たった一人で安積に移住して来たとは考えられず、家臣団を供にして連れてきたと思われます。その祐長が、出生地である伊豆の神を伴ったのは、望郷の念や伊東一族を守護してくれる神と考えたからと思います。しかし新たな支配者として郡山在来の人々を治める手段のため伊豆神々を持ち込んだと考えれば、政治的な意図もあったと思わざるを得ません。特に以前からここにいた人々とその組織が、外部から来た新しい支配者つまり伊東祐長と争うこともなく平穏のうちに引き継がれたのは、神々の力を利用したからとも推測されます。 さて伊豆から来た神社にも、多くの神社があります。ところで、いまの郡山市熱海町を含む五百川以北は安達郡でした。しかし熱海町から二本松にあった安達郡役所に行くのに、安積郡役所のある郡山で汽車を乗り換えるという不便もあって安積郡に編入され、戦後になって郡山市に合併されたという経緯がありました。この熱海町から郡山西部一帯にかけて、伊豆に関連する神社が数多く散在しています。例えば、この伊豆の名を直接冠した伊豆権現や箱根権現は、名前を見ただけで伊豆関連の神社であることが分かります。 片平町字王宮にある王宮伊豆神社には、伊豆権現、箱根権現、三島大神が祀られています。伊豆にある箱根権現は伊豆権現とともに二所権現と呼ばれ、将軍家の恒例行事が、鎌倉幕府初代の源頼朝からここで続けられていました。 熱海四丁目に温泉神社が祀られていますが、元々は伊豆熱海温泉の湯の神で、豊かに湧く湯に感謝して発展を願うために建てられたという神社です。またこの神は、三穂田町山口字芦ノ口の温泉神社、富久山町久保田字山王舘の日吉神社にも祀られています。そして現在は地名としては消えてしまいましたが、三穂田町山口に、字温泉、字西温泉、温泉山という地名がありました。これらの地名は、字・芦ノ口に包含されてしまったようです。 西の内の三島神社には、三島大神が祀られています。伊豆の三島大神は、源頼朝が平治の乱に敗れたとき伊予国大三島(愛媛県今治市)の大山祇神社に参詣して源氏再興を祈願し、その加護により旗揚げが成功したと考え、治承四(一一八〇)年、根拠地の鎌倉に近い景勝の地に大山祇神社から三島大明神の分霊を勧請し、社殿を造営したのが起こりと言われています。頼朝の信仰もあって、中世以降は武家、庶民の信仰を集めました。大山祇神社は、日本総鎮守とされ伊予国一の宮で、旧国幣大社です。 熱海町安子ケ島字竹ノ内にある木の宮神社や熱海町安子ケ島字木ノ宮にある紀伊宮神社、それに熱海町中山字城の脇にある熊野神社の境内には、紀伊宮神社の祠があります。これらの木の宮神社は、伊豆の熱海市にある来宮神社を勧請した神社と思われ古くは来宮大明神と称していました。伊豆の来宮神社は、江戸末期まで『来宮』ではなく、『木宮』の文字で古文書に記されているそうです。来宮神社は、伊豆熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、源頼朝以来、江戸幕府の崇敬もあつく、関東の総鎮守といわれた神社です。この来宮大明神は片平町に木宮神社の名で、また同じ片平町の木宮南に中村神社の名で祀られています。 三穂田町八幡字上ノ台にある宇名己呂和気神社には、箱根権現が祀られています。 春日神社は、伊豆の伊東氏の守り神であったと言われます。大槻町春日、湖南町中野字二番猿畑にあるこの神社には、箱根権現・三島大神も祀られています。 豊景神社は、富久山町福原字古戸にあったのですがが、いまは福原字福原の本栖寺近くに移されています。本栖寺の移転と一緒に移されたものかも知れません。この豊景神社、福聚寺、本栖寺、そして大鏑館のあったこの地域は、阿武隈川の洪水が多発したため、その周辺にあった旧福原の集落とともに、現在地の福原に移転したと言われます。昭和七年に建立された石塔の碑文を左に転記します。 村社旧跡(豊景神社跡)『豊景神社ハ元御霊宮ト称シ天養元甲子(一一四四)年勸請シテヨリ元和二(一六一六)年迄四百七十餘年間此ノ所二鎮座ス 天正年間(一五七三頃)大鏑舘ニ福原蔵人當地ヲ領シ田村清顕ニ属セシ頃迄ハ福原ノ人家ハ此ノ地ニ在リシモ慶長ノ末(一六一五頃)奥州街道完成シ元和ノ初年ニ至リ人家悉ク道筋ニ移ルニ伴ヒ鎮守御霊宮モ今ノ地ニ遷宮セリ 是ヨリ東一丁餘大鏑舘内南ニ箭給ノ渡アリ水神ヲ祭祀ス勸請年代詳ナラザルモ之箭給ノ渡ノ水神ニシテ共ニ由緒深ク渡ハ寛治三(一〇八九)年鎮守府将軍源義家公東征ノ砌リ将軍ヨリ箭ヲ給フニ依リ箭給ノ渡ノ名アリ 往古ハ田村ノ荘二通ズル唯一ノ渡舟場タリ 爰ニ河川工事ニヨリ之等ノ由緒アル旧跡皆其面影ヲ失フニ當リ昭和七年四月水神ノ宮ヲ村社旧跡ノ地ニ奉遷シ碑ヲ建テ事蹟ヲ略記シ後世ニ傳フ 昭和七年十八日建之』 (注) カッコ内の西暦年数は、筆者が記入。 これらの多くの神社から考えられる結論として、これらの神社のほとんどが郡山市の西部、つまり奥羽山脈の脚部に集中しています。このことから、私は伊東氏の最初の入植地がこの地域であったと考えています。水の便が必ずしもよくなかった安積野の開拓は、いまの熱海町、片平町、逢瀬町、三穂田町にまたがる市街地の西部のこれら山裾を流れる小河川の流域から、小規模な棚田による開発がはじめられ、やがて下流の郡山や富久山町、そして安積町に達してきたものと推測しています。
2023.05.20
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11伊東氏の領地 伊東氏の領地 伊東氏の所領は多く、伊東祐長の兄・祐時たちの子、つまり孫たちの世代には、次の表のような所領があったそうです。 長門国三隅 山口県(三隅町) 祐時の長男・祐朝 安芸国奴田 広島県(黒瀬町?) 〃 奥州鞭指莊 〃 石見国 島根県(浜田市) 次男・祐盛 備前国三石 岡山県(備前市三石) 三男・祐綱 伊勢国富田 三重県(四日市市富田) 四男・祐明 日向国田嶋 宮崎市(佐土原町) 〃 日向国富田 宮崎県(新富町富田) 〃 播磨国長倉 兵庫県(加西市長倉) 五男・祐氏 播磨国吉田 兵庫県(神戸市兵庫区吉田町) 〃 相模国鎌倉 神奈川県(鎌倉市) 六男・祐光 日向国門川 宮崎県(門川町) 七男・祐景 日向国木脇 宮崎県(国富町大字木脇) 八男・祐頼 日向国八代 宮崎県 (国富町大字八代) 〃 石見国稲村 島根県 九男・祐忠 石見国伏見 島根県 〃 石見国長岡 島根県 〃 石見国御対 島根県 〃 甲斐国横手 山梨県 (北杜市白州町横手) 〃 肥後国松山鷺町 熊本県 十男・鷺町主 紀伊国一の莊 和歌山県 十一男・伊東院主 この孫たちの多くの領地のほとんどが西日本や九州にあり、11人の息子たちが管理していたというのです。ところで当時は、如何に側室を勝手に置ける時代であったとしても、伊豆の本家を継いだ工藤祐時が男子のみ11人、それに女子を含めればそれ以上の子宝に恵まれていたのであろうということ自体に、驚かされます。遠くに離れた、しかも多くの領地を管理するには、多くの男子を必要としたとは考えられることです。そこで祐時は自身の男子のみでは不足であり、それを補うため、常居寺に伝えられてきたように、郡山から派遣された祐長の子も含まれていたとも考えられます。そう考えれば、11人の男子がいたという主張も、つじつまが合うのかも知れません。ところがこの多くの領地の中にただ一ヶ所、奥州鞭指莊(べんざしそう)があり、しかも未だその場所が特定されていないのです。なお、鞭指莊とは、鞭に指と書きます。しかもここには、祐長の名と奥州安積の記載はありません。奥州にあるということから安積を示唆しているのではないだろうかと考えたのですが、どう考えてみても、鞭指は安積とは読めません。それにこの読みも、ベンザシかムサシかもはっきりしないのです。しかし武蔵国は、いまの東京都・埼玉県・神奈川県などの関東地方ですから、これは除外してもよいと思われます。 この伊東氏の領地の多さについて、『姓氏家系大辞典』に次の記述があります。『伊東祐經、威勢重く成りて、大将殿より日本国中に所領宛がいとの約束にて、廿余ヶ国迄下し給わる』20余国とは、大変な数の領地ですが、事実、ここには21ヶ所の領地が記載されているのです。ここで言う大将殿とは源頼朝と思われ、この表に見合う数と思われます。そこで『荘園分布図』を調べてみましが、やはり陸奥国に鞭指荘はないのです。しかし『講座日本荘園史』によれば、鞭指荘は宮城県内であるとしているのです。それは文治五年(1189)の阿津賀志山の戦いで、藤原泰衡の義兄の藤原国衡が源頼朝に敗れているのですが、藤原氏が本陣を設営した所として鞭楯という地名があるのです。このことから、鞭指とは、国分ヶ原鞭楯、いまの仙台市宮城野区榴ヶ岡(つつじがおか)の付近であろうと比定されているのです。しかし未だ、それに類する遺構などは発見されていません。 実はこれについて、ハンドルネーム標葉石介(しねはいしすけ)さんの『標葉工房電脳帳・鞭指之莊探索』を参考にさせて頂きました。彼によりますと、『案外、鞭指莊は、福島県郡山市の付近かなどと妄想するなか、逍遙すること10日間、思い至ったのは仙台市の鞭楯の地であったと推理した。』と書いておられます。私も鞭指莊は郡山であったと思いたいのですが、郡山には鞭や指という文字に関連するような地名は全くありません。その後も鞭指莊を調べていて、この標葉石介さんより次のようなご教示がありました。興味深く思えたので、要旨をお知らせしてみます。『伊東氏は本当に頼朝から安積に所領を貰ったのかという疑問は残るが、 1*鞭指荘は、奥州合戦のおり藤原泰衛が布陣したいまの仙台市榴ヶ岡が、当時の鞭楯ではなかろうか。 2*鞭楯あるいは鞭館が鞭指之庄に変化、その鞭がツツジの枝で作られたことによる変化ではなかろうか。 3*工藤祐経が曾我兄弟に討たれたので、子息の祐時と祐長は、従来の所領に居づらくなり、そこで仙台の鞭指荘を国替えのよう な方法で安積に所領を得、祐長が安積に入植したのではないだろうか。 そのために鞭指庄の行方が分からなくなったという想定ではどうだろうか。さらに仙台付近を調査してその是非を比定したいと考えている』 なるほど、私も考えました。もしかして、源頼朝は工藤祐経に与えようとした場所の地図を見せ、そこを鞭で差し示した所が安積の地であった。つまり鞭指荘は安積荘であったと想像したいのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。
2023.05.10
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吾妻鏡を追って かつては、『鎌倉幕府は1192年にが開かれた』とされていたのですが、これは、源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年だったからです。しかし、諸国の統治を行う『守護』や、荘園や公領で税の取り立てをする『地頭」が1185年から置かれていたため、現在では、源頼朝による鎌倉幕府は、1185年に開かれていたと解釈されています。 吾妻鏡は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍の宗尊(むねたか)親王まで6代の将軍記という構成で、治承四年(1189年)から文永三年(1266年)までの77年間の幕府の事績を、年度を追って記述されたものです。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃とされ、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られています。この『吾妻鏡』によれば、建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられて公卿に列し、建久三年には征夷大将軍の宣下がなされ、鎌倉幕府は、名実ともに武家政権として成立することとなったのです。吾妻鏡の中には、将軍と主従関係で結ばれた武士、つまり御家人たちの勤務状況なども記されています。ただし幕府に都合の悪いところは、意識的に記されていないので、読むにはそれなりの注意が必要、とされています。 この吾妻鏡の書き出しは、治承四年(1180年) 一月二十日で、『この日皇太子(のちの安徳天皇)魚味(ぎょみ)・着袴等の事有り。三歳の着袴吉例たるの上、来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり』とあります。それでは、工藤祐経の子の伊東祐長について、何か記載されていないか。そこで丹念に吾妻鏡を紐どいてみました。しかしそこには、工藤祐長は、何時の時点で伊東祐長に姓を変えたのか? そして祐長は、いつ郡山へ来たのか? についての記述がないようなのです。ただし備前老人物語に、『工藤右衛門祐経、奥州安積をはじめ、田村の内、鬼生田村などを領す。伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男祐長、安積伊東の祖なり』とあるそうなのです。なお鬼生田村とは、いまの西田町鬼生田です。『吾妻鏡』において、祐長の父の工藤祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)四月、一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌ったという記録があります。そこで吾妻鏡から、伊東祐長が関係すると思われるところを抽出してみました。ただし漏れがあるかもしれません。ご了承願います。なお、和暦では分かりにくいと思いますので、以後、西暦で表してみます。 1184年4月20 鶴岡八幡宮の宴席において静御前が舞を舞った際に、『(祐長の父の)工藤一臈(くどう いちろう)祐経(すけつね)、鼓を打ち今様を歌う』とあります。ここで言う一臈とは、武者所の上級職の名で、今様とは、当時の流行歌のようなものです。そこで吾妻鏡から、伊東祐長が関係すると思われるところを抽出してみました。ただし漏れがあるかもしれません。ご了承願います。 1190年11月7日 頼朝が上洛。先陣60名、後陣46名。同じ月の九日、工藤祐経は、右近衛大将拝賀の布衣(ほうい)侍7名の内の1名に選ばれて供奉をしています。なお布衣とは、元々、都人のお洒落着であったと言われ、主君の外出の際など、矢を背負い、弓を持って供奉した役職です。 1192年7月27日 源頼朝は、征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使を幕府に招き、寝殿の南面に於いて御対面なされて、『献盃有り。』との記述があります。そして、この勅使が退出する際に、工藤祐経は、頼朝からの引き出物の葦毛の馬を渡すという名誉な役を担っています。勅使は庭に降りて、馬を受け取っています。祐経が、頼朝に重用されていた様子が分かります。 1193年5月28日 曽我兄弟の仇討ちがありました。ここのところは、少し詳細に見てみたいと思います。 小雨降る、日中以後晴れ 。子の刻に、故伊東の次郎祐親法師が孫の曽我の十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門の尉祐経を殺戮す。ことに祐経、王籐内らが交会せしむる所の遊女、手越の少将・黄瀬河の亀鶴ら阿鼻叫喚す。この上祐成兄弟、父の敵を討つの由の高声を発す。これに依って諸人騒動す。子細を知らずと雖も、宿侍の輩皆悉く走り出ず。雷雨に馬具を撃ち、暗夜に灯を失い、殆ど東西に迷うの間、祐成等が為に、多くを以て疵を被る。平右馬の允・愛甲の三郎・吉香の小次郎・加藤太・海野の小太郎・岡部の彌三郎・原の三郎・堀の籐太・臼杵の八郎、宇田の五郎以下を 殺戮せらるるなり。十郎祐成は新田の四郎忠常に合い討たれをはんぬ。五郎は御前を 差して奔参す。将軍御劔を取り、これに向わしめ給わんと欲す。而るに左近将監能直 これを抑留し奉る。この間に童五郎丸、曽我の五郎を搦め獲る。仍って大見の小平次に召し預けらる。その後静謐す。義盛・景時仰せを奉り、祐経の死骸を見知す。 また備前の国の住人吉備津宮の王籐内と云うもの有り。平家の家人、瀬尾の太郎兼保に與するに依って、囚人として召し置かるるの処、祐経に所属しているのが誤り無きと訴え申すで、去る二十日本領を返し給わり帰国す。而るになお祐経が志に報いんが為、途中より還り来たり、盃酒を祐経に勧め、合宿して談話するの処に同じく誅せらるるなり。吾妻鏡は、『保暦間記』を転載している。『彼の狩り野の居出の屋形にて祐経打れぬ。祐成、時宗ら、伊東入道が孫なり。朝敵の者の子孫とて世に便宜あらば、将軍をも思い懸け奉らんとにや。また遁るまじと思いけるにや。将軍の仮屋にて二名の者戦をす。 1213年2月16日 和田義直が、泉親衡の乱の企てに加担して捕縛されると、義直の身柄は伊東祐長の岩瀬郡に預けられた。しかし義直は、父の義盛の嘆願により、弟の義重と共に赦免された。しかし義盛の甥の胤長も赦されたのですが、同じ岩瀬郡へ配流となっています。岩瀬郡も、伊東祐長の領地であったのであろうか。 1219年7月19日 左大臣九条道家の二歳の嫡子が、関東に下向した。そのときの行列は、 各々輿に乗った女房10名。先陣の随兵10名。 歩行にて若君の御輿の護衛10名。医師1名。陰陽師1名。護持の僧1名。そして後陣の随兵17名とある。このうちの1人に伊東左衛門の尉とあるが、これは祐長なのであろうか。 1227年6月15日 『伊藤左衛門尉、尾藤左近将監らと京都より帰参す』とのみ記載されています。 同じ年の6月19日 丈六堂供養たるべきに依って、御家人ら群を成す。ここに伊東左衛門の尉祐時の郎従、悪の高橋を捕縛する。 1236年8月4日 将軍家、若宮大路新造の御所に御移住なり。安積六郎左衛門尉、矢を負い弓を持って供奉す。 1237年4月22日 将軍家、左京権大夫の屋敷に入御す。安積六郎左衛門尉は、供奉人50名の中の1人であった。 1238年1月1日 新年饗応の御沙汰あり。御劔、御調度などを 大和の守祐時らこれを持参す。 同じ年の2月17日 将軍、六波羅の御所に着き給う。先陣192名。後陣50名。この後陣に安積左衛門尉の名がある。 同じ年の2月22日 将軍家、今年始めて御直衣にて出られる。御車には帯劔にて御車の左右に10名が列歩す。次いで安積六郎左衛門の尉祐長らの8名が従う。 同じ年の2月28日 将軍家、御馬を公家に奉らる。一の御馬、大和の前司祐時と安積六郎左衛門尉祐長とあり、二の御馬に大和守景朝と河津八郎左衛門の尉尚景の四名、布衣・帯劔でこれに乗る。 同じ年の8月25日 将軍家御参堂、供養をされる。前駆4名。御後、安積六郎左衛門尉ら38名。最末騎兵12騎。 1243年7月17日 臨時御出の供奉人。上旬44名。中旬、安積六郎左衛門尉ら49名。下旬49名。 1244年8月15日 鶴岡八幡宮の供養祈願祭なり。大殿並びに将軍家御参り。先陣10名。御車11名。御後、安積六郎左衛門尉祐長ら62名。後陣12名。 1247年5月14日 故武州経時の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服。安積新左衛門尉ら30名が供奉。 同じ年の6月6日 薩摩の前司祐長ら、上総権の介秀胤を討ち取るべきの旨を仰せ付けられる。祐長らこれを追捕せんが為行き向かうと雖も、その実無きに依って各々帰参す。 1248年1月3日 将軍家御行はじめの儀有り。供奉人5位・21名。6位・大和前司ほか22名。 同じ年の12月10日 将軍家、方角の吉凶を占う御方違えの儀有り。先の御駕篭に5名。御後の騎馬での供奉人、薩摩の前司祐長ら12名。歩行の供奉人12名。 1250年1月16日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。薩摩の前司祐長ら52名が供奉。 同じ年の3月1日 諸国の官人を京都に招く。この中に伊東大和の前司と、安積薩摩前司の名がある。 1251年1月1日 新年の祝宴。薩摩の前司祐長は、将軍家の御方の28名中にあった。若君御前の御方としては、21名が出席している。 1252年6月17日 『大和守従五位上藤原朝臣祐時卒す』とのみある。以後吾妻鏡に伊東祐時と思われる名は出てこない。この祐時の名から、伊東祐長の兄と推測される。 1253年1月3日 新年の祝宴。これには薩摩の前司祐長のほか、53名が出席している。 同じ年の1月16日 来る二十一日、鶴岡八幡宮に御参有るべきに依って、薩摩前司祐長、供奉人を仰せつけられる。 1254年1月1日 『朝、雪俄かに散る。巳の刻より晴れる。将軍家御行始めの儀有り』新年の祝宴である。この時、二の御に、薩摩七郎左衛門の尉祐能と同九郎祐朝の名がある。この祐能と祐朝は、伊東佑長の関係者なのであろうか。なおこの時の供奉人には、薩摩の前司祐長の他に、43名の名がある。この時を最後に、祐長の名は吾妻鏡の記述から消えています。祐長の死はこの頃と推測できます。 1266年11月2日、この吾妻鏡は、『北條九代記』の中より、『御所・姫宮等御上洛。良基僧正逐電し、高野山に於いて断食死去す』を引用する形で終わっています。この翌・文永14年には、高麗使が蒙古王フビライの書を奉じて来朝しています。のちに起こる元寇襲来を、記したくなかったのでしょうか。ところでこの吾妻鏡の中に、源頼朝が、伊東祐経に安積の地を与えたという記述はなく、しかも、『鞭指莊』の文字はありませんでした。これはどういうことなのでしょうか。 ともあれ、吾妻鏡から読めることは、伊東祐長が鎌倉に出仕していたらしい1213年から1254の41年の間に、24回あったということです。ただし素人の私が、読み漏らした部分があるかも知れません。それでも平均すると、2年に1度の割合になり、意外に多くの日数、鎌倉に行っていたことが分かります。このように吾妻鏡に記載のない時期は、郡山にいたのかも知れません。ともあれ頻繁に祐長の名が吾妻鏡に出てくることから、祐長は、幕府の主要な仕事に関わっていたとも考えられます。このことから、吾妻鏡に記載されていた年は、鎌倉に出仕していたことになりますから、その間は、郡山に代官を置いたと思われます。代官には、伊東祐長が安積に赴任する際、伊豆から随伴してきたと思われる相良城主の関係者や、狩野城主の関係者などが当たっていたのではないかと思われます。今も大槻町に相良さんが多く住み、また熱海町に狩野さんがおられるということは、このことと関係するのではないでしょうか。そして今、日和田町朝日坦地内の東北電力日和田変電所近くに、安積左衛門夫妻の墓と伝えられるものが残されています。これが安積左衛門尉、つまりは祐長夫妻のものであるという説を信じれば、晩年には祐長は郡山に住み、日和田で亡くなったことになります。しかし日和田郷土史会の石田善男氏は、この墓を、祐長夫妻のものであるかどうかを、疑問視しておられます。
2023.05.01
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曾我仏 現在、香久池二丁目の法久寺に、『曽我仏』という供養塔があります。正式には『一尊種子板石塔婆』ですが、その作られた年代は、弘安九年(1286年)となっており、伊東祐長(すけなが)の死が建長六年(1254年)となっているので、恐らく祐長の子か孫あたりが建立したものと思われます。この供養塔は、いまの日和田町八丁目の仲鹿島後(なかかしまご)か富久山町福原の白石田に祀られていたというのですが、それが何らかの理由で、大正四年(1915)頃には地紙屋小路、これは、いまのビューホテルアネックスの角からさくら通り入り口の角の道で、しかも、いまの歩道程度の狭い道の中ほどにあった『おのや米店』の前に移されていました。しかし昭和二十二年十月、法久寺の境内に移されたものです。この石塔には、左のような3行の文字が彫り込まれています。 右当考一十 弘安九年丙庚六月四日 敬白 三年忌辰為成仏 富久山町史談会長の鈴木八十吉さんは、『この最後の行に、3年忌とあるが、最初の行から読み下すと13年忌を意味する。碑にある建立された弘安九年(1286年)の13年前は、文永十一年(1274年)にあたる。そのためこの石塔は、伊東祐長(すけなが)の孫の祐家(すけいえ)が建てたものと考えられる。伊東祐能(ひろよし)の没年は不明であるが、伊東祐長の没年が建長六年(1254年)とされていることと、祐能(ひろよし)の名が吾妻鏡の文永三年(1266年)二月十日の項に記載されていることから、8年後の文永十一年(1274年」に死去したと推定することも可能である。ただしこの伊東祐能(ひろよし)は、伊東祐長との関係が不明である』と教えてくれました。 ところでこの伊東祐能(ひろよし)は、吾妻鏡の文永三年(1266年)二月十日の項に、次のように記載されています。『将軍家鞠の御坪に於いて御馬御覧。薩摩七郎左衛門尉祐能(ひろよし)・伊東刑部左衛門尉祐頼・波多野兵衛次郎定康等これに騎る。土御門大納言・八條三位公卿の座に候す。一條中将能清・中御門少将公仲等の朝臣・左近大夫将監義・弾正少弼業時已下北の広廂に候す。』この記述から、祐能(ひろよし)が、八年後の文永十一年に死去したと推定することも可能であると思われます。伊東氏は、表面的には祐能の十三忌の供養にかこつけ、実質的には年忌とは関係なく曾我兄弟の供養塔を建立したのではないでしょうか。つまり、柳田國男氏が言われるように、一種の御霊信仰であったとも考えられるのです。 ところで何故、この供養塔が曾我仏と言われたのでしょうか? この碑のどこにも、『曽我』の文字がないのです。しかし考えられることは、『曽我仏』とあるのですから、当然ながら曾我兄弟との関係が考えられます。そこで建立された年が丁度工藤祐経(すけつね)の100回忌にでもなるかと思って調べてみましたが、曾我兄弟の死は1193年、この供養塔は1286年の建立ですから、この間は93年となります。ですから、その線は崩れました。次いで考えられるのは、この時代に何かよくないこと、例えば不作とか洪水、風水害などが数多く起こったため、建立者は曾我兄弟の祟りと考えたのではないかと思われます。そのため、表面的には伊東祐能の13回忌の供養にかこつけ、年忌とは関係なく、伊東氏はこれを曾我兄弟による祟りと考え、安寧を願ってこの供養塔を建立したのではないかと考えています。つまり曽我兄弟は、『仇討ち』の象徴であると同時に、『祟り』の象徴でもあったということになります。逆に言うと、曽我兄弟は、『あの世からの祟り』を防ぐための防波堤みたいなものであったのではないか、とも思えるのです。 ところでこの法久寺の曾我仏には、郡山市教育委員会により、『曾我仏 日和田町、富久山町の境、高場山中俗称恵日台より移す』という案内板が立てられていますが、現在、高場山中や恵日台という地名は残されていません。これらは今の日和田町字門前や戸ノ内、または富久山町の牛ヶ池を指すとも考えられています。しかし、この曾我仏と呼ばれてきたことに対しての歴史的証明は、まだされていません。そしてくどいようですが、この法久寺の『曽我仏』は供養塔であって、お墓ではありません。そして昭和の初期になって、この石塔をもともとあった場所、つまり日和田か富久山に戻すようにとの運動があったのですが、法久寺側から断られています。いずれにせよ、何故この碑が日和田か富久山という場所に建立され、何故地紙屋小路に移され、そののち法久寺に移されたのかは、分かっていません。 江戸時代になると、仇討ち、つまり復讐が認められていました。武士たる者、親や兄弟を殺されたら、自分の力で復讐するのが当然だと考えられていたのかも知れません。そのため、届け出さえすれば、必ず認められたのです。仇討ちが社会的に黙認されていたのは、むしろ武士たちの「汚名を雪がずにはおれない」という自尊心のためであったと思われます。「親を殺されて平気な顔をしているヤツは武士ではない」ということなのでしょう。 たとえば江戸時代、親や兄を殺されるなどして「敵」をもった場合、それを討つため幕府に届け出ます。そのうえで脱藩し、浪人の身となって敵を追いかけます。浪人中なので、当然、収入はありません。基本的には仇討ちを狙っている間の生活は、親類などに頼るほかありません。親類も、仇討ちが成し遂げられないと一門に悪い評判が立ってしまうため、何としても成功させようとしたのでしょう。このように苦しい生活を強いられる仇討ちですが、その成功率は、江戸時代を通してたった数%だったのではないかといわれています。というのも、敵がどこに潜んでいるか、簡単にはわからないのです。場合によっては、敵の顔さえ、わからない場合もあります。そのうえ、敵を討つまでは藩に帰ることはできません。しかし、なかなか会えないからといって途中で諦めたりしたら、それこそ武士の名折れと言われてしまいます。そんな思いをしてやっとのことで敵を見つけ出したとしても、返り討ちに遭ってしまうこともあります。それでも、めぐり合えるだけまだ増しかもしれません。相手がどこにいるかもわからないまま一生を終えることも珍しくはなかったのです。本音をいうなら、武士たちだって「意地」のためとはいえ、仇討ちはしんどいなぁと思っていたのではないでしょうか。
2023.04.20
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8 ハワイでの出来事 2015年の8月、私は別件での取材のためハワイ島のヒロ市を訪れていました。その打ち上げを、市内の居酒屋で行なっていたのです。しかもそこのご主人は須賀川市出身の新一世でしたから、日本語が飛び交っていました。そこでたまたま、日本における仇討ちについて話が及び、曽我兄弟の仇討ちの話に発展していったのです。この曽我兄弟に討たれた工藤祐経は、郡山最初の領主である伊東祐長(すけなが)の父親になります。いかに古い話とは言え、私も郡山に住んでいるのですから、興味は深かったのです。ところがその時、ひとりで日本酒をたしなんでいた方が私たちの所へ来て、「済みません。失礼ですが私も話に入れて頂けませんか?」と言って仲間に入ってきたのです。彼は、本願寺のヒロ別院のジェフリー曽我和尚でした。ハワイで浄土真宗の開教が始まったのが1889年で、ハワイ島東海岸のヒロの街にあるこの別院は、この年に創建されたという由緒のある寺です。その話の中で、彼は、自分の実家である広島県三次市(みよしし)の西教寺に、「曽我兄弟の墓があります」と言い出したのです。 彼の話によると、「自分の家の苗字が曽我兄弟と同じ曽我であるから、先祖が曽我兄弟と何らかの関係があったのではないだろうと疑問に思っていました」と言うのです。私たちの仲間のほとんどが年配の二世でしたから、曽我兄弟の仇討ちについてもおおよその事は知っていました。彼の話に、皆んなが耳を傾けたのは、当然のことでした。彼の話を聞いていると、「そのことを書いた本が、今も自分の手元にあります」と言い出したのです。私は興味をかき立てられました。私が「是非、その本を読んでみたい」と言うと、彼は奥さんに、その本を持って来るようにと、電話を掛けたのです。それでは済まないと遠慮する私に、彼は「自分の家はここから近いから・・・」とそう言ったように、あまり時間が経たないうちに、奥さんが本を持って来てくれたのです。その本は、西教寺の本堂の大修理の完成に合わせて、西教寺総代の高杉和雄さんが書かれたという、『備後の名刹聖水山西教寺縁起』という本だったのです。私はその場で、パラパラと流し読みをしただけでしたが、その内容にとても興味をそそられたのです。しかし酒の席で読むわけにもいきません。その本を借り、後日、日本から航空便でお返しするという約束で、ホテルに戻ったのです。 この本によると、富士の裾野で父の仇の工藤祐経を討って本懐を遂げた兄の曾我十郎は、いまの三次市甲奴町小童(こうぬちょうこひら)に逃亡をした後に自害、近くの甲奴町塩貝にある小富士山に墓が作られたと書いてあったのです。小童という地名は、普通には読めない地名です。一説では、子どもが駄々をこねて泣き転げることを『ひちぐるう』と言うことから地名になった、と言われます。しかも地名ばかりではありません。その周辺には、芸藩通史に『曽我兄弟の墓』と記された二基の石造りの塔が、甲奴町字青近の毘沙門堂に残っているのですが、さらに、小富士山の上で、矢に当たって殺されたとされる曾我十郎の墓と言われる五輪塔が、十郎塚と呼ばれているというのです。その他にも、弔い桜、曽我兄弟の供養塔などの遺跡があり、しかもここの小童には曽我兄弟のものと言われる遺品の幾つかがあり、その他にも、後事を託された曽我兄弟の守り役であった鬼王丸と道三郎の兄弟が残したという口伝えや伝説がこの地域に広く残されているというのです。ですから小童の地元では、ここにある曽我兄弟の墓は間違いのない本物とされてきたというのです。それにしても遠いハワイに来て、曽我兄弟の墓についての本を借りるということは、何かの縁かと、不思議に思いました。 曽我兄弟の墓については、さらに調べてみました。すると曽我兄弟の墓は、関東から九州にかけて14ヶ所もあるというのが分かりました。ところがそのいずれもが、遺跡、遺品、口伝、伝説の類を掲げてその正当性を主張しているのです。その中でも、曽我兄弟の墓とされるものの中で最も有力視されているものは、いまの小田原市曽我字谷津にある『曽我の里』の城前寺(じょうぜんじ)が挙げられています。城前寺の本堂の裏手には曽我十郎と五郎の兄弟、養父曽我太郎祐信、実母満江御前の墓と伝えられる4基の五輪塔が建てられています。また、いまの元箱根の石仏群にの中ある五輪塔も、曽我兄弟の墓であるとされます。その石仏群の左側にある2基は曽我兄弟のもので、右の1基は兄の十郎の妻であった虎御前の墓であるとされ、永仁三年(1295年)に地蔵信仰の一つとして建てられたものと言われています。このように曽我兄弟の墓といわれるものが各地に多くあることについて、柳田國男氏は、御霊信仰によるものではないかと言っておられます。御霊信仰とは、不幸な死に方をした人の霊が、祟(たた)りや災いをもたらすという信仰で、その人の霊をなだめるために、神として祀る信仰です。つまり怨みを残して死んだ曾我兄弟の霊に、『祟らないように』と願ったことから、各地での曾我兄弟の墓になったのではないか、としているのです。それにしても、この曽我兄弟の仇討ちの話が郡山と関係すること、しかも遠い広島県と郡山の双方に関係があったらしいということ、その上、異国であるハワイで知ったということは、不思議な巡り合わせだと思っています。 ところで当時の庶民は、曾我兄弟の仇討ちのことをよく知っていたと言われます。事件後まもなく、箱根権現や伊豆権現の僧侶たちによって、曾我兄弟の仇討ち話が、仏教の唱導に用いられていたそうです。さらに弘安三年(1280年)、賦算と踊り念仏を布教の媒介としながら白河の関を越えた時宗の一遍上人と、その集団である時衆たちが話していた中にもこの話があったとされること、なかでも特に、郡山最初の領主である伊東祐長や箱根権現、そして伊豆権現とつながりの深かった郡山では、早い時期から『曾我語り』として流布されていたものと思われ、さらに瞽女(ごぜ)たちによって曾我兄弟の生涯やその顛末が浪漫的に語られていたというのです。これらのことからも、曾我兄弟の仇討ち話の郡山への伝達経路は、何本もあったと考えられます。
2023.04.10
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7伊東祐長・郡山を経営する 7 伊東祐長・郡山を経営する 郡山へやって来た伊東祐長は、たった一人での旅であったとは思えません。伊豆から送り出す兄の佑時としても、これから弟の行く郡山の地には、行ったこともなく見たこともない土地なのです。ともあれ行った先での生活のためには食料が必要です。農作業のため、鋤鍬を持った多くの百姓たちも連れてきたと考えられます。しかしそれだけでは不安です。なにか、悪い獣がいるかも知れないのです。ところで、清水正健(まさたけ)氏の編まれた『荘園志料(下)』によれば、記録が少ないとしながらも、田村荘や石川荘の存在を挙げておられるのですが、安積荘もすでに荘園化していたであろう、とされているのです。とすると、元々の統治者と変わった祐長に対して、受け入れ側の住民の反抗があるかも知れないのです。その場合の治安維持のための武力も必要です。 ところで私は、日和田の聖坊の福聚寺に宿泊した伊東祐長の一行は、そこから片平方面へ向かったと考えています。もちろん先遣隊が来ていて、祐長らを案内したと思われます。このことについて、郡山市史には、『笹原川、逢瀬川、藤田川などの合流点近くの郡山、安積町、富久山町、日和田町の阿武隈川流域に求め、伊東氏の開発進展によって、水利権や用水確保の必要から次第に上流へと上り片平などに嫡流の居城がおかれた』とあります。しかし私は逆に、伊東祐長らは先に奥羽山系の山裾である片平に入り、流れ出る水を利用して棚田を開拓、その後下流の郡山、安積町、富久山町、日和田町方面へ開拓を進めていったと考えています。今でもこの地区では、棚田が耕作されているのです。その他の理由としても、熱海町、大槻町、片平町の山裾には、伊豆から勧請された神社が多いこと、片平町には大きな舘跡がある上に館に関する地名が多いこと、それに今でもある常居寺、岩蔵寺、広修寺などが集中している寺町を形成していたこと、などに思っています。なお常居寺には、伊東氏累代の墓があります。 ところで片平町の南となる大槻町には、今現在、多くの相楽さんが住んでおられます。しかも、この相楽さんについては、いまでも大槻町に住む高齢の方は『相楽さん』とは呼ばずに、『相楽様』と呼ぶ土地柄なのです。私は、この2つの町の位置関係と『相楽さん』の多さから、相楽氏は伊東祐長の治安維持の一翼を担ったのではないかと想像しました。そこで現在、大槻に住む相楽モトさんに尋ねてみたところ、「戦国時代に、茨城県の結城から移り住んだと伝えられている」とのことでした。ここでちょっと説明しておきますと、最初の相良はアイリョウと書きましたが、後にアイラクと変化しています。伊東氏とアイリョウの相良氏は、深い親族関係にあったのです。相良城は、いまの静岡県牧之原市にありましたが、恐らく大槻町に来たのは、ここの相良氏の庶流であったと思われます。 その後、相楽モトさんより、天保十三年(1842年)に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂きました。それには『鎌足胤、これは藤原鎌足の血筋という意味です。鎌足胤、伊豆伊東ヨリ十四代之末葉、城主・伊東祐頭。永正年中、大槻・駒屋・八幡・山口・大谷、右五ヶ村領ス』とあり、さらに、『相楽ト改号云々』とありました。この文面により、アイリョウからアイラクと変えたことが明確になります。そこで大槻町の長泉寺にある相楽モトさんのお墓を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていました。ですから間違いなく、その頃すでに、大槻に相良氏のいたことが証明できます。また相楽モトさんより頂いた『相楽半右衛門伝』に、『相楽荘を名字の地とした武士に相楽氏がいる。この相楽氏は、源頼朝に仕えて関東御家人となり、元久二年(1205年)に相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、鎌倉時代後期には惣領家が九州へ移住した』とあったのです。この佐良氏が、伊東祐長の下で治安維持に関わった一人と想像できます。 実は私の義弟の妻が、熱海町の狩野家の出身でした。このような私の話から、彼女がうっすらと、『先祖が伊豆から来た』と思い出してくれたのです。私は彼女の実家を訪ねたのですが、「詳しくは分からないので、狩野の本家に聞いてくれ」とのことだったのです。そこで本家の方と、狩野家の菩提寺に行ってみたのですが、それ以上のことは分かりませんでした。しかし私には、それで充分でした。片平の北が熱海でしたから。『太平記巻一』に、南北朝時代の人物として『狩野下野前司』、巻六に『狩野七郎左衛門尉』、巻十に『狩野五郎重光』、巻十四に『狩野新介』、巻三十七に『ひとかたの大将にもとたのみし狩野介も、降参しぬ』というように、狩野の姓が見られたのです。さらに文治五年(1189年)、狩野行光が奥州合戦に於いて戦功があり、源頼朝から恩賞として一迫川(いちはさまかわ)の流域、今の宮城県栗原市周辺を給わっています。狩野氏は、宮城県地方にも勢力を持っていた氏族だったのです。この一族を、伊東祐長は自己の本拠である片平の北の守りを、熱海の狩野氏に委ねたのではないかと考えられます。ちなみに家族数は少ないのですが、狩野さんは、いまも熱海町を主にして住んでおられます。トータルとして考えれば。片平の伊東祐長を中にし、北の熱海に狩野氏、南の大槻に相良氏を配置することで、戦いの場合を想定していたのかも知れません。
2023.04.01
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6 伊東祐長・郡山へ 三春町に、臨済宗の福聚寺という寺があります。今この寺を守っているのが、玄侑宗久さんです。そしてこの宗久さんの父で前の住職であり、私たちの通った田村高校で古文を教えていたのが、橋本宗明先生でした。その宗明先生が、「伊東祐長が郡山に入って最初に宿泊した所が、ウチの寺だったんだよ」と言われたのです。そう言われた瞬間、私は「えェ〜」と思いました。何故なら私は、伊豆という南から来た伊東祐長は、今の安積町あたりから郡山に入ったとばかり思い込んでいたからです。ですから伊東祐長が、なぜ、あえて阿武隈川を渡って東の三春にまで行って福聚寺に泊まったのか、その理由が分からなかったのです。 「しかし何故、伊豆から郡山に来た祐長が三春に来たのですか?」という私の質問に、 「大昔、福聚寺が日和田にあり、そこに泊まったのだ」という宗明先生の説明から、何となくそのことの理解ができたのです。つまり宗明先生の話によると、最初に福聚寺が建立された場所は三春ではなく、三春から郡山へ向う途中にある阿武隈川の『小和滝橋』を渡って、南へ曲がる道の高台であったと言うのです。私は郡山への帰りがけに、その場所を確認しようと思い、『小和滝橋』を渡ってみました。ところがそこには、先生が言われたように、南へ曲がる道に高台などなく、平坦な地形だったのです。変だなと思っていて気がつきました。この部分の川幅は狭くて流れが急なため舟が渡れず、郡山地域の洪水の原因にもなっていたというのです。しかも日和田側は高い崖になっているため、橋を架けるのが困難な地形でもあったというのです。明治九年になって、地元の有志が私費での架橋許可申請を県に提出し、明治十七年なってやっと認可されたと言いますから、この時代に橋はなかったことになります。 明治十八年になって完成した初代の小和滝橋は石の橋でしたが、五年後の明治二十三年、洪水によって壊されてしまいました。二代目の橋は明治三十二年に吊り橋として完成、三代目になって初めて県費で建設され、昭和10年に鉄橋として完成したものです。そして現在供用されている四代目は、平成九年に完成しています。私が渡った小和滝橋は、旧小和滝橋より100メートルほど下流に、架け直された橋だったのです。旧福聚寺があったという場所を確認しようとして、私は100メートルほど上流に回ってみました。するとそこには、言われたような丘がありました。私は家に帰って住宅地図を開いてみて驚きました。その小字名が、なんと『聖坊』であったからです。そこで辞書を開いてみました。 『聖(ひじり)』とは徳の高い僧。『坊』とは僧侶の居所とありました。「なるほど、『聖坊』とは、昔ここに寺があったという意味か」と思いました。すると伊東祐長が郡山に入って最初に泊まったのが、ここにあった福聚寺に泊まったことになります。そうとすれば、不自然な話ではありません。ところで臨済宗が日本に伝わったのは、鎌倉時代のはじめ頃、栄西禅師によってです。はじめのうちは京都では布教活動ができず、鎌倉で源頼朝など武家を中心に広まっていったといわれますから、このような時代に臨済宗の福聚寺が日和田に勧請されていたとすると、伊東祐長が頼ったのも理解できると思いました。この福聚寺に残されていた口伝と、冨久山郷土史研究会長の鈴木八十吉氏の調査を並べると、次のようになりました。 1*当初、臨済宗福聚寺は現在の郡山市日和田町八丁目字聖坊にあったとされるが、誰の勧請によるものであるかは不明である。 2*元弘二年(1332年)、福聚寺は同じ日和田町八丁目地内の字門前に移転した。 3*暦応二年(1339年)、福聚寺は守山の領主・田村輝定によって富久山町福原字古戸地内に移された。 これに関連して三春の福聚寺に伝えられているのは、永正元年(1504年)、福聚寺は戦国時代の三春の領主・田村義顕によって三春に移され、田村氏の菩提寺となった、というものです ただこれらを考える上で、いくつかの疑問点が考えられます。 第一は、福聚寺が最初に建立されたされる所が聖坊という地名なのかということです。今の白河市大信の国有林に、聖ヶ岩の命名についての伝説があります。その昔、徳一大師の弟子の修験者の聖坊がこの地に来て、岩の頂上の窪地に庵を造り、東側にあった笹原の住民の無病息災と五穀豊穣を念じて名付けた、というものです。ここの笹原は、安積町の笹原と関係があるのでしょうか。この地名の『聖』という文字について、識者は、臨済宗ではなく真言宗との関連性を指摘されるのですが、仮に臨済宗と『聖』の文字がどのような関係にあったとしても、聖坊という土地の名に、修験者の名の『聖坊』もしくは聖地というような何らかの宗教的意味の関連があったのではないかと思っています。 第二は、なぜ福聚寺は、日和田の『聖坊』に造られたのかということです。これについての資料はありませんが、小和滝が修験者の好む厳しい景色であったことからかと思っています。修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かんなび)や磐座を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立したもので、日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力(げんりき)」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教であるということが、その思いにあります。正に『小和滝』こそが、そのような景色の中にあったのかも知れません。 第三は、なぜ福聚寺は、このような移転を重ねなければならなかったのかということですが、今のところ、それを示す資料は残されていないようです。 第四に三春の福聚寺は、大光禅師によって開かれたという説と徳一大師三世の弟子の金耀上人によって開かれたという説の二説が、同じ三春町史に出ているのです。つまりは、正確には分からないということでしょう。 富久山郷土史研究会長の大内さんによりますと、三春町にある臨済宗慧日山福聚寺は、もともとの場所である日和田町八丁目字聖坊から八丁目字門前、さらには富久山町の福原字古戸地内を経て三春へ移されたものであるというのです。富久山郷土史研究会では、聖坊へ福聚寺が創建された時期は不明としながらも、門前へは元弘二年(1332年)、古戸へは暦応二年(1339年)、三春へは永正元年(1504年)に移されたとしています。しかし福聚寺では、暦応二年(1339年)に三春に創建されたと説明していますが、この年は古戸へ移された年と一致しています。これに関して三春町史は、大光禅師復庵宗己(1279〜1358)によって開かれたという説と徳一大師三世の弟子の金耀上人によって開かれたという説を併記しています。金耀上人の詳細については不明ですので大光禅師説をとりますと、大光禅師の生存年は1279年から1358年の間になりますから、福聚寺は、1350年頃には創建されたということになるのかも知れません。この聖坊への創建は、何を意味しているのかは分かりませんが、福聚寺はダイレクトに日和田の聖坊から三春へ移ったのではなかったようです。 次いでこの聖坊の福聚寺が転出した跡地に、新しい寺が建立されました。そのために寺の名を、古い福聚寺、つまり古福寺と名付けられたと言われていますが、この寺もまた、何故かその後に、福聚寺が最初に移されたとされる日和田町八丁目字門前に移されています。その上この古福寺は、八丁目字中頃に移されたときに、保福寺と名を変えたと言われています。また同じ福聚寺の玄侑宗久住職によりますと、「僧の代替わりとともに寺の名を変えることもままあったと言われるから、古福寺が臨済宗から曹洞宗に変わったときに保福寺と名も変えたとも考えられる」と言っておられます。 私はこの古福寺と保福寺という類似する名の関係もさることながら、この立地している中頃という地名の場所が、もともと福聚寺があったとされる聖坊とその移転先の門前との丁度中間点にあるのです。これもまた不思議な話であると思っています。富久山町福原にある本栖寺は、福聚寺が移転した字古戸から三春に再移転した際その跡地に建立され、その名も元の福聚寺が以前に栖んでいた寺という意味で本栖寺と名付けられたと伝えられています。そして阿武隈川の氾濫に悩んだ福原集落が、丸ごと現在地に移転する際に、八山田字牛ヶ池にあったという普賢坂に仮堂を建設、その後の延宝四年(1676年)、富久山町福原字福原の現在地に移転したと伝えられています。
2023.03.20
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5 戦いの恩賞 『曽我兄弟の仇討ち』の事件のあった後のことになります。義経を引き取った平泉の藤原秀衡は、関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州の自身に及ぶことを懸念し、義経を指導者に立てて頼朝に対抗しようとしたのですが、文治三年(1187年)に病で亡くなってしまいました。この遺言によって後を継いだ藤原泰衡は平泉をとりしきり、後白河院から陸奥・出羽押領使に任ぜられていたこともあって、頼朝の恫喝を1年半にも渡って無視を続けていました。しかし遂には、頼朝の再三に及ぶ圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」と言い残した父の藤原秀衡の遺言を破り、500騎の兵をもって10騎あまりの義経主従を衣川館、いまの岩手県平泉町高館にあったとされる館に襲ったのです。源氏としての誇りと武士としての力を蓄え、そして最後に頼った場所の平泉は、義経にとってまさに第二の故郷のような場所でした。義経の家来たちは必死に防戦したのですが多勢に無勢、ことごとく討ち果たされました。この衣川館で藤原泰衡の兵に囲まれたとき、義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てました。享年31歳でした。このとき持仏堂に籠った義経たちを死しても護ったという、『弁慶の立ち往生』の話が有名です。 源平の合戦で勝利し、義経を平泉に下した源頼朝によって、奥州地方は鎌倉武士たちへ戦いの恩賞として分け与えられました。浜通りの大半は桓武天皇の血を引く関東の名族である千葉氏へ、その千葉氏の四男は好間庄、今のいわき市の一部へ、伊達郡は常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗っていた伊達氏へ、岩瀬郡は幕府の官僚であった二階堂氏へ、白河郡は下総国の結城を領した結城氏へ、会津諸郡は相良三浦氏の流れの佐原氏へ、南会津郡は下野国芳賀郡長沼を領していた長沼氏へ、そして石川庄、今の石川郡と古殿町鮫川村を合わせた地域を八幡太郎義家の六男の源義時を祖とする石川氏に配分されました。しかし磐城を岩木氏が、そして田村郡を田村氏が、古来からの奥州の住人として安堵されています。このときに安積郡を安堵され、安積伊東氏の元祖となった人が、『曽我兄弟の仇討ち』に遭って死亡した工藤祐経の二男の伊東祐長でした。ただし工藤祐経が安積郡をもらったのは、この時ではなく、建暦三年(1213年)の泉親衡の乱の恩賞として賜ったという説があります。それはともかく、安積郡の地を相続した祐長は、安積氏を名乗り、安積伊東氏の祖となったという説もあります。 泉親衡の乱とは、建暦三年二月十五日に発覚した内乱です。これは泉親衡が、源頼家の遺の児の千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権北条義時を打倒しようとした陰謀と、それに続いた『和田合戦』の前哨戦とされています。和田合戦は、この年の五月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱で和田義盛の乱とも呼ばれています。この泉親衡の謀反が露見した折、和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛されました。その後、息子2人は配慮されて赦免になりましたが、義盛については、三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長の赦免を懇請したのですが、胤長は首謀者格と同等とされため許されず、二階堂氏の岩瀬郡に流罪となりました。吾妻鏡の記述には、『和田合戦で謀反を起こした和田四郎左衛門尉義直、伊東の六郎祐長これを預かる』とあります。これは伊東祐長が、一時、義直を鎌倉で身柄を預かったということでしょう。そして三月十七日の項には、『和田の平太胤長陸奥の国岩瀬郡に配流せらる』と記されています。このように、祐長が岩瀬郡に流された和田胤長を預かったという記述から、安積郡と岩瀬郡との間には、何らかの近い関係が想像されます。伊東祐長が郡山へ入った時期は明確ではありませんが、郡山最初の領主となったのは間違いありません。
2023.03.10
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4 曽我兄弟の仇討ち 史料に残る最古の仇討ちは、安康天皇の三年(456年)に起きた『眉輪王(まよわのおおきみ)の変』にあったとされます。日本書紀や古事記によれば、眉輪王は、父である仁徳天皇の皇子の大草香皇子(おおくさかのみこ)が、罪無くして安康天皇に殺害された後に、母の中蒂姫命(なかしひめのみこと)は安康天皇の皇后とされ、眉輪王は連れ子として育てられました。安康天皇の三年(456年)八月、眉輪王が七歳の頃、楼(たかどの)の下で遊んでいた眉輪王は、安康天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡くなった父が安康天皇によって殺されたことを知り、熟睡中の天皇を刺し殺したというのです。その後眉輪王は、円(まどか)大臣の屋敷に逃げ込んだのですが、後の雄略天皇となる大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、焼き殺されたという事件です。 ただ仇討ちをするのは、屈強な男性のみとは限りません。力量のない女性や子供などを助けるのを助太刀と言いますが、仇討ちは決闘です。仇とされる側にも正当防衛権があり、仇討ちに行って逆に殺害された場合は、『返り討ち』と言われました。建久四年(1193年)に起きた曾我兄弟の仇討ち、寛永十一年(1634年)の伊賀上野の仇討ち、元禄十五年(1702年)の忠臣蔵は三大仇討ちとされていますが、曾我兄弟の仇討ちは、郡山と深い関係があったのです。「曽我兄弟の仇討ち」は、武士であった曽我兄弟が、父親の仇を討った事件です。見事仇討ちを成功させた曽我兄弟は武士の模範とされ、武士の仇討ち文化のきっかけを作ることになりました。 建久四年(1193年)、三月から五月にかけて源頼朝は巻狩りを計画、信濃国三原野、今の群馬県長野原町で実施しました。巻狩りとは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)べの一種で、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止めるという大規模な狩猟です。源頼朝の主宰する巻狩りは天下における晴れの舞台であり、これに勝るものはなかったのです。当時、那須野が原では狩りをしなかったので、鹿や猪が多く住んでいました。ですから狩がはじまると、近隣の住民は、我も我もと巻狩りの見物に集まったと言われます。そして那須野原での狩りの後、頼朝は梶原景時を呼び、次のように話したといわれます。「東国には狩庭多しと言えども、富士の野に過ぎたる所はなし。その野を狩らむ」 頼朝は駿河国の富士野で巻狩を行うことを景時に伝えたのです。景時はこれを広く通達しました。 富士野での巻狩りの実施を聞き付けた五郎は、「富士野の御狩りと知った、敵を我らが手に懸けねばならぬ、我らが身をも我らが命をも、敵のため捨ててこそ、悪霊・死霊ともなって御霊の宮とも崇められるであろう」 五郎はこの狩りを好機と捉えて喜び、「これまで仇討ちが達成できなかったのは隙を伺っていたためである。今度は頼朝の前であっても恐れず、陣内の侍にも怯むこと無く断行するべきである」と述べたという。このように富士野の地に至る前より、兄弟はすでに死を覚悟していました。ここから兄弟は、祐経を討つために行動していくこととなるのです。 曽我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野、現在の静岡県富士宮市で起ったことですが、『吾妻鏡』は更に詳細に、富士野の神野で発生したと記しています。兄の曽我十郎祐成(すけなり)が22歳、弟の曽我五郎時致(ときむね)が20歳の時のことでした。富士野は、富士山の西南の麓の地名で、特に源頼朝により執り行われる富士の巻狩りの狩場でした。『曽我物語』によると、仇討ちの発端は、安元二年(1176年)十月に兄弟の父である河津祐泰(こうづすけやす)が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の家来に暗殺されたことによるとあり、それは祐泰が31歳、十郎が5歳、五郎が3歳の時でした。祐経は「心を懸けて一矢射てむや」という所領争いの相手であり、妻の万劫を離縁させた人物でもある伊東祐親の暗殺を家来に命じていたのですが、実際には、矢は祐親ではなく祐泰に命中して非業の死を遂げていたのです。その仇にあたる祐経を曽我兄弟が討った事件です。ただし兄弟の母が曽我祐信(すけのぶ)と再婚したため、兄弟は河津姓ではなく、曽我姓を名乗っていました。 建久四年(1193年)五月、源頼朝率いる御家人団がこの地で巻狩を行ったことが吾妻鏡に記されています。五月八日の項に、『将軍家、富士野・藍澤原(あいさわはら)の夏狩りをご覧給わんがため、駿河国へ赴かしめ給ふ』とあり、五月十五日の項には、「藍沢原の御狩事終りて、富士野の御宿に入御す」とあります。さらに翌十六日の項には、「富士野の御狩の間(あいだ)」とあることから、藍澤原での狩りの後に富士野へと移動し、そこで大規模な狩りを行っていたことが分かります。藍澤原は、今の静岡県東部の地名で、富士山の東の麓から箱根山の西の麓にかけて、現在の駿東郡小山町、御殿場市、裾野市、長泉町、沼津市、三島市にまたがる広い範囲を指していました。『曽我物語』によると、頼朝一行を追う曽我兄弟が、小田原から西へ足柄峠を越えて藍澤原を目指すか、または南の箱根山を越えて行ったかの二つの意見があります。 巻狩りに曽我兄弟が参陣していることを知った頼朝は不審に思い、梶原景季(かげすえ)に命じて2人を討とうとしたのですが、察した兄弟は姿を消しました。その後も兄弟は、工藤祐経(すけつね)を討つチャンスをうかがっていたのですが失敗します。その巻狩りの最後の狩場として、頼朝は『白糸の滝』の付近に陣を構え、工藤祐経の陣は『音止の滝』の東方に構えていました。そして決行の夜、外は車軸を流すような大雨で、時折稲妻が光っていました。雨の音、稲妻の音。その中で二人は、天地に響けとばかりの大音声を発したのです。「我こそは曽我十郎祐成(すけなり)、同じく五郎時致(ときむね)なり。親の仇、工藤祐経(すけつね)を討つべくここにまかり出るなり。我と思わん者は、我らの首を取って名を上げよ!」 けれども大雨の中。まして、人々は連日の狩りの疲れと酒の酔いで深く眠り、一人も起き出してこなかったと言います。兄弟は、工藤祐経(すけつね)頼の宿泊所に押し入り、酔っていた工藤祐経をあっさり討ち取ってしまったのです。祐経の傍に居た遊女たちは悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となりました。問題はその後です。騒ぎを聞いて駆けつけた御家人たちと兄弟との間で、壮絶な斬り合いが始まり、兄の十郎は新田忠常との激闘の果てに死亡しました。しかし逃げた御家人を弟の五郎が追った先に、頼朝の寝所があったのです。頼朝は驚愕し、自ら刀を手に迎え撃とうとしました。しかし次々と御家人が間に入り、五郎はついに捕縛されたのです。 吾妻鑑の五月二十八日の項に、「曽我十郎祐成(すけなり)・同五郎時致(ときむね)、富士野の神野の御宿に推參致し、工藤左衛門尉祐経(すけつね)を殺戮す」とあります。源頼朝は、工藤祐経を総奉行として、富士の裾野で大巻狩を催していたのです。 翌日、五郎の尋問が頼朝の面前で行なわれました。頼朝が、「私に対して、何か含むところはあったのか」と問うと、「当然、抱いていました」と五郎が白状、つまり父の仇討ちに乗じて、頼朝をも亡きものにしようとしていたことが露見したのです。理由は、頼朝が、兄弟の祖父の伊東祐親を殺したこと、さらに自分たちの父を殺した工藤祐経を重臣としたことに対する深い恨みがあったと言うのです。しかし、その堂々とした振る舞いを見た頼朝は、「あっぱれな男子の手本。これ程の男子は末代にもあるまい」と称賛し、命を助けるとまで言い出したと言われます。この助命を提案した頼朝に対し、梶原景時は、今後も同様な狼藉の発生することを案じ、処刑するようにと諫め、また工藤祐経の子が泣いて処罰を懇願したので、やむなく斬首が決まったと言われます。そして五月二十九日、五郎は首をはねられました。そのとき首切り役人はわざと刃を潰した刀を使ったため、五郎の首を斬るのではなく、引きちぎる結果となったと言われます。その塗炭の苦しみは、目をそむけんかりの異常なものであったと言われ、そのためもあってか、後に首切り役人は五郎の亡霊に大いに悩まされることとなったとも伝えられています。これがいわゆる、曽我兄弟の仇討ちです。しかしこの事件の直後、鎌倉では頼朝の消息を確認することができないでいました。 三十日になって、この事件の顛末が北条政子に飛脚で知らされました。頼朝の安否を心配していた妻の北条政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた頼朝の異母弟の源範頼(のりより)が、「範頼が控えておりますのでご安心ください」と見舞いの言葉を送っていたのです。また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通しています。頼朝はこの手紙の内容に涙し、手紙類の保存を命じたと言われています。 六月一日、十郎の妻の『虎』をはじめとする多くの人物に対して詮議が行われましたが、間もなく虎は、放免されました。 六月七日、頼朝は富士野を出て、鎌倉に向けて出発しました。そこで頼朝は曽我太郎助信を呼び、曽我荘、今の神奈川県小田原市の年貢を免除することを知らせ、それを曽我兄弟の供養のため用いるようにと命じ、曽我兄弟の菩提を丁重に弔うようにと命じています。事件後になって、虎は仇討ちの現場であり十郎最期の地である富士野の屋形を弔問しています。 この曾我兄弟の仇討ちは、何者かが仕組んでの頼朝暗殺未遂だったという説があるのです。その後、鎌倉で起きた粛清の嵐で消えた者たちが、その黒幕の候補とされているのです。粛清の対象になった筆頭は、頼朝の弟の源範頼です。範頼は曽我兄弟によって頼朝が討たれたという誤報を聞き、次の鎌倉殿の座に意欲を示すかのような発言、「範頼が控えておりますのでご安心ください」をしたからです。そのことが原因で、範頼は伊豆の修禅寺に幽閉され、歴史から姿を消しています。殺害されたとの説が有力です。また黒幕がいたとしても誰であったかは謎で、結論は出ていません。もちろん黒幕など存在せず、曽我兄弟の単独犯行だった可能性もあります。しかし結果から見れば、曽我兄弟の仇討ちを機に、謀叛を企てそうな勢力が排除されていることから、仇討ち事件と粛清が水面下でつながっていたとする説は少なくないのです。この事件は、幕府の内紛を本格化させる口火となり、御家人たちは血で血を洗う抗争に突入していく原因となったのです。 いずれにせよ、この『曾我兄弟の仇討ち事件』は、郡山最初の領主となる伊東祐長の父が殺害された事件だったのです。
2023.03.01
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3 源義経と静御前 源頼朝は、勝ち戦で京に戻った義経に対し、京での勤務を命じて鎌倉への帰還を禁じました。それでも鎌倉へ戻ろうとした義經を、頼朝は鎌倉郊外の満福寺に留め置いたのです。義経がこのような怒りを兄の頼朝から受けた原因は、頼朝の許可の無いままに朝廷より官位を受けたことが挙げられますが、そのことは、まだ官位を与えることが出来る地位になかった頼朝の存在を、根本から揺るがすものであったのです。また壇ノ浦での戦いで安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、さらに三種の神器を紛失したことなどにもあると言われます。鎌倉へ入ることを許されなかった義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩(ともがら)は、義経に属くべき」と言い放ったのです。これを聞いた頼朝は激怒し、義経の所領をことごとく没収してしまいました。頼朝に追われた義経は、静御前や家来を連れて吉野に身を隠したのですが、ここでも頼朝方の追撃を受けて静御前が捕らえられ、鎌倉の安達新三郎清経(きよつね)に預けられました、そこで静御前の懐妊が発覚したのです。吉野にも居られなくなった義経は、平泉の藤原秀衡を頼って奥州へ赴きます。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたと言われますが、この逃避行の話で有名なものが、歌舞伎十八番の演目の一つの勧進帳です。これは源義経が奥州に落ちのびる際に、安宅の関の関守の平権守(たいらのごんのかみ)に、「義経殿だ」と怪しまれるのですが、弁慶が、その嫌疑を晴らすために扇で義経を打ちすえるという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一節があります。しかしこれは、後の時代に創られた話で、史実ではありませんが、歌舞伎以外でも多くのドラマやアニメなどでも取り上げられるほど親しまれている作品です。ところで平家との戦いやこの戦いなどで勲功を認められた工藤祐経(すけつね)は、各地に領地を与えられていますが、その一つが郡山であったのです。 文治二年(1186年)年、源頼朝は、源氏の氏神である鶴岡八幡宮で、平家撃滅の戦勝を祝した宴を開きました。身重の体で吉野の山中を彷径っていて捕らえられていた静御前は鎌倉に呼びつけられ、頼朝と初めて対面し、神前での舞を強要されたのです。このとき静御前の舞った舞は、『吉野山 峰の白雪ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき』であり、『しずやしず しずのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな』というものです。実はこの歌はパロディーであって、オリジナルの歌がありました。それは伊勢物語の出て来る『いにしへの しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな』というものでした。この歌の意味は、ある男が、むかし付き合ってた女性にこの歌を捧げて、「もう一度昔みたいに会いたいなぁ」と言ったけど、女の人は何の返事もくれなかった、というものです。 そしてこの、『しずのおだまき』という言葉には、裏があります。それは、古今集にある、『いにしへの しずのおだまき いやしきも よきも さかえは ありしものなり』という歌です。ところで『おだまき』というのは、糸を繰る道具です。くるくる廻るので、『繰り返す』という言葉の枕詞になっています。頼朝は、若い時は都で過ごしていますので、趣味が都人のようなところがあったそうです。ですから、古今集のこの歌は知っていたと思われます。意味は、「昔、あなたは伊豆の蛭ヶ小島に流されていた罪人でした。今はときめいていますけれども、出来る事なら昔の様にあなたを罪人に戻してしまいたいものですねぇ」という意味だったのです。これは、静御前の源頼朝に対する痛烈な皮肉であり、呪いの歌だったのです。この静御前が舞った時、鼓を担当したのが、楽曲に巧みであった工藤祐経(すけつね)であり、『工藤一臈(いちろう)』と呼ばれていたほどでした。一臈とは、年功を数える言葉で,最長老を意味します。吾妻鏡にも、『二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。伊東左衛門尉祐経、鼓たり』と記載されています。そしてその踊りの最中に、しかも重臣列座の中で、頼朝は口を開いたのです。「今ここで、静の腹を裂いて赤子を取り出し、この目の前で殺してしまえ!」 これは、あまりにも残酷な話です。しかしこの悲しみは、頼朝自身も若い時に経験したものでした。前にも申し上げましたが、まだ頼朝が平家に囚われ、流刑人とされて伊豆に居たとき、その身柄を預かっていた工藤(くどう)祐隆(すけたか)の娘の八重と恋に落ちて生まれた男の子の千鶴丸を殺されているのです。そして今、頼朝は、同じことを静御前に要求したのです。しかしさすがに、「今ここで」というのは無理があるということになり、後に出産した時に男子であれば即、殺すということになります。ちなみに、そののちの事になりますが、静御前の子は男の子でした。この子は生まれると同時に川に投げ込まれたのです。頼朝の子の千鶴丸と同じように・・・。ここのところの話は、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも放映されています。 一方、義経を引き取った平泉の藤原秀衡は、関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州の自身に及ぶことを懸念し、義経を指導者に立てて頼朝に対抗しようとしたのですが、文治三年(1187年)に病で亡くなってしまいました。そこで源頼朝は、後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう強く圧力をかけたのです。泰衡は再三に及ぶ頼朝の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」と言い残した父の藤原秀衡の遺言を破り、500騎の兵をもって10騎あまりの義経主従を衣川館に襲ったのです。義経の家来たちは必死に防戦したのですが多勢に無勢、ことごとく討ち果たされました。この衣川館で藤原泰衡の兵に囲まれたとき、義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てました。享年31歳でした。このとき持仏堂に籠った義経たちを死しても護ったという、『弁慶の立ち往生』の話が有名です。 義経の首は腐敗を避けるため酒に浸され、黒漆塗りの櫃に収められて43日をかけて鎌倉に送られました。文治五年(1189年)六月十三日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、今の鎌倉市の『腰越ノ浦』で行われました。伝承によりますと、義経の首は神奈川県藤沢の白旗神社に祀られたとされ、位牌は藤沢市本町四丁目の荘厳寺にあります。そして義経の胴体は、宮城県栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。いまも白旗神社は、小田急江ノ島線の『藤沢本町駅』近くにありますが、白旗神社の説明書きには、『伝承では弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています』とあるそうですから、平泉から運ばれた首は義経1人のものだけではなかったことがうかがえま d ところで郡山に、源頼朝に都を追われた義経を慕った静御前が、従者の小六と乳母の『さいはら』を供として、陸奥国の花輪、今の大槻町の花輪に辿り着いたという伝説があります。それは、静御前が、義経は、さらに遠い北の平泉にいると知り、この地を治める花輪長者の世話でこの地にとどまったというものです。ところが平泉へ向かう準備をしていたのですが、義経が討たれたという知らせを聞き、今の大槻町にある美女池に身を投げたと言われます。これを哀れに思った花輪長者が、石碑を立てて弔ったのが、今の静町にある静御前堂の始まりと伝えられています。それから約400年後の戦国時代になっての話ですが、この地を治めていた大槻城主の伊東左衛門高行は、村内の塚から夜な夜なあやしい光が放たれ、村人が恐れているという話を耳にしてその塚を調べ、出てきた石碑からこの地が静御前を祀った場所であることを知ったというのです。そこで高行は、静御前を祀るお堂をこの地に建てましたが、のちの天明三年(1783年)に再建されたものが現在の静御前堂であるとされます。なお、乳母の『さいはら』が針仕事を教えていた地は今の大槻町の針生、静御前が化粧を直した場所は今の三穂田町下守屋の化粧坂、小六が死んだ場所は今の逢瀬町多田野の小六峠、静御前が身を投げる前に『かつぎ』を捨てた沼は今の三穂田町川田の『かつぎ沼』そして身を投げた池が『美女池』と呼ばれるようになったと言われます。なお『かつぎ』とは、貴婦人が外出するときに頭からかぶった衣服のことです。ちなみに、郡山最初の大規模住宅団地の名の静町は、近くにある静御前堂を意識して付けられた町名であると言われます。
2023.02.20
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2 源氏再興 平治の乱において平家に敗れ、父の源義朝が戦死したことにより、源頼朝は14歳で伊豆半島の蛭ケ小島へ流罪とされ、平家方である工藤(くどう)祐隆(すけたか)がその身柄を預かっていました。ところが、この祐隆(すけたか)が上洛している間に頼朝と祐隆(すけたか)の三女の八重が通じ、千鶴丸という男の子を出産していたのです。その千鶴丸が3歳になった時に祐隆(すけたか)が帰郷してそれを知り、激怒し、『平家の敵である源氏の血を引く』との理由で自分の直系の孫である千鶴丸を川へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとしたのです。しかし頼朝は、近くの北条時政の屋敷に逃がれました。この時政の屋敷に逃げ込んだ頼朝は、やがて、時政の娘の政子と結ばれるのです。 治承四年(1180年)八月、源頼朝は逃げ込んでいた北条時政の後ろ盾を得て、源氏の再興を謀って石橋山に挙兵したのですが、前面に平家方の軍勢3000、背後からも平家方である八重の父の祐隆(すけたか)の軍勢に挟み撃ちにされて敗れ、わずかの兵とともに小船で安房に逃れました。しかしその後、体勢を立て直し、関東での勢力拡大に成功した頼朝勢に対し、劣勢となった平家方の工藤祐隆(すけたか)が都へ逃げようとしているところを源氏方に見つけられ、生け捕りにされてしまいました. 一方で、源頼朝の弟の牛若丸は、父の義朝が平家に敗れて戦死していたことから、その係累としての難を避けさせるため、2歳で母の常盤御前の腕に抱かれて大和国へ逃れました。しかしその後、常盤御前は公家の一条長成と再婚したため、牛若丸は11歳の時に京都の鞍馬寺へ預けられたのです。仏門に入るということは、現世の縁(えにし)を切るということを意味しました。この頃に知り合ったのが武蔵坊弁慶であるとされています。武蔵坊弁慶は、『義経記』によると熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるのですが詳細は不明です。元は比叡山の僧で武術に励み、五条の大橋で牛若丸と出会って戦って以来、その家来として最後まで義経に仕えたとされます。しかし牛若丸は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行って義経を名乗り、弁慶を供にして奥州の藤原秀衡を頼って平泉に下ったのです。 さて話しを戻しましょう。河津祐家(こうづ すけいえ)の子の祐親(すけちか)は、工藤の本家を継いでいる若い娘の子の祐継(すけつぐ)を恨みに思っていました。そこで祐親(すけちか)は、箱根権現に『祐継(すけつぐ)呪い殺し』の願をかけたのです。たしかにこの時代には白衣を着、五徳の足に蝋燭を灯して頭に乗せ、鏡を胸に下げて、呪う相手を象った藁人形を、鳥居や神木に打ち付けて恨みを晴らすなどということが行われていましたから、そのこと自体は、特に不思議な話ではなかったのです。ところがなんと、その願いの効果があったものか、祐継(すけつぐ)は重い病気になってしまったのです。祐継(すけつぐ)は、祐親(すけちか)の抱いている恨みを知らず、我が子祐経(すけつね)の後見人に祐親(すけちか)を指名すると間もなく、43歳の若さで亡くなってしまったのです。まだ9歳に満たなかった祐経(すけつね)は、従兄弟となる祐親(すけちか)に対して大きな信頼を寄せていました。祐経(すけつね)もまた、祐親(すけちか)に恨まれていることを知らなかったのです。祐継(すけつぐ)の亡くなったのち、祐経(すけつね)が信頼を寄せているのをよいことに、祐親(すけちか)は河津から祐経(すけつね)の領地である伊東に移り住み、自身の娘の万劫を祐経(すけつね)に嫁がせたのです。その後、祐経(すけつね)は上洛して平重盛に仕えていました。ところがその留守中、祐親(すけちか)は祐経(すけつね)の領地である伊東を奪い取ってしまい、しかも祐経(すけつね)に嫁がせていた娘の万刧を引き戻し、自身の甥にあたる土肥遠平に嫁がせてしまったのです。祐経(すけつね)は都で訴訟を繰り返したのですが、祐親(すけちか)の根回しにより失敗に終わっていました。 領地と妻を奪われた祐経(すけつね)は河津(こうづ)祐親(すけちか)を深く怨んでその殺害を図り、安元二年(1176年)、家来に命じて、奥野、今の伊東市の奥野ダムの狩り場から帰る途中の祐親(すけちか)父子を襲撃させました。しかし家来は、本来の祐親(すけちか)を討ち漏らし、間違えて祐親(すけちか)の嫡男・河津祐泰(こうづ すけやす)を殺害してしまったのです。後には祐泰(すけやす)の妻と、その子の五郎と十郎の兄弟が残されました。祐泰(すけやす)の妻は子を連れて曾我祐信(そが すけのぶ)と再婚し、五郎と十郎の兄弟は、後に曾我兄弟として世に知られることになるのです。なお、祐隆(すけたか)が都へ逃げようとしていて源氏の生け捕りにされたのは、祐親(すけちか)に伊東の地を乗っ取られ、挙句に妻の万劫まで奪い取られた恨みから、祐経(すけつね)が源氏に加担し、通報したことによるものかも知れません。しかし翌十五日、祐親(すけちか)は自殺をしています。これもあって祐経(すけつね)は、頼朝に重用されるようになったと言われます。 治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵したことを知った義経は、平泉から兄の頼朝のもとに馳せ参じました。寿永三年(1184年)、義経は一ノ谷の戦いにおいて、鵯越の峻険な崖から逆落としを仕掛けて平家本陣を奇襲し、義経勢の大勝利となりました。そして文治元年(1185年)、義経は暴風雨の中を少数の船で出撃し、瀬戸内海沿いにあった平家の拠点である屋島を奇襲しました。『屋島の戦い』です。この戦いにおいて、平教経(たいらのりつね)の放った矢で義経が射られそうになったのですが、佐藤継信が義経の盾となって討死しました。佐藤継信は、現在の福島市出身の武士です。『吾妻鏡』によりますと、その後の壇ノ浦の戦いで、二位尼が草彅の剣と天皇の印である神璽を持って海に飛び込み、その後を追って、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあります。義経は平家を滅亡に追い込み、京都に凱旋しました。この戦いで戦功があったのか、工藤祐経(すけつね)は、日向国国富、今の宮崎県東諸県郡国富町、豊前国規矩、今の福岡県北九州市小倉区および門司区あたり、長門国三隅、今の山口県大津郡三隅町など西国の各地に領地を与えられ、さらに駿河(静岡県)・相模(神奈川県)の国守に任ぜられたのです。
2023.02.10
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1)お家騒動 福島県の中央部、郡山駅より直線距離で10キロほど西に、郡山市片平町があります。この町の住宅地の中に、地元の人が『館山』と呼ぶ小高い丘があり、そこには『上館』『中館』『下館』が、またその周辺には『外堀』『新堀』などの地名が残されており、『寺下』には、『常居寺』『岩蔵寺』『廣修寺』の3つの寺が並んでいるのです。ここには、規模の大きな舘があったと想像出来ます、片平の名物と言ってもよく、このように違う宗派の寺が並んでいるのは、全国的にも珍しいということです。『郡山の歴史』によれば、文治五年(1189年)、工藤祐経(くどうすけつね)が安積郡の地頭になったとあるのですが、祐経自体が安積の地を踏んだという記録はありません。なお地頭とは、鎌倉幕府や室町幕府が、荘園や公領を管理支配するために設置した職で、守護とともに設置されたものです。鎌倉時代になると、源頼朝が朝廷からの認可を得て、全国へ地頭を設置しています。片平の3つの寺についても、天正年間の1500年代の後半、この地を治めていた安積伊東氏により、別々の場所にあった3つの寺が現在の地に移されたと伝えています。3つある寺のうち、中央に建つ岩蔵寺の木造十一面観世音菩薩立像は、郡山市指定重要有形文化財に指定されているものです。そして常居寺は、3つある寺のうち向かって左に位置する寺で、山号を霊鷲山と号し、別名、西の寺と呼ばれています。この常居寺は安積伊東氏の菩提寺であり、寺に向かって左手奥の山には、片平城主歴代の墓が残されているほか、境内には鳴き龍がある竜宮門風の楼門、摩尼車、そして日本庭園などがあります。また、寺に向かって左手手前の丘には、奥羽大学の解剖献体者慰霊塔が建てられており、毎年、慰霊祭が行われている寺です。 2001年5月、私は新聞で、工藤祐経逝去八百八年の記念として、常居寺に『工藤祐経の墓』が建立されたことを知りました。工藤祐経が安積郡の地頭になったとされてはいますが、実際に、安積に赴任したとの記録はありません。しかも彼は、富士の山麓で、曽我十郎と五郎による仇討ちに会って亡くなっていますから、郡山に来ていないことは確実と思われるのです。それにも拘らず、墓が作られたというのです。なおこの曽我兄弟の仇討ちについては、後ほどの項でお話しします。私はこれらの事情を聞くため、常居寺を訪ねてみました。寺の住職は私の質問に対し次のような話をしてくれました。 「実はこの墓碑は、郡山最初の領主である伊東祐長(いとうすけなが)の末裔であるという、旧田村郡の西田町に住んでいる方の発願により建立したものです。建立に際して、戒名は『祐徳院殿智勝秀雅大居士』としました。これは伊豆の現地に戒名が残っていないことを確認し、そちらの市役所の了承を得て新たに付したものです。常居寺に伝えられている口伝によると、安元二年(1176年)の頃、伊豆の伊東より片平に来た工藤祐経(くどうすけつね)が片平に上館城を構えて初代城主となりました。そしてその長男の工藤祐時(くどうすけとき)、戒名が常居寺殿仁空智賢大居士ですが、片平の岩倉上居(いわくらじょうこ)の地に常居寺を開創しました。寺の名は、工藤祐時(くどうすけとき)の戒名の常居寺殿に由来したものです。それから工藤祐時(くどうすけとき)の弟の伊東祐長(いとうすけなが)は、息子が少なかったと思われる兄の祐時の頼みに応じて、わが子を日向国(宮崎県)の国富に派遣したとの言い伝えが残されています。」この話に加えて、私は常居寺の寺紋について尋ねてみました。ここの寺紋は、16花弁の菊の紋、つまり天皇家の紋と同じだったのです。それについて住職は、こう話してくれました。「今も寺で使われている菊の紋は、後醍醐天皇の前の第95代の花園天皇より賜ったものです」 さてここに出て来た花園天皇は、1297年から1348年の間に在位した天皇です。すでに南北朝の騒乱の前の段階になっていました。それにしてもこのような時代、この鄙にある常居寺を、京にある花園天皇が、どのような理由で知り、そして菊の紋を使わせたのでしょうか。不思議な話です。それにしても常居寺の住職の話には、年代や史実などに合わないところもあるのです。しかし口伝とあれば、仕方がないのかもしれません。いづれにしても、現在でも郡山から九州へ行こうとすれば大変なのに、歩いて九州の日向に行ったというのですから、その理由も含めて、大変興味を持ったのです。そこで私は、寺があったという岩倉上居に行ってみたのですが、岩倉上居には墓地跡などが残されていませんでした。ということは、寺が墓地ごと片平に移転したか、または上居の寺は仮寺であったのではないかと推測することができます。 私は、郡山最初の領主と言われる伊東祐長について調べてみました。最初に驚かされたのは、伊東祐長の曽祖父である工藤(くどう)祐隆(すけたか)が、今上天皇直系の先祖であるという説のあることでした。https://rekishi.directory/で知ったのですが、本当かどうか、私には確認することができませんでした。ともあれ、工藤祐隆は藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目であり、伊豆国久須美荘の開発領主であり、狩野氏、河津氏などを派生しています。この工藤祐隆は、平家方の武将でした。この祐隆が、工藤氏および伊東氏の名前に共通な通字、『祐』の元祖となりましたので、以後この話の進展に多くの『祐』の字の付く人が登場します。ややこしいと思われるでしょう。そこで、ここに略系図を掲げました。それでも理解しやすいようにと、名にルビを付してみました。(済みません。技量不足でUPできませんでした) さてこの工藤(くどう)祐隆(すけたか)には、正室との間に長男の祐家(すけいえ)がいたのですが、ある若い後家を、娘連れのまま自分の側室としたのです。ところが何を血迷ったのか祐隆(すけたか)は、この側室の連れてきた娘に手をつけたので、娘との間に男の子の祐継(すけつぐ)が生まれてしまったのです。それでも祐隆(すけたか)が、長男で正室の子である祐家(すけいえ)に家を継がせていれば問題は少なかったのでしょうが、若い娘の産んだ祐継(すけつぐ)の方を可愛がり、幼いうちから家督を祐継(すけつぐ)に譲ってしまいました。そこで、本来の跡継ぎであるはずの祐家(すけいえ)には、少しばかりの領地を、今の静岡県河津町(こうづちょう)に分家として追い出してしまったのです。さてここに、河津(こうづ)が出てきますね。これは文字が違いますが、郡山の河内(こうづ)と関係するようなのです。これについては、後ほどの項でお話しします。ところで正室の子である祐家(すけいえ)にしてみれば、面白くない状況に立ち至ったということになるのですが、父の祐隆(すけたか)の命令ですから、やむを得ず河津に移りました。そこで祐家(すけいえ)は父の姓である工藤(くどう)を捨て、その土地の名である河津(こうづ)に姓を変え、河津祐家(こうづ すけいえ)となったのです。今でもこんなことをすると家庭は揉めますよね。ここでも、。血で血を洗うような大揉めに揉めたのです。
2023.02.01
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