三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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守山藩の目明かし・⑤ 金十郎の金掘り職人探し 金沢村、今の田村町守山金沢にある禿山が、銀山ではないかとの検分のために、江戸の山師の三人が守山に到着しました。彼らは銀という性質上、秘密裏に試掘するのが目的でした。彼らは陣屋に対して、「山色がすこぶる良く、掻き流しも二ヶ所付けられそうなので、試掘して検査したい。それについては半田銀山、いまの桑折町の半田銀山から二・三人の金掘り職人を雇いたいが、信用のある目明かしを派遣してもらいたい。」と申し出たのです。そこで選ばれた金十郎は、郡山で一人の金掘り職人を探し出したのですが、半田の仲間にも、金掘り職人を見つけるよう頼みました。間もなく半田銀山から、金掘り職人が二・三日以内に守山に着くと連絡があったので、それを陣屋に報告しました。いよいよ堀り始めた頃、銀山が守山藩直営となったので惣奉行が任命され、その下で金十郎と新兵衛が現場の見回りをするように命じられたのです。銀山惣奉行は、掘り出した銀山の荷を出荷して間もなく、江戸へ出立しました。その後、灰吹銀の結果が陣屋に知らされてきたのですが、思わしいものではなかったといわれます。 越後女の縁談 法度とされながらも、金十郎が無宿者の世話をしたり、縁談の仲介をしたりすることは、たびたびありました。二本松から越後高田、いまの新潟県上越市に移り住んだ金具師の喜右衛門は、新発田藩家中の大刀と小刀を六腰盗み、守山へ逃げて来たのですが、その後二本松へ戻って行ったようでした。越後に残されていた男の女房が居づらくなり、目明かしの金十郎を頼って守山に移って来たものの、夫の行方は確かではなかったので、そのまま金十郎の世話になっていました。そこで金十郎は、この女を源七の家の手間稼ぎに送り込んだのですが、女房を亡くしていた源七の後添えに良いと思って世話をしたのです。ところが守山藩では、他領よりの入籍と他領への移籍は、陣屋に届け出て許可を得る決まりになっていました。それなのに金十郎が無届けにしていたのは、役目柄、不届きであると決めつけられたのです。この処分について、金十郎の菩提寺である金福寺が、訴願にやってきたのですが許されず、三度にも渡った訴願により、ようやく処分が解かれました。 目明かし新兵衛の罷免 金十郎と一緒に目明かしをしていた新兵衛が、罷免されました。彼が隠れて鉄砲を持っていたという嫌疑から発展し、免職になったものです。寛延の大一揆のとき、目明かしの新兵衛を引き渡しの要求があった位でしたのに、その後も、脅しや強請(ゆすり)や、たかり、その他にも示談屋的な行動が治まらなかったのです。新兵衛と村役人が呼び出され、「家で人寄せをするな。」「他領の風来者を、一夜でも泊めるな。」「縁組など他人の世話をするな。」「大元明王の祭礼であっても、神楽打ちや薬売りの宿はするな。」という内容の禁止条項が読み聞かされた上で、免職を申し渡されたのです。これには、金十郎も同席させられていました。 風来者 風来者とは、街道筋を無宿者のヤクザや無頼の徒が、一人旅の姿で徘徊するのを言います。俗に、旅烏とか一匹狼というのがそれにあたります。守山陣屋でも、もし『風来者』が来たら、『例え一人であっても泊めないようにせよ。』との触書を出していました。そのような一人者の風来者の幸八が、河原者に袋叩きにされ、守山領から追い出されたのですが、舞い戻った幸八は、大雲寺に押し入ったのです。知らせを受けた金十郎はこれを逮捕したのですが、まだ何も盗んだわけではありませんでした。泥棒とも強盗とも認めるわけにいかず、守山陣屋ではこの事件の始末を金十郎にまかせました。そこで金十郎は、「二度と再び、ここへ来るな!」と叫びながら、力一杯鞭で叩いて守山領から追い出したのです。なおここに出てくる河原者とは、動物の屠殺や皮革加工を業とした者たちで、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれていたのです。河原に居住した理由は、河原が無税であったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説があります。 無宿者人の始末 三春藩郡奉行から、手紙が届きました。それは三春領過足村、いまの三春町過足の全応寺の隠居所に強盗が入り、住んでいた隠居を絞め殺した犯人を二本松領の郡山で逮捕したのですが、その犯人は、守山領蒲倉村、今の郡山市蒲倉町の述五郎と言っているが、間違いないか、というものでした。述五郎は守山領内の者ではあったのですが、事件を起こした場所が三春領内であったので、三春藩の処置に任せています。このような悪事をした述五郎の罪状がどうなったかは、不明です。 強制欠け落ちの顛末 金十郎は、クビにされた新兵衛に代わって、新しく目明かしとなった兵蔵とともに、強制的な夜逃げに関係することになりました。これは、三春領で強盗同様の犯罪を犯した蒲倉村の喜十郎を、面倒が起きないうちに守山領から強制的に追い出してしまおうというものでした。その犯罪の内容は、喜十郎が三春領春田村の庄左衛門宅に押し入り、カネを盗ろうとしたことです。喜十郎は庄左衛門に抵抗され、家族の者に大声で騒がれたので、何も取らずに逃げ出しました。守山領の者が三春領で事件を起こしたのは、陣屋としては実に具合が悪いことです。そこで無理にでも守山から追い出して、三春藩との関係を穏便に済ませようとしたのです。喜十郎は、いったんは納得して家財道具の始末をし、挨拶のため祖父の元へ行ったのですが、朝になって金十郎の家に現われ、「自分は相手に何の実害を与えていない。それであるから、逃げ出したりはしない。」と申し出てきたのです。金十郎の報告を聞いた守山陣屋では召喚状を発して身柄を拘束すると脅しました。驚いた喜十郎は、次男を連れて逃げ出したのです。 酒造業の看板 守山陣屋は、領内の酒造業者十二軒に、酒林と新諸白、一升ニ付何程との書付を出すようにとの指示を出しました。ところが何軒かの酒屋がそれに従わなかったため、それぞれに営業停止の処分をしたのです。酒造業者らは、一様に、そのような指示を知らなかったと申し立てたのですが陣屋ではそれを認めず、我儘な仕方で重重不届であるとして、商売の遠慮を申し付けたのです。町内の僧侶たちが陣屋に行って彼らの無罪放免を願うことで、事なきを得ることができました。ともあれこのような問題などで領民が困った時、僧侶が仲裁に立ったのです。酒林とは、杉の葉で作られた大きなボールのようなもので、その枯れ具合で酒の熟成度を客に知らせる看板のようなものです。 寛延大一揆 寛延二年(一七四九年)十二月十一日桑折、いまの桑折町の代官が支配する幕領で、百姓一揆が勃発すると、十四日には三春藩で、二十日には二本松藩で、二十二日には会津藩でと、たちまち広がっていきました。そして二十三日の夜からは、守山領の北部で、一揆の火があがったのです。そこで発生した百姓の一揆の結束が南下しながら膨張、十二月二十五日には守山陣屋の門前まで押し寄せ、守山町をはじめ、大善寺村、山中村、正直村などで打ち壊しが始まりました。いわゆる寛延の大一揆です。この一揆発生の理由ですが、守山藩では、去年も今年も二年続きの凶作の上、この年の六月末には暴風雨に見舞われ、八月には大嵐があったので、凶作になるのは目に見えていたのです。そこへ他の藩で起きた激しい一揆の続発が、守山領北部の村々へ強い刺激を与えたのです。一揆の百姓たちが守山陣屋に突きつけた要求は、全部で十四ヶ条ありました。その主な要求は、三春藩、二本松藩と同じ様に年貢を半減にしてもらいたい、年貢米一俵につき五升三合取るのは止めてもらいたい、というものでしたが、それに加えて、目明かし新兵衛の身柄引き渡しの要求があったのです。新兵衛は、日頃から百姓たちから憎悪の目で見られていたので、真っ向からその怒りの波をかぶることになったのです。しかし新兵衛は、一揆による騒動の夜、母親が病のため看病をしていたので何も知らなかったと答申しています。怒涛のように押し寄せてくる一揆に対して、抗すべきもののないことを承知していた新兵衛の、逃げ足は早かったのです。この金十郎がヤクザの身ながら、この『御用留帳』の最初に名が出てきたのは、享保九年(一七二四年)のことでした。最初は、守山陣屋の御用を務める役でしたが、それから十四年後の元文三年(一七三八年)には、正式に『目明かし』となりました。彼が退任したのは明和七年(一七七〇年)でしたから、実に四十六年もの間、守山藩に奉職したことになります。彼が生まれた年の記述はありませんが、その時すでに、年齢は七十歳を越していたと思われます。
2024.10.01
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守山藩の目明かし・④ 阿久津村の芝居 宝暦二年(1752)四月に、阿久津村、いまの郡山市阿久津で金十郎が興行した歌舞伎芝居は、天候が不順にも関わらず、大きな成功を収めました。これらの芝居は野外で行われていたので、天候の良し悪しが、大きく関係していたのですが、初日の四月八日は天気がよかったのです。九日には少し雨が降りました。十日は晴天で十一日も晴天、十三日はおしなべて晴天でしたが、昼頃少々雨が降りました。このような雷雨のときには、当然興行にも支障が生じます。晴天七日の興行という条件で許可されていたのですが、九日が雨天でしたから、順延となっていました。その時の興行成績が残されています。四月八日 一、金一分・銭十一貫五百七十文 入千人程 十日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十一日 一、金一両・銭十六貫七十文 入二千人程 十二日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十三日 一、 銭三貫二百三十文 入三百人程 十四日 一、 銭九貫百文 見物人七百六十人程 十五日 一、 銭四貫七百文 見物人四百人程 これによると、十五日までの七日間の木戸銭総計は、金二両と、銭七十貫三百七十文でした。この年五月の守山地方の米相場は金一分につき五斗二升五合であり、銭相場は一貫五十文が金一分であったから、右の木戸銭合計は、おおむね米三十九石三斗七升五合、約百俵に換算されたのです。もっともこのような木戸銭収入は、客の人数を概数で示していることからも分かるように、むしろ低額に抑えて陣屋に報告するのが常でしたから、これ以上の収入があったと思われ、金十郎にとって大儲けであったと思われます。この阿久津村での興行は、阿武隈川の河原で行われたものと思われます。そして、このような場所で演じる役者は、河原乞食などと呼ばれていました。ところで。芸能興業の芝居地であるが、権勢を誇る寺社の境内では、一年を通じての常設興行はそもそも不可能であった。そして町家が密集する町域では仮小屋を作ることすら認められていなかった。遊芸民が市中に定住して、そこを拠点に活動しようとしても素性もよくわからぬ漂泊の『よそ者』として排除されることは目に見えていた。そこで浮かび上がってきたのは河原だった。なぜ河原が常設の興行地になっていったのか? さきに見たように町の地域から外れていて、取り締まりも厳しくなかった。そして興行に利用できる空間があり。小屋掛け工事の得意な河原者がいた。近世初頭の頃では、河原がまさに最適な興行空間であった。身分制の下辺に置かれて教育を受けることがなかった民衆は、自分たちがどう生きて行くかという問題について、積極的に自己主張する場を築くことができなかった。お上の政策に正面から楯突いてものをいう場合は、命をかけた一揆による他に方法がなかった。日頃の鬱憤を晴らすのは役者たちが舞台で演じてみせる仮構の世界であった。日常の不平不満を代弁し、支配権力の内実をそれとなく暴露する芝居を民衆は待ち望んだ。しかし。当時の武家社会の内実をリアルに描写することは禁じられていたから、歴史的時代に仮託して物語は劇化された。民衆もよく知っている。通俗的な中世史に寄りながら。史実や風俗も無視して。朝廷貴族や武家の姿を誇張した虚構で描いてみせたのである。史実を無視して、歴史上な有名人物を揶揄する荒唐無稽な物語は、抑圧されてきた人々の情動の浄化となった。世に入れられず、あぶれものとして。芝居に登場する無頼・無法・異端の徒にしても、鬱積した民衆の心情の代弁者として人気を博した。民衆は斜め下から世間を見据えていた。その民衆からの目からの、風刺と諧謔とこう笑が込められていたのであった。 芝居帰りの殺人 三春領下枝村、いまの中田町下枝で芝居が興行されたとき、守山領金沢村、いまの田村町金沢の半右衛門が見物に出かけました。その半右衛門が帰り道、何者かによって殺害され、三春領海老根村、いまの中田町海老根で、その死骸が発見されました。報告を受けた三春藩から代官の手代と下目付が来て検分を済ませ、そのまま早々に立ち去りました。その後三春藩の役人から、『三春藩の検分が済んだ。死体が損じるので早く引き取るように。』との手紙が守山代官に寄せられたのです。守山陣屋側からは、役人と死者の親類を連れて現場へ行ったところ、三春側からも見届けのため代官の手代と下目付が来ていて、その顛末を確認し合いました。その後にこの事件に対し、守山陣屋は金十郎に捜査を依頼しました。金十郎は、関係すると思われる金沢村、荒井村、蒲倉村、下行合村、下枝村、海老根村、高倉村で聞き込みをしていましたが、これという成果を得られないでいたところ、三春の目明かしから、「内密に相談したいことがある。」との呼び出しを受けました。金十郎は三春領赤沼、いまの中田町赤沼に行き、犯人の使った脇差が、「高倉村の宇衛門か重次郎のどちらかが買い取ったという風聞がある」と示唆してくれたのです。それにより逮捕された重次郎は拷問にかけられ、六年もの間牢獄生活を送ったのですが、ついに自白することがありませんでした。その後重次郎は、病気のため牢死しています。 婿養子の刃傷沙汰 須賀川から守山へ婿に来ていた藤吉が、行水を使っていた自分の女房を斬りつけ、犯行に用いた脇差をその場に投げ捨てたまま逃走しました。すぐさま町役人たちによる追っ手が須賀川に向かったのですが、逮捕には至りませんでした。陣屋では、「素人では役に立たぬ。」と言って、金十郎を送り込んだのですが、それも不発に終わっていました。ところが金十郎のところに、白河の小田川の遊び人から、「藤吉が江戸に上るのを見た。」という情報が入ったのです。そこで守山陣屋は、『水戸藩御用』の鑑札を金十郎に与えた上で、「江戸で犯人の捜査に入るときと逮捕の際は、江戸の役人に連絡するように」との指示を与えました。これは江戸市中の警察権は、全面的に南町奉行所と北町奉行所にあるので、これを侵害することは許されなかったからです。その金十郎が、ようやく、いまの茨城県境町で藤吉を逮捕し、連れ戻ってきました。藤吉の養父の元左衛門は、監督不行き届どきとのことで、戸締まりを命ぜられました。戸締まりとは、門を閉ざして家に籠ることです。 『目明かし』の不法行為 仙台權六と名乗るヤクザが、杉沢村、いまの二本松市杉沢の人の女房とその十歳になる女の子を誘拐して金十郎の所に逃げ込んできました。金十郎はこれらの人を、山田村、いまの田村町守山田向にかくまったのです。それを知った守山陣屋は、金十郎の手下の目明かしの新兵衛に命じて、權六らを三春領に追い払わせました。守山陣屋としては、二本松藩から、「權六らを引き渡せ。」という正式の交渉があれば事が面倒になると考え、あくまでも表立てないで、新兵衛の一存で済ませたように処理したのです。しかし陣屋は、今回のことについて、金十郎を厳しく叱っています。 金十郎の失敗 『目明かし』である金十郎がヤクザの立場で不法を犯し、それがバレたことがあります。長沼領畠田村(はただむら)、いまの須賀川市畠田のヤクザであった喜八が金十郎を頼って来たので、大供村の七郎平の家で手間稼ぎをやらせていました。ところが喜八は、無頼者の性格丸出しで、喧嘩好きであったのです。この喜八が酒気を帯び、町で行き会った行商のタバコ売りに近づいて、「タバコをよこせ。」と凄んだので口論となり、乱暴にも喜八は、脇差で斬りつけたのです。知らせを聞いた目明かしの新兵衛が駆けつけ、二人を守山領外に追い出しました。もちろんこのような不祥事が発生したのは、金十郎が目明かしの身分を忘れ、ヤクザの喜八の世話をしたのが原因でした。陣屋は金十郎に対して、今後一切無宿者を世話してはならないと叱責しています。しかし無宿者がヤクザを頼って、そこに巣食うようになるということは、至極ありふれた事情であったのです。
2024.09.20
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女房たちの欠け入り 大供村(おおともむら)、いまの田村町大供向(おおともむかい)の権之助の妻の『なつ』が家出をしました。なかなか見つからなかったのですが、ひと月も経って御代田の渡船場で仕事を手伝っているのが見つかりました。金十郎に捕らえられた『なつ』は、陣屋に呼び出された上に厳しい詮議を受け、手錠をはめられたまま村預けとされたのです。そこで『なつ』は隙を見て、駆け込み寺である観音寺に駆け込んだのです。権之助の暴力に、耐えきれなかったというのです。 また根木屋村、いまの西田町根木屋の徳之助の妻が、四歳になる娘を連れて行方不明になりました。直ちに探すようにと村役人に命じられた権之助の親類たちは、会津・福島あたりまで足を伸ばしたのですが、見つけることができませんでした。そこで権之助に頼まれた金十郎が、長沼領や会津領、果ては奥会津地方にまで出掛け、各地のヤクザ仲間にも頼んだのですが見つけることができませんでした。ここまで手を尽くしたのですが、貧しい権之助の探索費用も底をついたので、止むを得ず、陣屋も不問としたのです。世間の人たちは、彼女は狐付きになったと噂をしていました。 旅行 生まれた土地を遠く離れることがほとんどなかった江戸時代の庶民にとって、旅は憧れであり、『一生に一度は』と願う夢のひとつでした。 庶民が旅に憧れた背景には、生活水準が向上して余暇を楽しむ余裕ができたこと、そして街道と宿泊施設が整備されたことなどがあります。そしてこの頃、意外に多かったのが湯治です。しかし湯治をするには、病気とか病気療養のためとかの理由を必要としたのです。いわゆる遊びのためでは、許されなかったようですが、ただし農閑期の温泉の利用は許されていました。次の農繁期に備えての許可であったと思われるのですが、それは近くの温泉であり、しかも自炊によるものであったのです。病気療養を理由として行く湯治先は、(山形県の)上ノ山温泉、(栃木県の)那須の湯、それに白河の甲子温泉や福島の土湯、高湯、飯坂などで、思いの外、遠くに行っています。とりわけ那須や土湯が好評であったと言われます。農繁期に備えての近くの湯治先は、岳や熱海であり、三春領の『斎藤の湯』なども好評であったそうです。これらの湯治の他に、七〜八〇日にも及ぶ『お伊勢参り』がありました。しかし伊勢参りともなりますと、これはもう特別の旅となります。途中の江戸や大阪の見物、その他にも善光寺参りを兼ねる者も多く、これらの旅には、陣屋の許可を得てから出掛けることになります。ところが、陣屋に無断での逃げ参り、つまり『抜け参り』も少なくなかったのです。しかしこれらは、陣屋に無断で出かけることになりますから、逃亡に類するものとして扱われたのです。しかしそれでも村に戻ったときに無断で行ったと言われるのを嫌い、それぞれの駆け込み寺に駆け込んで保護されるのを望んだのです。このときの旅費は無尽講で賄われました。無尽講とは、仲間内で毎月少しずつカネを出し合って積み立て、必要とする人に貸し出す組織のことです。それですから、無尽講を利用しての『お伊勢参り』は、仲間たちの代参の意味もあったのです。金十郎には、それらの人びとの様子を監視する役目もあったのです。 バクチ宿の摘発 藩の財政が逼迫していようがいまいが、世間が好景気であろうが不景気であろうが、とめどなく蔓延していたのがバクチでした。娯楽の少なかった当時、バクチは庶民の格好の楽しみであったのです。しかし守山陣屋では、村々からバクチをしない旨の誓約書を出させていました。しかしそれにも拘わらず、娯楽の少ない生活の中でのバクチは、秘密の楽しみであったのです。ところがある夜、守山の左源太と八兵衛とが、それぞれの家で『どんつく』というカルタでのバクチ場が開かれているのが分かったのです。動員された『目明かし』の金十郎たちは、二手に分かれて同時に踏み込んだのですが捕縛はせず、戸を開けるだけに留めたのです。これはバクチ打ちでもある金十郎の、温情であったのかも知れません。バクチを打っていた者たちは、「すわっ、召し取りだ!」と驚き慌てて筵や菰をかぶって逃げ出したのですが、左源太と八兵衛は、その足で駆け込み寺の金福寺に駆け込んだのです。しかし陣屋では、これまでバクチを取り締まらなかったから起きたとして、守山の庄屋や町役人の責任を問おうとしたのです。それを察知した町役人たちは、全員揃って観音寺に駆け込みました。ひたすら寺に駆け込んで訴願の成功を祈る町役人たちと、再度、再々度の訴願をする観音寺。三日にも及んだ陣屋と寺との交渉の末、町役人たちはようやく寺から出られることになったのです。陣屋がそこまで厳しくしたのは、金十郎らの『目明かし』たちもまた、バクチをやっているという噂があったからです。 無銭飲食 山中村(さんちゅうむら)、いまの田村町守山山中の新兵衛が、白河領の須賀川で六日も泊まって放蕩を尽くしたのですが、無一文でカネを支払わなかったという事件が発生しました。家に戻って支払うと言うので、宿では『付け馬』を付けたのです。須賀川から阿武隈川を舟で渡った新兵衛は、いまの郡山市立美術館近くの横川村の知人宅に寄って借金を申し入れたのですが断わられたので、郡山の知り合いに借りると言うので、再び渡し舟で郡山に向かいました。その舟の中で酒を呑み、ほろ酔いになった『付け馬』を見た新兵衛は、背後から刀で斬りつけたので、驚いた『付け馬』が逃げ出しました。白河藩の須賀川代官からこの事件を知らされたので、守山藩では、金十郎を新兵衛捕縛に向かわせたのですが、どこかへ逃亡したあとでした。ところが約一ヶ月後、新兵衛が密かに家に戻っているのが分かったのです。ところが守山藩は本人を捕縛せず、『新兵衛を見つけたら陣屋へ突き出せ。』という布告を出したのです。これは、守山陣屋が白河藩に逃亡したと報告してしまった手前、いまさら居たとは言えず、新兵衛を脅かして領内から退去させるのが目的であったのです。なおこのようなときに付いて行って集金する人が、『付け馬』と言われました。 目明かし同士の協力 金十郎が目明かしをしていた時代は、交通手段の発達がきわめて低い時代でしたから、情報の真否を確かめるのには、目明かし自身が、各地に散在する仲間の『目明かし』とかヤクザを訪ねるという努力を避けるわけにはいきませんでした。またこうした努力を重ねることで、情報の網が絞られ、犯人の所在を突き止めることになります。本来、『目明かし』はヤクザでもあったので、悪人であれ、自分を頼ってきた者を世話するという社会的習性、つまりヤクザ仲間内の仁義があったのです。例えば、会津から須賀川に来ていた三人の猿回しが、大金を盗んで捕まりました。そのうち二人は捕らえられたのですが、一人は逃亡してしまいました。金十郎の元に須賀川の目明かしが来て、犯人が守山の田村大元神社の祭礼に逃げ込んだ形跡があるので、逮捕に協力して欲しいと申し入れてきました。三春街道沿いにある村々では、神社の祭りなどにバクチ打ちのヤクザが集まってきて、賭場が開かれるのが当たり前のようになっていたのです。奥羽・仙道の道筋には多くの博徒が巣食っており、60人にも達していました。金十郎は、須賀川からの手伝い人とで犯人を探索し、これを捕らえ、人目に付かぬよう町の裏で縄をかけ、須賀川の目明かしに引き渡しました。このように目明かし同士は、藩境を越えて協力しあっていたのです。
2024.09.10
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目明かし金十郎・② 江戸での『目明かし』は、非公認の存在ではあったのですが、江戸以外の地域では、それぞれの藩主により公認されたケースが多かったのです。いまの郡山市田村町守山にあった守山藩としては、守山藩そのものが2万石の小藩でしたから、陣屋そのものが小規模であり、役人の数も限られていました。ですから、藩士の中から下級の役人である『同心』を指名する余裕がなかったのです。またもしその余裕があったとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、ましてや犯罪歴や実態について、藩士たちは良く知りませんでした。そこで守山藩では、犯罪者の一部を体制側に取り込み、情報収集などのため使う必要があったのです。江戸時代の刑罰は、共同体からの追放刑が基本でした。しかし追放されたため、町や村の外に弾き出された落伍者や、犯罪者たちによる新たな共同体が、各地に形成されるようになったのです。そのため、その内部の社会に通じた者を使わなければ、捜査自体が困難となったのです。そこで、博徒、穢多、的屋などのヤクザ者や、親分と呼ばれるそれぞれの地域の顔役が、『目明かし』に指名されることになったのです。しかし陣屋の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為でカネの強請(ゆすり)取りをする者も少なくなかったことから、両立し得ない仕事を兼ねることを、『二足のわらじを履く』と言う語源ともなったのです。 守山藩では、『目明かし』に対して刀を差すことを公式に許可し、かつ、必要経費の代わりの現物支給としての食い捨て、つまり無銭飲食の特権を与えていたのです。例え藩としては、『目明かし』が犯罪者あがりであったとしても、領内の平和のために働いてくれればそれでよかったのですが、その『目明かし』の中には、押収した証拠品を勝手に売り飛ばしたり、自らの犯罪を帳消しにしてもらうために他人の犯罪をでっち上げて上申したりしていたのです。また、捕えた犯罪者の妻に取り入って関係を迫ったり、女からカネをだまし取った挙句に遊女屋に売り飛ばすなどの悪質な例もあったのです。このような悪行にもかかわらず『目明かし』がなくならなかったのは、藩主による取り締まりを実効あるものにするために、必要不可欠の方法であったからです。藩からの指令を実行するための現場には、このような『目明かし』やその子分らを動員せざるを得ないこのような事情があったのです。 守山藩は、寛文元年(1661年)九月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち、いまの茨城県の那珂郡内に2万石を分与されて立藩しています。当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられていました。また頼元は、徳川御三家である水戸藩の分家であるために、参勤交代の義務がない定府大名であったのですが、元禄六年(1693年)に頼元が死去し、嫡子の頼貞が相続しました。そして元禄十三年(1700年)九月、頼貞は幕府から陸奥国の田村郡に2万石を与えられ、陣屋を田村郡内の守山に移したのです。旧領は水戸藩に返されたため、以後は守山藩として存続したもので、藩主不在の藩庁は守山に作られた陣屋とされました。年度は不明ですが、守山の町家は3千289軒、人口一万7674人の記録が残されています。守山陣屋は、この守山字中町にありました。この『目明かし金十郎』が活躍した舞台は、この守山藩であり、代官のほかに、領民と役人の間を取り持つ取次ぎ役でもあったのです。 守山藩の場合、水戸家の連枝であったため、小藩にもかかわらず格式が高く、江戸定住を命じられていました。そのため守山には陣屋が置かれ、代官と若干の小役人で運営されていたのです。藩主がいない守山の陣屋としては、面倒を避け、事を穏便に済ませる意味でも、『目明かし』とするヤクザが必要とされたのです。しかし公式にはその存在を認めるわけにはいかず、建前では、そういう者は『いない』ことになっていたのです。ところが『目明かし』は、明治維新の直前まで存在していたのです。 発端 守山の下町に、吉田半左衛門という男が住んでいました。半左衛門は百姓をしていましたが、副業として自宅の部屋を貸す宿屋まがいのこともしていました。しかしそれは表向きであって、裏の稼業としては、近郷に聞こえた博徒の親分であったのです。そのためか、その子の金十郎も家業にはまったく手を出さずにバクチにふけり、各地の賭場にも出入りしていたのでヤクザ仲間では相当の顔役になっており、二本松や磐城など各地の親分とも親しい関係を築いていました。ところが享保九年(1724年)六月十二日、この金十郎に、田村大元神社の祭礼に合わせて、『目明かし』の命が下ったのです。ここの祭礼は、近郷では比べようのないほど大勢の参詣人を集めていたのですが、それまでの『目明かし』が、祭礼の直前に病により亡くなったことにあったのです。守山陣屋としては、ヤクザや悪党仲間にニラミを効かせるには、悪に汚染されている者の方が、都合がよかったのです。『毒をもって毒を制す。』という、支配者の知恵でした。しかし、博徒と『目明かし』の『二足のわらじ』を履いた金十郎は、多くの事件に巻き込まれていくことになります。 密通事件 二本松領郡山で、密通を犯した上に放火して、守山領御代田村、いまの田村町御代田に逃亡してきた男が、二本松藩の『目明かし』に捕らえられて連れ去られる事件が発生しました。その際、二本松藩の『目明かし』が、御代田村で縄をかけたかどうかが問題となったのです。もしそうであれば、守山藩の主権が二本松藩に侵されたことになるからです。その調査が、『二足のわらじ』を履いた金十郎に任されたのです。その調査の結果、阿武隈川の渡しの船頭が、「郡山の目明かしは笹川、いまの郡山市安積町笹川で待っていて、そこへ犯人を連れて行ったのは町人でした。縄手錠もかけていなかったので、科人とは見えませんでした。」と証言したのです。それを聞いた陣屋では、胸をなで下ろしました。二本松藩の目明かしの犯人に対する処置が、守山藩にとって行き過ぎでないことが分かったからです。この程度のことであれば、お互いにとやかく言わないことになっていたからです。 駆込寺 駆込寺とは、江戸時代において妻が駆け込んで一定期間、寺で奉仕をすれば離婚の効果が得られたという寺のことです。当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組などの介入や調整による示談での離縁が通例であったのですが、それでも妻は、夫から離縁状を受けとることが必要とされていたのです。また農民への統制の厳しかった幕藩体制の中で、農村から逃げ出し、都市に出て無宿者となっていく者の数は少なくありませんでした。これら農業などの生業を嫌がる無宿者の群れは、盛り場などに『たむろ』し、通行人に嫌がらせなどをしていたのです。彼らはその食い扶持を、バクチや恐喝などの不法行為により得、その上徒党を組んで悪事を働いていました。守山には、『欠入り法』という他の藩では見られない慣習法が行われていました。これは、同じく水戸の連枝である長沼藩、いまの須賀川市長沼町でも行われていましたが、その記録の殆どが失われています。ただし守山藩の特殊性は、他の藩では女性のための駆け込みであったのに対し、男性の駆け込みを認めていたのです。しかも女性には、寺ばかりではなく、神社や修験にも認めていましたが、その駆け込みの目的は、女性の側から、離婚を求める例が多かったのです。なお守山藩では、駆け込みを欠入りと言っていたのです。
2024.09.01
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目明かし金十郎・① いま私の手元に、『目明かし金十郎の生涯』という本があります。この本の著者の阿部善雄氏は台湾に生まれで、昭和十年、郡山に帰って安積中学校を卒業し、昭和二十年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業の後、中学校の教師となっていましたが、昭和二十四年東京大学史料編纂所に入り、助手、助教授を経て、昭和四十八年に教授となっています。定年後は東京大学名誉教授、そして立正大学教授をされていた方で、著書にもこの『目明かし金十郎の生涯』や『最後の日本人・朝河貫一の生涯』などがあります。これらの著書にみられるように、阿部善雄氏は福島県に対し、深い思いがあったのであろうと推察できます。このような阿部善雄氏が、この本を書くに至った事情を、『目明かし金十郎の生涯』の『あとがき』にこう記しています。 私がこの『御用留帳』にはじめてめぐりあったのは、昭和三十三年である。その頃私は、阿武隈川のほとりに住む友人で、須賀川二中教諭の折笠佐武郎の一家をよくたずねたが、彼は守山藩史料の存否を確かめようとする意欲に燃えていた。そうしたある日、私が守山の田村町教育委員会を訪れたとき、郡山市文化財保護委員で守山藩の歴史に詳しい伊藤尭信氏が私をオートバイに乗せて、谷田川支所に案内された。その二階に投げ出されて山をなしていたものこそ、この『御用留帳』百四十三冊だったのである。 ところで江戸時代、江戸ばかりではなく、全国の各藩に『目明かし』と呼ばれる人たちがいました。『目明かし』は、藩の下級役人である『同心』に私的に雇われ、その手先となって犯罪人の捜査・逮捕に従事した者たちのことで、身分は庶民であって、町人でさえなかったのです。この『目明かし』は、目であきらかにするという意味ですが、『岡っ引き』とも言われました。『岡っ引き』とは、庶民が『目明かし』をバカにして呼ぶ言い方でしたが、『下っ引き』と呼ばれる手下を持つ者も多かったのです。『岡』には、『岡場所』、『岡惚れ』と言うように、見下した意味がありましたが、『おか』には『かたわら』にいて手引きをする者の意味もあったといわれます。『目明かし』には、犯罪を犯した者に共犯者などを密告させることで罪を許し、代わりに犯罪捜査の手先とされた者たちのことです。というのは、犯罪捜査に『同心』を当てたとしても、市中の落伍者や渡世人の生活環境、そして彼らが犯す犯罪の実態を良く知らなかったために、それを知る犯罪者の一部を、体制側に取り込む必要があったのです。『目明かし』とは、江戸の警察機能の末端を担っていた、非公認の協力者たちであったのです。 江戸の警察組織の前身は、『町奉行所』でした。ここには『町奉行』というお役人が頭となって行政・司法・警察・消防をつかさどっていたのです。 ちなみに、有名な時代劇ドラマ、「おうおうおう! この桜吹雪が全て御見通しだ!」の『遠山の金さん』のモデルとなった遠山金四郎景元も、この町奉行の一人でした。この町奉行所に勤める人たちは現在の警察官にあたりますが、現在と比べて違うのはその人数です。当時、江戸の人口は約百万人もいたのですが、警察業務を担っていたのは『同心』と言われる、たった三十人ほどだったのです。しかしこれだけの人数の同心では、到底江戸の町の治安を維持することなどできません。そこでこれらの同心には、十手を持った『目明かし』を、『同心』の私的使用人として各々五人ほどがついていたのです。『同心』というのは武士で、幕府の下級役人です。『同心』が持つ十手は幕府からの支給品で、一種の身分の証明も兼ねていました。いわば十手は、『同心』という身分の証明であり、いまの警察手帳のようなものでした。ですから、無くしたりしたらそれこそ責任問題です。そのため、支給された十手は大事にしまっておいて、ふだんは個人的に購入した十手を持ち歩く『同心』もいたそうです。そのため『目明かし』には、このような十手さえも支給されていませんでした。しかし『目明かし』の持っていた十手は、『目明かし』自身、またはその『目明かし』をやとった『同心』が、自費で、個人的に作ったものです。ところで『目明かし』は、専業ではありません。通常は、『担い屋台』の『夜鷹蕎麦屋』などを営業しながら、夜歩く人の行動などを監視していたのです。彼らは、同心に頼まれたときだけお手伝いをする、言わばアルバイトの探偵でしたから、『警察のイヌ』みたいなものだったのです。そのため『目明かし』としての収入は少なく、現在の貨幣価値で年収七万五千円ほどとされるのですが、なんと、江戸町奉行であった大岡越前守の年収が二億円、火付盗賊改方の鬼平犯科帳のモデルである長谷川平蔵が二億二千五百万円であったというから驚かされます。 ところで、『いざ捕物!』となったとき、三十人ほどの『同心』だけでは足りない時があります。そのようなときは例外として、『同心』が『目明かし』に十手をそのときだけ、一時的に持たせて捕り物の手伝いをさせることもあったそうですが、それは例外中の例外で、ましてや普段から『目明かし』が十手を持ち歩くことはなかったのです。ところで『同心』や『目明かし』が持っていた十手ですが、これは悪党から身を守る武器であり、捕り物道具の一種でした。とは言え、その長さはせいぜい四十センチほどの鉄の棒の手元に鈎をつけたものです。『目明かし』たちは、これで賊の刃からの防御に用いたり、突いたり打つなどの攻撃、時には短棒術として用いて犯人の関節を押さえつけるたり投げるなど、柔術も併用したというのですから、生半可な人間では、『目明かし』にはなれなかったのです。なお、女性の『目明かし』もいたそうですが、女性の『同心』はいませんでした。 江戸時代には、それぞれの藩が、各自の警察機構や司法機構などの体制を備えたことから、反乱を警戒する幕府は、大名同士の法的拘束力を持つ約定を堅く禁じていました。そのため犯罪者が他の藩領に逃亡した場合、その犯罪者の逮捕と引き渡しを求めることができないことになってしまったのです。それでも、正面切って犯人の引き渡しを求めようとすると、それは大変面倒なことになってしまったのです。そうした際の解決策の一つに、幕府の大目付に逮捕を依頼する方法がありました。しかし藩主がこの方法を選べば、自分の力で捕らえることができない無力さを証明することになりかねません。そしてこのことはまた、その藩の中での犯罪の多発と、取り締まりの無能力をさらすことになるため、最後の手段として、ヤクザの親分たちを『目明かし』として採用せざるを得なかったのです。これらの『目明かし』たちは、藩の領域を越え、各地で『とぐろ』を巻いている他の仲間と相互連絡を取ることによって、犯人の発見と逮捕につなげたのです。つまり『目明かし』は、藩主たちにとって、内分のうちに事を運ぶことが出来るという、具合のいい隠れ蓑ともなったのです。
2024.08.20
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