三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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平賀源内は、どこで三春駒を知ったか?③ 落札した三春駒が手元に届くと、私はよく観察してみました。植物でできたとされる『たてがみ』や尻尾はほとんど残っていませんでしたが、その香炉の胸部には、五島美術館の図録と同じく、『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永三年・正月元旦・平賀鳩渓・謹摹(も)造』とありました。私はここの『謹摹造』に注目しました。『謹』は恐れ敬っての意味であり、摹という字はなかなか見つかりませんでしたが、『摹造』は手本どおりに造る、の意味だったのです。とするとこの香炉は、源内(鳩渓)の指導によって造られたということになります。ですから、私の手元にあるものを含めて複数あることについて不思議はないのですが、よく見ると図録にあった香炉の写真と私の手持ちの香炉とに若干の形に違いがありました。これは、源内の皿などは主に型取りで製作されているようですが、三春駒の香炉に限って言えば、板状にした粘土を成形して形を作る『板作り』によって作られたと思われることから、一体ずつ形に差が出たと考えられます。私はそれを持って、『さくらカフェ』に行ってみました。「ああ、これが本物なのね」 オーナーの浜崎明美さんが、繁々とそれを見ていました。私がこれを持って、「これから資料館に行ってみる」と言うと、いかにも残念そうに、「店が休みだったら一緒に行ってみたい」と言っていたのです。 資料館では、所蔵していた『三春駒の香炉』を出して、私を待っていてくれました。そこで早速、資料館のそれと比較してみたのです。資料館の『三春駒の香炉』は、たてがみや尻尾も残っていて、私のものより少し大きく、特に首の長さに差異がみられました。残念ながら私が手に入れた香炉や資料館にある香炉は、弟子の誰が作ったかまでは確認することができませんでした。それにいまは見つかってはいませんが、もし源内が作った見本的な『三春駒の香炉』が見つかれば、これら『三春駒の香炉』の原型となる筈です。弟子たちが文字列まで正確に『摹造』しているのですから、原型には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあったと思われます。いずれにしても、『源内焼』として多くの陶器を残した源内が、その出所を明らかにするこのような文字を刻んだ陶器は、これ1点のようなのです。源内は、なぜこのような文字を刻んだのでしょうか。それを考えると、源内が『三春駒の香炉』を作った前提として、どこかで三春駒を見たと推測できます。しかも本物の三春駒には、『子育之馬』とは書いてありません。『子育之馬』とは、当時の商標として普及していたのでしょうか。もしそうであったとしても、『三春大明神』となれば、そのような神社があることを知らなければ書けない筈です。 さてここからは私の想像です。奥州秋田の角館へ行った源内は、先祖から伝えられていた話を思い出したのではないでしょうか。例えば、源内の遠祖となる平賀三郎国綱が伊達政宗に仕えており、その政宗の正室が三春出身の愛姫であり、愛姫の家系は田村麻呂の末裔であるとのこと、そしてそれに付随する田村麻呂と三春駒の伝説。その伝説とは、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦十四年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたとされるのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。翌日、高柴村で、村人の杵阿弥(きねあみ)という者が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したというのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 そして同じような話を、源内が仕えていた博物好きの高松藩主・松平頼恭(よりたか)から聞いていたと思われます。頼恭(よりたか)は正徳元年(1711年)五月二十日に、陸奥国守山藩主・松平頼貞の5男として誕生しました。その守山藩領には、田村麻呂の生誕に関わる伝説もあったのです。高松藩の第4代藩主・松平頼桓(よりたけ)の養子となった元文四年(1739年)に、頼桓(よりたけ)が死去したため、頼恭(よりたか)は29歳での高松藩の家督を継ぎ、第5代の高松藩主となっていたのです。源内は、自身の先祖から伝えられてきた話と、高松藩主の頼恭(よりたか)から聞く話とを融合できたことなどから、自分の仕える松平頼恭(よりたか)の出里である守山を経て江戸に戻ろうとしたのではないでしょうか。そして守山の北にある三春に入って町を見聞したときに聞いていた三春駒というものに遭遇、その謂われを聞いて土産に購入し、その姿を『奥州・三春大明神・子育之馬』という来歴とともに焼いたのではないかと考えています。このように来歴を記した作品は、数多くある源内焼のなかでも、これ一個と思われるのです。ともかく異常なほど多くの事物に関心を持っていた源内ですから、考えられないことでもないと思っています。 そもそも地元にある三春駒には、『奥州・三春大明神・子育之馬』などとは書かれていません。それなのに、源内が『三春駒の香炉』の胸に『三春大明神』と刻み、さらに『子育之馬』と刻んでいるのです。これは三春に『大明神』があり、町では三春駒を『子育之馬』と言っているのを知ったからではないかと私は思っています。なぜなら源内と言いども、これらのことを、江戸や四国に居ては知ることができなかったと思われるからです。つまりこの文字こそが、源内が三春に来て、町の佇まいや三春駒を見て知って書いたということを示唆する証拠ではないかと思えるのです。ちなみに、元禄二年(1689年)に、3代三春藩主の秋田輝季が、三春の貝山字岩田より神明宮として現在の神垣山に遷し、以来、三春ではシンメイサマと呼ばれるようになりました。これは神明宮の通称ですが、尊んで言う称号が『大明神』なのです。源内はこの称号である『三春大明神』と刻んだものと推測できるのですが、この文字こそが、源内が三春に来たということを示唆するものと思っています。なお現在の三春大神宮は、明治に入ってからの改称です。ともあれ、『三春駒の香炉』が作られたのは、今からほぼ180年前になります。そんな古い時代に、平賀源内はどこで三春駒を知ったのでしょうか? 私はこれらのことから、平賀源内は三春へ来たと想像していますが、皆さんはどう思われますか。 ところで、平賀源内の時代から約100年後の天保九年(1838年)に書かれた臼杵藩(大分県)の江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ差シ上ゲ候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)の前藩主の奥平昌高のことで、臼杵藩主の稲葉幾通の正室の父親になります。この記録から、父親が娘に三春木馬、つまり三春駒を贈ったことから、その頃には三春駒が江戸で販売されるなどしていたであろうことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。この頃には、三春駒は全国的に知られるようになっていたのかもしれません。
2024.11.10
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平賀源内の各地の美術展② 『源内の指導』とはどのようなことを言うのかは不明ですが、源内が指導して三彩の交趾(こうち)風の陶器を開発したことが明らかにされはじめているそうです。交趾とは安南・サイゴン地方で、いまのベトナムのことですが、一般に交趾焼と称しているものは、中国南部の広東などで焼かれたもので、土は柔らかく暗色を帯び、緑・黄・紫色のいわゆる『三彩の交趾釉』がほどこされています。源内焼の特徴的意匠のひとつは地図皿です。日本で初めて地図を意匠に取り入れた焼き物で、ユーラシア・アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、日本列島のものなどもあります。日本地図の皿はとても精緻で、幅広い階層の知識欲を満たしてくれるものでした。ただ箱書きなどから、これらが天明2年(1782年)以前から存在していたことが推定されています。ちなみに現在、香川県さぬき市志度の平賀源内記念館には、テレビの『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんが、「1,000万円の価値がある!」と判定されたのが、南北アメリカ大陸を描いた『二彩万国地図皿』です。この絵皿には南北アメリカ大陸がドンと描かれていますが、大陸の上には「亜墨利加」などの様々な漢字が半島の先まで細かい漢字で、また太平洋の波も細かく浮き出ています。「お皿を見て楽しんでもらう」ために源内は源内焼を考案したと言われています。その他の器種としては、硯のそばに立てて塵やほこりなどを防ぐ小さな衝立(ついたて)である硯屏(けんびょう)鉢・蓋付き碗・銚子・盃・水滴・香炉・鈴などが見られます皿や鉢などに比べて目立って少ないのが香炉であり、この少ない香炉の中のひとつが、『三春駒の香炉』だったのです。 当時、源内が天草代官に提出した陳情書、『陶器工夫書』によれば、オランダにはじまる東インド会社のアジア進出で開かれた航路によって、中国製の珍しい陶磁器がヨーロッパに向けて盛んに運ばれていたのですが、その中国の清が、1757年、制限貿易を開始したのです。当時、清には大量の銀が存在していました。乾隆帝は制限貿易によって銀の国外流出を防ごうとし、貿易港を広州一港に限定し、さらに公行と呼ばれる特権商人を設置し、貿易を特権商人たちに独占させました。銀の国外流出を防ぐとともに 貿易による利益を清朝が独占したのです。そのため中国での陶磁器の生産が減り、代わりに日本へ中国写しの陶器の注文がもたらされたのです。それを知った源内は、陶土を産出する天草の土に着目し、「日本での製陶の技術向上をはかり、陶工を増やして器の形、模様の指図をする人さえ得られれば、日本刀や蒔絵のように万国に勝る立派な陶器が出来る。それによって輸出が増え、外国産の陶器に日本人が大金を使う必要もなく、永代に亘って我が国の国益に貢献する。」と話していたそうです。 源内の陶器は技術的に優れていたこともあって、その見事な陶器で、幕府老中の田沼意次をはじめ、諸国の大名たちや豪商を魅了したと伝えられています。このようなこともあって、源内焼の作品には、寒山寺図や山水図、蓬莱山図・遊船図など中国を意識したものが多いのですが、日本の『三彩・天ノ橋立図』などの長皿や鉢なども残されています。このような源内の弟子のひとりに、自身の甥である堺屋源吾がいました。特に源吾の手に成る陶器が多く残されており、それらには『志度舜民』『舜民』『民』などの銘の物があります。また判明しているもうひとりの弟子は、やはり志度浦生まれの赤松光信で、源内に交趾焼を学んで大阪や長崎などでその製品を販売し、好評を得ています。彼はのちに志度浦に戻り、志度焼を起こしています。 安永2年(1773年)、源内が45歳の春、いまの埼玉県秩父市の中津川村の付近で金の採掘に挑戦し、その後、その山での、鉄山の開発願が幕府代官の前沢藤十郎あてに差し出しています。中津川の集落には、源内自身が設計したという非公開ですが、『源内居』という建物が残されています。ところでその年の7月、源内は、鉱山採掘の技術指導のために秋田の角館を訪れていますが、そのとき、小田野直武と会っています。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んで会い、西洋画の陰影法や遠近法を教えたというのです。その後源内は、小田野直武を江戸に呼び寄せました。そしてその縁によって、小田野直武は、杉田玄白や前野良沢の解体新書の挿絵を任されています。直武は源内に西洋画を学んだのちに、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成しています。蘭画とはオランダの絵のことです。また源内の薬品展示会で親しくなった蘭学者・杉田玄白は、彼の著書の『蘭学事始』の中で、源内を『天性の才人』と讃えています。この『解体新書』の出版は、日本国内に蘭学が広まる大きなきっかけとなったのです。 前述の五島美術館で開かれた『源内焼〜平賀源内のまなざし展』での図録『源内焼』によると、『この三春駒の香炉は個人蔵』とあり、これと『同じものでやや小型のものが他に1点ある』とありました。掲載されていた三春駒の写真の胸には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永3年(1846年)正月元旦・平賀鳩溪・謹摹造』とありました。さらに調べていたら、令和元年、兵庫県宝塚市の鉄斎美術館で『富岡鉄斎と平賀源内展』が開かれており、そのパンフレットには、こうあったのです。『富岡鉄斎(とみおか てっさい、1837年1月25日(天保7年12月19日)〜1924年(大正13年)12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者で日本最後の文人と謳われる。鉄斎美術館は、近代文人画の巨匠・富岡鉄斎と交友を結んだ清荒神(きよしこうじん)清澄寺(せいちょうじ)の第37世法主・坂本光浄の『宗美一体』の理念とその遺志を継承して、約1世紀にわたって蒐集されてきた鉄斎作品を広く公開展示しています。鉄斎が愛蔵していた品に、色あざやかな三彩を施した源内焼の『子育馬香炉』があります。源内焼は江戸時代中期、発明家・平賀源内(鳩渓)の指導によって讃岐国志度(香川県さぬき市)で製作されました。胸部に「三春大明神」と彫られていることから、福島県三春地方に伝わる三春駒を象ったものであることがわかります。はじめ平賀源内が製作し、のちに工芸品として普及したようです。使用した形跡があるので、富岡家でも使われていたのでしょうか。鉄斎による箱書きも遺っています。』 鉄斎をも魅了した『三春駒の香炉』。私は時を経ずして、これがヤフオクに出品されているのを知りました。しかしそう安い物ではありません。買うかどうか迷いました。そこで私は、三春歴史民俗資料館に、もし源内焼の『三春駒の香炉』の所蔵がなかったら、買って寄付をしたいとメールをしたのです。ところが資料館から、『実はすでにそれを所蔵している』との返事があったのです。寄付をしようとした気持はしぼみましたが、逆にどうしても欲しくなりました。そこで、意を決っしてヤフオクで落札をしたのです。
2024.11.01
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平賀源内の三春駒の香炉① ある日、私が歴史好きなのを知っている友人が、三春の『さくらカフェ』に平賀源内の作った三春駒の香炉を模したものがあると知らせてきました。カフェのオーナーの浜崎明美さんが、「日下部先生が、平賀源内の三春駒の香炉のあることを知って作ったものの一つだ」と言っていたと、その友人は話してくれました。平賀源内と言われた私の頭には、日本で初めて、手を繋いで輪になった人々に通電して、感電を体験する百人おどしの実演を行ったというエレキテル、そして土用の丑の日には鰻を食べることを普及した、江戸時代中期に活躍した人であると直ぐに浮かびました。ところが調べてみると、それだけではありませんでした。薬物学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家であり、さらには地方特産品を集めた展示会の開催、世評の風刺から浄瑠璃の戯作、滑稽本の著作に化学薬品の調合、さらには西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織工芸品の製作、それと地質調査、鉱山開発、水運事業等々ありとあらゆる分野に先鞭をつけ、それらを企画開発した多技・多芸・多才な顔を持ち、後年、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれたというのです。その源内が『源内焼』という陶器を作り、しかも『三春駒の香炉』を作ったというのですから驚かされました。 さっそく私は、『さくらカフェ』に行ってみました。すると浜崎さんは、「日下部さんは、三春の資料館に源内焼の三春駒があることを知って、何度か見に行って、それを模刻したようです。資料館の三春駒のしまってある箱には源内作とあったことから、日下部さんは源内の真作と思っていたようでした。ウチにあるのは日下部さんがよくできたから飾ってくれと言って持ってきてくれたものです。」と話してくれたのです。『さくらカフェ』には、小さな源内焼の『三春駒の香炉』の模刻品が飾られていました。つい昨年(令和5年)に亡くなられた日下部正和氏。いったい何が、日下部氏をこれの製陶に駆り立てたのでしょうか? もし、それを知ることができれば、源内が『三春駒の香炉』を作ろうと思った動機を知ることができるのではないか、私はそう思ったのです。 日下部正和氏は三春の出身で陶芸歴50年、その作品には数十万円の値がつくこともあるという抹茶の茶椀の他、自由な作品の名手として知られ、三春町込木(くぐりき)に游彷陶房(ゆうほうとうぼう)工房を構えて、彼が作った無煙薪窯を使っての作品の制作や、ワークショップの主催などしていました。しかしワークショップのほとんどを海外で開催していたため、海外のファンも多く、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、トルコのキプロス島、さらにはサンフランシスコから訪れて来ていた方々もいたそうです。その日下部氏に、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の模刻品を作らせた理由が知りたいと思ったのですが、すでに亡くなられた方に聞くわけにもいきません。私は、東京に住むという日下部氏の息子さんのフェイスブックに、コメントを入れてみました。直ぐに返事は来ましたが、『父の資料については全く知りません。もともと片付けが苦手の人間でしたから、資料を、ただの紙コップも紙ごみも一緒にしていた可能性が高く、もしあったとしても、私が紙ごみとして一緒に捨ててしまっている可能性が非常に高いです。お役に立てず申し訳ありませんでした。』というものでした。残念ながら私は、源内の作った『三春駒の香炉』を、日下部氏がどのような思いで作ろうと思ったのか、その心の内を知ることができなかったのです。 三春駒は、青森県の八幡馬(やわたうま)、宮城県の木下駒と並んで日本三大駒のひとつと言われ、郷土色の強い玩具です。昭和29年に日本で最初に発行された年賀切手は、この三春駒の絵でした。ところが、この『三春駒の香炉』の作者の平賀源内は、享保13年(1728年)に、四国の高松にあった松平藩の志度浦、いまの香川県さぬき市志度に生まれた人です。このような人が、どこで三春駒を知り、香炉という形ではあっても、何故これを作ったのか? 私はどうしても知りたいと思ったのです。色々と調べていると、平成15年に、東京世田谷の五島美術館で『源内焼〜平賀源内のまなざし展』が開かれたのを知り、ネットでその図録を手に入れました。するとそこには、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の写真も掲載されていたのです。しかしその躯体に施された模様に、私は首をひねりました。その胴にある模様は鳥の足跡のような形のもので、いま私たちが見ている三春駒の模様とは大きく違うのです。そこで私は、デコ屋敷に張子人形作家の橋本広司さんを訪ねてみました。なおデコ屋敷とは、今も4軒の作家の家々が、木製の三春駒、三春張子と呼ばれる人形や張子の面などを作り続けており、数百年の伝統を守って今日まで伝えている集落で、その各屋敷が所有する人形の木型は、福島県の重要文化財に指定されています。広司さんはそのような広司民芸を経営するかたわら、古くからの木型などを集めた資料館も持っていたのです。「いやー、そういうものがあるとは、薄々話には聞いていたが、本当にあったんだない。」彼はそう言ってしばらく図録を見た後、自分の資料館に案内してくれました。そこには古文書や木型などの他、古い三春駒もありましたが、源内の描いた模様と同じ模様の三春駒はありませんでした。彼の話によると、「昔は、三春駒を作っているウチがもっとあって、各工房がそれぞれに絵付けをしていたがら、その頃の仲間の家で作っていた模様かもしれない。しかしこういう物があるのだから、昔はこのような図柄が一般的であったのかもしんに〜な」とのことでした。この模様の出所は、見つけることができなかったのです。ただ彼は、「江戸時代に、浅草などで売ったこともあったという話を、先祖がしていた」との話を聞かせてくれたのです。金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だったと言うから、すでに商売に向いた地であったのかもしれません。 『源内焼』は、先覚的なデザイン、鑑賞を重視した高い芸術性と斬新な三彩釉の使用といったところにその特色があり、元文3年(1738年)に、讃岐国志度浦で開窯したとされる志度焼を基礎に、宝暦5年(1755年)になって、『源内の指導』によって発展したとされる陶器が、源内焼と呼ばれるようになったとされます。しかし近隣の諸窯のうち、類似する意匠や焼成技法のある屋島焼などとの混同も認められることから、さらに調査研究の必要な状況にあるというのです。源内焼の特徴は、技術的には桃山時代以降の日本の陶器に影響を与え続けた中国の華南三彩と同系列の軟質の施釉陶器(せゆうとうき)であって、緑、褐色、黄などの鮮やかな彩色を特徴としています。 精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図などの斬新な意匠の皿などが試みられていますが、しかし、皿や鉢など限られた器に偏る、という指摘もあります。それは陶土の可塑性や型成形の技術的な制約も影響していると考えられています。ともあれ、展覧会の図録にある写真だけでも、数え切れないほどあるのです。種々の仕事をしながら、これほど質の高い陶器を作っていたのですから、ただ驚かされるばかりです。
2024.10.20
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