三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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あ と が き この作品は、はからずも二〇〇一年、「第五十四回福島県文学賞の小説・ノンフィクション部門の、ノンフィクション奨励賞」を受けたものである。自分では応募したものの、自信があって提出した訳ではない。ただこれを調べる過程は、我ながら興味深く感じられた。その過程の面白さが、恥ずかしくもなく「応募する」という行為に駆り立てたのであろう。 この賞は福島県教育委員会と福島民報社の共催である。それもあって新聞紙上に批評が載った。次に、その新聞の記事を転載する。 二〇〇一年十月二十六日付福島民報 ◇県文学賞発表の記事より抜粋 第五十四回県文学賞は、四年ぶりに三部門で正賞が選出され、青少年部門は応募者が大幅にアップした。ベテランをはじめ若い世代が着実に力を付け、本県文学界の中核となりつつあることをうかがわせた。 ◇県文学賞「小説・ノンフィクション部門」の記事より抜粋 ノンフィクションで唯一入った橋本捨五郎さんの「さまよえる神々」は、探求心となぞ解きの楽しさが伝わってくる労作。 二〇〇一年十一月一日付福島民報 ◇ 第五十四回県文学賞 小説・ノンフィクション部門の選評と審査経過より抜粋 ▽選評・室井光広氏=ノンフィクションの火を消してはならぬという心持ちもあって、「さまよえる神々」が選ばれた。探求心・謎解きの楽しみが伝わってくる熱意ある佳篇だが全体像への欲求不満は残るし、謎解きの実体も作者の熱意ほどには伝わらないという意見も多かった。 ▽審査課程・田村嘉勝氏=「さまよえる神々」は、史実研究的な構成が推理小説を読むようで面白いという見解。ただし、娘との会話は不必要という意見もあった。◇県文学集・ (二〇〇二年三月十五日)◇ 小説・ノンフィクション部門 [選外評・ノンフィクション分野]より抜粋 ▽選評・菅野俊之氏=今年は旅行記、自分史、看病記録など身近なテーマを扱った応募作が多く、ノンフィクション分野が県民のなかに広く定着したことを実感した。しかし、内容的には低調で、奨励賞一作品の受賞にとどまったのは残念であった。ノンフィクションは、体験や事実をストレートに記述すればよいという誤解が応募される方たちにあるらしく、作品として彫琢する工夫と情熱に欠け、文章も感性のきらめきや個性の希薄な作品が多かった。文芸評論と青少年の応募が皆無だったのも残念である。 応募作全般の印象として、どの作品も一応のまとまりはあり無難なできなのだが、内容・文章ともにこぢんまりとしていて個性が窺えず、読者の心に訴えかけるものに乏しい。破綻や瑕瑾を恐れず、個性のある文体と内容を創り出す、果敢な進取の精神を感じさせるような作品の出現を待望している。 (了) 参 考 文 献 田村郡誌 復刻版 田村郡役所 泰山哲之 一九一五 仙道田村荘史 青山正・やそ・操 一九三〇 田村の小史 田村郡史跡保存会 影山常次 一九五八 南北朝編年史 上下 吉川弘文館 由良哲次 一九六四 白河市史 白河市教育委員会 一九六八 大日本百科事典 小学館 一九七〇 福島県史 山川出版社 一九七二 山形県史 山川出版社 〃 宮城県史 山川出版社 〃 茨城県史 山川出版社 〃 須賀川市史 二 中世 須賀川市教育委員会 一九七三 悪人列伝 二 文芸春秋社 海音寺潮五郎 一九七五 中世奥羽の世界 東京大学出版会 一九七八 南北朝内乱史論 小学館 佐藤和彦 一九七九 みちのく太平記 津軽書房 七宮幸三 一九八〇 太平記 学習研究社 長井路子 一九八一 県南地域の歴史と資料 福島県南高等学校社会科研究会 一九八二 神社祭神辞典 展望社 千葉琢徳 一九八三 岩代町史 岩代町 一九八四 郡山市史 郡山市 一九八五 三春町史 三春町 〃 皇子たちの南北朝 中公新書 森茂暁 一九八八 新編 日本武将列伝 秋田書店 桑田忠親 一九八九 花将軍 北畠顕家 新人物往来社 横山高治 〃 征夷大将軍 中公新書 高橋富雄 〃 太平記に学ぶ・動乱を生きる人間学 六興出版 小山龍太郎 一九九〇 室町の王権(足利義満の王権纂奪計画) 中公新書 今谷明 〃 大日本地名辞典 富山書房 吉田東伍 〃 国史大辞典 吉川弘文館 一九九一南北朝史一○○話 立風書房 小川信 〃 楠木正成 千早城血戦録 ビジネス社 奥田鑛一郎 〃 南朝名將 結城宗広 新人物往来社 横山高治 〃 天皇になろうとした将軍 小学館 井沢元彦 一九九二 中世を生きた日本人 学生社 今井雅晴 〃 中世を考える「いくさ」 吉川弘文館 福田豊彦 一九九三 中世民衆生活史の研究 思文閣出版 三浦圭一 一九九五 天皇の伝説 メデアワークス 一九九七 中世の社会と経済 東京大学出版会 〃 世界の神々と神話の謎 学習研究社 お世話になった方々 (訪問順・敬称略) 浅木秀樹 橋本正美 安藤昭一 佐久間壱美 鈴木定 芳賀朝二 遠藤豊一 山邉與夫 塩田民一 力丸守 遠藤昌弘 三ツ本光照 折笠佐武郎 田母野公彦 浅木茂明 桑島亮 岩崎新一 足立正之 飛田立史
2007.12.24
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とにかくここまでの解析で、私は次のように仮説をまとめてみた。 宝珠山、とも形容される宇津峰山。さらに周辺の蓬田岳、大滝根山、高柴山などの山頂には、密教の神仏が安置されていた。中世に入ると、山岳修行者は組織化されて政治権力と結びつき、宇津峰山は天台宗本山派の拠点となっていた。 そして南北朝の時代。宇津峰山の星ケ城に逃れた後醍醐天皇の孫の宇津峰宮は、僧を城に呼び戦勝を祈願して大元帥明王の法を行なわさせた。天台宗は、南朝方に協力していたのである。しかし北朝方の襲来を恐れた北畠顕家は、修験所を明王壇に建立し、僧を宇津峰山の城から下ろした。この時、僧たちは明王壇に本尊を祀り、五里平(月夜田のすぐ南の地名)で修行を行った。 間もなく僧たちは、重石の地により立派な明王堂を建立した。鎮守山泰平寺と称したこの寺は、そばに重なってあった大きな岩を磐境として、田村麻呂伝説のある御旗神社を習合した。そして泰平寺は、宇津峰山の星ケ城を支え続ける。 しかし星ケ城の戦い利あらず、この周辺も戦乱の巷となった。明王壇に残されていた修験所は、兵火にかかって燃え上がった。敗れた南朝方は、重石に移されていた泰平寺・御旗神社を目指して逃げた。 泰平寺・御旗神社で敗残の兵をまとめた北畠氏と田村氏は、大草(大壇館)を経て陣場(浦郷土)に至った。 この時北畠氏は、御旗神社の磐境である大きな岩に代えて、小さな[太郎石と次郎石]を運んだ。現在もこの石を抱えて力競べをする行事が神清水の菅舩神社に残されているのは、その昔、御神体として運んできた微かな記憶ででもあるのであろうか。 また一方の田村氏は、自分の先祖である田村麻呂の木像の祀られていた厨子を運び出していた。 そして浦郷土で、北畠系の御旗神社と田村系の田村麻呂仏との間で、何らかの状況の変化が起こった。ここから先の話は、御旗神社の神々と田村麻呂仏とを別々に追う必要があろう。 この浦郷土での争い、または話し合いの結果、 1 北畠氏は、御旗神社の神々を塩田の二ツの菅舩神社に祀った。 ただこの時に北畠氏は、御神体として太郎石を神清水の菅舩神社に、 次郎石を外の内の菅舩神社に運んだ。そしてその後、何らかの理由で 次郎石も、神清水の菅舩神社に祀られたと考えたいが、どうだろうか。 そしてこれから先は、南北朝の戦乱が終わってからのことになる。 繰り返しになるがこの戦乱後、南朝方は宇津峰山々頂の星ケ城跡に、 一見具体的な二天皇と名を特定しないままの皇子を祀った。これは天 台宗の本山派が、ここに回帰したことを意味しているのであろうか。 それはともかく、南朝方はここの奉祀を、二ツの菅舩神社と菅布禰神 社にまかせた。 2 田村氏は、田村麻呂仏を、守山の地に祀った。 ここ守山は、田村氏もともとの本拠地である。ここへ田村氏は、改め て泰平寺・大元帥明王を建立したと考えられる。これが現在の守山の 田村大元神社であろう。 そしてその境内に、坂上神社として厨子が、つまり田村麻呂神が祀ら れた。少なくともこの時点から、田村麻呂仏は田村麻呂神となったと 考えられないだろうか。 そうしておいて南朝方は、宇津峰宮を雀宮に祀った。その奉祀は御代 田城跡に造られた神護山高安寺にまかせるとともに、御代田城跡を星 ケ城跡と名を変えた。宇津峰山頂の城、星ケ城と同じ名称である。 これらのことから私は、南朝方であった北畠氏や田村氏が、あくまでも本来の目的である宇津峰宮を祀った「雀の宮の神様」を北朝方から隠そうとして、宇津峰山に村上天皇、亀山天皇、皇子の神々を祀ったのではないだろうかと考える。たしかに私は、この唄の最後に出てくる星ケ城という文字が納得できなかったが、そう考えてみれば、この二つの星ケ城の双方に天皇が祀られているということで、納得できるような気がする。 そして宇津峰宮を「雀の宮の神様」として祀った理由は、大日本百科辞典の雀宮の項にある宇都宮を宇津峰宮と読み変えて、[雀宮は、宇都宮(討つの宮)に対する鎮(すずめ)の宮の意で、怨霊を鎮魂するのだとも言われている]ということからだと思いたい。 あたかもこの推論を助けるかのように、田村大元帥明王のある守山から御代田の星ケ城までは西へ約三キロメートル。そして御代田の星ケ城と「雀の宮の神様」の距離は、約三〇〇メートルと近いのである。ここには大きな、ましてや立派な神社が建てられた形跡も口伝の類もない。小祠とあれば隠すのには、格好の地であったのではなかろうか。この隠そうとした小祠を守らせようとしたのが、御代田の星ケ城跡に建つ、現在の臨済宗・神護山高安寺であったと推定する。 その後の戦国時代初期。 1 田村氏は田村大元神社を伴って、守山から三春へ居を移した。その時 坂上田村麻呂神は、守山の田村大元神社に残された。 2 また同時に田村氏は、「雀の宮の神様」も一緒に実沢の現人神社に移 したのであろうか? 不思議なことに、ご祭神が微妙に変化している。 宇津峰山や「雀の宮の神様」に祀られていた後亀山天皇に変わって、 南朝最初の天皇の後醍醐天皇になっているのである。今まで隠れてい た後醍醐天皇が、はじめてここの神社に顕れたのである。 またも疑問は深まった。 そしてこの[さまよえる神々]の唄の参考となった文献は、仙道田村荘史と田村郡誌の復刻版、そして大日本地名辞典の三冊しかなかった。あとは足で歩き、多くの人を訪問し、その話を訊きながら推測し、組み立てたものである。その結果分かったことの一つに、[祭る明王]と詠われた大元帥明王(京都・大元神社の御祭神の国常立命)が、唄の順序に従って動いて行った様子である。この唄に託されたのであろう神々の足跡を一覧表とすれば、次頁の表のようになる。 そして現人神社に後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮を祀った。しかし現人神社の由緒書きには、これらの神々がどこから勧請されたかは記載されていない。 結局、この唄を知っている方に会うことができなかった。遂にこの唄の意味の調査は、私が想像を逞しくしただけで終わってしまったことになる。結局多くの疑問を明らかにし得ないまま、その上に新たな疑問を作り出しながら、再び歴史の襞に隠れてしまったのである。 ——もしかして二~三番の歌詞もあるのではなかろうか? またそれがあれば新たなことが分かるのかも知れない。と期待している。 最後に、田村郡誌より次の一文を引用する。[編者、稿を草するに際し、自ら谷田川、二瀬の地に至り、親しく、古老有志に就き或は神社寺院に依り、宇津峰神社に関する古文書を徴せんとせるも、唯だ伝説口碑のみにて地方に残るものなきは、甚だ遺憾とする所なりき、興国正平の頃に於ける軍陣の遺物等を求めんとするも亦之を得ず] この文章の意味するところは、遅くともこの本の発行された一九一五年の時点ですでに調査不能であったことを示している。それなのに私が今の時点で知ろうとしたことは、土台無理であったのかも知れない。しかし私にとって、これらの調査、推定、仮定の過程は大変興味をそそられるものであった。ご協力頂いた多くの方々に感謝致します。 (完)
2007.12.23
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六十年ぶりと言われた大雪に脅かされ、雪のなくなる四月を待って現地の写真を撮りに出かけた。月夜田の明王壇はそう苦労をしなかったが、[重ね石]と[仁王様の休み石]には閉口した。一度行ったという自信から山で迷ってしまったのである。[仁王様の休み石]はついに撮ることが出来ずに帰って来た。外の内の菅舩神社に石に関する伝説か何かが残されているか再確認に行ったが、それは無かった。ただ境内に、一人では持てない大きさの石があると聞いて視認したが、ただそこにあるだけで御神体としての意味も何もないようであった。二ツの村の物的証拠(?)は、外の内の菅舩神社には残されていないことになるのかも知れない。 神清水の菅舩神社に寄り、太郎石と歌碑を撮影した。それから、御代田の星ケ城跡を撮り[雀之宮神社の小祠]の確認のため浅木茂明氏宅に寄った。ところが現地に当たってみると、彼は雀宮ではなく外城地内に住んでいた。 ——ちょっと、変だな。 私はそう思ったが、そのまま辞去して雀之宮神社へ行った。行ってみると、私が雀之宮神社と比定していた小祠は狭い小道を挟んだ雀宮の隣の新屋敷の地区にあった。さすがに私の四半世紀前の記憶は、薄れていた。「ん・・・?」 私は慌てた。今までの仮定が一挙に崩れかねないのである。私はもう一度、浅木茂明氏宅に戻り、玄関先で立ったまま訊いた。「済みません。あそこの神社の正式名称は何と言うかご存知ですか?」「正式・・・ですか? ちょっと待って下さい。お婆ちゃんに訊いてみるから」浅木氏がそう言って奥へ行ってから戻るまでの時間の長かったこと。 しかしその返事、「雀の宮の神様」と呼んでいたと聞いた時、正直ほっとした。この名の方が、正直ふさわしいと思った。それにしても周辺の人たちが「雀の宮の神様」と呼んでいたのであるから、私が雀之宮神社と言っても誰も疑問を感じなかったのであろう。ただ私が、「あの『雀の宮の神様』のある場所は新屋敷二十番地の佐藤さんの裏手ですから、新屋敷の地内になりますよね」と確認すると、浅木氏は「えーっ。雀宮地内でしょう?」と言って驚いた。彼は、今の今まで雀宮にあったと思っていたのである。小祠が新屋敷にあったにも拘わらず、「雀の宮の神様」であったのである。これはいったいどういうことであろうか。 ところがここでもう一つの疑問に突き当たった。浅木氏の広い屋敷の庭の離れた場所に、一個づつ二つの祠が祀られていたのである。これは誰を祀っているのであろうか? 彼に訊いてみたが分からないという。「しかし雀の宮の神様と、何かの関連があると聞かされてきた」と話してくれた。 とは言っても、また疑問が生まれていた。仙道田村荘史に、[又、(田村郡)富沢なる宮代神社は宇津峰神を分祀せりと覚しく、後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮を祭神となし、(田村郡)船引若一神社は単に宇津峰神とせり]とあるのである。 宇津峰から(三春町)富沢や船引町へは、結構遠い。 ——それなのに何故。という思いもあったのである。 宮代神社に行ってみた。宮司の岩崎新一氏は会社勤めをされていて留守であった。やむを得ず翌日の夜、電話で聞き当たった。氏の話によると、後醍醐天皇、義良親王(のちの後村上天皇)、護良親王(義良親王の弟)を祭神とする明治十二年の神社明細書の写しが、宮代神社に残されているという。これは、仙道田村荘史の記述と一致する。しかし、何故ここ、三春町実沢の宮代神社に、後醍醐天皇、義良親王、護良親王が祀られたのか? それについての口伝の類は、何も残されていないという。しかし唯一言い伝えられているのは、ここの神社の俗称が[現人神神社]である、ということであった。そしてここでも、あの唄は知られていなかった。そして岩崎新一氏も、あの唄を知らないと言う。 それから若一神社に行ってみた。鳥居の額には、[若一王子大権現]とあった。王子というのが気になった。神社の丘の下のスーパーで宮司の住まいを訊くと、「船引町内の、大鏑矢神社の宮司が兼ねている」と教えてくれた。この神社も、田村麻呂の勧請を伝えている。 大鏑矢神社の宮司の桑島亮氏も、あの唄は知っておられなかった。「ところで、正式には若一王子大権現と言うようですね。王子と皇子との関連が気になるのですが?」という私の質問に、「あそこには、宇津峰宮が来られた、という言い伝えがあります」とのことであった。「しかし、何故、遠い船引に宇津峰宮の伝承が?」と尋ねると、「宇津峰宮が(伊達郡霊山町の)霊山から逃げる途中、ここで一泊、もしくは休んでから宇津峰山に出かけられた、と伝えられています。若一神社の所在地は、船引町戸屋の部落です。戸屋は、家屋を意味しているのでしょう。いずれここから宇津峰山までは、三~四十キロメートルあります。幼帝の足では、一気に行ける距離ではなかったのでしょう」「すると[若一王子]の[若一]とは、[幼帝]という意味でしょうか?」 さすがにこの稚拙な質問に対して、氏は言葉を濁されたが、「霊山神社に行ってみたら、何か新しい発見があるかも知れません」と教えられた。 霊山神社は、南朝方の北畠親房、顕家、顕信、守親の四卿を祀っており、かっては別格官幣社であった。「なるほど・・・」 霊山神社は、確かに気にしていた神社ではあった。しかし宇津峰山を中心に考えていた私は、ついうっかりしていた神社であった。私はすぐ霊山に飛んだ。しかし自分の都合だけの勝手な行動、残念ながら宮司の足立正之氏はお留守であった。次の日、失礼とは思いながら電話で問い合わせをさせて頂いた。いろいろお話が出来たが、あの唄についてはやはり手がかりがなかった。 ところが間もなく、天日鷲神社の宮司である飛田立史氏から宮代神社とは別の写真がメールで送られてきた。それを見て驚いたのは、鳥居の額に「現人神社」と記されていたということである。これはもう「現人神(あらひとがみ)神社」の単なる言い伝えではなく、その存在の完全な証明になる。「宮代神社とは別に、現人(あらひと)神社がある」と言うのである。ということは、以前に宮代神社の宮司の岩崎新一氏に電話で問い合わせをした時に、私が間違えて聞いていた、ということになる。そして若一神社では「宇津峰宮が霊山から逃げる途中、ここで一泊、もしくは休んでから宇津峰山に出かけられた、と伝えられています」と言っていた。それなのにこのルートとは逆に、後醍醐天皇、後村上天皇、それに陸奥宮がここ実沢の現人神社に祀られていたのである。 ——これはいったい、どういうことか? 雀の宮の神様から遷宮されたということであろうか。 もしそうだとすれば、宇津峰山頂や雀宮の神社が人の目に留まらぬような小さな祠であることも、なんとなく納得できるような気がする。 ——すると現人神社が、南朝の後醍醐天皇の本当の最終到達点になるのであろうか? その後、宇津峰山の近くでもあり、守山泰平寺善法院と同じ天台宗である満蔵寺(郡山市田村町下道渡)、と宝泉寺(田村町栃本)を巡ったが、唄については残念ながら得るところがなかった。ところで満蔵寺では住職のお婆ちゃんに、厨子の仏像を拝ませて頂いた。その時彼女は、「その仏像は、徳一大師の作である」と話された。 私はそれについては不勉強で知らないし調査からは外れてはいるが、もしこれが本当だとすれば、徳一大師が磐城地方から会津地方へ移って行く足跡の一端がここから発見できるのかも知れない。 結局、疑問をいっぱい抱えたまま最後の部分に進むことにする。 たふとさな これは唄全部にかかって「尊いことよ」であろう。 そして、 なはよ これは、「その名はね~え」でどうだろうか? そして、 (ハヤシ) なんちょ なんちょ。(南朝 南朝)と続く。 ——これら三句の解釈については、特に問題はあるまい。 そう思った時に思い出したことがあった。塩田氏が言っていた、「御神体は、月夜田、重石から大草を経て守山に行った」ということである。 大草は前述したように、この唄には出てこない。しかしながらそういう口伝がある以上大草に何か関係するものが残されていてもいいのかも知れない。そう思ってまた須賀川市の住宅地図に当たってみた。しかし詳細にチェックしたが一般民家が散在しているだけで、神社や寺院などそれに関するようなものは何もなかった。 ところが大草のすぐそばに、あの東北電力須賀川変電所があったのである。それは最初に大壇館があると目して確認に行った場所であった。大壇館は城塞を兼ねていた館である。北畠・田村の連合軍が月夜田、重石の戦いに敗れ、大壇館に入って防備を固めたということはあり得る話であろう。そうすると大草も解決する。
2007.12.22
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二月、小雪の舞うある日の午後、私は三春の田村大元神社に出かけた。ここの宮司の田母野公彦氏は、私とは小学校以来の同級生である。そのためもあって気安く付き合わせて頂いていた。彼は高校の教師を長く勤め、現職時代に、大著・三春町史の編纂にも関わった人物である。また今まで調べてきた経過から、三春の田村大元神社は終着点のようにも思われた。それなら当然、あの唄の原本が保存されているのではないかと考えていた。ところが彼は、あの唄を大日本地名辞典で見ただけだと言う。教えてくれた大日本地名辞典を見てみると、あの田村郡誌復刻版と内容が全く同じであった。これは、どちらが先であったかは分からないが、何らかの原本があったことは想像に難くない。 ところで彼は、「大元帥と大元明王は同一であり、外敵と戦う場合の祈願の対象である」と言い出した。 私は驚いて訊いた。「ちょっと待って。ということは、ここの田村大元神社には田村麻呂が祀られていないということ? するとそれは、守山や三春の他にも大元神社があるということ?」「ある。例えば岐阜県にもあるし、京都の吉田神社(京都市左京区吉田神楽町三〇)と同じ場所に、大元宮という名で大元神社の本宮がある」と言うのである。 そこで分かったことは、私が、「田村大元帥明王には、坂上田村麻呂が祀られている」と勘違いしていたことであった。これは重大な勘違いであった、 この私の勘違いの理由は、その昔、 1 坂上田村麻呂の末裔を称する田村氏が、守山から三春に移る際に田村大元 神社を三春に遷宮したこと。 2 遷宮した三春の土地の名を、守山と同じ山中とし、田村氏の氏神としたこ と。 3 田村大元神社は田村大元帥明王と呼ばれていたこと。 4 田村大元帥明王は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を想起させていたこと。 などから、私は大元帥は田村麻呂の別名であると思い込んでいたことにあった。 彼は、話しを続けていた。 「ここの御祭神は国常立命であり、大元宮の御祭神と同じで田村麻呂とは関係ない。今でも、三春町民にさえそう誤解されている。ただしこの神は、明治の神仏分離の際に勧請されたもので、以前の御祭神はどなたであったか分からない」 (注)何年か後にこの話になったとき彼から、「以前に言ったことは間違いで、 田村麻呂も祀られている」という訂正があった。 彼はそう言いながら、田母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。坂上はその関係から使われていると思っている」 「うーん。とすれば、田母野家と田村麻呂との関係は、田村大元神社とではなく、田母神の地と関係があると?」 「うん。それから三春の田村大元神社は守山から分霊されたと言われているが、そうではない。遷宮したものと言われている」 彼はそう言った。 私は大いにまごついていた。 守山の田村大元神社の御祭神は、天照大神・日本武尊・天之御中主神・および国常立命である。そして三春の田村大元神社の御祭神は、国常立命のみである。そこで私は田母野氏の話から推定してみた。 もともと守山の田村大元神社には、国常立命と坂上神社が祀られていた。国常立命が三春の田村大元神社に遷宮された後、守山の空になった神社の跡に再度国常立命が勧請され、さらに天照大神・日本武尊・天之御中主神の諸神を祀ったと考えるのはどうであろうか。ただここで注意しなければならないのは、伝説上、日本武尊と田村麻呂の一体化があったということである。これは日本武尊を田村麻呂と読み変えたり、その逆をする必要もあるということを示唆しているのかも知れない。「ところで先ほどの話から、明治の神仏分離の際国常立命が勧請されたというが、それ以前の田村大元神社の御祭神は田村麻呂であったという考え方はどうだろうか。そうすれば、[田母野坂上家]などの文字とも接点が感じられるのだが?」 「うん、確かにそれは何らかの関係はあったと思われる。例えば」と言って彼は、田村大元神社が宗教法人に登記の申請の際に書かれたという[神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。その神社明細書は、その辺にあったものが自然にスルッと出てきた感じであった。余りにも猪突に私の目の前に表れた。思わず息を呑んだ。物的証拠がはじめて出てきたのである。 ——これは・・・、今までの推理とは違う。本物だ。 私はその書面を見ながら凍りついたようになっていた。 ——本当にこんなことがあるんだ。仙道田村荘史の記述とも、一致する。まるで奇跡だ! しばらくは声も出なかった。 ところで石川郡小山田村と言われた当時、この小山田村は月夜田の部落を包含していた。とはいっても、現在、地名として明王壇は使われていない。しかしこの神社明細書と月夜田の伝説から、焼けた神社が明王壇にあったことは充分に確定の根拠となり得よう。なおかつ明王壇は、これまでの一連の調査から、月夜田のあの焼けた神社跡の丘である可能性が非常に高い。とすれば、先ず北畠氏か田村氏かが、大元帥明王を京都の大元宮から明王壇(月夜田)に勧請したと考えてはどうか。 この田母野説(明王壇→守山→三春}であれ、または別説(明王壇→重石→大草→陣場→守山→三春)であれ、この大元帥明王はいずれ守山を経て三春に到着する。こうなれば、あとは[月夜田]と[明王壇]が同じ場所かどうかの確認をするだけである。それが確認出来れば、以前に思ったように、[祭る明王]は月夜田以降の地名にかかると考えてもよいのではあるまいか? ということは、最初に明王壇に祀られた大元帥明王は、別説のように祀られながら運ばれてきたという意味になる。するとそれは、田母野説を否定することではなく、田母野説は月夜田と守山の間を省略しただけである、ということになろう。 ——これは、一つの決着点にならないだろうか。 そう考えながら私は言った。「明王壇という地名の確認が必要だが、これで少なくとも大元帥明王を送り出した小山田村月夜田の伝説と中間の大草、そして受け取った側の三春田村大元神社にある文書とで、一応繋がったと見ていいね? 月夜田も明王壇も小山田村というところが合致する」 彼は笑いながら答えた。「うん、そうかもね・・・」「それにしても、想像だけで明王壇などという地名を書ける筈がない。何か原本があったのではないだろうか」 私は明王壇の確認のため、月夜田の遠藤豊一氏に電話をした。彼は言った。「地名としては残っていないが、月夜田の燃えた神社の跡地の丘がそう呼ばれていた」 ——やはりそうか。 この明王壇という今は使われていない地名が、送り出した方の伝説と受け取った側の文書とで将に合致したことになる。私は一人、快哉を叫んでいた。今までの調べから、「明王壇は、燃えた神社の跡だ」という自信はあった。だからその地名を確認した時、当然、という気持もあったが、やはりそれは嬉しかった。私はこの結果の報告がてら、田母野氏に電話をした。南北朝時代の神仏習合について知りたかったこともあった。彼は、「おそらく明王壇では、小屋程度の小さな建物で神仏を合わせて祈っていたのだろう」と言う。「ところでタモちゃん(彼のニックネーム)、その小屋のそばにあった大きな三つの岩が、御神体となる可能性はあるだろうか?」「その岩がそうだとは言えないがその可能性はゼロではない。その場合、御神体となる岩は磐境と呼ばれる」
2007.12.21
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さ ま よ え る 神 々 話を戻そう。宇津峰山や雀宮に天皇たちを祀ったのは、南北朝の戦乱後であると考えられる。この戦乱後であるとすれば、二つの星ケ城が並立しても一向に構わない、という時期であったということではないだろうか。つまりこの唄にある[星ケ城]は、どちらかの一つではなく、二つの星ケ城を唄っているということではあるまいか? 日本語には、名詞の複数形がない。ということから、唄にある星ケ城は一つではなく、 2 Hoshigajos を表しているということにならないだろうか? そう考えてくると菅舩神社も不思議に感じられる。なぜ唄の中に菅舩神社の名を出さないで、「二ツ村」で二ツの菅舩神社を示唆したのであろうか。考えられることは、御旗神社の神々、つまり北畠系の神々を、二ツの菅舩神社に残したことを北朝方に知られたくなかったということかも知れない。そうすれば宇津峰山に村上天皇、亀山天皇と南北朝とは無関係な天皇を祀り、あえてここ二ツの菅舩神社に関与させたと考えられる。すなわち[二ツ村]の二ツは、菅舩神社Sと星ケ城Sの双方にかかると・・・。 そういう目で見ると、宇津峰山頂には小さな祠程度で立派な社殿が建てられた形跡が見られない。それから推測するに、御代田の雀之宮神社を隠す意図で、南北朝の戦後になってから御代田城も星ケ城と言ったとも考えられるのではないか。 そうなるとやはり、唄にある星ケ城とは二ツの御代田城をも指していることになる。するとどちらかの星ケ城が北朝方に対しての目眩まし、つまりダミーであったとも考えられる。それにダミーと考えられる理由として、 第一に「皇子」がある。というのは、後村上天皇、後亀山天皇と親子を祀るのであれば、何故、祖父の後醍醐天皇を祀らないで後亀山天皇の従兄弟である宇津峰宮を祀ったのか? 第二に、後村上天皇と後亀山天皇の間の九十八代・長慶天皇が外されている。 つまり現実に九十七代・後村上天皇、九十九代・後亀山天皇、宇津峰宮を祀ってあるのだが、これはむしろ、南朝の始祖である後醍醐天皇の子の後村上天皇、そして孫の後亀山天皇を祀った方が自然ではないのか? それなのに後亀山天皇の従兄弟の宇津峰宮を祀ったことに、明らかな恣意が感じられる。 それでは、月夜田にある八坂神社はどう関係するのであろうか。 八坂神社は、古くは播磨から牛頭天王を祇園(京都市東山区)の地に勧請して祇園社と呼ばれていた。のちに素戔鳴命と習合されて牛頭天王・八坂神社となり、足利将軍一門の厚い崇敬を受けていた。 このようなことから月夜田にあったこの二つの神社は、北畠氏と足利氏の対立を象徴しているとも考えられる。つまり焼けた神社(南朝・敗者・北畠氏・無くなった神社)と南北朝の戦争後勧請されたであろう八坂神社(北朝・勝者・足利氏・今も残されている神社)が、そのことを具象的に表しているのではあるまいかということである。とすればこれは、北畠対足利を意味しているのではないのだろうか? ——ところでそう言えば、あの神護山高安寺はどうなのだろうか? 高安は文字こそ違うが、同音で年号の弘安(一二七八~一二八八)がある。弘安では古すぎるが、南北朝の頃にコーアンという音の年号がないだろうか? そしてその頃あの高安寺が創建されたとすれば、これは面白い。 私は急いで年表を繰ってみた。 ——あった! 後醍醐天皇が崩御し、南朝・後村上天皇の時代に北朝方の年号として康安(一三六一~一三六二)があった。もしこの年代での創建が証明されれば、高安寺は雀之宮神社を護りながら、北朝方から雀之宮神社を隠すという目的で高安(康安)寺と命名したとも考えられる。もしそうであったとすれば、雀之宮神社を隠すという意図がより明確になるのではないだろうか。 ——しかしこれでは、あまりにも話がうますぎる。とにかく訊いてみなければ。 私は疑問を抱えて高安寺に三ツ本光照氏を尋ねた。 お寺で一番古い過去帳を見せて頂いた。ただし、明治三十二年に復元されたものであった。お寺が火災で焼けた後に復元したものであるという。 寺の創建は、弘安元(一二七八)年であるという。ところが葬られている人の最も古い年号は応永二(一三九四)年であった。なお没年不明の和尚の戒名が四つ、その前に記載されている。私の仮定は残念ながら狂ったらしい。弘安元年、そして応永二年。この明確な年代とその差一一六年の間に康安元(一三六一)年はあるが、お寺の創建説を康安とするにはちょっと証拠が弱いことになる。ちなみに北朝の康安元年は、南朝の正平十六年にあたる。三ツ本氏は亡くなられた父の和尚の話として、「『本堂再建の折、天井に古い建築年代を書いた板を上げておいた』と言われたが、自分では確認していない」と言われた。「それに一一六年の間に四人の和尚というのは少なすぎるが、その間には無住寺の時もあったかも知れないし書き漏らしたかも知れない。もっともこうなると、仮定の話になってしまうが・・・」 ——そうか、残念。こちらも仮説だったが。
2007.12.20
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田 村 麻 呂 仏 私は考えていた。 ——どうも守山の大元帥明王建立以前と思われる時期から、田村麻呂の話が出てくる。それに、田村大元神社にあるという厨子も気になる。すると人間であっ た田村麻呂は、いつから神になったか? いや、厨子は本来、仏像などを安置する仏具のはず。とすれば田村麻呂は最初は仏であったと考えても良いのではない か? それにしても、田村麻呂自体を祀った神社か仏閣がどこかにないのだろうか? それは意外に簡単に、三春町史の一ー二六〇頁、「清水寺縁起」として載っていた。 ・・・・・五月廿七日庚申、戌ノ二刻、山城国宇治群の栗栖村に葬る、時に勅有り甲冑・兵杖・剣鉾・弓箭・糒塩を調え備えて合わせ葬らしめ、城東に向って穿 に立つ、即ち勅使監臨して事を行う、其の後、若し国家の非常、天下の災難あるべくむば、件の卿の塚墓の内、宛も波を打つが如く、或は雷電の如し、但、往古 来今坂上大宿禰氏より始め、他の氏族に至るまで、将軍の号を得て、坂東の奥地に向う者は、先ず密かに此の墓所に参って深く祈祷成せば、発向の輩、城を抜き 敵を下すこと、勝げて計うべからず・・・・・ ここでは、[坂東の奥地に向う者は、先ず密かに此の墓所に参って深く祈祷成せば]と、墓での祈祷を勧めている。この時点で田村麻呂は、神であれ仏であれ、奥州鎮守を願う祈祷の対象として認められていたことになる。 私は、何年か前に、大同年間に建立されたという山梨県東筑摩郡波田町上波田に見つけた田村堂のことを思い出した。 大同年間 山梨県東筑摩郡波田町上波田・所在。 重要文化財。 田村堂。 昭和二十八年八月二十九日指定。 建築年代は明らかではないが、元来、厨子として作られたものと見られ、形式 手法から室町末期と推定される。 完成当初は総金箔塗であり、塗組・軒廻りの構造や扉両小脇・蹴込などの花挟間(はざま)・輪違紋(わちがいもん)の紋様 などから華麗な厨子であったと想像される。江戸時代末期に発刊された「若沢寺一山之略図」には境内の最奥部に坂上田村麻呂を祀る神祠として画かれており現 在も堂内には、田村将軍の座像が収められている。 波田町教育委員会またもう一つ。明通寺の縁起が手元にある。 福井県小浜市門前 延歴の頃、この山中に一大ゆずり木があった。その下に、世人と異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたまある夜、坂上田村麻呂は霊夢 を感じてこの地に至り、老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため大同一(八〇六)年この所に堂塔を創建した。老居士はこのゆずり木を切って、薬師如 来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝えられる。 国 宝: 建造物 本三重塔 重要文化財: 本尊薬師如来像 降三世明王立像 深沙大将立像 不動明 立像 これらの例に漏れず、福島県のこの地方に伝わる多くの田村麻呂関連の神社仏閣建立の伝説はほとんどが大同年間とされている。この時期を歴史に照らすと、田 村麻呂は延歴二十二(八〇三)年に志波城を築き、延歴二十四(八〇五)年に三度目の征夷大将軍に命ぜられるが中止となった。大同年間は次の年(八〇六~八 〇九)からになる。彼は弘仁二(八一一)年に五十四才で没しているから、いわゆる彼の晩年期にあたる。その晩年に合わせたかのように、田村麻呂を縁起とし た神社仏閣が全国的に、しかも集中的に建立されている。これはいったい何を表しているのであろうか? ただこの地方の場合考えられるのは、坂上家の子孫た ちが田村地方に武士化して土着したのがこの大同年間である、ということなのかも知れない。だがいずれ、田村麻呂の死と南北朝の時代まで、約五三〇年もの間 がある。五三〇年もあれば、波田町の田村堂の説明文のように、厨子に入ったまま神と変化してもおかしくないのかも知れない。 また守山の大元帥明王社の勧請者を[田村郡誌]のいうように田村麻呂であるとすると、彼の晩年、つまり大同年間とせざるを得ないことは田村麻呂の死の時期 からも類推できる。とすれば、守山の大元帥明王社の大同年間の建立については、やはり大きな疑問詞をつけるべきかも知れない。つまり、康永二年・興国四年 の方が、より史実に近いと思われるからである。 ところで私が、田村麻呂にこだわったのは、[陣場]の解明と関係があると思ったからである。 月夜田、重石、大草と逃げてきた北畠・田村の連合軍が陣場に至った時、北畠顕 家が実在の人物の神格化は出来ぬと考えたのではないかということ、そして田村氏側は自分の先祖である田村麻呂を祀りたいと主張したのではないかと考えたか らである。理由として考えられることは、顕家の父・北畠親房は神皇正統記を書いているのである。いわば、ちゃきちゃきの天皇神話派である。その親房の息子 の顕家が、実在の人物でありながら仏となった田村麻呂を崇拝する田村氏と浦郷戸(陣場)で分裂をした、という考え方はどうであろうか。ただし分裂とはいっ ても軍事的な争いではない。彼らはその後も共に南朝方として、一緒に北朝方と戦っているからである。ともかくここでの分裂のため、顕家は塩田にある二ツの 村の菅舩神社に天照大神と天太玉命を残した。この二神を塩田に残すのには、もう一つの理由があったと思われる。それは田村大元帥明王(当時からそう呼ばれ ていたかどうかは疑問であるが)には、すでに天照大神と天太玉命が、天之御中主命とともに合祀されていたのである。同じところに同じ神を祀る訳にはいかな かったのではなかろうか。 そこでここで分裂した田村氏は、自分の本拠地である守山の山中(地名)に田村大元帥明王を建立して坂上田村麻呂を遷した。そう 考えてくれば、田村大元神社の宮司の遠藤氏が「どこからか来たか分からない」と言われた坂上神社の厨子の意味も、分かるような気がする。 ——すると、星 ケ城はどうなるのか? 田村氏が自己の版図の中に、しかもそう遠くない距離の所に同じ名の城を二つ持つということは、やはり不自然である。単に[星ケ城] と言っただけでは、当時の関係者でも間違う可能性があるのではないか。ましてや南北朝の戦いの、将に現場であったのである。戦いとあれば、命令やその他で [星ケ城]違いは絶対に許されない。
2007.12.19
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星 ヶ 城 さて、いろいろとここまで模索をしては来たが、まだ星ケ城の位置が不明である。間違いなくこの関連した地域に、星ケ城は二つある。それは宇津峰山頂の星ケ城跡と田村町御代田の星ケ城跡である。そして宇津峰山頂の星ケ城跡には天皇たちが祀られ、御代田の星ケ城跡の近くには雀之宮神社が祀られている。これはいったい、どういう意味なのであろうか? 今まで私は、宇津峰城本丸跡が、この唄で言う星ケ城と思い込んでいた。しかしそこであるとすれば、もともとの天台宗の寺院がまた宇津峰山に戻ったということになるのであろうか? しかし現在、宇津峰山には、後亀山天皇、後村上天皇、皇子しか祀られていない。しかも目立たぬ程の小さな祠でしか・・・。 では、御代田の星ケ城がそれだとすると、それだけが他との関連もなく出てくるのはおかしい。そうなると雀之宮神社と関連するのであろうか? あそこにも目立たぬ程の小さな祠が祀られている。 私は御代田に行ってみた。今は阿武隈川に臨んだ所に星ケ城跡の案内板があり、すぐその近くに神護山高安寺がある。住職の三ツ本光照氏は、「私は歴史をよく知らないが、お寺なのに神護山という名が気になっていました」と言う。「そうですか、たしかにこれは[神を護る山]ですよね・・・。この神護山という名は、雀之宮神社とは関係ありませんか?」そう言いながら私は地図をなぞっていた。 高安寺は御代田の北町にある。すぐ南には、舘、外城と、御代田城に関連する地名が接している。さらに高安寺の西には、内手、六地蔵。その東に雀宮という地名が続いている。しかも高安寺から雀宮の祠までは、約三〇〇メートルくらいという至近距離なのである。「例えば、明治の廃仏毀釈以前には雀之宮神社と神護山高安寺とを一緒に祀っていたとか・・・?」 そう訊きながらふっと気が付いた。ここに至る間に、私が語る「雀之宮神社」という名に、誰も何の異論もなくスムースに聞いてくれていたことにである。[雀之宮神社]とは、雀宮にある名もない小祠に、便宜上、私が勝手につけた名である。不思議と言えば不思議な話であった。 三ツ本氏は、「それも考えられますが、残念ながらこれらに関連することは何も伝えられていません。ただ近所に、この辺の歴史に詳しい方が居られますので・・・」と言って折笠佐武郎氏を紹介してくれた。 期待をして折笠氏宅にお伺いしたが、私の疑問については実がなかった。そしてここでも、この唄は、知られていなかった。ただこの御代田にも、月夜田という地名のあることを知ったが、今までの私の説明もあって「この唄との関係はないと思う」と言われた。 しかし私は逆に、ここにも月夜田という地名があることに驚かされていた。 二ツ村、二ツの菅舩神社、二ツの月夜田と二ツの星ケ城、二ツの石の伝説。これらは、何らかの関連性を表しているのであろうか? このいくつもある対の組み合わせは、やはり宇津峰宮を隠す意図であったのであろうか? 当然ながら私はそう強く思った。しかしこの地名を知った時、先にここの月夜田を知らなくてよかったとも思った。もし知っていたらこの土地にこだわり、須賀川市の月夜田を知らずに、調査が頓挫していたかも知れないと思ったからである。これこそが神のご加護であったのかも知れない。私は、須賀川市の月夜田と先に出会えたことに感謝している。 ここで仙道田村荘史を再読してみた。この六頁に、[守山に隣る山中に田村大元明王あり、社内古碑あり大同二(八〇七)年の四字を認むべし。実に之れ田村最古の資料とす]という記述があり、さらに同じ一六四頁に、[大元明王髻守岩瀬郡小山田村於今明王壇と云う所鎮守山泰平寺、とて中は大元明王、左熊野三所権現、右八幡菩薩あり利宗三代の時近便りとて後地極めて守山山中に建立ありと見え、大槻博士の伊達行朝勤王事歴にも小山田説(石川郡川東村大字小山田なり)を採られたり]という記述があった。 ——うーん。鎮守山泰平寺と明王壇か・・・。前にもこの本を読んでいたのに、気がつかなかった。 私は、鎮守山泰平寺・大元帥明王が、明王壇にあったといういくつかの記述が頭の中をよぎっていたのに気がついた。考えてみれば、あの「太平記」が、南北朝の戦乱を描きながら「争乱記」などと名付けられず、平和を願ってあえて「太平記」という題にされたという説がある。この説を流用し、泰平寺という名は戦乱の世の中だからこそ、あえて泰平を祈って付けたと考えたらどうなるであろうか? そうすると鎮守山は、鎮守府大将軍・北畠顕家と関連なしとも、言い切れないのではないか? とすれば鎮守山泰平寺は、将に南朝方の、つまりは北畠氏または田村氏の命名と思われる。しかしこれを主張すると、守山の大元帥明王が大同二(八〇七)年に建立されたという説は南北朝時代より大分以前の話であり、[田村郡誌]にある康永二年・興国四(一三四三)年とも年代が合わなくなる。このことは何を表しているのであろうか? 歴史によると、この康永二年・興国四年という年は、関東の南朝方の拠点であった関・大宝両城が陥落しまた南奥の南朝方として重きをなしていた白河の結城氏が北朝方に降り、田村氏を含めた南朝方の凋落が目立った年である。このような年に、月夜田の明王壇にあった大元帥明王社が、より守山に近い重石に遷宮されたことについては、それなりの理解が出来る。しかし田村氏の本拠地であり、守りの堅い守山に近づいたといっても、せいぜい二~三キロメートルでしかなく、守山からまだ七キロメートルも離れている。また特に要害の地でもない、ということからも遷宮の本当の理由は掴みきれていない。 私は明王壇の地名を求め、図書館で須賀川市の住宅地図に詳細に当たった。しかしその地名は・・・、なかった。そこで須賀川市史に当たってみた。やはり明王壇はなかったが、中世編に次の記述を見つけた。[(塩田菅船大明神) 祭神 天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、猿田彦神、天太玉神。蓬田岳菅船神社を本社とする菅船神社群のうちの一社であり、祭神は猿田彦神であった。その後、正慶二(一三三三)年、北畠顕家が御旗神社を菅船神社へ遷し、応永二三(一四一三)年、当地の塩田右近太夫が、伊邪那岐神命、伊邪那美神命を合祭した]という。 この記述は、神清水・菅舩神社宮司の鈴木定氏が「御旗神社が神清水の菅舩神社に合祀され」と言っていたことと、将に合致する。しかも時代は、南北朝なのである。話が合う。しかしここからも、遷宮した理由を知るには至らなかった。
2007.12.18
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守 山 ・ 田 村 大 元 神 社 今度はその足で、守山の田村大元神社に回ってみた。 神社の氏子が数人。注連縄を作ったりして正月の準備をしていた。遠藤昌弘宮司は自宅にいるという。住所を聞いて車を走らした。生憎留守であったがすぐに帰るという。縁側でしばらく待たせて貰った。そう待つこともなく、運よく宮司が戻って来た。私は、単刀直入に聞いてみた。「『月夜田や塩田から、御神体が飛んできた』というような伝説かなにかを、聞いたことがありませんか?」 もしあれば、出発点と到着点が確認できることになる。いや、確認というよりそうあって欲しいと願っていた。しかし残念ながら、答えは「否」であった。 ——ようやくここまで来たのに、糸が切れたか。 そう思うと、腰の力が抜けるかと思うほどがっかりした。「ただし本殿とは別に坂上神社というのがあり、禅宗仏殿形式で桃山時代に作られたと言われる厨子が納められていますが、あとではめ込んだ形跡があるのです。とは言っても、この厨子が他所から運ばれてきたものかまたは別棟にあったものを移したのかは、はっきりしません」と彼は気の毒そうな顔をして続けた。「このことは、以前に日本大学の先生方が調査した時の結論でした。この坂上神社は養蚕神社とも言われ、蚕飼様とも呼ばれています。そしてこの厨子には、田村麻呂の木像が祀られています」 それを聞いて私は驚いた。田村大元神社、旧称・田村大元帥明王社の主神は、その名から言っても「坂上田村麻呂」、つまり戦いの神だと思い込んでいたのに、平和な養蚕の神になっていたからである。それにしても、田村大元神社の境内に、つまり従の位置に坂上神社があるとはどういうことなのか・・・。 私はこの話から、 1 この厨子が、月夜田から運ばれたことを否定する証拠もないし、肯定する 証拠もない。 2 厨子は、仏具の一種である。 3 この厨子には、田村麻呂の木像が安置されている。と考えてみた。そしてこれらのことと御旗神社の伝説とからめて、[厨子は月夜田から運ばれた]という結論を付ける訳にはいかないだろうか。そう考えたから、私はなおさら本当は月夜田から運ばれたと思いたかった。 守山の田村大元神社は、明治の廃仏毀釈以前は、鎮守山泰平寺という天台宗の寺でもあった。田村郡誌にも、[明王堂の主を鎮守山泰平寺といひ、其頃は宇津峰の社壇をも此寺にて祭り居りしに]とある。するとこの田村大元神社は、宇津峰山にあったとも伝えられる祈祷所と天台宗でつながることになる。宮司の遠藤昌弘氏に、[田村郡誌]に記述されている[大元帥泰平寺の学頭坊善法院主のつたえしと云ふものあり]と書いてあるが、これに関連したことを知っているかどうかを尋ねてみたが、お寺関係の書類は廃仏の際に処理されたらしく「何も残されていない」と言う。 そこで今度は、南に後亀山、中に後村上、北に宇津峰宮が祀られていることを説明して、神道において北と南というものに何かの意味があるかどうかを尋ねた。 しばらく考えていた遠藤氏は、「神社は通常南に向いて建てられます。しかし人間をあまり神に近ずけてはいけないという考えがあって、奥まった所に神様を祀ります。そのために結果として、薄暗い北になるということはあります」という説明であった。私は、核心と思われることを、訊いてみた。 「それでは一番大事と思われる宇津峰宮を、奥にあたる北に祀ったということは考えられませんか?」 「いやあ、そこまで意識したかどうかは分かりません。ただ神事としては夜に行われることが多いのです」 「夜にですか・・・?」 一瞬私の脳裏には、「月夜田」と「星ケ城」の文字がよぎった。 「そうです。ご記憶にあるかと思いますが、例えばテレビでも放送された昭和天皇の御大葬も、夜、暗いところで行われたでしょう?」 「ああ・・・、そうでしたね。そうすればうがった見方になりますが、この月とか星とかいう文字が夜を表しているということにはなりませんか? 星ケ城の位置関係がどうも今一つ納得できないのですが」 「さあ、それは・・・、私にはなんとも申し上げかねます」 私は月夜田や星ケ城を、夜ということから解釈できないかと思ったのであるが、それはどうやら無理のようだった。 守山の田村大元神社の御祭神は、国常立命・天照大神・日本武尊・天之御中主神であるという。そこで遠藤昌弘氏にあの唄のことをを訊いてみたが、彼も全く知らないという。
2007.12.17
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三 柱 の 神 家に帰った私は再び地図に向かった。そして塩田氏に言われたようにその地図の上で、月夜田、重石、大草、浦郷戸(陣場)となぞってみた。するとそれらは、きれいに北の守山に向かっているではないか! しかしながらこの線は、大草から守山へ直接行かず、浦郷戸(陣場)で躊躇したかのような不思議な動きを見せている。 そばで興味深げにそれを見ていた娘に、私は今までに調べたことを話した。「つまりこの陣場とは単に戦場ではなく、[何かのいさかいのあった場所]を意味している、と考えたらどうかな」 そうは言ったものの、私は考え込んでしまった。何故いさかいがあったか? が分からないのである。「やはりこの[陣場や]や[残る塩田や][二ツ村]、というのが問題だな。それに神清水と外の内の菅舩神社に何かが残ったとすれば、神様かそれに関連するものしか考えられないし・・・。それにしても、神清水というのは何となく分かるが、外の内(そとのうち)とは妙な地名だな」「ところでお父さん。神清水の菅舩神社には、重石の御旗神社を合祀したと言っていたわよね?」「うん。御旗神社の天照大神と天太玉命を移した、と言っていた。するとこの[残る塩田や]の[残る]は、この二柱の神々のことかな? ということは、田村郡誌にも[(塩田村の明王重石と云う地)に移して]とあることから、二柱の神々と一緒に祀られていた大元帥明王も重石から陣場に行ったと考えられる」「ということは、陣場まで行った二柱の神々と大元帥明王がそこで喧嘩をしたということ?」「喧嘩とは穏やかな言葉ではないが、大元帥明王と二柱の神々とが互いに取り込むための攻めぎ合い、もしくは分裂のための争いがここであったということを示唆する地名なのではあるまいか? そう考えてみれば、二ツ村とは、御旗神社の神々が塩田の神清水と外の内の二ツの村の菅舩神社に残されたということを意味するのではないかとも考えられる」 娘が遮った。「それなら月夜田の神社の火事は単なる火事でなく、田村氏が戦いに敗れた時の兵火とは考えられない?」「ん? なんだって?」「例えば、宇津峰山や月夜田での戦いに敗れた田村勢が逃げた。逃げる以上どこに集まるか、目的地を明示すると思うの。そこで敗れた田村勢が逃げる目標とした重石の御旗神社に集結はしたものの、その姿は血にまみれ泥にまみれて鬼気迫る阿修羅のような姿。そしてここにも火をかける。それを村人たちが恐る恐る見ていたとしたら、まさに仁王様の集団と思えない?」「うーん、仁王様の集団か・・・。疲れた上に恐怖と神社の燃え上がる火で赤く照らされた落武者たちの集団。なるほど、そうすれば[仁王様の休み石]がいっぱいあっても変ではないな。これはまた随分とエキサイテングな推理だな」 私は話の急転回に、息を呑む思いであった。 そう推理すれば、ここで休んだ田村勢が唄にはない大草を通って陣場へ行く、そしてそこで何かが起きたとも考えられる。するとそこで、もう一つ考えられるのは、宇津峰山に天皇たちを祀るために、もともと宇津峰山にあった神様を月夜田に移したということである。確かにあそこには、[南朝方に立って宇津峰に拠らしめた本山修験派が、南朝勢力の衰退につれ、北朝勢力を背景として進出してきた当山派勢力に抗し得ず、大元帥明王社によった勢力を分断された]と三春町史にもある。それに田村郡誌にも、[其頃は宇津峰の社壇をも此寺にて祭り居りしに]とあることからそれは考えられる。「ところでお父さん。天皇や亀山天皇は、宇津峰山に来たことがあるの?」「いや、そんなことはあり得ない。村上天皇は西暦九四六~九六七年の天皇、亀山天皇は一二五九~一二七四年の天皇だ。それに宇津峰山頂の三祠は、南北朝後に成立したと考えられる。あの唄を書いてある田村郡誌の説明に、[辺鄙の土民、天子の御謚を呼び捨てに謡ふ事あるまじく(御謚、村上、亀山、の上に後の字なくては、南朝の天子ならず)皇子をも宮とこそ呼べ王子といふべくもあらず]とある通り、村上天皇や亀山天皇ではなく、後村上天皇(一三三九~一三六八)と後亀山天皇(一三八三~一三九二)を祀ったと考えるのが順当だろう」「では。後村上天皇や後亀山天皇は来られたの?」「実は長慶天皇はナゾの天皇とも呼ばれ、長い間、天皇の系譜には加えられていなかった。その存在は大正十五年になってからはじめて確認されている。しかも長慶天皇は正平二十三(一三六八)年、皇族五十七名、公家七名、僧侶十三名、武将三十七名が三種の神器を父の後村上天皇から受け取り、今の八戸へ出発したという。田村氏が八戸へ行った史実と合うな。ここの櫛引八幡宮には長慶天皇御料とされる『赤糸威鎧兜』が祀られており、その後、多賀城から霊山に来られているのに宇津峰山には不思議と祀られていない」「とすれば、この祀られた位置に意味はない? 例えば仏教では中央に本尊、両脇には脇侍だわよね?」「うーん、なかなか面白い切り口だな。それにしても第六二代が村上天皇で第九十代が亀山天皇。さらに時代が下がって第九七代が後村上天皇で第九九代が後亀山天皇・・・。つまり即位の順序から並べてみると、どちらのグループから見ても中央、左、右という順になるが・・・」 後村上天皇「・・・それでは右大臣と左大臣はどっちが偉いの?」「えっ、なんだって?」 娘の矢継ぎばやな質問に、私は押され気味であった。娘は続けて言った。「だってお父さんは祀りたかったのは皇子つまり宇津峰宮だと言っていたでしょう? そうすれば、来たこともない天皇を祀るということは、何かの言い訳じゃなかったのかと思ったの」 私は自分が推定していたことを言われ、いささかまごついた。そこで私は辞書を確認した。「右大臣は左大臣に次ぐ、・・・か」「つまりそれだったら、左右では解決出来ないわね。だってそれでは、後亀山天皇の方が宇津峰宮より偉い位置に祀られているということになるものね・・・。それだったら、方角に意味はないかしら」「うーん。[南に亀山、中に村上、北に宇津峰宮(仙道田村荘史)]か・・・」 まるで私は、娘の誘導尋問にかけられているようであった。 後日、谷田川の菅布禰神社に行ってみた。宮司の力丸守氏の話によると、たしかに二つの菅舩神社と同じく、ここも宇津峰山と関連があった。三神社で山頂の神々を祀っているのである。これで祀っていた三カ村の名と神社は、確認できた。 過去、宇津峰神社の祭礼は陰暦四月一日であった。やがて新暦の五月一日に変更された。そして現在は四月二十九日の[みどりの日]に変更され、郡山市・須賀川市共催の宇津峰山山開きの日に合わせられている。 しかしこの唄については力丸守氏もやはり知らないという。ただしここ菅布禰神社の祭神は、猿田彦命のみであるという。すると塩田の二ツの村に残された神は、天照大神と天太玉命であるという有力な傍証になるのではなかろうか? つまり陣場で分かれたのは、御旗神社の神々と、大元帥明王ということになる。そう考えれば、[陣場や 残る塩田や 二ツ村]の三つが一挙に解決することになる。 当時の宗教観には、現在とは比較にならないほど強いものがあった。それであるからこそ北畠氏と田村氏との間の強い軋轢が、陣場での対立と分裂につながったのではあるまいか。私は、確信に近いものを感じていた。
2007.12.16
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塩 田 ・ 二 ッ 村 家に帰った私は考えていた。どうも分かりそうで分からないのである。それを見ていた娘が、「この唄の地名の順序に何かの意味があるのではないか?」と言い出したのである。 私は二万五千分の一の地図を持ち出した。しかしその地図には、月夜田や重石そして陣場などの地名が記載されていなかった。そこで須賀川市住宅地図から、月夜田や重石をその地図の上に確定してみた。確かに守山をゴールと考えれば、月夜田より重石の方が守山に近い。そして月夜田や重石を含む大字が塩田である。「この辺が[残る塩田や]と唄われている塩田だな・・・」 私は独り言のように言った。遠藤豊一氏が、[火に乗った御神体が、守山の田村大元帥明王に『塩田』を通って飛んで行った]と言ったのを思い出していたからである。 ——重石は大字塩田の中の小字である。すると月夜田の神が[塩田を通って飛んで行った]ということは、まず重石に行ったということになるのではないかと考えられる。もしそうだとすれば、月夜田から来た神様が、[仁王様の休み石]で休みまたどこかへ行ったことになる。すると行った先は、守山の田村大元帥明王ということになるのではあるまいか。田村郡誌の、[小山田の北(塩田村の明王重石と云う地)に移して、礎石今に現存す]という文を、『塩田村の明王を重石という地』と解釈すれば将にぴったりである。 ——この口伝はつながる。あの唄は間違いなく[月夜田][重ね石]と続いている。私はそう思った。そしてさらに推測を重ねていた。 ——[重ね石]の次に[陣場や]がある。陣場は戦場を表すのではないか? それに続いて塩田という地名がある。では[二ツ村]は、何を表すのか? それに二ツ村の送り仮名が片仮名のツであることは、二ツの村を意味しているのではあるまいか? しかしこの二ツ村については、今まで誰に聞いても「旧・田村郡二瀬村(現・郡山市田村町)だ」との答えしか返ってこなかった。私が「二瀬村の成立は、明治二十二年の合併によるのであるから違う」と説明すると、それ以上の進展が見られなかった。 そこで今度は、郡山市の住宅地図で詳細に当たってみた。しかし旧二瀬村やその周辺に、二のつく地名を見つけることが出来なかった。ただ、(郡山市田村町)田母神と(同じく中田町)中津川の境に二ツ石山というのを見つけたが、それが二ツ村と関係するとも思えなかった。 それで気がついたのは、二つの菅舩神社のことである。神清水の鈴木宮司に電話で確認すると、「御祭神はどちらも猿田彦命、そして御旗神社から移したという天照大神と天太玉命の合わせて三神である」と言う。しかもそれらの祭礼は、同じ日の午前中に神清水の、午後には外の内の菅舩神社で行われているというのも気になった。そこで私は、二ツ村とは塩田字神清水部落の菅舩神社と塩田字外の内部落の二ツの村にある菅舩神社を表しているのではないか? と仮定してみた。 ——だがそうだとすると、この[陣場や]の後ろの[残る塩田や]の[残る]とは何を表しているのだろうか? 何が塩田に残るというのか? また新たな疑問が発生した。 その後、須賀川市の親戚の山邉與夫氏を通じ、須賀川史談会副会長・塩田民一氏のご紹介を受けた。塩田氏はその姓の通り、須賀川市塩田、つまりあの土地の出身の方である。先祖は庄屋であったという。彼もこの唄は知らなかったが、「この唄にある地名を含む宇津峰山の南部周辺は、もともと田村郡であったが、峰を境にして境界線を引くようになった明治から石川郡となり、さらに須賀川市に合併された」と言われた。 塩田氏によれば、塩田地区に、「御神体は、月夜田、重石から(須賀川市塩田字)大草を経て守山に行った」という伝承が残されており、また「須賀川市史に記載されている陣場小屋、宮田陣場、小倉陣場という地名にはもともと陣場が付いてなく、昔は塩田の浦郷戸の部落が、単に陣場と言われていた」と説明された。 もっとも考えてみれば、柄久原は南北朝時代の古戦場である。浦郷戸の部落はそこに密着しているのであるから、地元の人たちが戦場、つまり陣場と呼んだにしても不思議ではない。それにしても月夜田や守山から見て中継地たる塩田に、それを証明するかのような伝説が残されていることは驚きであった。
2007.12.15
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ほどなく、田の土手に大きな岩が三個、重なっている所へ着いた。それらは確かに重なってはいるが土留めのようにも感じた。岩の重なり具合が、土手を崩れないようにしているようにも見えたからである。 ——ああ。二個と思ったら三個か。しかも石ではなく大きな岩が三個。 それでも私は唄の文句にあった実在の岩を見て、証拠を見た気分で安心していた。この三個の岩を、地元の人は「重ね石」と呼ぶのだそうである。よく見ると、この「重ね石」の三十メートルくらい右に大きな岩が一個あった。この大きな岩には特に名はないという。 それなのにこの三個の岩の方にだけ[重ね石]と名がついているということは、昔の人がなにかこの石に特別の意味を持たせようとしたのかも知れないと思った。そこで私は訊いてみた。「この[重ね石]のあるところには、神社か何かの伝承はないんですか?」 あの[田村郡誌]に記載されていた、[明王堂を小山田の北に移して礎石今に現存す]という文を思い出していたからである。「それは、ないな。しかし今でもあそこの山に御旗神社という小さい祠があって、そこには[仁王様の休み石]っていうのがあるんだわ」 手でその山を指して説明していた芳賀氏は、「それじゃ、案内してやろう」と気安く先に立った。 三人は背丈ほどもある薮の中に分け入った。 芳賀朝二氏が言った。「この山ん中は、迷いやすくてなー」 ここは山というよりは丘である。しかしこの辺りのどこの山林もそうであるように、ここもまた手入れがされてなく、深い薮の連続の中にあった。「そうですね。林の中に入っちゃうとどこを見ても同んなじ景色だがら、俺たち素人だと出らんなくなっちゃうね」 蔓に足をとられ、熊笹に顔を叩かれながら、しばらく黙って歩いていると、芳賀氏と鈴木宮司が足を止めた。「これが[仁王様の休み石]だわぃ」 芳賀氏がそう言った。 私は林の中を見回した。そこには、苔むした一メートルほどの岩が、いくつか転がっていた。「どれが[仁王様の休み石]ですか?」 私は怪訝な顔をした。「これ、みんなだ」 彼はそう言いながらぐるーっと腕を巡らせた。「えっ・・・」 私は驚いた。何となく[仁王様の休み石]という石は一個、とイメージしていたからである。 すかさず宮司の鈴木定氏が説明してくれた。 ずーと昔、ここに御旗神社という神社が祀られていた。坂上田村麻呂が東征の砌、ここに祀られていた天照大神に戦勝を祈願したのだが、その時に白い旗を立てたことから御旗神社の名がついたのだという。 ——出た! やはり田村麻呂が関係していた! [祭る明王]の明王を田村大元帥明王社つまり田村大元神社に比定していた私は、そう思った。まるで証拠を掴まえたかのように思ったが、それがこの御旗神社とどう繋がるのか、まだ先は皆目見当がつかなかった。 宮司は話を続けていた。「ここの御旗神社は、今は神清水と戸の内の菅舩神社に合祀されて祠だけが残っている。それにここにある石は、本当は御旗神社の土台石ででもあったのであろう。見ての通りいくつかの石が残されているが、これらの石には、仁王様がどこからか来てここで休んでまたどこかへ出掛けたと伝えられていることから[仁王様の休み石]と呼ばれている」 私は黙って考えていた。 ──ということは、この御旗神社、つまり[仁王様の休み石]を中心に、何らかの出た入ったがあったことを示しているのではないか。それにここの地名は畑久保と言うが、旗久保が畑久保に変わったとも伝えられているし・・・。「久しぶりに来たから」 宮司はそう言うと小祠の前に座り込み、祝詞を上げはじめた。私たち二人は、その後ろで黙って頭を垂れていた。 私はここで二人に別れると、地図を頼りに月夜田を目指した。市道から車がやっと通れるくらいの狭い山道を登って行くと小さな神社があった。鳥居に[牛頭天王]の額がある。しかし地図には、[八坂神社]と書いてある。それらを確認すると、私は安藤氏宅で聞いてた遠藤豊一氏の家に飛び込んだ。 幸いにも、ご主人はご在宅であった。 月夜田とは地名である。それは知っていた。しかし彼は、「この部落の山にあった神社(今ある八坂神社とは違う神社)が火事で焼けた時、その明るさが満月の晩のように田を照らしたことから月夜田という名がついた」という謂れを話してくれた。 ——それにしても、何かおとぎ話みたいなきれいな話だな。 私はそう思って聞いていた。彼は話を続けていた。そしてこの火事の時、「[火に乗った御神体が、守山の田村大元帥明王へ、塩田を通って飛んで行った]と伝えられているが、そんなことはあり得ないから、誰か人が運んで行ったに違いない」と言って笑われた。 それを聞いた私は妙に納得していた。この話は伝説とは言え、複数の人から聞いたことなので、この地区では広く知られた話なのであろう。 遠藤氏に案内された神社跡(今ある八坂神社の隣の丘)には、いくつかの神社の礎石と伝えられるものが転がっていた。そしてその景色は、不思議とあの[仁王様の休み石]の景色と似ていた。
2007.12.14
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翌日、神清水の菅舩神社の社務所で、宮司の鈴木定氏が待っていてくれた。そして私は再びあの「太郎石」の前に立っていた。傍らで鈴木氏が、「毎年正月になると、村の若者たちがこの石を持ち上げて力くらべをするんだわ。本当はもう一つの小さめの次郎石というのがあったんだが、第二次大戦後に無くなってしまってな」と説明してくれた。「誰が、なんのために神社からそんな石を盗んで行ったんですかね?」 私は意外な思いで尋ねた。「いやー、なんでかね・・・。漬物石にでもする積もりだったのかね」 彼は困惑したような顔をして言った。「それにしたって神様の石でしょう? 普通の人だったら、とても畏れ多くて盗み出せないんじゃないですか? ましてや漬物石に使うとは・・・。ところで次郎石の下は凹んでいませんでしたか?」 私はせき込んで尋ねた。もしそうならば、二つ重なって「重ね石」になるのではないか、と思ったからである。 しかし宮司の答えは、「子どものころ見ただけなのでそこまでは憶えていない。しかしここの行事は有名で、毎年テレビ局が取材に来るんだわ」ということであった。心なしか、宮司の顔が誇らし気に見えた。 それから誘われるままに、私は社務所に上がり込んだ。太郎石が駄目であっても、あの唄が書いてあるものを見せてもらいたいと思ったからである。 しばらくの雑談に時が流れた。 ——どうしたのかな。あの唄の書かれているものを見せると言っていたのを忘れちゃったのかな。 心配になった私はおずおずと宮司に訊いてみた。「あの~、唄が書かれているのがあるというのは・・・?」「あー、そうだった。それは外だ」 宮司は再び立ち上がると玄関へ出て行った。 ——そと・・・? なんで唄が外にあるのか・・・? 私は慌てて後を追った。彼は足が不自由である。その彼が玄関先で杖を持って立っていた。 私たちはもう一度神社の境内に行った。そしてその境内には、人の背丈の二倍ほどの高さの歌碑が立っていた。 鳥賀居る 神の御井戸に うがいして 雲の上まで 声すがすがし (北畠顕信) みちのくの 安達の真弓 取りそめし 尾之辺につかぬ なげきつつ (北畠守親) それには、 皇紀弐千六百(一九四〇)年記念に建てたと彫られていた。 ——なんだ! 新しい物ではないか。 私はそう思っていささか面食らった。そしてがっかりした。残念ながら私の探している唄とは、唄が違っていたのである。 なお北畠顕信とは南朝方の贈正一位・大納言・北畠親房の次男であり、鎮守府大将軍・陸奥大介・北畠顕家の弟である。そして顕信は兄の顕家が戦死した後、鎮守府将軍・陸奥介を嗣ぎ、我が子の大納言・陸奥国司・守親とともに宇津峰山に入ったものである。それであるから、菅舩神社の宮司・鈴木定氏が現在も宇津峰山の皇子の祠の宮司を兼ねていること、そしてこの歌碑などから、南朝と菅舩神社との間に強い関連のあることは、間違いないと確信できた。そこで私はあの唄のコピーを出して宮司に尋ねた。「そういう唄があるのをはじめて知った。何に出ていたのか」と逆に訊かれた。 唄が出てくると思っていた私は、呆然とした。しかしそれでも宮司の、次に続いた言葉が私を奮い立たせた。「[太郎石・次郎石]はともかく、重石部落に[重ね石]という名の石があり、さらにその近辺に[仁王様の休み石]というものがある」と教えてくれたのである。私は、 ——なーに、本物の[重ね石]さえ見付かれば、[太郎石・次郎石]を気にすることはないな。そう思っていた。 田村郡三春町生まれの私は、三春の田村大元神社の門に、昔から大きな仁王像が鎮座しているのを知っていた。そしてその田村大元神社を、地元の人たちは[明王様]と呼んで親しんでいた。それであるから、私はこの話から、三春や守山の[田村大元神社]と[仁王様の休み石]との間に何か強いつながりがあるのかも知れないと感じていた。 重石の部落では、鈴木宮司から電話で連絡を受けていた芳賀朝二氏が、「俺は面倒だから、人に訊かれたら『そんなもの、分からない』って断わるんだが、禰宜様に言われてはね」と言いながらも、人のいい顔をして待っていてくれた。彼は神清水の菅舩神社の、氏子総代であるという。 私は準備してきた運動靴に履き変えると、畦道を辿った。足の悪い鈴木宮司も、杖をついて同道してくれた。
2007.12.13
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重 ね 石 勢いづいた私は「重ね石」について尋ねてみた。そしてまた興味深いことを聞いた。彼女が「太郎石、次郎石というのが塩田の菅舩神社さある」と言い出したのである。 ——そうか、「重ね石」はやはり地名の「重石」ではなく、「重さなった石」だったのか。 私は、「重ね石」の「ね」の意味が分かったような気がした。しかし今度は、「月夜田」という地名の後ろに「重ね石」という普通名詞が単純に続くのも変だし、唄にある「塩田」という所に「太郎石・次郎石」があるというのも妙な話だと思った。たしかにこうなってみると、唄の文句が単なる地名の羅列と考えるのもおかしい、と思わざるを得なかった。秘密が一つ解けはじめたたような気がし、なにかが見えはじめたような気がした。 私は場所を訊くと急いでここを辞去し、そのまま須賀川市塩田字外の内部落にあるという菅舩神社に飛んだ。何かが分かるかも知れないという焦りが、気持ちを急かしていた。狭い道から一寸入った菅舩神社の社務所の玄関に、私は駆け込むようにして立っていた。しかし宮司の佐久間壱美氏は、あいにく留守であった。私は奥さんに、「太郎石・次郎石は、ここの神社ではなく、すぐ近くの塩田字神久保部落にあるもう一つの菅舩神社に保管されている」と教えられた。 私は再び車を飛ばした。その神社は、車で五分ともかからない近いところにあった。同じ塩田の地域内である。考えてみれば教える方が間違えるのも当たり前、というほど近い場所であった。そして、神久保の菅舩神社に着いてみて不思議に感じたのは、何故こんな近くに同じ名の神社が二つもあるのであろうか? ということであった。 今度こそはと期待をして行ったが、あいにく宮司の鈴木定氏はここでも留守であった。しかし奥さんの好意で、神社の本殿の脇にあった「太郎石・次郎石」まで案内して頂いた。それは小さな木で出来た、祠のようなものの中に鍵をかけられて納まっていた。覗いて見ると、それは一抱えほどの丸い一個の石であった。「これは・・・?」 怪訝な顔をする私に、奥さんが困惑したような顔で言った。「次郎石はなくなってしまって、今はこの太郎石しかありません」 そう言われて私は、もう一度木の祠を覗きこんだ。格子の間から黒ずんだ石が見えていた。 ——そうか・・・、太郎石しかないのか。それにしてもこう丸くては、重ねては置けないな。するとこれは、「重ね石」ではないのかな・・・? 私はそう思いながら黙ってその石を見詰めていた。期待が大きかっただけに少しがっかりした。その様子を見ていた奥さんは、「ここではありませんが、名前のついたいくつかの石のある所がありますよ」と教えてくれた。私は再訪を約して帰った。 私は家に戻ってから考えていた。 ——待てよ・・・。次郎石も太郎石と同じく丸いとは限らないのではないか? もしかして次郎石の下が凹んでいたら、この太郎石の上に次郎石を重ねて置けるのではないか? 名前から言っても次郎石の方が小さいと思えるし・・・。またそれとは別にいくつかの石がある所があると言っていたが、それらは状況によっては「重なる石」、つまり「重ね石」と解釈できるのではないだろうか? そう思うと少し希望が見えてきた。 その夜、私は電話で鈴木宮司に訪問の了承をとりながら、あの唄のことを訊いてみた。「ああ、唄ならうちの神社に書いたものがあるよ」 そう言われて私は驚いた。今まで随分田村方部を探して歩いたのに、ついぞ、見つからなかった唄である。 ——おお! 意外に近いところから出てきたな! 何か気落ちしたような感じに襲われた。余りにも簡単に出てきたように思えたからである。 ——それにしても恐らく墨書だろうから、出来ればコピー、断られたら写真だな。 そう思って、明日忘れないようにと、カメラにフィルムを詰めて準備をし寝についたが、なかなか眠れなかった。
2007.12.12
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月 夜 田 これらのことを踏まえて調べているうちに、「月夜田」という地名を須賀川市の住宅地図の上に発見した。そこでその周辺をよく見てみると、(須賀川市下山田字)月夜田の近所に、(須賀川市塩田字)重石などの小字名が載っていた。それらは、通常の大きさの地図には記載されていない小字名であった。その上、須賀川市史の「宇津峯城と周辺城跡図」の中から、「小倉陣場」「宮田陣場」「陣場小屋」などという小字の前後に陣場を冠した一連の城館跡の名を見つけ出したのである。 ——そうか、「祭る明王」から「星ケ城」までは地名や固有名詞が並んでいるのか。これで一件落着だな。と私は思った。これで唄の解釈が終わった、と考えたからである。 だから田村太平記が日通文学に掲載された時点では、単に地名や固有名詞が意味もなく羅列されているということで解釈ができたと思い込んで書いてしまっていた。とは言っても、この解釈に対しては、我ながらいささかのぎこちなさは残されたままになっていた。 それらもあって、一応出来上がっていた筈の田村太平記をもう少し読みやすく書き直そうと考えた。そのために、前回調査から漏れていた宇津峰山の南部に調査の足を伸ばしてみたのである。考えてみれば、宇津峰山は北の旧・田村郡と南の旧・石川郡の境界線上にあるのであるから、南北朝の戦争がこの田村郡内だけで戦われた筈がないという至極当たり前のことに気がついたからである。 先ず南北朝の古戦場跡の柄久原(かくのがはら・現在のJR水郡線、谷田川駅南部の田園地帯)を通り過ぎて大壇館跡を探した。その近くと思われる畑で農作業をしている人に聞いたが、「えーっ。この辺に城なんかあったのがい?」と驚いた顔をされた。「いや、城と言うより館ですね。昔の豪族が住んだ・・・」興味を持たせようとして誇張して言ったことなのに、相手に与えた影響の大きさに慌てながら修正した。「うーん、そうかい。それは分がんねがったな」 彼は首を傾げるばかりで要領を得なかった。地図の上では、大壇館跡と思われる場所は東北電力の須賀川変電所に変っており、地形も大きく変化しているようであった。 ——こりゃ、駄目だ。 私はそう思った。「ではこのことについて、誰か知っている人があったら教えていただけませんか?」と言う私の依願に、その人は鍬を杖にしたまま首を横に振るだけであった。結局、大壇館跡はどこにあったか分からなかった。 次いで私は太政屋敷跡を目指した。ここも南北朝時代の激戦地の跡であり、その名の示す通り館跡である。しかしこれも、現在はゴルフ場に変わっている。 ただしここについては、ゴルフ好きな親戚の橋本正美氏が、一九九八年発行の「宇津峰カントリー・ゴルフ場のパンフレット」を貰って来てくれていた。彼は、私がこのことについて調べていることを知っていたのである。このパンフレットには、企業がPRのためとは言い、周辺の遺跡について簡潔ながらしっかりした説明がなされていた。この中から若干引用する。 ・・・「太政屋敷跡」伝説による国府跡とするには規模が小さく、南朝方の有力武将の屋敷であったと思われます。これと相対して西部土塁下に二間×八間の武者屋敷と考えられる構造が検出されています。興国元年(一三四〇)~正平八年(一三五三)の十四年間、東北地方の南朝方の有力な遺跡であろうと思われます。・・・ このことについてフロントで訊いてみたが、よく分からないようであった。 ——時代が古いんだから仕方ないか・・・。 私は半ば諦めながら車に乗り山道を下ってきたが、途中で目に入った一軒の農家に寄ってみた。当てはなかった。ただ太政屋敷に近い場所だから何かが分かるかも知れない、そう思っただけであった。そして当主の安藤昭一氏の、「まあ、上がれ」という言葉に誘われてのこのことコタツにもぐり込んだ。時期は晩秋であり、既に冬の季節となっていた。今までの経験で、こういう歓待がある時は不思議と収穫があるのである。この時にも本人からではなかったが、大収穫があったのである。「館跡はクラブハウスになっちまってない。工事すっ時に調査したが大したものは出なかった」 私は聞き耳を立てていた。「随分いじったから、地形が全く変わってしまった」 安藤氏は寂しそうな顔をした。私には彼の悲しみが共感できた。 丁度その時、この家に年輩の女性二人の来客があった。遠慮をして帰ろうとしたら、「まあいいから」と言われて腰を落ちつけた。 当主夫婦と女性客の雑談をしばらく聞いていたが、この南北朝時代の館に関するような堅苦しい話は出しにくかった。ましてこの女性の客たちに、興味がある話題とも思えなかった。やはり帰ろうかと思ったが駄目でもともと、タイミングを測ってあの唄のことを訊いてみた。「この唄の中でどうも月夜田という文字が、気になりましてね。どなたかこの唄について何かご存知ありませんか?」 しかし思った通り、誰も知らなかった。ところが顔を見合わせていた女性客の一人が、こんなことを言い出した。「おらは月夜田から嫁に来たんだげんちょ」 そう言って、月夜田にあった神様が守山に飛んで行った、という伝説のあることを教えてくれたのである。「おらはよっく分がんねげんちょ、月夜田に住んでる遠藤豊一さんさ聞けばよく分がってる」とも付け加えてくれた。 この日はもともと、私は南北朝の戦争の館跡の確認に出かけた筈であった。しかしこの不思議な唄を探る旅が、この話をきっかけにはじまったのである。 私は以前から、地名としての「月夜田」や「重石」「塩田」という地名の存在は確認していた。しかしその「月夜田」という地名には、なにか漠然とした疑惑を感じていた。なんとも地名らしからぬ美しい語感であったし、あとに続く「重ね石」を考えるとやはり地名でもないようにも思えたからである。それであるから、月夜田に行けば何か分かるかも知れない、とは思っていた。しかしここで、誰に聞けば良いかまで分かるとは思ってはいなかった。あの田村太平記を書いた時のぎこちなさが、よみがえってきた。
2007.12.11
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第54回福島県文学賞奨励賞? 2002/8福島民報社出版 売切れ さ ま よ え る 神 々 不 思 議 な う た 私が六十歳を過ぎたにも拘わらず小説を書いてみようなどとおおそれたことを考えたのは、地方史に興味を持っていたこと、そして会社を整理してリタイアを果 たしたことにあった。 そして最初の小説「田村太平記」が活字になったのは、「同人誌・日通文学」に加入させて頂いて間もない一九九九年のことであった。 南北朝の時代に南朝方として、鎮守府大将軍・陸奥大介・北畠顕家に従って伊達氏や白河の結城氏と共に戦った(旧・田村郡守山町、現・郡山市田村町守山)守 山田村氏の盛衰を描いたものである。 ただ一九九九年に書いたとは言っても、自分としては決して新しい出来ごとではなかった。この小説を書こうとする伏線 が、実は四半世紀も前に起きていたからである。その伏線というのは、近所の整形外科医院の院長、浅木秀樹氏の話にあった。話はたまたま氏の出生地(郡山市 田村町御代田字雀宮)に及び、氏が子どもの頃、正月になると必ず近所の祠に若水を捧げて宇津峰山を礼拝したこと、南北朝時代に戦った将軍の末裔らしいこと を聞いてからである。 その三十年も前のある秋の日、私は浅木氏と自分の子どもたちを連れて郡山市と須賀川市の境にある宇津峰山に初めて遊びに行った。そ の山は、思ったより急で高い山であった。ようやく頂上に着くと、村上天皇、亀山天皇、そして皇子を祀ったと言われる、高さ五~六十センチほどの小さな石の 祠が三つ並んでいた。その時は何故こんな所に天皇や皇子が祀られているのだろうか? そう思っただけであった。 その古戦場である宇津峰山の頂上から ちょっと下りてくると、湧き水があった。「福島の水百選」にも選ばれているきれいな泉である。それを見て私は、 ——なるほど、これだけの量の水が出れば、頂上に籠城してもある程度生活ができるな、と思った。 さらに山道を下って行くと、子どもたちの胸にまで達するほど積もった枯れ葉の吹き溜まりがあった。そこで子どもたちは歓声をあげ、葉を蹴散らして遊んだ。 麓に下りた私たちは御代田の雀宮に行ってみた。そこには、大きな木の根元に小さな祠が二つ、ひっそりと佇んでいた。そして行ってみて気がついたのはその 雀宮地区がわずか二十余所帯の非常に小さな街である、ということであった。それはまるで、往古、なにか大きな神社の境内であったのではないかということを 彷彿とさせていた。その時私は、宇津峰山と雀宮が栃木県の宇都宮市と雀宮町との語感に非常に似ていることから、なにか関係があるのではないかと興味を持っ たのである。 次いで私は図書館へ行って地名を調べた。これについては、一九七〇年、小学館発行の大日本百科辞典の内容を記すに留めておく。 宇都宮=下野国一之宮二荒山神社の一之宮から転訛。別当の宇津宮大明神から出たとも言う。 雀 宮=雀宮は、宇都宮(討つの宮)に対する鎮(すずめ)の宮の意で、怨霊を鎮魂するのだとも言われている。 そこまでは調べたが、私は「なるほど、ふ~ん」でいつの間にか忘れてしまった。毎日の仕事の忙しいせいもあった。まだ若いせいもあったのかも知れない。 このことについて再び調べはじめたのは一九九〇年の頃であったろうか。年を重ねていた私は、いつしか地方史の面白さにのめりこんでいた。そして会社の仕事の合間にそれらのことを調べていたが、地元の人にも忘れられた部分が多々あることが気になっていた。なんとかそれらを再発掘してみたい、そんな思いで調べ 書きはじめたのが「田村太平記」であった。それは、私がはじめて書いた小説らしきものではあったが、一九九九年に載せられた同人誌の「日通文学」を親類や 友人に若干配ってそれでおしまい、にしてしまったものであった。それもあって次に掲げる唄の存在については、「田村太平記」を書きはじめた初期の段階か ら知ってはいた。最初に参考にした「仙道田村荘史」に、次のような唄が出ていたのである。 名にし負う 雲水峰山の御社は 中は村上 弓手は亀山 馬手皇子 (云々) 当初私は、この唄は単純に村上天皇や亀山天皇、そして皇子のことを詠っているのだ、くらいのことしか思っていなかった。だいたい「云々」以下が省略されていたので、それ以上のことが分からなかったこともあった。そのためにこの小説が一応の脱稿を見た時には、まだこの唄について重きをおいていなかった。なぜならこの唄の意味がよく分からなかったこともあったし、 話の筋立てに特に関係があるとも思えなかったからでもある。それに調べた地域が、守山を中心とした宇津峰山の北部、つまり旧・田村郡という狭い範囲であっ たためか、この唄を知る人が全くいなかったこともあった。 次いでこれに関連する文書を見たのは、大正四年発行の「田村郡誌」の復刻版の中であった。これにはこの唄の全文と思われるものが載っていた。それを書き出してみると次の通りとなる。 名にし負う 雲水峰山の御社は 中は村上 弓手は亀山 馬手皇子 祭る明王 月夜田 重ね石 陣場や 残る塩田や 二ツ村 星ケ城 たふとさな なはよ(ハヤシ) なんちょ なんちょ(南朝) 私はこの唄の全文を知った時、「祭る明王」以降になにやら謎めいた、なにかものを隠しているような不思議な感覚に襲われた。「祭る明王」「月夜田」「重ね石」と続いていく文字のつながりは、妙に私の想像力をかき立てる単語の連続であった。これは尋常な唄ではない、そう思ったのである。 ——いったいこの唄は何を意味しているのであろう か・・・。 その疑問を追って[田村郡誌・復刻版一六九頁]を読んだ。?[伊達行朝事歴云、宇津峰三社の伝説を聞くに、昔此宇津峰宮、僧の某の命じて、大元帥明王の法を行なはしめ給ひしに、岩瀬郡川東郷、今の小山田村の地にて、「月夜田」、五里平と云う所にて修行したり、時に明王の燈、光明赫々として四方五里(六町一里)を照して月夜の如し、故に地名とす、時に康永二年・興 国四(一三四三)年なり、後明王堂を小山田の北(塩田村の明王重石と云う地)に移して礎石今に現存す、明王堂の主を鎮守山泰平寺といひ、其頃は宇津峰の社 壇をも此寺にて祭り居りしに後、又、堂も寺も田村郡守山の山中村に移して現存す]
2007.12.10
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