『福島の歴史物語」

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2007.09.09
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 ——早く帰らぬことには様子が分からぬ。
 そういう思いは、上洛していた南奥南朝軍共通の不安であった。
「東国の事おぼつかなしとて・・・」
 そう言って北畠顕家は、後醍醐天皇へ暇乞いを申し出、京都を後にした。
 後醍醐天皇から直接お褒めの言葉を頂いた。これは田村輝定にとって大きなお土産であった。しかし一緒に出発した北畠親房は途中から別れて伊勢の田丸城に入ると、この城に留まった。南奥南朝軍の帰国にともなう洛中での軍事的空白を埋めるために、新たな南朝方勢力と砦を構築しようとしたのである。
 帰国の途上、南奥南朝軍の京都攻撃の後を追って鎌倉に居座っていた斯波北朝軍を、相模の片瀬川で撃破すると、逆に鎌倉に攻め込んだ。ここでの南奥南朝軍の勝利は、またも関東・奥羽における南朝方有利の軍事情勢に変化させた。情勢は、猫の目のように変化していた。鎌倉に入った南奥南朝軍はどの道を通って多賀国府に北上するか、つまり、「仙道を通るか、海道を通るか」との議論が交わされた。
「仙道は白河・田村・伊達とお味方が多い。しかし海道の途中には、北朝方が小高に篭っている。戦いに疲れている兵を考慮すれば仙道がよろしかろう」との意見が強かったが、「いや、この際勝ち戦さの余力を駆って小高城を一気に駆散らし、以って南奥一帯の平穏をはかりながら多賀城に入るが得策」との意見にまとまって小高城を目指した。
 海道を辿った南奥南朝軍は、南奥における北朝方最大の拠点となっていた小高城に攻め込んだ。多くの京畿や鎌倉での戦いが、南奥南朝軍を強靭にしていた。彼らは小高城に壊滅的打撃を与えるとようやく多賀国府に凱旋した。ところが凱旋した多賀国府に、あの昔日の威容は失われていた。わずか二年半前のあのきらびやかさは、潮の引くように引いていた。
 ││一体このありさまは・・・。
 日本全国を平定し終えたものと思い込み、多賀城に凱旋して南朝方の天下が出来たと喜んでいた輝定は、前途の多難さを感じた。
 多賀城から長期間留守にしていた守山城に帰りついた輝定は、「早急に宇津峰城の建設を」
と久盛に命じた。何か気忙しさを覚えたのである。
 朝比久盛は、まず宇津峰山の頂上近くに清水を確保して飲料水を整備した。次いで防御戦に入った際の中核となるべき長平城・星ケ城・鐘突堂・千人溜まりを築き、さらに弓射峠郭・東乙森郭・西乙森郭を本城の出郭として配置した。そしてその上でいくつかの新城を周囲に作りながら、古くからの城館を利用して出城群を構成し、完璧の守備陣型を整えようとしていた。曰く、守山城・御代田城・谷田川城・宮田陣場・西山城・提鐘撞堂・細久保館・六日市城・市ノ関館・日照田館・蛇頭館・滑津館・刑部内館・矢柄館などがそれである。

 九州に逃げ窮地の中に光厳上皇の院宣を得た足利尊氏は、多々良浜で九州最大の南朝方であった菊池武敏を破って太宰府に入ると、事実上九州での覇権を握った。この時に足利尊氏は、朝鮮の高麗国に支援を求めたという風説があった。 確かに自殺を考えるほどの衝撃を受けた敗戦にも拘らず短期間に立ち直ったについては、何らかの理由があったことも事実であろう。しかし勝ちに浮かれていた後醍醐天皇は、足利尊氏追討の兵を出しもしなかった。大いなる誤算であった。
 一方建武の新政に不満を持った奥羽の武士たちは、「足利様こそ武門の棟梁」と足利尊氏が九州に逃げていたにもかかわらず北朝方の斯波家長の門を叩く者が増えていた。その上この南奥南朝軍が京都から帰国の途に出発するのを待っていたかのように、足利尊氏は京都への進軍を開始したのである。そして今度は逆に、この南奥南朝軍の北上を追うような形で攻め上ってきた。その総軍勢ざっと十万余。それらの軍勢を引き連れた足利尊氏は、湊川に楠木正成を打ち破った。南朝方の劣勢を知っていた楠木正成は兵力を温存するためこの地で時間を稼ぎ、新田義貞を京都に逃がすために玉砕して果てたのである。
 だが楠木正成がこうまでしなければならなくなったのには、訳があった。数では北朝軍の方が優勢だ、しかも勢いがある。そこで正成は敵の人数の多さを逆手にとった。
「後醍醐天皇を比叡山に遷して足利尊氏を京都におびき入れ、敵が全員町中に入ったところで周囲を取り囲んで兵糧を断つ。京都は消費都市であって食糧の生産地ではない。こんなところに十数万もの軍勢が入れば、なまじ人数が多いだけに飢えるのも早い。飢えて動けなくなった軍勢などもはや戦力ではない。そして弱体化したところを攻撃する」という作戦であったが、坊門宰相清忠が、「今再び主上に比叡山行幸を仰ぐのか! 汝は戦わずして逃げる気か!」と語気鋭く言いたてたのである。戦略を知らぬ公家たちがそれに同調するのを見て、楠木正成は自分の命を的にした作戦に変えざるを得なくなったのである。
 その作戦とは、後醍醐天皇を守るために新田義貞軍を温存し、京都に退去させることであった。そのための盾となり、押さえとなるために命を捨てるという戦略であった。結局、橋本正員も、ここ湊川の戦いで楠木正成と死を共にすることになってしまった。
 楠木正成や橋本正員の命を盾にして湊川から撤退した新田義貞は、比叡山麓に防衛陣地を構築して後醍醐天皇を坂本に受け入れた。なんのことはない、正成の戦略通りとなってしまったのである。
 破竹の勢いに乗った足利尊氏は、京都を占領して光厳上皇を迎え入れると坂本を攻撃した。しかしこの間にも、各地で激しい攻防戦や京都での市街戦が数次に渡って繰り返されていた。
 この間に湊川で戦死した橋本正員の子の正家と孫の正茂は、楠木正秀と共に兵を揚げたがまたも破れた。
 橋本一族は田村輝定を頼り、その本拠地・田村庄守山に逃れた。
 まもなく後醍醐天皇と花園上皇の休戦協定が成立した。これは後醍醐天皇の隠居と北朝方光厳天皇の即位を内容とする南北両朝の和睦を提唱したもので、その条件は、
 1:供奉の公家、降参の輩に至るまでその罪を問わず、本官本領を復す。
 2:天下の成敗は、公家に一任す。
 3:武士の進止は足利尊氏に一任す。
 4:新田義貞を追放する。
というものであった。
 後醍醐天皇は、独断即決でこれを受諾してしまった。
 しかしこの内容を知った南朝方各武将は、
「後醍醐天皇に忠誠を誓って戦ってきた新田氏を追放するとは何事。自分だけ安全なら良いと言うのか」
「一体、今までの戦いは何のためだったのか」
「もはや恩賞はあてにならぬ」
などの不満が爆発し、武士たちは一斉に比叡山を下りてしまった。山を下りるとは、すなわち後醍醐天皇を奉じた南朝軍の解体を意味した。
 後醍醐天皇は、足利尊氏との講和がなると入京した。そして三種の神器を光厳天皇に譲ると、自からは太上天皇となった。

 しかし事態がこうなっても、後醍醐天皇を奉じる武将は少なくなかった。特に伊勢では、北畠親房が拠点としていた田丸城に南朝方の兵を集めると、太上天皇となって花山院亭に幽閉されていた後醍醐天皇の脱出を成功させた。
 逃亡した後醍醐天皇は、再び北畠顕家に上洛の勅を下した。「再上洛して北朝方を追い払え」の意である。
 後醍醐天皇はこの勅を出すと、吉野山・金輪王寺に入った。
 後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いたのには理由があった。後醍醐天皇は討幕運動の当初から、京都の醍醐寺を味方につけていた。醍醐寺は多くの僧兵を抱え、強力な軍事勢力となっていたのである。吉野はこの醍醐寺の本山であった。この深い山と、つちかっていた人脈と、多くの僧兵が後醍醐天皇の安全を守ってくれることになるのである。吉野は山岳地帯で守りが固く、南朝方が多いという理由もあったが、半島であったため海路の便も良かった。東の大湊からは奥羽へ、西の堺からは九州へ、そして南は熊野水軍に守られていたのである。その上、吉野は山伏の集まる修験道の一大拠点であったため、尾根道伝いの連絡網が発達していた。つまり後醍醐天皇は吉野に押し込められたのではなく、北朝方の京都の外側を南朝方の奥羽や九州で囲んでいたことになる。
 北畠顕家は後醍醐天皇より上洛の命令を受けながらも、奥羽での北朝方の勢力の増大に手こずっていた。この危機の中で、顕家は平野にある城である多賀城では守り切れないと考え、義良親王を奉じると霊山(福島県伊達郡霊山町)に移った。山頂には天台宗の霊山寺があった。貞観元(八五九)年、慈覚大師の開山といわれる。南朝を奉じる四十余の僧坊があり、一千を超える僧兵がいた。すでに城塞の形態を成していたのである。







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最終更新日  2007.11.15 16:47:08
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