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家に帰った私は考えていた。どうも分かりそうで分からないのである。それを見ていた娘が、「この唄の地名の順序に何かの意味があるのではないか?」と言い出したのである。
私は二万五千分の一の地図を持ち出した。しかしその地図には、月夜田や重石そして陣場などの地名が記載されていなかった。そこで須賀川市住宅地図から、月夜田や重石をその地図の上に確定してみた。確かに守山をゴールと考えれば、月夜田より重石の方が守山に近い。そして月夜田や重石を含む大字が塩田である。
「この辺が[残る塩田や]と唄われている塩田だな・・・」
私は独り言のように言った。遠藤豊一氏が、[火に乗った御神体が、守山の田村大元帥明王に『塩田』を通って飛んで行った]と言ったのを思い出していたからである。 ——重石は大字塩田の中の小字である。すると月夜田の神が[塩田を通って飛んで行った]ということは、まず重石に行ったということになるのではないかと考えられる。もしそうだとすれば、月夜田から来た神様が、[仁王様の休み石]で休みまたどこかへ行ったことになる。すると行った先は、守山の田村大元帥明王ということになるのではあるまいか。田村郡誌の、[小山田の北(塩田村の明王重石と云う地)に移して、礎石今に現存す]という文を、
『塩田
村の明王を重石という地』と解釈すれば将にぴったりである。
——
この口伝はつながる。あの唄は間違いなく[月夜田][重ね石]と続いている。私はそう思った。そしてさらに推測を重ねていた。
——
[重ね石]の次に[陣場や]がある。陣場は戦場を表すのではないか? それに続いて塩田という地名がある。では[二ツ村]は、何を表すのか? それに二ツ村の送り仮名が片仮名のツであることは、二ツの村を意味しているのではあるまいか? しかしこの二ツ村については、今まで誰に聞いても「旧・田村郡二瀬村(現・郡山市田村町)だ」との答えしか返ってこなかった。私が「二瀬村の成立は、明治二十二年の合併によるのであるから違う」と説明すると、それ以上の進展が見られなかった。 そこで今度は、郡山市の住宅地図で詳細に当たってみた。しかし旧二瀬村やその周辺に、二のつく地名を見つけることが出来なかった。ただ、(郡山市田村町)田母神と(同じく中田町)中津川の境に二ツ石山というのを見つけたが、それが二ツ村と関係するとも思えなかった。 それで気がついたのは、二つの菅舩神社のことである。神清水の鈴木宮司に電話で確認すると、「御祭神はどちらも猿田彦命、そして御旗神社から移したという天照大神と天太玉命の合わせて三神である」と言う。しかもそれらの祭礼は、同じ日の午前中に神清水の、午後には外の内の菅舩神社で行われているというのも気になった。そこで私は、二ツ村とは塩田字神清水部落の菅舩神社と塩田字外の内部落の二ツの村にある菅舩神社を表しているのではないか? と仮定してみた。
——
だがそうだとすると、この[陣場や]の後ろの[残る塩田や]の[残る]とは何を表しているのだろうか? 何が塩田に残るというのか? また新たな疑問が発生した。
その後、須賀川市の親戚の山邉與夫氏を通じ、須賀川史談会副会長・塩田民一氏のご紹介を受けた。塩田氏はその姓の通り、須賀川市塩田、つまりあの土地の出身の方である。先祖は庄屋であったという。彼もこの唄は知らなかったが、「この唄にある地名を含む宇津峰山の南部周辺は、もともと田村郡であったが、峰を境にして境界線を引くようになった明治から石川郡となり、さらに須賀川市に合併された」と言われた。 塩田氏によれば、塩田地区に、「御神体は、月夜田、重石から(須賀川市塩田字)大草を経て守山に行った」という伝承が残されており、また「須賀川市史に記載されている陣場小屋、宮田陣場、小倉陣場という地名にはもともと陣場が付いてなく、昔は塩田の浦郷戸の部落が、単に陣場と言われていた」と説明された。 もっとも考えてみれば、柄久原は南北朝時代の古戦場である。浦郷戸の部落はそこに密着しているのであるから、地元の人たちが戦場、つまり陣場と呼んだにしても不思議ではない。それにしても月夜田や守山から見て中継地たる塩田に、それを証明するかのような伝説が残されていることは驚きであった。