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一九八八 三百藩家臣人名事典二 (三春藩)より。
熊田 嘉膳
江戸に出て、(二本松藩医・小此木)利弦の師・坪井信道について蘭方医学を学び、また長崎に赴いて蘭学を修めた。(中略)嘉永六年、ペリーが来航すると、藩命によって出府し、洋式兵学を学ぶかたわら、諸藩名士と交わった。ことに水戸藩藤田東湖と交わり、巨砲鋳造の必要を論じ、反射炉の建設を主張し、南部(盛岡)藩大島高任、薩摩藩竹下矩方を推挙。これは、水戸藩主徳川斉昭に採用され、安政元(一八五四)年五月水戸藩が反射炉建設に着手すると、大島、竹下とともに建設に参加。安政四(一八五七)年、竣工すると「大日本史」を賞与された。(中略)慶応四年五月、(明徳堂)学長・山地純之祐(立固)、村田岐とともに上洛し、新政府に対し小藩の立場を嘆願し、進軍救助の勅書を入手。また、西軍が棚倉城を攻略すると、致仕していた秋田宮人を説得し、その嫡子主計を出張させ、西軍教導の折衝を成功させた。(中略)阿武隈山地の最も深い所で生まれ、水戸藩反射炉の建造に参加し、また藩の命運をかけた最も緊迫した場面に登場し、三春藩の存続に奔走した嘉膳は、平山敬忠と並ぶ風雲児であった。
平山 敬忠
江戸に遊学し、幕臣平山氏を嗣ぐ。(中略)嘉永四年、(幕府)御目付役に抜擢された。(中略)嘉永六(一八五三)年六月、ペリーが来航すると、目付堀利忠に従って、浦賀の艦船および江戸湾岸を巡視し、同七年一月、ペリーが再び来航すると、目付岩瀬忠震に従って、下田に出張し、応接にあたった。また同年二月、目付堀利忠に従って、松前、蝦夷地、唐太、奥羽の沿岸を巡視し、安政四(一八五七)年四月、勘定奉行水野忠徳、目付岩瀬忠震の長崎出張に随行し、長崎奉行荒尾成充との協議に加わった。同五年七月、書物奉行に転じたが翌六年八月二十七日、忠震が一橋慶喜擁立に連座して免職、扶持召し上げとなったのにつづいて、九月十日、敬忠もまた免職となり、甲府勝手小普請におとされ、安藤与十郎組下となった。文久二年十月二十二日、箱館奉行支配組頭に任じられ、箱館奉行小出秀実とともに赴任した。(中略)慶応元年十一月十一日、二の丸御留守居に転じたが、実際は外国役所に出仕して外国御用を取り扱えとの命令を受け、十一月二十八日、わずか一か月余で目付に転じた。同二年二月、大阪目付を命じられ、同年八月二十九日、在阪のまま外国奉行に転じた。さらに同三年四月二十四日、若年寄並、外国惣奉行に栄進し従五位下図書頭に叙任され、柳の間詰めとなる。(中略)同四年正月二十三日、若年寄のまま国内御用取り扱いとなり、幕府権力の存続を主張したが容れられず、病と称して登城しなかったため、二月九日免職となり、さらに同月十九日、新政府により逼塞を命じられた。七月にいたって、徳川慶喜が静岡に移住するのに従って、静岡に移住。明治三年赦免されて東京に戻った。(中略)東北の山中に生まれ、和洋の学に通じ、禄百石の御家人から身を起こして、幕末の難局を一気に駆け抜けた一代の風雲児であった。「平山省斎遺稿抄」を著している。昭和三年十一月、御大典にあたって従四位を贈られた。日本赤十字社社長平山成信は、敬忠の子息である。
町田 政紀 文久二(一八六二)年には、岸和田藩で行っていた電気地雷の研究に着手し、その実験に成功した。文久三年二月、三春藩もようやく軍制改革を進め、政紀に百石を給して西洋流砲術師範に迎え、大砲を鋳造させた。しかし小藩のため軍備増強は望めず、戦争を極力回避する方針をとったので、技術者として政紀の活躍する場面は、少なかった。(中略)幕末最先端の技術を身につけながら僻地小藩に身を置き、夢想流や中島流の間にあって、次第に時代の進運に遅れ、兵制の統合とともに使命を終えた。しかし、電気技術における先駆的業績は、技術史上特筆に値する。
参考文献 2008.02.07
資料と解説 I~L 2008.02.06
資料と解説 H 小野新町の戦い 2008.02.05