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争乱の序曲
嘉膳は、三春藩の兵器の近代化を考えていた。日本が諸外国と対等な立場に立つには、軍事力の強化が絶対必要であると思ったのである。
そこで嘉膳は藤田東湖の理論を背景に、三春藩に大砲鋳造の必要性を進言した。その上で自分が長崎留学中に同門であった盛岡藩の大島高任を、東湖は薩摩藩の竹下矩方を推挙して重火器の材料となる製鉄のため反射炉建設を建言したが、入れられなかった。もっとも三春藩は不作や火災が相次いで財政破綻の寸前でもあったが、なによりも海が遠く、膨大な原材料を運び込む港が無かったのである。
そこでこんどは、藤田東湖が水戸藩に同じ申し入れをした。三春藩主は鳥取藩主と縁戚関係にあった。そして時の鳥取藩主は、水戸藩主の斉昭の子であったので、三春藩主と水戸藩主が縁縁の関係にあったことも幸いした。
藤田東湖の進言を受けた水戸藩主の徳川斉昭は、嘉膳を呼び出して尋ねた。
「現在の様相から諸外国と戦争が起これば、日本は大砲が少なく、戦っても敗れよう。しかし作ろうにも、わが国では銅の産出量が少ない。銅銃を多く得るには、どうしたらよいか?」
「御老公様。もはや今は西洋においても銅の銃はまったくなくなり、みな鉄の銃に代わっておりまする。これからは反射炉を築造して大量の良鉄を鋳造し、鉄銃を作るべきと思いまする。そのためにも、先ず反射炉の築造が急務と思いまする」
嘉膳は懸命に説明した。
そしてこの建言後まもなく、嘉膳は東湖に手紙で呼び出された。
「御老公は、反射炉の説明について大いに喜んでおられた。貴殿のご建言、まことにありがたく礼を申す。しかし御老公は、『反射炉を築造するのに良き人材が考えられぬ。誰か人がいないか』と苦しんでおられた。さきに三春藩に推挙した盛岡藩の大島高任、薩摩藩の竹下矩方を水戸藩に推挙した。貴殿も推挙しておいたが、異存はあるまいな」
東湖はそう言った。
この反射炉の築造は嘉膳にとっても夢の実現となるものであり、異存など、あろう筈もなかった。
「ところで東湖様。実は・・・、新渡来の蘭書、三書を、江戸の洋書屋より二た時ばかり借用いたしました。[鉄大銃][台場ならびに海岸土手の築立方][海岸攻め方守り方]の三書でございます。ぜひ御老公にご高覧頂いた上で、莫大な金子ではございまするが、お買い上げ頂きたく思いまする。水戸藩にて翻訳致せば広く神国のためになりますが、江川(伊豆・韮山反射炉の建設者)の手にでも入れば折角の内容が秘密にされてしまい、国の役に立たなくなってしまいましょう」
「なるほど、それでは日本国のためにも困る。さっそく御老公にお願いしてみよう。ところで先日、薩摩藩から当藩への書簡の中に、『反射釜が完成したので、試しに鉄を溶かしたところうまくいった』とあった。薩摩藩はすでに一歩進んでおる。羨ましいのう。我々も、何とか早く作りたいものだ」
やがて水戸藩より、三春、盛岡、薩摩藩に、それぞれの出向が要請された。そして間もなく彼らは、建設予定地の水戸藩那珂湊(茨城県)に集まり、反射炉の築造がはじめられた。もはや彼らの頭の中からは、藩意識など消滅してしまっていた。ここでは、日本という国のために、藩を越えた協力体制が出来はじめていたのである。
(茨城県ひたちなか市に復元された反射炉と、その案内板。案内板には熊田嘉膳の名が記されている)
ところが、安政二年の十月に起こった江戸の大地震で、水戸藩の江戸屋敷にいた藤田東湖が崩れ落ちた建物の下敷きとなり、圧死してしまった。
その知らせを、嘉膳は玄関先で呆然として聞いた。反射炉の建設予定は大打撃を受けた。東湖は崩れる家屋から一旦は逃げ出したものの、母が逃げ遅れたのを救おうとして戻ったところに建物が倒壊してしまったという。
──たしかに、その行為は親孝行ではあったが・・・。
嘉膳をはじめ関係者は、その後の進捗体制を思って愕然としていた。
しかし水戸藩主導の資金援助は、その後も続けられた。そのため反射炉築造の協力体制は、微塵も揺るがなかったのである。嘉膳らは耐火煉瓦の製造に腐心したり、つぎつぎに起こる技術的困難を、試行錯誤によって一つひとつ克服していた。そしてようやく完成するに至ったのである。火入れの日、嘉膳ら関係者たちは、水戸藩主の徳川斉昭よりの完成の賞与として、大日本史百巻と白銀百八十枚を贈られた。
次に反射炉に入れる大量の鉄鉱石の採取が問題となった。大島高任が仙人峠(岩手県釜石市)、嘉膳が中小坂(群馬県小坂村)を調査した。その結果、仙人峠の鉄鉱石が有望とされた。
水戸藩での反射炉建設と稼働を確認して江戸に戻った嘉膳は、仙人峠の鉄鋼石の原料に近い釜石に、この経験を生かして大がかりな製鉄所を造ろうとした。さっそく幕府・書物奉行に転じていた平山敬忠を通じて、幕府を説いた。しかし彼からもたらされた返事は、[幕府は横浜に製鉄所を、また横須賀に造船所を作るため、フランスに六百万ドルの借款を申し込んだ]というものであった。釜石製鉄所建設の夢は、あえなく挫折した。
本来、嘉膳らのこのときの計画には、すでに三春藩とか水戸藩とかの思いはなかった。であるから幕府のためではなく、日本国の製鉄所を造ろうとしていたのである。しかし幕府は、自己のために製鉄所を造ろうとしていた。その違いから、嘉膳らは横浜製鉄所建設の話に参加することが出来なかった。嘉膳には、科学者としての苦悩が続いていた。
一方、幕臣である敬忠の身分にも、大きな変化が起きていた。
敬忠は幕府目付に従って、浦賀の外国艦船や江戸湾岸を巡視したり、さらに奥羽・松前・蝦夷地・樺太の沿岸まで視察したりしていた。その後も、日米・日英・日露和親条約成立のときには、幕府の岩瀬忠震に従って下田に出張して応接し、下田・函館の開港にも立ち会っていた。その上、長崎奉行の荒尾成允との協議のため、勘定奉行の水野忠徳や岩瀬忠震に従って長崎に行ったりもしていたのである。
また政紀も活躍をしていた。彼は一関藩(岩手県)の南蛮櫟木流銃火両術師範の免許皆伝を受け、さらに幕府の合武三当流砲術、松代藩(長野県)の直微流早込銃術、幕府砲術、薩摩藩砲術などの西洋流砲術を学び、江戸に居ながら、三春及び各藩の指導にあたっていた。
──政紀もやるのう。
嘉膳は子どもの頃の政紀を思い出して、頬が緩んだ。いつのまにか、三人は活躍の場を江戸に移していたのである。
──政紀の技術力も生かしてやりたいもんだ。
嘉膳はそうも思っていた。
(反射炉の前に保存されている大砲。この形式ではなかったとの説もある。)
参考文献 2008.02.07
資料と解説 I~L 2008.02.06
資料と解説 H 小野新町の戦い 2008.02.05