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2008.02.03
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         C 仙台藩の対応
 *この仙台藩の態度が、奥羽越諸藩の行動を規制したと
推測できる。

 矢面に立たされた会津藩と庄内藩は、自衛の立場として会庄同盟を結んだ。その上で会津藩は、仙台・米沢両藩に仙米会庄同盟を持ちかけた。しかしこの同盟が会津藩主導となることを恐れた仙台藩は、自らを盟主とする奥羽列藩同盟を立ち上げた。のちに奥羽越列藩同盟に拡大した同盟である。
 表面的には会庄同盟と一体の行動を示しながらも仙台藩は会津藩を見捨てて降伏する。本来この会庄同盟と奥羽越列藩同盟は別のものであったのであるから、別の行動をしても不思議ではなかったのかも知れない。ここのあたりの状況が、『宮城県史  二〇二ページ』の記述につながると考えられる。
 “二面両舌”まことによく仙台藩の立場を浮き彫りにしている。幕末維新にあたり、公武のあいだに立って去就を決しかね、ついにもっとも恐れた朝
敵として崩壊していった仙台藩の中間外交は、こうしてもう矛盾をあらわしはじめていた。”あれかこれか”の選択がせまられた最後の段階でも、この藩は”あれでもない、これでもない”といった。それを”あれもこれも”という形式に表現したのが奥羽越列藩同盟であった。それが、本来幕府党ではないはずのこの組織を、幕府党として機能させ崩壊させていく理由にもなる。そして仙台藩のこの道がそのまま北日本一円の諸藩の進路ともなった。その点で、幕末維新の政治史においてこれ以上に罪の深い両面外交はなかった。
  解説・私には、これまた随分厳しい表現と思えるが、これが戊辰戦争の本
     当の姿であったのかも知れない。

         D 外部から見た三春藩の動静
 *三春藩の新政府寄りの姿勢は、早くから二本松藩や仙台藩に知られていた。

            二本松市史 第六巻 七三六ページ
(閏四月)廿四日白坂ニ相たゝかい候趣扨奥羽の内ニも表ハどふめいと見せ内ニハ官軍方なるハ秋田津軽天童三春なと之申事ニて至而むつかしき事共也此事壬四月十四日頃也

            仙台戊辰史 七三〇ページ
六月廿三日、矢吹陣中ナル軍議所ニ於テ・・・軍議ニ日ヲ送リ兵ヲ野ニ曝シ国論ニ統一ナク軍略定マラズ守山、三春反盟ノ色アルモ之ガ為なり。
 解説・二本松市史に記載されている情報が、二本松藩から仙台藩や会津藩に
    流れたか、また逆に仙台藩や会津藩から二本松藩へ知らされたか? い
    ずれにしても閏四月二十四日の段階で、二本松藩は三春藩の本意をす
    でに知っていたということになるのではあるまいか。またこれらの文
    書により、同盟側はその後長期に渡って三春藩の反盟を疑っていたこ
    とが分かる。

         E 浅川の戦い
 *新政府軍と浅川で対峙していた会津・仙台・二本松勢を、背後から三春勢
  がだまし討ち的に攻撃したとされる事件。
三春戊辰戦争始末記


            仙台戊辰史 六一五ページ
 七月十六日仙藩塩森主税ハ棚倉城ヲ恢復セントシ三春、二本松、会津、棚倉ノ兵ヲ併セ石川郡浅川古舘山ヨリ兵ヲ進メ浅川ノ渡ヲ隔テヽ射撃ス西軍釜ノ子ヨリ出テ会津ノ兵ヲ破リテ浅川ノ後方ニ出ヅ 然ルニ三春ノ兵中途ヨリ離反シテ西軍ニ投ジ反撃ス 為ニ列藩ハ非常ノ苦戦トナリ辛ジテ兵ヲ収メ帰ル・・・之ヨリ列藩ハ三春ノ不信不義ヲ怒リ、三春狐ニ誑カサレタルハ不覚モ亦甚ダシ必ズ彼ヲ屠ラズンバ己マジト切歯セリキ。
  解説・この仙台戊辰史では、三春兵が新政府軍とともに同盟軍を攻撃した、
     と伝えている。

            戊辰戦役史(上)四七〇ページ
 仙藩の大隊長塩森森主税は、棚倉城を回復せんとし、会津、二本松、棚倉の残兵を併せ、先ず棚倉の外郭陣地たる浅川を取ろうと決心した。その兵力は仙藩の伊達筑前の手勢たる登米の一大隊と砲隊、二本松四小隊、会津三小隊であった。・・・なお本戦闘に関し「仙台戊辰史」は、三春兵が離反し、官軍に投じて同盟軍を撃ったため、同盟軍が敗退したように書いてあるが、官軍の諸藩報には、いずれも背面攻撃の効果を述べ、また背攻に当たった薩、黒羽藩の戦況報告、「土持日記」「東山新聞」にも記されているから間違いはない。また三春兵については何も述べていない。ただし三春の離反は「仙台藩記」に「官軍、会津の兵を破り浅川の後に出ると三春藩中途にして反覆する」とあり、官軍が浅川の後に出たのと、三春の中途反覆の両因をもって敗戦したようにみえ、これが誤解を生じたものと思われる。而して三春離反についての記録は見ないが、恐らく浅川攻撃の出兵を拒否したか、あるいは出兵しても攻撃を拒否した程度で、積極的に官軍と合し、または単独で仙、会軍を攻撃、戦闘したとは認め難い。
 小藩が両強軍の衝に在りて存亡の危機に際し、進退の節を変ずるは多少憫察すべきの事情なきにあらずと雖も、初は深く秘して其の進退を明らかにせず両軍に均しく狐媚を呈し、一朝決意するや、忽ち反噬の毒を逞しうせる者、東に三春あり、西に新発田あり。と筆誅を加えたのは、会津戊辰戦史である。『山川健次郎を監修者とし、旧会津藩士を編纂委員とした同書の立場からは、この発言も無理からぬところであったろう』
  解説・この戊辰戦役史では、三春兵の不参戦と、三春兵が参戦したとされ
     た事情を述べている。『』内は筆者。

            戊辰戦役史(上)四七一ページ
 この戦闘で彦根兵は戦死が二、傷四、薩兵は傷二を出したに過ぎず、仙兵は死十六、傷八、二本松兵は傷七、会兵は未詳であり、長時間戦闘した割には両軍ともに死傷者は少なかった。
  解説・ここでは死傷者数を、具体的に示している。

            二本松藩史 一六九ページ
 十六日、丹羽(右近)、奥野、野沢ノ諸隊、仙台兵一個大隊、会津兵三個小隊ト合シテ浅川ノ敵陣ヲ攻ム。戦闘終日、東軍利アラズ。死傷者五名]
  解説・この二本松藩史では、三春兵の離反について言及していない。これ
     は三春兵の不参戦を示唆しているのではあるまいか。

            二本松市史
  解説・二本松市史には、浅川の戦いに関して三春兵についての記載がない。
     つまり、三春兵は参戦していなかったということか?

            浅川町史 第一巻  六八〇ページ
 同盟軍の中に、機を見て棚倉を占領しようという動きが見られた。浅川陣屋は土佐、彦根兵約二〇〇名が警備していた。同盟軍は、仙台、会津、二本松、棚倉の残兵約四五〇名が城山を占領した。城山同盟軍と浅川の新政府が対峙した。三春兵は、同盟軍への出兵を拒否したと思われる。
  解説・この浅川町史では、三春兵が浅川に到着していないことを故意に書
     き出している。しかし、なぜ戦闘に不参加の三春の名を明確に書き
     出したのか? 浅川町史は、少なくとも発行の時点で「三春藩・狐」
     の疑惑を知り、否定する意味で三春の名を書き出したとは考えられ
     ないだろうか。

                 三春町史 第九巻 七三〇ページ
○ 十七日昼後風聞ハ 棚倉口石川並ニあさ川ニて 昨十六日暁天之大合戦有之奥羽方何れも敗軍ニて 御当家様御人数抔ハ何方へさんらん致候哉 相分り不申由之風聞なり
○ あさ川石川辺之御合戦 追々ニ承候所 御当家御人数討死けか等壱人も無御座 よもき田村迄御引取ニ相成候由也 尤十八日朝之内二本松勢七拾人程繰込也
  解説・戊辰戦役史はこの戦いで、仙台藩二四名の死傷者と砲五門、二本松
     藩は死傷者七名の損失を伝えている。しかし三春町史においては、
     三春兵に怪我人一人出なかったと言っている。ということは、三春
     兵が戦わなかった傍証と思われる。

            三春町史 第三巻 四ページ
 棚倉の戦いで七月十六日浅川の戦いでは反同盟の疑いをかけられ、仙台藩士塩森主税の詰問を受けると、外事掛不破幾馬らが弁明して事なきを得た。
  解説・塩森主税は、仙台兵が浅川の戦闘に参加して戦況を知っていながら、
     何故三春藩が離反したと詰問したか、そこには、何らかの作為が感
     じられる。また仙台藩の氏家兵庫が三春に反盟の意志の確認に行っ
     ているが、もし三春藩を怒らせれば、新政府側に押しやることにな
     ると恐れていた。そのために強く出られなかったとも考えられる。

            三春町史 第三巻 五ページ
 複雑微妙、藩論を内外に明らかにし得ず、ついに政府軍の三春入城まで疑心暗鬼は続くのである。“会津猪仙台むじな 三春狐にだまされた 二本松丸で了簡違いぼう”(違い棒は二本松丹羽氏の紋所)“会津桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんとはねて 三春狐にだまされた”この歌にある“三春狐を”をどうみるか。激動する戦乱の中で歴史の大河に竿さし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であれば、それでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。

            会津若松市史 第五巻
 この書には、浅川の戦いについての記述がまったくない。
  Eの総合的解説・まずこの戦いの前哨戦として、棚倉の戦いがある。同盟
     軍は須賀川攻撃を陽動作戦とした新政府軍に乗せられて敗退した棚
     倉戦を隠蔽するための、理由付けを必要とした。このため、会津兵
     が浅川において、三春兵の裏切りによる背攻を主張すれば都合がよ
     いことになる。またもし、会津兵が三春兵の裏切りによる背攻を受
     けて敗退したとすれば、『会津戊辰戦史』を参考にし得る会津若松史
     が、これを無視するであろうか。また二本松藩史についても、同じ
     ことが言えるのではあるまいか。それに攻撃されたとする会津兵が、
     攻撃したとされる三春兵ともども三春へ引き上げている。つまり会
     津藩や二本松藩としては、少なくとも記憶に留めておくほどの三春
     兵の動きではなかった、ということなのであろうか?
      これまで調べた書の中で、「仙台戊辰史」ただ一書が「三春離反」
     を主張しているのみで、「戊辰戦役史」「二本松藩史」「浅川町史」「会
     津若松史」「三春町史・第九巻・近世資料二」ともに三春離反を誅し
     ていない。また「仙台戊辰史」のいうように、「然ルニ三春ノ兵中途
     ヨリ離反シテ西軍ニ投ジ反撃」したとすれば、当然、新政府軍と事
     前に挟み撃ちの打ち合わせがなされていなければならない。もしそ
     れをしないまま攻撃し、「東軍」が敗れるか逃げるかしたら、新政府
     軍と三春兵が正面切って対峙することになる。そうなれば新政府軍


     は戦っていた会津兵の背後にいる(三春)兵たちを敵と認識する可
     能性が非常に高い。つまり事実ではないと考えられる。
      またもしその打ち合わせが出来ていたとすれば、三春恭順の際の
     交渉がスムーズであった筈というのが更なる傍証となろう。ただし、
     ここの点の記述を明確にしなかった「三春町史 第三巻 五ページ」
     は、史実としての限界を示すものであろうか・・・






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最終更新日  2008.02.05 00:00:48
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