『福島の歴史物語」

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2008.04.30
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 ナンパの砂埃の吹き込む田中事務所でこのニュースを知った富造は、日本がロシアと戦争になるのではないかと心配した。もし戦争にでもなったら、日本はたちどころに負かされてしまうだろうと考えていたからである。日露間の戦争を避けるために、帝国政府は津田巡査を暗殺したのではないか、と想像していた。自由民権運動で殺された琴田岩松や山口守太郎などを考えると、充分あり得ることだと思っていた。だが幸い、事件はそれ以上に大きくならずに済んだ。
 このころサンフランシスコの丹野太郎から、プロテスタントのメソジスト派伝道のために日本に戻るという手紙があった。それによると彼は、人を助けるに政治活動は一つの方法とは思う、しかし政治という争いよりも宗教のいう助け合いを重視したい、アメリカでの政治活動を止めて日本での宗教活動に専念するというものであった。
 ──そうか、丹野は日本に帰るのか。それもいいだろう。人のためとは言うが、結局政治は個人とか団体の自己主張に過ぎないのかも知れない。その点宗教は違う。あまねく人々への愛だ。政治に限界を感じ、神の僕として生き直すことにするという丹野の気持ちも分かるような気もする。それにしても、何故人間は苦しまなければいけないのか?
 富造はそうも考えていた。
 それにしても、時折手紙や新聞などで日本文字を見ることは嬉しかった。日本語新聞の切れ端などはポケットに入れて持ち歩き、内容は覚えるほどに分かっていても、何度も何度も読み返した。一番辛かったのは、身体の大きい現地の人たちとのコミュニケーションがとれないときであった。相手が何を考えているのかが分からないのは、辛いよりもむしろ怖かった。相手の対応などの感じから日本との文化の違いがあり、アメリカの常識に反しているのではないかと思うと心細かった。相手が話してくれるので懸命に聞き、辞書を引いてようやく分かったら冗談だったなどというと、がっかりして怒りさえ感じた。言葉が分かれば、話し合いたいことは山ほどあった。

 アメリカで勉強したいと言って再び渡米してきた周太郎は、とりあえずサンフランシスコで菅原の世話を受け、やがて富造を頼ってナンパに移ってきた。アイダホ州はすぐ南のユタ準州からの移住者が少なくなかったが、そのほとんどが末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であった。富造と周太郎は、ここでこの教会や教会員と接触することとなった。富造は、周太郎をナンパの田中事務所の会計係として採用してもらった。二人は生活のために給料のいい田中事務所に勤めたのであるが、兄弟が同じ所で働けると言うことはありがたいことであった。
「富造。お前、田中のやり口を知っていたのか?」
 ある日、周太郎はそう切り出した。
 苦しい顔をして、富造は黙ってしまった。
「労務者に様子を聞いたが、これは尋常じゃないぞ」
 たとえば、田中事務所の鉄道建設労務者には高い賃金という魅力があったが、労働期間に季節性があった。夏場こそ鉄道建設の工事量も多く、物資の輸送も繁華を極めて高賃金が保証されていたが、冬場になるとガタ減りで賃金も貰えないことがあった。その上、田中と日本人労務者の関係は、非常に搾取的であった。田中の配下の労務者は、日当一ドル二十五セントを稼いでいたにもかかわらず、田中事務所は一日十セントの就業手数料を徴収した。しかしこの手数料は、よその業者も似たり寄ったりであった。

   問題はこれ以外の、田中の別途収入であった。一日当あたりの
  手数料に加えて、月極めでいわゆる通訳事務所費を取った。さら
  に田中はこの名目で、労務者の賃金から月一ドルを差し引いた。
   その上で田中には、労務者の日本への送金代行料という収入の
  道もあった。労務者は定期的に日本の家族に送金していた。これ
  ら労務者の要請に応じるため、請負人は労働賃金から一定額を天
  引きし、その金を労務者に代わって日本に送った。こうした有料
  のサービスは、田中がはじめたものである。この方法は瞬く間に
  拡がっていった。
   田中は、約一○○○人の労務者から就業手数料として一日当た
  り一○セントを徴収していたのであるから、一ケ月二十六日働く
  として二六○○ドル以上となり、通訳事務所費として一〇〇〇ド
  ル、月収の合計はこれだけでも三六〇〇ドルになった。その他に
  送金代行料、医療費などを取り立てていた。
   それに収入源は、医療費にもあった。これも田中がはじめたも
  のである。労務者の中に病人や怪我人が多く出たので、田中はナ
  ンパに診療所を建てた。この建設費用と維持費を賄うために、労
  務者全員から最初に五ドル徴取し、その後は月五○セントを医療
  費として差し引いた。
   収入源はこの他にもあった。物品の販売から得る利益である。
  どの請負人も食料品雑貨を配下の労務者に売っていた。通常、鉄
  道会社との取り決めで、請負人たちは無料ないし割引料金で労務
  者への物資の輸送ができたのにである。
         (一世・黎明期アメリカ移民の物語り、より)

 田中は、折りさえあれば労務者の無知につけ込んで、二重三重に搾取しても平気な男であった。それであるから、その生活は、贅沢なものであった。このような事情を知っていた日本人の労務者らは、陰で田中を王と呼び、羨望と怨嗟の的となっていた。しかし一方で田中はこの収益を維持するために、どうしても二人を必要としていた。
「兄貴、ごめん。ただどうしても俺はカネが欲しいんだ。きれい事は言っていられないんだ」
 そう言われて、今度は周太郎が黙る番であった。
 当時、清国からのアメリカ移民は一二〇万人を数えていた。その半面、日本人移民は一万にも満たなかったのである。それであるから、日本人はマイノリティの最下層と位置づけられ、差別を受けていた。日本人より先に移民していたため人数も多い清国人は、それだけでも強い圧力となっていた。それはまた、アメリカ底辺の民衆層、貧困な白人、黒人、ラティノ、その他の人種と清国人との、職の奪い合いでもあった。このような中での日本人の清国観は、祖国・日本での清国観が再生産されて差別的な面も強かったが、むしろ協力し合ったり結束したりする面も少なくなかった。日本人と清国人は、互いに親近感やけなし合いなどの複雑なからみの中で、筆談などでのコミュニケーションが行われていた。それであるから、英語と漢文の素養のあった富造や周太郎は、現場の仕事ばかりではなく、労務者たちの不平を聞きその不満の相談にのり、場合によっては一緒に相手先に出かけて問題解決の話し合いをしていた。流暢とは言えないが、彼の英語は大いに役立っていたし、それがまた労務者たちの、強い信頼の気持ちを掴んでいたのである。







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最終更新日  2008.04.30 07:55:21
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