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海 の 嵐
八月(旧暦)になると、北蝦夷地では早くも雪が降るという。一度雪になれば視界も悪く、波も荒れて航海が出来ない。冬の日には海水が氷結して厚さが一丈余となり、アイヌ人であっても冬に海を渡れば凍死は免れないほどだという。そのような時期に入る前に、幕府から撤退せよとの命令が出された。この日陣将は軍を二分して丹羽能教織之丞隊を殿軍(しんがりぐん)とし、それ以外の全員に撤退を命じたのである。
迎えの船団六隻のうち五隻は兵庫から、一隻は仙台から徴発したものであった。この兵庫の五隻のうち一隻は常に一般の客を乗せ、官の御用はしていなかったという。また兵庫の船頭たちは常々仙台の者たちに協力していた。船団は宗谷から先で二手に分かれることになった。一手は酒田行きの正徳丸、祥端丸、観勢丸であり、もう一手は新潟行きの天社丸、幾吉丸、大黒丸とされた。平蔵は、正徳丸に乗船することになった。
この月の十二日は二百十日に当たった。台風期に際し、兵庫の五隻はいったんクシュンコタンに留まり、この危険な日が過ぎてからの出航を主張した。しかし仙台の舟師はこれに従わず、単船でも出航すると主張した。
「帆待ちの間にもロシア船が攻めて来るかも知れない。海はわれらにとって慣れた所ではあるが、ここにいて戦いに巻き込まれるのは御免だ」
そう言われて仙台の船一隻のみを出航させるわけにもいかず、この主張に引きずられた格好で、結局全船が、近くの宗谷に向けて出航することになった。それを知って、アイヌの酋長が別れの挨拶にやってきた。通詞の甲崎富蔵に様子を聞いたところ、アイヌ人たちは会津隊の撤退を悲しみ、せめて交代の兵が来るまで駐留してくれるよう懇願したとのことであった。彼らが一番恐れていたのは、この空白の時期にロシア兵が攻めてくるのではないかということであった。もしロシア兵が来たら、「自分たちだけではどうしようもない」と言っていたという。しかし撤兵の命令が出たことを知った兵たちの故郷への想いは、募るばかりであった。心はすでに会津に飛んでいたのである。
七月七日、殿軍として残ることになった軍事奉行の指揮する丹羽織之丞隊一一八名の見送りを受けて、宗谷へ向かった。
天社丸 千二百石積 番頭・御目付有賀権左衛門
日向三郎右衛門 高木小十郎
以下一一四名
大黒丸 六百石積 日向隊組頭 田中鉄次郎
多賀谷左膳 以下 六一名
幾吉丸 九百八十石積 日向隊組頭 篠田七郎兵衛
以下 八六名
観勢丸 千七百石積 北原隊組頭 西川治左衛門
以下 九三名
正徳丸 千六百石積 陣将 家老 北原采女・大岩嘉蔵
以下 一四〇名
祥端丸 千六百五十石積 北原隊組頭 北原軍大夫
大岩鉄太郎 物頭白井織之進
以下 一三三名
七月八日の辰(午前八時)の刻、六船は一斉に海に出、経由地のシラヌシを目指した。
利尻島が南に見えた。
──利尻島にもロシア船侵攻の報せはなかった。だったら、あいつも帰れる筈だ。今度会ったら、間宮林蔵の話でもしてやるか。いやしかし。あいつも新しい話を仕込んだかも知れないな。
平蔵は利尻島に派遣されていた友吉を思い出して、楽しくなった。
この日の朝は濃霧であったが、それが消えるとアニワ湾を取り囲む北知床岬と能登呂岬が、遥かな先端をはっきりと眺望できる程に大気が透明となり、空と海が青さを競い合うように感じるほどの晴天となった。船頭に聞くと、「このような好天は珍しい」と言う。随伴している画家の宗馮に頼んで、本物を写したような絵を描かせた。しかし船は急流する潮にあって進むことができなくなり、大洋中に停泊して碇を降ろした。夜には昼と打って変わって雷雨となった。普段、北の海の雷は少なく、雷鳴も低いという。水平線を厳しく見張った。この雷は陽気が寒冷になってきたことによるものと舟頭が言った。
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