『福島の歴史物語」

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2023.02.10
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2 源氏再興

 平治の乱において平家に敗れ、父の源義朝が戦死したことにより、源頼朝は14歳で伊豆半島の蛭ケ小島へ流罪とされ、平家方である 工藤 ( くどう ) 祐隆 ( すけたか ) がその身柄を預かっていました。ところが、この 祐隆 ( すけたか ) が上洛している間に頼朝と 祐隆 ( すけたか ) の三女の八重が通じ、千鶴丸という男の子を出産していたのです。その千鶴丸が3歳になった時に 祐隆 ( すけたか ) が帰郷してそれを知り、激怒し、『 平家の敵である 源氏の血を引く』との理由で自分の直系の孫である千鶴丸を川へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとしたのです。しかし頼朝は、近くの北条時政の屋敷に逃がれました。この 時政 の屋敷に逃げ込んだ頼朝は、やがて、 時政 の娘の政子と結ばれるのです。

 治承四年(1180年)八月、源頼朝は逃げ込んでいた北条時政の後ろ盾を得て、源氏の再興を謀って石橋山に挙兵したのですが、前面に平家方の軍勢3000、背後からも平家方である八重の父の 祐隆 ( すけたか ) の軍勢に挟み撃ちにされて敗れ、わずかの兵とともに小船で安房に逃れました。しかしその後、体勢を立て直し、関東での勢力拡大に成功した頼朝勢に対し、劣勢となった平家方の工藤 祐隆 ( すけたか ) 都へ逃げようとしているところを源氏方 見つけられ、生け捕りにされてしまいました .

 一方で、源頼朝の弟の牛若丸は、父の義朝が平家に敗れて戦死していたことから、その係累としての難を避けさせるため、2歳で母の常盤御前の腕に抱かれて大和国へ逃れました。しかしその後、常盤御前は公家の一条長成と再婚したため、牛若丸は11歳の時に京都の鞍馬寺へ預けられたのです。仏門に入るということは、現世の ( えにし ) を切るということを意味しました。 この頃に知り合ったのが武蔵坊弁慶であるとされています。武蔵坊弁慶は、『義経記』によると熊野別当の子で、紀伊国出身だと言 われるのですが詳細は不明です。元は比叡山の僧で武術に励み、五条の大橋で牛若丸と出会って戦って以来、その家来として最後まで義経に仕えたとされます。しかし牛若丸は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行って義経を名乗り、弁慶を供にして奥州の藤原秀衡を頼って平泉に下ったのです。

 さて話しを戻しましょう。 河津祐家 ( こうづ すけいえ ) の子の 祐親 ( すけちか ) は、工藤の本家を継いでいる若い娘の子の 祐継 ( すけつぐ ) を恨みに思っていました。そこで 祐親 ( すけちか ) は、箱根権現に『 祐継 ( すけつぐ ) 呪い殺し』の願をかけたのです。たしかにこの時代には白衣を着、五徳の足に蝋燭を灯して頭に乗せ、鏡を胸に下げて、呪う相手を象った藁人形を、鳥居や神木に打ち付けて恨みを晴らすなどということが行われていましたから、そのこと自体は、特に不思議な話ではなかったのです。ところがなんと、その願いの効果があったものか、 祐継 ( すけつぐ ) は重い病気になってしまったのです。 祐継 ( すけつぐ ) は、 祐親 ( すけちか ) の抱いている恨み 知らず、我が子 祐経 ( すけつね ) 後見 人に 祐親 ( すけちか ) 指名すると間もなく、43歳の若さで亡くなってしまったのです。まだ9歳に満たなかった 祐経 ( すけつね ) は、従兄弟となる 祐親 ( すけちか ) に対して大きな信頼を寄せていました。 祐経 ( すけつね ) もまた、 祐親 ( すけちか ) に恨まれていることを知らなかったのです。 祐継 ( すけつぐ ) の亡くなったのち、 祐経 ( すけつね ) が信頼を寄せているのをよいことに、 祐親 ( すけちか ) は河津から 祐経 ( すけつね ) の領地である 伊東に移り住み、自身の娘の万劫を 祐経 ( すけつね ) に嫁がせたのです。 その後、 祐経 ( すけつね ) は上洛して平重盛に仕えていました。 ところがその留守中、 祐親 ( すけちか ) 祐経 ( すけつね ) の領地である伊東を奪い取ってしまい、しかも 祐経 ( すけつね ) に嫁がせていた 娘の万刧を引き戻し、自身 の甥にあたる土肥遠平に嫁がせてしまったのです。 祐経 ( すけつね ) は都で訴訟を繰り返したのですが、 祐親 ( すけちか ) の根回しにより失敗に終わっていました。

 領地と妻を奪われた 祐経 ( すけつね ) 河津 ( こうづ ) 祐親 ( すけちか ) を深く怨んでその殺害を図り、安元二年(1176年)、家来に命じて、奥野、今の伊東市の奥野ダムの狩り場から帰る途中の 祐親 ( すけちか ) 父子を襲撃させました。しかし家来は、本来の 祐親 ( すけちか ) を討ち漏らし、間違えて 祐親 ( すけちか ) の嫡男・ 河津祐泰 ( こうづ すけやす ) を殺害してしまったのです。後には 祐泰 ( すけやす ) の妻と、その子の五郎と十郎の兄弟が残されました。 祐泰 ( すけやす ) の妻は子を連れて 曾我祐信 ( そが すけのぶ ) と再婚し 、五郎と十郎の兄弟は、後に曾我兄弟として世に知られることになるのです。なお、 祐隆 ( すけたか ) 都へ逃げようとしていて 源氏の生け捕りにされたのは、 祐親 ( すけちか ) に伊東の地を乗っ取られ、挙句に妻の 万劫まで奪い取られた恨みから、 祐経 ( すけつね ) が源氏に加担し、通報したことによるものかも知れません。しかし 翌十五日、 祐親 ( すけちか ) は自殺をしています。これもあって 祐経 ( すけつね ) は、 頼朝に重用されるようになったと言われます。

 治承四年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵したことを知った義経は、平泉から兄の頼朝のもとに馳せ参じました。寿永三年(1184年)、義経は一ノ谷の戦いにおいて、鵯越の峻険な崖から逆落としを仕掛けて平家本陣を奇襲し、義経勢の大勝利となりました。そして文治元年(1185年)、義経は暴風雨の中を少数の船で出撃し、瀬戸内海沿いにあった平家の拠点である屋島を奇襲しました。『屋島の戦い』です。この戦いにおいて、 平教経 ( たいらのりつね ) の放った 矢で義経が射られそうになったのですが、 佐藤継信 が義経の盾となって討死しました。 佐藤継信は、現在の福島市出身の武士です。 『吾妻鏡』によりますと、 その後の壇ノ浦の戦いで、 二位尼が草彅の剣と天皇の印である神璽を持って海に飛び込み、その後を追って、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとあります。義経は平家を滅亡に追い込み、京都に凱旋しました。この戦いで戦功があったのか、工藤 祐経 ( すけつね ) は、日向国国富、今の宮崎県東諸県郡国富町、豊前国規矩、今の福岡県北九州市小倉区および門司区あたり、長門国三隅、今の山口県大津郡三隅町など西国の各地に領地を与えられ、さらに駿河(静岡県)・相模(神奈川県)の国守に任ぜられた のです






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最終更新日  2023.02.10 08:00:11
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