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12 伊豆から勧請された郡山の神社
伊東祐長は、たった一人で安積に移住して来たとは考えられず、家臣団を供にして連れてきたと思われます。その祐長が、出生地である伊豆の神を伴ったのは、望郷の念や伊東一族を守護してくれる神と考えたからと思います。しかし新たな支配者として郡山在来の人々を治める手段のため伊豆神々を持ち込んだと考えれば、政治的な意図もあったと思わざるを得ません。特に以前からここにいた人々とその組織が、外部から来た新しい支配者つまり伊東祐長と争うこともなく平穏のうちに引き継がれたのは、神々の力を利用したからとも推測されます。
さて伊豆から来た神社にも、多くの神社があります。ところで、いまの郡山市熱海町を含む五百川以北は安達郡でした。しかし熱海町から二本松にあった安達郡役所に行くのに、安積郡役所のある郡山で汽車を乗り換えるという不便もあって安積郡に編入され、戦後になって郡山市に合併されたという経緯がありました。この熱海町から郡山西部一帯にかけて、伊豆に関連する神社が数多く散在しています。例えば、この伊豆の名を直接冠した伊豆権現や箱根権現は、名前を見ただけで伊豆関連の神社であることが分かります。
片平町字王宮にある王宮伊豆神社には、伊豆権現、箱根権現、三島大神が祀られています。伊豆にある箱根権現は伊豆権現とともに二所権現と呼ばれ、将軍家の恒例行事が、鎌倉幕府初代の源頼朝からここで続けられていました。
熱海四丁目に温泉神社が祀られていますが、元々は伊豆熱海温泉の湯の神で、豊かに湧く湯に感謝して発展を願うために建てられたという神社です。またこの神は、三穂田町山口字芦ノ口の温泉神社、富久山町久保田字山王舘の日吉神社にも祀られています。そして現在は地名としては消えてしまいましたが、三穂田町山口に、字温泉、字西温泉、温泉山という地名がありました。これらの地名は、字・芦ノ口に包含されてしまったようです。
西の内の三島神社には、三島大神が祀られています。伊豆の三島大神は、源頼朝が平治の乱に敗れたとき伊予国大三島(愛媛県今治市)の大山祇神社に参詣して源氏再興を祈願し、その加護により旗揚げが成功したと考え、治承四(一一八〇)年、根拠地の鎌倉に近い景勝の地に大山祇神社から三島大明神の分霊を勧請し、社殿を造営したのが起こりと言われています。頼朝の信仰もあって、中世以降は武家、庶民の信仰を集めました。大山祇神社は、日本総鎮守とされ伊予国一の宮で、旧国幣大社です。
熱海町安子ケ島字竹ノ内にある木の宮神社や熱海町安子ケ島字木ノ宮にある紀伊宮神社、それに熱海町中山字城の脇にある熊野神社の境内には、紀伊宮神社の祠があります。これらの木の宮神社は、伊豆の熱海市にある来宮神社を勧請した神社と思われ古くは来宮大明神と称していました。伊豆の来宮神社は、江戸末期まで『来宮』ではなく、『木宮』の文字で古文書に記されているそうです。来宮神社は、伊豆熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、源頼朝以来、江戸幕府の崇敬もあつく、関東の総鎮守といわれた神社です。この来宮大明神は片平町に木宮神社の名で、また同じ片平町の木宮南に中村神社の名で祀られています。
三穂田町八幡字上ノ台にある宇名己呂和気神社には、箱根権現が祀られています。
春日神社は、伊豆の伊東氏の守り神であったと言われます。大槻町春日、湖南町中野字二番猿畑にあるこの神社には、箱根権現・三島大神も祀られています。
豊景神社は、富久山町福原字古戸にあったのですがが、いまは福原字福原の本栖寺近くに移されています。本栖寺の移転と一緒に移されたものかも知れません。この豊景神社、福聚寺、本栖寺、そして大鏑館のあったこの地域は、阿武隈川の洪水が多発したため、その周辺にあった旧福原の集落とともに、現在地の福原に移転したと言われます。昭和七年に建立された石塔の碑文を左に転記します。
村社旧跡(豊景神社跡)
『豊景神社ハ元御霊宮ト称シ天養元甲子(一一四四)年勸請シテヨリ元和二(一六一六)年迄四百七十餘年間此ノ所二鎮座ス 天正年間(一五七三頃)大鏑舘ニ福原蔵人當地ヲ領シ田村清顕ニ属セシ頃迄ハ福原ノ人家ハ此ノ地ニ在リシモ慶長ノ末(一六一五頃)奥州街道完成シ元和ノ初年ニ至リ人家悉ク道筋ニ移ルニ伴ヒ鎮守御霊宮モ今ノ地ニ遷宮セリ 是ヨリ東一丁餘大鏑舘内南ニ箭給ノ渡アリ水神ヲ祭祀ス勸請年代詳ナラザルモ之箭給ノ渡ノ水神ニシテ共ニ由緒深ク渡ハ寛治三(一〇八九)年鎮守府将軍源義家公東征ノ砌リ将軍ヨリ箭ヲ給フニ依リ箭給ノ渡ノ名アリ 往古ハ田村ノ荘二通ズル唯一ノ渡舟場タリ 爰ニ河川工事ニヨリ之等ノ由緒アル旧跡皆其面影ヲ失フニ當リ昭和七年四月水神ノ宮ヲ村社旧跡ノ地ニ奉遷シ碑ヲ建テ事蹟ヲ略記シ後世ニ傳フ
昭和七年十八日建之』
(注) カッコ内の西暦年数は、筆者が記入。
これらの多くの神社から考えられる結論として、これらの神社のほとんどが郡山市の西部、つまり奥羽山脈の脚部に集中しています。このことから、私は伊東氏の最初の入植地がこの地域であったと考えています。水の便が必ずしもよくなかった安積野の開拓は、いまの熱海町、片平町、逢瀬町、三穂田町にまたがる市街地の西部のこれら山裾を流れる小河川の流域から、小規模な棚田による開発がはじめられ、やがて下流の郡山や富久山町、そして安積町に達してきたものと推測しています。
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