『福島の歴史物語」

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2023.07.10
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 さてここで、ちょっとウンチクを傾けてみましょう。ただしこれには、想像も入っていますから、『史実である』とばかりは、思わないで頂きたいと思います。まず久保田合戦の陣立てですが、政宗はその本陣を、今の日東紡富久山工場の向かいの人家の密集する中にある、小十郎坦に置いたようです。片倉小十郎は、『智』と『武』を兼ね備えた、政宗の右腕といわれた人物です。政宗と小十郎は、ここから前線に近い、今の富久山町久保田の日吉神社の陣営に督戦や視察に出掛けていたと思われます。視察のルートは、日吉神社から西の高台の久保田三御堂あたりかと思われます。ここから眼下に、敵の舘と思われる、いまの並木一丁目の茶臼舘がよく観察できる場所だったのです。さあここで、ちょっと説明が必要ですね。今のベニマル富久山店前の国道4号線は切り通しで造成したので、元の市道の高さでつなぐために、陸橋が掛けられたのです。それから茶臼舘です。ここは現在、桜木一丁目となっていますが、うねめ通りの両側が高台になっています。ここでうねめ通りが上り坂になっているのは、ここも切り通しだからです。昔この辺りは、『幕の内』と呼ばれていました。それは茶臼舘の敷地内であったからと思われ、その西側には、『西の内』の地名が残されています。恐らくこれは、幕の内の西を表したものであろうと推測できます。そしてもう一つあったという地名の『幕の外』はなくなりましたが、今の桜木一丁目から久保田字伊賀河原の郡山警察署宿舎前に架かる『幕の外橋』に、その片鱗が残されています。

 茶臼舘は、沼舘愛三著の『会津・仙道・海道地方諸城の研究』によると、稲荷舘とも呼ばれていたようです。なお稲荷舘は、この茶臼舘よりそう遠くないJR郡山駅近くにもあったため、識者でもどちらが戦いに関わった舘か結論が出ないでいます。ところで、この茶臼舘の北には逢瀬川が流れ、舘の西側を南から水無川が、舘の東側を南から夜討川が逢瀬川に注いでいます。ただし今は、どちらの川も暗渠になっています。地図で見ても、『西の内』を含んでいたと思われますから、茶臼舘は、結構大きな舘であったと想像できます。三方が川でしたからそれなりの防御力は備えていたと考えられるのですが、南には何も防御の施設がなかったようなのです。

 私がここに館があったのではないかと思う理由は、茶臼舘という地名があることと、さらに『西の内』という地名、そして今の太田西ノ内病院の近くに、三島神社が祀られていることにあります。この神社は、安積郡を賜った伊東祐長が、自身の生まれた地であった伊豆の地から守り神として勧請した神社ではないかと考えられるからです。この三島神社は、先ほど説明した三つの川に囲まれた内側にあるのです。つまりそれらの川が、茶臼館の範囲であり、防衛ラインになっていたのではないかと想像したのです。しかしもしそうであるとすると、気になるのは、川がないため防衛に弱いのではないかと思われる茶臼舘の南側です。どうも素人の私が見た範囲では、茶臼舘の南側に、空堀などの防衛の施設の跡のようなものがないように思えたのです。ところが不思議と、茶臼館の南側にあたる咲田町2丁目に、急激に下がった地形があるのです。ご存知でしょうか? 私はそれが防衛線かと思ったのですが、聞くところによると、郡山に鉄道が引かれた際、駅周辺が低地だったので、ここの土を掘っていって埋め立てたというのです。ところで現在、夜討川の一部は暗渠化しており、また水無川は全面的に暗渠化していますから、見たところ、川があったことが分かりません。ちなみに夜討川の一部は、『せせらぎ小径』として、水辺を生かした郡山市の公園となっています。

 これらもあって、私が現地を歩いていて桃見台という町名で、ハッと気がついたのです。ひょっとして桃見台は、物見台が変化した地名ではなかったかと。私はここに、茶臼館の見張りや防御施設としての『物見台』があったのではないかと想像したのです。しかしこれは、単なる私の想像に過ぎませんでしたから、大っぴらに言えないなと思っていました。ところがあるとき、郡山地方史研究会の高橋康彦さんより、陸軍第二仙台師団参謀本部が、明治の初期に制作した福島県中通りの地図の郡山の中に、『モノミ台』と片仮名で書いてあるのを見せられたのです。位置は、今の桃見台です。私は自分の想像が事実であったので、鬼の首を取ったような気分だったのですが、ある史家にこう言われました。「あのころの地図には、間違えて書かれている地名が多いのです。」そう言われて私は頭を抱えました。しかし良く考えてみると、昔使われていた地名を、後世の人たちが語呂や文字を変えて使った例は、市内にも散見できます。そしてこの陸軍第二仙台師団参謀本部に作られた地図に『モノミ台』の地名が存在することから、少なくとも明治の初期までは、地元の人たちは今の『桃見台』を『モノミ台』と呼んでいたであろうことが想像できます。私は、『桃見台』という地名は、『モノミ台』から変化したものではないかと思っています。

 この想像、皆さんはどう思われますか?





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最終更新日  2023.07.10 11:47:40
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