『福島の歴史物語」

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2023.07.20
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伊東氏、キリスト教と出会う

 伊東祐長の兄の伊東祐時は、日向国の地頭職を与えられています。それが、南北朝の時代になってからですが、祐時の後裔にあたる祐持が、今の宮崎県西都市都於郡(とのこおり)に所領を与えられ、都於郡城を築きました。伊東氏は、この都於郡城を拠点に勢力を拡大し、俗に『伊東四十八城』と呼ばれる支城網を築き上げ、日向一国の支配に乗り出したのですが、それを阻んだのが薩摩の島津義久でした。こうした島津氏の進出に対し、伊東義祐(よしすけ)は抵抗を続けたものの、元亀三年(1572年)、今の宮崎県えびの市の木崎原の戦いで島津氏に大敗してしまいました。この木崎原に陣を構えて敗れたのが伊東祐青(すけはる)で、次の戦いの綾城が落城した際に戦死しています。綾城は、今の宮崎県綾町にあった城です。

  天正五年(1577年)、都於郡城を落とされた伊東義祐は一族を引き連れ、姻戚にあたる大友宗麟を頼って豊後に逃れました。豊後に逃れてきた伊東氏の一族を、九州での大勢力であった大友宗麟が庇護し、伊東氏の旧領を回復するという大義名分によって日向へと侵攻していったのです。しかし天正六年(1578年)、今の宮崎県中央部の耳川の戦いで、大友氏は島津氏に大敗を喫したのです。これによって大友氏の勢威は著しく衰退し、伊東氏の旧領回復は絶望的となってしまったのです。そしてこれら伊東一族を庇護した大友宗麟は、キリシタン大名だったのです。当時の領民の多くが、領主である大友宗麟の影響を受けて、キリシタンとなっていきました。綾城が落城した際に戦死した伊東祐青(すけはる)には、祐益・祐平など4人の子どもがいましたが、この影響を強く受けていったと思われます。

 最初のキリシタン大名は、永禄六年(1563年)年に洗礼を受けた肥前国の大村純忠(すみただ)であると言われています。当時のヨーロッパでは、宗教改革によるプロテスタントの動きが活発でしたが、カトリック側も勢力の挽回をはかり、アジアでの布教に力を入れる修道会が数多くあったのです。イエズス会もその1つで、ザビエルは日本滞在期間2年3ヵ月で、約700名を改宗させたと言われます。キリスト教宣教師たちは、布教のためには日本の習慣や生活様式に従うことが重要であると考え、日本語や日本文化を熱心に研究していました。教会も従来の仏教寺院を改造したものが多く、新たに作られた教会も、日本の建築様式を重視して木造・瓦葺きで作られたのです。仏教が浸透している日本に、突然西洋の教会を建設したのでは日本人の警戒心を強めてしまうだけと考えたようです。教会は南蛮寺と呼ばれたように、日本人になじみの深い「お寺」を教会にすることで、日本人のキリスト教に対する警戒心を解こうとしたと思われます。

 時代を30年ほど遡ります。天文十七年(1549年)、ポルトガルのキリスト教宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌年に長崎県の平戸で布教をはじめました。そしてこの頃、現在の長崎県大村城の領主 大村純忠(すみただ)が、キリスト教に入信したのです。大村純忠はポルトガルとの貿易をするために、今の長崎県西海市横瀬と長崎県諫早市福田の二つを開港しました。そして天正七年(1579年) 、イエズス会の布教先の状況を視察する役割の巡察師、ヴァリニャーノが、長崎県島原半島の口之津に来航したのです。翌年、大村純忠が、カトリック修道会イエズス会に長崎と茂木の土地を寄進したことで、領内には多くの教会が建てられるようになりました。南蛮船の寄港、町を行き交う南蛮人、領内に建つ教会。こうして長崎は、『日本のローマ』と称されるほどの国際都市へと発展していったのです。大村純忠はキリスト教の教えに従って側室を離縁し、正室との結婚式を挙げ直しました。そして領内の神社仏閣を、さらには領民の先祖の墓まで破壊させたのです。その上で僧侶や神主を殺害し、改宗しない領民までも殺したのです。これは、キリスト教の教えに傾倒したからではなく、一言で言うと、キリスト教に隠れて『恐怖政治』を強行していたのです。しかしヴァリニャーノは、領民たちが、貿易の利益が目当てで入信した領主によって、強制的に改宗させられていたことを見抜いていました。九州のキリシタン大名らは、神の教えより、貿易による利益と武器の確保を望んでいたのです。

 こうした状況に目をつぶりながらも、ヴァリニャーノは、日本でのキリスト教の布教活動を推し進めていきました。しかしそれは強制によってではなく、本当の信仰心を高めるため、その布教活動の一環として、日本人による使節をヨーロッパに派遣して世界を見せ、彼らを司祭に登用することで、日本人による日本での布教を推し進めようと考えたのです。天正九年(1581年)当時の日本のキリスト教の教徒数は約15万人、慶長五年(1600年)頃は約30万人、慶長十年(1614年)は約37万人でしたが、この年に発せられた禁教令以前には、九州の多くの有力者たちが、キリシタンとなっていたのです。しかし宗教界では、カトリックは、プロテスタントの勢力の下になっていました。ヴァリニャーノには、なんとかそれを、跳ね返そうとする考えがありました。それが、『遣欧少年使節』の派遣だったのです。





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最終更新日  2023.07.20 07:30:07
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