『福島の歴史物語」

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2023.09.10
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カテゴリ: 江戸屋敷物語
大名行列
 慶安二年(1649年)の軍役(ぐんやく)規定によりますと、五万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名とされていましたから、二本松藩の場合、士分562人、足軽704人、その他684人の合計1950名となります。その上で大名行列の規模は、大名の石高によっても異なりますが、五万石で約170人、十万石で約240人、二十万石以上で約450人程度と決められていました。しかし実際には、これよりもはるかに大規模でした。幕府も寛永法度においてこの実状を認め、従者の員数は分相応とし、極力少なくするという方針をとったのですが、諸大名は互いに競い合って威勢を張り、見栄を飾る傾向が強かったのです。例えば、加賀藩の4000人を筆頭に、五万石以下の藩でも100人を下らなかったと言います。行列の順序は、大名によって異なりますが、髭奴に次いで金紋先箱、槍持、徒歩などの先駆がこれに続き、大名の駕籠廻りは馬廻、近習、刀番、六尺などで固め、そのあとを草履取り、傘持、茶坊主、茶弁当、牽馬、騎士、槍持、合羽駕籠などが続きました。行列の通行には大きい特権が与えられており、例えば行列の先払いが通行人に土下座を命じ、河川の渡し場では一般の旅人を川留にすることができ、また供先を横切るなど無礼な行為があった場合は、切捨御免の特権もありました。このような大名行列を円滑に進めるためには、さまざまな準備が必要でした。まず出発に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に『先触れ』といって通達書を出しました。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりませんでした。

 実際の旅ともなると、行列を先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示しました。この関札は、先にこれを掲げた藩に選手特権があり、後から来るいかなる大藩の宿泊も許さないという厳重なものでした。大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿場内の旅籠屋に分宿しました。しかしそれでも不足する場合は、周辺の寺院を使うこともありました。それでもなお収容しきれない場合は、前後にある小さな宿場に分散して泊まることもありました。郡山の場合、北は久保田、南は小原田でした。大名行列は、家柄や藩の権威といった力や富を誇示する重要な意味合いがありました。ところが、その行列の大多数は、日雇いアルバイトである武家の奉公人であったというのも興味深いことの一つです。 特に大きな戦いのなかった時代、大名たちは行列を通じて優位性を争っていたことがうかがえます。

 ところで、郡山宿を利用したと思われる大名は、仙台藩をはじめ、会津藩、二本松藩、福島藩があったと思われますが、そのほかにも、今で言う東北の5県、そして北海道の松前藩が利用したものと思われます。これらの大名行列は、街道を行く際、隊列を整えて歩いていたわけではなかったそうです。街道の山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、気ままに歩いていたというのです。たしかに江戸までの長丁場を、一糸乱れず行進してというわけにはいかなかったのだと思われます。しかしその一糸乱れぬ行列を見せつけるのは、旅の途中では宿場町に出入りする時だけでしたから、宿場町の入り口には、全員が夕刻までに集合し、藩士が揃うと行列を整えて宿場町に入っていったのです。多くの人の目に触れる場所でだけ、行列の武士たちは、いかにも規則正しく振る舞ってきたかのように見せかけていたのです。大名行列は軍事行動の一環であり、武力を誇示することも大事でした。しかし、経済的に厳しい藩だからといって行列の人数が少なくてはハクがつきません。先頭で毛槍を放り投げて交換するパフォーマンスを行っている人も、期間付きのバイトで雇われた中間(ちゅうげん)と呼ばれる人たちの場合もありました。

 では当時宿場町であった郡山は、どんな様子だったのでしょうか。いまの大町、会津街道への分岐点のちょっと北、それから東邦銀行中町支店のちょっと南で、道路がカギの手に曲がっているのにお気づきでしょうか。それらは町への出入り口、つまり枡形だったのです。そしてその中間にあたるビューホテル・アネックスの場所には、本陣がありました。例えば北からやって来て江戸へ向かう藩の人員は大町の枡形に集合し、毛鎗の奴さんを先頭に、窮屈な駕籠に乗り換えた大名の駕籠を守って、粛々と町に入りました。この行列は、全員の旅の途中での着替えをはじめ、殿様の風呂桶からトイレまで持ち運び、宿場町では、馬の糞尿の始末をする係もいたのですから、人数は勢い多くならざるを得なかったのです。そして行列が本陣に着くと殿様と上級の者はそこへ、他の者は宿屋やお寺に分宿したようです。

 さてこの郡山の枡形ですが、大槻友仙著『明治見聞実記』に次の記述があります。『上下(うえした)ノ入口升形取払=文政年中上町入口、下町入口ニ升形ト云モノヲ築立タリ、ミカゲ石ニテ高さ六尺程ニ積立其上ニ松ノ樹ヲ植ナラベタリ。立七八間横五間程アリ、当年十月中バ頃皆取崩荒池ノ堤岸ニ積ナラベタリ。其他十三夜ノ供養碑石迄●ニ積重タリ。下ノ升形ハ石盛屋ニ西側ハ今ノ茶屋ノ所堺ナリ』とあります。これは、残されている絵を見ると、入り口の堀を境にした、中々立派なものであったことが分かります。なお、上町枡形の最初は現在の旧4号線と日の出通りの角に作られましたが、後には今の旧4号線と会津街道の角から北へ約50メートルの場所に移されました。また下町枡形の最初は東邦銀行郡山中町支店の南へ約50メートルの場所にありましたが、後に更に南100メートルほどの原畳店の所に移されています。今でも微妙な角の道路となっており、枡形の形を残しています。ところでこの枡形ですが、少なくとも郡山の場合、平野の中にあります。仮に一般の人が町に入ろうとして、番人に断られたとしても、周辺の農道を辿ればいくらでも町へ入ることができるのです、この枡形は、防衛のためというより、大きな宿場町であった郡山の『お飾り』であったのかも知れません。この二つの枡形の位置から、一本道であった当時の郡山の規模を知ることができます。なお、今の如宝寺や善道寺、そして安積国造神社などは、あえてこの一本道から外れた場所に作られたと言われています。今は街の喧騒の中にある神社も寺も、当時は寂しい所だったのです。

 ところで旅人の多くは、この大名行列に遭遇することを嫌いました。特に商人にとっては、足止めをされることで商機を逃すことがあるかも知れません。そこで伊達・桑折の生糸の産地から小浜を通り、やはり生糸の産地であった三春を経由し、須賀川・白河の西を通って茨城県の結城・堺へ、そこから利根川を下って銚子から江戸への船便を使いました。故・田中正能先生は、この道を日本のシルクロードと表現されておられました。

 ちなみに三春藩は、明和七年(1770年)の記録によりますと、三春より江戸街道の赤沼と守山を経由し、御駕籠15人、御長持21人、御箪笥25人、合羽持3人、人足80人の合わせて144人に加え、人数が明確ではないのですが、お付きの侍たちの馬が80頭だったというのですから、やはり大変な人数であったことが想像できます。





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最終更新日  2023.11.28 00:11:16
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