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武士の生活
武士たちは、現代のように婚姻届の提出日を境にして、未婚状態と既婚状態がはっきりしていたわけではなく 江戸時代には『熟縁』ということがよく言われ、この頃の結婚は、『熟さなければ』成立しなかったようです。つまり嫁を迎える時は、半月程自宅に宿泊させ、お試し期間を設けてから婚礼の儀式を行っているのです。ところで、幕府や藩の役職に就いている中級以上の武士たちは安泰でしたが、役職に就けない下級武士は貧しい暮らしをしていました。これら下級武士の生活は、朝、城や城下の役所に出勤して仕事をした後、夕方に帰宅するという、いわゆる会社員的生活でした。仕事の量に対して下級武士の数が多すぎたため、そう忙しくはありません。彼らの仕事は、1日行ったら2日休みといった働き方が一般的でしたから、空いた時間は『傘張り』などの内職で生活費を稼いでいました。武士全体の平均年収は、約50両、いまの500万円といわれていますが、下級武士の給料は米によるものでした。下級武士は、その米から自分たちで食べる分だけを確保し、残りを現金に換えて生活していました。米を現金化した後の年収は、約80万円といわれています。ところで年収約80万円とすると月収約6万6000円となり、今よりもお金がかからない時代であったとはいえ、下級武士の生活は庶民の生活と同様に貧しい暮らしだったと思われます。
このような下級武士が、藩主のお供をして江戸へ行くことは、大出世と考えられていました。同輩はもとより、家族や親戚、さらには縁者にまで羨まれたのです。しかしこの江戸屋敷に勤務する侍たちにも生活があります。和歌山藩の衣紋方である、酒井伴四郎の江戸勤務日記が残されています。27歳であった彼は、妻と2歳の娘を故郷に置いての赴任でした。彼らには藩から手当が出ましたが何せ江戸は物価高。二重生活となるため大分倹約をし、生活をしていた様子が綴られています。江戸勤番と言われた彼らの住居は、表門に並ぶ長屋での生活でしたが、一般とは違い、御を付けて御長屋と呼ばれていました。その奥行は1間半の2階建て、3人での共同生活で、しかも生活用品は自前だったのです。彼の勤務状況を見ると、例えば6月は6日の出勤、7月はゼロ、8月は2日、9月は7日、10月は3日、11月は5日となっており、時間は午前10時から、長くても2時間であったようです。彼はこの長い余暇の時間を、江戸での観光に使っていました。行き先は江戸名所図絵を片手に、大名小路、江戸城周辺、そして名所旧跡とされた回向院、愛宕山、不忍池、泉岳寺などでした。『江戸に多きもの 伊勢屋 稲荷に 犬のクソ』などという戯れ言葉も記されています。蕎麦 鍋 寿司 山鯨と言われた猪の肉などの食べ歩きもしていたようです。ただし向島の料亭などには高くて行けず、見ていただけで羨ましかったと書いています。盛り場には、お化け屋敷などの見世物もありました。さらには、追加料金を払うと、生きた鶏を食うところを見せるという虎の見世物、そのほかにも、足を伸ばして横浜へ行き、異人を見物しています。貸本屋からは枕本も借りたようです。
門限は五ツ時(夕方8時)でしたから、遊べるのは昼間に限られていました。ある日彼は、湯屋で風呂に入った後、2階で将棋を指して遊び、夜食で蕎麦を食べたのですが門限を過ぎ、門番にワイロを払って開けてもらったこともあったとあります。とは言っても遊び呆けてばかりいた訳ではなく節約に努め、髪結いには行かずに同僚同士で互いに結い合い、食事は自炊で米は支給されていたのですが、おかずや味噌汁は自前で手に入れましした。それでも御長屋に出入りする大和屋から不足する米を買い、酒・酢は石見屋。繕い物・洗濯などは上総屋を利用していました。それでも彼は節約をしていたので、帰国の際に、もらった手当の3分の1を持ち帰ったというのですから、そのつつましい生活ぶりには驚かされます。なお当時の湯屋は、2階がお休み場になっており、気の合った者同士の社交場になっていました。
ところで、『入鉄砲に出女』という言葉があります。これは、江戸に武器を大量に運び入れて大名らが謀反をおこすことを防ぎ、また、江戸にいる大名の妻女などが変装して国元へ逃げるのを防ぐための措置として、関所できびしく詮議したもののことです。関所には女性を監視するため『改め婆』と言われる中年の女性が配置されていました。『改め婆』は江戸から出ようとする女性の髪を解き、『証文』に記載されている髪形や身体の特徴を調べた上、裸にしてホクロの数まで数えたというのですから、恐れ入った話です。四国丸亀藩士の娘の井上通女の書いた箱根の関所を通る際の『帰家日記』に、次のように記されています。「役人の言いつけに従い、『改め婆』に会った。見にくく恐ろしげで猛々しい老婆。その女がダミ声で何事かを言いながら私の髪を掻き上げつつ、丹念に調べている。いったい、何をされるのかと思うと、実に恐ろしい」この『改め婆』の合格判定が出なければ、関所の通過はできないのです。当時の記録には、泣く泣く袖の下を使ったという話が多いのです。ただし、江戸に入る者については緩和され、諸藩の者は城主とか家老の証文、幕領の者は代官の証文か手形を提示することで、容易に通過することができたというのです。ただし、鉄砲は許されませんでした。
一方で、御暇 ( ) と御追放という形での退職がありました。ある小姓は、酒が原因でした。常日頃から『大酒の上酔狂致し候』ということで、禁酒の誓約書も出させたのですがなおりません。当然、彼の家計は火の車です。藩としては皆に迷惑がかかるとして、御暇を言い渡し、解雇したのです。