『福島の歴史物語」

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2024.10.20
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平賀源内の三春駒の香炉①

 ある日、私が歴史好きなのを知っている友人が、三春の『さくらカフェ』に平賀源内の作った三春駒の香炉を模したものがあると知らせてきました。カフェのオーナーの浜崎明美さんが、「日下部先生が、平賀源内の三春駒の香炉のあることを知って作ったものの一つだ」と言っていたと、その友人は話してくれました。平賀源内と言われた私の頭には、日本で初めて、手を繋いで輪になった人々に通電して、感電を体験する百人おどしの実演を行ったというエレキテル、そして土用の丑の日には鰻を食べることを普及した、江戸時代中期に活躍した人であると直ぐに浮かびました。ところが調べてみると、それだけではありませんでした。薬物学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家であり、さらには地方特産品を集めた展示会の開催、世評の風刺から浄瑠璃の戯作、滑稽本の著作に化学薬品の調合、さらには西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織工芸品の製作、それと地質調査、鉱山開発、水運事業等々ありとあらゆる分野に先鞭をつけ、それらを企画開発した多技・多芸・多才な顔を持ち、後年、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれたというのです。その源内が『源内焼』という陶器を作り、しかも『三春駒の香炉』を作ったというのですから驚かされました。

 さっそく私は、『さくらカフェ』に行ってみました。すると浜崎さんは、「日下部さんは、三春の資料館に源内焼の三春駒があることを知って、何度か見に行って、それを模刻したようです。資料館の三春駒のしまってある箱には源内作とあったことから、日下部さんは源内の真作と思っていたようでした。ウチにあるのは日下部さんがよくできたから飾ってくれと言って持ってきてくれたものです。」と話してくれたのです。『さくらカフェ』には、小さな源内焼の『三春駒の香炉』の模刻品が飾られていました。つい昨年(令和5年)に亡くなられた日下部正和氏。いったい何が、日下部氏をこれの製陶に駆り立てたのでしょうか? もし、それを知ることができれば、源内が『三春駒の香炉』を作ろうと思った動機を知ることができるのではないか、私はそう思ったのです。

 日下部正和氏は三春の出身で陶芸歴50年、その作品には数十万円の値がつくこともあるという抹茶の茶椀の他、自由な作品の名手として知られ、三春町込木(くぐりき)に游彷陶房(ゆうほうとうぼう)工房を構えて、彼が作った無煙薪窯を使っての作品の制作や、ワークショップの主催などしていました。しかしワークショップのほとんどを海外で開催していたため、海外のファンも多く、中国、台湾、シンガポール、オーストラリア、トルコのキプロス島、さらにはサンフランシスコから訪れて来ていた方々もいたそうです。その日下部氏に、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の模刻品を作らせた理由が知りたいと思ったのですが、すでに亡くなられた方に聞くわけにもいきません。私は、東京に住むという日下部氏の息子さんのフェイスブックに、コメントを入れてみました。直ぐに返事は来ましたが、『父の資料については全く知りません。もともと片付けが苦手の人間でしたから、資料を、ただの紙コップも紙ごみも一緒にしていた可能性が高く、もしあったとしても、私が紙ごみとして一緒に捨ててしまっている可能性が非常に高いです。お役に立てず申し訳ありませんでした。』というものでした。残念ながら私は、源内の作った『三春駒の香炉』を、日下部氏がどのような思いで作ろうと思ったのか、その心の内を知ることができなかったのです。

 三春駒は、青森県の八幡馬(やわたうま)、宮城県の木下駒と並んで日本三大駒のひとつと言われ、郷土色の強い玩具です。昭和29年に日本で最初に発行された年賀切手は、この三春駒の絵でした。ところが、この『三春駒の香炉』の作者の平賀源内は、享保13年(1728年)に、四国の高松にあった松平藩の志度浦、いまの香川県さぬき市志度に生まれた人です。このような人が、どこで三春駒を知り、香炉という形ではあっても、何故これを作ったのか? 私はどうしても知りたいと思ったのです。色々と調べていると、平成15年に、東京世田谷の五島美術館で『源内焼〜平賀源内のまなざし展』が開かれたのを知り、ネットでその図録を手に入れました。するとそこには、平賀源内が作ったという『三春駒の香炉』の写真も掲載されていたのです。しかしその躯体に施された模様に、私は首をひねりました。その胴にある模様は鳥の足跡のような形のもので、いま私たちが見ている三春駒の模様とは大きく違うのです。そこで私は、デコ屋敷に張子人形作家の橋本広司さんを訪ねてみました。なおデコ屋敷とは、今も4軒の作家の家々が、木製の三春駒、三春張子と呼ばれる人形や張子の面などを作り続けており、数百年の伝統を守って今日まで伝えている集落で、その各屋敷が所有する人形の木型は、福島県の重要文化財に指定されています。広司さんはそのような広司民芸を経営するかたわら、古くからの木型などを集めた資料館も持っていたのです。
「いやー、そういうものがあるとは、薄々話には聞いていたが、本当にあったんだない。」彼はそう言ってしばらく図録を見た後、自分の資料館に案内してくれました。そこには古文書や木型などの他、古い三春駒もありましたが、源内の描いた模様と同じ模様の三春駒はありませんでした。彼の話によると、「昔は、三春駒を作っているウチがもっとあって、各工房がそれぞれに絵付けをしていたがら、その頃の仲間の家で作っていた模様かもしれない。しかしこういう物があるのだから、昔はこのような図柄が一般的であったのかもしんに〜な」とのことでした。この模様の出所は、見つけることができなかったのです。ただ彼は、「江戸時代に、浅草などで売ったこともあったという話を、先祖がしていた」との話を聞かせてくれたのです。金龍山浅草寺を中心とする浅草周辺は、かつて江戸随一の賑わいを見せる遊興地だったと言うから、すでに商売に向いた地であったのかもしれません。

 『源内焼』は、先覚的なデザイン、鑑賞を重視した高い芸術性と斬新な三彩釉の使用といったところにその特色があり、元文3年(1738年)に、讃岐国志度浦で開窯したとされる志度焼を基礎に、宝暦5年(1755年)になって、『源内の指導』によって発展したとされる陶器が、源内焼と呼ばれるようになったとされます。しかし近隣の諸窯のうち、類似する意匠や焼成技法のある屋島焼などとの混同も認められることから、さらに調査研究の必要な状況にあるというのです。源内焼の特徴は、技術的には桃山時代以降の日本の陶器に影響を与え続けた中国の華南三彩と同系列の軟質の施釉陶器(せゆうとうき)であって、緑、褐色、黄などの鮮やかな彩色を特徴としています。 精緻な文様はすべて型を使って表され、世界地図、日本地図などの斬新な意匠の皿などが試みられていますが、しかし、皿や鉢など限られた器に偏る、という指摘もあります。それは陶土の可塑性や型成形の技術的な制約も影響していると考えられています。ともあれ、展覧会の図録にある写真だけでも、数え切れないほどあるのです。種々の仕事をしながら、これほど質の高い陶器を作っていたのですから、ただ驚かされるばかりです。





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最終更新日  2024.10.20 06:00:13
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Re:平賀源内の三春駒の香炉  
ごん924  さん
初めまして。私は日下部先生が晩年 平賀源内の香炉を焼く時に数回お手伝いもしていました。三春 歴史民俗資料館の館長と話をしましたが納得がいかず 四国の平賀源内 博物館に連絡を取り名誉館長から資料を送っていただき その謎に挑んでいるものです。日下部先生に連れられ 私も桜カフェには何度か言っています。 (2024.10.27 16:15:47)

Re[1]:平賀源内の三春駒の香炉(10/20)  
桐屋号  さん
ごん924さんへ

何かお分かりになりましたら、是非お知らせください。
(2024.10.28 07:06:05)

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