三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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島 根 県内神社摂社随神神社 松江市大垣町746彌多仁神社摂社お客荒神 松江市荘成町194愛宕神社 松江市外中原町54美保神社 松江市美保関町美保関608たこ神社{虫扁に居同じく者} 松江市八束町江島184伊奈頭美神社摂社客社 松江市美保関町北浦304爾佐神社境外社荒神社 松江市美保関町千酌1061日御碕神社摂社客社 松江市島根町野波312客神社 松江市島根町加賀2401佐太神社 松江市鹿島町佐陀宮内72鹿島神社摂社客神社 出雲市武志町673支布佐神社摂社客神社 安来市安来町吉佐町365客神社 安来市九重町435客神社 安来市島田町55八幡宮摂社客神社 安来市大塚町950澳津神社摂社客神社 安来市黒井田町67八幡宮摂社客神社 安来市伯太町大字東母里409福富神社摂社客神社 安来市伯太町大字須山福留52出雲大社摂社門神社 出雲市大社町杵築東195日御碕神社摂社門客人神社 出雲市大社町日御碕455若宮神社摂社客神社 雲南市三刀屋町大字里坊53高おか神社摂社客土神社 雲南市三刀屋町大字乙加宮63阿羅波比神社主祭神 八束郡東出雲町下意東2852氷川神社 八束郡宍道町大字龍臥山858坂本神社摂社客神社 大原郡大東町大字薦沢923の3客神社 大原郡大東町大字前原289那久路神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町那久路328堅磐神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町南方1222山田神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町大字山田908水上神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町大字那794の5八幡神社摂社御客神社 隠岐郡隠岐の島町大字原田1173上西神社摂社御客神社 隠岐郡隠岐の島町大字上西字雨木43八王子神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町大字元屋718西村神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町大字西村296の1一之森神社摂社客神社 隠岐郡隠岐の島町大字中村198 広 島 県客人神社 広島市佐伯区湯来町葛原1502の2客人神社 広島市佐伯区湯来町葛原589宮久保神社摂社客神社人丸神社 大竹市奥谷町小栗林字沖田508松ヶ原神社摂社客神社 大竹市小方字後飯谷下1357の1厳島神社摂社客神社 廿日市市宮島町1の1厳島神社摂社門客神社 廿日市市宮島町1の1須佐神社摂社客人神社 甲奴郡甲奴町小童1072 山 口 県客神社「大年大神」 下関市豊北町大字北宇賀2715客神社「五男三女神」 岩国市大字小瀬994客神社「五男三女神」 岩国市大字小瀬1045客神社「五男三女神」 岩国市大字関戸312須川河内神社摂社客織津姫神社 岩国市錦町大字須川3859河内神社摂社客神社 岩国市美和町大字滑116客神社 徳山市大字川曲972客山祇神社 都農郡鹿野町都濃郡大字鹿野上726 愛 媛 県客王神社 松山市下伊台客白王神社 八幡浜市布喜川須賀神社摂社客天神社 今治市朝倉村朝倉下客神社 今治市菊間町西山客金刀比羅神社 今治市菊間町池の原客神社 大洲市肱川町予子林客神社 大洲市長浜町今坊客神社 八幡浜市保内町磯崎客神社 八幡浜市保内町夢永客神社 八幡浜市保内町広早客神社 西予市三瓶町下泊客神社 西予市三瓶町垣生客神社 西予市明浜町宮野浦客神社 西予市野村町坂石客神社 西宇和郡伊方町豊之浦八幡神社摂社客神社 西宇和郡伊方町三机客神社 西宇和郡伊方町大浜客神社 西宇和郡伊方町亀浦一宮客神社 西宇和郡伊方町二見客神社 西宇和郡伊方町田部客神社 西宇和郡伊方町大江客神社 西宇和郡伊方町名取客神社 西宇和郡伊方町明神 高 知 県客天神社 吾川郡仁淀川町白王客天神社 吾川郡仁淀川町 長 崎 県国律神社 壱岐市郷ノ浦町渡良浦1148客人神社 南松浦郡新上五島町網上郷370 瀬織津姫命(資料5) 瀬織津姫命を祀る神社村崎神社 福島市飯坂町字八幡六 八幡神社境内社関場神社 郡山市西田町大田字雪村316宇奈己呂和気神社 郡山市三穂田町八幡字上ノ台76大滝神社 双葉郡楢葉町上小塙字柴坂1大滝神社 双葉郡広野町上淺見川字大舟1滝埜神社(国魂神社 境内社) いわき市遠野町滝字西ノ内42大滝神社(八剱神社 境内社) いわき市平下高久字馬場300根渡神社 いわき市泉町下川字畑中160滝神社 南会津郡只見町只見字上ノ原1845滝口神社 南会津郡南会津町田島静川字林ノ沢山乙305 瀬織津姫命が関連するとされる見渡神社に、次のような神社がある。見渡神社 郡山市田村町下行合字朝日舞子渡神社 郡山市田村町上道渡字宮ノ前 見渡神社 郡山市西田町土棚字内出見渡神社 郡山市西田町鬼生田字前田三渡神社 郡山市西田町高柴字峠森三渡神社 郡山市中田町高倉字三渡三渡神社 郡山市中田町木目沢字表見渡神社 郡山市中田町駒板字表三渡神社 郡山市安原見渡神社 田村郡三春町平沢字中 柴原神社(三渡神社) 田村郡三春町柴原字四合内見渡神社 田村郡三春町蛇沢見渡神社 田村郡三春町斉藤字戸ノ内 見渡神社 田村郡三春町込木字宮ノ下 鹽竃神社摂社 三渡神社 田村郡小野町小野新町字萬景上 三渡神社 田村郡小野町吉野辺字伊達内 三渡神社 田村郡小野町湯沢字仲平 見渡神社 田村市大越町上大越字町 見渡神社 田村市大越町栗出字宮ノ下 鹿山神社 田村市常葉町鹿山字宮ノ前 見渡神社 田村市常葉町常葉字本防 三渡神社 田村市常葉町関本字上野 見渡神社 田村市船引町芦沢字夜討内 鹿又神社 田村市船引町北鹿又字下旦ノ平 三渡神社 田村市船引町長外路字大黒内乙 新舘神社 田村市船引町新舘字軽井沢 大倉神社 田村市船引町大倉字鐇田 三渡神社 田村市船引町文珠字下之内 三渡神社 田村市船引町荒和田字二ツ宮三渡神社 二本松市岩代町杉沢字宮ノ前ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.05.21
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茨 城 県酒列磯前神社 那珂湊市磯崎町607の2國神神社 行方市麻生町行方1820大洗磯前神社 東茨城郡大洗町磯浜町6890 栃 木 県客人神社 下都賀郡大平町下皆川1581 埼 玉 県氷川神社末社 さいたま市大宮区島根458氷川神社末社 さいたま市大宮区櫛引1の653日進神社末社 さいたま市大宮区日進町2の1194中山神社末社 さいたま市大宮区中川143中山神社摂社荒脛社 さいたま市大宮区中川143(現存しない)氷川神社摂社門客人神社 さいたま市大宮区高鼻町1の407氷川神社摂社門客人社 さいたま市大宮区宮前町1634氷川神社末社 さいたま市浦和区西堀8の26の1氷川社末社 さいたま市浦和区田島1943氷川神社末社 さいたま市浦和区内谷1560氷川神社摂社門客人社 さいたま市浦和区南本町1の9の1羽尽神社末社 さいたま市川口区芝5379の1七郷神社 さいたま市川口区戸塚5781氷川神社 川越市下老袋732古尾谷八幡神社末社 川越市古谷本郷1408八幡神社末社 川越市古谷本郷1408中氷川神社 所沢市三ケ島5の1691氷川神社末社 上尾市戸崎983氷川神社末社 上尾市今泉148大宮住吉神社末社 坂戸市塚越254氷川諏訪神社末社 桶川市小針領家762氷川神社末社 鴻巣市吹上町前砂656氷川神社末社 北足立郡伊奈町小室7841 千 葉 県客人神社 八街市東吉田348の1姉埼神社 市原市姉崎2278 東 京 都大元明神 千代田区江戸城内白髭神社 葛飾区東四つ木4の36の18小野神社随身門 多摩市一ノ宮917小野神社末社阿羅波婆枳神社 厚木市小野428熊川神社末社稲荷神社は荒脛社 福生市熊川660二宮神社摂社荒波々伎神社 秋川市二宮2252大國魂神社摂社坪宮 府中市宮町3の1養沢神社 あきる野市五日市町養沢1018奥氷川神社 西多摩郡奥多摩町氷川178 神 奈 川 県あらはばき様なる石の祠 横浜市栄区公田町 山 梨 県春日神社 大月市七保町下和田1225 新 潟 県彌彦神社 西蒲原郡弥彦村弥彦2898八木神社 三条市下田大字北五百川37 静 岡 県三嶋大社 三島市大宮町2の1の5荒ハバキ(金偏に祖)神社 浜北市堀谷 滋 賀 県唐崎神社 (西宮神社境内社) 高島市新旭町唐崎神社 高島市マキノ町知内河濯神社(長浜八幡宮境内社) 長浜市宮前町 愛 知 県石座神社摂社荒波婆岐社 新城市大宮字狐塚14竹生神社摂社荒羽々気社 新城市杉山字行時神倉神社 蒲郡市宝町14の3宮道天神社 豊川市音羽町大字赤坂字宮路4砥鹿神社摂社荒羽々気神社 宝飯郡一宮町大字一宮字西垣内2熊野神社摂社荒羽々気社 北設楽郡豊根村大字上黒川字老平 三 重 県伊勢神宮別宮荒祭宮 伊勢市皇大神宮域内伊勢神宮別所管社興玉神 伊勢市皇大神宮域内二見興玉神社 伊勢市二見町大字江75 大 阪 府四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺 兵 庫 県櫛石窓神社 篠山市福井1170 和 歌 山 県山崎神社 岩出市赤垣内108 鳥 取 県波波伎神社 倉吉市福庭654ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.05.11
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次ぎに大火後のことになるが、千季の時代に三春から十三湊へ調査のために誰かを派遣した証拠はない。それに実季や千季のどちらの時代にも、十三湊から調査の結果が知らされたという形跡もない。しかしこの系図に記載されている年代から何かこれらの疑問を解くカギが隠されているのかも知れない。この系図を所有する湊耕一郎氏によると、湊清は彼の曾祖父であるが、早川という姓の親戚もしくは知人についての記憶はないという。 この早川について、三春歴史民俗資料館の藤井康氏より貴重な助言を頂いた。それは文化年間に編まれた『世臣譜』の中の『早川』の稿にあった。それによると、早川の二代・半左衛門は、実季が朝熊(三重県伊勢市)に流されたときこれに随伴、実季の死後、三春に召還された。そして四代目の半左衛門は元禄五(1692)年に御道具役、享保二(1717)年、御書物役に任ぜられている。元禄三年頃、恐らく早川捨彦の先祖が筆写をしたと思われることから、この記録は四代半左衛門が筆写したものと想像できる。恐らく捨彦は、九代か十代目にあたる人であろう。すると実季が『朝熊に流されたときこれに随伴』した早川という人物像から言って、この系図は実季が主張した系図に近いものではあるまいか。 郡山歴史資料館に行ったとき、学芸員の方が、これに関すると思われる資料のコピーを持ってきてくれた。 五 『十三湊新城記』新考 三春・龍穏院文書によせて 古内龍夫(昭和32年卒業) (前略)龍穏院に『御系図』なる一冊の古文書があり、「安 倍家系図」と「十三湊新城記」が編綴されている。近世 初期の写本であるが、「安倍家系図」は別にある「過去 帳」を整理したものらしく、一族の実名はもとより、戒 名・没年月日・生存年数などが書かれており、東北大学 所蔵の秋田家文書より詳しい情報が提供される。実季が 万治元(1658)年に作成した「秋田家系図」より先 に整理されたものと思われるので、実季の系図に影響を 与えているであろう。 (後略) 早速、龍穏院に行ってみた。ところが龍穏院にその系図はないという。古内龍夫氏が来られたことはあるが、その系図のコピーを見せて貰っただけであるという。 いずれにしてもこれら三春に残されている史跡は、荒覇吐神を尊崇する秋田氏が安日王・長脛彦から安倍氏、安東氏、そして秋田氏へと家系が続いて来たことを、東日流外三郡誌が発見されたとされる昭和22年よりも遥かに遠い時代から主張していたということの証明にはなる。しかしだからと言って、東日流外三郡誌が本物であるとまでは言えないことは、勿論である。 なお現在、秋田氏は披講所に属し、宮中の歌会始において読人(どくと)を務めておられる。 三春藩と東日流外三郡誌(資料4) 荒覇吐神社 HP「客神社と荒波々幾神を祀る神社」より 北 海 道川濯神社 函館市川濯神社 北斗市大野小山権現 檜山郡江差町川裾神社 檜山郡江差町伏木戸川濯神社 松前郡福島町川濯神社 久遠郡せたな町 青 森 県稲荷神社? 青森市合子沢字松森石搭山荒覇吐神社 五所川原市洗磯崎神社 五所川原市市浦脇元字野脇7荒磯崎神社 南津軽郡藤崎町林崎字宮本8磯崎神社 北津軽郡金木町中柏木字鐘石151 岩 手 県安日の社 一関市荒神社 岩手郡磐手町 宮 城 県陸奥総社宮 多賀城市市川奏社荒雄川神社 大崎市岩出山町池月字上宮字宮下10権現社 玉造郡岩出山町 秋 田 県客殿神社 横手市平鹿町醍醐字薊谷地74金峰神社 横手市雄物川町大沢字上法寺75荒羽祇神社 仙北郡美郷町安城寺字柳原198阿良波々岐権現 雄勝郡長和村赤神権現堂 男鹿市角間崎字家ノ下452 福 島 県荒脛巾神社 会津若松市湊町大字赤井字赤井105荒祖神社 会津若松市町北町大字中沢字平沢396某神社 田村地域 神官の希望により明確にせずブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011年4月14日、一日平均アクセス数が76になりました。ありがとうございます。
2011.04.20
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長 脛 彦 の 末 裔 長脛彦の末裔を称していた秋田氏の伝承は、日本神話や東日流外三郡誌とは重要な一点、つまり安日王や長脛彦の存在を肯定することで一致している。その上で現在の田村地域に、この秋田氏が主張する傍証と思われるものが、いくつか残されている。 その一つは秋田氏の菩提寺である三春町の高乾院の山号・『安日』山である。この高乾院の木像釈迦如来座像は、秋田氏が十三湊から宍戸を経て三春へ移封された際、本尊として勧請したものである。高乾院前の案内板には、『安日(あっぴ)山』とふりがなが付けられており、本堂の 子(けいす)(鐘)には、『安日山高乾禅院・文政二年~』の文字が刻まれている。また瀬織津姫が、岩手県安代町のスキー場のある安比(あっぴ・安日?)高原の桜松神社に祀られている。安日王との関連が想像される。ところでこのアッピという単語、地元・岩手県の人たちは、この語感に日本語とは異質のものを感じるという。 第二には、十三湊から移され、さらに三春に勧請された寺である龍穏院(りょういん)がある。この寺は、秋田実季が秋田から宍戸へ移される以前の安東家の菩提寺であった。それを実季が臨済宗妙心寺派に宗旨を替えたために、自分以前の先祖の菩提寺を龍穏院とし、自分以後の菩提寺を高乾院にしたと言われる。この寺の山門に『安倍萬世植福道場』という大きな扁額が掲げられているが、三春の大火の際のこととして、三春町史に『龍穏院門前で辛うじて食い止めたが』とあるので、このとき山門とともに扁額も焼失したと思われる。現在の扁額の署名は祥鳳とあるが、三春町史によると、祥鳳は龍穏院の第29世祥鳳忍瑞大和尚(天保四・1833年寂)とあるので、山門、扁額ともに再建したと考えられる。しかし時期は特定されていない。ただし千季の次男の謐季(やすすえ)が病のために七年間(寛政九・1797年~享和三・1803年)の短い期間藩主の座にあったが、謐季が『安倍家近年代々秘録』を編述しているので、扁額はこの間に掲げられたものと思われる。なお謐季は、秋田家としては只一人この寺に葬られている。 第三に安倍貞任がこの地方の巡検をした折、自分の守り本尊を安置したという剛水山清凉寺『安倍』文殊堂が田村市船引町馬場川原にある。この安倍姓についてであるが、神護景雲三(769)年、安積に住む外従七位下の丈部継足(はせつかべのつぐたり)が、阿倍安積臣(あべのあさかのおみ)という姓を賜っている。安倍氏とは無関係の人物にこの姓を与えたと言うことは、安倍という姓に、秋田氏とはまた違った意味のあったことが推測できる。この『アベ』姓について、文献によっては安倍と阿倍の双方が使われているので、注意が必要である。なお貞任山清凉寺は、秋田氏が三春へ移封される以前からここにあったとの説もあるが、その勧請の時期はともかくとして、秋田氏が畏敬の念をもっていたことに意味があろう。その堂宇は、福島県の重要文化財である。 第四に、田村地域の某神社に荒覇吐神が祀られている。そのことを公表しても良いかどうかを宮司に確認したところ、断られてしまった。それでもそのことについて、「神社関係の雑誌に掲載されたことがある」と言うので雑誌を見てみようとしてその名を尋ねたが、良い返事を貰うことができなかった。ともかくここの宮司の強い意向で、神社の名を明らかにすることができないのが残念であるが、これだけ嫌がるのであれば公にする訳にもいかないと思った。しかしこれを明らかにできないにしても、秋田氏が主張する安日王・長脛彦先祖説を補強する傍証とはなろう。ただし宮司の話から、荒覇吐神がその神社の客神(まろうどがみ)であることは間違いない。この他にも県内には、会津若松市に荒脛巾神社、荒祖神社の二社がある。 第五に、三春町の旧家・湊家から、古い系図の写しを見つけた。ただしこの系図は湊家を中心に書かれたものである。湊家は十三湊時代の秋田氏から宍戸、幕末の三春秋田氏に至るまで仕えていたという家柄である。この『湊系図』の冒頭部分に線でこそ結ばれていないが、兄の安日王と弟の長髄(脛)彦と記されている。この関係もあってか、湊家の菩提寺は秋田氏のそれと同じ龍穏院である。秋田氏との強い関係が推測される。またこの系図は見方によっては、実季の主張した安日王・長脛彦先祖説とも見えるが、この安日王と長脛彦の書かれている位置、大毘古命から線がはじまっていることなどから考えて、俊季が主張した系図とも思われる。その末尾には、次のような記述がある。 元禄三(1690)庚午年●(陰暦十二月)月吉 旦 改写之 嘉永六(1853)癸丑年孟春吉旦 再写之 湊清 安倍季重主人(花押・明治の人) 原巻 元禄庚午年(三年)改写 嘉永六丑歳再写 早川捨彦●(耳り)持借 更之写 湊清 主人(花押) ここには『元禄三(1690)年脯月吉旦 改写之』とあるので、この年以前より保存されていたものから書き写した、と解釈できる。すると前述した『実季は、万治元(1658)年の秋、ようやく完成した系図 を盛季に与え』という文言から、実季が編纂したものからの写しとも思える。翌・万治二年に実季は死去した。しかしこの内容から類推するに、実季ではなく俊季が主張したものを筆写した可能性もある。ただし全てが焼失したと伝えられる天明五(1785)年の三春大火以前に書かれたものを書き写した、ということは間違いない。なお、実季の命により『寛永諸家図伝』中の安倍家系図を校訂した高乾院住持の一元紹碩は、『下国両家辯』をあらわした。これは俊季の弁明をしたとされることから、東日流外三郡誌とは別のものと考えられる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.04.11
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伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木(アラハバキ)神」になったという 荒覇吐姫神は、荒覇吐神と対の神と考えられ、古事記や日本書紀以前にその名がみられる古い神である。この神は皇祖神・天照大神の祖型神の一神でもある。伊勢神宮では内宮の荒祭宮の神、つまり荒覇吐姫が瀬織津姫がと呼ばれる伝承があり、御敷地に祀られていてその守護神になっている。天照大神の荒御魂であるとされている。伊勢国度会郡の『子持山縁起』の冒頭の荒人神の部分にも『荒覇吐姫』と記され、終わりの部分に『伊勢神宮の荒垣の内におはします、即ちあらはばき是なり』とあるらしく、瀬織津姫命を『荒覇吐姫』と言っている。 やがて北日本へ進出して来た大和は、水神でもある荒覇吐姫の名を大和風に瀬織津姫命と変え、エミシの人々を稲作に誘導するための道具とした。エミシの人々を支配下においた大和は、土着の悪い神としてこの男神の方を封印した。そのために残されたのが瀬織津姫という名の女神であったと考えてみたい。 大分県宇佐市の宇佐神宮伝承では、同社の比売大神(3女神)を分祠したのが安芸の厳島神社であるという。この厳島神社の分社が鹿児島県出水市にあり、宗像3女神が祀られている。しかもこの3女神のうちの1神・多岐津姫(タキツヒメ)の代わりに瀬織津姫(表示は瀬織津比売命)の名がある(ほかの2神は、市杵島比売命と田心比売命である)。また青森県下北郡『佐井村誌』下巻には、宝永2年(1705)の再書写ではあるが、『箭根森神社再興後記』が収録されている。ここには、八幡3神の祭神説明が、次のように書かれているという。 神功皇后 気長足姫ト申本朝十五世女帝是則仲哀 帝御后応神天皇御母后香椎大明神 天照大神分身瀬織津姫命 応神天皇 再誕誉田天皇トモ又胎中天皇トモ 比女大神 応神帝御后 ●事神秘也 ここでは神功皇后のみ長い説明がなされているが、このなかに『天照大神分身瀬織津姫命』とある。瀬織津姫命が『天照大神分身』と記されているのは、『日本書紀』や『倭姫命世記』などに『天照大神荒魂』と記述されていたことを踏まえたものと思われる。 宮城県大崎市の荒雄川神社の境内案内によれば、同社の主神は瀬織津媛尊とされ、『嘉応2年(1170)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし』たと書かれているという。瀬織津姫命は、安倍氏の末裔・藤原秀衡(奥州藤原氏)によって信奉されていた。 郡山市西田町土棚の見渡神社(水分社・ミマクリシャ)社伝によると、天牟羅雲(アマノムラクモ)その他二神を祀っていた河内国の水分社を楠氏の臣橋本某が崇敬していた。寛永元(一六二四)年三月、その水分社を子孫の橋本清九郎がこの地に勧請した、とある。楠木正成ゆかりの『河内国の水分社』とは大阪府南河内郡千早赤坂村水分にある建水分(たけみまくり)神社のことと推定され、同社の祭神名の中には瀬織津姫命が含まれている。三春町史にも、見渡神は『本来は神渡(かみわたり)の名で開発農業神として祀られた土地神』と記されているが、この神渡の表記で想起されるのは、諏訪湖の『御神渡(おみわたり)』である。丹波民話 (囲炉裏夜話)によると、諏訪湖の水神もまた瀬織津姫命である可能性が高いという。 瀬織津姫命を祀る神社は、次のように分布している 北海道 5 青森県 2 岩手県 36 宮城県 7 秋田県 3 山形県 6 福島県 10 茨城県 4 栃木県 2 埼玉県 5 千葉県 3 東京都 13 神奈川県 1 山梨県 2 新潟県 11 長野県 10 富山県 14 石川県 4 福井県 2 愛知県 16 三重県 18 岐阜県 7 滋賀県 19 京都府 20 大阪府 6 兵庫県 20 奈良県 18 和歌山県 13 鳥取県 25 島根県 11 岡山県 25 広島県 13 山口県 6 香川県 8 徳島県 9 愛媛県 9 高知県 6 福岡県 12 長崎県 2 大分県 4 宮崎県 6 鹿児島県 2 また瀬織津姫命が関連するとされる県内の見渡神社は、次のように分布している。 田村地域 29 二本松市 1 (資料5 参照) この瀬織津姫命は桜と瀧とのそばに多く鎮座している。しかも瀧の名は、不動滝が典型的である。不動明王は天台宗の布教の流れから水神の上に被せたものとされ、瀬織津姫命と一体化している。加えて覇吐(ハハキ=ハハカ)の『ハハカ』が桜の古名であるということから、水神の化身としての桜神たる瀬織津姫と、絶妙に重なってくる。三春の滝桜の近くには不動滝があり、滝不動尊と柴原神社(三渡神社)が祀られていることにも興味を引かれる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。この大震災のなか済みません。2011年3月21日、一日平均アクセス数が75になりました。ありがとうございます。
2011.03.21
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東 日 流 外 三 郡 誌 それでは、東日流外三郡誌の内容とはどのようなものであったのか? それに東日流誌は全部で368巻もあるという膨大なものであるから、その全文をここに載せることは不可能である。そこでここに、『三春町史 第二巻 58頁』の一文を転載することで紹介をしたい。 安倍姓秋田氏・反骨の系譜 秋田氏の系譜は必ずしもあきらかではない。秋田 氏が、幕府に呈上し、あるいは自家に書き留め、あ るいは菩提寺に納め、あるいは領内諸家に伝えられ ている系譜などは、一致して安倍を本姓としてまと められている。『下国湊両家辨』(青森県浪岡町高木 正之進蔵)によれば、(八代)孝元天皇の御子、(九 代)開化天皇の皇弟・大崑古命(オオヒコノミコト) が安日将軍と称した。この人物が「是安倍姓元祖也」 と記されているが、また一方には『日本書紀』に見 える、神武天皇と戦った長脛彦の兄安日彦の系とす る説もある。 また『寛永諸家系図伝』によれば、先祖が摂津国 安倍野伊駒に住したことにちなんで安倍とも伊駒と もいったとし、『寛政重修諸家譜』では、安日・長 脛両兄弟が摂津国胆駒嶽に住み、神武天皇の東征後、 北海の浜に追放され、安倍将軍河別命(カワワケノ ミコト)が夷荻討伐の時に、安東将軍より安倍姓を 与えられたとしている。 津軽半島の『市浦村史 資料編 下巻』所収『東 日流外三郡誌』には、次のような記載がある。 東日流には、古くは、阿蘇部族(あそべぞく・山 住)と津保化族(つぼかぞく)の二族があったが、 安日彦の来住後、安日彦によって征服された。その あとに続くのが荒覇吐(アラハバキ)の神々(五代) であった。さらに、それに荒覇の王十代が続く。荒 覇王十代が安国(やすくに)だとする。以下は、ほ ぼ前に掲げた系図のようになる。東日流の二族と、 荒覇吐の神々の説話は、天孫族や出雲の神々、鹿島 の神々とは別に奥羽の神々の説話として興味深い。 青森県鰺ヶ沢町の湯舟観音堂(聖観世音菩薩)に『昔阿蘇部の森に鬼あり』と伝えられているという。この『阿蘇部』は、三春町史にある『阿蘇部族』とも重なる。『阿蘇部の森』は岩木山の古名で、そこに「鬼」がいたというのである。ここでいう『鬼』は『神』と同意とされる。大和側では長脛彦を、『鬼王』と呼んでいたとも言われる。 東日流外三郡誌には、神武天皇に敗れた長脛彦が津軽に住んでいたとされる兄の安日王を頼って大和地方から引き上げてきた話が載せられている。ただしこの話について、日本神話では神武天皇の長脛彦誅殺を伝えている。しかしもし長脛彦が殺されたとしても、敗れた長脛彦一族の一部が津軽にたどり着いたことをこう表現したとも考えられよう。松本清張の「砂の器」で知られるように、出雲弁が秋田弁に似ているという事実は長脛彦が神武天皇に敗れて秋田へ逃走したことの傍証なのかも知れない。 では荒覇吐とは、どのような神であったのであろうか。 アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)信仰は、東北地方一帯に見られる民俗信仰である。その起源は不明な点が多いが、「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。歴史的経緯や信憑性については諸説あるが縄文神の一種という説もある。また、古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。 津軽の教育者で郷土史家の太田文雄氏は、『津軽の荒吐神伝承と赤倉信仰』の中で、津軽の古文書の神々、大元神楽の『大元神』、密教・神道の『大元帥明王』、仏典の『阿羅婆鬼』、各地の荒覇吐神社の神々も皆『荒覇吐神』を指し示していると述べている。これは東大仏教青年会の中の古代信仰研究会の竹内健氏らの研究成果によるもののようで、採鉱民族との関連や白山信仰との関連にも注目しているとのことである。 三春町史にも『安日彦に続くのが荒覇吐の神々(五代)であった』とあることから、安日彦、長脛彦自体が荒覇吐の神々以前からの神であったということになる。長脛彦は日本神話で、長脛彦が神倭伊波礼昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト・神武天皇)という神と戦っているのであるから、両者ともに神であることは不自然ではなかろう。このように長脛彦は荒覇吐神と同体とされることから、長脛彦の足跡、つまり長脛彦一族の生活の跡を示唆するのが荒覇吐神を祀った神社であると考えてもよいのではあるまいか。 荒覇吐を祀る神社は関東以南でも見ることができる。ただしそれは主祭神としてではなく、門客神(もんきゃくじん)として祀られているケースが多い。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。現在この北方の神、『荒覇吐神』を祀った神社が、全国各地に広く散在している。 北海道 6 青森県 5 岩手県 2 秋田県 5 宮城県 3 福島県 3 茨城県 3 東京都 9 栃木県 1 埼玉県 23 千葉県 2 神奈川県 1 新潟県 2 山梨県 1 静岡県 2 愛知県 6 滋賀県 3 三重県 3 兵庫県 1 大阪府 1 和歌山県 1 鳥取県 1 島根県 35 広島県 7 山口県 8 愛媛県 23 高知県 2 長崎県 2 (資料4 参照)ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/3/6 1日平均アクセス数が、74になりました。ありがとうございました。よろしくお願いします。今回の地震で、我が家の損害は軽微、家族に被害がありませんでした。ようやくネットがつながったようですので、そのうち「いろいろのこと」にアップしたいと思います。
2011.03.14
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では秋田氏は、どのようにその系譜を主張していたのであろうか。 秋田氏が祖という安倍氏は、永承6(1051)年の前九年の役で源氏・清原連合軍に敗れたとき、安倍貞任の遺児、高星丸(たかあきまる)が津軽の藤崎に逃れ、安東氏を名乗った。 文永元(1264)年、蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の骨嵬(くぎ・樺太アイヌ)を朝貢させたが、弘安7(1284)年、骨嵬は元に反乱を起こす事件があった。これを識者は、『北の蒙古襲来』という。永仁5(1297)年、安東氏は骨嵬を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に3度反攻したが元に降伏し、以後毛皮などの貢物を献上することを約束したとされる。なお九州に襲来した蒙古に関して、東日流外三郡誌大要の766頁に次の記述があるという。 『これぞその真心、神に通じ、神風起こりて国難を 除きけるは、人をして上下を造らず睦ぶ心に神ぞ救 済すと曰ふ。この年東日流にては、元船十二艘漂着 し、元兵、山にこもれるも、安東一族に誅され、ま た救われたり。・・中略・・』 これは九州の元寇の際、安東水軍が出撃した証拠とされる文言であるが、『東日流外三郡誌』偽書説の強い今、これをそのまま鵜呑みにする訳にはいかない。安東氏のシベリア出兵と錯綜しているようにも思える。津軽には『対馬』『津島』『若狭』『加賀』『能登』『越前』『越後』『輪島』などの姓が多くみられるというのも興味深い。 永禄5(1562) 年、フランス人ベリユによって世界地図が製作されているが、ここには津軽地方からカムチャツカにかけての地域が、Bandov と記されているそうである。一説に Bandov とは安東国の意で、津軽地方の南に大和との『境界線』が引かれているというから、明らかに西洋人の目には、大和とは別の独立国として意識されていたことになろう。他の説によると、Bandov は坂東を意味するという。坂東とは箱根の坂の東、つまり関東を指す古語である。ただしこの地図に引かれている境界線は現在の日本地図のどこに当てはまるかは明らかではない。明らかではないがこのことは、この『北の蒙古襲来』が日本史に記載されなかったことと関係があるのかも知れない。つまり鎌倉幕府が当時の Bandov (安東)を外国と認識していたと考えれば、そのことが理解できる。しかし坂東にあった鎌倉幕府が Bandov (坂東)を外国と認識していたというのではおかしいことになる、とすれば Bandov は安東国でなければならないことになる。 ここに出てきた『安東国』とは、三春秋田氏の先祖である『安東氏』が治めていた国のことである。中世には今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までをその勢力圏とし、津軽十三湊を本拠にした安東水軍の最盛期には北海道・樺太・千島・中国などと交易していたとされる。そのため安東氏は、『蝦夷管領』『日の本(ひのもと)将軍』と称されていた。ここに『日の本将軍』という官職名が出てきたが、昭和24(1949)年に甲地村(いまの青森県東北町)千曳の川村種吉氏が、千曳と石文(いしぶみ)集落の間の赤川支流の湿地から『日本中央(ひのもとちゅうおう)』と書かれた石碑を発見した。これは歴史上の資料として確定されてはいないが、古来伝えられてきた『壺の碑(いしぶみ)』ではないかと言われている。 『壺の碑』については、文治元(1185年)の頃編まれた袖中抄の19巻で『陸奥の奥に有り。日本の東の果てと云り。但し田村将軍征夷の時、弓筈にて石の面に日本中央の由を書付たれば石文と云ふ。石の面長さ四、五丈計りなるに文をゑり付けたり。その所とはつぼと云也。それをつもと云也』と言われてきた。つぼは、今の青森県七戸町天間館坪(旧坪村)と思われ、つもは、坪村のさらに古い名・都母と思われる。しかし江戸時代の初め頃、市川村(いまの多賀城市)で石碑(多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から壺の碑であるとされ、天平宝字(757~764)年間に建立されたものとして当時の記録に残されている。 この安東氏の支配下にあった十三湊は、室町時代に大津波で襲われ、その栄華もまた歴史から忽然と消えてしまったのである。平成20年、五所川原市の沖、つまり十三湊の海底から人工の遺跡と思われるものが発見され、『みのもんた』のTV番組で放映された。いまのところ、遺跡そのものが人工のものとの確認がされていないからにわかに断定はできないが、もしかして『東日流外三郡誌』時代のものでは? という期待は湧く。しかしこれが直ちに東日流外三郡誌信憑説の証明となるかどうかは不明である。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/2/21 またも半月で、1日平均 アクセス数が73になりました。ありがとうございました。よろしくお願いします。
2011.02.21
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系 譜 の 本 庶 さて、また天明5(1785)年から時をさかのぼってみよう。 天正17(1589)年、三春移封初代秋田俊季の祖父・愛季(ちかすえ、別名、下国・しもつくに・安東太郎)は居城を檜山(秋田県能代市)から湊(秋田市土崎)へ移し、古代以来の律令官職である『秋田城介』を名乗った。これ以後、秋田氏を称するのであるが、この秋田氏は本姓が安東(または安藤)で、古代陸奥国俘囚の長であった安倍貞任の子孫という伝承をもち、本姓の安倍に加えて従来の安東姓が併用され、先祖に由来する伊駒姓も時に使用されることがあった。 天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥羽仕置によって秋田愛季の子の実季(さねすえ)(1585~1659)が、その領地・檜山郡および秋田郡のうちの5万2404石を安堵され、他に太閤倉入地として2万6245石の支配を命じられた。実季は、遠い若狭国(福井県)小浜の羽賀寺に多くのものを寄進したり、教えを請うたりしているが、この交流は、神武天皇により追われた長脛彦が大和の生駒からの津軽への逃避行、そしてその後も海路を通じての津軽の十三湊と日本海側の小浜との密接な交流を示唆するものがある。 元和元(1615)年、大坂夏の陣の後、実季は常陸の佐竹と入れ替えられて常陸宍戸(茨城県笠間市)に転封されたことなどから急速に公儀から距離をおくようになり、嫡子俊季との対立を深めるようになった。実季は宍戸城にこもり、翌年以降、公役の一切を俊季が勤めるようになった。しかし連年にわたる公役の負担に財政が逼迫し、さらには実季自身の華美な生活が問題視されて俊季との対立が一層深まり、親子の主導権争いに発展していった。この頃実季は、自分の法名である『高乾院』を名とした寺を建てている。 寛永7(1630)年、幕府は秋田氏の系図が神武天皇との戦いで討ち滅ぼされた安日王・長脛彦の末裔であることを誇りとしていた実季を召喚して宍戸没収を申し渡し、朝熊(三重県伊勢市)への蟄居を命じ、改めて子の俊季に宍戸を安堵した。エミシの末裔を称して、はばからない実季を、幕府は不快感をもって見ていたのであろうか。このことが、親子の間をさらに割くことになったのである。 寛永8(1631)年、俊季は父・実季の法名を持つ高乾院を湊福寺いう寺名に替えた。これを聞いた実季は、「湊福寺は我が家の分家の先祖安東鹿季の法名ではないか、本家の菩提寺である高乾院を、分家の人物の法名に変えるとは何事か」と激怒したという。後にこの寺は三春に移され、高乾院の名で秋田氏累代の菩提寺となった。福井県小浜市の羽賀寺には次のような文書が残されている 河内守俊季から今日にいたるまでの年寄りたちは、 その筆頭人にいたるまで、ことに家の系図などの事 は、何の役にも立たない事だと思っている奴らであ る、むかし、豊臣秀吉様の時代には、自分をはじめ、 そうした考えだったものだが、徳川家の時代になり、 家の系図のよい侍が、将軍様のおぼしめしがよいと 考えられている。 (後略) (三春町史) この実季の目的は、源平藤橘のどれにも属さない安倍安東の系を記録することであり、北奥の神々・荒覇吐神とつながる被征服氏族安日王・長脛彦と結び付け、常に異端を歩んだ祖先を記録することにあったと言われている。実季は、三春藩主となった息子の俊季が幕府の要求に屈して提出したとされる系図(安日王・長脛彦を祖先としていない)を、系図のすりかえであり『末代之瑕瑾(かきん=恥、名折れ)』と批判していた(羽賀寺文書)。この天皇家よりも古いと自負する秋田氏の家系は、ただひとつ、安日王・長脛彦を遠祖とする伝承に支えられていた。 晩年の実季は自ら考究して系譜の本庶を正し、孫の盛季(三春移封2代目)にその正当性を働きかけていたが慶安2(1649)年、子の俊季に先立たれた。万治元(1658)年の秋、実季は、ようやく完成した系図を盛季に与え、翌2年11月、84歳の生涯を閉じたのである。実季は死ぬまでの33年間、ひたすらその編纂に執念を燃やしたと言われるが、それがこの東日流外三郡誌であったのかも知れない。秋田氏は安日王の末裔であることを家門の誇りとした。そうした祖先崇敬の念は下国安東氏(秋田氏)系図にも一貫して流れている。一族の結束も強く、松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかったという。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.02.11
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こう答えて系図の改訂を拒否したことを、大正期 の歴史学者でエミシ研究学者でもあった喜田貞吉氏 が紹介している。 さらに喜田氏は、秋田氏の態度を次のように褒め称 えている。 「・・・神武天皇御東征以前より本土に豪族たりと の家伝を固執し長脛彦の兄・安日の後なることを公 称せらるるはわが史上まれに見るの尊敬すべき態度 なりとす」 (昭和3年8月15日大阪朝日新聞 HP能代古代通史) 喜田氏はこれらの研究のため、大正15年8月と9月に三春を訪れて『秋田子爵家宝文書』等を閲覧し、秋田氏の史料調査を行っている、 ここに出てくる出雲国造家とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りの交渉を受けたとされる国津神の天穂日命(アメノホヒノミコト)の末裔とされる家である。しかしこれに対し秋田家では「拒否したといふ事実はない」と抗議し、喜田氏も取り消すという騒ぎが起こっている。もっとも秋田家は宮内省の意向を拒否はしなかったとはいうものの、安日王・長脛彦の子孫であることを否定もしていない。ただしこのエミシの安日王・長脛彦に祖を求めた秋田氏の家系図は、室町期に成立した『曽我物語(安日が津軽に逃亡してエミシになったという物語)』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は薄いと考えられている。 秋田氏が自らをエミシの子孫と伝承してきたことは確かである。そしてそのことこそが、北奥において大和とは別の歴史観を醸成し、アテルイに至る抵抗につながってきたということではあるまいか。この秋田氏の主張は、宮内省の側にとって面白いものではなかった。しかしこの両者の間でどのような話し合いがあったかは定かではないものの、秋田氏は子爵となったのである。 さてここで、さらに明治の10年代(1877~1887)より時間をさかのぼってみる。時は天明5(1785)年である。 この年の2月22日昼九ッ半(午後1時)過ぎ、三春八幡町鍛冶・近平方より出火、おりからの強風で東へ延びた火は、同心町、裏町通り、御免町を焼き、北は丈六・御持筒組下通り、愛宕下、道場町、荒町へと次々に延焼、龍穏院門前で辛うじて食い止めたが丈六からの猛火は中町の商人街を焼き、大町へと広がっていった。三春移封七代目の藩主・秋田千季(ゆきすえ・後に倩季・よしすえ)は大町焼失の頃北町黒門辺りに出馬したが、城に類焼の危機が迫ると宝来寺(廃寺・三春町亀井)に移った。しかし火はさらに広がり、大手の長倉、御下屋敷を焼き、ついには御三階から本丸まで焼き尽くした。この未曾有の大火の中で、東日流外三郡誌もまた焼失してしまったという。しかしそのとき、三春にこの東日流外三郡誌に類したものが焼失したという記録がないことから、元々、秋田氏がそれを所有していたかどうかも不明とされている。秋田千季が家系の資料の収集と系図の作成を命じたとされるのは、この大火の後のことであるという。 千季は長男の東太郎が幼くして死去したため寛政元(1789)年、次男の謐季(やすすえ)に家を継がせたが謐季は病弱のため7年で隠居した。そのため享和3(1803)年に三男の孝季(のりすえ)が継いだ。千季の死去する8年前のことであった。 大火から4年後の寛政元年、隠居した千季は、十三湊(青森県五所川原市)に住んでいたという孝季に、秋田氏家系の関係資料の収集をするように命じたとされる。ただし三春歴史民俗資料館学芸員の藤井康氏も次のように言って、十三湊の孝季の存在自体を否定している。「秋田氏では藩主となるべき世子のみが『季』の字を名前の下につけることが許されており、例え藩主の次男であっても『季』の字は上にした。だから領外へ出た者に孝季という名を付ける筈がない。しかも藩主と同姓同名を名乗ることなど許される筈もない」 とは言え、家系の資料の収集と作成を命じられたとされる十三湊の孝季は、義弟にあたる和田長三郎、つまり東日流外三郡誌を見つけた和田元市の先祖にあたる人と二人で、ひたすら収集記録に努めたという。もちろん前出の三春移封九代目藩主秋田伊豫守孝季とは同名異人である。現在これらの資料は五所川原市飯詰の和田家に保存されているとされ、もう一つの『東日流内三郡誌』は未発表であるとされる。この東日流外三郡とは、ほぼ津軽半島全域であって、内三郡はそれ以南の津軽の内陸部にあたる場所であるという。いずれにせよ、三春に東日流外三郡誌の原本や写本の類は一切残されていない。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/1/4、お陰さまで、1日平均アクセス数が70になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。
2011.01.21
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華 族 令 ここで昭和22年から明治の10年代(1877~1887)に時間をさかのぼる。 戊辰戦争が終わり、明治新政府が成立して間もない明治4(1871)年、廃藩置県が実施された。藩が県となったことから旧藩主はその地位を失い、東京への移住が命じられた。各県には旧藩主に代わって新たに新政府から県令が任命された。当初の県は藩をそのまま置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県であった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも弱かったので11月には3府72県に統合された。そして明治14(1881)年、現在の形に落ち着いたのである。中央集権国家確立の下段取りとして廃藩置県を断行した新政府は、旧藩主から旧藩の人的、軍事的、経済的分断を図る必要があった。各地の旧守派が旧藩主を擁立して反抗することなどで、佐賀の乱や西南戦争の二の舞を恐れたのである。その懐柔策として出てきたのが華族令であった。明治17年7月、公・候・伯・子・男と段階こそあったが、『皇室の藩屏たる華族』という箔を与え、生活を保障することで今後旧藩主を擁して起こるかも知れない新政府に対する感情の悪化と反乱を押さえ込もうとしたのである。 この位階の授与のため具体的な準備にとりかかった宮内省は、旧藩主たちにそれぞれの系図の提出を求めた。旧藩主たちはその先祖を天皇家や天皇家から分かれた源平藤橘などの諸姓に繋ぎ、権威付けをして提出した。通常、系図は中央の名族に関係づけて飾るのが一般的である。ところがこのとき、三春移封11代目の藩主・秋田映季(あきすえ)の提出した系図が宮内省を困らせてしまったのである。何故なら映季は、自分の家の先祖の出自を先住民エミシの後裔をもって報告したからである。その系図によると、秋田氏の先祖は安東氏とそれに続く安倍氏であるが、その遠祖は安日王(あっぴおう)、長脛彦(ながすねひこ)となっていたからである。ただし安日は姓であるから、安日王長脛彦が正しいとの説もある。 日本神話によると、長脛彦は日向の高千穂宮(たかちほのみや)を出発して大阪湾から奈良盆地に攻め入ろうとした神武天皇の軍を破ったが、のちに八咫烏(やたのからす)の案内で、再び奈良盆地へ侵攻した神武天皇に敗れている。そもそもエミシとは中央政権側から見たときに、その外側にいる人々への呼称である。それにもかかわらず秋田氏は、この安日王・長脛彦を頂点にして、安東、安倍、藤原のように各時代ごとに中央政権に抵抗したエミシの中心人物を書き連ねたのである。これはまことに異例というほかない。そこにあるのは強烈なまでの自己主張と自意識である このような系図を提出された宮内省の側の見方からすれば、神話の中ではあるものの、安日王・長脛彦は日本史上初めての皇室への抵抗者であり、何とも不都合なことであった。「いやしくも皇族の藩屏たる華族の先祖が、安日王や長脛彦の子孫では困る」 そう考えてこの秋田氏の系図の取り扱いに苦慮した宮内省が調べてみると、その昔、三春移封初代の秋田俊季(1598~1649)が幕府に提出していた系図に、秋田氏の遠祖が第八代の孝元天皇にはじまりその後は四道将軍の1人の大毘古命(オオヒコノミコト)に続いているということが記載されていたことが分かった。四道将軍とは、第10代・崇神天皇の時代、全国統一のため4人の大将軍がそれぞれ北陸道、東海道、山陽道、山陰道の四方面へ派遣されたという神話である。(2010/6/20・阿武隈川 日本神話2 参照)これであれば無難である。宮内省はこの系図への差し替えを求めた。 しかしこの申し出を、秋田氏はなかなか受け入れなかったという。 「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家 ということをもって家門の誇りといたしております。 天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのは、 はばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/1/4、お陰さまで、1日平均アクセス数が70になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。
2011.01.11
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標葉石介改め砂氏より「陸奥の 芳賀の芝原 春来れば 吹く風いとど 芳る山里」の歌について情報をいただきました。この歌そのものは見つかりませんでしたが、これに関しての、国語と国文学(1958年10月号)『橘為仲とその集・古代末期の歌人像』など貴重な情報が寄せられたのです。氏には心より感謝しながら、ご意見を頂いた皆様にも合わせてお礼申し上げます。ありがとうございました。 再び、平成五年 別冊歴史読本 「古史古伝」論争 パソコン通信ネットの『東日流外三郡誌』論争 六十頁より転載してみる。 今年(平成五年)二月に「東日流誌の欺瞞」と題 するセンセーショナルな発言があり、議論が再燃し ました。そこには偽書の証拠として、代表的な五点 が上げられています。・ 昭和元年に発表され、その後に名付けられた払田 柵が、東日流誌中の「奥州古城後図」に載ってい る。・ 昭和二十四年出土の「日本中央碑」が寛政二年の 「八十八景」(『東日流六郡誌絵巻』)にそっくり 同じ形で描かれている。・ 昭和五十九年に出土した出雲・荒神谷(こうじん だに)の銅剣を埋めた記録が寛永二十年の「荒覇 吐(アラハバキ)神一統史」(『東日流六郡誌大 要』)に記されている。・ 東日流誌中の「古代ギリシア祭文(寛政六年)は、 昭和二十八年以後の岩波文庫からの盗作である、 とある方が論証されている。・ 昭和十年に「竹内文献」関係者が突然青森県戸来 村を訪れて言い出した「キリストの墓」が「奥州 風土記」の「戸来上下大石由来」に「加之戸来邑 にては、キリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す」 として記載されている。 つまり東日流誌には昭和にならなければ書き記し 得ない記事が散見される、昭和のである、という 論旨である。また東日流誌に書いてあるとおり縄 文水田が発見されたではないか、との擁護派の言 葉にもこう反論しています。・ 田舎館(いなかだて)の垂柳(たれやなぎ)遺跡 から米と水田が発見されたのは昭和三十三年、一 方、最初の東日流誌が世に出たのは昭和五十年で、 「発見された通りに書いてある」だけだ。 これらに対し擁護派も、いくつかの反論や偽書で ない証拠を寄せていますが、それを大幅に上回る 偽書の証拠が次々と出され不利な状況です。つま り東日流誌には昭和にならなければ書き記し得な い記事が散見される、昭和の作である、という論 旨です。 この東日流外三郡誌が、昭和二十二年八月に発見されたということは前に述べた。このことは、昭和二十一年一月一日、昭和天皇が「新日本建設に関する詔書(年頭の詔書)」の中で自らの神格性を否定した宣言、つまり、それまで神格化されていた天皇のくびきから解放された『天皇の人間宣言』後の昭和二十二年に見つけられたということに大きな意味があるように思われる。それまで『現人神(あらひとがみ)』として、そして『神聖にして侵すべからず』として絶対視された天皇の祖の神武天皇と戦って敗れた長脛彦(ながすねひこ)が、十三湊に移り住んだという内容が含まれていたからである。 この天皇の人間宣言から十七日後、名古屋で雑貨商を営んでいた熊沢寛道は、南朝皇裔論をひっさげて熊沢天皇を自称、これを第一号として名乗りを上げた自称天皇たちは、南朝の長慶天皇の直系を自称した福島県双葉郡葛尾村の「葛尾天皇」をはじめ、愛知県の「外村天皇」など十数人に及んだ。この熊沢天皇は、南北朝の戦いに関係のあった田村市都路町や双葉郡浪江町を、わざわざ訪れている。 (都路村史) このように多数の自称天皇が出現したことは、神に等しい天皇の権威が敗戦によって揺らいだことを証明するものでもあった。「昭和十五、六年頃和田家は建て替えられたにも関わらずそのときに見つかっておらず、昭和二十二年になって天井から落ちてきたということはおかしい」との異議が出されたが、確かにこれでは発見時期のつじつまが合わず、贋作とされても仕方があるまい。考えられることは、これらの文書が旧家屋を取り壊した際に見つかったものの天皇に関する事項が含まれていたことから公表できず、天皇の地位などについて自由に意見の言えるようになった昭和二十二年八月に発見したことにしたのではないか、ということである。 そう考えてくると、昭和十五、六年当時、これらの古文書を元市や喜八郎が読みこなし、理解し、発表を差し控えようとした意志が働いたということになる。また逆に、コピー機などもない時代、しかも毛筆でこれら全三六八巻という膨大な文書を丸写しにするだけでも大変な労力なのに、この他にも東日流内三郡誌が未公開であるという。だからと言って、例え資料をあさり創作を加えたとしても、これらの多くの出来事を神話上のものとして創作するという力量が、和田元市個人にあったであろうか。 それともう一つ、これほど世間の注目を浴びながら、調査を依頼したとされる肝心の三春藩に東日流外三郡誌の片鱗も残されていないということはどういうことなのであろうか いずれにしても、疑惑の多い文書である。12/14、お陰さまで、1日平均アクセス数 が69になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.12.21
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三 春 藩 と 東 日 流 外 三 郡 誌 発 見 の 端 緒 青森県市浦村(しうらそん・今の五所川原市飯詰)の和田元市宅座敷の天井板を突き破って何か重い物が落ちてきたのは、昭和二十二(一九四七)年八月の深夜のことであった。何の音かと家中みんなが驚いて飛び起き、煤の塵が立ち巻く中で目にしたものは、古い木箱と散らばっていた多くの古文書であった。剥がれた天井を見上げると、梁の上に結わえ付けられたいくつかの古い箱が見えた。翌朝、危険を感じた元市は家族に手伝わせてそれらを下ろし、とりあえず土蔵に運び込んだ。その様子を見ながら元市の母が言ったという。「先祖から『中を見ると目が潰れる』と伝えられてきたのは、これかも知れない。決して開けちゃなんねいぞ!」 翌・昭和二十三年、太平洋戦争から息子の喜八郎が復員してきた、元市と喜八郎は祖母に内緒で土蔵に入り、あの古い箱を開けてみた。喜八郎が「生還を期さず出征した戦争で死んだ命と思えば、何が起きても怖くはない」と言い出したからであった。門外不出と言われた古い箱の中身は、毛筆で書かれた膨大な古文書であった。そこで当時、五所川原の弥生町に住んでおり、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生にその一冊を持参して見てもらった。先生に、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように、できれば三日ほど貸してくれないか」と言われ、そのままにしていた。それが市浦村史の中に編纂されることになったのである。 当初村でもこの古文書の対処に手間取った。『東日流外三郡誌』のほか、『金光上人関係資料』、『天真名井家関係文書』『諸翁聞取帳』等の合計三六八巻、また、他の箱からは東日流外三郡誌編纂のための参考として収集されたと思われる世界史、進化論、宇宙天文学、宗教、博物学等に関する版木本や刊本数千冊が現れたというのである。 ところでこの東日流の名称であるが、一見して『つがる』と読める方はそう多くはないのではあるまいか。何故そういう文字で付けられたかは不明であるが、いずれにしても、書かれている内容の地域は東日流、つまり古代の津軽なのである。 昭和三十二年、この古文書の提出を受けた村では、市浦村に関係のある部分だけを抜き出して、『市浦村村史 資料編 みちのくのあけぼの~東日流外三郡誌』(通称 市浦版)として出版した。れっきとした自治体が歴史資料として世に問うたということで、東日流外三郡誌は信頼性の高い資料とみなされ、NHKをはじめとするテレビ局や新聞雑誌などのマスメディア、さらに学会の一部からも注目された。その後も昭和五十八年から昭和六十一年にかけて北方新社から全七巻、昭和六十四年から平成二年には八幡書店から全六巻の本として刊行された。これが『東日流外三郡誌』というものが公にされてきたいきさつである。 ところがこの出版後に起きたのが真贋論争であった。市浦村も元市や喜八郎としても『資料編』としてではあっても、公刊された以上、それに対する弁明をせざるを得ない立場に追い込まれた。この問題に中立的立場にあるべき市浦村はともかく、発見した元市としては、当然ながら本物としての主張をはじめることとなった。その主張の中に、元市の先祖の和田長三郎が、三春藩主の命を受けた藩主の弟の秋田孝季に調査協力を依頼され、二人で東日流外三郡誌を書き上げたというものがあった。 『平成五年 別冊歴史読本 「古史古伝」論争 青森県における『東日流外三郡誌』問題 八十一頁』から抜粋してみる。 津軽半島西端に位置する小さな村の一資料から独り立ちを して全国的な論争にまで発展した東日流外三郡誌、現在の状 況をどう受け止めているのか、昭和四十年代後半に「市浦村 史資料編」の編纂に携った関係者たちが話した。 「資料編は和田喜八郎さんが持っていた東日流外三郡史全三 六八巻のうち、おかしいなというのを除いた約一二〇巻で作 った。当初から、これはあくまでも資料と言っており、こう いうものがありますよと世の中に紹介するのが目的だった。 真偽はまた別の話だった。関係者の間では、初めから写本に 対して荒唐無稽と首をかしげる人と、『これは立派な内容だ』 と受け入れる人の二派があった。偽書、正書という議論は出 版当時からでていた、ということだ。私は真偽のほどは分か らない」 「東日流外三郡誌を最初に世の中に出したということで、す ぐ市浦村史が引き合に出されるが、正直困っている。(論争が 大きくなるにつれ)村民の間からは古資料がこうなら、村史 も信用できないという声も出ている。村は安東文化を目玉に 村おこしを進めている最中。それに影響が出なければいい が・・・」 関係者の言葉どおり、論争は小さな村に静かな波紋を広げ ている。そして今年(平成五年)三月末から四月上旬にかけ て急転回をみせた。 「東日流外三郡誌の写しの記述や筆跡などからみて、偽書と しか考えられない。昭和二十年代以降に書かれたものに間違 いない」 ここに出てくる安東文化とは、後述する三春秋田氏の先祖とされている安東氏族の文化のことである。また『東日流外三郡誌』に関して、『HP新古代学の扉 日本国の原風景』に、次のようなことが記載されているのを見つけた。 平成二年に(和田元市宅で見つかった)最後の一箱を開い てみると、安倍頼良着用と伝わる鎧と共に、『丑寅日本記全』、 『丑寅日本雑記全』、『丑寅日本史総解』、『奥州風土記』、 『陸奥史風土記』、『丑寅風土記全』、『渡島古史抄』、『東日 流古史抄』、『陸羽古史抄全』、『陸奥古史抄全』、『陸奥古事 抄』、『東日流古事録』、『語部古事録』、『陸羽古史語部録 全』、『日下史大要語部録』、『陸奥羽古代史諸証』、『日之 本史探証』、『東北陸羽史談』、『陸奥史審抄』、『日下史大 要絵巻』、『陸羽古史絵巻』、『日下北鑑全』等約一八〇〇 冊(巻)の資料が現れた。 以上が「和田家資料」発見の経緯の概略である。 なお、これら以外に、和田家の屋根裏奥に隠し部屋が設け られていて、未開封の長櫃等が存在し、その中にいわゆる 「寛政原本」(原副本)等が秘蔵されているともされている。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.11.20
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