三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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旗本とは、戦場で大将の旗のある場所から転じて、大将の周囲を固める役目を果たす直属の武士を称し、老中の支配下にありました。徳川幕府は、これらの武士で知行高一万石以下の者のうち御目見得を許され、しかも騎乗を許された者を旗本、御目見得を許されずしかも騎乗も許されなかった者を御家人と称しました。旗本が領有する領地、およびその支配機構は知行所と呼ばれ、旗本が領有する領地には管理のための陣屋が置かれました。これら旗本・御家人の数は、宝永年間(1704年〜1710年)には総数22・569家でしたから、旗本八万騎という表現は、いささかの誇張と思われます。これら五千石以上の旗本で知行地を与えられていたのは2354家で、五千石未満は2247家でした。五千石以上の旗本は107家で、約4、5%でした。 1633年の寛永軍役(ぐんやく)令によりますと、千石の旗本は持ち槍二本、弓一張、鉄砲一挺とあるだけで細かな記載はないのですが、供の侍5〜6名程度、主人の用をたす者と小荷駄運びが必要とされました。ちなみに、1648年頃の慶安軍役令では、五千石クラスの旗本は総勢で102名あり、一隊をなす程度になっていました。 いまの茨城県笠間市宍戸にあった、宍戸五万石の秋田俊季が、五万五千石をもって三春へ加増の上転封となったのは、正保二年(1645年)のことでした。俊季が大坂冬の陣、および夏の陣に父の秋田実季とともに徳川勢として出陣したこと、実季の妻、つまり俊季の母が、二代将軍・徳川秀忠の正室・崇源院の従姉妹にあたることも幸いしての加増転封であったといわれます。年度は不明ですが、俊季は弟の熊之氶季久に五千石を分知しました。三春藩は五万石となり、季久は五千石の旗本になったのです。 秋田季久の収入となる五千石領は、大倉村、新舘村、荒和田村、実沢村、石森村、粠田(すくもだ)村、仁井田村となっており、その代官所は、三春の御免町にありました。今は代官所そのものの建物は残されていませんが、かろうじて付属の土蔵が一つ、残されています、旗本は江戸常在がきまりでしたから、季久にも江戸に屋敷が与えられ、生涯江戸で暮らしていたのです。 秋田季久より七代目となる秋田季穀(すえつぐ)は文化四年(1807年)に駿府城加番となりました。加番とは、城番を加勢して城の警備に任じたもので、大坂城加番と駿府城加番があり、ともに老中の支配に属していました。天保二年(1831年)、季穀は浦賀奉行に任じられています。もっとも百姓からは年貢を取り立てるだけで、領地内のインフラ整備などということを心配しなくともよかったと言ってもいいこの時代、それでもこれらの村からの収入でこれらの業務をこなし、さらに江戸において100名かそれ以上の家臣を、それも武器や軍馬とともに維持するというのは、大変なことであったと思われます。 ところで江戸時代は、身分制度にやかましいというイメージがあるのですが、実はカネ次第で百姓や商人も武士になることができました。御家人株が公然と売買されていたのです。しかし旗本たちには、それぞれの領地からの収入の他、幕府からの支給金が合計で四百万石が与えられたとされますから、旗本総数に与えられる平均値は、それぞれ約170石に過ぎないことになります。戊辰戦争の後、従来の臣下を扶持することができなくなった徳川家は人員整理を敢行せざるを得なり、支給金を七十万石に減らしたといわれますから、一旗本当たりの平均値は、たったの31石になります。なお一石は一年間に一人が食べる米の量とされていましたから、家族も含めて31人しか生活できないことになります。その上で徳川家は旗本に対し、以下のようなお達しを出しました。 1:新政府の職員となるか、 2:農商に帰するか、 このように旗本は、幕末の時点で失業状態となりました 受ける俸禄もやがては有名無実となり 困窮の極みにあった旗本に明治政府から与えられた債権を、売却する者もいたようです。つまり藩主と違って旗本は、自己に生存のための責任を押し付けられた上で、あっさりと解雇されてしまったのです。ところが間もなく、これらの経済的諸問題が、新たに発足した明治政府にすべてが移管されたことで、徳川家としては自由裁量を手に入れたことになります。その明治政府は、一定年限分の収入を金禄公債で保障するという秩禄処分を行いました。金禄公債とは、徳川幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付された退職金のようなものでした。それを元手に商売をはじめたが失敗する者も少なくありませんでした。いわゆる武士の商法です。そして北海道へ行って屯田兵になる者などがありました。その一方で、明治政府の主力となった旧薩摩・長州の藩士あるいは旧幕府の旗本・御家人の一部を政府の役人とし、中には警察官吏として任用された者も多くいたのです。戊辰戦争で立役者となった薩長土肥以外の藩の旗本に対する馘首などの処遇は、トカゲの尻尾切りのようにみえる現代の世相そのもののような気がするのですが、どうでしょうか。 江戸末期に幕府側として活躍した旗本の勝海舟を出した勝家は、たった四十石取りの旗本で、父親の小吉は、無頼者と交わって生活していたと言われます。ところで、旗本には外国人もいました。徳川家康の外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家の三浦按針、つまりウィリアム・アダムスです。江戸でのアダムスは帰国を願い出たのですが、叶うことはなく、代わりに家康は米や俸給を与え上で旗本として慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりしていました。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われています。そしてその子の、二代目の三浦按針となったジョセフ・アダムズもまた旗本に任じられていました。なお按針とは、水先案内人という意味です。
2023.11.20
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慶應四年七月十七日、江戸は東京と名を変えました。そして会津落城の前々日の九月二十日、天皇は京都を出発、十月十三日東京へ着き、徳川家の居城であった江戸城に入りました。供奉する者。3000人と言われます。なお慶応四年は、九月八日より明治に改元しています。 仙台藩が新政府軍に降伏したのは、明治と改元した直後の九月十五日でしたが、翌十六日の午後十一時頃、芝にあった仙台藩の空き屋敷が焼失しました。この時点では、未だ会津は落城しておりません。この火事の失火原因も、消火活動などの詳細も、一切が伝えられておりません。 幕府が消滅して大名が引き払った後のすべての旧江戸屋敷の跡地は、国や東京府の管理に移されました。しかし国や東京府は、その予算の資金獲得のため、これらの広い土地を農地などにでも転用させようとして、民間に払い下げることにしたのですが、その引き渡しの条件として、四ヶ月以内に作付けをしない場合は無効としたのです。これらの地価は、麹町、虎ノ門、桜田辺りは坪25銭、飯田町や番町辺りは20銭、市ヶ谷、四谷、青山の辺りは10銭で売りに出されたのですが買い手がつかず、建っていた屋敷を「タダでやる」と言っても売れなかったというのです。それでも風呂屋が燃料の薪として、それこそタダ同然で若干の建物を引き取っていったというのです。地方でも、各藩が所有していた城や藩の所有地が一般に売りに出されました。当時の福島県の地価、これは現在のように需要と供給から決められたものではなく、新政府が徴税をするために決めた公定の価格なのですが、これによりますと、高い順に三春が坪2円、福島が1円、須賀川が86銭、郡山が66銭、本宮が60銭、二本松が57銭でした。この地価に伴う高額の税金に根をあげた三春では地価の減額運動が起こり、1円40銭、1円20銭と二度にわたって地価が引き下げられましたが、それでも福島の町よりも高かったのです。それにしてもこれらの地価を東京と比較すると、東京の安値が際立ちます。 明治になって間もなく、すべての旧江戸屋敷跡は、明治政府の所有地とされました。そして明治二年十二月二十七日の深夜、元数寄屋町、いまの中央区銀座五丁目で起こった火災により、『旧脇坂藩、旧仙台藩の元屋敷あたりまで数か所焼失する』と当時の新聞に掲載されました。前年の九月に燃えたのは旧仙台藩の屋敷でしたが、まだ建物が残っていたのでしょうか。それとも別の建物だったのでしょうか。消火の様子やどのような被害があったのかは、判然としていません。 明治五年三月二十六日、今の皇居前広場のうちにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、いまの丸の内、有楽町、八重洲にあった多くの旧江戸屋敷、それに日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となってしまいました。江戸屋敷のすべてが引き払われたと同時に、大名火消しがいなくなったことも、大火となった理由の一つであったのかも知れません。ともあれ多くの家が燃えてしまったために、江戸城周辺は寂しい場所となってしまったのです。今の文京区小石川三丁目にあった伝通院の近所では、夜になると狐火が出たというのです。狸や狐も出るようになったのですが、それはまだいい方で、今の東京駅や丸の内では、「幽霊も恐がって出ない」と言われるほどの寂れようであったと伝えられています。七月中旬から九月上旬にかけて30夜以上にわたって踊られることで有名な、郡上踊りの(岐阜県の)郡上八幡藩の藩主は青山氏でしたが、この屋敷跡も買い手がなく、ついに墓地にされてしまいました。ここは青山氏の屋敷跡でしたから、青山墓地という名になったのです。このように土地の処置に困った明治政府は、後の三菱の総帥・岩崎弥太郎にむりやり頼んで、丸の内地区の10万坪ほどの広大な土地を買ってもらいました。それを聞いた知人が驚いて、「なんで、あんな不便な所を買ったのか?」と聞いたところ、「仕方がない。竹でも植えて虎でも飼うさ」とうそぶいたと言われます。日本橋地区の町家にも遠く、皇居までの間となる丸の内界隈は、このように淋しい場所であったのです。後に三菱地所はここに煉瓦のビル街を建て、一丁ロンドンと言われる貸事務所を作って、日本一の大地主になったのです。 当時はそのような状況でしたから、国や軍、東京府や鉄道などの多くの土地を使う施設は、江戸屋敷跡地の有効活用の方法の一つでした。例えば明治七年、市ヶ谷には参謀本部と陸軍士官学校が作られ、そこから現在の日比谷公園や国会議事堂をはじめ政府の多くの官庁のある広大な土地は、陸軍の練兵場となっていました。現在、市ヶ谷には、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地が置かれています。 現在、これらの江戸屋敷の跡が、都内各所に残されています。ちょっとその名を列挙してみます。 六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。元禄時代に大老格として幕政を主導した柳澤吉保自らの設計と言われます。その他にも有名なものとして、 後楽園は、東京ドームや後楽園遊園地を含む水戸藩の上屋敷でした。 東京大学本郷キャンパスは、加賀藩上屋敷でした。その他にも、 信州高遠藩屋敷跡の新宿御苑。 徳川綱吉家の小石川植物園。 和歌山藩の赤坂御苑。 甲府徳川家の旧浜離宮恩賜公園、などが有名な屋敷跡です。そして地名として残されたものがあります。まず銀座です。銀座といえば東京の銀座が知られていますが、これは当時の主な流通貨幣のうちの銀貨の鋳造が行われたこと、この場所以外での貨幣鋳造が厳しく取り締まられたこと、などにより『銀の屋敷・銀座』の名が付けられたと考えられています。これは徳川家康により、駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、慶長十七年(1612年)に江戸に移されて以来、地名として定着したものです。そして金座です。金座とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。金座のあった所は、江戸通町(とおりちょう)、いまの中央区日本橋本石町の日本銀行本店のある所です。江戸時代に金吹所(かなふきしょ)、つまり製造工場、そして金局(きんきょく)、つまり事務所のあった場所であり、世襲の御金改役である後藤庄三郎光次(みつつぐ)の役宅でした。しかし、後藤庄三郎は金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師などと呼ばれる職人たちが行っていました。当初この場所の周辺は、両替町と呼ばれていましたが、金座のある場所は、本両替町と呼ばれていました。 約200年間続いた仙台藩の上屋敷跡地は、文明開化の象徴ともいえる新橋ステーションの建設地となりました。この新橋ステーションおよび線路敷の中には、会津藩中屋敷の跡地も含まれていました。三月二十五日には測量が始まり、四月十二日には地ならし工事が始まりました。ところが、東京側の停車場建設には兵部省が反対したのですが、太政官の決裁によって汐留の地とされ、横浜側の停留所は野毛浦海岸の埋立地とされました。ところで今で言う『駅』は、正式には『停車場』とされたのですが、「ステーション」、または『すてんしょ』と呼ばれていました。駅という名が一般化したのは、電車が出現してからでした。鉄道開業当時の停留所は、新橋、品川、川崎、鶴見、神奈川、横浜の六ヶ所であり、この線路敷きには、仙台、会津藩の屋敷跡の他にも、赤穂、新見(岡山県)小田原、二本松、和歌山、鯖江(福井県)など、多くの藩の江戸屋敷の跡地が利用されています。大正三年になって、旅客ターミナル駅の機能が新設された東京駅に移ったことで、電車線の駅であった烏森駅が新橋駅と改称しています。そしてその後になっても、江戸屋敷の跡地の多くが、山手線、中央線などの線路敷や駅舎などの建設に利用されたのです。 現在の港区西新橋は、江戸時代、芝田村町と称されていました。これは一関藩の田村家の屋敷があったことに因み、田村小路と呼ばれていた屋敷地に田村町が成立したのです。明治十一年には東京府芝区となり、明治二十二年の東京市成立に伴い、東京市芝区となりました。しかし、昭和七年にこの地域の町名が変更され、昭和四十年と四十七年には住居表示実施による町名変更があって、現在使われている西新橋が成立したのです。実は、ここには赤穂藩の浅野内匠頭の切腹の場となった、田村家の上屋敷があったのです。私はこの話を、我が家の婿殿に話をしたのです。当時東京で勤めていた婿殿は、そこに建立されていた『田村屋敷跡』の碑の写真を撮り、そこで営業していた『御菓子司・新正堂』の和菓子を土産に帰って来たのです。そして開口一番、「これ『切腹最中』と言うのですが、どんなものと思います?」と聞いてきたのです。すかさず私は、『切腹最中』と言う位だから、アンコがはみ出るくらい詰まっているのだろう」と言うと、「ピンポ〜ん。それはそうなんですが、実はですね、買おうと思ったら客が並んでいるんですよ。変に思って聞いてみました」「ふ〜ん」「そうしたら、『許してもらえそうもない、どうしようというとき、最後の手段としてこの切腹最中を持参する』というのです」「それは面白いアイデアだな」「並んでいる客に、あなたも何か謝らなければならないことがあったのですか? と聞いたら笑っていましたが、多い日は、なんと7000個以上も売れるそうです」 そう言って婿殿は包みを開けました。そこには思った通り、大きな口を開けた最中が入っていました。大笑いになりましたが、美味しかったです。どうぞ皆さんも折りがありましたら、ご賞味あれ。それにしても、商魂逞しい話でした。
2023.11.10
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元禄五年(1692年)、相馬藩は、幕府より、「各江戸屋敷で畠を荒らす猪を追い払うので、もし屋敷内に逃げ込んだら追い出すように」との主旨が伝達されました。しかしこのような動物退治は、日を決めて一斉にやらないと効果がありません。どこかの屋敷が一軒でやっても別の屋敷に逃げ込むし、別の屋敷でやると、今度は元の屋敷に逃げ込んでしまうからです。この時に、幕府が耕作を妨げる動物として挙げたのは、猪の他に、鹿と狼がありました。この江戸屋敷の広い庭の中には、森や畑などもありましたから、狸や狐、それに猪や人間に捨てられた野犬も隠れ住んでいたようです。ですから、これらの動物が広い屋敷の敷地内に巣を作ったとしても、不思議ではなかったのです。本郷にあった加賀屋敷をはじめ、いくつかの屋敷に、狐や化け猫の怪談などが残されているのも、このためかも知れません。しかしこんな牧歌的作業も、中止せざるを得なくなります。いわゆる、『生類憐みの令』が公布されたのです。 この『生類憐みの令』は、かつては跡継ぎがないことを憂いた五代将軍・徳川綱吉が、母の桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めにより発布したという説が知られています。綱吉には娘はいたものの、後継ぎとなる息子がいなかったのです。当時、儒学を重んじていた綱吉は、「親を大事にせよ」という教えを信奉していたため、母親が薦めた隆光僧正の言葉を鵜呑みにしてしまったというのです。つまり、「あなたは前世で動物を殺してしまったので、子どもが生まれないのだ。あなたは戌年生まれであるから、犬を大事にしなさい」と言われたというのです。これを真に受けた綱吉によって、「生類憐みの令」が出されたというのです。綱吉が、犬公方というあだ名で呼ばれたのは、特に犬を過度に大切にさせたことに対する世人の批判によるものと言われます。しかしこれは、「生類を憐れむ」ことを主旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称であって、一本の成文法ではなく、すべての生きものを憐れむことを趣旨とした諸法令の総体なのです。 一連の『生類憐みの令』政策がいつ始まったかについては議論があります。それに少数ではありますが、四代将軍・徳川家綱時代から生類憐れみ政策が行われていたという見解も存在するのです。初代の徳川家康は鷹狩を好んだのですが、鷹狩もこの政策により禁止され、また鷹狩で獲った獲物などの贈答なども禁じられました。地方においても『生類憐みの令』の政策の影響は及びました。馬の保護に関する法令については、老中が各藩に対して通達を行いましたが、運用はそれほど厳重ではなかった地域もあると言われます。また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、『生類憐みの令』はなかなか徹底しなかったとみられています。長崎町年寄が、『長崎では『生類憐みの令』が徹底していないので、今後は下々の者に至るまで遵守せよ』、という内容の通達を出していますが、その通達の中でも、長崎にいる中国人とオランダ人については例外とし、豚や鶏などを食べることを認めていました。なお江戸城では、貞享二年(1685年)から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じていたのですが、京に住む公卿に対する料理として使うことは認めています。これは『生類憐みの令』の政策より、儀礼を重視したためとみられています。この『生類憐みの令』では、特に犬を保護したとされることが多く、綱吉が『犬公方』と呼ばれる一因ともなりました。犬については、『御犬囲』が作られ、中でも中野の御犬囲は非常に大きな規模で、敷地内は五つの御囲があり、『壱之御囲』が34、538坪、『弐之御囲』、『参之御囲』、『四之御囲』がそれぞれ五万坪、『五之御囲』が57、178坪と広大なものを作って収容しました。野犬か飼犬かを問わず、『御犬囲』に収容したことで幕府が管理する犬となり、将軍の権威を帯びた『御犬』となったのです。 三春藩分家の五千石旗本である秋田淡路守季久は、いまの江東区平野に屋敷を持っていました。ここの家老が、屋敷内で自分の子どもと遊んでいて、飛んできた燕を間違えて、弓矢で打ち落としてしまったのです。この弓矢で射られた燕が自分の屋敷内に落ちれば、悲劇は避けられたのかも知れないのですが、この射られた燕の落ちた所は運悪く、隣にあった幕府の御用人の喜多見若狭守の屋敷であったのです。驚いた若狭守は、幕府に事の次第を報告したのです。もっとも若狭守としても報告を怠り、燕の死骸が自分の屋敷内で見つかれば、自分の責任が問われるのです。そのため、秋田淡路守としては、どうにも手の打ちようがありませんでした。結局この家老は見せしめとして、五歳の息子もろとも浅草で磔の刑に処せられ、これを見ていた家来は、八丈島へ流罪となってしまったのです。この冷厳な『生類憐みの令』の施行は、江戸の町を震撼させました。 この事件の経過を目にした秋田淡路守季久は恐怖に憑かれたようになり、家中の子供たちに、例え屋敷内であってもくれぐれも殺傷をしないようにと諭し、親たちに対しても厳しく申し渡したのです。各大名たちも、家臣の親たちに対して、この旨を厳しく申し渡さざるを得なかったのです。もはや「まちがえてのことだから」とか、「子どもがやったことだから」と言い訳をしても、幕府は決して容赦はしてくれないことを知り、それぞれの屋敷内での周知徹底を計ったのです。 元禄十二年(1699年)、守山藩の下屋敷に幕府御徒目付の三宅権七が訪れ、「もし首輪が付いていながら飼い主のいない犬が通りかかったら、縄を解いて飼育し飼い主を捜し、結果をお目付まで申し上げるように」と申し渡し、その旨の承諾書を差し出すようにと言って帰って行きました。江戸家老であった有馬三太夫は早速承諾書を認(したた)め、辻番に持たせて権七方へ届けました。何の落ち度もない筈だったのですが、翌日、三宅権七から、公儀へ差し上げる承諾書を粗末な紙に認め、しかも辻番のような軽輩に持参させたのが不調法だというイチャモンがついたのです。守山藩は戦慄しました。当時、藩主は大塚の上屋敷にいて、三太夫の不調法な振る舞いについて少しも承知していなかったことと、三太夫には必ず叱り付けることを、使者をもって権七に伝え、合わせて陳謝の口上を申し延べさせてようやく落着したというのです。 ところで綱吉本人は、生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられています。 生き物を直接殺したということはなかったのでしょうか。実は綱吉は、自分の頭の上に糞を落としたカラスに激怒し、それを捕えるよう命じたのです。しかし自分が『生類憐れみの令』を出した手前、カラスを死罪にすることができず、捕らえたカラスを八丈島への遠島処分にしたのです。八丈島に運ばれたカラスは籠から出されたのですが、なんとそのカラスは、江戸へ向けて飛び去ってしまったというのです。本当にマヌケな話ですが、これには、『これは史実です』との注が加えられてい
2023.11.01
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寛永十八年(1641年)正月二十九日夜の十二時頃,日本橋桶町(現・中央区八重洲二丁目辺)から出火し,三十一日の夜になって鎮火しました。桶町火事と言われたこの火事で、焼失した町は97町、家屋1924戸、そのうち武家屋敷が121、同心屋敷が56で、数百人の焼死者を出しました。そこで幕府は、6万石以下の大名から火消し役を選んで『大名火消し』を編成する一方で、大名たちは自分たちの屋敷を守ろうとして、自衛組織を立ち上げました。これは『各自火消し』と言われました。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言われていましたが、考えてみれば、当時の生活の多くが火に頼っていたのです。明かり、炊事、暖房の全てが火であり、その上、家屋が木と紙で出来ていた江戸の町並みであれば、どこの家が火元になっても、おかしくはなかったのです。 ところで「火事だ!」ともなれば 当の屋敷内からの出火であれ、隣接の屋敷からの失火であれ、火消し衆が自由に屋敷内に立ち入る必要があります。ところが、当の屋敷の門番は他の介入を拒んで、あくまでも治外法権という自律性を守ろうとしたのです。それでも、ボヤ程度の火事であれば、『各自火消し』の活動によって屋敷内で消し止め、外部を騒がせることもなく終るのですが、問題は外部に延焼するような火事や、外部から類焼の恐れがある場合です。当然、自分の屋敷内だけでは収まりませんから、『大名火消し』が駆けつけて来ます。そこで『大名火消し』が屋敷内の火事の現場に入ろうとすると、これを門の中へ入れまいとする屋敷の番人が棒を持ち、槍襖を作って構えるという緊迫した状況になることもあり、火消し側と屋敷側との間で、まかり間違えれば戦闘状態にまで発展することがあったのです。例えば、元禄三年(1690年)三月のある武家屋敷の火災の夜、『大名火消し』が現場の屋敷に入ろうとしたところ、屋敷を預かっていた松平小太夫の家来たちは門を閉じて中に入れず、仕方がなく『大名火消し』の一隊が門を打ち破ろうとすると、門内から槍が突き出されたと言うのです。小太夫の家来は、後日手打ちになったと記録されているそうですが、同じような緊張状態は程度の差こそあれ、しばしば見られたというのです。 明暦の大火後、下町(中央区)の23町が自主的に火消し組合を作りました。『大名火消し』は、江戸城や武家屋敷を守ることには熱心でも、町方の火災には冷淡であったことを身に滲みて感じていたからです。亨保五年(1720年)南町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)は、名主たちの意見を参考にしながら、いくつかの町を『組』としてまとめ、『いろは47組』を設けたとされます。各組では独自の纏(まとい)と幟(のぼり)が作られ、火事場での目印にするとともに、組のシンボルとして扱われるようになります。『いろは47組』が担当したのは隅田川の西で、本所や深川などの隅田川の東には別に16組設けられました。当初は町屋に限り出動していた『いろは47組』でしたが、やがて武家屋敷や江戸城の消火にまで出動するようになり、消火後の火事場には、組名を書いた木札が竿の先に吊り下げられました。これはあとで、報奨の出る時の証拠となったのです。 前の年に起こった、いわゆる『八百屋お七』の大火の記憶も生々しい天和三年(1684年)になると 門を隔てて内と外とのやりとりにおいて変化が現れます。すなわち火災が生じた場合、門を閉めるというのは前の通りですが、その後『大名火消し』がやってきたら 門へ迎えに出て、「早々に入れ申すべきこと」と定められたのです。火事を理由とした幕府の屋敷内に対する介入の強化は、放火犯の検挙にも現れます。この年、幕府から放火犯およびそれと紛らわしい者が 屋敷内を徘徊していた場合には、例えそれが、どこかの藩の家来であったとしても、幕府が直接、取り調べにあたる旨が達せられたのです。藩による自分仕置きが、否定されたのです。こうした傾向は、次第に強化されていったのです。 延宝四年(1676年)四月十一日の早朝、守山藩の屋敷の坊主部屋脇の雪隠から、 煙が細く立ちのぼっているのを祐筆が発見しました。祐筆は坊主に知らせたのち 横目方に注進、横目の当番が立ち合って消火に当たりました。失火といってもほんのボヤだったのですが それ以後は 雪隠に灯りを置くことを固く停止するとの札が建てられ、ただでさえ暗い雪隠には、防火という最重要テーマのために灯りを消して用を足すことになったのです。これより先の寛文十年(1670年)にも、台所の竃が焼けて板敷き6〜7寸四方焼けるという失火事件が起きたのですが、いち早く消火にあたった足軽には、褒美が与えられました。ところがその前年、手代の堤仁左衛門は、自分が管理責任を負っていた厩舎用の藁置場から火が出たことを気に病み、屋敷の塀を乗り越えて逃げ出し、旦那寺に駆け入りしました。ボヤを消し止めて褒美をもらう者が居れば 不注意で火を出して夜逃げ同様に屋敷を立ち去る者もいたのです。ところで屋敷の側は、屋敷の内の失火にだけ注意すればよいというのではもちろんありません。近所で火の手が上がって火災が広がれば 屋敷も類焼をまぬがれないであろうし そうでなくても守山藩の屋敷のある地域は、護国寺(文京区大塚)、傳通院(文京区小石川)、白山御殿(文京区白山)など、将軍家ゆかりの施設が散在していたため、いわば防火重点地区の指定を受けていたのです。 その後、守山藩の屋敷には、『火事有る時の次第』という文書が残されているそうです。現代文に直してみます。『大名火消し』がやってきたら、ひとまず屋敷に立ち入ることはお断り申し上げ、それでも、どうしても入ろうとするなら、大層取り込んでおりますので、外から表長屋へ梯子をかけてくださるよう、かねてより藩主より申し付けられております と挨拶するようにというのです 表長屋へ梯子を掛けて人を上げるということ自体の 具体的情景が 今一つ明瞭ではないのですが 要は『大名火消し』が屋敷に入ろうとしても体よく断り、入れないようにせよと定めたものと思われます。ここには、屋敷内空間の自律性と不可侵性を守り抜こうとする姿勢が 顕著に現れていると思われます。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)
2023.10.20
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サンクチュアリー 江戸屋敷とその周辺は幕府の権力下にありましたが、屋敷そのものには、幕府の権力は及ばないものとされていました。仮に犯罪者が屋敷内に逃げ込んだとしても、絶対的権力を有する幕府がその捜査権を屋敷内にまでr行使することはできず、一定の手続きを経ない限り、容易に立ち入れない場所であり、そこはいわば治外法権の場所であり、サンクチュアリーの性格を帯びていたのです。その例として、殺人か何かの事件を起こし、追われた犯人が他の藩の屋敷に逃げ込むことを『駆け込み』と言ったのですが、追って来た幕府の役人が門番に引き渡しを要求しても押し問答になり、「誰も来なかった」から、「見てくる」となり「来たようだが誰もいないから、裏門から出て行ったようだ」となり、結局、捕縛することが出来なかったのです。江戸屋敷には、幕府の役人と言いども勝手に入れなかったし、このことは屋敷の側としても強く意識することであり、屋敷の内は他の介入を許さず、あくまでも自律性を守ろうとする傾向が強かったのです。 このため、江戸屋敷の持つ治外法権を悪用する事件が多く発生することになります。水谷伊勢守と水野美作守は 屋敷も隣り合わせであったので 日頃から『水魚の交わり浅からず』というほどに親密な仲でした。ところがあるとき、美作守の中間が、仲間と刃傷沙汰を起こして伊勢守の屋敷に駆け込んできました。中間の引き渡しを要求する美作守の使者に対して、伊勢守は、「この度の駆け込み者の儀は、水谷の家にかかり申すことに候。伊勢守を人と存じ、相頼み申し候を、我が身難儀及び候て身柄を差し出し候ては、侍の一分立ち申さず候。それがし一命に替え申す覚悟にて候」と、断固とした口調で身柄の引き渡しを拒否したというのです。これは、 家の権利と自律性を堅持しなくてはいけない、またひとかどの武士と見込んで保護を求めて来た者を、むざむざと引き渡したら侍の一分が立たないから、一命に換えても保護するというのです。 ところが、乱心者のケースもありました。貞享二年(1685年)七月二十一日、本田隼人の家来で有馬半兵衛と名乗る者が、守山藩の屋敷の雨宮平介を尋ねて来ました。「十日ばかり宿をお借りしたい」と言うので事情を訪ねると、「人を斬って来た」と言うのですがどうも様子がおかしいのです。家老に届け、藩主の耳にも入れた上で客座敷に通し、さらに様子を聞くと、やはり乱心の様子が見え、まぎれもなく精神に異常をきたしていると思われました。そこで本田隼人に問い合わせると、「乱心者で御座候間、脇差を取り上げ、差しおかれ下され候ように」とのことでした。このことは、本田隼人方の乱心者が、守山藩の屋敷にふらりとやってきて、妄想を口走ったことから事情が判明し、乱心者の身柄は、本田隼人方の者に引き取られていったと言われます。 二本松藩の家臣のうち家の絶えた215家を集録した『松藩廃家禄』に、一人の少年の話が出てきます。聖徳二年(1712年)二本松藩士・丹羽又八の14歳の息子の六之助が、岡田長兵衛の屋敷の前で切腹して死んでしまったのです。自殺の原因は、実に取るに足らないものでした 六之助は、長兵衛の息子で一切年下の翁介と遊んでいて、セミの抜け殻の取り合いをしていたのですが、翁介が奪い取って、自分の屋敷に逃げ込んでしまいました。それを取り返そうとした六之助は翁介を追って屋敷に入ろうとしたのですが、翁介の屋敷の門番が屋敷の門を閉めてしまったので、六之助は、門の前に佇んでいました。原因といえばたったこれだけのことでした。セミの抜け殻を取られた上に、門番に行く手を阻まれた六之助は、大いに憤り、扉に打ちかかっていたのですが埒があかず、そこで自らの腹を切って死んでしまったのです。どうしようもない憤りから自らの命にぶつけて、わずか十数年の人生にピリオドを打ってしまったのです。 延宝五年(1677年)九月末の、丑満時、今の文京区大塚四丁目近くの本伝寺の脇の薬草園あたりを、守山藩の屋敷の者たちが歩き回っていました。彼らは、屋敷から駆け落ちして前日に発見された奉公人を成敗するため、適当な場所を探していたのです。すると彼らの様子からそれと察したのか本伝寺の住職が近づき、奉公人の身体に自らまとっていた衣を掛け、「この者の命、私の一命を賭けて申し受けたい」と助命を願い出たのです。出し抜けにそうは言われても、死罪と決定したものを、簡単に手放す訳にはいきません。押し問答となったのですが住職は是非にと言って一歩も引かないのです。ついに屋敷に戻っての再評議の結果、本伝寺の要望を受け入れて、身柄を引き渡すことにしたのです。この時の守山藩の応対は、次のようなものでした。「この者は、当方としては是非とも成敗しなければならない罪人であるのに、貴僧は理不尽にも衣をかけて助命を申し出た。貴僧の行為は当方としては許し難いものであるが、ご近所でもあり、かねて交際のある間柄でもあり、その上貴僧が一命にかけてとおっしゃるからには致し方ない、かの者の命、貴僧にお渡しする」しかしそれは、無条件でではありませんでした。奉公人は頭をボウズにされた上、即座に遠国へ追放、もし姿を変えて江戸に舞い戻るようなことあれば、その時は、「見つけ次第首をはねる」と言い含めたのです。サンクチュアリーの性格を帯びていたのは屋敷という空間だけではなかったのです。住職が袈裟衣を掛けることで、その中のわずかな空間も瞬時にサンクチュアリーとなり得たのです。なお、ここに出てくる守山藩は、いまの田村町守山にあった藩です。 延宝六年(1678年)、尾州様又侍、つまり尾張徳川家の家来の家来が、市ヶ谷の研ぎ屋を訪れました。そこで何があったかは分りませんが、ともかく口論となりました。又侍は研ぎ屋に少々の傷を負わせ、「すわ刃傷沙汰」と駆けつけた近所の町人たちに取り押さえられて縄をかけられました。「どこの者か」と問うと「尾張屋敷の者である」と言うのです。さすがに御三家の権威に恐れをなしたのか町人たちは、又侍の縄を解いて尾張屋敷に連行し、経緯を説明した上で、屋敷のしかるべき方と相談したい旨を申し入れました。ところが尾張屋敷ではこの申し入れに応じず、「その者はとりあえずお前たちに預けおく。そのものが当家の者であることを確認した上で連絡する」と言うのです。埒があきそうもないので、町人たちは又侍を町奉行所へ引き連れたので牢に入れられました。そうこうしているうち、尾張屋敷から、「かのものは当家の又侍に相違ないから、「早々に身柄を引き渡すように」と町奉行所に申し入れがなされました、ところが町奉行所は、これに応じなかったのです。そのため尾張屋敷では、この件のやり取りで用をなさなかった藩の担当者に腹を切らせたため、話はついに幕府の知ることとなりました。かの又侍は、釈放されたのですが、町人たちに絡め取られた上、縄をかけられたのが藩の名を汚したと言うことで、結局成敗されてしまったというのです。 こんなことができるというのも、幕府が捜査権を有しないということにあったのかも知れません。(氏家幹人著・江戸藩邸物語より)
2023.10.10
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武士の生活 武士たちは、現代のように婚姻届の提出日を境にして、未婚状態と既婚状態がはっきりしていたわけではなく 江戸時代には『熟縁』ということがよく言われ、この頃の結婚は、『熟さなければ』成立しなかったようです。つまり嫁を迎える時は、半月程自宅に宿泊させ、お試し期間を設けてから婚礼の儀式を行っているのです。ところで、幕府や藩の役職に就いている中級以上の武士たちは安泰でしたが、役職に就けない下級武士は貧しい暮らしをしていました。これら下級武士の生活は、朝、城や城下の役所に出勤して仕事をした後、夕方に帰宅するという、いわゆる会社員的生活でした。仕事の量に対して下級武士の数が多すぎたため、そう忙しくはありません。彼らの仕事は、1日行ったら2日休みといった働き方が一般的でしたから、空いた時間は『傘張り』などの内職で生活費を稼いでいました。武士全体の平均年収は、約50両、いまの500万円といわれていますが、下級武士の給料は米によるものでした。下級武士は、その米から自分たちで食べる分だけを確保し、残りを現金に換えて生活していました。米を現金化した後の年収は、約80万円といわれています。ところで年収約80万円とすると月収約6万6000円となり、今よりもお金がかからない時代であったとはいえ、下級武士の生活は庶民の生活と同様に貧しい暮らしだったと思われます。 このような下級武士が、藩主のお供をして江戸へ行くことは、大出世と考えられていました。同輩はもとより、家族や親戚、さらには縁者にまで羨まれたのです。しかしこの江戸屋敷に勤務する侍たちにも生活があります。和歌山藩の衣紋方である、酒井伴四郎の江戸勤務日記が残されています。27歳であった彼は、妻と2歳の娘を故郷に置いての赴任でした。彼らには藩から手当が出ましたが何せ江戸は物価高。二重生活となるため大分倹約をし、生活をしていた様子が綴られています。江戸勤番と言われた彼らの住居は、表門に並ぶ長屋での生活でしたが、一般とは違い、御を付けて御長屋と呼ばれていました。その奥行は1間半の2階建て、3人での共同生活で、しかも生活用品は自前だったのです。彼の勤務状況を見ると、例えば6月は6日の出勤、7月はゼロ、8月は2日、9月は7日、10月は3日、11月は5日となっており、時間は午前10時から、長くても2時間であったようです。彼はこの長い余暇の時間を、江戸での観光に使っていました。行き先は江戸名所図絵を片手に、大名小路、江戸城周辺、そして名所旧跡とされた回向院、愛宕山、不忍池、泉岳寺などでした。『江戸に多きもの 伊勢屋 稲荷に 犬のクソ』などという戯れ言葉も記されています。蕎麦 鍋 寿司 山鯨と言われた猪の肉などの食べ歩きもしていたようです。ただし向島の料亭などには高くて行けず、見ていただけで羨ましかったと書いています。盛り場には、お化け屋敷などの見世物もありました。さらには、追加料金を払うと、生きた鶏を食うところを見せるという虎の見世物、そのほかにも、足を伸ばして横浜へ行き、異人を見物しています。貸本屋からは枕本も借りたようです。 門限は五ツ時(夕方8時)でしたから、遊べるのは昼間に限られていました。ある日彼は、湯屋で風呂に入った後、2階で将棋を指して遊び、夜食で蕎麦を食べたのですが門限を過ぎ、門番にワイロを払って開けてもらったこともあったとあります。とは言っても遊び呆けてばかりいた訳ではなく節約に努め、髪結いには行かずに同僚同士で互いに結い合い、食事は自炊で米は支給されていたのですが、おかずや味噌汁は自前で手に入れましした。それでも御長屋に出入りする大和屋から不足する米を買い、酒・酢は石見屋。繕い物・洗濯などは上総屋を利用していました。それでも彼は節約をしていたので、帰国の際に、もらった手当の3分の1を持ち帰ったというのですから、そのつつましい生活ぶりには驚かされます。なお当時の湯屋は、2階がお休み場になっており、気の合った者同士の社交場になっていました。 ところで、『入鉄砲に出女』という言葉があります。これは、江戸に武器を大量に運び入れて大名らが謀反をおこすことを防ぎ、また、江戸にいる大名の妻女などが変装して国元へ逃げるのを防ぐための措置として、関所できびしく詮議したもののことです。関所には女性を監視するため『改め婆』と言われる中年の女性が配置されていました。『改め婆』は江戸から出ようとする女性の髪を解き、『証文』に記載されている髪形や身体の特徴を調べた上、裸にしてホクロの数まで数えたというのですから、恐れ入った話です。四国丸亀藩士の娘の井上通女の書いた箱根の関所を通る際の『帰家日記』に、次のように記されています。「役人の言いつけに従い、『改め婆』に会った。見にくく恐ろしげで猛々しい老婆。その女がダミ声で何事かを言いながら私の髪を掻き上げつつ、丹念に調べている。いったい、何をされるのかと思うと、実に恐ろしい」この『改め婆』の合格判定が出なければ、関所の通過はできないのです。当時の記録には、泣く泣く袖の下を使ったという話が多いのです。ただし、江戸に入る者については緩和され、諸藩の者は城主とか家老の証文、幕領の者は代官の証文か手形を提示することで、容易に通過することができたというのです。ただし、鉄砲は許されませんでした。 一方で、御暇(おいとま)と御追放という形での退職がありました。ある小姓は、酒が原因でした。常日頃から『大酒の上酔狂致し候』ということで、禁酒の誓約書も出させたのですがなおりません。当然、彼の家計は火の車です。藩としては皆に迷惑がかかるとして、御暇を言い渡し、解雇したのです。
2023.10.01
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江戸屋敷とその周辺 参勤交代により、領地より江戸に戻った大名は、それぞれの上屋敷に入りました。ここで江戸屋敷について、若干の説明をしてみます。もちろん江戸屋敷とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。とは、名の通り江戸にある屋敷のことですが、それには、上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷などがあったのです。これら屋敷の区別がついたのは、明暦三年(1657年)一月十八日に起きた明暦の大火以後のことでした。幕府は、それまで江戸城内の吹上御苑や大手門内にあった大名たちの屋敷を、城外の外桜田周辺へ移転させました。ただし、屋敷の建築費は自前です。この上屋敷は言わば本邸で、大名本人とその家族が住みました。その内部は、表、中奥、奥に三区分され、その構造は江戸城本丸御殿に似せて作られていました。表とは大名家の役所であり、中奥は当主の生活の場、奥は正室やその子供たちが起居していました。これら江戸屋敷の土地は、はじめは幕府から与えられたのですが、それは格式によって面積に差がありました。各大名は建設費用が自前ということもあって、逆に、立派なものが現れました。特に人目につく屋敷の御成門は。豪華に作られました。.御成門とは、将軍の訪問を受ける際だけに使用される門のことです。さあこうなると、各藩とも後には引けません。さらに立派な門が、次々と現れました。それを見るための、庶民のツアーがあったと言われます。遂に幕府は、日光東照宮の『日暮の門』以上のものを作らないようにとのお触れを出すほどになったのですから、その豪華さが想像できると思います。いまも赤門の名で広く知られている東京大学の門は、元加賀藩百二十万石上屋敷の表御門で、文政十年(1827年)、徳川第十一代将軍家斉(いえなり)の二十一女の溶姫(やすひめ)が、加賀藩主前田斉泰(なりやす)に輿入れをした時に、溶姫を迎えるため建てられたものです。江戸時代における諸侯邸宅門の非常に優れたものとして、現在は重要文化財とされています。 ところで、すべての大名が上中下(かみなかしも)の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては中屋敷を持たない家や、上(かみ)・中(なか)屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など、様々でした。中屋敷の多くは上屋敷の控えとして使用され、隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされました。中屋敷や下屋敷にも上屋敷と同様に長屋が設けられ、そこには参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住していました。その家臣たちも家族連れであり、しかも多い藩ですと2千人から3千人、500世帯くらいが住んでいたというのです。そうなれば、家来たちを町の中の長屋に押し込める訳にもいかず、それなりに大きな建物を必要としたのです。例えば土佐藩の場合、江戸屋敷全体の居住者は3195人を数えたというのですから、さしずめ今でいう大住宅団地が、江戸城の周辺にいくつもあったことになります。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要としていたのです。 明暦の大火後、幕府は大名に請われれば、郊外に避難地を与えました。これが下屋敷です。下屋敷は主に庭園などを整備した別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれました。上屋敷や中屋敷と比較して規模の大きいものが多かったのです。ところで江戸市中はしばしば大火に見舞われているのですが、その際には大名が下屋敷に避難したり、復興までの仮屋敷としても使用されました。この他にも、藩によっては様々な用途に利用され、遊びや散策のために作られた庭園として、あるいは農地として転用される場合もありました。このほかにも、大名が民間の所有する農地などの土地を購入して建築した屋敷は、抱屋敷と呼ばれました。このようにして各藩は、江戸市中から郊外にかけて、複数の屋敷を持っていたのです。これらの屋敷はその用途と江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などと呼ばれたのです。 そして蔵屋敷です。蔵屋敷は、国元から運ばれてきた年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つ屋敷もありました。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられました。これら各藩の江戸屋敷は、江戸の面積の六割を占め、神社仏閣が二割でしたから、町家としては、残る2割しかなかったのです。 それぞれの屋敷の広さには、石高による基準が存在しました。元文三年(1738年)の規定では、1から2万石の大名で2500坪、5から6万石で5000坪、10から15万石で7000坪などとされていました。しかし実際には、この基準よりはるかに広い屋敷も多く、上屋敷だけで103・921坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていませんでした。江戸時代の末期には、全国に300藩あると言われていましたから、単純計算で約900の江戸屋敷があったことになります。「それじゃ全部で、郡山の東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はいま示したように、とてつもなく広いものですから、ほぼ、現在の山手線を上回るほどであったと言っても良いくらい広大なものでした。一般の職人や商人は、日本橋やその周辺にまとめられ、大名と町人の居住地は画然と分割されていました。この江戸城周辺にまとめられた江戸屋敷屋敷の群は、もし幕府への反乱軍が江戸へ攻めてきた場合、即その楯ともなり得るものとしたのです。そして江戸の経済は、幕府と神社仏閣と大名屋敷の需要でもつ、大消費都市だったのです。これら屋敷の前の道路や江戸城回りの堀は、それに接する全ての屋敷がそこの管理責任の問われる場所でした。ですから屋敷前の堀で魚釣りをしたり網を打ったりする者がいたら、例え他所者がやっていても、その藩の責任とされたのです。 上屋敷に住んでいた奥方や子供たちは、ある意味人質ですから国元へは戻れません。江戸で生まれた子供たちは、江戸で成長し、江戸で結婚し、江戸で死んでいくことになります。こうなると、いわゆる『江戸っ子』の典型みたいな大名が仕上がります。それは、自分の領地であるにも関わらず、草深い田舎に行くことを嫌がる風潮を生むことになったのです。しかし参勤交代の制度がありますから、行かないわけにはいきません。しかし行ったとしても、「それではしっかり領地での政治をやろう」という気は起こらなかったと思われます。一方、国元は国元で、主君が留守でも政務は着実に執行されています。ですから国元の重臣たちには、主君が江戸から来て「あれこれ」指示されるのが迷惑であると思っていたようです。さらに主君の参勤交代に随行して江戸に来た藩士も江戸で勤務し、やがて江戸で生まれた息子にその職務を譲り、隠居する者も出てきます。彼らは国元に対して、「カネ送れ! モノ送れ!」を、ご主君が必要とされているという大義名分で連発しますから、国元の重役たちは、「我らや領民の苦労も知らず、花のお江戸で遊んでいる連中が何を言うか」ということになります。そのために、国元と江戸在勤の者との間に分裂が発生します。正室の子は江戸でしか生まれませんが、側室の子は国元でも生まれます。江戸にも国元にも男子がいるということから、お家騒動にもなりかねなかったのです。
2023.09.21
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大名行列 慶安二年(1649年)の軍役(ぐんやく)規定によりますと、五万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名とされていましたから、二本松藩の場合、士分562人、足軽704人、その他684人の合計1950名となります。その上で大名行列の規模は、大名の石高によっても異なりますが、五万石で約170人、十万石で約240人、二十万石以上で約450人程度と決められていました。しかし実際には、これよりもはるかに大規模でした。幕府も寛永法度においてこの実状を認め、従者の員数は分相応とし、極力少なくするという方針をとったのですが、諸大名は互いに競い合って威勢を張り、見栄を飾る傾向が強かったのです。例えば、加賀藩の4000人を筆頭に、五万石以下の藩でも100人を下らなかったと言います。行列の順序は、大名によって異なりますが、髭奴に次いで金紋先箱、槍持、徒歩などの先駆がこれに続き、大名の駕籠廻りは馬廻、近習、刀番、六尺などで固め、そのあとを草履取り、傘持、茶坊主、茶弁当、牽馬、騎士、槍持、合羽駕籠などが続きました。行列の通行には大きい特権が与えられており、例えば行列の先払いが通行人に土下座を命じ、河川の渡し場では一般の旅人を川留にすることができ、また供先を横切るなど無礼な行為があった場合は、切捨御免の特権もありました。このような大名行列を円滑に進めるためには、さまざまな準備が必要でした。まず出発に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に『先触れ』といって通達書を出しました。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりませんでした。 実際の旅ともなると、行列を先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示しました。この関札は、先にこれを掲げた藩に選手特権があり、後から来るいかなる大藩の宿泊も許さないという厳重なものでした。大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿場内の旅籠屋に分宿しました。しかしそれでも不足する場合は、周辺の寺院を使うこともありました。それでもなお収容しきれない場合は、前後にある小さな宿場に分散して泊まることもありました。郡山の場合、北は久保田、南は小原田でした。大名行列は、家柄や藩の権威といった力や富を誇示する重要な意味合いがありました。ところが、その行列の大多数は、日雇いアルバイトである武家の奉公人であったというのも興味深いことの一つです。 特に大きな戦いのなかった時代、大名たちは行列を通じて優位性を争っていたことがうかがえます。 ところで、郡山宿を利用したと思われる大名は、仙台藩をはじめ、会津藩、二本松藩、福島藩があったと思われますが、そのほかにも、今で言う東北の5県、そして北海道の松前藩が利用したものと思われます。これらの大名行列は、街道を行く際、隊列を整えて歩いていたわけではなかったそうです。街道の山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、気ままに歩いていたというのです。たしかに江戸までの長丁場を、一糸乱れず行進してというわけにはいかなかったのだと思われます。しかしその一糸乱れぬ行列を見せつけるのは、旅の途中では宿場町に出入りする時だけでしたから、宿場町の入り口には、全員が夕刻までに集合し、藩士が揃うと行列を整えて宿場町に入っていったのです。多くの人の目に触れる場所でだけ、行列の武士たちは、いかにも規則正しく振る舞ってきたかのように見せかけていたのです。大名行列は軍事行動の一環であり、武力を誇示することも大事でした。しかし、経済的に厳しい藩だからといって行列の人数が少なくてはハクがつきません。先頭で毛槍を放り投げて交換するパフォーマンスを行っている人も、期間付きのバイトで雇われた中間(ちゅうげん)と呼ばれる人たちの場合もありました。 では当時宿場町であった郡山は、どんな様子だったのでしょうか。いまの大町、会津街道への分岐点のちょっと北、それから東邦銀行中町支店のちょっと南で、道路がカギの手に曲がっているのにお気づきでしょうか。それらは町への出入り口、つまり枡形だったのです。そしてその中間にあたるビューホテル・アネックスの場所には、本陣がありました。例えば北からやって来て江戸へ向かう藩の人員は大町の枡形に集合し、毛鎗の奴さんを先頭に、窮屈な駕籠に乗り換えた大名の駕籠を守って、粛々と町に入りました。この行列は、全員の旅の途中での着替えをはじめ、殿様の風呂桶からトイレまで持ち運び、宿場町では、馬の糞尿の始末をする係もいたのですから、人数は勢い多くならざるを得なかったのです。そして行列が本陣に着くと殿様と上級の者はそこへ、他の者は宿屋やお寺に分宿したようです。 さてこの郡山の枡形ですが、大槻友仙著『明治見聞実記』に次の記述があります。『上下(うえした)ノ入口升形取払=文政年中上町入口、下町入口ニ升形ト云モノヲ築立タリ、ミカゲ石ニテ高さ六尺程ニ積立其上ニ松ノ樹ヲ植ナラベタリ。立七八間横五間程アリ、当年十月中バ頃皆取崩荒池ノ堤岸ニ積ナラベタリ。其他十三夜ノ供養碑石迄●ニ積重タリ。下ノ升形ハ石盛屋ニ西側ハ今ノ茶屋ノ所堺ナリ』とあります。これは、残されている絵を見ると、入り口の堀を境にした、中々立派なものであったことが分かります。なお、上町枡形の最初は現在の旧4号線と日の出通りの角に作られましたが、後には今の旧4号線と会津街道の角から北へ約50メートルの場所に移されました。また下町枡形の最初は東邦銀行郡山中町支店の南へ約50メートルの場所にありましたが、後に更に南100メートルほどの原畳店の所に移されています。今でも微妙な角の道路となっており、枡形の形を残しています。ところでこの枡形ですが、少なくとも郡山の場合、平野の中にあります。仮に一般の人が町に入ろうとして、番人に断られたとしても、周辺の農道を辿ればいくらでも町へ入ることができるのです、この枡形は、防衛のためというより、大きな宿場町であった郡山の『お飾り』であったのかも知れません。この二つの枡形の位置から、一本道であった当時の郡山の規模を知ることができます。なお、今の如宝寺や善道寺、そして安積国造神社などは、あえてこの一本道から外れた場所に作られたと言われています。今は街の喧騒の中にある神社も寺も、当時は寂しい所だったのです。 ところで旅人の多くは、この大名行列に遭遇することを嫌いました。特に商人にとっては、足止めをされることで商機を逃すことがあるかも知れません。そこで伊達・桑折の生糸の産地から小浜を通り、やはり生糸の産地であった三春を経由し、須賀川・白河の西を通って茨城県の結城・堺へ、そこから利根川を下って銚子から江戸への船便を使いました。故・田中正能先生は、この道を日本のシルクロードと表現されておられました。 ちなみに三春藩は、明和七年(1770年)の記録によりますと、三春より江戸街道の赤沼と守山を経由し、御駕籠15人、御長持21人、御箪笥25人、合羽持3人、人足80人の合わせて144人に加え、人数が明確ではないのですが、お付きの侍たちの馬が80頭だったというのですから、やはり大変な人数であったことが想像できます。
2023.09.10
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参勤交代 3代将軍・徳川家光の時代までの江戸はまだ人も少ない「ものさびしき」様子であったという。そこで、諸大名を江戸に住まわせ、城下を「にぎはふべき為」に「はからひこと」、それが参勤交代の狙いであったと言われます。 寛永十一年(1634年)、幕府は譜代大名にその妻子を『江戸に置くべし』と通知し、その翌年、外様大名の26人に対して「帰国せよ」と命じ、55人に対しては江戸に留まるようにと命じました。これが、参勤交代の始まりと考えられています。参勤交代とは、全国300近くある大名たちが、2年ごとに江戸に詰め、1年経ったら自分の領地へ引き上げることを交代で行うことです。徳川将軍に対する大名たちの服属儀礼として始まったものですが、寛永十二年に、第3代将軍の徳川家光によって、徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されたものです。はじめの頃は、出府の時期や在府の期間についての定めはありませんでしたが、寛永十九年には制度化されています。この制度によると、諸大名は1年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも、正室と世継ぎは江戸に留まらなければなりませんでした。ただし、側室および世継ぎ以外の子には、そのような義務はありませんでした。元和元年(1615年)に制定された武家諸法度の条文に、現代語に翻訳すると、『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。最近供の数が非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにするように』という意味のものがあります。ところで大名は、自分の領地から江戸までの旅費ばかりではなく、江戸屋敷の建設や維持費、さらには江戸での滞在費までも負担させられたため、各藩には財政的負担が重くのしかかった上に人質をも取られる形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たさせたのです。この制度の目的は、過大な費用負担により諸大名の財政を弱体化させることで勢力を削ぎ、謀反などを抑える効果があったのですが、ただしこれらは結果論であって、当初幕府にそういった意図はなかったという説が有力です。 参勤交代で大名が江戸屋敷を留守にした際には、大名の正室がそれを守りました。つまり正室は、江戸屋敷での最高責任者の地位につくことになるのです。それもあって、表の玄関などの一式とは別に、奥方の居所にも裏門から、玄関、式台、対面所といった、来客応接用の一切が作られていたのです。この参勤交代の藩主に従って江戸に出る勤番者は、いわばエリートでした。何も知らない親戚縁者は、ただ喜び、ただ羨んだのです。本人としても、藩主に従って江戸に出ることは、心浮くことではあったのでしょうが、その生活は、そんなにいいものではありませんでした。江戸に出た藩士の一ヶ月の手当が、今の金額で5万円から6万円程度であったと言いますから、彼らの生活は決して楽ではなかったのです。 参勤交代には、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介として江戸の文化が全国に広まる効果をもたらすことにもなりました。また逆に、地方の言語、文化、風俗などが江戸に流入し、それらが相互に影響し、変質して江戸や各地域に伝播し、環流した面もありました。参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化、そして江戸の繁栄に繋がることになったのです。また、江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは、参勤交代による影響でした。なお、高野山・金剛峯寺のように大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度がありました。ところで仙台藩の場合、江戸との間は約360キロメートルあり、7泊8日から9泊10日で奥州街道を通って参勤交代を行っていました。奥羽の他藩でも、江戸との中間に位置する郡山宿などを利用しています。 大名行列は軍役であったため、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が、暇をもてあましたり、江戸での暮らしに不自由しないようにと茶の湯の家元や鷹匠までもが同行し、万が一に備えて、かかりつけの医師も連れていました。その上、大名専用の風呂釜やトイレなども持ち運んでいたのです。それに大名駕籠とその駕籠かきの交代人数、そのうえ予備の駕籠も運んでいたのです。料理人、料理道具、食材の他にも、馬の糞の後始末する人もいたのですから、大掛かりな行列にならざるを得なかったのです。移動時間ならびに移動速度は、一日の平均で6時間から9時間を掛けて、約30から40キロメートルを移動しています。それにしても、多くの大名が同時期に参勤交代で行列を組んだときには、街道および宿場はしばしば混雑しました。そのため各藩の行列の前後には物見が付き、他の行列とのトラブルが発生しないように注意していました。 この大名行列にとって、毛槍は最も重要な道具の一つでした。槍の先端部分の装飾には、鳥の羽や動物の毛で飾られ、それらには幕府から各大名家に許可された特徴的な装飾様式がありました。そのため毛槍は、遠くから見ても大名家の識別に役立つことになり、『見通し』 とも呼ばれました。なお毛槍の本数は小名クラスの1本から、御三家クラスの3本まで、大名家の格式により異なったのです。それはともかく、大名行列は一般庶民の目に曝される訳ですから、どうしても立派さを競うようになります。それでも領内を動くときは、限られた少人数で行列を組んだのですが、江戸に入る時はアルバイトを雇って人数を膨らませ、態勢が整っているように見せかけていました。江戸への入府は最も多くの人の目に触れる参勤交代のハイライトでしたから、より多くの人員を必要としたのです。すると、「あの藩はすげぇ人数でやって来たぜ」と、江戸っ子たちが口にするのですが、それが他藩の重役の耳に入りますと、恥をかくわけにはいかないとばかりに、「ウチはもっと人数を揃えろ」となりますから、際限のない見栄の張り合いとなったのです。この大名行列の通行の場合、先払いの者が庶民に、 道の片側に「 寄れ、寄れー 」などと声を掛けるだけで 、「下に〜下に」と声を掛けられるのは、余程の大藩に限られていたそうです。
2023.09.01
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