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楽天日記をはじめて一年余り、最近、また、週刊新潮と文春を読み始めた。今、私の情報源はネットである。その得られた情報の信憑性の確認のために、二つの週刊誌を読んでいる。 情報は一つでは疑わしい。そこで二つ、三つと重ねて、その信憑性を確かめる。この作業をしないで、入ってきた情報を垂れ流せば、自分の信用にキズがつく。 私が、今、ネットで得ている情報は二つの週刊誌と比べても質・量ともに勝っている。 ラジオとの付き合いは古い。小学校4年2学期まで、二部授業だった。一週間交替で朝行き、昼行きだった。一つの教室を2クラスが使う。 昼行きの時、午前中、ラジオを聞いていることが多かった。印象に残っているのが、「世相勘所」という番組で当時(昭和30年頃)としては珍しい電話対談だった。大宅壮一と宮城音弥の対談である。宮城が質問し大宅が応えることが多かった。 「サムライ・ニッポン」というドラマもあった。主題歌の詩に「ヒートをキルのがサムラーイならば、コイの未練がナゼきれぬ・・・にーのう・つるちよ、苦笑い・・・」はよく憶えているがドラマの中味は憶えていない。三橋美智也が歌っていたと思う。 落語をよく聞いた。金馬さんが出ずっぱりだった。後、「蝶々・雄二の漫才学校」も面白かった。 この後の私の情報源は新聞となる。家では朝日と毎日、3か月交替でとっていた。兄が朝日、母が毎日であった。小学5年から、経済欄を除いて、隅々まで読んだ。外信の一段記事に面白いのがあった。中ソ論争が始まった頃だった。 コラムでは上坂冬子さんがBG論を書いていた。(当時、まだ、OLという言葉がなかった) 電車に痴漢が出没、「女性専用車両を作るべきだ」とか「前に作ったが不評だった」とか、今と話題は変わらない。 小5の秋、我が家にテレビが来た。ニュースは学生のデモ、60年安保の前夜だった。
2005.03.31
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アメリカの軍事力は世界最大であり、また、世界最強であることは、皆がみとめるところである。しかし、戦闘は強いが後の占領政策・占領行政は全くダメである。 その点、旧日本軍の軍政は評価できる。何故そうなのか? 日本には軍政の伝統がある。鎌倉幕府成立以来、日本は軍事政権でやってきたのである。「軍事政権=悪」という思い込みの強い人たちがいるが、観念的文科系の人が多い。現実的理科系でないと、戦争には勝てない。そして、行政能力もない。 文科系の人は女の子を口説くには能力があるが、後の生活は限りなくヒモに近い。 韓国には軍事政権の経験がない。高麗の頃、日本と同じ時期に崔氏政権という武人による政治が行われようとしたが、蒙古の侵入によって、潰されてしまった。以来、文人優位の政治が行われ、一時期の例外を除いて、人民搾取の官僚体制のみがはびこった。 日本の場合、文科系の公家と競い合って、また、戦国時代を通じて、戦闘・占領・行政といった一連の軍政能力を開拓されてきた。そのノウハウの蓄積は大きい。 アメリカは日本の植民地支配地は搾取されていると宣伝、自分達もそう思ってきた。しかし、沖縄では激しい抵抗に会い、韓国でも浮き上がった。 韓国での「日本悪玉論」はアメリカと海外から戻ってきた亡命者によって、日帝36年の間は外国に逃げていた、実態を知らない人たちによって宣伝された妄想であった。 ノムヒョン大統領による反日政策は今まで「声なき声」であった親日派、現実の生活を地道にやってきた人たちが立ち上がらず得ない状況をつくりだしたといえる。
2005.03.31
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『親日派のための弁明2』金完燮・扶桑社に書かれていた悲惨な話。 著者が言う。2001年8月に著者宛てにメールが届いた。この差出人は確認されていないが、この文章を「親日派のための弁明」というインターネットサイトに掲載したところ、こういう事件の噂を聞いた事があるという読者がいたという。 和夫一家殺害事件 和夫という名の日本人地主が慶尚道にいた。小作人にもやさしい地主であった。孤児がいると引き取って面倒をみた。数が増えて孤児院のようになった。 ところが、日本が戦争に負けると、実の子以上に可愛がられて、東京帝国大学まで出してもらった青年が中心になって、13人が、鎌、ツルハシ、シャベルで「お父さん」と呼んでいた和夫を惨殺、「お母さん」と呼んでいた和夫の妻を集団強姦のすえ死亡させ、その内臓を掻き出し、庭にばらまいた。小学生の女の子が和夫の娘にいたが、気が触れて、何日も慟哭して、近所の人を眠らせなかった。誰も彼女に食事を与える村人が居ず、9日後飢え死にした死体が橋の下で発見された。 和夫の財産は愛国朝鮮青年の手に渡った。 こういう話は無視するに限ると思って1日たった。そう言えば、中国から来た留学生に親切にしていた老人がその留学生から惨殺されたというニュースを思い出した。 相手を見て親切にしないと、とんでもない結末を招く、今、われわれはとんでもない状況に置かれている。
2005.03.30
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日本国内の旅行案内ではない。隣国・中華人民共和国の国名のことである。お節介な話だが、中国・中華というのは現状に即した名前ではない。国の効率を考えると、9つに分割した方がいい。昔、中国は自分達の国・全土を表す言葉として九州と言っていた。9つの州があったからだ。その故事にならって、「九州共和国連邦」というのが良いと思う。 私のご先祖は中国人で「衡」という姓である。少数派、珍しい名前らしい。いろいろ中国の歴史本を読んだが未だこの名前に出くわしたことがない。殷の国の宰相・伊尹の子孫である。沖縄の300年はわかるが、中国での3500年がわからない。 ご先祖が4000年分の活躍をしたのかも知れないが、政治とは関係ないところで、こつこつと生きてきたのだろう。今、現在の中国でどういうことをしているのか、知りたいものである。
2005.03.30
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まだ、全部読んではいないのだが、「今、私は21世紀を生きているんだ」と嬉しい気分である。韓国人がこういう事を言いはじめたというのは奇跡に近い。著者は1963年生まれ、東京オリンピックの前年である。新しい頼もしい世代が韓国にも育っているのである。 私はテロリストが好きであるらしい。私がよく引用している台湾人・黄文雄さんもテロリストである。1970年4月24日、蒋経国をニュー・ヨークで狙撃している(『台湾の歴史』喜安幸夫・原書房/p193)この時、多額の保釈金が瞬く間に集まった。在米中国人達がこの狙撃犯を支持したのである。 テロリスト・金九は正直な人である。彼の自叙伝『白凡逸志』は貴重な時代を証言している。こういう金九の好きな日本人が伊藤博文に敬意を表する韓国人が書いた本を読んでいる。黄文雄さんの指摘と重なるところが、多い。 ノムヒョンは日韓条約をチャラにして、莫大な賠償金を日本に要求する気でいるらしい。【これは私の邪推】『親日派・・・』を読むと、終戦時、日本人が保有していた韓国での財産は今のお金にして100兆円であるらしい。チャラにしたいのなら、この際、100兆円を被害日本人・個人宛てに返してもらおう。当然、60年の複利計算でね。
2005.03.29
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田中義一が昭和天皇に「アジア侵略から世界征覇」という内容の上奏文を書いた、この情報が流布されて、東京裁判でも審議されたが、証拠不十分となった。秦郁彦『昭和史の謎を追う』に詳しいくでているらしい。 もうその頃から、情報戦争の時代になっていたらしい。田中義一(コンサイス人名辞典・三省堂、馬場伸也『満州事変への道』、金九『白凡逸志』)より1864~1929(元治元年~昭和4)山口県・萩の生まれ。長州藩士・田中信祐の三男。陸士旧3期、陸大。1876(明治9)萩の乱に参加・年少のため免罪 '79中国留学を決意、中国人事予定の笠原半九郎に師事。しかし、笠原は対馬へ左遷、共に対馬で過ごす。 '83陸軍に入る '94日清戦争に従軍 '96参謀本部第二部部員 '98~1902ロシア留学 '04日露戦争に満州軍参謀として出征 '09陸軍省軍事課長に就任<良兵即良民>主義を唱える・帝国在郷軍人会結成に尽力 '10少将、歩兵第二旅団長 '11陸軍省軍務局長 '12歩兵第二旅団長 '15中将・参謀次長、青年団の再編を指導、全国民を軍指導下に '16小磯国昭少佐満蒙挙事・失敗 '18シベリア出兵を指導、原敬内閣・陸相、軍備拡充 '20男爵、シベリア出兵・敗北 '21シベリア撤兵、大将、軍事参議官 '22 3月上海・黄浦碼頭で呉成倫(金九の仲間)から爆弾・不発、銃撃・アメリカ人女性死亡 '23第二次山本権兵衛内閣・陸相 '24再度・軍事参議官 '25予備役、立憲政友会総裁 '26貴族院に勅撰 '27首相・外相・拓相を兼任、普通選挙による最初の総選挙を実施。緊急勅令で治安維持法を改正、3・15、4・16両事件で日本共産党とその支持者を逮捕。外交、東方会議で満蒙分理論「対支政策綱領」を決定、3次にわたる山東出兵。 '29張作霖爆殺事件処理で天皇から叱責、総辞職、その後、急死。 歴史と政治は表裏一体の関係にあると思いますが、それを超越して歴史そのものに取り組みたいと思っています。30年、50年、70年、節目節目を確認して、その時代を俯瞰します。すると、20世紀は謀略・情報戦争の時代でした。 今、21世紀初頭もその謀略・情報戦争が常時行われており、好むと好まざるにかかわらず巻き込まれています。 韓国の大統領は国内向けに3・1アピールをしたと思いますが、日本での反応に驚いているでしょう。私など小泉さんのアピール、読むことはありませんが、隣国の大統領の言説には異常反応です。ネット社会の謀略・情報戦争、面白い時代だと思います。
2005.03.29
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倉本聡の番組で野口健が橋本龍太郎との事を語っていた。橋本はエベレストに3回登っているそうだ。山の掃除を始めた頃に、野口は橋本から励ましのハガキを貰ったという。「ゴミを棄てるのはよくないことだが、私はそのゴミに助けられました」と、何か謎めいている。 エベレストの掃除をやることになったのは、記者会見で思わず口走ったことからだったという。登頂に成功した。記者から次は?の質問に、野口には計画はなかったと言う。しかし、彼は自分の意思とは関係なく「エベレストの掃除をやります」と発言していた。エベレストでヨーロッパ人から「日本人はエベレストをマウント・フジにする気か」と言われ、頭にカチンと来たと言う。 富士山の山頂には自動販売機が並んでいるという。売店もある。ゴミの山である。 エベレストで橋本隊の酸素ボンベを確保して橋本龍太郎に合いに行ったそうだ。はじめの30分、野口は橋本の自慢話を黙って聞いていた。そして、やおら「これ橋本隊の忘れ物です」と酸素ボンベを机の上に置いた。橋本は顔を真っ赤にしてうつむいた。「ゴミに助けられた」というのは手持ちの酸素ボンベを使い果たし時に、落ちていたボンベのなかにまだ酸素が残っているものがあったということだった。 野口は言う。「橋本さん、言葉が少ないんですよね」 野口がエベレストの掃除を始めたことに、日本の山岳会は猛反発した。「生意気な若造」と言う事だろう。その山岳会の幹部達に「応援してやれよ」と橋本は説得してくれたという。 野口の姿に明治青年の心意気を見る思いがする。
2005.03.28
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日本には「敵ながら天晴れ!」という言葉がある。戦国時代以来、武人の心がけの一つとして、利害を超えた美意識の表現である。 伊藤博文が安重根によって射殺された時、多くの日本人は醒めていた。山路愛山はその著書「徳川家康」のなかで、信長が浅井の謀反で退却する時に、途中で銃撃されるが、伊藤の事件を時事ネタとして挿入している。武勇を尊ぶ気風が日本にはある。伊藤も昔はアメリカ領事館焼き討ちに参加している若造テロリストだった。 田中義一はモスクワで伊藤にロシアとの宥和政策を棄てよと迫っている。伊藤はモスクワまで来てお前の書生論を聞きに来たわけではないと、直に、田中の人事異動を発令している。 「親日派のための弁明」の著者・金完燮は日本の教科書を作る会の人から「安重根」を尊敬していると言われ驚いたという。私はもっとこの金完燮氏を驚かせようと思う。 私は金九を尊敬している。日本でもっと彼の事が話題にならないのが不満である。10年前、戦後50年ということで、韓国の新聞がアンケートをとった。戦後50年、韓国の発展のために尽くした人は誰か? 1位が朴正煕大統領だった。2位が我らが金九である。 この金九を顕彰する会があって、韓国の反日運動の震源地になっている。今回の反日騒動は今までとはちょっと違うと感じていたが、「親日派のための弁明2」を読んで驚いた。金九を殺した安斗煕がバスの運転手・朴キ緒によって殺されていたのだ。安斗煕は貴重な歴史の生き証人である。李承晩の密命で金九を射殺した。彼は軍法会議で死刑の判決を受けたが、625動乱で現役復帰。 この朴は3年の懲役、しかし、金大中の特別恩赦で1年6か月で刑務所を出てきた。親日分子を殺しても1年半刑務所に入るだけでいいと韓国政府がテロを奨励しているのである。金完燮氏も国会でこの朴から暴行を受けたが警官も国会議員も彼を助けなかった。 金九自叙伝「白凡逸志」は1973年平凡社から翻訳がでている。この自伝を書く動機は上海で大韓民国臨時政府の主席になり、いつ死ぬかもしれない、幼い子供達への遺書として書いた。これが前編。後編は70近くになり、アメリカとハワイにいる同胞達を念頭に民族独立運動についての証言である。 体を張って日帝に立ち向かった本物の反日である。しかし、今の韓国の反日は政府の後押しがあり、年金を貰っての運動で、金九が願った「民族独立の哲学」からほど遠い内容である。 金九が私の念願として「われわれは、他人のものを奪い取ったり、他人の恩恵にすがろうとする人間ではなく、家族に、隣人に、また同胞に、与えることをもって喜びとする人間である。われわれのことばでいうところの『ソンビ』(有徳な智者)であり、『チョムジャヌン サラム』(おだやかな人)なのである」という。 この金九の願いを現在の韓国の人たちが実現しているのか? 大統領以下、韓国国民はこの偉大なる民族独立の先駆者・金九の自叙伝をもう一度読み返して反省すべきである。日本には「敵ながら天晴れ!」とこの金九を尊敬する人は私だけではない。 金完燮氏に会う機会があれば、親日派の弁明も結構であるが、もう一度、金九の自叙伝を読み返して検証した方がいいと提案するつもりだ。
2005.03.27
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今日、買った本です。『親日派のための弁明2』金完燮・扶桑社『南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道・小林進・福永慎次郎/草思社『韓国の歴史』国定韓国高等学校歴史教科書・明石書店『韓国現代史』韓洪九・平凡社 幾何の問題を解く時に、補助線をどう引くか? その直観によって、一気に問題が解けるものです。 歴史の本を読んでいて、いろいろな推論が想い浮かびます。この推理が曲者です。物語を勝手に作り出す。私ものどまで出かかっている「物語」をやっと自制しています。幾何の場合の補助線は問題を解決に導きますが、歴史の場合は、問題を益々、こじらせます。 韓国人の語る歴史には、この「物語」が多く、途中でその本人が気がつかない内に、その「物語」の中に入っていくのです。 韓国の反日の震源地は「金九」という人物です。『白凡逸志』梶村秀樹訳・平凡社1876年7月11日生~1949年6月26日死。彼は李承晩の密命を受けた陸軍少尉安斗煕によって射殺されました。彼を顕彰する会があって、そこが韓国・反日運動の総本山です。 この金九を射殺した安斗煕が1996年自宅で殺害されました(享年78歳)。犯人はバスの運転手で朴キ緒といいます。殺人で3年の刑でした。しかし、1998年金大中が大統領になり、特別恩赦で釈放されました。結局、1年6か月の服役でした。 この朴キ緒は英雄になっています。『親日派の弁明』の著者・金完燮は国会で審議の傍聴している時に、この朴から暴行を受けましたが、議員や警官はただ、見ているだけでした。これが現在の韓国の現状です。 金九と安重根について私なりの「補助線」を引きたいのですが、具体的な証拠が出てからにします。「物語」を作らないためです。
2005.03.26
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卵子が受精する時、億という精子が群がる。硬い、厚い卵子の壁の中に入って卵子の核と融合出来るのは幸運な一つの精子だけである。元気のいい一番乗りは壁にひびを入れるだけで死に絶える。多くの精子の犠牲の上に運のいい精子がそのDNAを拡散する権利を確保できる。 今回のホリエモン騒動、馬の種付けに登場する「あて馬」のようだ。ヤフー・グループに落ち着きそうだが、ホリエモンに、はじめから、経営に参加する気があったのだろうか? ネットとラジオの統合とか、言っているようだが、それをやりたくて800憶も金を使うのか? 5億もあれば、十分にいい番組をつくることが出来るし、スポンサーになれば各局、争って、ネット融合ラジオ番組をつくるだろう。 ただの、マネーゲーム、その行きがかりで、いろいろな発言をしているだけとしか、聞こえない。結婚する気もないのに、女を口説くために、いろいろ口走る吾人がいるが、あの戯言に似ている。 しかし、あて馬ホリエモン劇場、ヤジ馬、いや、オヤジ馬の私としては、フジのドラマより、面白かった。TBSのわたる世間並みに、次から次と、登場人物が出てくる。 次回、あて馬ホリエモン劇場、第三弾。どちらの外資スポンサーが付くか? エロサイト見て、鼻の下、ながーくして、待ってるよ!
2005.03.25
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この本は1972年に出されている。日中国交樹立の直前に書かれたものだ。幣原外交と田中外交を比較して、日本が戦争を避けられる道があったのではないか? と、問うている。 東条が戦犯として裁かれたが、本当はこの田中義一だと思う。しかし、この田中義一、張作霖爆殺のことで昭和天皇から叱責された。1929年7月1日、田中は臨時閣議を開いて総辞職。7月26日、帰郷。8月10日、帰京。9月29日、狭心症の発作で急逝。 戦争の原因は15年以上も前に作られていたのだった。
2005.03.24
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この本が出たときは大変な評判だった。発行日を見ると1990年1月26日、私が小さな出版社に勤め始めた頃だ。もう15年も前だ。そういえば、その出版社の社長がよく話題にしていた。その社長の友人の大学教授が、会うたびに柄谷行人を批判していた。余りに批判するので『批評空間』を何冊か購入して読んだ。 筒井の作品に『大いなる助走』という作品がある。同じ構図である。 この作品は「おまけ」付である。その「おまけ」とは筒井流の解説。印象批評/新批評/ロシア・フォルマリズム/現象学/解釈学/受容理論/記号論/構造主義/ポスト構造主義 これらの項目について、面白く解説している。これらの事をよく知っている人が読めば、それなりにパロディーになっていて面白いのだろうが、言葉は知っているが意味はよく分からない私などは、へぇー、こんな意味だったの?と、だだ、感心するだけである。 だだ、ポスト構造主義で、バルザックの『サラジーヌ』をロラン・バルトがやった構造分析を紹介しているが、こういうバルトの手法は「新古今」以来の本歌取りで、コミマのパロディー本の主流である。 東浩紀の『郵便的不安たち#』の解説を書いた斎藤環(精神分析医)がNHK教育で秋葉原で活躍するオタクをレポートしていたが、彼らの行動様式もバルトの手法の何歩も先を進んでいる。 『愛と幻想の日本主義』を対談した福田和也と宮崎哲弥が一番遅れているような気がする。
2005.03.23
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黄文雄『日本の植民地の真実』より 台湾は瘴癘・風土病の島だった。瘴とは【新字源】中国南方の湖沼地帯の山川に生じる、湿熱の気によって起る熱病。また、その毒気。癘とは【新字源】らい病・流行病 移民の生存率が30%だった。 1874年の台湾出兵で日本軍3600人のうち、マラリアにかかった人が2800人、死亡者が525人、戦死者12人。 日本の台湾経営は病院から 1895年6月7日 台北城に無血入城 9日 「基隆病院」を設置 13日 台湾事務局を日本に設置・局長・伊藤博文 医師1人・薬剤師9人・看護婦20人を派遣 17日 「台湾始政式」 19日 衛生委員会を組織 20日 大日本台湾病院を開設 1897年 官営病院17 私営病院 29 1934年 官営病院35 私営病院182 1899年 台湾総督府医学校が設立 台湾人エリートを輩出する教育機関となった。 中国が小泉さんの靖国参拝に異常に反応している。不思議だった。どうして、あんなにこだわるのだろう? 黄文雄さんの本と東中野修道さんの本を読んで思うのだが、本当の戦犯は「中国共産党」と「中国国民党」ではないのか、と思う。 1937年7月7日の戦闘の仕掛け人、南京に引き込まれて、虐殺宣伝。それが宋三姉妹を通じてアメリカの世論を動かした。一貫して日本国内の世論工作をしたのが朝日新聞である。これは今も続いている。 蒋介石の「報怨報徳」毛沢東「日本軍国主義のおかげて革命が早まった」周恩来「日本人民に負担をかける賠償はいらない」など、今から考えれば意味深な発言ばかりである。 おめでたきは日本人のみ。アメリカ人も日本人といい勝負だけどね。 北京オリンピック、中国首脳が「反日デモは起こさせない」と言い切った。自分達が仕掛けたデモだから自信もって言える。しかし、「反政府デモ・暴動」を起こさせないとは、自信がないだろう。 2008年、北京オリンピックの年、中国は暴動の年になるだろうと思う。不満分子には絶好のチャンスである。世界中が注目する中で暴動を起こす。中国2000万共産党員に明日はない。
2005.03.22
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日曜の夜、アンコーさん、愛川欣也、落合恵子と、深夜放送の雄がNHKに集まった。テレビでも放映された。アンコーさんの顔を見るのは初めてである。宇田川さんも新聞の写真では見たことはあるがテレビでは初めてである。落合さんは青山のクレヨンハウスのレストランで一度見かけたことがある。 愛川欣也は数年前、TBSで月一深夜放送を4時間くらいやっていた。彼は埼玉・浦和高校の出身でクラスメイトなのだろう、霞ヶ関の知り合い情報を時々語っていた。「北朝鮮の核開発、あれは小型で・・・」それほどのものではない。マスコミに流される情報とは違うものであるが、面白いけど信じるには危険な情報である。 私の友人で宇田川さんのファンがいる。20代頃の彼女を知っているらしい。 アンコーさん「昔はハガキで聴取者の反応が1週間遅れだったんですが、今はメールで直なんですよ」と現役ならではの情報を披露する。 途中、人質解放のニュースが入って中断、地震のニュースで30分遅れで始まっている。 当分、早寝(夜8時)早起き(早朝3時)の生活になりそうだ。
2005.03.21
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世間様は竹島問題で騒がしいが、面白い研究発表がなされている。「4世紀から6世紀の新羅がローマ文化を持った王国であった」という説である。この本の著者・由水氏が原稿を書き上げて出版社に出した。一読した編集者は著者に「要するにこれは独断と偏見による見解でしょう」これは由水氏にとって強烈な一撃となった。ある程度読者からの反応として予想していたことだが、まさか、編集者からとは! で、由水氏、原稿を書き直した。そして、資料を追加した。三百数十枚の新羅出土の資料、ローマ世界の出土資料、南ロシアやステップ・ルートの出土の挿入写真。 編集者がい言った。「これは大変なライフ・ワークですね!」 もう、20年以上も前だが池袋に韓国文化センターが出来て、講演会がよく開かれていた。そこで、韓国の大学教授の講演があり「韓国語に一番近い言語は日本語ではない。古代トルコ語である」という話が印象に残った。 この本『ローマ文化王国-新羅』の広告を見て興味をもったのはその古代トルコ語という情報があったからだ。 金正日は学生時代、朝鮮の歴史を学んで「統一新羅は本当の統一ではない。唐という外国勢力の力を借りたものだ。むしろ、高句麗の系統をひく高麗が正統である」という見解を持ったという。この程度の見解なら私だって持った。 高麗を正統とする「檀君神話」を採用して歴史戦略が立てられた。韓国もそれに従った。檀君神話に元づく歴史観なら北は有利である。その長期戦略に現在の韓国は飲み込まれている。 しかし、「新しい歴史を変える見解」が出てきた。朝鮮戦争のとき北を南に進軍した。当然、南の民衆は北に呼応して立ち上がるであろうと期待した。しかし、実際は、激しい抵抗をしたのだった。特に、慶尚道の抵抗は激しかった。洛東江を越えることは出来なかった。 由水氏の修士学論文は「東洋古代ガラスの研究」であった。中国・朝鮮・日本で出土、伝世している古代ガラスの研究である。これらガラス器には3つの系統があった。ローマ、ペルシャ、中国の3系統である。特にローマの系統は出土する場所に特色があり、他の場所からは出てこなかった。 朝鮮ではこのローマ・グラスが出土するのは新羅のみであった。 新羅に一番近いローマ・グラス出土地は鮮卑族の王朝・北魏である。都は大同。 韓国・朝鮮人は自分たちのことを日本人同様単一民族だと思っている。しかし、いろいろな文化、民族が融合、いや融合できなくて困っているのである。 ヨーロッパにおいて冷戦構造は解消したのにアジアではまだ冷戦構造が解消していないという説をとなえる欧米の学者がいるそうだ。韓国・朝鮮人は自分達の国が分断しているのは東西冷戦の犠牲者だと言ってきた。それを防げなかった日本の実力不足をなじってきたが、本当は、自分達の内部にある文明対立に気がついていないのである。600年続けてき理気論争にまだ、決着をつけていない。東西冷戦はとっくに終わっている。 日韓の学者達が地道に研究を重ね新しい学説を発見した。昔ながらの古い定説にしがみついた運動はもう飽き飽きである。
2005.03.20
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福田和也は近似憎悪というのだろうか、生理的に嫌いである。だから、読まない。私は心筋梗塞で倒れる前、体重が80kg以上あった。90kg近くになったこともある。人に会うときは便利だった。メガネかけたドラえもんが黒いカバン下げてます、と言えば向こうの方から声をかけてくれた。上下ともブルーを着ていることも多かった。 アキアカネさんのページで阿部和重を知り、その作品を読んだ。解説の東裕紀という哲学者がいる。今度は東裕紀を読んだ。文芸批評だという。福田和也が出てきた。 昔、勤めていた出版社の社長の友達に大学教授がいた。その教授、会うたびに柄谷行人を批判した。私は柄谷行人を知らない。「批評空間」という雑誌に柄谷の名前を見つけて何冊か読んだ事がある。 批判するには批判する相手の事を知らなければならない。【引用】福田「柄谷さんとはこないだ、文芸批評と革命論についても話をしたんですよ。文芸批評は抑圧するやつがいなくなった。江藤淳さんも中上健次さんもいなくなった。自分は一人で抑圧していたが、来年からアメリカに行ってしまっていなくなる。だから、おまえが抑圧しろという話でね。おもしろかったのは、自分が批評家として優れているのは、先に善し悪しがわかる。その善し悪しは絶対に理屈じゃないと言うところ。勘みたいなもので、それがわかったのは平野謙と江藤淳と自分だけ。君はものになるかもしれないけれども。その理屈と関係ないというのがひとつおもしろかった」 宮崎さんはTBSラジオでアクセスという番組に出ている。私は、数年間ファックス会員で毎日意見を書いて出していた。ゲストに福田を招いて、宮崎さんは「ボクが尊敬する評論家です」と最大限の賛辞をおくっていた。 福田は嫌な奴だが、日本のインテリの標準・基準であると自他共に認められている。これを批判できて、論破できて、はじめて日本の基準を変えることが出来る。 早速、ミゾウチに蹴りを入れてやろうと思っている。
2005.03.19
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ニッポン放送で月~金・朝5:00から「朝刊フジ」という番組をやっている。パーソナリティーは塚越隆・塚ちゃんと呼ばれている。今朝「こんな時にどうして島根県議会で『竹島の日』を決めてしまったのだろう???」という事を言っていた。彼はフジ・サンケイグループの中でもはっきりとした正論の持ち主で、その彼ですら、今回の韓国の反応に戸惑っているようだ。 これは私の【推論】である。「島根における竹下・青木の影響力が消滅した」 竹下登は中学の英語教師だった。仕事が来た時断ったそうだ。しかし、「PTAとDDTの違いが解ればいいのだから」と勧められ、引き受けたという。青年団活動から県議、そして、国政へと進んだ。 彼は韓国との窓口になった。彼が生きていれば「在日に地方選挙権」はすんなり通ったはずだ。国会にかけられる直前、竹下は死んだ。それまで反対意見を言えなかった自民党議員が反対を表明した。 1985年のプラザ合意、大蔵大臣として参加している。あの円高誘導で中国からの出稼ぎがどっと日本にやってきた。その結果、中国マフィアが日本で跋扈することになった。暴力団新法で日本側の抵抗勢力を弱体化させて、マフィアの活動を助けた。 竹下派は人材の宝庫だった。七奉行がいた。しかし、私にはその七奉行に竹下を足すと8人・ヤマタノオロチ(八頭蛇)に見えた。何か、ヤマト朝廷に恨みを晴らそうという(潜在意識)でもあるように見えた。 この竹下・青木の重石がとれたのではないか?と思う。 やっと島根県民の生の声を出せることが出来た。竹下・青木の思惑で韓国と事を構えるのを避けてきた。そして、日本の国益を損ねる円高誘導、外国人の無秩序な招来となった。 この時期、日本人が韓国に対して物事を素直に発言できるようになったのは、拉致事件が公認されたからである。 私の記憶を辿れば、昭和29年当時、李ラインによる漁船の拿捕があった。そして、長い日韓会談。やっと昭和40年日韓条約となった。大野伴睦は冗談にあの岩爆薬で吹き飛ばそうかと言った。 その条約から40年、韓国は一方的にこの条約をないものにしようと反日法を作った。どちらが、隣人として信頼出来る国なのか。 「七恩」を「七奪」と間違った歴史を捏造して、自らを反省しない。 今回は出雲の神・スサノオが立ち上がった。荒ぶる神である。韓国の皆様、今までとは勝手違いますよ。お覚悟の程!
2005.03.18
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黄文雄さんの『日本の植民地の真実』を読んでいる。分厚い本なので、まだ、p62。全部でp470だから、読み終わるのはまだまだ。 明治維新以来、日本は「殖産興業」「脱亜入欧」「富国強兵」を難なくやってしまった。その基礎は江戸時代にかなり出来ていたし、各藩が生き残りを掛けてそれぞれが努力した。そのトップが長州藩だった。 黄文雄さんは言う。「19世紀の時点で東亜世界は、日本を除く中国・満州・朝鮮・台湾、全てに匪賊(泥棒集団)が跋扈、支配していた。王権は無力、兵士は兵匪となって匪賊以上の掠奪集団だった。しかも最悪だったのは、兵匪を上回る掠奪者が役人だった」 日本の軍隊が満州・朝鮮・台湾でこの役人・兵匪・匪賊を撲滅したのである。その結果、経済発展の基礎が造られたのである。 日本人にとって当り前のことが、一歩、外に出ると奇跡だったのである。 しかし、1985年の円高以来、日本に匪賊の集団が侵入に、日本の役人達が匪賊以上の掠奪者になっている。 まず、何が問題なのか、それらを指摘してくれているのが黄文雄さんの著書である。書店にたくさん並んでいる。売れているのであろう。心強い事である。
2005.03.17
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黄文雄さんの本から 韓国人によれば日帝36年に7つのものが奪われたという。その7つとは(1)国王(2)主権(3)人命(4)土地(5)資源(6)国語(7)姓名・グローバルな視点で見ると、搾取されていたのは日本の方だった。(国王)・李王朝は日本の皇族に列せられた。亡命政府は「大韓民国」であって「大韓帝国」ではない。国王を廃したのは独立運動をやっていた連中である。(主権)・李王朝は清朝廷臣の管轄下・主権が元々なかった。(人命)・1906年に980万人であった。約30年後の1938年に2400万人。韓国では算数を教えていないようだ。(土地・資源)・農地改良、農制の確立で生産性の向上、農地拡大、新田開発。人民の土地の強奪は李朝両班が繰り返し行ってきた事。「日帝」の仕業にすり替え。(国語・姓名)・ハングルが普及したのは日本統治になってから。終戦時、日本語を読解できる人は20%未満だった。国民の半数近くの奴婢階層には姓がなかった。李朝時代・16歳以上の男子は身分証明書携帯義務・号牌法・移住禁止・女子再婚禁止・朋党・五戸による相互監視・五家作統法・連座法などこれらが日本統治で廃止された。 今の北朝鮮は李朝時代を再現しているようだ。その北朝鮮と提携しようとしている現韓国政府、また、それを支持しようと言う韓国国民は地獄に行きたい、不幸になりたい人々のようである。「どうぞ、ご自由に!」というしかない。「行ってらっしゃい!」 王族虐殺の事例・・・金素雲『朝鮮史譚』講談社学術文庫 高麗が滅び李氏朝鮮となった。新しい国王は高麗の王族に布告をした。本来なら皆殺しだが命を助ける。ただし、暫くの間、島に隔離する。いずれ解放する。某日某所に集まれ。そこで船に乗せ沖に出た。そして、その船ごと沈めて、高麗の王族を抹殺した。金素雲は言う。この話は民間に伝承として残っているもので正史では別の話になっている。 この高麗の王一族が日本に来たという伝承がある。神奈川県大磯、高来神社というのがある。また、埼玉・日高町の高麗神社が有名である。
2005.03.16
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雪混じりの冷たい雨の日だった。電話線を外す作業の警備。2人だった。職人さんの親方も「こんな日によく来たな! オレは休みたかったのに」と。昼過ぎ3時には終りになった。 仕事が終わってホットしたのか無口な相方の警備員が「ボクは今年で70になるんですよ」という。背筋は真っ直ぐ伸びていて体は細いけれど動きは機敏である。「まさかー、60代前半に見えますよ。 若い頃、体鍛えていたんでしょ」とオベンチャラも含めて返答をした。「うん、スポーツをね」「えっ、何やってたんですか?」「野球、ノンプロだけどね」 今までに甲子園に出た、補欠だったけどという人と解体屋で仕事をしたことはある。元相撲取りとか、プロレスのオーディションに落ちたとか。野球でプロ一歩手前の人と近しく話をするのははじめてである。 大洋に長田という選手がいたが同僚だったという。三原で優勝した頃だから今から45年も前の話である。私が南海ファンであり、杉浦やスタンカの話はよく憶えていた。蔭山ヘッド・コーチの事もよく覚えている。当り前といえば当り前である。 数日前、また、別の現場であった。「野村のID野球ですけどね、蔭山理論の影響受けているんじゃないですか?」と兼ねがね考えていたことを彼に質問した。「うーん、まだ、野村、レギュラーとってなかったよ。はっきりとした因果関係わかんないね」「戦後、一番凄いと思う選手、誰ですか?」「尾崎だね。あの剛速球、すごいよ。長嶋のこと、みんなが言うほど凄いとは思わないなー」「アメリカからシーリズというスリーAだけどね、それが来て、大学選抜、立教が関根、蔭山は早稲田だった。互角の試合したんだよ。プロよりレベル高かったなー」 昼休みの会話である。 今度、会った時、どういう質問をしようか、考え込んでいる。贅沢な悩みである。
2005.03.15
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ニッポン放送日曜朝のトーク番組、今月は野口建。 父親は外交官だという。彼の母親はアラブ人とヨーロッパ人との混血で飛びぬけた美人だという。父親はエジプト考古学者の教授と争って獲得したという。 彼の母親は普段は英語で会話しているのだが、怒り出すとアラブ語になり、もっと怒るとフランス語になった。 日本に来て夫に失望したという。外交官は外国に居る時の生活レベルと日本国内のレベルでは格段の差がある。貧弱な官舎に住んで「騙された!」と思ったらしい。エジプトに戻って、不倫に走り、夫には似ても似つかない弟が生まれた。それでも野口の父は喜んだという。しかし、本当の事が分かって離婚。野口は父の元に留まった。 中学・高校はイギリスで日本人学校の寄宿舎に入った。若い父親が新しい女性との生活をするのには自分の存在が邪魔になるだろうとの判断だった。 冒険家・アルピニストになるまでが紆余曲折なのだが、面白い人だ。将来、政治の世界に入ると思う。
2005.03.14
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当時、彼は、まだ、二十歳を過ぎたとことだった。沖縄水産を卒業して、1年間北海道を無銭旅行をしたという。プロ・ボクサーを目指していた。解体屋の仕事はきつい。40歳近くになっていた私などは1日が終わると、しばらくは動けなかった。ゆっくりと着替えて、やっと立ち上がる。 しかし、彼は中野のジムまでジョギングで行った。現場は沼袋だったから数キロはある。道具を担いで行くこともあった。本人の話ではかなり自信を持っていたが、拳を骨折してしまって、プロの道は諦めてしまった。何年かして、彼は独立して親方になった。 私の父の名前を言うと、しばらく考え込んでいる風であったが、「一門になるよ」という。沖縄の武士階層は3つの家が一門を提携せているという。苗字と名前にどう言う字を使っているかで分かるらしい。沖縄自体が狭いのか、しかし、不思議なご縁である。 彼も私同様、3つの姓を持っている。中国名は「尚」だという。王族の苗字である。江戸中期、不品行を重ねた王子が小さな島に任官させられ、その子孫なんだという。今はダイビングのメッカになっている島である。 『ひめゆり忠臣蔵』に出てくる西荻の「馬小屋」という居酒屋があるが、そこの奥さんの出身地でもある。ご主人の方が沖縄の人っぽいのだが、栃木である。 沖縄の家系図は先祖供養のためのものである。私の家のは1968年・昭和43年に本家に伝わる家系図をもとに親戚20人が編集委員となり、子孫全員の名前が書かれている。私の名前も入っている。アルゼンチンに移民した親戚の名前もある。そこに出ている人たちに限れば私は北限である。 家内が池袋のデパートでマネキンの仕事をしている。ある日、「お父さんと同じ苗字の人が買い物にきたよ」とその送り先の伝票を見せてくれた。本家のある住所だった。
2005.03.13
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仲程さんという沖縄近代文学を研究している人がいる。その著書『琉書探求』を読んだ。沖縄には彼が研究対象とする文献がない。戦争でそのほとんどが焼けてしまった。東京で国会図書館をはじめ色々な所を探し歩いた。「沖縄の人が書いた文献を探しています」この問いかけに図書館員は戸惑ったそうだ。著者名、著書名が分かるものを検索できるようにはなっている。やっと、駒場の近代文学館で詩集のコピーを見つけた。コピーだから、原本があるはずだ。その原本は川崎市立中原図書館にあった。 作詞家で詩人の佐藤惣之助という人がいた。戦中・戦後、ヒット曲の作詞家でNHKラジオ深夜便では毎日のように彼の名前を聞く。佐藤は詩人仲間からは白い目で見られながらも、ヒット曲を作詞しお金を稼いだ。そして、その稼いだお金を沖縄出身の詩人達に提供した。その詩集・全巻が中原図書館に所蔵されているという。 佐藤惣之助は川崎出身である。その詩人仲間に金子光晴がいる。この前、鴨居の古本屋で『金子光晴詩集』を買った。新潮文庫・昭和27年発行のものだ。山之口獏が解説を書いている。 山之口は大正12年の関東大震災に逢って東京を引き揚げ、那覇をうろついていたという。図書館で「日本詩人」誌上に掲載された金子の詩を読み、その爛熟な詩風に、こころひかれたという。 再度上京、昭和9年に詩壇の人々と接触する。「浅草の泪橋の界隈に、ぼくの同郷の友人の経営している泡盛屋の二階でのことで、琉球料理を味わう会というのが催されて、・・・」ここで山之口は金子光晴、森三千代、佐藤惣之助と出会う。 私が参加している同人誌にこの金子光晴と交友のあった人がいる。何時もの飲み会でこの「川崎と沖縄」の交流のことを話した。すると、「金子さんからね、入院中の山之口を見舞ってくれと頼まれたことあるんだ。行けなかったんだけどね」 解体屋の時、一緒に仕事をした沖縄出身の青年がいたが、彼は「山之口はお祖父さんの弟だ」と言っていた。
2005.03.12
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私には三つの姓がある。日本(ヤマト)と沖縄(琉球)と中国の三つである。父が12歳の時、沖縄から大阪に来た。戦後、ある事情で日本名を名乗るようになった。父のご先祖が中国から1700年頃?、沖縄にやって来た。 私は10年単位で言えば、日本人だし、100年単位で言えば、琉球人だし、1000年単位で言えば、中国人になる。 20年程前、まだ、両親が健在だった。大阪の家に帰ると、「家系図」なるものがあった。ご先祖のお祭りを親戚がローテーションを組んでやっている。その年と次の年、2年間私の父がそのお祭りをする当番になっていたのだった。私はこっそりコピーにその家系図をとった。 仕事先で知り合った中国の雑技(サーカス)を研究している学者にその家系図を見せた。その学者は「一晩借りるよ」と家に持ち帰ってゆっくりと見たらしい。「確かな中国語で書かれているよ。君のご先祖はこの人だよ」と上海で出されているご先祖辞典があって、私のご先祖は3800年前の歴史的には有名人らしい。 「ご先祖、うむ。300年は分かるけど、3500年は分からない」福建に行けば図書館みたいなものがあって、調べられるという。
2005.03.11
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今回のホリエモン騒動、私はラジオが好きで、特にニッポン放送をよく聞いているので、ヒトゴトとは思えない。アンコーさんや塚ちゃんや上ちゃんといった人たちの声を毎日のように聞いている。やっと、最近になって、この問題を放送で取り上げるようになった。 ニッポン放送にも甘いところがある。社長のカメちゃんも反省すべきこと、多々あると思う。 今日の朝4時、アンコーさんの番組でリスナーからメール「今回のことでフジ・サンケイグループは度量がないと思います」それに対して、アンコーさんの返事「度量という話ではないと思います。ニッポン放送に41年居る私が感じる危機感って何でしょうね」常に音楽番組を通じてある時代を作ってきた人だから言える回等だと思う。 もう辞めてしまったが、哲ちゃんが朝5時からやっていた時は必ず天気予報で気温を何度言ってくれた。それを聞いて私は何枚服を着ていくかを決めていた。雨なら、雨の準備をした。 病気でリハビリの時、放送を聞きながら歩いた。 私にとっては日常の生活の一部になっているのだが、ホリエモンの話からは「ラジオのある生活」とは? という話が伝わってこない。
2005.03.10
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「南京大虐殺」の定義:1937年12月13日の南京陥落から6週間の間に、日本軍が強姦、掠奪、放火、とりわけ4万人の捕虜、市民を虐殺したという事件の総称。 東京裁判では・アメリカ 当初4万人の虐殺・中華民国 34万人の虐殺や28万人の虐殺を、それぞれが主張。・結果 松井石根(いわね)大将絞首刑 谷寿夫第六師団長・田中軍吉大尉・野田巌少尉・向井敏明少尉 南京で処刑証人出廷なしの「全く不公平な裁判」→説得力の無い裁判であった。 「南京大虐殺」を証明する「史料」の登場・『シカゴ・デイリー・ニューズ』(1937/12/15)「南京虐殺物語」・『ニューヨーク・タイムズ』(1937/12/17)「南京占領の汚点は屠殺」・ハロルド・ティンパーリ編『戦争とは何か』(1938/7)南京在住・欧米人の告発文・ジョン・マギーのフィルム*この史料は東京裁判には提出されていなかった。 新史料の出現・ティンパーリ『戦争とは何か』の正体が判明 中国国民党中央宣伝部が中国共産党系の知識人とともに作った「宣伝本」 (台北・国民党党史会が所蔵『中央宣伝部国際宣伝処工作概要・・1938年~1941年4月』1941) ティンパーリ 南京の中立的欧米人だと思われていたが、本当は国民党の顧問 中国語本では「姦淫、放火、掠奪」虐殺の言葉が無い。「虐殺」は英語本のみ。 私の友人に「石原莞爾」の研究家がいる。限りなく信奉者に近いかも知れない。 その友人から40年祭に誘われた。石原は昭和24年に亡くなっているから、たぶん平成元年だったと思う。山形の酒田まで行った。式典には山形選出の国会議員全員が来て挨拶をした。東亜連盟が健在だったのだ。こういう大会は秘書が来てメッセージを代読というのが、普通だが議員本人が全員集合というのは珍しい。加藤紘一もいた。 酒田市の図書館に「ナポレオン文庫」という部屋がある。石原莞爾が収集したナポレオンに関する文献が納められている。 そのナポレオン文庫で、ある大学教授の話「石原は日本にいる妻にドイツから手紙を書いている。じゃがいもの値段が克明に書かれている。それが第一次大戦後の超インフレに関する史料なるんです。翻訳してくれとね。だけど、石原は『毛唐、毛唐』を連発してましてね。これをどう訳すか、悩んでるんですよ」 石原の信奉者には中国贔屓が多い。支那事変以降の参謀本部が石原の進言を無視し、満州の権益まで台無しにしてしまった。しかし、石原は重慶爆撃を独断でやって、日本孤立化にとどめを刺したわけだから、人のことはいえない。 不思議なことに戦犯・第1号になっていいはずの石原莞爾が無罪。 日本側に足並みの乱れがある。情報戦争は味方の隙を狙ってくる。
2005.03.09
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1937年といえば、68年前の話。昭和12年、あの長嶋さんが昭和11年生まれだから、ミスターがまだ、2歳の頃の話である。その年の出来事がまた、現在の問題として浮上している。1937年7月7日午後10時40分、廬溝橋で演習中の日本軍が銃撃を受けた。 7月8日午前5時半、日本軍が反撃、日中両国が戦闘態勢に入る。(支那事変の始まり) 7月29日 中国軍が日本居留民を虐殺(通州虐殺) 8月9日 和平交渉・上海で予定 上海の日本海軍陸戦隊員2名、中国保安隊によって殺害 和平交渉流れる(第二次上海事変)・当時の北支・国際条約で自国民保護のため外国軍(日・米・仏・伊)が駐屯 蒋介石の国民政府軍・臨戦態勢・独軍事顧問団・蒋介石の狙い・上海で日本と戦闘をして反日・親中の世論作り・揚子江沿岸に在留邦人3万人・8月12日 日本軍約5000人、国民政府軍約5万人・11月5日 日本軍 杭州湾に第十軍を急派・11月12日 上海陥落 日本軍戦死者約2万、戦傷者約6万(日露戦争以来の大消耗) 国民政府軍、南京に敗走・11月28日 南京攻略決定(大本営陸軍部)*まだ、本題の南京まで行っていない。この続きは明日。
2005.03.08
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伊豆山に松井石根が建てた興亜観音がある。20年も前だが一度行った事がある。高校時代から田中正明氏の本を読んでいた。パールさんの秘書をしていた人だ。パールさんとはあのパール判決のパールさんである。1966年夏、パールさんは日本で講演をやった。無言で手を合掌して聴衆を見つめるだけだった。聴衆からは嗚咽の声があがった。後で関係者にパールさんが語ったことによると「感動して言葉がでてこなっかった。決して体調が悪かったわけではない」 次の日、読売新聞に「無言の講演」として大きな記事になった。私は当時、浪人中で予備校にいた。数学の先生が授業中、突然、このパールさんの「無言の講演」の話を始めた。この先生も南方の戦闘に参加していたのだろう。 松井石根に関心を持ったのはその名前である。私の小学校の同級生に「~鉄根(てっこん)」という人がいた。在日の人である。出席簿を読むとき何時も笑いの対象となった。後二人沖縄の人で同じように笑いの対象になる名前の人が居た。 私は4年の時、彼に聞いた「何時も笑われているけど、恥ずかしくないのか?」彼は「恥ずかしくない! 両親につけていただいた名前であるから恥ずかしくない。むしろ、誇りを持っている」 松井石根は南京攻略部隊の司令官である。そのことの故にA級戦犯として絞首刑になった。戦後、ある人から、「興亜観音を和光観音に名前を変更したら」と言われたそうだ。松井は「名前を変えるくらいなら台座から外して海に棄ててしまった方がいい」と興亜に拘ったそうだ。 田中正明さんの本によると、赤軍派によってこの興亜観音の台座が爆破された時、7人のアメリカ人が供養されていることが分かったという。その7人は昭和25年12月23日朝鮮で崖から自動車が落ちるという事故で亡くなった。その一人がA級戦犯の処刑に立ち会った将校である。A級戦犯の処刑は当時の皇太子の誕生日、いづれ天皇誕生日になる日に行われた。 「南無妙法蓮華経」と書かれた塔もこの興亜観音にはある。これにも爆弾が仕掛けられたのだが、導火線が途中ショートして不発に終わった。何処でショートしたかというと「南無妙法蓮華経」の「妙」の字のところで、そこだけ黒く焦げ目が入っているという話だった。私が20年程前に興亜観音に行ったのはこの「焦げ目」の確認に行ったのである。 東中野修道『1937南京攻略戦の真実』という本を読み始めたところだ。 第六師団(熊本)は日本最強の兵団である。その兵隊の手記がある。 東中野さんの話では「南京大虐殺」は完全なプロパガンダだという。 やっと、松井大将の敵が討てる。
2005.03.07
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金素雲の話。戦後、直に釜山の道端で日本人女性と日本語で話をしていた。彼女の夫は韓国人で満州からの引揚者だった。 すると、街の顔役然とした男が因縁をつけてきた。「おまえ、今、日本語を話してたな! 日帝には『恨み』があるんだ!」素雲先生、即座に反撃した。「ちぎれんばかりに、尾っぽを振っていた『恨み』だろう」その男はすごすごとその場を立ち去った。次、顔を合わすと向こうから挨拶するようになったという。 日本でも戦前は戦争を煽った知識人が戦後、反戦平和を唱えている。時流に乗っかるのに全勢力を費やす保身の人たちである。 もし、「創氏改名」をしていなかったら、韓国・朝鮮人たちは「日帝は我々を徹底的に差別した。名前も自由に改名させなかった」と今、非難していると思う。 私は小学校4年の時から近所に住む韓国・朝鮮人と「ケンカ」している。彼らが、私の近所では多数派だった。仲良くなった友人もいるが、最初は「ケンカ」だった。北に帰った同級生もいる。「大阪で差別されて暮らすより、祖国の建設のために尽くす」という言葉を残したのは小学5年生・11歳の同級生である。私はこういう人物と同級生だった事を誇りに思っている。 中途半端な在日が多い。韓国・朝鮮人であることを日本人的に表現しているから分かりにくい。「朝鮮人ならはっきりしろ!」と私にどやされた人は多い。 黄文雄『日本の植民地真実』のなかに創氏改名に至る経緯が詳しく出ている。(1)新羅が唐の力を借りて朝鮮半島を統一ツングース系の族姓を棄てて、漢人の姓を「賜姓」・貴族のみ(2)高麗朝・一般庶民まで漢姓 金・李・朴・崔、鄭など(3)朝鮮の「姓」とは先祖の祭祀を中心とする男子単系血族集団・宗族の称号(4)「創氏」とは家族の称号 Family Name(5)1940年2月、申告制で義務化ではない。 半年間に約80%が申告 創氏改名のきっかけは満州に進出した朝鮮人からの要望であった。(1)19世紀末、間島地方の入植(2)漢人が満州に侵入・盗伐・盗墾、朝鮮人は漢人に雇われた(3)朝鮮人→水田、漢人→旱田 (棲み分け)(4)両者で衝突、「万宝山事件」1931/7(5)趙悦(満州・協和会)「・・・朝鮮人にたいする圧迫・迫害、言語道断」 日本名を名乗り、日本国民であることを明確にする。1933/8(6)田中武勇(朝鮮総督府外事課長)「在満鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざして驕慢な態度に出、自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州人やその他との間に紛争を惹き起こし、ためにその非難忌避の対象となること甚だ多し」*この見解は引揚者だった人たちからよく聞いた話である。李光洙→香山光郎:「三・一運動」以来民族派→親日派李朝時代の価値否定→日本人化こそが朝鮮の文明開化 この名残がある。・万歳(明治に作られた日本の作法)・アリラン(ヨナ抜きと呼ばれる日本の旋律)・学生応援歌(鉄道唱歌)韓国・朝鮮人の「反日」は自分探しで放浪している青年たちと同じようだ。もっと徹底して「花札」や「唐辛子」も禁止した方がいい。海外に留学したがる韓国人が多くなる気持ち分かるね。
2005.03.06
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経営者「ほりえもん」は否と9割方の社員が意思表明したとか、昨日(3/4)の放送でも上柳アナウンサーがこの意思表明にふれていた。 私もリスナーでなければ「ほりえもん」を応援していたかも知れない。ラジオについて、「ほりえもん」が言及しているらしいが、それは後でつけた理屈。ニッポン放送を踏み台にしてフジ・サンケイグループと取引しようという意図ははじめから明白である。私個人としたら、フジ・サンケイグループが引っくり返ろうが、誰が経営者になろうが、どうでも良い事である。 しかし、毎日聞いているニッポン放送となると関心を引く。社長・カメちゃんが出てきても「こんな顔だったのか」程度だった。今度は、上ちゃんが出てきた。 中島みゆきがTBSラジオで日曜夜9時から1時間番組を持っていた。デビューして1年目の頃だ。ずっと欠かさず聴いていた。この話を友人達にすると決まって同じ反応が返ってきた。「えっ! 日曜の夜、一人寂しくラジオ聴いてたの?」そう、最初の結婚に失敗、女房に逃げられて、一人寂しく、昼間は山岡荘八の『徳川家康』を読み、夜はラジオを聴いていたのだ。 中島みゆきの番組は半年で終り、次の年から、ニッポン放送のオールナイトでパーソナリティーをやり始めた。月曜深夜1時から3時まで。はじめは1時から30分くらい聴いていた。次の日が朝6時に起きて仕事に行かなければならない。だから寝る。 その内、1時半が2時になり2時半になって3時まで聴くようになってしまった。 中島みゆきの後、3時から5時までオールナイトの2部をやっていたのが新人アナウンサー・上柳・上ちゃんだった。 上ちゃんの絶叫を聞きながら寝てしまうのだった。「みなさん、ハガキがね、1枚も来ないの! だから、みなさん、ハガキ書いてね!」ゴメンネ、上ちゃん、あした、6時に起きなきゃいけない、3時間もないの、寝るので、ゴメンネ。 20数年が経って、上ちゃんも社員代表のアナウンサー、貧乏くじ引いたな・・・。 ハガキ、書けなかったけど、今度は応援するよ!「えっ! あまり目立ちたくないって?」 ダメだよ! 「ほりえもん」が乗り込んできた時は「上ちゃん」ひとり辞めればすむことじゃない? 日頃の「男の美学」どうしたの?
2005.03.05
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この本は発表された時、大きな話題になった。その時は読まなかった。橋田さんの本に近藤さんの事が出ていた。それで書店で目についたので買った。 橋田さんは言う。・・・産経新聞の記者であり、名文家であった故近藤紘一さんの高説の一つに「すべからくジャーナリストは『女性』が好きでなくてはならない」・・・ 近藤さんは昭和15年(1940)東京生まれ。昭和38年早稲田・仏文卒。サンケイ新聞入社。静岡支局・フランス留学(昭和42~44)・サイゴン特派員(昭和46~50)・バンコク特派員(昭和53~58)。昭和61年胃ガンのため死去。 この本は昭和54年10回大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。 子連れ再婚の妻、戦乱のサイゴンで「ダリヤのような笑顔」の女性と出会い、同棲。彼女は「お釈迦さまが決めたこと」という。 思春期の娘への「性教育」、ヴェトナムの母は強烈である。 初潮のあった後、妻は娘をトイレに連れ込んで、丹念に手入れの仕方を指南。「毎日よく洗うんだよ。汚くしておくとボーイフレンドができないからね」「メンスがきたら、ちゃんとママに言わなくちゃダメよ。その間は、お寺に行ったり、仏壇に線香をあげたり出来ないんだからね。お供え物もあげちゃいけないよ」 母の娘にたいする「性教育の教材」はテレビ番組だった。夜11時過ぎ、裸の女の子が出てきて踊ったり、うめいたり、からんだりする。「お前も見なさい」と強制する。 娘は興味がない。オカマや女風呂が出てくると、面白がってケラケラと笑い出すが、「バーカみたい」とたちまち退屈する。近藤さんが「おい、寝かしてやれよ。こんあドギツいのを見せたら、こいつ、考え込んでしまうぞ」と言うと、「ダメよ、この子、幼稚すぎるから、早く鍛えないと」ととりあわない。「いまのうちにうんと見せて慣れさせてしまえば、あとで変な好奇心を持ったり、何かあったときに親に隠したりしないでしょう」 ブラウン管に登場するヌードダンサーを検分して「ほら見てごらん。この人おっぱい、きれいだろう。お前もこういう風にならなきゃだめだよ」「これは大きすぎる。デレーンとしている。いいかい、怠けて体を動かさないでいるとこんなになっちゃうんだよ」 男と女についてはヴェトナム人はタフであるようだ。妻は日本に来て、殺人の多いことに驚いたという。しかし、男と女の嫉妬がらみの刃傷沙汰は驚くほど多いという。ヴェトナム版阿部定事件などは年に数回はニュースになったという。 女性の強いお国柄だという。グエン・カオ・キが首相を引き受ける時にこう言ったそうだ。「これから帰って、女房に聞いてくる。もし女房の許可(her authorization)が得られれば、首相に就任しよう」
2005.03.04
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私が読んだ朝鮮通史のなかで一番面白かった本である。著者がフランスに居て研究活動に没頭できる環境だからだと思われる。 私の同人誌に韓国に詳しい人がいる。私も結構在日の人や韓国には知人がいる。初対面の挨拶で、彼は「金容権(この本の翻訳者)との関わりだったら遠慮しますから」という。金容権は私の知人の知り合いであるが、私とは直接の面識はない。何かトラブル・メーカーらしい。翻訳の仕事の成果を見る限り有能な人物のように見える。 私が面白いという箇所は蒙古に支配されていた時の情況である。 ・・・蒙古の影響は富者の服装にあらわれた。1260年フビライ汗自身は、朝鮮人はひきつづき朝鮮服を着るように主張した。それでも1276年になると、高麗宮廷の蒙古服奨励措置をさまたげなかった。そのうえ、数多くの高麗貴族が自分の名として、朝鮮名以外に蒙古式人名をつかった。1278年フビライ汗は高麗王に「なぜ、なんじは自国の習俗を捨てるのか」とたずねた。・・・ 客観的に自分達の歴史を語る「韓国人」がいるというのが、私には驚きであった。神話と歴史の区別が出来ない人たちの言説に余りにも多く接してきたから。
2005.03.03
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「棲み分ける批評」とは東裕紀の解説である。90年代文芸批評はアカデミズムとジャーナリズムへの激しい二極化で特徴づけられたという。アカデミックな批評には社会的緊張がなく、ジャーナリズムの批評には知的な緊張がないという。前者の代表が浅田彰で後者の代表が福田和也であるという。 このそれぞれが対立しているようで共存している。棲み分けているのである。それぞれにお客様が居て、ご商売が成り立っているのである。しかし、こういう状態からは、本来の「文芸批評」が出てくるわけがない。 私はここまで読んで「ネット」の登場によって、この「棲み分け」が成立しなくなると思う。ネットは社会的緊張と知的な緊張、両者の緊張が伴って成り立っている。
2005.03.02
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東氏が「批評」の象徴として小林秀雄をあげている。小林秀雄は若い頃、懸賞論文で賞金稼ぎをしていた。その賞金をタンポに友人達から借金をして、そのほとんどが酒代に消えたとは本人の証言である。当然自分が1位だと思っていたら、別人に1位を取られたことがあった。その別人とは宮本顕治であった。 『改造』昭和3年4月号の懸賞論文である。その前年・昭和2年7月14日、芥川龍之介が自殺した。その芥川批判「敗北の文学」宮本論文のテーマである。「ブルジョア芸術家の多くが無為で怠惰な一切のものへの無関心主義の泥沼に沈んでいる時、とまれ芥川氏は自己の苦悶をギリギリと噛みしめた。また他の遁世的な作家達に、風流的安住が無力であるのみならず、究極において自己を滅ぼすものであることを、氏自身の必死的な羽ばたきによって警告した。また氏は多大の小ブルジョア的狭隘的を内包しつつも、尚他のブルジョア・イデオローグに比して、広汎な社会的関心を持っていたし・・・・凡そ、これ等の事実においてでなくてはならぬ。・・・「敗北」の文学を・・・・そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない。」 荒正人はプレタリア文学には一線を画す人であるが、文芸批評家・宮本顕治には賛辞を惜しまない。(昭和22年1月20日・文化タイムズ・4号) しかし、この3年後、宮本顕治はコミンテルンの意を受けて、平和路線の共産党執行部批判の急先鋒に立つのである。
2005.03.01
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