小樽と音楽そしてアジアの旅を愛す 【 ら ぐ お 】 日 記

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大学受難の前半パート2


バンジョーだ。ギターににているといってもチューニングは違うは
で、必死に練習。曲は”世界は日の出を待っている”なんてよく演奏した。
デキシーの曲は楽しいし、いいのだが。なにがいやかというと
おのカンカン帽だ。それはロックをやっていた私には耐えられなかった。

そしてギターが弾けなかったことがつらかった。
そこうしているうちに、デキシーの先輩たちは吹奏楽出身が多く
その人たちが副業でビックバンドをやりはじめた。
なにをかくそう。これがのちに吹奏楽部とJAZZ研にわかれていくのだが・・・。三響楽器の関谷さんは、その吹奏楽出身である。

そのビッグバンドで、演奏するのはカウントベイシーやらグレンミラー
で、”茶色の小瓶””Moonlight Serenade"など
ギターはベイシー楽団のギターのように
聞こえるか聞こえないかのようにバッキングしろという。
ロックで、いつも前面にでていた自分にはたえられなかった。
しかもアドリブはアドリブであってアドリブではなく
すべて、譜面に書いてあるのを毎回同じようにやるだけであった。

その状況の中で、1年が過ぎ
デキシーとビッグバンドに新しい1年を勧誘
一人はディープパープルのイアンペース好きなドラムのSと
フリージャズ好きのIである。
それぞれ、ロック・JAZZができるとだまし、いれてしまった。

その2人といつしか、この状況を打破しようと
まずJAZZを習おうではないかということになり。
東京のJAZZ学校に通うことを決意。

群馬の高崎から東京は鈍行列車で2時間往復4時間ゆられ
あこがれの東京へ
毎週1回通った。

私はルーツ音楽院。ベースは池田芳夫に習いに行く。
その時はパワーがありました。
ルーツ音楽院にいたのは
スィングギターの沢田俊吾である。またしてもスィングかと思ったが
そこはプロ。アドリブの基本をいろいろと教えてくれた。
東京はすごいと思った。

こまったことがある。
東京は人が多い。
ギターを持って、山手線に乗ると
ギターのハードケースは女性のお尻にあたり
何度か痴漢にまちがえられそうになった。

そんな毎日で充実していた。最初に習ったのはやはり”枯葉”
”Fのブルース”である。ツーファイブの洗礼にあったのもこの頃だ。
JAZZにのめりこんでいくと、当然現状の状況にがまんできなくなり
ついにデキシーを脱退して、違う道にいくことを決意
ドラム・ベースの3人で、デキシーをやめるという決断

先輩にいうのが、いやだった~
コンサートのパンフを配っていたとき
やめますと切り出すと、先輩はベース・ドラムにひきとめにはいる
その2人も私もやめるっすといい。

ついにデキシーが私の上の学年で消滅することになった。
歴史があっただけに、うらまれたのだが
高崎経済大学のJAZZも新旧交代があったことで一歩先にいくと
考えることにした。

結局は先輩がいなくなり、アンプなどは
自分たちが使うことになる。ビッグバンドの残党の同僚は
クラシックをもう少しやりたいということになり吹奏楽部へと様変わり
したのであった。

よくこのころのデキシーの先輩が
根室のビックバンドJAZZの特集をテレビで放映したときに
その先輩を見かけたとき、そのころのことが思い出される。

デキシーの思い出は、よくスーパーの新装開店に
バイトで演奏したのを思い出す。
”聖者の行進”なんか人気があった
確か1バンド8万円だったかな
全部部費に消えていったものだ。

あとクリスマス時のダンスパーティーでの演奏も楽しかった
デパートや銀行員が
普段のかしこまった雰囲気から
一気にブレイクして、盛り上がっていた。

よ~く、チークダンスを無理やり強いられた経験がある。
その頃まだピチピチの19歳
デパガや銀行レディーにチークダンスで
足をいれられた時は
さすがに、たじたじ・・・・。
それを面白がられ、何度も誘われたこともあった

とにかくデキシー・ビッグバンドの経験はJAZZの初体験とともに
人間関係の大変さも学んだ、貴重な体験である。

その後、やりたかったロックもというか当時のことばで
クロスオーバーな音楽をするバンドを結成していくことになる。
(続く)


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