平和を願う一市民さん
>日本が二度と戦争に加わることがないよう憲法9条を守り育て世界に広げてゆきましょう。
残念ながら、敵国に、憲法9条を、つきつけても、効果は、まったくありません。 
憲法9条で平和が保たれているわけではないのです。今は、日米同盟で軍を持たない日本に駐在している米軍基地があるから、それが、抑止力となって、中国が攻めて来れない状態で、平和が保たれているのです。米国民を欺いたルーズベルト政権の実情から、歴史を紐解いて見直すことにより誰が、どういう目的で9条を制定したかがわかると、暗示が解けると思います。犯罪行為なら、むしろ、米国が2つの原発を落とし、大空襲をして無差別に一般市民を大虐殺したことでしょう。規模が違いすぎます。

(2014/03/08 03:00:37 PM)

オバかの耳はロバの耳 

2011/06/07
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カテゴリ: カテゴリ未分類
日本の心を伝える会からの抜粋です。
**************

バシー海峡 ◆

フィリピンと台湾の間に、バシー海峡はあります。
その海峡で25万人以上の日本人将兵、軍艦、輸送船二百隻がいまだに、海底に放置されています。

この事実をご存知でしょうか?

25万将兵の御霊を祀ったお寺が台湾最南端の恒春半島の猫鼻頭(マオビトウ)という場所にあります。
高雄から200キロの場所です。お寺の名前は潮音寺といいます。

静岡市にお住まいの中嶋秀次氏が、昭和五十六年、何億のお金と全私財を投じて建立なさいました。



バシー海峡に玉津丸がさしかかったとき、アメリカ軍の攻撃を受けてしまいあっという間に「玉津丸」は沈没しました。

将兵たちは海に投げ出されたあとは、救助用筏につかまってバシーの海上をさまよったのです。
最初は小さな筏に2~30人がつかまっていたといいます。

バシーの海をさまよい続ける間、飢渇と海中にひそむ鱶(フカ)への恐怖におののきました。
衰弱した将兵は日が経つにつれて、次々と死んでいきました。

精神を病んで自ら海に没していく兵隊もいました。
中嶋氏が救助されたのは遭難から12日後でした。

ちなみに玉津丸で生き残ったのは五千将兵のうち中嶋氏を含む5人のみでした。
他の輸送船も同じような状況であったでしょうね。

潮音寺以外に、バシー海峡で亡くなった兵士を、慰霊、顕彰するものは何もありません。

バシー海峡は戦前は日本の領海でした。


昭和19年には海、空ともにアメリカに制圧されてしまい、通過する日本の輸送船はアメリカの機銃掃射、潜水艦からの攻撃で大打撃を受けました。
病院船までもが攻撃の対象だったとか。

結果として25万以上の将兵がバシー海峡の海で亡くなりました。
ご遺体は恒春半島のあちこちの浜辺に打ち寄せられました。

この海域での大惨事を知る人たちはバシー海峡を輸送船の墓場と言っているそうです。


この浜辺にも約15000体ものご遺体、軍馬が打ち寄せられたこともあったそうです。

ご遺体収容は主として陸軍が行い、地元の台湾人の青年団が収容に協力をしました。

後年、中嶋氏は収容に当たった人から「遺体の軍服を持ち上げると、体全体に蛆のような小虫がびっしり取り付き肉体を食い散らし、骨片がボロボロと地面に落ちた」と聞いたそうです。

半島の浜辺からは、あまたのご遺体が台湾各地の共同墓地に毎日トラックで運ばれていったのです。

こういう事実があったにもかかわらずバシー海峡の悲惨極まる話は今にいたるも、伝わってきません。

シベリア、満州、南方、沖縄、での激戦状態、悲惨については多くの日本人の知るところです。
国として遺骨収集をした話、慰霊塔建立の話も伝わってきています。

しかし、バシーでの大惨事に関して、なぜ、伝わらないのでしょうか?

去年の秋、マオビトウの浜辺で海を見ていると、タンカーらしき船が西から東に通過していきました。
きっと日本に向けて油を満載しているタンカーなのだろうと思うと、なんともやりきれない思いがしました。

海上には今の日本人の生活に不可欠の原油を運ぶタンカー
その海底には日本のために戦って死んでいった幾数十万のご遺体が・・。

それらのご遺体は現在の多くの日本人に知られていません。

あまりにも不条理ではありませんか。
あまりにもむごすぎませんか。

彼らの殉死の意味はいったい、なんだったのでしょうか。

祖国である日本が、日本人の私たちがこの方々の上に思いを込めた行動をしないとは。なんとも情けない話です。

今の日本の状況は沈没寸前の船にも思えます。

多くの人たちが日本の今後について、あれこれと理屈を言っています。

しかし、もっとも基本的なこと、すなわち国に殉じた人々を顕彰もしないで、なにが日本再生だと私は心底、思っています。

バシー海峡の25万人の将兵も他の地域で、戦死なされた方々と同じように日本国から顕彰されてしかるべき方々です。

この方々は国に殉じたのです。
今の日本の礎となってくださった方がたなのです。

中嶋氏は生還してから戦後、ずっとご自身が生き残った理由と意味を探し続けてきたと言います。
だからこそ、全財産を失っても潮音寺建立へと情熱を傾けたのです。

バシー海峡の悲惨さを多くの日本人に知ってもらうにはどうしたらいいのでしょうか?
私のような力のない者には伝える術を持ちません。

今年、雑誌正論2月号にこの件に関し、投稿したものを掲載していただきましたが、たいした反応はありませんでした。

あちこちでこの話をしても同様です。「あら、そう」で終わりです。

信仰団体に行って話しても、関心を寄せてはもらえませんでした。
今の日本人には戦争中のことなど関心がない、どうでもいい、ことなのでしょうか。
自分の生活に直接関係ない、と思っているのでしょうか。

むなしさが沈殿していくのみです。

参拝に行っていろいろなことがわかりました。
潮音寺を管理してくださっているのは、高雄の台湾人女性です。

潮音寺の管理も、たまにやってくる日本からの参拝の案内もこの女性が個人のお志でなさっておられるのです。

毎年、旧暦の7月15日に、女性は25万将兵のために盛大にご供養をなされています。

日本国のために命を捧げた人々にたいして現地の人におんぶに、抱っこの任せきりでいいのでしょうか?

私は身の置き所のないような恥ずかしさを覚えました。

日本からの参拝客は年間二百人ぐらいだそうです。
あまりに少ない参拝客ではあります。

中嶋氏は“バシー海峡”と言う歌集を出版されたことがあります。
戦場に赴くときの気持ち、バシーの海で遭難に遭ったときの歌を最後にご紹介いたします。


些かの虚しさはあれ
今にして
物は思わじ 防人われは

再びは見じ父母の国よ
幸くあれわれ
南冥に 朽ち果つるとも

国を護る防人として戦地に赴く決意の歌です。
中嶋氏だけでなく数多の防人も同じ護国の決意で戦場に赴いたのでしょう。

60数年前の青年たちのこの悲壮なる決意に対して、私たちは“落ち行くのみの国家を作り上げた”、という答えを出した、と言ったら、言い過ぎでしょうか。

昭和19年8月19日未明、中嶋氏が乗船した大型輸送船玉津丸は五分間で、海底に没しました。
そのことを氏は次のように詠いました。

傾ける暗きデッキに 竦み足り
死の世界をば 視るここちして

聳えたつ 左舷をよじる黒き影
われも続かむ 奈落の海へ

のめるがに傾きてゆく一万トンの
闇の真中に 怯えこみあぐ

五千余の戦友らを呑みてさりげなく
海はゆるやかに 呼吸しており

たった65年前、バシー海峡で、前途有為な青年たちが国に殉じたことを、どうぞ心にお留め下さい。

~~~~~~~~~~

以上は、花うさぎさんのブログで紹介された、花うさぎさんあてに、ある方がお便りにしたためられた文です。
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1161988/

>多くの人たちが日本の今後について、あれこれと理屈を言っています。
しかし、もっとも基本的なこと、すなわち国に殉じた人々を顕彰もしないで、なにが日本再生だと私は心底、思っています。
バシー海峡の25万人の将兵も他の地域で、戦死なされた方々と同じように日本国から顕彰されてしかるべき方々です。
この方々は国に殉じたのです。
今の日本の礎となってくださった方がたなのです。

この言葉は、ズシリと重い響きを持っています。

戦後の日本は、昭和40年代頃までは、とにもかくにも焼け野原からの復興期であって、余裕はなかったかもしれません。

しかし昭和50年代、昭和60年代と、日本が経済的に余裕が出てきたとき、戦後の日本人は自分の贅沢だけにおぼれ、私たちの国に殉じ、私たち家族を守るために死んで行った方々から目をそむけてきたといえようかと思います。

恩を知るをもって人といいます。
その意味では、いつのころからか、私たち日本人は、人ですらなくなっていったのかもしれません。

私たちは決して木の股から生まれたわけではない。
親がいて、祖父母がいて、そのまた祖父母がいて、そうやって累々と繋がる血脈の上に、いまの私たちがいる。

その私たちを守るために殉じられた方々を、どうして私たちは国家として家族として慰霊し、懸賞することができないのでしょうか。

日本人は、

そんな薄情な恩知らずの民族なのでしょうか。





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Last updated  2011/06/07 12:59:37 PM
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Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
あづさ さん
もっと早くにこのブログを知りたかったです。
私の祖父もバシー海峡の生き残りです。
いろいろ調べて扶桑丸に乗船していた事はわかっています。今はもう亡くなってしまいましたが、いつも寝る前のお話は戦争の話でした。いかに、船が沈む瞬間、海に漂って餓えと鱶の恐怖に闘ったか何度も意識が無くなり海に沈みそうになったか何度聞いた事でしょう。
生前、戦友かい (2013/06/23 01:55:14 AM)

Re[1]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
紅茶丸  さん
あづささん
>もっと早くにこのブログを知りたかったです。
>私の祖父もバシー海峡の生き残りです。
貴重なコメントをありがとうございます。ご先祖様あっての今の平和だと感謝申し上げます。 (2013/06/28 10:29:43 AM)

Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
初めまして。 さん
長野市からです、森林整備の仕事をしている41歳男です。
先日とある杉林で作業をしていたところ一つの墓石を見つけました。もう何十年以上も放置されていたようです、荒れ放題の草木を刈りはらってみると「昭和19年8月19日バシー海峡戦死 享年24歳」と。

その方の両親もなくなり以後誰も訪れることなくただひっそりとそこに眠っていたのか・・・。

もしかしたら私の姿を見て呼んだ?
考えすぎでしょうか。

次の休みに献花にでも行こうと思います、彼の冥福と感謝の想いも持って。 (2013/08/12 07:31:11 PM)

Re[4]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
かえる さん
おじもバシー海峡で戦死とだけしかわからず、お盆なので何かもっと知りたい思いでバシー海峡を検索中にこのブログを見つけ、このような思いの方々がいらっしゃいましてうれしく思います。
林業の方へ、ご英霊の方もご遺族も喜ばれていることでしょう。ありがとうございます。 (2013/08/14 11:53:47 AM)

Re[1]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
紅茶丸  さん
初めまして。さん
>長野市からです、森林整備の仕事をしている41歳男です。
>先日とある杉林で作業をしていたところ一つの墓石を見つけました。
>もしかしたら私の姿を見て呼んだ?
>考えすぎでしょうか。
きっとそうなのだと思います。 墓石が今でも残って、見つけていただいて、英霊さまもお天道様もさぞかしお喜びのことと思います。
伯父はフィリピンの戦場へ行きましたが、途中台風にあい、米国の攻撃にもあって生き残った一人でした。その時のことを数年前に手記に残しています。

>次の休みに献花にでも行こうと思います、彼の冥福と感謝の想いも持って。
ありがとうございます。
(2013/08/29 12:47:21 AM)

Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
平和を願う一市民 さん
バシー海峡のことを紹介していただきありがとうございます。私の祖父は、1944年7月31日、南方へ向かう途上、乗船していた輸送船が米潜水艦の魚雷攻撃により沈没し帰らぬ人となりました。39歳の老兵でした。遺骨は当然のことながら帰ってきていません。バシー海峡では連日米潜水艦の攻撃により多数の被害が出ていることを知りながら、兵士は消耗品とばかり送り出した軍部の犯罪行為を私は許すことができません。日本が二度と戦争に加わることがないよう憲法9条を守り育て世界に広げてゆきましょう。 (2014/03/03 10:36:31 AM)

Re[1]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
紅茶丸  さん

Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
樋口勝広 さん
母方の祖父が昭和19年12月6日にまさしくここで亡くなりました。30歳になる直前に。何も知ろうとしなかった自分が恥ずかしいです。ありがとうございます。勝手にフェイスブックにシェアして仕舞い申し訳ございません。 (2015/01/15 08:04:26 AM)

Re[1]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
紅茶丸  さん
樋口勝広さん
>母方の祖父が昭和19年12月6日にまさしくここで亡くなりました。
そうでしたか。家族を残して散るのはさぞかし無念だったと察します。しかし、今の私達が平和な日本で生を受け生活させていただいているのも樋口様のご先祖様の偉大なる犠牲があったからだと思います。
もっと多くの日本人の方に知っていただいて伝えついでいただきたいです。 合掌
(2015/01/16 01:37:21 PM)

Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
一文字 さん
四年前に亡くなった父も、当時軍属(軍刀砥師)としてバシー海峡を渡りました。
敗戦の約一年位前でしょうか、貨物船もすでになく大型漁船で渡ったそうです。先に台湾から船出した船や、父の漁船より後から出た船もアメリカの潜水艦に沈められたそうです。
無事フィリピンに上陸すれば、アメリカ軍よりもモロ族の攻撃が恐怖だったそうです。
無事日本に帰れて不思議と運の強い人でした。 (2015/04/13 12:27:03 AM)

Re[1]:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
紅茶丸  さん
一文字さん
お父様もバシー海峡を渡られた経験がおなりなのですね。
>無事フィリピンに上陸すれば、アメリカ軍よりもモロ族の攻撃が恐怖だったそうです。
モロ族についてこのような興味あるサイトがありました。
http://www.shootingtips.com/newfiles/article/Dawn%20of%2045%20Myths/Dawn%20of%2045%20myths.html#Anchor-23040
みな国を守る為に命がけだったんだろうと思います。
>無事日本に帰れて不思議と運の強い人でした。
私達が今ある平和はお父様やその他の英霊の方々が守ってくれたからだと思います。
-----
(2015/04/14 10:25:06 AM)

Re:バシー海峡での出来事をもっと知るべきでは、、、(06/07)  
もあん さん
瀬戸内海に浮かぶ小島にある義父の墓参に行きました。義父が幼少のころ父親代わりとなった長兄の墓碑銘に「陸軍伍長○○バシー海峡で戦死」とありました。お骨が戻ってこなかったことは聞いていました。陸軍なのになぜ海峡で戦死、と不思議に思いました。帰ってきてバシー海峡を検索し、このサイトにたどり着きました。日本人としてこの事実を知らず、恥ずかしく感じました。 (2020/08/06 02:34:40 PM)

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