話は 14世紀にさかのぼる
。
当時のイタリアは一つの国家を形成してはおらず、
ヨーロッパの諸貴族が所有する土地の寄せ集めみたいなものであった。
ローマはご存知、ローマ教皇(法王)領であった。
この中世イタリアで、
古代ローマ時代のような 市民による政治を取り戻す
べく、革命を試みたのが、
われらが コーラ・ディ・リエンツォ
である。
1347年、カピトリーノの丘に市民議会を召集し、
反貴族の意思を表明したコーラは、
ローマの群集から拍手喝采を浴び、
古代ローマ時代に存在した 「護民官」の地位
を得た。
税制、法制など政治制度の改正を宣言し、
市民による ローマ皇帝
選挙までも発案したのである。
しかし彼の活躍をおもしろく思わなかったのが、
貴族やローマ法王であった。
犯罪者、異教徒の汚名を着せられ、アブルッツォに隠れたコーラは、
プラハに亡命せざるを得なくなる。
そこでドイツの神聖ローマ皇帝に助けを求めたものの、
裏切られてローマ法王クレメンス6世に引き渡され、
しまいには宗教裁判にまで
かけられた。
無実は認められ、次の法王の代になってローマに戻り、 元老院議員として返り咲く
も、
貴族コロンナ家の搾取によって苦しめられていた
ローマ市民の 暴動に巻き込まれて殺されてしまった
。
まだ41歳の若さであった。
そんな彼、コーラ・ディ・リエンツォの名の付いた
コーラ・ディ・リエンツォ通り(Via Cola di Rienzo)
には、
おいしいジェラート屋さん、レストラン、素敵なブティック、
庶民的な露店、デパートにスーパーに喫茶店と何でも揃っている。
ヴァチカンのサン・ピエトロ広場の北側、リソルジメント広場から
東に延びる三本の道のうちの一つである。
ヴァチカン付近へお越しの際は是非どうぞ。
(2006年6月)
参考にしたサイト
コーラ・ディ・リエンツォの説明
(英語のサイト)


