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私
: 広田
の描く「 日中提携
」とは、日本陸軍とは一線を画しながら、 汪兆銘
らの親日派
と連携し、 政治と経済の両面から緊密な関係を構築
しようというものだったという。
しかし、 アジア主義
ではなかった。
広田
は ケースバイケースの柔軟外交
であって、 特定の主義や理念
によるものではない。
それだけに 時代の波
に流されやすい。
A氏: 幣原外交 は 対米英協調 という基軸がしっかりしているし、重光は理詰めであるのと異なっているわけだね。
私
: 広田外交
のおかげで 1935年の上半期
は 満州事変から太平洋戦争に至る間で、おそらく日中関係で 最も明るいきざしがみえていた時期
だという。
その象徴が 1935年5月の駐華公使館から大使館への昇格
で、これも広田の功績だね。
しかも、イギリス、アメリカ、ドイツにも駐華大使館への格上げを勧めた。
これにより、 中国の国際的な地位は引き上げられた。
A氏 :対米英関係の改善と「 日中提携 」を同時に進める 広田構想が結実した瞬間 だね。
私
: 汪兆銘
は泣いて喜んだという。
しかし、これは 広田
が直接活動したもので、かねてから 昇格に反対だった陸軍軍人は先に根回しがなかったとして、激怒
する。
これが 広田の中国政策の転落
のはじまりとなる。
A氏 : 広田 は「 対中国政策、すなわち対陸軍政策 」であることを思い知ることになるわけだね。
私
:陸軍の反発は 華北分離工作
を始め出す。
満州だけでなく、 中国北部を中国の国民政府から切り離して、勢力下に置こうとする陸軍の工作
だね。
A氏 : 広田対中外交の後退 だね。
私
: 汪兆銘
らの 親日派も没落
する。
1936年になると広田外交に明るいきざしはみえなくなる。
広田
が行き詰ったとき、 2.26事件
が起きる。
これがまた、 広田の運命
を大きく変えるね。
A氏:
この事件で 岡田内閣は総辞職
。
次期首相として、 近衛文麿
が推薦されるが、 彼は健康上の理由で断る
。
私
:そこで白羽の矢が 広田弘毅
に向けられた。
近衛
は広田と 外務省同期
の 吉田茂
を広田の説得に行かせる。
こうして、 1936年3月5日、天皇から 組閣の大命
を受ける。
A氏
:しかし、 近衛
が断ったほどの内外で難題をかかえているときに、首相の座をなんで広田は受けたのだろうね。
「 火中の栗を拾う
」ことになるのは明らかなのにね。
私
: 東京裁判の記録
によると、それは 2.26事件を起すような陸軍に対する怒り
であったという。
しかし、 組閣人事に陸軍が介入
し出す。
吉田茂
を外相にしようとしたら、 親米派だということで陸軍が反対
。
これは諦める。
なんとか、妥協しながらも押し切って一応組閣を終える。
2.26事件による政治的な空白を12日で埋めた広田の功績は大きい。
広田内閣の活動 がどうであったかは明日の話題にしよう。
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「イスラムの怒り」内藤正典著・集英社新… 2009.08.24