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1年前の今日、12月26日に写真館で最後の家族写真を撮った。その時はまさか、1年後にさえりんがいないなんて想像すらしていなかった・・・ でも、さえりんの成人式の前撮り写真の時に、何故だかわからないけど、どうしても家族で一緒に記念の家族写真を絶対に撮りたかった。何かの予感だったのか、虫の知らせだったのかよくわからないけど、それだけは、私がすごくこだわった。我が家は休みもみんなバラバラだから、4人の予定を合わせるのは大変だった。主人と私は水曜日が休みで、さえりんは前もって頼めば融通が効く。問題は当時高校生だった次女。土日しか休みじゃないから、考えたのが冬休みだった。でも、年が明けたら暫くは写真館が休みになるから、1年前の今日12月26日(水)この日しかチャンスがなかったのだ。主人も次女も最初はあまり乗り気じゃなかったけど、さえりんは「みんなで写真撮ろうよ!」って賛成してくれた。そして、前撮り写真の当日午後からの予約だったのでお昼過ぎにまずさえりんを写真館に連れていき、お化粧とヘアーメイクと振袖を着つけてもらった。さえりんはいつもショートヘアでお化粧もほとんどしなかったのでどんどん綺麗になっていくさえりんは「自分じゃないみたい」って照れくさそうに笑っていた。準備が終わると、カメラマンが「まずは1人だけの写真を何枚か撮りますので今のうちにご家族を連れてきてください」というので、私は自宅に帰って、自分もスーツに着替えて、主人もスーツに、次女は制服に着替えて写真館に向かった。さえりんは何ポーズかたくさんセットや背景を変えて一人の写真を撮ってもらっていた。もともと飾らない性格で、こういうのは嫌がるかなって思ってたけど、案外ノリノリで楽しそうに笑って撮ってもらっていた。特に自分で選んで買った、振袖が気に入っていたからかもしれないと思った。見ていたら、さえりんが本当に楽しそうで私も嬉しかった。私達3人が着いて、次はセットを変えて家族4人の写真を撮った。私一人が座り、後ろに主人、さえりん、次女の順に並んだ。みんなとってもいい顔をしていた!!今思えば、我が家の幸せの絶頂期だった。こんな日がいつまでも続くと信じていた・・・あの時の私達は・・・撮影後にパソコンの画面を見ながらたくさん撮った中からみんなで10枚の写真を選んでアルバムにしてもらった。アルバムの形状と絵柄はさえりんが好きなものを選んだ。でも私の希望で、その中に1枚家族写真も最後に入れてもらった。お金は高くなったが、撮っておいて本当に良かったと思っている!!だって、今となってはもう2度と撮ることが出来ないんだから・・・このアルバムのさえりんの姿は、私の一生の大切な宝物になった。さえりんはこの20歳で可愛いままの姿が、永遠の姿となってしまった・・・待ち時間に写真館の中でみんなでスマホやデジカメで写真を撮った。その時次女が「私の成人席の時も家族写真撮ろうね!」と言った。さえりんは親指を立てて「オッケー!!」って笑っていた。まさか、次女の成人式の前に自分がいなくなるなんてさえりん自身も、私達も思いもしなかったから・・・さえりんのお葬式の少し後に、次女が「もう家族写真は撮れないんだね・・・」って、寂しそうに言った。私は物凄く悲しかったけど、次女に「あなたの成人式のときはママがお姉ちゃんの遺影を抱いて4人で撮るんだよ!!」って言った。先日母(姑)が2階のさえりんのお仏壇に会いに来た時に、写真立てに飾ってあった家族写真を見て、ちょっと寂しそうな顔をした。私は、折角なら父と母にも一緒に撮ってもらえば良かったと思った。でも、その時はきっと誘っても両親の方から私達はいいからって言ったような気がした。こんなことになるなんて誰も思わないから・・・だけど先の事なんて誰もわからないからこそ、今を後悔しないように生きていかなきゃって、教訓になった。だから次女の時は今度こそ、父と母にも「一緒にお願いします」と頼んでみようと思った。叶うかどうかはわからないけど、後悔はしたくないから・・・あと約1年後、再来年の次女の成人式には必ずまた家族写真を撮ろうと思うんだ。もちろん、さえりんも一緒にだよ(さえりんの成人式のアルバムの表紙)(最後の家族写真)(次女のスマホで面白写真をとっている2人をパパが撮った)(次女のスマホで撮った写真)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月26日
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今日で、私がブログをはじめて100日目になりました!!特に何かあるわけではないですが、今まで何でも3日坊主で日記を書いても、こんなに続いたことは未だかつてありません。みなさんはもっともっと、何年も何十年も続けてみえて本当に凄いなあって感心しています。それにさえりんへの想いを綴っていこうとはじめたブログですが、自分でもこんなにたくさん毎日毎日書くことがあるなんて驚いています。ひとつわかったことは、自分の気持ちに蓋をしてしまえば、思い出なんていつの間にか消えて行ってしまうかもしれない。でも、こうして心の声に素直に、毎日耳を傾け、文章にすれば想いはどんどん溢れてくるんだってことを発見した。その想いは、もうさえりんには届かないかもしれないけど、届くはずないけど、でも私はきっと必ず届いていると信じたい!!さえりんは私の気持ちを必ず感じてくれているはずだと・・・今日は向こうで新しく出来たたくさんのお友達と一緒に、クリスマスを楽しく過ごしているんだって、ママは信じてる。親馬鹿で笑われるかもしれないけど、それでもいい・・・ママは馬鹿だから、今でも、これから先いつまでも、ずーっと、さえりんの幸せと喜ぶ姿だけを、願っているよ!!そうでも思わないとママは生きていけないからね・・・いつかママがそっちに逝ったら「こんなこともあったね」って笑って話そうね、さえりん。昨日は先日喪中はがきを送った時お線香を送って下さったIさんの奥様から、ハガキが届いた。その中に、「ブログ毎朝日課のように見てエールを送っています」と書いてくださって、本当に有難いなって胸が熱くなりました。昨日も書きましたが、こんなことになってしまったから、人の心の温かさにあらためて気付かされる毎日です。こんなことにならなきゃ気付けなかった私なんだと思うとまた、自暴自棄に陥りそうなので、なるべく後ろ向きにならないように、前を向いて考えようと思う。この100日間、ブログを通してたくさんの方々に出逢えたこと、本当に嬉しいです!!なんといってもmeronさんに出逢えなかったら、はじめられなかったしね(≧▽≦)昔は信じていなかったネットの中の人たちとの繋がりが、こんなにもいい出逢いだったことに、心から感謝しています!!そして、今までもお友達だった方々が、今もこのブログを毎日見て温かく見守って下さることにも、心からお礼を言いたいです。「みなさんありがとうございます。私は何とか一日一日、娘を想いながら、ちゃんと生きていますからご安心ください」と。そして、これからもまた200日、300日、1年、2年、3年って続けていけたらいいなって思っています。いつの間にかこのブログが、私が生きる支えになっていることが不思議でなりません・・・(;^ω^)こんな私ですが、みなさんこれからもお付き合いいただけたら嬉しいです!!どうかよろしくお願いいたします!!さえりんもこれからも頼むね!!ママのこと応援してねさえりん!!ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。昨日のクリスマスイブはご馳走もケーキなんて食べないって思っていたのに、思いがけず次女が夜8時前に帰ってきて「ケーキ食べたいよ!」って言うので、もうないだろうと思いながら、近くのケーキ屋さんに行くと、まだありました。生チョコケーキ!!次女にせがまれて買ってしまいました(;^ω^)もちろんさえりんにもお供えして、一緒に美味しくいただきました。ミヤちゃんさん・宝ママさん・raiseさんへみなさんに出逢えたこと、本当に感謝しています。ブログをはじめて良かったと心から思っています!!立場は違っても死別の苦しみを分かち合える仲間が出来たことがどれだけ生きる支えになっているかわかりません。これからも、共に生きていきたいです!!いつまでも仲良くして下さいね(#^.^#)
2019年12月25日
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昨日はこの季節、家に引き籠っていたい私が街に出た。それは、優しい人たちに会うために。先日TさんとHちゃんと会った時、私がある人達に会いたいと思ってることを知ったTさんがその人に伝えてくれた。そしてそのKさんから電話をもらい、昨日会うことが出来た。KさんとSさんだ。このお二人はTさんとも共通の知人。とっても年上で、私の実家の母くらいの年齢の方々。でも、とっても素敵な方々で、私が勝手に懐いている優しい人たち。さえりんが亡くなったこともすごく悲しんで、私の事を心配してくれた。通夜葬儀の他に、3回くらい我が家にもお参りに来てくれたけど、私からは遠慮もあって、なかなか会いに行けなかった。いつも気にかけて下さり、まるで陽だまりのように温かくてお母さんみたいな方々。昨日は久しぶりに会えることがすごく嬉しくて、いつもいただいてばかりでなにひとつお返しが出来ていなかったから、ほんのささやかだけどクリスマスプレゼントがしたいと思った。(キリストも神も信じていないのに矛盾してるけど(;´・ω・))だけど、お礼の気持ちには変わりないから。感謝の気持ちはどんな形でもいいんだと勝手に思っている。昨日は、とっても暖かくていいお天気。お昼前Kさんのお宅に行くと、ちょうどSさんも見えたところで私の車に乗ってもらい、予約してあった『浜木綿』へ行った。個室のテーブル席は真ん中がターンテーブルになっていてこの前Tさんたちと行ったときの掘りごたつ風テーブルとは違い、中華っぽい雰囲気のお部屋だった。KさんとSさんと3人で隣同士で座り、この前食べなかった小籠包付きのランチコースを3人とも注文した。最近の近況などお話しながら、次々運ばれてくるランチにお腹いっぱいになりながら、穏やかで優しい時間が流れた。お2人は昨日会えたことをとても喜んでくださり「来月もまた会おうね」と約束してくださった!!行きに私の心ばかりの贈り物をお2人に渡すと、喜んでくださった。帰る時には、お2人からそれぞれに、さえりんのお供えにおせんべいをお土産でいただいた。お返ししたつもりが、またもらっちゃった(≧▽≦)さえりんが亡くなっていいことなんてなんにもないけれど、こうしていつまでも、心配して見守って下さる方々がいて下さることは何より、私の心を癒してくれるのです。こんな状態になるまでは、毎日がバタバタと忙しすぎて心を無くし、大事なことに気付かず通り過ぎてしまっていた、愚かな私・・・今は人の心の温かさだけを頼りに命を繋いで、一日一日をゆっくりかみしめて生きている。こんな時間も私には必要な時間なんだと思える。こうやって少しずつだけど、人としてあるべき姿に蘇っていくのかな?まだまだ感情の起伏も激しくて、修業が足りないけど・・・(;^ω^)でも、たった一つせめてもの救いは、人の心の温かさが身に染みて、素直に感謝できるようになれたこと。ブログのみなさんもそうですが、今までの友人達からも、人を想う温かい心に救われて、助けられ、支えられて、今は、なんとか生きています・・・みなさん、本当にありがとうございます!!これも、さえりんからのプレゼントだよね(じじくさい電気屋さんのマネをして雪降らし、主人にやってもらいました(*^^)v )(昨日のお二人への贈り物 ラッピングは私がしました(≧▽≦))(昨日いただいたおせんべいをさえりんにお供えした)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月24日
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街はクリスマスムード一色で盛り上がるこの週末、ひとり喪に服し、真っ暗な心でいる私がいる。クリスマスがちょっとも楽しくない、少数派の一人。ぼっちクリスマスではないが、我が家にはもうクリスマスもお正月も来なくなってしまった。今年は・・・来年も・・・その先の事はまだわからない。次女は土日は大学の友人たちとクリスマスロックフェス(ライブ)に丸2日間、朝から夜遅くまで行っている。とっても楽しそうである!!次女はまだ若いからそれでいいと思うし、次女が楽しんでいる姿は私も嬉しい。ただ私はこの賑わいが今年はとても不快に感じて、孤独になる。昨日は被害者サポートセンターの遺族の集まりがあり参加した。人数はいつもより少なかった。みなさんお忙しいのかな?年末だし・・・私は、名古屋まで出るのになるべく電車ではなく、車で行く。車は交通事故が怖いが、車中は自分一人の空間になるからまだいい。電車は人がたくさんいて、ざわざわしている賑わいが辛い。目に飛び込んでくる人たちや、お店や、音楽も、どこか浮かれていて楽しそうなのが私には悲しくなる・・・テレビやみなさんのブログで見ているだけなら素直に素敵って思えるんですが、自分がその場にいると物凄く疎外感を感じて、別世界に感じてしまう。まるで、私だけが白黒の、色のない世界にいるみたいに。今年はクリスマスケーキは買わない。クリスマスのお料理も作らない。さえりんがいなくなった今、私から色が消えた。お祝いも、楽しい行事も、笑顔の食卓も消えた。ただあるのはあの日から、現実を奪われたみすぼらしいおばさんが一人だけ。でも、寂しくはないよ・・・本当のひとりぼっちじゃないから。パパも次女も両親もみんないる。でも、みんな心にポッカリ穴が空いているんだ。それは、みんなを笑顔にしてくれる大切な存在の、さえりんがいなくなちゃったから・・・さえりんはサンタさんをまだ信じていた。だから、毎年さえりんには枕元にプレゼントを夜中の内に置いておいた。起きて喜んでいる顔が見たいから。でも本当はさえりんだって次女同様に、もうサンタさんはパパなんだって知っていたと思う。だけど、知らないふりをしてくれた。その方がパパとママが喜ぶから、笑ってくれるから。さえりんの優しさだったと思う。こんなに心の綺麗な、優しい娘だったのに・・・もしも、本当にサンタクロースがいるんだったら、一生のお願いだから、ひとつだけ望みを叶えてよ!もう一度でいいから、さえりんに会わせてよ!!私の宝物を運んできてよ!!それが叶わないならもう我が家には、クリスマスもお正月も来ない。私は、キリストも神様も奇跡も信じない。「早くこんな季節が終わってしまえばいい」と、心の中で叫ぶ。誰にも聞かれないように・・・こんな僻み根性の醜い姿を、人に知られたくないから・・・この季節は本当に辛い・・・思い出すことがいっぱいありすぎて・・・心を正常に保つことが難しい。さえりんに会いたい気持ちが抑えられなくなるから・・・さえりんは、向こうでできたお友達と、ケーキを手作りして今頃クリスマスパーティーしてるのかな??きっとそうであってほしいと、ママは願っています!!(11歳の時のさえりん クリスマスイブに)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月23日
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一昨日の続きです。母とさえりんの仏壇の前で話をしていた時、ふと思ったことがある。それは、母が「我が家の子供は次女一人になり、土地やお墓や仏壇を一人で守るのは可哀そうだから、もうやめてしまってもいいよ」と言ったのです。確かに私たちが死んでしまった後の事はもうどうなるかわからないので、こうしなくちゃいけないとか言えないかもしれない。でも、私はそれで本当にいいなかな??ってモヤモヤと違和感が残った。ちょうど一昨日の三人文殊さんのブログを見て、その違和感の正体がわかった。それは、永代供養の是非を問う内容で、『仏壇もお墓も幸福増進装置』『仏壇やお墓があることは、それを造った人の気持ちを考えても負担ではなく、むしろ財産と考えて、自信を持って守ってほしいものです』と、書かれているブログを読んで答えが見つかったような気がしました。(三人文殊さんのブログを少し引用させてもらいました)やっぱり、叶うかどうかは別として私が最初から、負担になるから可哀そうだと決めつけるんではなく、願いだけは持っていることが大事なのではないかと気づいたのです。次女はまだ大学生で将来の事なんてまだ何にも考えてないし、ましてや結婚するかどうかも全然わかりません。だからこそ、親の私がマイナス点ばかり考えていたら、次女はきっとこんな家さっさと出て行って処分すればいいし、墓じまいし永代供養をと簡単に思ってしまうかもしれません。しかし、親祖先が大事にしてきたものを、その心を受け継いで大切に守っていくことは、次女にとって面倒なこともあるかもしれませんが必ずしも損にはならないと思うんです。損か得かの問題ではないですが、今自分がこうして元気で生きていけるのは、親祖先があってこそと感謝の気持ちで生活していれば、きっと幸せが訪れるのだと思うのです。こんな幸せへの道があるのに、私達の一存と勝手な思い込みで、チャンスを与えないのは、かえって可哀そうではないかと思えました。だから、その時が来たら親としての願いはきちんと伝え、後は次女の判断とその時の状況に任せればいいんだと思ったら、モヤモヤがスッキリしました。私達夫婦がこの家を継ぐと3代目になります。といっても、大した財産もなく今住んでいる土地が少しとお寺にお墓があるだけです。だから、それほど大げさな問題ではありません。私も若い頃は舅姑との生活が窮屈でいつ出て行こうかと真剣に思ったことも何度かありました。だからつい最近まで後を継ぐとかそんなことあまり深く考えもせず自由にお気楽に暮らしていたのです。さえりんがいた頃は・・・でも、こんなことになってしまってから、これから先お墓を守っていくこと、親祖先のお仏壇を祀っていくこと、供養などを真剣に考えるようになったのです。だって、それはさえりんを粗末になんて扱いたくないから、いつまでもいつまでも大切に、私が生きている限り心を込めて供養してあげたいから。そしていつか私が死んだときは、さえりんの遺骨と私の骨を混ぜてお墓に納めてもらいたいから。だからこそ、舅、姑の事も、殆どあったことのない義理祖父母の事もさえりんと同じように大切だと、やっと思えるようになったのです。今は誰に言われたわけでもないのに、さえりんの遺骨はまだ家にいて、お墓には入っていませんが、私は毎日お墓にお参りに行くのが日課になっています。それは、さえりんが亡くなって悲しみのどん底でもがいていたとき、何故かお墓参りに行き「さえりんのことをどうかよろしくお願いいたします」とご先祖様にお願いしてみたら、ほんの少しだけ心が安らいだように感じたから。さえりんが向こうの世界でも居場所が出来ますようにと願いを込めて。それからは日課となり、今ではさえりんの事と一緒に、次女の事も「いつも帰りが遅いけど、無事に家に帰って来れますように!」と毎日お願いしている。本来なら、逆縁なんかしなくても、もっと早く気が付かなければいけなかった。こんな当たり前で、一番大事なことに・・・でも、私が愚かで今まで自由な生活にあぐらをかいて、思い上がって、感謝の心が薄かったから、いけなかったんだと思うと、胸が苦しい。今となっては、もうどうしようもないことなんです・・・それもこれも、全てはさえりんからもらった心だと思う。本当にさえりんは私を正して、導いてくれる尊い人。いなくなって、今までよりさらにさえりんの偉大さと、大切なかけがえのない存在だったと、あらためて気付くのです。本当に凄いよ、さえりんは・・・ママの自慢の娘です!!ママの娘に生まれて来てくれて、ありがとうさえりん!!(13歳のさえりん 2011年1月 雪が降った日に)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月22日
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昨日午前中は暖かな日差しで日向ぼっこしながら、少し庭の花壇の草取りをし、遅めのお昼ご飯を部屋で食べていると、母(姑)がさえりんに会いに来た。母はカボチャの皮をスライサーで剥こうとして手の指を少し怪我をしたらしく、絆創膏を探していたら、急にさえりんを思い出して悲しくなったのだと。さえりんはよく絆創膏を使っていた。母はいつもさえりんのために絆創膏をたくさん買っていつでもあげられるように、用意していた。母はそのことを思い出し泣いていたのだ。すると父が突然、「さえりんの最後の姿は交通事故に遭う直前、職場近くのコンビニで絆創膏を買って指に一枚貼っている防犯カメラの映像だと。それがもとになって遺体の身元確認ができた」という話を母にした。父はどういう意図で今、母にそのことを言ったのかよくわからない。でも、母はそのことをはじめて知り、あまりのショックで辛くなって涙が止まらず、さえりんに会いに2階の仏壇にやってきたのだ。私はもちろん知っていた。事故当日、警察から聞いて実際の防犯カメラの映像も見て「確かに娘のさえりんに間違いはありません」と証言して、さえりんを返してもらえたのだから。でなければ、主人と私のDNA鑑定をし、「娘であると結果が出るまで1週間はご遺体は警察で預かる」と言われたんだから・・・その時の防犯カメラの、仕事帰りのさえりんの最後の写真は主人が警察からもらい、パソコンの中で保管している。が、私は今はとてもとても、見ることが出来ない・・・また再び、その時のことが悪夢のように蘇ってしまうから・・・母は仏壇のさえりんに話しかけてまた泣いていた。写真を見ては「さえちゃんはこんなに若くて可愛いのに・・・」って泣いた。でも、昨日の私は泣かなかった。母があまりに泣いていて、もちろん悲しくて仕方ないけど、母を支えたいという気持ちの方が強かった。きっと主人も私に対してこういう気持ちなんだろうなって思うと、泣けないからこその辛さが少しわかるような気がした。母は「いつも泣いてばかりで何も出来なくてごめんね」と言ってくれる。私ももし自分の孫がこうだったらやっぱり母と同じく、泣くばかりだったと思う。でも、さえりんは私達の大事な大事な娘だから、私は母親として、このままよくある交通事故死として簡単に済まされてはいけない、そもそもこんな理不尽な交通事故が遭ってはいけない!!だからこそ、裁判や相手と戦う気持ちも、ブログや、人に会って話すことで、世間に忘れられないように、こんな悲しい現実があったことを知ってもらいたい!!それが原動力となり、今はこうして生きていられるんです。そこが母親と祖母の違いなんだって思った。でも、いつまでもさえりんの事を想っている気持ちは同じなんだと。だから、私もそうだけどちょっとしたことでも、何かが引き金となり思い出しては泣いて悲しみ、後悔しては苦しみの繰り返しなんだと。傍から見たら「まだそんなことしてるの、もういい加減に立ち直ったら」って言われるかも知れないけれど、本当に今はまだまだ仕方がないのです。「時間薬」って言われても、まだそんな気持ちにはとてもなれないんです。だからただ「こんな私でごめんなさい」としか言えないのである。昨日は母が謝る気持ちがよくわかる気がした・・・さえりんへママもまだ泣いちゃう時もあるけれど、少しでも前を向いて生きるからね。だから、ママのことは心配しなくても大丈夫だよ!!これからはあーちゃんのことを見守ってあげてね、さえりん(お寺に咲いていたバラ)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへいつもありがとうございます!!ホントにまだまだ何でも些細なことが引き金で、思い出しては悲しんで、こんな感じで家族で泣いたり、話あったり、支えあったりの毎日なんです。「追孝」って言葉知りませんでした。ありがとうございます!!私はいつも思うことがあります。こうやってブログを見て下さる方がいて下さりミヤちゃんさん方と出逢えたことは大きな財産だということ。感謝しています💛宝ママさんへいつもありがとうございます!!宝ママさんの事を思うと、もしかして私のブログを読むことでかえって、娘さんの事を思い出され辛くなるんじゃないかと心配しています。私も同じです。心の浮き沈みの中で毎日沸々としながら、一日一日生きています。私にとって宝ママさんは同じ辛い境遇を生き抜く同志のような気がしています。宝ママさんこれからもお互い娘を想いながら、生きていきましょう!!
2019年12月21日
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昨日は母から電話をもらい、用事を頼まれたのでまた実家に行きました。用事は、市役所に車で乗せて行ってほしいということです。すぐに向かいました。母は「悪いね。ゴメンね。今度お礼するからね」と恐縮していたけど、私は全然気にならず、むしろ気軽に呼んでくれた方が行きやすいなってこの頃思っています。用事は、弟が車を買い替える為、印鑑証明が必要だということ。足が痛くなる前に一度、母は自分で原付バイクに乗って(母は車の免許はなく原付免許があるので原付バイクに乗っている)市役所に取りに来たけど、欲しいものと違っていたので再度取り直しにと昨日は行ったのです。市役所の窓口に行くと母は身分証明書を何も持っていなくて困った様子、仕方なく私の免許証で代理人の欄に私の住所氏名を書き足して、印鑑証明をもらうことが出来ました。母は「助かった!!ありがとね」とほっとした様子。市役所までは実家から車で20分くらい、でも原付バイクやバスで行くにはちょっと不便で、もし事故にでもあったらと思うと心配である。今までこういうこともすべて母は何も言わずに一人でやっていたんだなって。私は今なら家にいて時間もたっぷりあるので母も頼みやすいけど、今までは毎日バタバタ忙しくしていたのを知っているので、母なりに遠慮していたんだと思いました。今はまだ動けるからいいけど、それでもこれから先は年をとる一方で日常のこんな些細なことひとつもままならない生活がいずれ来るんだなって昨日はしみじみ感じました。今、私はさえりんの側にいたいという一心で家に居させてもらうそんなわがままで自由な生活をさせてもらっているのですが、こうしてほんの少しでも、母のお役に立てたなら、これも良かったんだと少しは思えます。昨日は市役所の帰りに、近くのスーパーに寄って二人でカートを押してそれぞれの家のお買い物をしました。母はすぐ食べられるものや冷凍食品をたくさん買っていました。弟たちのお弁当をレンチンしてすぐ作れるように。いつまでたっても、年をとってもやっぱり母だなって思いました。実家に戻ると買ってきたお弁当を母と食べながら、こんなのんびりした時間をおしゃべりしながら一緒に過ごすだけでも、今の私が母に出来る親孝行のほんの真似事になるのかなって。前は実家に行って母と話すだけでもいろんな思いが出て足が遠のいていたのに、今まであまりにも自分の家庭の事ばかりが精一杯で、実家の事はほとんど知らん顔だった自分を反省しました。今では全く嫌ではなく、自然に素直に母に寄って行けれるようになれたことが本当に良かったです!!もしかしたら、これもさえりんがくれた大事なプレゼントだったのかなと勝手にそう思えました(*^▽^*)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。<途中報告>前に私のブログに書いた弁護士問題で、県の弁護士会から「紛議調停申立て」の書類の見本が送られてきました。見本のようにパソコンで書類を作成し6部作って弁護士会へ提出するのだそうです。何だかまた大変そうなことになりましたが、まずはやってみようと思います。やってみてダメなら、またその時考えるしかありません。乗りかかってしまった舟です。仕方ありません・・・(>_<)
2019年12月20日
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昨日は主人がお休みで、私もちょっと疲れていたので、家でのんびりしていた。主人が録画したテレビのバラエティー番組を見ていた。その番組に出ていた飲食チェーン店に目が留まった・・・【かつや】である。家のすぐ近くの国道沿いにある、【かつや】はさえりんが大好きで家族でも、一人でもよく行っていたお店なんです。今では看板を見るだけで辛い・・・でも、番組を見ていたら、たくさんの思い出が蘇ってきた。さえりんは食べ物の好き嫌いがあり、偏食です。小さい頃は治そうと試みたけど、それも広汎性発達障害の特徴だとわかると、無理に治さずさえりんの好きなものを食べればいいと自由にさせていた。就職してからは「お弁当は要らない、お昼は自分で買ったり、食べに行ったり何とかするから」と、さえりんは言った。私はもう社会人だからそれも一つの自立かなと思い、さえりんの好きにさせた。さえりんは時々仕事が早く終わる勤務があり、私が午後から仕事で家にいないと、その時はいつも一人で外食をしていた。その時、よく行っていたのが家の近くの国道沿いの【かつや】なんです。さえりんにはこだわりがあり、いつも同じメニューを注文していた。一人の時はカウンター席に座り、もう常連さんになっていて席に座るといつものパートのおばさんが、お茶ではなくお水と醤油と小皿を何も言わなくても出してくれる。そして注文はいつも、ロースかつ定食、豚汁大に変更。さえりんは食事の時、お水をたくさん飲むのでピッチャーで追加のお水も何も言わなくても持ってきてくれていた。さえりんはまずは豚汁の具を食べて、とんかつを醤油に付けて後でキャベツを、残ったご飯を豚汁の汁の中に入れて、美味しそうに綺麗に食べていた!!さえりんは特にかつやの豚汁が一番大好きだった。「豚汁はママのより美味しい!!」ってよく言っていた。さえりんと2人で行った時、パートのおばさんが私に教えてくれた。「この娘さんはいつも来てくれて、美味しそうに残さず綺麗に食べて帰りには必ず『ご馳走様でした!!』ってお礼を言ってくれるんですよ。本当に礼儀正しい、いいお嬢さんですね」と。私は照れ臭かったけど、こうして私の知らないところでも、温かく見守ってくださる方が見えることが心から嬉しく、感謝した。昨日夜、晩ごはんを作っている時、母が来てこの話をしていたら、母もさえりんと一緒にかつやに食べに行ったとき、豚汁の中にご飯を入れる食べ方は母がさえりんに教えたのだと言った。昨日は偶然にも母が豚汁を食べたくなって、お昼に父にかつやで豚汁だけ2つテイクアウトで買って来てもらい、1つを1階の仏壇のさえりんの小さな遺骨の前にお供えしてくれたのだと教えてくれた。きっとさえりんも喜んで食べてくれたのだと思えて、有難かった。でも、さえりんが亡くなってから一度も行けなくなった。さえりんの名前も知らない、あの時のパートのおばさんはきっとこの頃あの娘は来ないなあと思っていると思う。いつか行ける日が来たら、その時もし会えたら、お礼を言いたい、「今まで娘に、優しくして頂いてありがとうございました」と。今はまだとても無理だけど・・・さえりんは好きなものを食べる時、黙ってもくもくと食べる姿が満足そうで幸せそうで、本当に可愛かった!!もっと、もっと一緒に美味しいものを食べに行きたかった・・・(>_<)(今年の2月、主人と3人でかつやに行ったとき)(注文するのはいつも同じなのに、とりあえずメニューを見るさえりん)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月19日
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昨日は、前々から約束していた友人とランチに行った!それは、HちゃんとTさん。年齢も立場も、今は共通点もあまりないのですが、どうゆうわけか不思議な繋がりの3人。今日で2回目。1回目は今年の9月初め。どん底に落ちていた私を励ますため、2人が外へ連れ出してくれた。一番若いHちゃんは元の職場の同僚、小学生の一人娘さんとご主人の3人暮らし。年上のTさんはイ〇モ葬祭のアシスタントをしながら、例の会の活動をこなし、4人のお孫さんがみえ、ご両親のこともお世話してみえるパワフルな先輩。私はちょうど真ん中。さえりんの事があってから、2人はいつも私を気にかけ心配してラインやメールをくれたり、顔を見に来てくれる、優しい関係!!先日、Hちゃんが3人のLINEグループを作ってくれた。その名も「ランチ~ず😋」さすが一番若いな~って、笑った!!でも、その優しさに救われた。昨日は、TさんもHちゃんも忙しいのに時間を作ってくれて、隣の市の中国料理「浜木綿」でランチを食べて3時間半おしゃべりした(≧▽≦)TさんもHちゃんも「未だにさえちゃんがいなくなったなんて信じられないね」って言ってくれた。いつまでも身近にさえりんを想ってくれる人がいてくれることが一番有難いなって思った。1回目の時、私はさえりんの事故から3ヵ月で、この先の行方が全く見えず、不安でいっぱいだった。2人は私の話を真剣に聞いてくれた。「こんな理不尽なことがあっていいの??何かできる事があったら手伝うよ」って自分の事のように考えてくれる2人がいてくれて本当に有難かった。その時私は「さえりんのことがなかったかのように簡単に済まされたら、許せない。こんな理不尽がまかり通るような世の中に憤りを感じている。こうなったらブログでもはじめて世間に訴えかけようと思うけど、やり方がわからない。どうしたらいいかな??」って相談したが、みんなどうしたらいいかわからなかった。その頃私は、さえりんのことを新聞に投稿したけど取り上げてもらえなかった。話題性もないよくある交通死亡事故としか扱ってもらえない、憤りと悔しさでいっぱいだった。それが9月のはじめ。その後すぐにmeronさんに出会い、お世話になりながらたった1日でブログを開設してもらったのが9月17日だった。あれよあれよという間に『さえりんの部屋』が出来た!!meronさんのお陰です!!それから3ヵ月、私はこのブログが毎日の趣味であり、仕事であり、私生活であり、自分の居場所であり、さえりんの居場所作りでもある、今の生活がはじまった。私はブログがなかったら、自分の気持ちの整理も、外に吐き出す場所もなく、世間に訴えるところもなく、今頃、心が病んで病気になっていたと思う。本当に良かった!!これからもいろんなことがあるだろうけど続けていきたい。Tさんもそうだけど、友人もたくさんこのブログを温かい目で見守ってくれる。いつもお励ましのコメントをくださるみなさんはもちろん、毎日見て下さる方、たまに見て下さる方もたくさんいて下さることが、今の私の生きがいになっているんです。今では直接関わって下さる方々も、ネットの世界で繋がって下さる方々も、きっかけは様々だけど、さえりんのことを知り、身近に感じてくださることが、温かく支えてくださる優しい関係なんだと思えるんです!!Tさん、Hちゃん昨日はありがとう!!本当に楽しかった。また誘ってね!!そして『さえりんの部屋』に来てくださるみなさん、心から感謝しています!!これからもどうかよろしくお願いいたします。(昨日のランチ) (Tさんがお土産で買ってくれた八宝茶)(Gさんが作ってくれたメッセージをHちゃんがランチ~ずのアイコンにしてくれた)(Gさんありがとうございます!!)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月18日
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昨日は午前中、実家の母を整形外科へ連れて行った。年末年始用にと薬をたくさんもらい、「もうかなり良くなったから明日からは来なくて大丈夫だよ」と母は言った。ちょっとホッとしたけど、また2、3日したら様子を見に行こうと思った。昨日午後からは懐かしいお友達が、さえりんに会いに来てくれた。数えてみたら15年ぶりくらいだった。さえりんがまだ1歳の時から一緒によく遊んでくれたママ友さんたち2人が来てくれた。一緒に子育てサークルを作って仲良くしてもらっていた。その名も「アンパンマンサークル!!」私は人見知りで社交的ではなかったので、その頃よく言われていた公園デビューとか、ママ友とかできないし、怖いと思っていた。しかし、さえりんが生まれて、3か月検診の時だったでしょうか?はじめてママ友が出来た!!とっても活発で可愛い男の子のお母さん2人。嬉しかった!!さえりんのお陰だった。さえりんがいたから話しかけることができた。その人たちと一緒に児童館に通うようになり、児童館の先生に勧めてもらい「アンパンマンサークル」を作り、児童館の会報に載せてもらい仲間が増えて、12組の親子で一緒に活動するようになった。ほとんどの人が第一子が同い年で、何かと情報交換しながら、はじめての子育てを手探りしながら、みんなで楽しんだ!近くの児童館を拠点に毎週集まり、春にはお花見、ピクニック、夏には公園で水遊び、ぶどう狩り、冬にはクリスマス会と楽しい行事もしながら、集まりのない日もいつもの公園や児童館で毎日のように一緒に遊んでもらった親子共々のお友達!!よく公園で一緒におやつを食べたり、お弁当を食べたり、自分の子供も、よその子もみんな可愛かった!!さえりんはその頃から自閉症の特徴があり、順番が待てなかったり、人のおもちゃを取ったり、一見自由奔放に見える行動をしていた。でも、そんなことを気にする人はいなかった。みんな自分の子供と同じように叱ったり、注意したり、言い聞かせたり、仲直りさせたり、声をかけ、手をかけ可愛がってくれた。さえりんは多動でよく公園を飛びだし走っていなくなることもよくあり、そんな時はいつも仲間のママが見ていて知らせてくれたり、私が追いかけていくとき、必ず泣いている次女を抱っこしてあやしてくれた。どれだけ助けられたかわからない。本当に優しい、良い仲間だった!!幼稚園まではほとんどの子は一緒だったので、仲良くしてもらった。卒園後は、小学校の学区が別々になり自然と離れてしまって、年賀状だけのお付き合いに。それももう何年も経つうちに出さなくなってしまった。それが先月、近所の郵便局でバッタリその時の女の子のお母さんNさんに出逢った。Nさんはさえりんの交通事故をニュースで知っていた。逢った瞬間「さえちゃんのお母さん大丈夫??逢いたいと思ってたの!!」と心配していてくれた。そしてLINEを追加し、昨日、もう一人の女の子のお母さんOさんと一緒に我が家に来てくれた。Oさんはさえりんのお通夜の時電報を送って下さった方。二人はさえりんの小さい頃の写真を懐かしそうに見てくれて、その後どういう風に育ったか、交通事故の事、今の家族の状況をお互い話しながら、気が付けば3時間、穏やかで優しい時間を過ごした。まるで15年前にタイムスリップしたみたいに懐かしかった。本当にあの時からもう一回やり直したかった・・・そうしたら、さえりんが事故に遭わない今があったかも知れなかったのに・・・でも、無理だった・・・だけど、思えばあの頃からずーっと、さえりんを取り巻く環境はいつもいつも、温かかった。優しくて、理解ある人たちばかりだった。本当に感謝でならない。今まで大変お世話になりました!!ありがとうございました(生後9か月のさえりん はじめてのお友達2人とお花見)(さえりん5歳の時 アンパンマンサークルのお友達とぶどう狩り) (昨日お二人にいただいた、さえりんへのお土産)(お返しに、私が作ったカゴをプレゼントした)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月17日
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昨日も午前中、実家へ行った。母は「弟達が仕事休みだから土日は来なくていいよ」と電話をくれたのだが、妹と連絡を取り、都合が良かったので実家で会うことにした。妹は隣県に住み、高速道路を使って1時間半くらいで実家に来た。妹は「お姉ちゃんのブログいつも見てるよ~」って笑った。私は私生活や気持ちが丸見えで照れくさくなった・・・(≧▽≦)でも、やっぱり嬉しかった。私は長女、妹は3歳年下、その1歳下が長男、その8歳下が次男の4人姉弟。だから私と次男は12歳違い。私達は3人と、一人っ子みたいな感じで育った。小さい頃は妹と上の弟と3人でいつも遊んでいた。でも大人になってからはあまり関わる機会がなくなった。私は高校の時家を出て寮生活をし、妹は高校を卒業してから専門学校に通い寮生活をして、そのまま20歳で結婚した。そして数年後にはご主人のご実家の宮崎県へ移り住んだ。ご主人の都合で、実家の隣県にまた引っ越してきたのは、ここ4、5年前。だからどうしても関わる機会が少なかった。妹は私より早く結婚し、妹夫婦には息子2人と娘1人の3人の子供がいる。うちの娘たちは、いとこといっても小さい頃遠く離れていたので、あまり親しくはない。もっと小さい頃から関わっていたらよかったなと、今になって思うのである。昨日は実家で、母と妹と私の3人で石油ストーブにあたりながらのんびりと、近い将来、母が動けなくなったら誰が面倒を見るのか、実家の跡取りは長男がいるけど独身なので土地やお墓は誰が守るのか、次男はどこに住むのかなど、真剣にではなく、面白おかしく世間話も含めて楽しく笑いながら話が出来た。帰りに妹が「お姉ちゃん今度一緒にお寺巡りのハイキングに行こうね!」と誘ってくれた。妹は仕事もしていて忙しいのに、私の事を心配していつも気にかけてくれることが、何より嬉しかった!!やっぱり、少し年を重ねると女同士の姉妹っていいなあと思った。弟たちには話せないことでも、なんでも話せて、いつでも相談できて一番頼りになる存在。本当に妹がいてくれて良かったと思う!!きっと母もそう思っているんだと思う。でも、帰り車中ふと思ったのは、次女には姉がいなくなってしまい、もし私たち夫婦が死んでしまったら、独りぼっち・・・結婚して家庭を築いてればまだいいけど、それでも何かあった時、私みたいに頼れる姉妹はいないんだと思ったら、急に可哀そうになった。さえりんがいてくれたら、きっと将来は2人で助け合えたのに・・・(>_<)もちろん最初から一人っ子の人もいるから、それなら仕方ないけれど、次女は急に一人になってしまって、将来、親や土地やお墓など重たいものを相談する人もいなく、一人で背負わせてしまうのかと思うと、それが不憫で辛く切なくなった・・・せめて、従弟同士もっと近い関係で仲良くなっておけば良かったと、後悔した。今は次女はまだ若いからそんなことは、何とも思わないかも知れないけど、50を過ぎていろんなところで跡取りの問題など見聞きすると、やっぱり不安になってくるのである。でも、これもどうしようもない問題である。実家に行き来する時、国道のバイパスを通ると早いので、つい通ってしまう。でも、そのバイパスに入る出入り口は、さえりんの事故現場のすぐ近く、信号を一本手前の交差点なのだ。昨日もバイパスを降りて右折しようと信号待ちをしていると、ふと、そこにも横断歩道があることに気づいた。日曜日の昼下がり、混んでいて長い信号待ちの間、また、急に悪魔のもしも・・・が、ささやいた・・・さえりんの職場から、行こうとしていた回転寿司までの道は真っ直ぐ来ると、この信号の方が近い。どうしてさえりんは、あの時この信号を通らなかったんだろう???もしも、もうひとつ向こうの信号を通らなければあのトラックに出会わなかったんではないか???もしも、あのトラックに出会ってもこっちの信号だったら、相手は直進だから轢かれることはなかったんではないか???もしも、ほんの少しの時間差があったなら、こんな目に遭うことはなかったんではないか???もしも、私が車で回転寿司に行くとき向こうの信号を通らなければ、さえりんもそこを通らなかったのではないか???さえりんは最後のその瞬間まで何も知らずに自転車で走っていたのに・・・(>_<)急に胸が苦しく、悲しくなってきた・・・ついさっきまで実家で、楽しかったはずなのに・・・きっとこれからも、こんな思いの繰り返しなんだろうなって思った・・・いつ何時、悪魔のもしも・・・が襲ってくるかわからない・・・いつまで、この苦しみが続くんだろう・・・ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。(実家の不愛想な黒猫)
2019年12月16日
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明るい疫病神!これは私がこの家に嫁いで数年たった頃、父(舅)が私に付けたあだ名です(;^ω^)決して褒められてはいないですが、お騒がせながらもどこか憎めないキャラクターとでもいう意味なんでしょうか??先日の次女のお騒がせ行動があって、次女の事をブログで「我が家のトラブルメーカー、でも憎めない存在」って書いたとき、その元祖はもしや、私なのでは???と思い出したのです(@_@)父は私には直接言いませんでしたが、母(姑)が、「お父さんがママの事『あの子は明るい疫病神だ』って言ってたよ」と、教えてくれた。それは良い意味か、悪い意味なのかよく分かりませんでしたが、母の顔が笑っていたので、あまり嫌な印象は受けなかった。それと、母は人の悪口を言う人ではないので、いい意味に受け取ろうと思った。実は私は主人の両親は好きだけど、父の事は怖い存在だった。無口でお酒が入るとよくしゃべる、会社人間で管理職をしていて細かい、一見温厚そうだけど怒らせるとめちゃくちゃ怖い、息子や嫁に媚びない、自分のやり方を突き通す、九州男児で亭主関白、一家の大黒柱。私は結婚当時から自己主張をしたり、自分らしく暮らしたり、生きていたいと思うタイプなので、度々父と衝突することがあった。その頃は古い家でまるっきりの同居だったので、自分のテリトリーが曖昧で良かれと思って付けたトイレの窓のカフェカーテンや、玄関の置物の移動や、台所のテーブルの上の片付けが、父にとっては気に入らない出来事でよく母に怒りをぶつけていた。あまりに気に入らないと私に直接、激怒された。今となっては嫁の身分で偉そうだったなと思えるのですが、その頃は、散らかっていたり、不便そうだったので気が付いてやってあげたのにどうしてそんなに怒られるの??と疑問いっぱいで、とにかく怖かった。それなのに、娘2人はおじいちゃんの事が大好きだった。特に次女は家族の中でおじいちゃんに一番なついていた。娘たちは、父の無口で怖い人だけど、その中身の武骨な優しさや愛情をちゃんと感じていたのだ。父も娘たちを大変可愛がってくれて、仕事から帰り夜晩酌をするとき、必ず次女を膝に入れて、おかずやつまみを食べさせてくれた。いつの間にか父の膝は次女の特等席になっていた。平日休みの主人に代わって土日にはよく娘たちを遊びに連れていいてくれて、長女はいつも「おじいちゃん今度はどこに連れてってくれるの?」と甘えていた。私はそんな娘たちを見て、ようやく父は本当は優しく愛情深い人なんだと思えた。父は私に「あんたは頑固で親の言うことを聞かない」とよく言う。私はそんなつもりは全くなく、これでも嫁として気を遣って生活していると思っていた。この家に嫁いでから、料理の味付けも母に教わり父好みと主人好みに代えたし、いろいろ怒られてからは玄関やトイレ、お風呂場、台所などの共有スペースは勝手に触ったり変えたり、子どものおもちゃなど私たちの物は置かないように気を付けていた。子ども達にも「ここはおじいちゃんたちと一緒に使う場所だから片付けようね」と言い聞かせて育てた。それでも父にとって私は、今まで静かで平穏に暮らしていた家庭に、私という長男の嫁が突然入り込んできて、わーーっと嵐を巻き起こすトラブルメーカーであり、明るい疫病神だったのである。しかし、家族はこんな厄介な存在を抱えながら、雨降って地固まるかのようにケンカをしたり、仲直りを繰り返しながら絆を深めていったのです。私は今までに一度だけ父の言うことを聞かなくて良かったと思っていることがある。それは、19年前ガンを患いながら次女を出産したこと。主人も父も母もみんな私の体を心配して反対していたが、それでも私は決して、言うことを聞かなかった。だけど、今ならわかる。本当は家族もこれで良かったと思ってくれていたのだと。さえりんが突然交通事故で命を落としてしまった今、もし、次女がいなかったら、我が家にはもう未来も夢も希望も消え失せ、私と母は間違いなく精神病で廃人になっていただろう。父と主人だって病気になったり気がおかしくなってしまったであろう。だから、今や次女が我が家の、2代目「明るい疫病神」厄介で面倒なことばかり引き起こすが、一家に一人なくてはならない貴重で大事な、愛すべき存在。もしかして、父も昔、私の事をそんな風に思っていてくれたのかなって、今ならそう感じられる。父は、さえりんのお骨を早くお墓に入れることを望んでいる。父の考えでは亡くなったのはとても悔しく悲しく辛いことだけど、いつまでもお骨を抱えて苦しむより、ご先祖のお墓に入れてやる方がさえりんのためにも良いことだと思っているみたい。だけど、私は「嫌です。さえりんはまだお墓に入れません!!」とはっきり断った。父は「じゃあもうあんたの気が済むように好きにしろ。俺は知らん!!」とちょっと怒り気味に言った。私は、次女の時以来2度目にきっぱり父に逆らった。でもいつか、父ならそう言いながら、私の気持ちも汲んでくれてこれで良かったと言ってくれる日がきっと来るだろうと思った。さえりんに突然起こってしまった不幸は、家族にとって耐えがたい衝撃となり家族はそれぞれ死ぬほどもがき苦しんだ。父だって私には出さなくても、そうだったに違いない。この上なく愛して、大事に可愛がり育てた初の孫娘だったから・・・苦しいのは私だけじゃない、主人だって、両親だって、次女だって、義弟だってみんな同じである。だからこそ、今、この家族がいてくれたことに心から感謝して、怖かった父の存在の心の奥の優しさが、少しずつ感じられるようになれたことに感謝して、これからもこの家族と共に、さえりんを想いながら、みんなで生きて行こうと思う!!(21年前の12月 生後5か月のさえりん)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月15日
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最近、穏やかでほのぼのとした日々が続いていたので、ついうっかり忘れてしまいそうだったことを、思い出させられる電話がきた。弁護士問題である。昨日、M保険会社の担当Iさんから電話がかかってきた。Iさんには、前のK弁護士の着手金の返還を頼んでいた。その返事がK弁護士は何度電話をしても事務員さんが出てかけ直してはくれない。書面で催促状を送っても返事か来ず、返金に応じない。上司に相談したがこんな前例がなく打つ手がない。お客様の方で何とかしてもらえないかと。保険会社としては弁護士特約の300万まではお支払いするので、K弁護士に支払った着手金等の163万が帰って来なくても残りは次の弁護士費用として使えますので。とのこと・・・何とも歯切れの悪い、納得できない話である。ではこのまま放っておけばK弁護士はほとんどなにもしていないのに163万円丸儲けということになる。やってくれたことといえば、最初に「自分がさえりさん遺族の代理弁護士になりました」と挨拶状を、警察と相手の運送会社と相手の保険会社それぞれに計3通送った。たったそれだけである・・・・それで163万円????なんと美味しい仕事か????こんな話は聞いたことがない!!!!確かに、私達もいけなかった。交通死亡事故の事、裁判の事、弁護士の事、ほとんど何も分からず、着手金がこんなに高額なのはおかしいとも疑う余裕も知識もないままに「僕に任せておけば大丈夫ですよ」との優しい言葉を信じて、安易に、保険会社に依頼し弁護士会の紹介でそのK弁護士に頼んでしまったから。ところが、K弁護士は刑事裁判で相手と戦ってくれる気はほとんどなく「刑事裁判は頼まれれば、ついでにやりましょうか」くらいの感じで「早く民事裁判でお金をたくさんとりましょう」と言うのである。お金目当てが見え見えで嫌になった。私達の目的はお金ではない!!!私達の願いは・・・娘の無念を晴らしたい、加害者には心からの謝罪とそれなりの罪は償ってもらいたい、もうこんな理不尽な青信号の横断歩道上での交通死亡事故は起きて欲しくない。そのために、勇気を出して刑事裁判を戦おうとしているのに、K弁護士とはとても一緒に戦うことは出来ないと判断したので、解任した。それが9月のこと。今だお金が返ってこないと思っていたら、昨日は、保険会社からお手上げの電話。深い深い、憤りを感じ、もう何もかもどうでもよくなってきた・・・ただでさえ、娘が亡くなって悲しくて苦しくてそれでも、なんとかやっとの思いで生きているというのに・・・どうしてこんな追い打ちをかけるような出来事が起こるの???弁護士って何???弱いものからお金を巻き上げる職業なの???(N弁護士のように頼りになるいい方も、もちろん見えるのは知っています)私達の懐からお金が出ていないから、保険会社の保険金だから返さなくてもいいとでも思っているの???どうして、またこんな理不尽な目に遭うの???私達家族は何か悪いことでもしたの????さえりんは、あんなにいい子なのに何でここまで酷い目に遭うの????この世の中は、どうしてこんなに不公平なの????答えの出ない疑問が闇となって、次々に襲い掛かってくる・・・本当はもう何もかも放り投げたい気持ちいっぱいなのだが、それでは、あまりに辛すぎる・・・弱いものが、一般市民がバカを見て、ただ泣き寝入りするしかないそんな社会は、やっぱりあってはならないのだと、私は声をあげたい!!世に訴える方法も知らない無知なおばさんだから、出来る事なんて限られている。でも、やっぱり簡単に諦めてはいけない!!!ただ単なるお金の問題ではなく、人としての在り方として!!!それで昨日、県の弁護士会の市民窓口のもう一度電話してみた。先回とは違う当番弁護士だったが、11月に相談した時の記録があり話が早かった。そして「紛議調停の手続きをされたらどうですか?」と、提案してくれた。「紛議調停」??聞いたことのない言葉だが、弁護士会がトラブル解決に向かうための仲介に入ってくれるのだと教えてくれた。ただ、申し立てをする為に県の弁護士会に出向き、手続きをしなければいけない。しかも、それをしても応じるかどうかはそのK弁護士次第なんだと・・・前途多難な問題がまた増えてしまった・・・だけど、これも仕方のないことなのかな・・・刑事裁判のこともまだこれからなのに・・・目の前には、真っ黒で深い暗雲と、とてつもない、いばらの道が待っているような真っ暗な気持ちになった・・・(>_<)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。「さえりんの部屋」に来てくださるみなさんへいつもたくさんの方のご訪問、本当にありがとうございます!!私には世間にこの事実を訴える方法もなく、唯一このブログだけが頼りなんです。池袋の事故も、本当に憤りを感じ、ご遺族の方にはお辛い現実しかないとお察しし、ご冥福をお祈り申し上げます。しかし、有名な事故でなくても、世間やマスコミに取り上げられなくても、さえりんのように理不尽な交通事故は後を絶たず、悲しみ苦しむ家族も本当はたくさんいます。でもほとんどは知られることなく、訴える術もなく理不尽な現実と戦い、嘆きもがいているのが現実です。この世でたった一人の尊い命の重さは、有名無名で変わることはないんです。だから、私はこのブログで現実の厳しさや自分の気持ちを、せきららに隠すことなく、ありのままにさらけ出していこうと思っています!!その中には、嬉しいこと、感謝していること、悲しいこと、辛いこと、憤りを感じること、もしかしたら、恨みつらみも書くかもしれません。もしかして、心苦しい内容になることもあるかも知れませんし、お気を悪くされる方もみえるかも知れません。どうかご了承いただき、お許しください・・・それでも、みなさんの優しさで、さえりんのことを知っていただき温かく見守り、応援して下さって心から感謝いたします!!これからも、どうかよろしくお願いいたします。
2019年12月14日
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昨日の朝、平穏だった我が家に事件が起こった・・・朝、いつものように次女を駅に送って家に着いた頃、次女からLINEが。「パパにめちゃくちゃ申し訳ないことしたんだけど、ポケットにパパのスマホが入ってた(笑)パパにゴメンって言っといて」と・・・「パパ怒るかな??」と心配していた。次女は朝慌てていて、こたつの上に置いてあったパパのスマホを自分のと間違えてコートのポケットに入れてしまった。自分のはカバンに入っていた。次女はその時もう特急電車に乗っていた。私が家に戻ると主人は起きたところだった。主人にスマホの事を話すと、突然、大激怒!!!「なんで俺のスマホを持って行くんだ―ーー(; ・`д・´)!!!一日何もできないじゃないか!!!」と、しかも次女は夜、友達の家に泊まるかもと言っていたことを思い出し、スマホがなければ翌日は仕事にも支障が・・・主人の怒りは頂点に物を投げてこたつを叩いても怒りが治まらない・・・最近温厚だった主人が久しぶりに怒りマックスに・・・いつもなら次女が家を出たらブログを更新するのにそれどころではなくなった。次女に「パパは激怒だよ」とLINEすると「どうしよう・・・」とビビりながら返信がきた。これはもう主人の怒りを治めるには私が取りに行くしかないと覚悟を決めて、「私が車で次女の大学まで取りに行くから、許してやって!!」とお願いし急いで支度をしていると、主人が「俺も行く」と車に乗り込んだ。ところが、朝で道が混んでいたり、私の運転がドンくさかったりで主人の怒りは私に向かい、怒鳴ったり、怒られてばかり・・・(>_<)高速道路を乗り継いで、隣県の大学まで1時間半。家を出たのは7時40分。9時には授業が始まる為、その前に大学に着かなければと急いだが、思わぬ大回りと渋滞でナビの到着予定は5分くらい間に合わない・・・(-_-;)遅れたら1限が終わるまで1時間半待たなければならない。そしたらまた主人の怒りが増幅するのではと、運転しながらいい方法はないかと考えた。そして、思いついたのは、次女に大学の守衛室にスマホを預けてもらうこと。すぐに、助手席の主人に私のスマホから次女にLINEを入れてもらった。そして、大学に無事着いたのは9時1分。主人が車を降りて、守衛室に行き次女が預けたスマホを受け取ってきた。守衛さんに「何があったんですか??」と聞かれたらしい(;´・ω・)主人の怒りはまだ沸々とした感じだったので、安全を考えて帰りも引き続き私が運転することにした。帰りは高速代がもったいないので一般道で、大きな川の堤防沿いを永延と走って、名古屋の街を走って時間をかけて運転した。途中、名古屋のホームセンターに主人の用事で1時間くらい立ち寄り、そこからは主人が運転を代わり、家に着いたのは12時20分だった。私はブログを更新しようとパソコンをつけると、バージョンアップがはじまってしまい2時間くらい使えなくなってしまった・・・(;'∀')私のブログの更新が遅かったので、何かあったのかと心配してくださった方、ご心配おかけしました。ありがとうございました。というわけで、昨日はとんだハプニングに見舞われ大変だった(;^ω^)本当に疲れた(>_<)行きの車中では主人は怒ってたけど、半分は私だけど、半分はあなたの、二人の子供なんだから仕方ないでしょって思った。私もとばっちりを受け、次女のせいで散々だった!!後で思えば主人もいろいろストレスが溜まっていたんだと、優しい気持ちになれた。でも、帰りには主人の機嫌も徐々に直り、大きな川沿いの堤防の水がキラキラと輝いて、雲の合間から光が射してとっても綺麗だった。きっと、さえりんも朝は心配していたけど、帰りは安心して笑っていてくれたのかなって、ホッとした(#^.^#)次女は本当におちょこちょいで、心配なことばかりやってくれて結局シワ寄せがこっちに・・・とっても将来が不安になった。もうちょっとしっかりしてほしいと思うものだ!!次女は今や我が家のトラブルメーカー(@_@)でもなぜか憎めない。こんな次女でも可愛くて仕方ない、親バカな私がいる(-_-;)ドジだけど、迷惑ばかりかけられるけど、それでも生きていてくれるだけで私を救ってくれる大事な存在だと感謝している!!さえりんがいたら、きっとこう言うだろうね。「次女なんだからしょうがないね!!許してあげようよ💛」と。さえりんと次女の2人の娘がいるから、私は母親でいられるんだから(帰りの堤防沿いの風景)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月13日
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さえりんの好きなものはたくさんあります。さえりんは好き嫌いがはっきりしていた。思い出がいっぱいありすぎて、それが時には嬉しく優しい気持ちに、でも、今はまだ辛すぎて、重く圧し掛かるときもある。さえりんがいなくなった今、我が家では行けなくなったり、食べれなくなったり、見れなくなったり、封印してしまったものがたくさんたくさんある。さえりんが好きなもの:シナモンのキャラクター、ピンク色、キラキラピカピカしたもの ビーズ、ゲーム、テレビ、クラフトのカゴ作り、自分の家、家族。 遊園地のジェットコースター、観覧車、ブランコ。好きな食べ物:寿司、うどん、肉(ステーキ、とんかつ、豚タン、しゃぶしゃぶ) カレーライス、ネギトロ、ご飯、お醤油、チーズケーキ、いちご、 桃、ブドウ、ソフトクリーム、サーティンワンアイスクリーム、 パピコ、ピノ、コーラ、ミルクティー、ポテチ、ポッキー、 ブロッコリー、枝豆チーズパン、メロンパンなどなど・・・さえりんとの20年11ヵ月の思い出は、私達家族のかけがえのない宝物。大切に大事にしたいと思っているけど、まだまだ悲しくて、どうしてここに、さえりんがいないんだろうって寂しくて、辛くなってしまうことも・・・よく一緒に行っていた飲食店やお店には、今もあまり行くことが出来ない。その前を通るだけで、看板を見るだけで胸が締め付けられる思いになる。さえりんと行ったことのないところなら行けるのに・・・でも、あまりに多すぎて、町で行く先々にあるので、避けることは出来ない。昨日の朝、実家へ伯母のお葬式のお花を従弟がたくさん持ってきてくれたので、もらってきて綺麗なユリの花束を作り、事故現場と、お墓にお供えに行った。昨日は珍しく次女が授業がないのと、主人が仕事の休みが重なったので、3人で一緒に行った。次女が事故現場に行くのはたぶん初盆以来。事故現場でお花を供えていると、通りすがりのおばさんが次女に「えらいね」と言った。でも、「家族なんです」とは言えなかった・・・次女は、まだ飲み物やお花が綺麗に供えてあることに驚いていた。それから3人でコストコに次女のファミリー会員カードを作りに行きながら、買い物をした。帰りにお昼ごはんに、うどんのチェーン店に勇気を出して入った。そこは、さえりんが大好きでよく一人でも食べに行っていた、うどん屋さん。そして、今までの私の職場でもあった。実際に行っていたお店には、なかなか勇気がなくて今も入ることができない。優しい店長さんのご好意で今も休業中になっているが、辛くて戻れない・・・だから、昨日はチェーン店の全然別のお店に入った。昨日はあの日以来、はじめて行ったので、主人がさえりんの大好きだった牛すき釜玉を頼んでサツマイモ天も、さえりんの代わりに食べてくれた。きっとさえりんもパパと一緒に「美味しい!って笑って食べているに違いない」ってみんなで話しながら、次女はきつねうどんを私は釜揚げうどんを、4人で仲良く食べた。以前、職場の店長さんがさえりんの事故現場にお参りに来てくれた時、「本当はさえちゃんが大好きだった牛すき釜玉を持ってきてあげたかった」と言ってくれていたと、一緒に行ってくれた従業員のHちゃんが教えてくれた。さえりんはいつも同じお気に入りの席に座って、嬉しそうににこにこしながら牛すき釜玉にとろろをトッピングし、サツマイモ天も美味しそうに食べていた。その姿を店長さんやお店の従業員さんたちはよく覚えていてくれたのだ。本当に優しい方々ばかりで、有難くて、感謝でならない。私達家族にはまだまだ辛くて、克服できないことがたくさんある。でも、こうして少しずつだけど、さえりんの思い出を辿りながら、さえりんがいたときのことをみんなで語り合いながら、今までも、これからも一緒に生き続ける人生を、新しく築いて行けれたらって思う・・・たぶん、さえりんもそれを望んでいてくれるから、きっと・・・時間はかかるけど、ひとつずつみんなで克服するからね。さえりん💛(ユリの花束 現場)(さえりんの好きなうどん シナモンがさえりんの代わりに)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへいつも温かいアドバイス嬉しいです💛ありがとうございます(*^_^*)実家の母のことはまずは妹とよく話し合い、将来は母が望むような生活が出来たらいいなと思っています。私はやっぱり主人の親元に嫁いだ身だから。みんなが幸せに円満に暮らせることを一番に願っています!!宝ママさんへ仕事帰りに泣かなくなったんですね(#^.^#)すごいです!!私もこの頃ちょっとだけ、前向きに思えるようになりましたよ。さえりんはお空で、宝ママさんの娘さんと仲良く楽しんでいるんだと!!でもまだ生まれ変わるのは嫌だな。だって私がお空に行ったら会いたいから💛今日は朝から大ハプニングが・・・その内容は明日のブログで・・・(;^ω^)家に帰ったのが午後12時半頃、パソコンを立ち上げたらバージョンアップになり今までかかってしまいました(>_<)なので今日はブログを更新するのがこんな時間に・・・・
2019年12月12日
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昨日の日中はとっても暖かくて、穏やかで平穏な一日だった。昨日は、もとの職場の同僚のHちゃんと会う約束をしていたが、急遽、Hちゃんの娘さんが風邪で小学校を休んだため約束は延期になった。思いがけず時間が空いてしまったので、母のことが気になり母からは「次は明後日でいいから」と言われてたけど、行くことにした。途中、一昨日母がプリンを美味しそうに食べていたのを思い出し、プリンを多めに買って実家へと向かった。実家に着くと母は布団で寝ていた。「あれ、今日も来てくれたの?」と言いながらも「じゃあ洗濯してくれる?」とちょっと嬉しそうに起きてきた。弟たちの作業服と、他の洗濯物と2回に分けて洗濯機を回す間、ゆっくりと母とコーヒー片手におしゃべりをした。こんな時間は久しぶりだった。母は自分の姉のお葬式に行けなかったこと、出来れば息子たちのどちらかでも代わりに行って欲しかった事、これから先もっと年をとって動けなくなったら、嫁はいないし面倒を見てくれる人はいないので、老人ホームにでも入ろうかと考えている事などを話してくれた。私は「お母さんの面倒は見たいけどもし嫁ぎ先の両親と重なってしまったら、申し訳ないけど嫁ぎ先の両親を優先するから、ごめんなさい」と言うと、母は「それはわかってるからいいよ」と言ってくれた。そして、このことは姉弟でよく話し合わなきゃいけないなと思った。母は元気だからとまだ大丈夫だと安心していたけれど、確実に年をとり状況はどんどん変わっていくんだから。親戚の従弟だってきっとまだ考えていなかった今後の問題に直面してるんだからと思った。母は食欲がなくて、弟が買ってきてくれたお弁当が食べられないと言い、プリンを喜んでくれた。やっぱり来て良かったと思った!!洗濯物を干し終え、流しの中の洗い物を済ませ、「明日はまた私が、その次は妹が仕事休みだから来てくれるんだって」と母に言い、私は実家を後にした。家に向かう途中でTさんから「今からちょっとの時間だけど行っていい?」と、メールが入った。「30分後に着くから」と返事をすると、Tさんがパン屋さんでパンを買って来てくれた。Tさんは、かわいいカメさんのメロンパンをさえちゃんに供えてと。「さえちゃんメロンパン大好きだよね💛」ってよく覚えててくれたことが嬉しかった!!そういえばさえりんはメロンパンを自分で作って、よくみんなにあげてたっけ。Tさんは娘さんのRちゃんと午後から約束があるからと短時間だったけど、私のブログを毎日読んでくれていることや、生命のメッセージ展を偶然見かけたことや、近くで開催されたニュースを見たと興味を示してくれ、メッセンジャーの本も見てくれた。Tさんにはさえりんの通夜、葬儀で大変お世話になったけど、その後もずっと優しく見守り、応援してくれることが何より有難かった!!Tさんが帰った後、Hちゃんのお家に一昨日実家からもらったミカンと母のと一緒に買ったプリンを娘さんへと届けた。午後からは、友人のNちゃんが「ちょっと話がしたいから」と来てくれた。Nちゃんは「さえちゃんいちご好きだよね」って苺のプリンを買ってリンゴも持ってきてくれた。Nちゃんとゆっくりお話しながら楽しい時間を過ごした。本当に昨日はたくさんの人に会って、たくさんのさえりんへのお土産をもらい、たくさんおしゃべりした一日だったと思う。こんな平穏な日はもう二度と来ないと思っていたのに・・・今も悲しみが無くなったわけでも、減ったわけでもないけれど、確かに抱えながらも、こんな日もあるんだと不思議な気持ちだった。でも、ひとつ言えることは、どうしようもなく最悪の心境があったから、今は人の心の温かさが身に染みて感じられる。そして、私は決して独りぼっちじゃないんだって思える。この平穏な日の有難さも、決して当たり前じゃないってことも。家族、友人、知人、職場の方々の、そっと寄り添ってくれる何気ない優しさ。ブログで知り合った方々や、このブログを見て温かい心で見守って下さる方々、たくさんの方々の支えがあって今、生きていられるんだと・・・本当にみなさんに心から感謝しています!!ありがとうね、さえりんこれからもママは落ち込むことも、泣いちゃうこともあるけれど、いつも側でさえりんが見守っていてくれるから、頑張るね!!(メロンパンを作るさえりん15歳の時)(みなさんから頂いたお供え物)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月11日
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母と娘といっても、その関係は人それぞれ・・・嫁いでも実家の母が大好きな人もいれば、私みたいに姑の方が好きな人もいる。私は実家の母とはあまり仲がいい方ではないと思っている。母の方はどう思っているんかわからないけど・・・それでも、助けを求められれば飛んでいく。やっぱり娘だから・・・昨日は朝、珍しく実家の母から電話があった。「あんた今日暇?時間あったらちょっと来てほしいんだけど・・・」と「どうしたの?」と聞くと、母は申し訳なさそうな声で、「一昨日くらいから足が痛くて動けない。実は姉さんの葬儀もあるんだけど、そこにも行けないくらい痛い。洗濯も出来ない。とにかく手伝って」と。急いで車で30分の実家へ着いた。母は左足が痛くてはぼ歩けず寝返りも痛くて打てないと嘆いていた。とにかく洗濯機を回して、母を連れて整形外科へいった。診察まで待ち時間が2時間あり、一度帰りますかと言われたが、母は動けないからと待合室で座っていた。私は洗濯物を干すのと忘れた糖尿病の薬とお薬手帳を取りに実家へと戻った。するとちょうど実家に、亡くなった伯母さんの息子さん(従弟)から電話がかかってきて、お通夜と葬儀に参加できるかを聞かれた。母の状態を伝え、大変失礼ながらご無礼させてもらう旨を伝えた。整形外科の戻り、母にそのことを伝えた。そして、診察、レントゲン、説明を終え、骨の異常は見られず筋肉の疲労からきているのではと注射をうって薬をもらい帰ってきた。実家に帰って母と、お昼ご飯に買ってきたお弁当を食べながら、母は私が買ってきたプリンを美味しそうに食べながら、母は「やっぱり娘がいて良かったわ」と言った。私は「あまりいい娘じゃないけどね・・・(;'∀')」と言うと、母は「それでも娘がいて良かった」とまた言った。久しぶりに母の顔をよく見るとまたしわが増えて、体も小さくなっていた。弟二人は実家暮らしだけど、結婚していない。仕事しているから、いざとなった時さっと動ける人はいない。妹は隣の県に住み、心配してくれるけど仕事もしていて忙しそうだから。私は親がいるところへ嫁いでいるからと、母も遠慮はあるだろうが、今日は呼んでくれて本当に良かった!!私は今まで母に甘えられず、ちょっとひねくれて育ってしまったがそれでも必要とされれば、役に立ちたいと思う。娘だから・・・呼ばれればいつでも飛んでいくだろう。やっぱりこれが母と娘なのかなと思った。私も将来、次女とこんな感じになるのかな??と。そして、従弟の家は10年前にお父様を一昨日お母様を亡くされ、独身の息子さんがお一人に、お姉さん2人は嫁いでいる。そんな状態を知り、実家もこの先そうなりうることを考えると、弟二人のことは仕方がないことだけど、私に出来る事はこの母にもう少し寄り添ってあげることかなと感じた。母と私、今までにはいろんなわだかまりもあるけれど、これからもあると思うけど、やっぱり母は世界でこの人一人なんだと思った。親孝行なんて出来ないけれど、時々は顔を見るくらい行はかないとと昨日は素直に思うことが出来た。母に「やっぱり娘がいて良かった」と言われたとき、私は一瞬、さえりんがいなくなった淋しさを感じて悲しくなったけど、でもそうじゃない、さえりんはちゃんと私の心の中にいるから、そして私には次女もいるからと、優しい気持ちでそう思うことが出来た。(今年のお正月に実家にて、母、妹家族、弟2人、私の家族で)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月10日
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我が家には2人の娘がいる。長女のさえりんと次女。この2人を見ているとまるで、光と影だと思う。どちらかが光を浴びれば、どちらかが影になる。ような気がする・・・今、次女はとても有意義な大学生活を送っている。それは、もちろん次女も突然、姉が亡くなった痛みを受け傷つき、悩み、それでも前を向こうとした結果「今すべきこと、出来る事を精一杯行い後悔のない人生を」と思い至っての行動である。はじめての学祭委員に参加して、楽しんで学祭を終えることが出来て、これからはスキーサークルのシーズンとなり、合宿や遊びの予定が山盛り。次女は甘え上手なので先輩からいつも可愛がってもらうことが多い。合間にアルバイトに行き、友達の下宿にも時々泊めてもらい夜まで女子トーク、とても充実した毎日を送っていると思う。本人も「今が一番楽しい!!」とよく言っている。私は次女の話を「いいね!ホントに良かったね!」ってうなずきながら、次女には絶対に悟られないように、顔には出さないように、心の奥底で、やっぱり少しだけ長女さえりんのことを不憫に思ってしまう・・・私はもちろん次女の母親だから、次女の喜びは自分の事のように嬉しい。素直に喜んだり疲れていたり、いろんなことを話してくれる次女のことが微笑ましくって可愛くて愛おしい。応援して協力してやりたいと思う。と同時に、私は長女さえりんの母親でもある。だから、次女を見ていると、さえりんにも、もっともっともっと・・・これから先楽しいことも、嬉しいことも、美味しいこともあったはずなのに・・・って可哀そうに思ってしまうのだ・・・さえりんは時々次女に、こう言っていた。「大学生はお気楽でいいねー。就職したら大変なんだよ!」と。でも、その反面、さえりんは次女の事を応援してお金の援助もしてくれた。だから、ちょっと羨ましい気持ちを持ちながらも、次女の幸せをいつも願ってくれていたのだと思う。本当にさえりんはなんて心の広い、良いお姉ちゃんだったんだろう・・・そう思うと、私は2人の娘の親として少し複雑で切ない気持ちになる。2人が小さい頃、光を浴びていたのは長女のさえりんだった。家族全員で娘2人とも分け隔てなく可愛がっていたが、さえりんの方が我が家のアイドル的存在だったように思う。さえりんは天真爛漫で、危なっかしさもあり、家族の注目の的だった。次女はその頃どんな思いでお姉ちゃんを見ていたんだろうって思う。その頃父が撮ったビデオカメラの、何気ない日常の生活の様子の中、ご飯を作る私の手伝いをするさえりんの後ろ姿を撮った映像がある。その中で次女が「おじいちゃんまたお姉ちゃんばっかり撮ってる」っていう声だけが入っていた。次女の顔は映っていなかったが、淋しかったと思う・・・次女が小学校3年生の時、天真爛漫だったさえりんに比べて、自信がなくて引っ込み思案で、勉強が出来なくて遅れていて、もしかしたら、この子も発達障害か学習障害かも知れないと心配になり、その頃さえりんが通っていた、大学のプレーセラピーの教授に相談し、専門の知能テストをしてもらったことがある。その時、教授に言っていただいたのは「この子は障害ではありません。勉強面は努力不足。引っ込み思案も含めて、愛情不足ではないでしょうか。確かに、障害児の兄弟児にはありうることでしょうが」と。私はその時、次女に本当に申し訳ないことをしたと深く反省しました。大家族だから私がさえりんの世話を焼いていても、次女は祖父母から愛情をたくさんもらっているから大丈夫だと勝手に思っていたことを、悔い改め、もっともっと次女にも心をかけていこうと誓ったのです。私が親として未熟だったから、この2人は光と影になってしまったのかな?それとも、これはどうしょうもないことだったのかな??それから、次女はゆっくりながらもどんどん苦手な勉強を克服していき、習い事の空手や、中学では部活の剣道を、高校では部活の弓道を通して引っ込み思案も徐々に改善され、自分の意思も自信も持てるようになり、将来はこんな仕事をしたいと夢を持ち、今の大学へと進んでいったのです。昔と逆転して、今は次女が我が家の希望になっていました。それでも、今の状況をさえりんはどう思うんだろうって考えると、やっぱりちょっと寂しそうな顔はするけれど、次女に「頑張れ!!」ってエールを送ってくれるんじゃないかと思う。そう思うと、私は2人の娘の母親として、また複雑な気持ちになるけれど、やっぱり次女のことも応援しながら、さえりんのこともいつまでもいつまでも大事に思ってあげたいと思うのです・・・「さえりん、ママはいつまでもあなたの事を一番に思っているよ!!一番大好きだよ!!だから、決して淋しくないよ!!」って、ママの心の声、聞こえるかな??(さえりん7歳、次女5歳の時 自宅の庭で初雪が降った時)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへお母様のお姑さんとのお辛かったご様子を、またお嫁さんに対して優しくされてみえたお姿を、きっと子供ながらに見てたくさん学んでこられたんですね!!そのことも、全てがきっと、お母様からミヤちゃんさんへの生き様のプレゼントだったんですね!!本当に素敵なお母様羨ましいなーって思いましたよ(#^.^#)ミヤちゃんさんもお母様みたいに、優しくて素敵な女性なんですね!!我が家もいつかはお祝いごとが出来る日が来たらいいなと思っています。宝ママさんへ途中、同居されたんですね。それもまた大変ですよね。もう核家族での生活が出来上がっているから、途中から生活を変えるってことは凄いなあって思います。お姑さんがガンで家族の中で自分が一番死が近いと思っていたのに初孫が先に逝ってしまい自分が代わってあげたかったと言われたと。我が家も全く同じです。でも、お姑さんには長生きしてもらいたい気持ちも私と全く一緒ですね(*^_^*)やっぱり家族で助けあって、支えあっての今なんですね!!
2019年12月09日
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今日12月8日は主人と私の20数回目の結婚記念日。この日は大きな出来事や事件があった日だというのは知っていた。でも、我が家にとっては私がこの家に嫁に来た日。この家族のはじまりの日・・・(これも事件かも知れないが・・・(;'∀'))だけど、今年は祝わない、ケーキも買わない。今年は、いや来年も、再来年もかも知れないけど、我が家には、クリスマスもお正月もお祝い事も来ない・・・多分・・・ずっと・・・さえりんがいなくなって、めでたいことなんて何一つないから・・・でも、12月8日は私達家族にとって、はじまりの日だったことに、変わりはない。主人と私が結婚しなかったら、さえりんも次女も生まれていなかった。もしそうだったら、今のような絶望的な悲しみはなかったかも知れないが、今までの凄く楽しくて、凄く幸せだった20年11ヵ月は存在しなかった。さえりんはよく「パパとママの娘に生まれてきて良かった!!」と言ってくれた。私も主人も親として未熟で、子育ても手探りで上手く出来なくて、逆にこんなパパとママで娘たちに申し訳なかったなとも思うが、主人の両親もいてくれて、賑やかな家庭の中で生活できたことは何より有難かった。今日ははじまりの日だけど、何のお祝いもしないけど、それでも主人にはお礼が言いたいなと思った。言葉ではうまく言えないから、すごーーく恥ずかしいけど、ここに手紙を書こうと思う・・・(;^ω^)パパへ今まで20数年間、こんな私を嫁としておいてくれて本当にありがとうございます!!年上でおまけに病気持ちで、こんな私と結婚してくれたのは勇気ある決断だったのでは、と思う・・・(;'∀')この20数年の間に、短気だったパパがいつの間にか冷静になり、穏やかなはずだった私がいつの間にか短気になってたよね(=゚ω゚)ノ夫婦って面白いね。ケンカもいっぱいしたけど、娘たちがいてくれて、振り返れば今まで本当に楽しくていい人生だったね。でも、今年は一生忘れることのできない激動の年になってしまった。1月、さえりんの成人式。ようやくさえりんも大人の仲間入り。成長を共に喜び、仕事を頑張っているさえりんを頼もしく思っていた。2月、次女が希望の大学に合格して家族でお祝いして喜んだよね!!この先の将来も私達家族には、夢や希望がいっぱいあると信じていた。3月、家族旅行へ行った。次女の高校卒業のお祝いだったが、行先はさえりんが行きたかったところ富士急ハイランドに。家族4人で行った最後の旅行となった。4月、次女の大学の入学式。次女にあった大学の学部に入れたことを安心し、これからここで次女が学び、ひと回り成長してくれることを楽しみに思った。6月、突然のさえりんの交通事故死・・・絶対に絶対にあってはならないことが、起こってしまった・・・まさか、夢にも思わなかった・・・私の時間もここで一度止まった・・・私はもう自分自身も、この家族も壊れてしまうかもしれないと思った・・・深い深い悲しみのどん底で途方にくれたけど、今もそうだけど、それでも家族も、私自身も、壊れることはなかった。多分、これからも・・・それはやっぱり、あなたのお陰です・・・もし、あなたがいなかったら、あなた以外の人だったら、きっとダメだったと思う・・・少なくとも私は耐えられなかった・・・生きていられなかったと思う。私は今もなお、あなたにぶら下がって甘えているけれど、これからはちょっとは弱音はいてもいいよ。多分一緒に泣いちゃうけど、それでも前を向いて悲しもうと思えるようになったから。私も自分の足で立って、1mmずつでも前に進もうと思えるようになったから。だから、これからもまだまだいろんなことがあると思うけど、命ある限り、夫婦として一緒にいて下さい!!私の方が先におばあちゃんになっても見捨てないでね・・・(;^ω^)そして、いつかさえりんにところに行く日がきたら、向こうの世界でさえりんと一緒に待ってるから、また家族になろうね!! ママより(今年1月 さえりんの成人式)(今年2月次女の大学合格発表の日)ご訪問いただきありがとうございます!!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月08日
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毎日、私が夕食を1階のキッチンで作っていると部屋からやって来てさえりんの事を話して、一緒に泣いてくれる、お母さん(姑)姑と私は18歳違い。普通の嫁姑より年が近い(うちは主人が6歳年下なので)私が嫁に来た20数年前、お母さんは40代後半だった。(今の私より若い・・・(;'∀'))さえりんが初孫として生まれてきたときも、姑は40代後半前にも書いたが、姑の子供は主人と弟の男2人女の子が欲しかったが家庭の事情で泣く泣く諦めたなので、初孫に女の子が生まれたときはまるで自分の娘が生まれたかのような喜びよう。母はまだ若かったから、お祖母ちゃんって呼ばれるのを嫌がり孫たちに「あーちゃん」って呼ばせていた。その頃、我が家は昔ながらの家だったので2世帯ではなく、まるっきりの同居生活。姑は毎日毎日さえりんをものすごく可愛がってくれた。次女が生まれたときも、「ママは2人の子育ては大変だから、次女は私が育てるから」と連れていかれそうになって「2人とも私が育てます!」と慌てて取り換えした・・・(;^ω^)そのくらい2人とも大事にしてもらった。両親はさえりんと次女をよく遊びに連れて行ってくれた。洋服やおもちゃ、一輪車やスケートボードや自転車などその時々で子供たちが喜びそうな物を2個ずつ買ってくれた。実は私は独身時代、実家があまり好きではなかった。父母はいい人だけど、私とは相性が合わなかったように感じていた。妹弟とも私が勝手に疎外感を感じていたように思う。だから、主人と結婚し、両親と同居が決まった時嬉しかった。私は嫁ぎ先の両親の方が好きだった。(最初の頃、父は怖かったけど・・・)それでも、長年一緒に暮らしていると当然ながら、嫌になるときもあった。世に言う嫁姑ほどだったかどうかはわからないけど、私は2、3度家出しようとしたこともある。(出て行くところもなく一人ドライブしただけで帰ってきたが(-_-;))今思えば原因も何だったのか思い出せないぐらい他愛もないことだったと思う・・・ただ窮屈だとか、自由にならないとか、何か注意されたとか、私が我がままだったと思うよ。本当にあの頃は、何の悩みもなく幸せだったからその幸せが永遠に続くと思っていたから・・・こんなに恵まれてるのに、贅沢で愚かな嫁だったと思う。さえりんは家族全員、大好きだから極たまに私とお母さんが言い合いをしたり、仲が良くない雰囲気を出していると、ものすごく敏感に感じて、おろおろと動揺していた。そして、二人の仲を取り持とうと小さいながら一生懸命に考えて、行動に移した。その姿が健気で可愛くって、大抵の嫁姑のケンカはそれで笑いに変わっていった。さえりんは家族を繋ぐ大事なキーパーソンだった。さえりんが亡くなった今、母は毎日泣いてくれる。「どうして、さえちゃんが病気の私より早く逝ってしまったの?」と。母は心臓に不治の難病を抱えていて、他にも病気がある。だから、さえりんが突然亡くなった時、あまりのショックで母の心臓が止まるんじゃないかと家族みんなで心配した。母は一緒に泣いてくれるが、この頃少しだけ変わってきた。「ママ、大丈夫? ハグしょう」って私に抱き着いて泣く。そして、母は言う。「本当は今でも信じられなくて、悲しくて、悲しくて仕方ないけど、でも頑張ろうね。みんなで支えあって生きて行こうね。いつか、さえちゃんが迎えに来てくれるまで・・・」と。傍から見たら、変な嫁姑だけど、今ではこの母が愛おしくてたまらない。私は、ようやく言葉に出して、素直に感謝を伝えられるようになった。「お母さん、本当にありがとう!!」って。さえりん、今のママとあーちゃんはどうかな??きっと、親指を立てて「グー」って笑って、安心して見ていてくれるよね!!(親戚の叔父さんが見えたとき、13歳のさえりんと妹と父母)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月07日
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昨日の夕方は嬉しいことがあった!!ご近所のお母さんと同級生2人がさえりんに会いに来てくれた!!家が近所のMちゃんは小学校の時いつも通学班で一緒に通ってくれた、賢くてしっかり者で屈託のない優しい子。今は、東北の大学で学び下宿していて、さえりんのお葬式の時はたまたま帰省していてシナモンのぬいぐるみを持ってきてくれて、参列してくれた。そして、今日また帰省したからとお母さんと一緒に来てくれた。Mちゃん親子は私の「ブログ見てるよ!」って言って下さり、照れくさかったけど、嬉しかった!!もう一人は小学校5、6年の時よくうちに遊びに来てくれたRちゃん。Mちゃんが帰省したので一緒に来てくれたのだ。Rちゃんは行動的で、もう一人のRちゃんと二人でさえりんの世話をよく焼いてくれた子。Rちゃんも友人から訃報を聞いて、お通夜に駆け付けてきてくれた。Rちゃんは今、さえりんの事故現場近くで働いていて、月命日には毎月現場にお参りに行ってくれていたと知ることができ、本当に有難いなと感謝でいっぱいになった。3人とも「さえりんのこと忘れることなんでできないよ!!」って言って下さったことが一番嬉しく、温かいなってウルっときた・・・さえりん、いいお友だちがいてくれて本当に良かったね!!1時間くらい懐かしいお話をして、私の下手なカゴも、もらってくれた。「なんのお構いも出来ませんでしたが、本当にありがとうございました!!良かったらまたさえりんに会いに来て下さいね」と、お見送りした。さえりんは本当にいい人達に恵まれたなってあらためてそう思ったよ。さえりんは3歳の時、小児精神科の医者から「人と違うから、いじめに遭って、登校拒否になって、引き籠る」と、過酷なことを宣言されたにも関わらず、本当にさえりんの周りは温かかった・・・優しい人たちがいっぱいいてくれた。確かに、さえりんは人より幼くて、繊細でいつもブツブツと独り言を言っていたから、陰で笑われたり、からかわれたりもしていたこともあり辛い思いもしたと思う。でも、そんなこと気にせずにさえりんの良いところを見つけて、可愛がったり、友達になってくれた子たちもたくさんいた。先生方にも恵まれた。ご近所や周りの方々も、声をかけたり優しくしてくださった。これもさえりんの徳なのかな?それは分からないけど、さえりんは人に恵まれ、環境に恵まれ、駆け抜けるような、この20年11ヵ月の人生はきっといい人生だったと思う!!そして、今までさえりんと関わって下さった全ての方々に「今まで本当にありがとうございました。これからも、さえりんのこと忘れないでいてくれたらなにより嬉しく、感謝しかありません!!」と、お礼の言葉を、言いたい気持ちになった。(11歳のさえりん Rちゃんたちが自宅に遊びに来てくれた時)(12歳のさえりん 子供会のお別れボーリング大会でMちゃんたちと)(昨日みなさんからいただいたお土産)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月06日
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昨日はさえりんの6回目の月命日でした。あの日と同じように、晴れて穏やかな日差しに包まれて静かにときが過ぎて行った・・・朝、主人と一緒にさえりんのお仏壇にお経をあげた。教本を見てお経をあげながら、ふと、考え事をしていた。いつもと何も変わらない、穏やかで静かで、太陽の日差しが優しい光となって暖かく降り注ぐ、こんないい日なのに、どうして私たちはお経をあげてるんだろって・・・そして、どうしてここに、さえりんがいないんだろうって・・・あの日も、こんな穏やかな日だった・・・さえりんは仕事帰り、自転車に乗ったまま旅立ってしまった・・・お別れも告げずに、突然に・・・いつもと何一つ変わらない、穏やかな光の中で・・・この世の中からさえりん一人だけが静かに、いなくなってしまった・・・ボロボロに折れ曲がった自転車だけが、今もぽつんと淋し気にブルーシートに包まれて、痛々しく眠っている。どうして、こんな日がきてしまったんだろう・・・昨日は、喪中はがきが届いて訃報を知った方から香典をいただいたので、お返しの品を送る為、主人とショッピングモールに行った。帰りにピンク色の可愛い花束を買って、事故現場へと向かった。国道バイパスの降り口の信号を、先頭で信号待ちをしていたら、突然、主人が泣いた・・・「俺は大丈夫だって思ってたのに・・・」って主人がつぶやいた。主人だって全然大丈夫なんかじゃない、私を庇うため我慢してるだけ・・・私は前を見ないよう、目を反らせていた。そう、その目の前の信号の横断歩道は6ヵ月前、さえりんがたった一人で、旅立った場所だったから・・・信号待ちの間も右折や左折の車やトラックが、目の前の横断歩道を横切って、どんどん通り過ぎていく。その様子を見ていたら、どうしょうもなく抑えられない衝動に駆られた・・・気持ちがフラシュバックして動揺しそうになった・・・信号が変わり、主人は近くのコンビニの駐車場に車を止めた。気持ちを強く持ち、反対側から横断歩道を主人と二人、歩いて渡った。電柱にはこの前検察庁に行った朝に私たちが供えたお花と、もう一つ多分今朝、供えられたであろう新しいお花があった。そのお花は電柱に固定する器具が取り付けられそこに入っていた。どなたがしてくださったかはわからないけど・・・私はその隣の切ったペットボトルに新しいお水を入れてお花を飾って、二人で静かに手を合わせた。さえりんのこと、忘れないでいてくれる人がいるのは有難かった・・・家に帰るとさえりんのお仏壇にお土産を供えた。ショッピングモールでたまたま見つけた、小さなスノーマンの光る置物。今年はクリスマスもお正月も来ないって思ってたけど、ぱっと目に入ったら、さえりんが喜ぶかなって買いたくなって私のポイントで買った、ささやかなさえりんへのクリスマスプレゼント。さえりん喜んでくれたかな・・・こうして、昨日の6回目の月命日は静かに過ぎて行った・・・(さえりんへのプレゼントのスノーマン)(昨日の事故現場)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年12月05日
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今日12月4日は、さえりんが亡くなって、6回目の月命日。様々な思いが巡る月命日・・・割り切れることなんて何一つないけれど・・・先月の5回目の月命日にも書いたけど、またさえりんに手紙を書きたくなったので書きます。さえりんはちゃんと読んでくれるよね。さえりんへあなたが突然いなくなって、早いものでもう6ヵ月。今日で6回目の月命日を迎えました。もう12月、今年は我が家にはクリスマスもお正月も来ません・・・ママはこの6ヵ月の間、時間が止まったままで今も引きこもり主婦です・・・本当はさえりんのために何かしたいけど、まだまだ模索中なんだ。さえりんからもママにこれからどうなってもらいたいのか、メッセージを送ってくれたら嬉しいんだけど・・・でも、ちょっと変わったこともあるんだよ。玄関にはさえりんのイオンポイントで買ったシクラメンが綺麗に咲いています。このピンクのシクラメンはさえりんからのプレゼント、大事に育てているよ。お天気がいい昼間は玄関先で日向ぼっこさせてるんだよ。それと花壇も綺麗に花を植え替えたんだよ。お空から見えるかな??ママはさえりんのオリジナルのカゴが、たくさん作れるようになったよ!!まださえりんよりずっと下手だけど・・・(≧▽≦)ご愛嬌です。あと、2階のリビングに小さいこたつ買ったんだよ。今までのはすごく大きくて、テーブルも買ったから入りきらなくて小さいのにしたんだ。ママは時々このこたつで、カゴ作りながらうたた寝しちゃうけどね(;^ω^)そうそう、この頃さえりんはよく夢で逢いに来てくれるようになったね。特にママが落ち込んでいたり、ピンチの時に逢いに来てくれるよね。やっぱりさえりんとママは繋がっているんだって、ママは確信してる!!さえりんはママに「頑張れ!!」ってメッセージを送ってくれてるんでしょ。さえりんはホントにママのことが大好きだからいつも応援してくれてるんだよね!!ママもたとえさえりんに何年、何十年会えなくったってずっとずっと、一番大好きで愛してるのは変わらないよ!!でも本当は、もう6ヵ月もさえりんと会えなくて、悲しくて、淋しくて、逢いたくて、ギュッとしたくて仕方ないけどね・・・それはさえりんも一緒だから、さえりんはもっともっと全部失ったんだから、ママだけわがまま言えないよね。だから、一生懸命我慢してるんだ・・・今日ね、ママは昔ノートに書いた、ある文章を見つけたんだ。その頃ママは、思春期真っただ中だったさえりんと妹にイライラすることも多くて(主に次女に)だから良いところを探そうとして書いた文章なんだ。さえりんにも妹にも見せてないから、恥ずかしいけどさえりんのだけ書くね。<さえりの良いところ20> byママ (平成27年5月30日)1. 優しい2. 食べることも作ることも好き レアチーズケーキを作ってくれる3. 歌が上手4. 受け入れがいい5. 人のことを思える6. ゲームが上手7. 漫画が好き8. 好きなことをやり続けることが出来る9. 一人でいても平気10.物事にとらわれない11.自分の意思、好き嫌いがはっきりしている12.体が丈夫13.長女の器がある14.嫌なことやりたくないことも、文句は言うがしっかりやれる15.責任感がある16.大きな声で挨拶できる17.心の浮き沈みがあまりない18.人に左右されない19.自分の決めた道を行く20.何も思っていないように見えても、家族や周りの事を凄く思いやれるこれが今から4年半前ママが書いたさえりんの良いところ20です。さえりんは16歳、高校2年生の時かな。今読んでも全然変わっていないと思うよ。変わったところは、カゴをたくさん作ってみんなにあげるようになったこと。人の喜ぶ顔を見るのが楽しみになり、奉仕する心がさらにパワーアップしたこと。ちょっと大人になって妹にお小遣いや家族にプレゼントをくれること。テレビのニュースをよく見るようになり、社会のいろんなことを喜んだり、嘆いたり、たくさん知ろう、勉強しょうと思えるようになったこと。自分に何が出来るか考えて行動に移すようになったこと。さえりんは着実に大人へと成長していたね。ママはそんなさえりんが微笑ましくて、頼もしくて、心から誇らしかったよ!!そして、将来がとっても楽しみだったんだ・・・今もこれからも、その気持ちは全然変わらないよ!!さえりんはママの一番の宝物、ママの自慢の娘だからね!!ママもさえりんの自慢のママになれるように、これから頑張るからね!!長くなったけど、また手紙書くね。来月は1月4日お正月だね・・・じゃあまたね!!さえりん(16歳の時のさえりん ナガシマスパーランドにて)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへ昨日のブログの写真ですが、回転すしのお皿は家族4人分と義弟の持ち帰りの分で計5人分ですよ。(義弟の食事も私が担当なので)あの写真見ると、さえりんと私で全部食べたみたいですよね(≧▽≦)確かにさえりんはお寿司大好きで10皿以上は食べてましたが・・・(;^ω^)宝ママさんへ私もさえりんに夢でよく逢えるようになったのはこの頃です。ブログに思いを書いてるのを、さえりんが見てくれたのかな??コツは分かりませんが、仏壇にお願いしてみたらどうかな??それとも、娘さんに手紙書くとか??よくわからなくてゴメンなさい(;^ω^)
2019年12月04日
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昨日は朝から雨気持ちもどんより、時々激しく、午後からもしとしと降り続ける雨を見ながら、ふと、禁断の言葉が頭の中を占領しはじめる。さえりんが亡くなりもうすぐ6回目の月命日。こんなこと思っても今更どうしょうもないって、分かっているのに主人にだって、もうその話はするなって言われちゃうのに、こんな雨を見ていると、どうしてもどうしても思わずにはいられない・・・もしもあの日が雨ならば・・・さえりんは、今も生きていた。もしもあの日が雨ならば・・・私が車で送り迎えをしていたから、もしもあの日が雨ならば・・・帰りにはお昼ご飯に一緒にお寿司を食べに行って、もしもあの日が雨ならば・・・「美味しかったね💛」って二人で満足して、もしもあの日が雨ならば・・・今頃、クリスマスやお正月を楽しみにしてたよね。もしもあの日が雨ならば・・・さえりんはレアチーズケーキをたくさん作って、もしもあの日が雨ならば・・・新しい年を家族で笑顔で迎えられたよね・・・だけど、あの日は雨が降らなかった・・・梅雨だったのに・・・どうして、あの日は雨が降らなかったの???どうして、あの大型トラックの運転手は さえりんが自転車で横断歩道を渡ってたのが見えなかったの???どうして、さえりんは死なくちゃいけなかったの???どうして、さえりんがいないのに私は生きているの???どうして、こんな悲しい現実が本当にあるの???どうして、こんなに優しくていい子なのに???どうして、さえりんじゃなきゃいけなかったの???どうして、この世には神も仏もいないの???もしも・・・の後には必ず、どうして・・・がやって来て、私を苦しめる・・・答えのない堂々巡りの問いかけは、ナイフのように私の心に突き刺さる・・・だから主人は、「もしもは、もう言うな!!」って怒るんだよね。わかってる、もうどうしょうもないことだって、わかってるよ私だって。だから、いつもは「もしも」が出ないようにコントロールしてるのに、この冷たい雨を見てたら、コントロールが効かなくなっちゃった・・・(>_<)傷だらけになり、血だらけになり、動けない私がいる・・・もしすぐ、さえりんの6回目の月命日。だから、今はまだこんなだけど仕方ないよね・・・また、さえりんに手紙書こうかな?こんな私だからまだ外の世界に出る自信が持てないんだよね・・・だけど、今までより少しは強く、ならなきゃって思ってる。だから、昨日はさえりんのカゴを作って過ごした。雨を見ながら、答えの出ない問いで自分を痛め、傷つけながら、それでも、前に進みたい気持ちで、傷口を癒しながら・・・早く雨が上がらないかな・・・早くお日様がみえないかな・・・早くこんな時間が過ぎていかないかな・・・早く希望の光を掴むことができないかな・・・夜には3日ぶりの次女が帰って来る!!晩ごはんは暖かい鍋でも作ろっかな・・・(≧▽≦)ほんのささやかでも幸せがあるから、まだ生きていける。そうだよね、さえりん!!ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。また夢の話(*^_^*)昨日は雨でどんより、一昨日の学祭に行った疲れもあって、ブログを書いてから午後ちょっと、うたた寝しちゃったら・・・会いにきてくれました!!さえりんちゃん11歳か12歳くらいだったかな?昨日の夢は家族や他の人にはさえりんが見えないんだけど、私だけが見えて、しかもさえりんとお話も出来るっていう嬉しい夢!!さえりんが遊び心いっぱいでいたずらしたり、私だけに抱き着いて甘えてきてチョーしあわせ!!きっと私を励ますために会いに来てくれたんだよね!!目が覚めたらちょっとの間ボーっとしたけど、お仏壇に手を合わせて「さえりんありがとう!!できればまた会いに来てね!」ってお礼を言いました。さえりんがくれたささやかな幸せ・・・ママはまた頑張れるよ!! 外を見たらいつの間にか雨があがっていた。(11歳の時のさえりん)(さえりんが大好きな回転寿司を家族で食べに行ったとき)
2019年12月03日
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昨日はとっても暖かいいいお天気寒いと思って着ていた厚いコートがいらないくらいの晴天に。昨日は主人とさえりんも一緒に、朝から高速道路に乗って1時間半、着いたのは、隣県の次女が通う大学です。そう、一昨日から行われていた学祭を見に来たのです。というのは、実は前からさえりんと一緒に行く約束をしていたから・・・4月大学に入学した次女が、学祭委員に入ったと聞いたとき、さえりんが「妹の大学見てみたいから、じゃあ、みんなで学祭見に行こうよ!」って楽しみにしていたんです。さえりんは高校卒業し就職しましたが、受験をし大学に通い自分の夢に向かって頑張っている妹のことを、いつも応援して誇りに思っていたようです。だから「定期代くらいは私が出してあげるね」と隣県までの分なので毎月1万円定期代をくれていました。さえりんは自分が出来ないことを、夢や目標に持つ次女を見ながら代わりに夢を託していたのかもしれません。そういう優しいお姉ちゃんだったのです。それで、次女の学祭を見に行きながら、次女がどんな学校で学んでいるのか見ておきたかったんだと思います。だから、昨日はもちろんさえりんと一緒に!!大学に着くとメイン広場では可愛いデザインのメインステージが。あれが次女たちが毎日遅くまでみんなでペンキで色を塗って、釘を打って作ったステージなんだって、思わず微笑ましく思えました。メイン広場ではよさこいの演武が、他大学や近隣地域のチームも参加し13組の若さ溢れる迫力ある踊りを見せてもらいました。次女を探してみると、裏方で駐車場の立ち当番やお化け屋敷のお化けになって脅かし役をやっていました(;^ω^) それでもみなさんと楽しそうにやっている次女を見たら、応援したくなりました。そして、次女が学ぶ校舎を見に行くと、まだ新しい学部なので新しく綺麗な建物でとっても感じがよく、ここで毎日次女が勉強しているんだと感心しました。お昼ごはんは新しい学生食堂で、お値打ちなパスタランチを食べました。今まで知らなかった次女の大学生活を垣間見ることができ本当に良かったです。メイン広場では各サークルがたくさんの模擬店や地元の中学校の子たちもパン屋さんを出店していて、午後からはステージからのお菓子蒔きがありゲームや有名人のトークショーもあって、たいへん盛り上がっていました。この大学はちょっと町から外れた田舎にあり、学部も少ないんですがとってもアットホームな感じがして温かい印象で本当にいい大学だなと思いました。そして、その仲間に入れてもらい同級生や先輩から可愛がってもらっている次女の姿を見ながらなんだかホッとして、思わず「これからも次女のことをどうかよろしくお願いします」と目頭が熱くなる思いで帰ってきたのです。昨日はとってもいい日になりました。行ってみて本当に良かった!!きっとさえりんも、次女の大学を見て安心したのではと思いました。そしてさえりんなら次女に「これからも応援してるから頑張れ!!」って言っているに違いないと思ったのです。そして、お仕事の休みをとって、さえりんと私を連れてきてくれた主人。本当にありがとう!!お疲れ様でした(学祭の様子)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。(帰りにコストコで買った晩ごはんのお寿司とマフィン(#^.^#))みなさんへ昨日のブログをご心配くださり、ご意見ありがとうございました。みなさんのコメント見ていたら、焦らず今自分のペースで出来ること、やってみたいと思うことをゆっくり探していけばいいんだって思えました。それでも、いつかさえりんの事を絵本に出来たらどんなに素晴らしいんだろうって、希望と勇気が湧いてきました!私にはそんな才能はないし、第一絵が描けませんから・・・(≧▽≦)実現するかどうかは別として、夢を見る気持ちは生きる希望に繋がります。今はそんなささやかな光でも、私が元気でいてどんな形であっても家族が仲良く、いつか何かの、誰かの、ほんの少しでも役に立てることが出来たとしたら、きっとさえりんも喜んでくれるでしょう!!私なりにのんびり探していきます。みなさん、ありがとうございました。
2019年12月02日
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最近主人が家に帰ると、少しイライラしてるのは気が付いていた。さえりんが突然亡くなって、もうすぐ6ヵ月。私はあの時さえりんと一緒に、時間が止まったままだった。今までのたくさんの後悔と、さえりんとずっと一緒にいたいという私のわがままを家族は尊重してくれて、今は家にずーっと居させてもらっている。それでも、主人や次女は、もうとっくの昔から時間が動いていた。私みたいに甘えていられない、社会に出ていかなければいけな状況だったから。気が付けば私とさえりんだけがこの家に取り残されていた。一昨日から次女は「3日間家に帰って来ない」と大学に出掛けて行った。それは、大学の学祭がある為。次女は学祭委員に入っていて、準備や、土曜、日曜は開催中の様々なお手伝い、そして月曜は後片づけがあるらしい。その間は朝も早く夜も遅くなるから、同じ学祭委員の女の子の下宿に泊めてもらうとのこと。次女はなんだか楽しそうで張り切っていた。「頑張ってね」と送り出したが、次女がいない我が家はやっぱり淋しい・・・大学を卒業して就職したら家を出ると宣言しているので、いずれはこれが当たり前の生活になるんだろうな・・・(>_<)以前から主人と、子供たちが大きくなってからの事をよく話した。先輩ママからよく「子供が巣立って行ったら最後は夫婦二人になるんだよ」と聞いてはいたけど、我が家は次女は出て行ったとしても、さえりんが家いるから大丈夫だと、夫婦二人になんてならないと安心していた。さえりんはこの家が大好きだった。「私、結婚せずにずーーっとこの家にいてもいい?」ってよく聞いてきた。私は「うんいいよ。ここは長女のさえりんの家だからずーーっと居ていいんだよ」って答えた。「それにもしも、結婚してもこの家に住めばいいんだよ!!」と。さえりんは「うん!!ママありがとう!!」って嬉しそうに笑った。だから、さえりがこの家を出ていくことなんて絶対にないと思っていた・・・しかし、こんなに早くさえりんがいなくなってしまう日が来るなんて、誰も思わなかった・・・一昨日の夜から、主人と二人きり・・・(両親と弟は1階に住んでいて、キッチンでご飯を作るときに会うだけ)今までも次女が週に1回くらいは友達の家に泊めてもらい、二人きりは時々あった。でも、昨日は何だかとっても淋しく感じた・・・我が家は絶対にないと思っていた、夫婦二人だけの生活がいずれ来るんだなって急に淋しくなった。主人はいつもと変わらず、食事をしてお風呂に入ってテレビを見て、寝室に行ってからも寝るまでゲームをしている。いつもと変わらない毎日なのに、私は一人で取り残されたみたいに急に孤独になった・・・だから、主人にたくさん話しかけたり、しつこくちょっかいをかけた。そしたら、ついに主人に怒られた。「ウザい!!かまってちゃんはやめろ!!」と。「だって・・・だって・・・淋しんだもん・・・」と泣く私・・・淋しいのは私だけじゃない、主人だって一緒だよね。主人は自分なりに心をコントロールして生活してるんだってこと。テレビやゲームだってそのためにやってるんだってこと。わかってる、よくわかってるんだけど・・・一昨日は私がダメだった・・・やっぱり家にばかりいて、社会と接点を持っていないからいけないのかな??いつも一人だから、淋しくってつい家族に重く圧し掛かってしまうのかも。家族の優しさに甘えて、引きこもり主婦をもうすぐ6ヵ月もさせてもらっているけど、もう限界なのかな??せめて、刑事裁判が終わるまではと思っていたけど、なかなか捜査も進まず、いつ始まるかも全くわからない・・・もうそろそろ、私も外に出ないとダメになちゃうのかなって思った。でも、もとの職場は飲食店で、さえりんが大好きでよく食べに来ていて思い出がいっぱいあるし、もう人前にあまり出たくないので、店長さんのご好意で、6ヵ月もの間ずっと休職中にしてもらってるけど、大変申し訳ないんですが、もう戻れない・・・と思う・・・さえりんがいなくなった今、例の会にももう戻る気持ちはない・・・だとしたら、新しい仕事でも探すしかないのかな???人前に出たくないからサービス業はダメ。事務系の仕事なんて今更覚えられないし。掃除の仕事も体力的に出来るかどうか不安。なんの取り柄も資格もないこんな50歳を過ぎたおばさんを雇ってくれるところなんて、そもそもあるのかな???そんなことを悶々と考えて、泣きながら寝た・・・朝、主人が「昨日はごめん」って謝ってくれた。「私のこと嫌いになった?」って聞いたら「うっとうしいけど、嫌いではない」と・・・言われた。やっぱりこんな私じゃあ、重たくてうっとうしいよね・・・(>_<)だから、次女もきっと主人と同じ気持ちで、私のこと「好きだけど、うっとうしい」って思っていて家を出たいんだよね・・・もうそろそろ、私も暗いトンネルの中の冬眠から目覚めて動き出さなきゃ行けないときなのかも知れないって思った。まだ先のことはどうなるかわからないけど、私も自分の足で前に進まなきゃって思ってるんだ。こんなママに力を貸してね、さえりん!!ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。<お礼>昨日の午後、さえりんの高校の同級生のお母さんお2人と娘さんが来てくださった。昨日は卒業した高校の文化祭があり、行かれたお土産をいただきました。生徒さんたちが作られた、大根、クラフトのカゴ、手芸品、クッキーをさえりんにお供えして下さり、同級生のKちゃんはお手紙を書いてきてくれた。晩ごはんに大根は煮て、葉っぱも菜飯にしていただきました。とっても美味しかったです(#^.^#)本当にありがとうございました!!以前も、事故現場にお参りに行って下さったとのこと。一番嬉しかったのは、さえりんのこと忘れないでいて下さったこと、本当にありがとうございます!!これからもよろしくお願いします。(昨日いただいたもの)(高校3年生の時のさえりん 文化祭でクラフトのカゴを販売している)本当ならさえりんも昨日は仕事の休みをもらって、高校の文化祭に行きたかったんだろうなって。同級生や後輩、先生方にお会いしたかっただろうなって思った・・・
2019年12月01日
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昨日は久しぶりのスッキリした晴天、風が寒いけど日差しが気持ちのいい日。朝からシーツを洗濯したり、なんとなく気分も久しぶりに晴れやかにこんな日だから玄関では日が当たらず可愛そうなので、シクラメンを玄関先のお外に出して日光浴させた。私も少しの時間、隣に座ってボーっと日向ぼっこしてみた。なんだか気持ちがいいなーって体が喜んでいるのを感じる。目の前の我が家の小さなお庭の木も紅葉していた。今までずっと忙しい日々をバタバタと送っていたので、あまり気付かなかった風景や季節を体で感じていた。これもきっと、さえりんが私を元気にさせるためにくれた大切な時間。花の美しさも、木の生命力も、太陽の暖かさも、空の青さも、自然の壮大さも、何ひとつ感じられないくらいの忙しさで、何年も心を亡くしていた私。そんなある日突然さえりんが亡くなり、いっきに奈落の底に突き落とされて、ボロボロに傷つき、血だらけになって、真っ暗闇の中でもがき苦しむ私。もう一生、光が射すことなんてないかもしれないと恐怖に怯えた日々。私はこの時一度、死んだ・・・だけど自然はそんな私にお構いなく、夏を連れてきて、秋も連れてきて、冬までやってきた。ようやくほんの少しずつだけど、暗闇の穴の中から顔を出せた私が、生まれ変わったかのように、陽の光の眩しさを感じる。太陽のあったかさ、澄んだ空気の美味しさ、空の透き通るような真っ青さ、冷たい風で木が揺れる葉音。太陽の光を浴びて嬉しそうな花たち。まだまだ、心の傷が癒えることなんて一生ないけれど、立ち直れることなんて一生かかってもないと思っている。だけど、こんな日も来るんだと、不思議に思った。ごめんね、さえりん・・・ママはあの日、さえりんと一緒に死んでしまったと思っていたけど、なんだかこの頃、まだ生きているんだって実感してるんだ。だけど、さえりんを置いてきぼりになんてしないからね。これからは、さえりんと一緒に生きるママへと生まれ変わったんだとそう思っているんだよ。そして、新しく生まれたママはまだまだひ弱で、傷つきやすくて、泣き虫だけど、これからどんどん強くなって、優しくなって、ひと回り大きな人間になって、さえりんの遺志を継いで生きて行くんだよ。だから、いつも一緒にいて応援してね、さえりん!!これから先のママの人生は、さえりんがくれた大切な時間なんだから・・・さえりんのシクラメンも隣で、優しく微笑んでいるような気がした(庭の木)(なぜか一輪だけユリが咲いている?)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへ夢の中、お母様にお会いできて、本当に良かったですね!!夢から覚めると淋しくなりますが、それでもいいから会いたいですよね。だって夢の中なら今からでも思い出を増やすことが出来るから・・・(*^_^*)たくさんたくさんおしゃべりして、甘えられるといいですね💛宝ママさんへ娘さんいつか夢で「お母さん大好き❤」って言ってくれる日がきっと来ますよ(#^.^#) 娘さんの為に使った10年は絶対に無駄ではないです。宝ママさんが精一杯してくださった思いは娘さんにちゃんと届いているから、今はあちらの世界で友達を作って幸せにしていますよ!!
2019年11月30日
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夢でもいいから娘に会いたい!!もう二度と会えないって、わかっているからこそ、これは母親としての、ほんのささやかな願い・・・そして、大事な人を亡くしたすべての人の願い・・・先日宝ママさんが「娘さんの夢を見た」とコメントをもらい、私もまた、さえりんが夢に出てきてくれないかな?って願っていた。そしたら、昨日の朝出てきてくれました!!夢の中、さえりんが高校生くらいだったのかな。私と次女は何か用事があり泊りで出掛けるところだった。さえりんとパパは家でお留守番。お見送りしてくれるさえりんが「いってらっしゃい」って笑っていた。でもその笑顔がなんとも淋しそうで本当は「置いていかないで」って言ってるみたいで切なくなって、一度行こうとしたけど、すぐに引き返して「さえりんも一緒に行こう!!」って手を繋いだら、さえりんは涙をポロポロ流して「ママ、ありがとう!!」って嬉しそうな笑顔で、抱き着いてきた。そこで、目が覚めた・・・起きたら私も泣きそうになっていた・・・さえりんは高校生くらいになると、いろんなことをよく我慢していた。本当は自分も甘えたいのに、自分はお姉ちゃんだからと妹に譲ってくれた。その頃妹は、小さい頃に我慢していた分、自己主張が強くなり私にたくさん要求してくるようになっていた。私は次女が小さい頃、さえりんに手がかかりあまり心をかけてあげられなかったことを申し訳なく思っていたので、出来る限り次女の要求を聞いてあげた。夕食時、いつも私とおしゃべりする次女を、隣で知らん顔してテレビを見ながらもくもくと食事をしていたさえりん。さえりんは女子トークが苦手だからと仲間には入らなかったけど、本当は会話に入りたかったのかなって思った・・・本当は楽しそうにしていた次女と私を見て、淋しかったのではと・・・ごめんね、さえりん・・・ママは気付いてあげられなくて・・・いつも「私は大丈夫だよ。行ってきていいよ」ってお留守番してくれることもたくさんあったけど、本当は淋しかったんだよね・・・さえりんはいつもいつも、優しいお姉ちゃんをしていてくれたけど、もっともっとたくさん、甘えさせてあげれば良かった・・・だってママはこんなにもさえりんの事が大好きだったのに・・・さえりんだってママの事をこんなにも大好きだったって知っていたのに・・・神様お願いです!!もう一度だけでもいいから、さえりんに会わせてください!!!!お願いです!!他には何も望まないから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・でも、神様はいなかった・・・私のお願いは叶わない・・・だったらせめて、夢でもいいから、またさえりんに会いたい!!!「さえりんが一番大好きだよ」って、ぎゅっと抱きしめたい!!夢でもいいから・・・ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。~昨日のシクラメンのつづきです~昨日ネットで調べたらシクラメンは、温度管理が難しいことがわかった。適温は5℃~15℃で、ひんやりしていて陽当たりがいい場所がベストだと。リビングの温度計を見たら23.5℃・・・(>_<)これでは暑すぎて枯れてしまう。ということで急遽、玄関に移動した。それでも温度は20℃・・・(;^ω^)我が家は家中が暖かすぎてシクラメンには適していないことが判明。軒下に出そうかとも考えたが、風が冷たくて寒すぎるからやめた。お天気がよく暖かい日には外でもいいのかな? 夜しまえば・・・しばらく様子を見ながら玄関に置くことにした(≧▽≦)後は頑張って育て方を勉強して、水と肥料のやり方に注意して、少しでも長く綺麗な花を咲かせてくれたらって願っています!!でも玄関にはさえりんの写真がいっぱい両親が飾っていて、いつも出掛けるときは「さえちゃん行ってきます」帰ってきたら「さえちゃんただいま」って父と母は写真に話しかけている。だからシクラメンもその写真の隣がちょうどいいかなって思った。だってさえりんは、私達だけじゃなくて、家族全員の宝物だからね昨日夜、友人のTさんの娘さんからLINEをもらい、シクラメンの育て方を教えてくれました。私のブログもいつも見てくれていると。嬉しかったです!!本当にありがとう(*^_^*)Rちゃん、これからもシクラメンのご指導よろしくね!(我が家の玄関)
2019年11月29日
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昨日は一昨日の検察庁の疲れが出てのんびりしていた。仕事が休みの主人が「さえりんの残ってるポイントが今月で消える」と。それは、さえりんが持っていたイオンポイントカードのこと。パソコンでポイント残高などを確認していた主人が気付いたのだ。主人はこういうことに実に細かい。反対に私はおおざっぱ・・・(;^ω^)さえりんもパパに似たのか買い物に行ったときはきちんとポイントカードを出して、ポイントを貯めていた。イオンポイント、ファミマカード、ポンタカード、Dポイントカードなどお財布に入れて使っていた。主人は家族全員のポイントカードなどをパソコンで管理している。私には絶対できない細かい作業・・・(-_-;)でも、せっかくさえりんが貯めたポイントが無効になってしまうのは惜しい気がした。だってさえりんが残してくれたものだと思ったら、無駄にしたくないと。こんな些細なことでも、さえりんの行動が思い出され、愛おしくなるのです。そこで、このポイントを何か残るものに替えようと思ったのです。できれば、食べ物以外でさえりんが喜んでくれそうで、長く使えるもの。買い物に行ったのはさえりんがいつも行っていたイオンタウン。残っているポイントは約800円分。何かいいものがないかなとうろうろしていると、お花コーナーで見つけたのが、シクラメンの鉢植え。698円の消費税だからポイントがほぼ使える。しかもさえりん好みの、とっても可愛いピンク色これに決めた!!ただ問題は植物を枯らすことが得意な私が大事に長く、出来れば来年も咲かせられるかどうか・・・(≧▽≦)まあ、ネットで調べて心を込めて育てるしかないなと思いました。家に帰って早速、さえりんのお仏壇から良く見える、出窓に飾った。隣には、一昨日事故現場用に花束を買ったとき見つけた、プリンセチア。花言葉は”思いやり”「この花の売り上げの一部は日本乳がんピンクリボン運動に寄付されます」のポップを見て衝動買いしたピンク色の可愛いポインセチアの仲間。出窓の穏やかな日差しに、ピンク色のお花が2鉢キラキラ光る。さえりんとっても綺麗だよ!!さえりんが貯めたポイントで買ったんだよ。これはさえりんからの贈り物なんだってママは思ってるよ!!部屋にお花があるだけで、優しい気持ちで癒される。さえりんありがとうね大事にするからね(プリンセチアとシクラメン)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月28日
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昨日は朝から緊張していました。というのは、検察庁で担当の検事に、はじめて面談をする約束の日だから。昨日は私たちにとって特別な日なので、神聖な気持ちで勇気を出して、朝、まずいつものお墓参りをし、次に事故現場に花を供え手を合わせました。事故現場には少し前の枯れた花束が2つとお茶とジュースのペットボトルが数本供えられていました。どなたか分かりませんが、お礼を言い片付けさせてもらい、新しい花束とカルピスと大好きだったポッキーをお供えしました。そして、地方検察庁○○支部へ玄関でN弁護士と待ち合わせました。N弁護士は大阪の方ですので朝、新幹線で名古屋へ、そして電車でこちらまで来てくださいました。お会いするとN弁護士から提案が。私が書いた上申書をただ渡すだけでなくその場で読み上げた方がよいとの事。ご夫婦どちらかでと言われ、主人は「俺は無理だ」と言うので急遽、私がということに・・・(>_<)一気に緊張感が増してきました・・・その上申書とは、この事故をどのように調べて、法で裁いてもらいたいかを遺族の立場で書いた、要望書のようなもの。私は疑問に思ったこと、解明したいと思うことなどを箇条書きにして26項目をA4用紙約2枚半にまとめて書きました。部屋に案内され、まず担当検事にご挨拶をした。机の上にはさえりんの名前が書かれた辞書くらい分厚い捜査資料があったが、まだ公判起訴されていないので開示してもらえなかった。しかし、N弁護士が事故の捜査状況を説明してもらえるよう頼むと、検事は今お伝えできる範囲ならと、少しだけ話して下さいました。まだ詳しい検証が済んでいない部分もあり、もう少し時間をくださいとの事。どうやら年が明けてしまいそうです・・・それから、上申書を検事に渡し、私が読みました。すると、いきなり主人からダメ出しが??書類の最初に、肝心な「左折」を「右折」と間違って書いてしまっていたのです・・・あーやってしまった・・・(;^ω^)よく確認したはずなのに、こういうおちょこちょいな所があるんです・・・それでも何とか気持ちを伝え、質問などをして最初の面談は終わりました。帰りにN弁護士に、これから何をどのようにしたらいいのかをお聞きし、正式起訴されるかどうかはこれからの捜査と、検事の判断次第とのこと。まだまだ起訴されて、刑事裁判になるかどうかは分かりませんが、それでも正検事に担当してもらえたことで、簡単な書類処理だけで終わることなく、時間がかかっても詳しい検証や捜査をしてもらえること、まずはそのことだけでも感謝して、希望を持とうと思いました。これもN弁護士のお陰です!!私が受けた検察庁というところの印象は「ザ・お役所」という感じ。事務的で合理的でお堅い感じ?それがいい方に働けば、きちんと間違いなく仕事をこなしてくれる。悪い方に働けば、無駄なことはしない、合理的にさっと終わらせる。これから、この検事に運命を委ね、N弁護士の力を借りて戦いが始まるのです!!日本は加害者天国だと言われています。悲しいことに、被害者遺族はいつも泣き寝入りです。特に交通死亡事故は相手が故意に殺したわけではないからと、さらに刑が軽く、執行猶予が付いたり、罰金だけで実刑にならないケースも多いと聞きます。被害者遺族にとっては、大事な家族が突然、命を奪われたことに変わりはないんです!!それなのに加害者は知らん顔で普通に暮らすことを支援しているこの国の法律。本当に理不尽でおかしいことだらけです!!納得できるわけがありません!!加害者はたとえ殺意がなかったとしても、過失という罪で人を殺してしまったことに、変わりはないんです!!!奪ってしまった命の重さをしっかり反省し、正しく実刑を受け、罪を一生かけて償うべきではないでしょうか???被害者に更なる追い打ちをかけ、加害者に甘いこの国のやり方は果たして正しいのでしょうか???私はどんなに辛い現実が待っていようとも、最後まで諦めないと決めました!!でなければ、さえりんがあまりにも可哀そうで、浮かばれません・・・そして、こんな世の中はおかしいとはっきり言えるような強い自分にならなければと、思うのです!!私は、まだまだ泣いてばかりの弱虫ママです・・・それでもさえりんを心から愛していること、さえりんの人権を守ること、交通死亡事故を悲しむさえりんの遺志を受け継ぐこと、その思いを武器に精一杯戦う覚悟です!!昨日は、まだまだ初めの第一歩です。これからも随時、ブログに書いていきます。どうか温かい目で見守っていただけたら、有難いです!!(検察庁発行「犯罪被害者の方々へ」パンフレットより引用)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへミヤちゃんさんのご実家のご様子教えて下さり、ありがとうございます!ミヤちゃんさんも私と同じなんですね。何でもないものまで愛おしいと感じる気持ち、本当にそうなんです!!私なんてトイレのカレンダーでさえ娘が自分でシフトを書いたんだと思ったら、永遠に捨てられません・・・それで、良いんですよね。私の生きているうちは、と思います(#^.^#)宝ママさんへ娘さん夢に出て来られて良かったですね(*^_^*)夢でもいいから会いたいって思いますよね!!そして、忘れてしまわないように記録に残しておきたくなる。大事な大事な娘さんとの思い出、夢でもいいから増やしたい、それが母親のほんのささやかな願いですね。
2019年11月27日
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長女、さえりんの部屋は、今もあの時のまま時間が止まっている。持ち主が帰って来ないあの部屋は、毎日静かにたたずんでいた。1年前さえりんが自分のお給料で買った43インチのテレビも、BDレコーダーも、任天堂スイッチも、3DSも、楽しそうに笑って動かして遊んでくれる人はもういない・・・ソファもベッドも気持ちよさそうにゴロンと休んでくれる持ち主はもう二度と帰って来ない・・・あれだけ毎日毎日、賑やかに動いていたあの部屋は、今ではまるで死んでしまったように静かにひっそりと、時間が止まっている。まるで帰って来ないさえりんを、いつまでも待っているかのように・・・昨日掃除機をかけていたら、ふと気づいた。さえりんの部屋のテレビの前に置いてあった、卓上カレンダーは5月のままだった・・・さえりんの部屋は5月で時が止まったまま、ずっとそのままで良かった。6月なんて永遠に来なければよかった!!!そうすれば、さえりんはまだまだずっとこの部屋で楽しく過ごせたのに・・・持ち主のいなくなったこの部屋がそう言っているような気がした・・・さえりんは毎日寝る前に私に「ママ、電気消して」って頼んできた。私は毎日「いいよ」って言って、さえりんの部屋の電気を消して「さえちゃん、ずっとずーっと大好きだよ!おやすみ、また明日ね」と言ってドアを閉めた。さえりんは「ママおやすみなさい。ありがとう❤」と言った。そして、朝になると「さえちゃんおはよう!!」とドアを開けるとさえりんは「おはよう!!」とすぐに起きて、ソファに座りテレビをつけた。これが毎日の日課だった。電気を消したりドアを閉めたり自分で出来る事を、わざわざ私に頼んでくるのはさえりんなりに私に甘えたかったからだと思う。もう何でも自分でできて世話がいらなくなった分、淋しかったのかな。いろいろ要求してくる次女に遠慮して、自分は長女だからと我慢してたと思う。だから、母の愛情を求めていたのかな。そう気づいていたから私は面倒くさがらずどんなに疲れていても眠くても、必ずさえりんの要求を受け入れた。その習慣は今も変わらず毎日続けている・・・もう「おやすみなさい、ありがとう♥」も「おはよう!!」も言ってくれる、さえりんはいないのに・・・まだ私が20代前半でコンビニでアルバイトをしていた時、一緒にアルバイトをしていた20歳の専門学校に通う男の子が事故で突然亡くなった。その男の子はいつも電車で通学していたが、その日に限って寝坊して電車に間に合わず慌ててスクーターに乗って学校へ走った。1月末の道路が凍る寒い朝だった。田舎道の電柱に一人でぶつかり即死だった。真っ直ぐな何にもない普通の道路。なんでこんなところで・・・お花を持ちお参りに行ったアルバイト仲間みんなが言葉を失った。あと少しで卒業だったのに、希望の就職先も決まって楽しみにしてたのに・・・その後、時々その男の子のご両親や妹さんがコンビニに買い物に来た。その時、家族は言っていた。「あの子の部屋はずっとそのままにしてあるんです」と。その頃はその意味がまだよくわからなかった。今なら、あの時の男の子のご両親の気持ちがよくわかる。私もさえりんの部屋を片付けてしまうことなんて出来るはずがない。もう2度と帰って来ないとわかっていても、つい帰りを待ってしまう。いつ帰ってもいいようにそのままにしておきたい。それが親心だから・・・バカだと思われても、そうせざるおえないのだから・・・さえりんの部屋のドア(私が作ったさえりんのネームプレート)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月26日
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サザエさんがテレビ放送50周年を迎えた。昨日は記念アニメと「ドラマ磯野家の人々~20年後のサザエさん~」が放送された。さえりんはアニメのサザエさんが大好きで毎週必ず録画して、気に入ったシーンを何度も何度もリピートして見て笑っていた。一番大好きだったのは、カツオが波平さんに「ばかもーん!!」と怒鳴られるシーン。たぶんカツオのキャラクターが大好きだったと思う。私はサザエさん一家のような、明るく賑やかな家庭が作りたかった・・・そして、少しは近づいているんではないかと、錯覚していた。こうなるまでは・・・何処で間違っちゃたんだろうって、悲しくなる・・・サザエさん一家を我が家に当てはめると、波平さんは父(舅)、舟さんは母(姑)この二人はキャラクター設定が似ている。父は無口でばかもーんとは言わないが怒ると怖い。でも冷静に一家を見てくれる一家の柱的なところが似ている。母はそのまま優しく大きく家族を包み込んでくれる舟さんみたいなお母さん。落ち着いているが、ちょっとお茶目で可愛いらしい性格も母に似ている。マスオさんは主人、サザエさんが私ということになる。主人は養子ではなく長男だが優しいところがマスオさんに似ている。マスオさんより短気で怒ると怖いところもあるが。私はサザエさんに似ているかが一番の疑問??私は娘ではなく嫁だし、あんなに周りを明るく出来るような人気者ではない。でもドジな所や、すぐ羽目を外すところ、家族に波乱を巻き起こすところは似ていると認めざるおえない(≧▽≦)カツオはもちろんさえりん、カツオの女の子版。一家の愛されキャラクター!!ワカメは次女。しっかり者の優等生ではないが立ち位置的に似ていると思う。タラちゃんはいない。その代わりうちには主人の弟が同居している。タマはマロン。猫と犬の違いはあるけど、我が家のマスコット。我が家は、永遠に7人家族とペット1匹。こんな大家族での生活は毎日毎日が退屈することなんてなかった。次々に何かが巻き起こって、笑ったり、泣いたり、怒ったり、ケンカしたり、美味しいものを一緒に食べたり、そんな日々が当たり前になっていた。楽しくて、充実していて、時には大変で、あっという間に、20年11ヵ月が過ぎていってしまった。このまま、ずーっとこのまま、20年後の未来が来ると信じていた。さえりんは仕事をしながら、趣味を充実させて、私達とずっと一緒に暮らし、次女はいずれ結婚して家庭を持ち、我が家の近くに住んでくれたらいいなあって、密かに願っていた。そしたら、私達が死んだあとも、さえりんが淋しくないから。将来、困ったことがあったら次女家族に相談しながら、いつまでも楽しく生きていけると思っていた・・・もしかしたら、さえりんにも結婚したいという人が現れて養子に入ってくれたら、今度はさえりんがサザエさんに・・・なんて、夢を描いていた私は欲張りだったのかな・・・(>_<)その願いは、虚しく砕かれた・・・我が家に明るく楽しい20年後なんて訪れることはなかった・・・こんなことになってしまって、今は未来なんて全く見えない。未来に希望も持てない・・・昨日はそんな気持ちで、サザエさんのアニメを見ていた。あの頃が懐かしくて、どんなに戻りたくても、もう二度と戻れない、現実を突きつけられながら・・・ほのぼのとした内容なのに、自然に涙がこぼれる・・・それでも、昨日はさえりんもソファに寝っ転がって、久しぶりに、一緒にサザエさんを見ていたと思う。きっとゲラゲラと楽しそうに笑って・・・今はまだ想像すら出来ないけれど、何年後か、何十年後には、穏やかで温かい気持ちで優しく笑って、見れる日が来るのかな???もしそんな日が来たら、きっとさえりんも一緒に心から笑ってくれるよね。(さえりん7歳の時 初めての家族旅行 富士急ハイランドにて)ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月25日
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20年11ヵ月・・・それが長女、さえりんの人生・・・果たしてその間、さえりんはこの世に生まれて、私達の娘として、我が家の長女として、生まれてきて本当に幸せだったんだろうか・・・と、思うことがある・・・昨日の続きです。さえりんは幼稚園に入園してからたくさんの事を学習した。まず、団体生活。先生に従い、決められたことを決められたようにする。人に譲る。順番を守る。ルールを守る。相手の事を思いやれる。一見簡単そうですが、さえりんにはどれもとっても難しいことでした。年少の1年間は全くできず。教室に入れず一日中園庭のブランコに乗っていた。給食の時間だけさっと食べて、また一人でずっとブランコにいた。さえりんは自分に興味のあること以外は、出来ませんでした。年中で教室にいられるようになり、年長になると次女が年少で入園したため、急に意識が変わってお姉ちゃんになった。毎朝泣いて私と離れるのを嫌がる妹の手を繋いで、私に「ママ、妹の事は私に任せて」と胸を張って言い、妹に「お姉ちゃんがいるから大丈夫だよ!!」と妹の教室まで連れていき、ハンカチで妹の涙を拭いてくれた。他にも親と離れて泣いている子たちがたくさんいることに気づいたさえりんは、他の子たちにもハンカチで涙を拭いて優しい言葉をかけた。その時はじめて人を思いやる優しい心を学んだと思う。それからは一気に見違えるように先生の指示も聞け、ルールも順番も守れるように成長していった。私はそんな、さえりんの目ざましい心の成長がとても嬉しく、涙ぐましくそっと見守った。(さえりん年長、次女年少の時)小学校に入学するとき私は、普通学級か特別支援学級にするか悩んだ。さえりんは知的にも少し遅れがあり勉強がついていけるか不安だったから。それでも主人は「さえりんは環境で変わる。普通の子の中にいたらきっとマネをするから大丈夫だ」と言い、心配だった私は、児童民生委員の方に相談して、その方と主人も一緒に校長先生にお願いにあがった。その校長先生はとっても理解ある先生で「学校でも配慮する」と言って下さり、ベテランの先生のクラスに入れて下さり、校長先生も毎日さえりんの教室に様子を見に行って、声をかけて下さった。お陰様で酷いいじめもなく、6年間普通学級で過ごすことが出来た。(さえりん小学3年生、次女小学1年生の時)中学校はもう勉強についていくことは難しいと判断し、特別支援学級に入れてもらった。ここでも良い先生、仲間、その後もずっと仲良く過ごした友人も出来た。カゴ作りも、ケーキ作りも、カラオケも、ここで覚えた。さえりんはたくさん笑って、出来る事も増えて充実した時間を過ごした。家でもゲームや漫画、楽しいことがいっぱいいっぱいあった。さえりんは「この中学の3年間が人生で一番楽しかった!!」と言っていた。(さえりん中学3年生、次女中学1年生の時)高校は、隣の市の特別支援学校の高等部へ、一人で電車を乗り継いで毎日通った。ここでは作業訓練、人との関わり方、会話の方法、、マナー、職業実習、障害の重い子たちの手助けをしたり、社会にでていくための訓練をした。フライングディスク部にも入って朝練習と放課後の練習も毎日頑張った。文化祭で自分たちが作ったカゴを売ったり、歌やダンスや劇もやった。さえりんには厳しいと思うこともたくさんあったけど、この学校だったから人としての優しい心や社会人になるための心の成長ができたんだと感謝しています。(さえりん高校2年生の体育祭、友達と)そして、就職。2年2ヵ月間、社会人として、さえりんなりに精一杯働いた・・・文章にしてしまうとたったこれだけ・・・でも、私達家族にとっては、尊く、貴重な、かけがえのない時間・・・本当ならまだまだこの先書ききれないくらいの出来事があったはずだったのに・・・楽しいことも、嬉しいことも、厳しいと思うことも、もうここで終わり・・・ねぇさえりん、聞いてもいい??「あなたはこの20年11ヵ月の間、幸せでしたか?」「ママはさえりんと一緒に過ごしたこの時間は、何のもにも代えられない 大事な大事な宝物でした。さえりんがパパとママの娘に生まれてくれたこと 心から感謝しています!!生まれ変わっても絶対に家族になろうね!! 今度はママがさえりんの娘になってるかも知れないけどね。 もっともっともっともっと一緒にいたかったけど、叶わなかったね・・・ ママは、せめて最後に言いたかったよ。 さえりんずっとずーっと大好きだよ!!いつまでもいつまでも愛してるよ!! 今までありがとう!!!さえりんが私の娘で本当に幸せだったよ!!!」伝えることが出来なかった、最後の言葉・・・さえりん、お空からこのブログ見てる??叶わぬ願いだとわかっていても、きっと見ていてくれると・・・もし見ていなくても、ママの思いはさえりんに届いていると信じたい・・・ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。ミヤちゃんさんへコメントありがとうございます!!さえりんが着ていたニットは母(姑)のお手製です。母は他にも手編みの帽子やカーデガン、セーターなどたくさん作ってくれました。本当に可愛がってくれてたから。宝ママさんへ辛いことばかりで、やり切れない毎日ですよね。特に月命日、思い出の日、イベントごとは耐えきれませんね。たくさん泣いて気持ちを吐き出すこともいいと思います。でも、娘さんは幸せだったと思います!!きっと・・・
2019年11月24日
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昨日は雨、窓の外の雨を見ながら、先日御線香を送って下さった方にお礼のお手紙を書いていた。もちろん、さえりんの事を思いながら・・・書き終わり、近くの郵便局に出しに行くと、隣の窓口にきていた女性の方が私に「あら、さえちゃんのお母さん!!会いたいと思ってたのよ!!」って声をかけて下さった。その方は、さえりんが1歳の時から幼稚園に入園するまで入っていた、市の子育てサークルで一緒だったメンバーの方。さえりんと同い年の女の子のお母さん。小さい頃、よく仲良くしてもらった方だった。小学校から別々になりそれ以来、15年ぶりくらいだろうか?その方は、さえりんの事故の事を知っていた。ラジオのニュースで知ったと言ってみえた。しかも、娘さんがその時、偶然近くの喫茶店にいて帰りに、事故現場を通りかかったとのこと・・・こんな偶然があるなんて・・・その方も娘さんも、さえりんのことよく覚えててくださり、ニュースを聞いて、あの事故はさえりんだったんだと知って、とってもビックリされたんだと。LINEで友達追加をして「また遊びにいくね」と別れた。急に、さえりんの赤ちゃんの頃の事、生まれたときの事を思い出した。前にも書きましたが、私は25歳の時卵巣ガンを患い片方の卵巣ともう片方も癒着していて半分くらいとっている。なので、卵巣が4分の1くらいしか残っていなかった。その後、主人と出逢って結婚したが、果たして子供が出来るのかとてもとても不安だった。それでも、結婚から1年後長女を授かり、凄く嬉しかった!!しかし、またも困難が・・・妊娠7か月の時、私は高熱が続いた。1週間しても下がらず病院に行くと風邪ではなく、腎盂炎になっていて1週間入院した。その後予定日より1週間遅れで無事、元気な女の子が生まれた。健康的で3380gもあり、おっぱいをたくさん飲んで大きな声で泣いた。私は妊娠中の病気の影響はなかったとほっとした。その時は・・・その女の子に「さえり」と名付け、同居の主人の両親も大変喜んでくれた!!どんどん成長し、さえりんは我が家のアイドルになっていた(*^_^*)さえりんは歩くのも言葉を話すのも早かった。毎日お散歩に行き、公園に行き、子育てサークルにも毎週通い、親子共々お友達がたくさんできた。さえりんと一緒に毎日毎日、ベビーカーをひいて歩いていると、近所の方や犬のお散歩をしている方が「可愛い赤ちゃんですね」と声をかけて下さった。人見知りだった私は、さえりんのお陰でたくさんの方とお話することが出来てお友達も出来て、とても楽しかった!!こんな日がこれからも、ずっとずっと続くと信じていた。ところが、さえりんの様子が少しおかしいと気付いたのは2歳半の時。ちょうど次女が未熟児で生まれ、2ヵ月間の入院から帰ってきた頃だった。さえりんは目を離すとすぐ一人でお散歩に行ってしまう。しかも裸足で。一度、雪の日に、一人で裸足で居なくなってしまったことがある。心配して大声で名前を呼びながら、必死で外を探した。ご近所の方も探してくれた。そしたら、向こうからトコトコ歩いて帰ってきた。後ろにはどこの子か分からず、心配して付いてきてくださった方がみえた。私はさえりんをぎゅっと抱きしめて泣いた。「もう二度とこの子に会えなくなってしまうかも知れない」と嫌な予感がして・・・その予感は20年後本当になってしまうなんて、その時は思いもよらなかった・・・そして3歳半の時、小児精神科の病院で「広汎性発達障害」と診断された。原因は解明されていないと言われた。しかし私は、もしかしたらあの妊娠7か月の時の腎盂炎で高熱が続いたことも影響しているんではないかと、強く責任を感じた。妊娠7か月といえば、脳を作っている時期だと聞いたことがある。しかも「広汎性発達障害」は生まれつきの脳の障害である。真実は誰にもわからない・・・ただひとつ言えることは、それでも私たち家族は幸せだっだ!!障害があろうがなかろうが、さえりんは我が家のアイドルに変わりはなかった。さえりんが元気で笑っていてくれるだけで、それだけで良かった。他に望むことなんて、何もなかった・・・これからも、さえりんと一緒に一喜一憂しながら、賑やかな毎日が永遠に続くものだと、誰もが信じていた・・・あの日までは・・・ つづく・・・・生後2ヵ月のさえりん生後8ヵ月のさえりん誕生記念樹のキンモクセイを植えたとき(今は場所を移動した)3歳の時のさえりんご訪問あいただきりがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月23日
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私は最近ちょっとだけ頑張っていることがあります。それは、前にも書きましたが、さえりんの遺志を継いでカゴを作ることです。最初はさえりんの事を思い泣きながら、なかなか上手く出来ずに落ち込みながら、それでもさえりんがきっと応援して、私が出来るようになることを願っているんだと、自分に言い聞かせながらやっていました。ところが最近ちょっとだけコツや、手の力の入れ加減がわかってきてなんとなく作るのが楽しくなってきたのです!!まだまだ師匠のさえりんには遠く及びませんが、歪んだところもご愛嬌だなって感じながら、たくさん作ればきっと上達するって思えるようになったんです。カゴ作りは思った以上に時間がかかり面倒くさい作業です。手にも木工ボンドかいっぱい付いちゃうし、集中しないと間違えるし・・・100均一でも似たものが売ってないかな?なんて思ったらそれまでですが、心を込めて手作りするからいいんだって、楽しさがわかるようになりました。さえりんも、もらってくれた人が喜んでくれたら嬉しいなって、そんな気持ちで、相手のことを考えて一つ一つ丁寧に優しい気持ちで作っていたに違いありません。カゴを作りながら、さえりんの気持ちや優しさや願いを感じる時、確かにさえりんは生きていた!!そして、このさえりんが考え出したオリジナルのカゴと共に、これからもずーっと生きているんだ!!って思うと、胸が熱くなります。だからママは頑張るからね!!このカゴが一人でも多くの人の手に渡って、一人でも多くの人にさえりんの存在を知ってもらいたくて・・・「人は忘れられたとき二度目に死ぬ」と聞いた。それならば、さえりんが忘れられないように!!さえりんはみんなの心の中にいつまでも生き続けられますように・・・そして、このカゴを見たら交通安全に気を付けて下さる方が増えますように。交通事故で亡くなる悲しい思いをする人と、悲しい家族が減りますようにと、願いを込めて・・・カゴの他にもう一つ、コースターも作ってみた。コップの下に敷くコースターはカゴの底の部分だけ編んで作ったもの。これもさえりんが作り方のお手本を残してくれていた。だけど、ママはちょっと考えて、カゴを作った時の残りのクラフトテープでアレンジして作ってみた。そしたら上手く出来たよ!!前にさえりんが「ママ、この残ったクラフトテープは何かに利用できないかな?」って私に言ってたことを思い出したよ・・・(>_<)さえりんお空から見てる??ママは頑張ってるよ!! まだまだだけど、褒めてくれるかな?最近は泣かなくても、優しい気持ちで作れるようになったんだよ!!さえりんの願いを感じながらね。そして、このカゴが、ほんの小さなことだけど、いつの日か交通死亡事故を少しでも減らすことが出来るような社会に繋がること願って作っている。それが、引きこもり主婦にできる、ささやかな希望だから・・・さえりんが残してくれた作り方見本を、マネして作ったコースターご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月22日
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昨日はとってもいいお天気。ちょっと風が冷たいですが爽やかな秋晴れ。お休みの主人と一緒に、香嵐渓に紅葉狩りに行ってきました香嵐渓は豊田市足助町の紅葉の名所です。紅葉狩りはここ10年くらい毎年主人と二人で行っている私たちの恒例行事。今年はちょうど見ごろだったのとお天気のせいか、かなりの人達が来ていた。家族連れ、老夫婦、観光バスの団体さん、中国人の方々など賑わっていました。主人は毎年、写真をたくさん撮ってゆっくりと歩きます。私も今年はブログに載せれるようなものを撮りたいと二人で写真三昧。私は下手なのでいいものがあまり撮れませんでしたが・・・(;^ω^)でも、今年もこうして二人でこの景色を見れたことは、決して当り前じゃないんだって、今年は、しみじみ感じながら歩きました。去年、香嵐渓に来た時、私は酷い状態でした。体がクタクタで真っ直ぐ歩けませんでした。主人に支えられながら何とか立っている状態。一人では崖から川に転落しそうなくらい眠くて体が云うことを聞かない。意識がモウロウとしていました。そんな状態でも、主人との時間、恒例行事だけは大切にしたくて。去年から今年の初夏にかけて私はそんな状態が続いていた。朝早くから夜遅くまでとにかく忙しかった・・・毎日の睡眠時間は平均4時間。毎日、毎日、やるべきことがたくさんあり、もちろん楽しいこともあり充実もしていたけど、仕事や生活に追われてもいた。そんな私をいつも気にかけ、私の体を心配してくれていたのはさえりん。「ママ体は大丈夫?無理して病気にならないでよ!!」って私の状態を毎日気にかけてくれていた。「私に出来ることがあったら言ってね」って優しい言葉。さえりんはいつも私を助けたいって思ってくれていた。その頃の私はやるべきことをこなすだけで精一杯の毎日だった。だから、さえりんの思いも、優しい心もきっと深く感じられなかったんだと思う。今、思えば、なんて愚かでバカな、勿体無いことしちゃったんだろうって後悔でしかない・・・ゴメンね、さえりん・・・(>_<)さえりんは、紅葉はあまり興味がなかったけど、この香嵐渓には子供の頃、よく夏に川遊びに来た。水が大好きなさえりんは、水着を着て浮き輪で喜んで泳いでいた。夏でも水が冷たくて、それでもさえりんは楽しそうにいつまでも水に入っていた。あの時の、嬉しそうな笑顔はいつまでも忘れられない・・・(>_<)昨日は、香嵐渓を主人とゆっくり歩きながら、そんな思い出が次々浮かんだ。今日ここで紅葉を見ているたくさんの人たちだって、もちろん私たちだって、来年またここに来れるとは限らない・・・明日のことは誰だってわからない・・・私たちだって去年は想像すら出来なかった。今年、さえりんがいなくなってしまうことなんて・・・夕方家に帰ったら、小包が届いていた。懐かしい方からだった。喪中はがきを見て、さえりんの訃報を知り、お線香とお手紙を送って下さった。お手紙を読んだら、有難くて、感謝で涙が止まりませんでした・・・こんなにも思って下さる方がみえることが、本当に有難くて・・・今は、人の心の温かさが身に染みます。PhOTO'S さえパパご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。検察官はmeronさんのコメント通り、N弁護士のお陰で、やっと決まりました。来週、N弁護士と一緒に検察官に面談に行き、上申書など提出するつもりです。ですので、まだ時間がかかりそうです。裁判が決まったらすぐお知らせいたします。meronさんをはじめ、たくさんの方に傍聴に来ていただけたら凄く心強いです!!ミヤちゃんさんへいつも温かいコメントありがとうございます!!裁判のこと弁護士のこと、いつも心配してくださりありがとうございます!!ミヤちゃんさんのお言葉はいつも胸に染みます。さえりんとは本当にたくさん出掛けて、たくさん写真を撮り、たくさん思い出があります。そのことが、せめてもの私の救いになっています。宝ママさんへお仕事お忙しいんですね。ご無理なされませんように!!くれぐれも宝ママさんがお体壊さないようにお気をつけくださいね。いつも優しいコメントありがとうございます!!同じ立場の母親としていつも励まされています。裁判のこと気にかけて下さりありがとうございます!!nao_ken_reoさんへこのブログを見て下さることが日課になられたと伺い、とっても嬉しいです!!(ちょっと恥ずかしくもありますが・・・)主人とは時々ケンカもしたり、すったもんだしていることもあるんですよ(;^ω^)でもこんなことがあって、お互い助け合わないと生きていけないんだと、やっと感謝する事が出来ました。もっと早く気づかなければいけなかったんですが・・・これからもよろしくお願いいたします!!
2019年11月21日
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長女、さえりんが突然、いなくなってから5ヵ月半。我が家の生活は大きく変わってしまった。変わったことはたくさんあるけど、最近特に感じていることは、洗濯物がものすごく減ったということ。たった一人いないだけで、こんなにも違うのかと思うくらい。さえりんは潔癖症だった。それがあの子の特徴だから仕方ないって思ってた。手洗いは頻繁に毎回石鹸をつけて(ハンドソープだと使いすぎて手が荒れる)これでもかってくらい丁寧に洗う。その都度、洗いたてのタオルを使う。トイレに入った後は服を全部着替える。一日に5着替えくらいしていた。それも一度でも着たものは必ず洗濯しないと気が済まない。お風呂に入るとバスタオルを体用、髪用、足ふき用、マットの上に引く用で5、6枚は必ず使っていた。あとは仕事の制服などで、我が家は4人分で10キロの洗濯機で毎日2、3回は回していた。だから、干す時もたたむ時も、大量の洗濯物で溢れていた。毎日毎日大変だったけど、それが我が家の通常になっていた。ところが、今では大抵1回で済み、しかも洗濯機の半分にも満たない。干すのもたたむのも、あっという間。最初の頃この洗濯物の少なさが淋しくて淋しくて、わざと洗わなくていいものまで探して洗濯物を増やしていたことがある。今までは干す場がないほどだったベランダは、今ではガランとしていて、それがさえりんがいなくなったんだと、もの悲しさにつながる・・・最初の頃、よくベランダでも悲しくなって泣いていた・・・「うちはどうしてこんなに洗濯物が多いの??」って文句を言っていた頃が、懐かしい・・・今思えば、なんて贅沢な悩みだったんだろうって思う。私が文句ばかり言ってたから、罰が当たったのかな・・・(>_<)こんなふうにさえりんがいなくなちゃうくらいなら、こんな日が来るんなら、文句なんて言わずに、毎日大量な洗濯物を喜んでさせてもらえば良かった・・・毎日毎日が賑やかで、ワイワイ楽しく過ぎていった我が家の生活。たったひとりいないだけなのに・・・そのたったひとり、さえりんがどれほど、大きな存在だったか・・・いなくなってはじめてその事に気づいた・・・ささやかな幸せは、その時は当たり前過ぎてよくわからなかった。だけど、無くして、はじめて気づく・・・あの時が一番、一番、幸せだったんだと・・・今となっては、後の祭りだ・・・だから、もう後悔しないように、今この時を大切に生きようってようやく少しだけ思える。これも、さえりんのお陰だ・・・そのくらい、我が家ではさえりんの存在の大きさを、家族みんなが実感している・・・そして、今はさえりんがいなくなった後の生活を、家族みんなが悲しみに耐えながらも、毎日泣きながらでも、少しずつ静かに送っている。たぶんこれからも・・・ずっと、ずっと・・・昨日、ようやくN弁護士から連絡が来た。担当の検事が決まったと。まだまだ、これから、起訴されるのか、不起訴になるのかが検討される。そして、刑事裁判が行われるのかどうかが、決まる。まだまだ、やっとスタートラインに立ったばかり・・・だけど、パパとママは親として、やれるだけのことは精一杯頑張るからね!!応援してね!!さえりん!!10歳の時のさえりん 交通公園にてご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月20日
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昨日の朝、何気なくテレビを付けたら、引きこもりの主婦が増えたという内容の番組がやっていた。・ちょっとした買い物には行くが、ほとんど家にいる。・会話するのはご主人だけ。・外に出るのに人に会わないように細心の注意を必要とする。などなど・・・きっかけは様々な心に抱えた複雑な気持ちや傷ついた心。これって私のこと???って思う内容(-_-;)私以外にもこういう主婦がたくさんいるんだって思う反面、社会のお荷物なのかな・・・とも思う・・・複雑な心境でテレビを見ていた。主婦以外にも、引きこもり族は増える一方、今や社会現象になっている。そういえば、友達にも子供さんの引きこもりで悩んでた人がいたなって。その頃はちょっとも気持ちが分かってあげられなかった・・・ゴメンね。今なら、その子供さんの気持ち少しはわかる気がする、どう接してほしいのかも。先日も知人の年上の方に「あなた毎日何して過ごしてるの?」って聞かれて、「家事をして、買い物をして、えーっと、えーっと・・・・・」それ以上答えられなかった・・・(;^ω^)本当はあと、毎朝お墓参りに行って、ブログを書いたり、読んだりしているとは、言えなかった・・・(-_-;)完全に、引きこもり主婦って思われてる・・・間違ってはいないから、何も言えない。昔の私は違っていた。母(姑)からも「あなたは家にじっとしていられない人ね」って呆れられるくらい、外にばかり出ていた。子育ての会の活動、学校行事、子どもたちと公園や遊び、ショッピング、仕事、主人とデート、さえりんとお買い物、お友達とランチやコーヒータイム。予定は毎日いっぱいあって、楽しいこともいっぱいあった。それが今では殆ど予定がない・・・テレビの引きこもり主婦同様に、会話は主人と次女、たまに両親。買い物も近くのスーパーには知っている人に会いたくないのでちょっと離れたスーパーにコソコソ行っている。先日も買い忘れた物があり近所の店に行ったら知りあいがいて、見つかる前に急いで逃げた。ご近所の方にもなるべく会いたくない。だから、仕事にも行きたくない、行けない・・・決してみんな悪い人ではない。むしろ、娘の通夜や葬儀に来てくれたり、心配してくれたり、娘の事を知らない人もいるが、みんないい人だ。ただ、私の心が前とは全然違う、こんな自分を見られることが恥ずかしい。今までは引きこもる人の気持ちが良くわからなかった。さえりんは小児精神科の医者に、将来はいじめられて引きこもりになると言われたがならずに済み、幸い娘は2人とも元気に育ってくれた。私も病気だった時以外は、元気いっぱい忙しい毎日を送っていた。突然、こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。だけど、よく考えたら私を取り巻く環境は温かい。主人も家族も誰一人、私を責めたり、今のままではダメだと言う人はいない。みんな我慢して、許してくれているのかな・・・(;^ω^)一番辛いとき、家族が支え合えたから、何とか生きて来れたんだと思う。友達も、職場の人も、いつでもいいよって、待っていてくれる。私を今の状況から強引に引っ張るのではなく、「北風と太陽」の太陽のように、黙ってさんさんと優しい眼差しを与え続けてくれる。本当に有難い!!感謝しかない!!この頃、今までは義務的に仕方なくやっていた春と秋の花壇の花の植え替えが楽しくなってきた。ブログのみなさんのお庭に感化されるから。まだ、素人で全然わかってないけど、少しは綺麗になった花壇を眺める時、ちょっとだけ心がホッとして癒される。そして、思うんです。今はこんな引きこもり主婦で、みなさんにご迷惑ばかりかけているけれど、この花たちみたいに、今は葉っぱだけだったり、土の中に眠る球根かも知れないけど、春になったら、その時が来たら、きっと、綺麗に花を咲かせる日が来る!私だって、それまでゆっくりじっくりと蓄えた力を発揮して、きっと、何かのお役に立てる日が来るって・・・思う、きっと!だから、それまで、今はもう少しこのままで許してくださいね父がさえりに似てたからと旅行のお土産で買った絵 玄関に飾ってある。ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。nao-ken-leoさんへ一昨日は突然のコメントありがとうございます!!ちょっと照れ臭いですが、とっても嬉しかったです!!せっかくうちに来てくださったのに留守にしていてごめんなさい(>_<これからも主人をよろしくお願いします!!そしてこれからも「さえりんの部屋」を見て頂けたら嬉しいです(#^.^#)
2019年11月19日
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昨日は午前中、車で名古屋に行ってきました。行った先は、被害者サポートセンターあいち。昨日は被害者遺族の集まりがある日でした。私が参加したのは昨日で2回目。内容は秘密厳守なので書けません。今回まだ2回目なんですが、ちょっとだけ様子がわかってきました。そして、一番感じたことは、私、被害者遺族になったんだなぁってこと。分かっていたことですが、昨日はしみじみそう感じて帰ってきました。私なんかよりもっと大変な方もいらして、それでも頑張ってみえることを伺ったら、私なんて甘えていて、まだまだダメだなって思いました(>_<)それでもみなさんこんな私を、温かく受け入れてくださり、本当にありがとうございました!!これからもまたお世話になります。よろしくお願いいたします!!帰りは名古屋高速に乗って、途中で主人に頼まれた買い物と食料品を買って、朝行けなかったお墓参りに行き、家に着いたのは、午後4時近く。家に入ると母が、「午前中、知らない方がお香典持ってみえたよ」と。お名前を見たら、主人の会社の元同僚の方でした。あっ、そうか。喪中はがきを受け取って来て下さったんだとわかりました。本当にわざわざお越しいただき、お気遣いいただきありがとうございました。突然の長女の訃報、やっぱり知らされた方もびっくりされたんだろうなって、あらためて送った喪中はがきの重さを感じ、最善の方法を尽くしたつもりでしたが、これで良かったのかと、きっとどんな内容でも考えてしまうだろうなって思った。また、一昨日は久しぶりに懐かしい方からラインが来ました。この方は、例の子育ての会の後輩ママさんだった方。お引越しされて、ご家庭の事情もあり、少し離れていらっしゃいました。久しぶりに、明日その会に行くから一緒にどうですかとのお誘い。声をかけて頂いたことは、すごく嬉しかったんですが、「私には長女のことで、どうしても思う所があって行けないんです」と、ラインで詳しく自分の気持ちを説明しました。その返信の彼女からの言葉の中で「その気持ち私もわかります」って言われ、急に違和感を感じてしまいました。なんだろう、どうしてだろうって、考えさせられました。その方は決して悪気があっての言葉ではありません。むしろ、私を心配して励ますつもりで、言って下さったんだと思います。それはよくわかるんですが、やっぱり、その方と私とでは違うんだと、ご苦労されたことはわかるんですが、今の私の、娘を奪われたどうしょうもない喪失感とでは、同じではないって思ってしまうんです・・・これが、被害者遺族になったってことなんだと思いました(>_<)今の私は、住んでいるところも姿形は同じでも、今までの私ではない。中身は一度死んで、今はまだズタボロの傷だらけの別人。だから、もう今までの私には戻れない・・・同じに見えても、背負っているのは希望ではなく、重い十字架。きっと、これは一生逃れられない現実・・・もうどうしょうもない、仕方のないこと。諦めるしかない。こんな私ですが、それでも変わらず何も言わずに、そっと寄り添って下さる方々もいてくれる。「さえりんの部屋」を見守って下さる方々がいてくださること、ブログで知り合った方々からも、本当に助けられています。被害者遺族になってしまったからこそ、今まで以上に人の心のちょっとしたことでも敏感になってしまった私です。図らずもこれから一生、被害者遺族と呼ばれる人になってしまったのだから・・・11歳の時のさえりん サンリオピューロランドにてご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。後輩ママさんへもしこのブログを見て嫌な気持ちにさせてしまったらごめんなさい(>_<あなたに言われたことを根に持っているわけではありません。もし、こうなる前の私だったら、あなたと同じことを言ったかも知れません。ただ、こうなってみないとわからない複雑な気持ちがあるんです。あなたの優しさはちゃんと伝わっています。気にかけてくれてありがとう!!Yさんへ昨日もNさんの手作りの天むす持ってきてくれてありがとうございました。さえりんにもお供えして、次女と一緒に美味しくいただきました!!Nさんにも「ご馳走様でした、美味しかったです」とお伝えください!!ミヤちゃんさんへいつもコメントありがとうございます。私もミヤちゃんさんにぜひお会いしたいです!!ミヤちゃんさんは東京近郊にお住まいですか?まだ先ですが、刑事裁判がひと段落したら、さえりんをメッセンジャーとして誕生させるため、主人と一緒に、東京の生命のミュージアムへ行こうと思っています。もしご都合が合えば、その時にお会い出来たらいいですね(*^-^*)またブログでお知らせしますね!!
2019年11月18日
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昨日は朝から母(姑)が泣いていた。父(舅)が会社のOB会の旅行に行ってしまい、淋しいのかと思ったら手に写真を持っていた。母は「お父さんが印刷してくれたの」って見せてくれた写真は、父母がさえりんと次女を北海道旅行に連れて行ってくれた時の写真。さえりんが12歳、次女が10歳の時だから9年前のこと。母は「あの時、二人とも凄く可愛かった。初めてのサラサラの雪をさえちゃんはものすごく喜んでずっと遊んでた。夜はベットで3人で寝たんだよ。本当にすごく幸せだった。もっともっとたくさん旅行に行きたかった」って泣いていた。私と主人は家でお留守番、私は空港まで車で送り迎えしたのを思い出した。たしか、さえりんはインフルエンザが治ったばかりで、次女にもし移っていたらって、心配しながら空港で見送った、懐かしい思い出。結局、次女はインフルエンザにはかからず、さえりんも病み上がりだったけど元気に、初めての北海道を楽しんで来れた。さえりんは最初で最後になってしまったけど・・・母は「さえちゃんはもっともっと行きたいところがあったのに、もっともっとやりたいことがあったのに・・・」って、また泣いた。主人は長男、私たちは結婚した時からこの主人の両親と同居生活だったので、さえりんは初孫。しかも、父と母の子供は男の子2人(主人と弟)なので、女の子ははじめて。母は本当は女の子がもう一人欲しかったけど、祖父が倒れて寝たきりになり介護が必要になったため、泣く泣く諦めたそうだ。そして、生まれた初孫が女の子のさえりん。それはそれは可愛がってくれた。次女が生まれる時、私が入院した2ヵ月間は自分の娘のように育ててくれた。もちろん次女のことも、未熟児でよく無事に生まれてくれたと可愛がってくれた。子供たちがまだ小さいとき、サービス業で平日休みで帰りが遅い主人の代わりに、父母がたくさん遊びに連れてってくれた。近くの交通公園、遊園地、花鳥園、海、山、渓谷で水遊び、プール、キャンプに連れってってくれたこともあった。幼稚園や学校行事にも、運動会、学芸会、卒業式などいつも来てくれた。そして、北海道旅行はさえりんの小学校卒業お祝いで父母と娘2人の4人で。次女の小学校卒業お祝いは7年前の家族6人で沖縄旅行だった。さえりんと次女は祖父母からの愛情をいっぱいいっぱいもらって育った。さえりんは時々祖母と言い合いをしていた。「もう、あーちゃん(お祖母ちゃん)は!!」ってさえりんが怒ってたっけ。そのことも今となっては、母にとっての懐かしい思い出。小さいときは夕方、私が晩ごはんを作る間、毎日毎日、母がさえりんを散歩に連れて行ってくれた。手を繋いで唄をうたいながら一緒に歩いて、時々おんぶして近所の公園や小学校の校庭で一緒にブランコに乗って遊んでくれた。母はさえりんが亡くなった時、ずっとずっと泣いていた。「どうしょう、どうしょう、さえちゃんが返事をしてくれない、帰って来ない」って、何十回も何百回もずっと、さえりんの名前を呼んでいた・・・母は「どうしてさえちゃんが自分より先に逝ちゃったんだろう」「お散歩に行くと、さえちゃんが自転車に乗って帰って来る気がして探してしまう。まだ信じられない」って今も毎日毎日、泣いている・・・父はちょっと無口だけど愛情深い人。次女がおじいちゃんっ子だ。さえりんは、おじいちゃんと二人でプールに行ったり、買い物によく行っていた。さえりんが温泉好きなので、ハイウェイオアシスの天然温泉にも二人で行って、帰りにざるそば食べて帰って来てた。さえりんはいつも「おじいちゃん今日ひまー?私〇〇に行きたいんだけどーいい?」って、ニコニコしながら甘えて頼んでたっけ。父は大抵断らず、さえりんの行きたいところへ連れてってくれた。さえりんが亡くなった時、一番冷静だった父。でも、加害者と運送会社の役員が来たときは、大声を出した!!「孫を返してくれ!!!」と。そして、通夜と葬儀では、静かにそっと涙を流す父を見た・・・父は「今でも時々無性に大声で叫びたくなる時がある」と言っていた。大事に大事に可愛がって、20年11ヵ月、毎日一緒に育てた初孫の死・・・父母はいったいどれほどの思いだったんだろうか・・・私も娘を失った悲しみが深くて、父母がどんな思いだったんだろうなんて、推し量れる心の余裕はなかった・・・それでも、昨日は北海道旅行の写真を大事そうに見つめながら、号泣している母の姿を見ていたら、ふとそう思った。「今までさえりを大切に可愛がってくれて、本当にありがとうございました!!」と、この両親に心からお礼を言いたい気持ちになった。思わず、泣いている母の背中を後ろからそっと抱きしめて、私も泣いた・・・さえりん12歳、次女10歳、祖父母と北海道にてご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月17日
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一週間前からどのようにしようかと悩んでいた、喪中はがき。とうとう一昨日完成し、主人が印刷してポストへ投函した。さえりんの突然の死をどうやって知らせるか悩んだ末、主人の案でQRコードを付けて作った。先回の喪中はがきのブログでみなさんからいただいたご意見を参考にしました。1.まず、QRコードの隣に「詳しいことはこちらへ」と一言添えた。2. QRコードを読み込んで出てくるのは、私のブログではなく、 「喪中はがきを受け取ってくださったみなさんへ」という ワードで書いた 文章へ飛ぶようにしてもらった。 これは、娘の事故の経緯、娘の願い、私たち家族の思い、今までのお礼などを A4サイズにまとめたご挨拶文。(文章は下手だけど、私が担当)3. 最後にもしよろしければということで、1行だけブログのご案内。4. 相手によっては失礼のないようにQRコードは付けなかった。主人と考え、よく相談した結果このような形になった。これがいいのか、悪いのか、はっきり言って良くわからない・・・そして、こちらが悩むほど、もらった相手は何とも思っていないかもしれない。たぶん、そうだろう・・・取り越し苦労が多い私・・・いつもそういう損な性分である私・・・でも、やらなければと思っていたことがひとつ終わって、ホッとしている。たった喪中はがきひとつでこうである。これから、もっとたくさん、もっと大変なことが出来湧いてくるはず。そのたびに、右往左往するんだろうなって思った・・・果たして私の神経持つだろうか・・・不安です(-_-;)もし、あの事故が無ければ、今もさえりんは元気で仕事をして、今頃、来年の年賀状はどんな写真にしようか?何を書こうか?って、思ってたはず・・・たった5ヵ月少し前までは、それが当たり前だった・・・こんな日が来るなんて、夢にも、天地がひっくり返っても思ってなかった。辛いけど、信じられないけど、これが現実・・・先日ブログに書いた、前のK弁護士の着手金返金問題は、昨日、県の弁護士会に電話で相談したところ、最初に交わした契約書に「損害賠償請求事件」のところにチェックが入っていて、K弁護士は最初からお金の請求の依頼を受けた事になっていたため、刑事裁判に非協力的だったとしても非があるわけではなく、契約的には間違ったことはしていない。その上で、こちらが解任したので、着手金の返金が返って来るかどうかは、このK弁護士の考え方次第だと。なので5分5分だとのこと。このK弁護士の人間性にかかっているのだと。私たちも最初、民事裁判と刑事裁判の違いも良く解らずに、勉強不足で弁護士ならこちらの味方になってくれるものと勝手に思い込んで安易に頼んでしまったこともいけなかったのだと、いうこと。着手金の160万円が、こんなにかかっておかしいとも気付けなかったのもバカでした。無知とは恐ろしいもの。あの時は藁をも掴む思いだったから。こんな目にあって、はじめて世間の厳しさに直面したのです。この件は、保険会社の担当者に再度電話でよくお願いし、任せることにしました。保険会社の方でもあまりあることではないので戸惑っていたが、担当者は、「返してもらうように最善を尽くす」と言ってくれたので、信じてみることに。まだまだ、どうなるかわかりませんが、みなさんにもご心配おかけしました。こんなことばかりで気が滅入る・・・昨日はちょっとでも明るく元気になれないかなと思い、お花を買ってきて、少しだけですが花壇に植えました。どうかこのお花が綺麗に満開になるころには、我が家にも希望がさしてきますようにと願いながら・・・ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。昨日夕方、友達のYさんが仕事の帰りに、うちに寄ってくれた。私のブログを見て心配になって顔を見に来てくれた。上がってもらって1時間くらい話を聞いてくれて、Yさんは私が「思ったより元気そうで良かった」と帰って行かれた。主婦は夕方忙しいのに、立ち寄ってくれて、本当に優しいYさん。ありがとうございます!!最近私のブログがちょっと情緒不安定気味なことを心配して、友人のTさんも、この前来てくれたHちゃんも、メールをくれた。心から感謝!!それから、弁護士の件でたくさんの方からご心配のコメント本当にありがとうございます!!今は何とか生きています。これからも何とか生きていきます!!私は温かい人に囲まれて、さえりんもきっと見守ってくれてるから宝ママさんへmeronさんのブログ見ていますか?「生命のメッセージ展に来られたら声をかけてね」ってmeronさんのブログに書いてありましたよ!!いいなあー。私も行きたかったな!!宝ママさんに会いたかったなあ!!ぜひmeronさんを見つけてお話して来てね(*^-^*)
2019年11月16日
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主人と私、一昨日は久しぶりの大ゲンカになってしまった(>_<)原因は私のモヤモヤした気持ちを主人にぶつけたから・・・悪いのはわかっているけど、やり場のないどうしょうもない気持ちの行先は主人にしか言える場所がない。娘の事故の事でこうしたケンカが増えてしまった。主人は「まだ娘の事故のことが受け入れられないでいる」と。だから私に問い詰められると、まるで責められているようだと。私だってそうだけど、あとのこと、親としてやらなければならないことなどいろいろ悩みながらもやっていかなければと切羽詰まる。男と女、父親と母親ではやっぱり考え方、思い方が違うんだと分かった。だけど、我が家ではいつも何かやり始めるのは私、結局出来ないことが多いので、最後は主人が責任をとってくれるそんな役割分担になっている。このことだってきっとそうなるんだと思う。やっぱり最後に頼りになるのは主人なんだと・・・昨日は主人が、心境の悪かった私を散歩に連れてってくれた。先日reo soraさんがブログにあげていた、勅使水辺公園。我が家から車で30分くらいで到着。しかも、次女が通っていた高校のすぐ近くだった。池の周りを2.7キロのお散歩コース。途中橋が4つ、鳥の声がいっぱい聞こえる、自然豊かな静かな散歩道。ご年配のご夫婦や、ジョギングする人、鳥の写真を撮りに来ている人達。池を見ながらスマホで鳥や風景を撮りながら、ゆっくり歩く主人と私。長閑な景色と池の水音、鳥(カモ)の鳴き声、まだ紅葉には早い緑の木々。約1時間ゆっくりと歩くうちに、私の心も和らいでくる感じ・・・さすが主人!!私の扱いがよくわかってらっしゃるって思った(;^ω^)まだまだ問題は山積み、戦いはこれから、何も解決はしていない。だけど、ちょっと一休み。こういう日もあっていいよね。それでも主人と私が、これからどうしていきたいのか、さえりんのため、次女のため、どんな夫婦でいるかということが大事なこと。主人と私、これからもケンカをしたり、仲直りしたりいろんな時があると思う。でも家族が笑っていること、それがさえりんの一番の願いだから・・・ご訪問いただきありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。宝ママさんへ私は、これから交通事故の裁判の大変さ、理不尽さと戦っていく覚悟です。生命のメッセージ展in防府に行かれるんですね。宝ママさんのお家から1時間くらいで行けるんですか。本当は私も行ってみたかったんですが、かなり遠いので諦めました。会場にmeronさんがスタッフとしていらっしゃいます。とってもいい方です。お話しできるといいですね。私はまだメッセージ展に行ったことがないんです。東京のミュージアムには一度お邪魔したんですが。また感想を教えて頂けたら嬉しいです!!ミヤちゃんさんへそうなんです。被害者遺族は悲しんでばかりいられず、次から次へと理不尽なことばかり・・・(>_<)弁護士のことまで面倒なことが増え、追い打ちに。今日、県の弁護士会に電話相談したんですが、返してもらえるかは五分五分だと言われました。また面倒な手続きがいるかもしれません。もうこれ以上神経を擦り減らされることは勘弁してもらいたいです。こんな理不尽な世の中が、少しでも良くなってくれることを願っています。
2019年11月15日
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昨日は朝から、もやもやしていた・・・本当はいつも心の奥に隠してある不安な気持ちが収まらない・・・それでも、なるべく前を向いていこう、嫌なことばかり思っていたらこの世は生きずらくなってしまう。もう死んでもいいなら、世間で叫んで暴れて、「娘を返して」と毎日毎日喚いていたいけれど、生きていくと決めたときからその思いは奥に沈め、なるべくいい心で、温かい心で生きていこうと自分なりに努めてきた。でもやっぱり、収まらない、抑えきれないときがある・・・今の不安は刑事裁判のこと。9月初め、書類送致されたと警察から連絡があった。9月中頃、K弁護士は刑事裁判はそれなりに済ませ、民事裁判でお金を請求 することばかりを考えているのが、私たちの意向と食い違うため解任。9月末、被害者遺族の会のご紹介で今のN弁護士に刑事裁判を依頼。 検察庁にも働きかけてもらい裁判を戦う方向に向かっているので、 担当検事が決まったら連絡が来るとのこと。10月13日、なかなか検察庁から連絡が来ず、N弁護士に確認してもらったが、 検察庁からはまだ担当が決まってないので待つようにとの回答。11月13日、昨日でもう一か月待ったが以前連絡は来ない・・・ また不安が込み上げる。検察は捜査も裁判もする気がないのかと。 朝、N弁護士に電話すると、検察庁とはそういうところ、加害者が釈放されて いる場合なかなか進まないことが多いとのこと。こちらから、アクションを 起こしてみると言って下さった。もう一つ問題が。 それは、最初のK弁護士、はじめに保険から支払った着手金160万円を、 使った経費だけ差し引いて返金するはずだったのに帰って来ない。 保険会社に一か月前に確認した時、催促していると言ったが、昨日もう一度 確認するも以前応答なしとのこと。 こちらも一体、返す気があるのか、そのままもらい逃げしてしまうのかよく わからない・・・ K弁護士にやってもらったことは、警察と相手の保険会社と相手の運送会社に、 自分が担当弁護士になりましたと、挨拶状を3通送っただけである。 これで160万円??? こんなバカげた話はない!!!こちらは、県の弁護士会に相談し、応じなければ訴えを起こすしかない。なかなか進まない現実・・・こんなことにならなければ、しなくてもよかったこと・・・どうして、こんなに面倒なことばかり次々起こるんだろうって憤る。一生懸命前を見て、少しでも良かったことを探して精一杯生きているのに、突き付けられる現実。見たくなくても目を伏せては通れない現実が押し寄せる。不安で、怖くて、逃げ出したいけど逃げられない。大きな壁が立ちはだかる。主人に当たっても、主人だってどうしていいか解らずケンカに・・・こんなはずじゃないのに・・・頭が痛い、気分が悪い、辛くて泣きたくなる・・・誰か助けて!!って大声で叫びたくなる!!池袋の事故、ニュースでも大きな問題になっている。私もやりきれなさと、腹立たしさでいっぱいだ!!でも、大きなニュースにならなくても、さえりんだって私たちにとっては大事な大事なかけがえのない娘の尊い命が無惨に奪われてしまったことになんら変わりはないのに・・・って思ってしまう私がいる・・・本当にこの世の中は理不尽に溢れている・・・心のコントロールが効かなくなっている・・・一日一日巡りめく心模様。昨日のお天気は雲のち晴れ。でも私にはどんより暗雲が立ち込めていた・・・いつもご訪問頂きありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月14日
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この頃よく感じること、不思議なご縁ってあるんだなって考える。ご縁って非科学的な、目には見えない未知の世界。偶然、必然、運命、宿命、誰が決めたかわからない未知の領域。信じるかどうかは自分次第。でも、日本人ってこのご縁が好きだと思う。たまたま出会ったのも何かのご縁、縁を担ぐ、縁結び、良縁、縁起などなど。良くない意味も、悪縁、因縁、無縁、縁遠いなど。これって、人は出会う人によって運命が変わるってことなのかな?さえりんも、あの時あのトラック運転手に出会っていなければ、今でも元気に生きていたのに・・・って思うと、悔しくて悔しくてたまらない・・・(>_<)この事故で良かったことなんて一つもない!!って前にも書いたけど、でもこのことがあったから、出会えた不思議なご縁は確かにたくさんある。まず、私はブログなんて絶対にやってない。人のを見ることもなかった。ブログをはじめたからこその出会いは、本当に不思議だけど、すごくいいご縁で有難かったと思う!!今では毎日ブログを書いたり、見たり、コメントのやり取りが生きがいになっていると思う。一昨日も私がダメダメな日に、Rさんからカゴのお礼のメールがきた。それだけで真っ暗だった私の心に、一筋の明かりが灯った。このRさんとは娘の事故のことで怖いくらいの偶然があり、これも何かのご縁なんだってすごく感じている。meronさんとのご縁、ブログで出会った皆さまとのご縁は、私にとって、なくてはならない尊い命綱のように感じています。落ち込んでいるときほど、みなさんからの温かいコメントが身に染みる。メールやラインでコメント入れてくれる友達の存在も大きい。これもさえりんの事故が無ければ、決してなかった事と思うと複雑です・・・今まで、逆縁って言葉はあまり知らなかった・・・この言葉は知らなくても、現実になんかならなくても良かったのにだけど、この世でご縁が繋がると、あの世でもご縁が繋がるって聞いたときは本当に嬉しかった!!ちょっと希望が見えた気がした。私はさえりんの夢をあまり見ない。本当は毎日でも出てきて欲しいんだけどさえりんは忙しいのかあまり出てきてくれない・・・はっきり覚えてるのはちょうどお盆頃、さえりんのお仏壇の前でうたた寝した時、さえりんが、はにかんだ笑顔で出てきた。私は「さえちゃん会いたかったよ!!どうしてママに会いに来てくれなかったの??」ってぎゅっと抱きしめた。ふわっと柔らかくて温かくて、いつもと変わらないさえりんの抱き心地。さえりんは「ママごめん、ごめん。ちょっと忙しくて、えへへへへ」って笑った。「でもね、友達とは時々ゲームやって遊んでるんだー!!」って笑顔のさえりん。「いいな、いいな、ママのところももっと来てよ。でもさえちゃんが元気そうでほんとうに、ほんとうに良かった!!」って言ったところで目が覚めた。だけど、リアルな夢だった。さえりんを抱きしめた腕の感触が残ってた。本物だったのかなって思うくらいに・・・さえりんが笑顔で元気そうで、安心して嬉しくて泣いた・・・さえりんは今も元気でいるのかな?この世でご縁が繋がると、あの世でもご縁が繋がるって信じる!!さえりんはあの世で、meronさんの息子さん、じゅんさんの息子さん、宝ママさんの娘さん、ミヤちゃんさんのお母さん、Rさんの大切な人、他にもたくさんの人たちと仲良くなって、ゲームをしたり、塗り絵をしたり、折り紙を折ったり、楽しく遊んでもらっているって思いたい!!きっとそうだ!!不思議なご縁は存在するって信じよう!!私がこれからも、この世でたくさんの人と繋がれば、さえりんも、あの世でたくさんの繋がりが出来るんだって思おう。たくさんのお友達ができれば、さえりんも淋しくないはず。だって、さえりんにはあの世で、元気に笑っていてもらいたいから・・・8歳の時のさえりんいつもご訪問、感謝いたします!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月13日
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昨日は何故か心境が一日中、上がらない日でした。お天気が曇り➡雷雨➡晴れと、コロコロ変わった一日だったからでしょうか??朝から全くやる気が起こらず、ダラダラ、ゴロゴロ・・・((+_+))今までもこういう傾向は持っていたんですが、秋になると季節鬱的な傾向になる。しかし、今年は娘の事があって自分でも対処できない感情が時どき湧いてきて、どうしょうもなく、悲しくなる・・・不意に涙が出てきて止まらなくなる・・・自分でも心のコントロールが難しい・・・仕方がないので惰性に任せるしかない・・・世間はいつも通り動いているのに・・・私だけが置いてけぼり・・・主人は仕事してるのに、次女は大学に行っているのに・・・私だけ甘えてて、こんなでゴメンナサイ・・・さえりんだって心配してるよね・・・「そういうときもあるよ。たまにはママもゆっくり休めばいいんだよ!! あとでマッサージしてあげようか?」って、私を気遣ってくれるさえりんの声が聞こえた気がする・・・前みたいに、もう一回でいいから声が聴きたいよ・・・もう一回でいいから、ぎゅってマッサージしてもらいたかったよ・・・こんな日が来るなんて夢にも思わず、なんて贅沢な時間を、感謝もなく、当たり前に過ごしてきてしまった自分が忌々しい・・・もっともっと、さえりんとの時間を大事に、感謝して過ごせばよかった・・・もう二度と戻らないのにね・・・(>_<)今日は心がダメダメです・・・ゴメンナサイさえりんが子供のころ毎日遊んだ近所の公園の大木さえりんはこの木にも登って遊んでた。今も木の上から私たちを見てるのかな?いつもご訪問、心より感謝いたします!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月12日
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この頃、特によく思うことがある。それは、人の心に寄り添うということの難しさ・・・私は娘の事故があってから、たくさんの人に出会った。meronさんをはじめブログで出会った方々、サポートセンターのスタッフやTAVの被害者遺族の方々、生命のメッセージ展を運営される方々、警察官や弁護士の先生、カウンセラーの先生。そして以前からお付き合いをしていて今も変わらずお付き合いくださる方々。みなさんの優しさに触れる度、人の心に寄り添うことは大変なことなのに凄いなって思うのです。当事者でないとわからないのは当然、でも理解しようと、少しでも分かって力になろうと思って下さることが嬉しいんですもし、私がこんな状態じゃなかったとしたら、私はその人に、このように接してあげられたのかなって。私という浅ましい人間は表面では優しく親切に、でも心の中では、「自分は幸せで良かった」って思っていたのではないかと、情けなく、恥ずかしくなります・・・(>_<)9日(土)は友人のHちゃんが遊びに来てくれました。Hちゃんは私が独身時代勤めていた会社の同僚で、私より6歳年上ですが今でも仲良くしてくれている友人で、もう30年近いお付き合いです。Hちゃんの一人息子さんと我が家の次女が同い年なので何かと話が合います。住んでいるところは車で1時間くらいの距離。昼間お仕事もされているのでたまに会うくらいですが、私のブログを息子さんと一緒に毎日見てくれて、よく感想をメールでくれます(*^-^*)昨日はHちゃんがうちに来てくれて、近くのお店にお惣菜を買いに行って我が家でお惣菜を広げて2人でランチをしました。もちろんさえりんも一緒にです!!お互いの家族や子供のこと、彼女の仕事のこと、私のブログのことなど、ご飯を食べながら、楽しいおしゃべりをして楽しい時間を過ごしました。午後3時過ぎ、Hちゃんは「また来るね」と帰りました。ところが夕方あるニュースを見て、私の心境は一気にガラガラと崩れました。どん底の心境で情緒不安定になった私は、晩ごはん作りもやる気がなくなり、暫らく2階の部屋に閉じこもっていました・・・それでもこれではいけないと、何とか気持ちを立て直し、いつもより遅い時間に1階のキッチンへ行くと、母(姑)が見に来てくれました。母は「友達が来て楽しそうだったけど、後で落ち込んだのではないかと心配してた」と言いました。母は毎日さえりんを思って、泣いてくれます。可愛い可愛い初孫のさえりんが突然いなくなった空虚感は拭うことが出来ないと。母は「私はママの助けになれなくてごめんね。泣くことしか出来なくて・・・ママのブログも悲しすぎて見ることは出来ないけれど、応援してるよ。ママがやろうとしていることは絶対にさえちゃんも応援してる。だってさえちゃんはママが大好きだったから。ママが笑ってるとさえちゃんも喜んでいるから。だからママは自分の思った通りに生きていけばいいんだよ」って言ってくれました以前の私は、主人の両親との同居生活は窮屈で、核家族で気楽に暮らしてみたかったと思ったり、口に出したりしていた。なんて贅沢で自分勝手でわがままな嫁だったんだろうって・・・こんなにも私の心に寄り添って、一緒に泣いてくれる母の姿に、あらためて今までの自分を反省しました・・・(>_<)そして、こうなって初めて、人の心に寄り添うことがどんなに大切か、こうならないとわからなかった自分だったんだと・・・だから大切な人を亡くしてしまったのかなと・・・悔やまれる・・・こんな私でも、いつかは温かい人になれるのかなって。今からでも、心がけさえすればなれるよね・・・だって、これからはさえりんがいつも一緒に生きてくれるからね!!買い物に行ったお店さえりんにお線香をあげてくれるHちゃんいつもご訪問ありがとうございます!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月11日
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池袋の事故のこと、加害者のインタビュー見てたら気分が悪くなった・・・吐き気と脱力感で何もかもどうでもいいとさえ感じる激しい嫌悪感・・・どんな人でも失敗や間違いがあるのは仕方のないことかもしれない。でも、そのあと、どうやって責任を取っていくのかで、その人の人間性が問われるんじゃないかと思う!!!足の調子が悪い、年のせい、体力を過信していた、車の性能が・・・それで、あなた自身責任はどう取られるおつもりですか???あなたのその言い訳で亡くなった方とご遺族は、果たして許してくれるんでしょうか???もう二度と帰ってこない2人の命は・・・一体どうなるの???他人事ではない・・・自分の娘 さえりんと重なり心が乱れる・・・さえりんは、青信号の横断歩道を渡っていただけなのに・・・ちゃんと交通ルール守っていたのに・・・悪いことなんて何にもしていないのに・・・どうして、あんな悲惨な最後を遂げなきゃいけなかったの???最近ではさえりんは横断歩道を渡っていなければ助かったんではないかとさえ思えてしまう・・・うちの娘だけじゃない、横断歩道上の交通事故なんと多いことか!!横断歩道は決して安全なんかじゃない!!!自分が安全を確認して渡っていても、車が、運転手がついうっかりすれば簡単に命が奪われてしまう・・・もしルールを無視して横断歩道以外を渡っていたら、直進の車しか来ないから、直進車は前方を見ているから、自転車の存在に気付いて止まる。クラクション鳴らされて、怒られるかも知れないけれど、ついうっかりした左折車や、右折車に轢かれるよりその方がよっぽどいいんじゃないかとさえ思ってしまう・・・さえりんの事故の加害者女性トラックドライバーが言った言葉が・・・「ついうっかりして、ごめんなさい・・・」ついうっかりで大事な娘を殺されてはたまったものじゃない!!!こんな言葉で自分の大切な大切な家族が殺されて、許せる人がどこにいるんだろうか???そんな神様のような人なら・・・罪を憎んで人を憎まず・・・そう言って加害者を許してあげられるんだろうか???残念ながら私はそんなに人間が出来ていない・・・神様にはなれないし、なりたくもないと思っている・・・自分がこうなるまでわからなかった、激しい感情・・・怒り、憎しみ、悔しさ、絶望、復讐、戦う心、報復・・・こんなにも汚い嫌な心が出てくるんだって、自分が嫌になる・・・でも、これが変えようのない現実・・・こんな私を見て人はなんて思うんだろう・・・「可哀そうに」「そこまでしなくても許してあげれば」「だって相手だってわざとじゃないんだから」「誰だっていつ加害者になるかわからないんだから」「あなたみたいにはなりたくない」「哀れね」「悲惨だね」「ご愁傷様」「あなたの行いが悪いからじゃないの」こんな風に思われているのかな?他人事だから、言える言葉・・・もし、自分がその立場だったらと、考えたことありますか???と、問いたくなる・・・書類送致。検察庁に書類が送られ、これから起訴されるか、簡単に略式起訴で罰金で済まされてしまうのか、不起訴で無罪になるのかが決まる。娘の事故もまさにこの段階。9月初めに書類送致されて、検察庁からは今だ何の返答もない。弁護士さんを通して確認してもらっても、まだ担当検事が決まらず検察庁から連絡が来るまで待って下さいとのこと。事故は6月、もう5ヵ月過ぎた。送致されてからでも2か月過ぎた。いったいいつまで待たされるんだろうか???待たされた挙句、不起訴、略式起訴で簡単に済まされてしまうんだろうか・・・本当は毎日毎日、不安で不安で仕方がないんです・・・怖くて怖くて、泣きたくて泣きたくて、倒れそうなんです・・・普段は心の奥に締まっている感情が、急に噴出して収集がつかない・・・これは残念だけど当事者でないとわからない・・・私だってこんな当事者になんてなりたくはなかった・・・だけど、さえりんだって被害者になんてなりたくはなかった・・・誰が何の理由でこんな現実にしたのかわからない・・・もう誰を恨んでいいかさえわからない・・・だけど、ひとつだけ言えること、それはもうこんな思いをする人が増えてはいけない!!!こんな悲しい、やり場のない怒りはもういらない!!!もうこんな被害者や遺族にならないために、増やさないために、車の運転をするときは、ハンドルを握る者の責任として、ついうっかりは追放してもらいたい!!!いつ誰が、被害者になるか、加害者になるのか分からないんだから・・・これがさえりんと、私たち家族からのせめてもの願いです・・・17歳の時のさえりんと私 伊勢神宮にてどうか温かい目で見守ってください!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。昨日は友達のHちゃんが来てくれて午後まで楽しく過ごせました。しかし夕方、急に激しい感情が私の中に沸き起こってしまい情緒不安定に、こんな感情的なブログになってしまいました(>_<)Hちゃんとの事は次のブログで書きます。Hちゃんゴメンね・・・みなさんへ昨日は喪中はがきの件で、みなさんの貴重なご意見ありがとうございました。みなさんのご意見を参考に、主人と検討して決めたいと思います。本当にありがとうございました!!宝ママさんへ喪中はがき送られてからのこと教えていただきありがとうございました。そうやって連絡くださったり交流ができればいいですね。それは娘さんと宝ママさんのお人柄です。そんな関係を今まで築いて来られたからですね!!宝ママさんが言われるように、交通事故と知って車の運転に気を付けて下さる方がみえたら、そんな嬉しいことはありませんね。ミヤちゃんさんへそうですね。QRコードに一言添えることもいい考えですね。もし私が喪中はがきもらっても直接聞くの躊躇しますから。次女の誕生日はたとえ喪中だからといっても祝ってやりたいのが親心です。「おめでとう」と言ってくださり嬉しかったです!!次女にも、あなたの知らないところで「おめでとう」って言ってくれた人が何人もいるんだよって言ったら、喜んでいました。ありがとうございました!!
2019年11月10日
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この季節になると、そろそろやらなければならないこと、それは、喪中はがきを作ること・・・でも私にとってはとっても憂鬱な作業・・・葬儀に来てくださった方はわかってみえることですが・・・なかなか会えない昔からの友人や、お世話になった知人には一年に一回の大切なご挨拶が年賀状。でも、今年は喪中はがきに・・・みなさんが年賀状を用意しないうちに早く出すのが常識。今まで年賀状は毎年娘たちの写真を載せてパソコンで作っていました。今年はさえりんの成人式の前撮り写真を載せて作りました。「今年は長女が成人式を迎え、次女は大学受験、二人とも大きくなり節目の年を迎えています」とコメントを添えました。それなのに・・・翌年が喪中はがきに・・・しかも、長女の訃報・・・まさか一年後にこんなことになるなんて・・・だれがこんなこと想像できたでしょうか・・・私の心はとっても複雑です・・・この喪中はがきで初めて娘の訃報を知ることになる方々も・・・気が進まないのでなかなか手につきませんでした。それで、見兼ねた主人が昨日作ってくれました。こんな感じで・・・(さえりんの部屋のピンク色の文字はブログにしか付けていないです)背景と内容は私の希望で少し手を加えてもらい、こうなりました。さえりんが生前お世話になったお礼を入れてもらいたかったのと、背景もあんまり暗くて地味なのは嫌だった、若い子らしく可愛くしたかったから。そして、さえりんがどうして突然亡くなってしまったのかをどうやってお知らせしようかと、それが一番の問題でした。それを解決したのが主人のアイデアで、QRコードをつけて読み込むと、私のブログ「さえりんの部屋」に行けるようにしてくれました。でも、今までたくさん喪中はがきをもらってきたけど、QRコード付きなんてはじめてです。いいのかなってちょっと不安・・・しかも私のブログ??同世代や若い人ならまだしも、お世話になったご年配の方々が見たら、なんじゃこりゃ??ってことにならないかとっても心配です・・・(-_-;)まあご年配の方々はスマホ持ってないかな?それにQRコード知らないよね?たぶん・・・でも、もしスマホ持ってて、QRコード読んでわけがわからないことになってしまったら・・・ごめんなさい(>_<)これから毎日のブログに、へんてこなこと書けないなって緊張・・・私たちの気持ちがみなさんにうまく伝わって下さればいいんですが。私たちも年賀状を送る方々も、誰もが想像もしていなかった世界が、ここに・・・本当にこんな悲しい現実・・・来なくてよかったのに・・・どうか温かい目で見守ってください!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。「さえりんの部屋」へ来てくださるみなさんへいつもありがとうございますみなさんにお尋ねします。こんな喪中はがきをもらったらどう思いますか?引いちゃうかな??みなさんのご意見を教えてください!!それ次第で、QRコードをどうしようか考えます。
2019年11月09日
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毎年、この季節になると思うことがある。それは、次女が生まれたときのこと・・・もう19年も前の事。妊娠初期に、卵巣ガンの再発が見つかった。もしこの時次女を妊娠していなかったら、きっと見つかっていない。そしたら今頃、もう私はいなかったと思う・・・そう思うと今、私がここに生きていることは次女からのプレゼントだ。妊娠33週(9か月に入った日)次女は帝王切開で生まれる。1900gの小さな女の子。まだ肺が未発達のため自発呼吸が出来ず、生まれたとき一瞬だけ見せてもらった顔は、赤紫で今にも死にそうな小さな赤ちゃん。すぐに気道を確保され、急いで未熟児室に連れていかれた。私はそのまま全身麻酔に切りかわり、卵巣ガン摘出手術。手術後、私はモウロウとして、意識がなかなか戻らなかった。過去2回開腹手術を受けた中で、一番きつかった。その時は何故だかわからなかったけど、あとで聞いたら、胎盤がまだしっかりくっついていて剥がしたら大量出血し危険な状態に・・・それで急遽輸血したことがわかった。次女は私のお腹にしっかりくっついた。絶対に流されないぞと・・・そしてまだ生まれる準備が出来ていないのに、急に出された。次女の事が、とっても、とっても、健気で愛おしくなった・・・次女には何の問題も無いのに私のせいで未熟児にしてしまい、生まれて直ぐに母から離され、痛い治療を受けて、可哀そうで辛かった。でも、これが2人が生きるためのギリギリの選択だったから、仕方なかった。次女のためには1日でも長くお腹の中に、しかし妊娠中はガンの進行が速い。2人の命のボーダーラインを医者たちが注意を払って見極めた結果だった。私も頑張るから、あなたも頑張ってと、離れ離れの病室から願った・・・次女は直ぐに未熟児室の保育器に入って、たくさんの管とモニターを付けられ頑張って生きていた。肺が開くための薬を使い、心臓の弁が閉まらずまた薬を使い、もしダメなら心臓の手術をというところで閉まり、手術は免れた。本当に産婦人科の担当医、小児科の担当医、看護師さん方のお陰で私と次女の命は救われたのです!!私は意識の戻った翌日から、母乳をせっせと絞り未熟児室に運びました。ちょっとでもこの子に初乳を飲ませたい一心で。次女はまだ吸う力がないので、最初は点滴の管で流していました。そのうち小さな哺乳瓶で看護師さんに保育器の中からもらっていました。夜中、病室で搾乳すると他の人に迷惑かなと思い、授乳室に行くと他にも赤ちゃんに母乳をあげているお母さんが何人もいて、私はものすごく母乳がたくさん出るので羨ましがられた。でも、私はその人たちが羨ましかった・・・次女を抱いて直接おっぱいをあげることが出来ないから・・・そして2週間したら、抗がん剤治療のため、薬で母乳を止めて、もう母乳があげられなくなってしまうから・・・私は涙をこらえて搾乳し、ひとりトイレでいっぱい泣いた・・・結局次女はまだ保育器から出られないうちに、私の抗がん剤治療が始まり一度も直接母乳をあげられなかった・・・その後もミルクで育った。長女にはあんなにたくさん母乳あげたのに、次女が不憫になった・・・それでも、次女はたくましかった。一日一日少しずつ成長し、力強く生きてくれた。その様子は、未熟児室の看護師さんたちが「すくすく日記」というノートを作って毎日私の病室に届けてくれた。私もその日記に次女への言葉を毎日書いて、未熟児室へ運び、許された少しの時間だけ次女に会った。その時かな、長女の事も、次女の事も、二人とも愛おしくて何より大切で、私の命に代えても絶対に守るって決意したのは・・・結局、叶わなかったけど・・・次女は2ヵ月間未熟児室でお世話になり、その後は未熟児の後遺症も出ず、体は小さいながらも、大きな病気もすることなく元気に育ってくれた。今でも「すくすく日記」はその時の思い出と共に大切な宝物だよ!!次女へ19歳になったね。おめでとう!!パパとママはあなたの成長が何より嬉しいです!!今年はお姉ちゃんが突然あんなことになってしまい、あなたも辛かったよね・・・ママがお姉ちゃんのことで、いっぱいいっぱい泣いていたら、一度だけ「私じゃダメなの?」って悲しそうに聞いたよね。「ママは欲張りだから2人ともいないとダメなんだ」って私は言った。でも、その言葉を聞いてから、ママはもうあなたの前で泣かないように、少しでも前を向いて、生きていこうって思えたんだよ。あなたのお陰だよ!!今はあなたがいるから、まだ生きていけるって思ってる。これからもあなたの成長を見ていたいから、あなたには未来と希望がたくさんあるからね。あなたはお姉ちゃんの代わりにならなきゃなんて思わなくてもいい。あなたは今も優しいお友達が側にいてくれて、これから素敵な人にも出会って、自分の夢を叶えて、幸せを見つけていってね。あなたは、あなたのままで、思った通り自由に生きてほしい。パパとママはいつだってあなたを応援しているよ!!これからも、いつまでも、ずーっとずっとだいすきだよ ママよりさえりん3歳、次女1歳の時さえりん4歳、次女2歳の時どうか温かい目で見守ってください!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月08日
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昨日は朝は寒かったけど、日中はとってもいい秋晴れみなさんのブログを見ていたら、こちらは紅葉にはまだ早いけど、急に山に行きたくなった。最近、少し寒くなってきたせいで、また心の病が出始めたからかな・・・ここ数年、心が疲れたりモヤモヤしてきたら主人に山にドライブに連れて行ってもらっていました。自然の木々や川や湖、日の光、山の空気を吸うとなんだか元気が出てくるんです。昨日は主人が休みだったので、久しぶりに三河湖へドライブに行ってました。もちろん、さえりんも一緒だよ!!三河湖は家から1時間半くらいのよく行くドライブコース。ところが昨日は10時半から給湯器の点検があったため、主人が立ち会い出発は11時過ぎに・・・いつもは9時くらいには出発してたのに。三河湖観光センターに着いたのは12時半。いつもはあまり人かいない観光センターのお食事処なのに、お昼時で結構人がいて、いつもの店員のおばさん2人は忙しそう。入っていくと久しぶりなのに私たちの顔を見るなり、おばさんが「こめんね、今の注文で五平餅今日はなくなちゃったの」って。ガーン!!主人と私はがっかり・・・ここに来る目的の一つは、ここの五平餅。大きくて、安くて、美味しいんです!!主人はちょっと不機嫌になってさっさと外に出てしまったが、おばさん2人は相談して、今からご飯を炊いて作ってくれることに。1時間かかるけどということなので、おばさんたちのご好意に感謝して1時間ブラブラして行きました。すぐ近くには羽布ダム、香恋の里があり、ゆっくり散策してきました。紅葉にはまだ早かったですが、ダムの近くには、大きなイチョウが黄色くとっても綺麗でした。香恋の館には鯉がいる池に噴水と水車が二つ回っていて、水しぶきがちょっと冷たくて気持ちいい。中に入ると、食事処とお土産物、手作り体験コーナーがあり、二階には今日初めて上がったんですが、地元出身の画家の作品展と下山村の昔の暮らしの展示がありました。ちょうど1時間たって、観光センターに戻って、作りたて焼きたてのふっくら美味しい五平餅をお昼ご飯にいただきました。この大きな五平餅は今までずっと350円でしたが、消費税が上がったからか値上がりし400円になっていました。それでもこのボリュームならいいかな。おばさんが私たちを覚えていてくれて(いつも五平餅しか食べないけど)「久しぶりだね」って言われて、主人の携帯で調べたら1年以上ぶりだった。そんなに忙しかったかなって思ったら、そういえば、去年の今頃は次女の大学受験、私の仕事日数が増えたこと、そしてさえりんの事故・・・本当に人生を変えるようないろんなことがあったこの1年だった・・・帰りに三河湖で写真を撮った。いつもは主人と2人で来るんだけど、6年前、4人で一緒に来たことを懐かしく思った。あの頃の家族の笑顔を思い出して、また淋しくなった・・・さえりんがいたあの頃にはもう二度と戻れないんだって・・・昨日は主人のお陰で久しぶりに山に行けて良かった。でも、さえりんがいない心の空白を埋めることなんて、一生出来ないね・・・さえりん15歳の時昨日同じ場所で大きい五平餅羽布ダム香恋の里どうか温かい目で見守ってください!いつも温かいコメントありがとうございますよろしければ応援お願いします。よろしければこちらも応援おねがいします。
2019年11月07日
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