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武蔵野航海記
西洋哲学を読みました 2
プラトンの哲学にはそれまでのギリシャ人の発想が流れ込んでいます。
彼は正義というものがこの宇宙に存在するということを疑っていませんでした。
祖国アテネは敗戦でガタガタになり無秩序になりましたが、これを安定させるにはこの正義を復活させなければならないと考えていました。
そして彼の考えていた正義というのは、あらゆるものが整然と秩序だっていることを意味していました。
この発想はギリシャ人が昔から持っているものです。
前にも書きましたが、ギリシャ人は「他との境界を侵さないこと」が正義だと考えていました。
人間を含めたすべてのものは定められた場所と機能を持っているということです。
これは何度も云いますが、日本人の「あるべきようは」というのと同じ発想です。
そのルールには、神話の最高神であるゼウスも従わなければならないほどのものでした。
元気な人間や勢いのある自然現象はその境界を越えようとして闘争が発生します。
しかしこの正義が発動して、その「傲慢」を罰して侵略者が犯そうとした永遠の秩序を回復させると考えるのです。
このギリシャ人の伝統的な正義には平等という考えはなく、あらゆるものは本来差がついているものだと考えます。
プラトンもそう考えます。
彼は名門の生まれですからもともと人間の平等ということに良い感情をもっていませんでした。
また、アテネが戦争で負けた理由は極端な平等を行ったために衆愚制になってしまった結果だと考えました。
さらに尊敬するソクラテス先生は民主派に殺されたのです。
こういうわけで彼は民主制を毛嫌いし、少数の優れた者が政治を行うのが正しいと考えました。
教育の無い貧乏人や論理的に物事を考えられない女子供に政治が出来るかということです。
プラトンが民主制を否定した影響というのは未だにヨーロッパに大きな影響を及ぼしています。
ヨーロッパが今でも非常な階級社会だということを皆さんもよくご承知だと思います。
現在のヨーロッパは成人になれば皆参政権を与えられていますが、これは第一次世界大戦の後にそうなったのです。
総力戦で全国民の協力が必要になったため、支配者がいやいやながらそうしたのです。
その証拠に二度の大戦争に参加しなかったスイスでは、未だに大多数の州で女性の参政権が認められていません。
プラトンはピタゴラスから続くギリシャ哲学の考え方も受け継ぎました。
ピタゴラスの哲学はその源をバッカスの信仰に発するもので、瞑想状態で神秘体験をして世界の真理がわかるというものです。
そしてこの閃きから数学的に演繹して哲学の体系を作るというものです。
その結果できた哲学の体系がどんなに現実と合わなくてもそれは現実が間違っているからだと考えるのです。
こういう考えの背景には、真実は人間の目に見ることが出来ず、この世の現象は理想世界のブサイクな模倣でしかないと考えるからです。
これは、この世は仮の姿で本当は存在していないのだという考え方でもあります。
また人間の魂は輪廻転生するとも考えました。
プラトンは上記のようなピタゴラスの発想をすべて受け継ぎ、「イデア」というものを主張しました。
このイデアというのは英語にも入ってきて、「アイデアル」というのは「理想的な」という意味です。
「イデアの世界」はいわば天国のようなあの世の理想世界です。
そしてここには様々な「イデア」があります。
美のイデアもあるし、人間のイデアもあるし、赤い色のイデアも、机のイデアもあります。
美、人間、猫、色、道具などもろもろの物の理想形がイデアなのです。
すこしややこしいけれども我慢して読んでください。
例えば、あなたは大きな猫でも片足の無い猫でも、猫を見たら「これは猫だ」と思います。
それぞれの猫は一匹として同じものは無いのに、あなたはそれが猫だと分かります。
それはあなたの魂の中に「猫のイデア」の記憶があり、現実の猫を見たらその「猫のイデア」を思い出すから、それが猫だと分かるのです。
ではなぜあなたの魂の中に「猫のイデア」があるかというと、それはあなたの魂が輪廻転生しているからです。
あなたが死ぬと、あなたの魂は「イデアの世界」に行きます。
そして様々なイデアを見たのです。
その後あなたはまた人間に生まれて、かつて住んでいた「イデアの世界」の記憶がかすかに残っているのです。
西洋哲学にもっとも大きな影響を与えたプラトンの哲学は、平たく言うとこういうことを云っているのです。
プラトンのイデア説を続けます。
私たちは美しい景色を見たら美を感じます。
絵を見ても美女を見ても美を感じます。
景色、絵、女には何の共通点もありません。
しかし同じく「美」を感じます。
プラトンは「これは美というイデアの記憶が人間の魂にあるからだ」というわけです。
同じように真や善のイデアもあるのです。
個々の現実の向こうに確実に存在する真理は、抽象化されたもので個々の現象を統合し普遍化したものです。
プラトンはイデア説によって、確実に存在する真理を把握しようとしたわけです。
イデアには様々なものがありますが、それらには階級があり最高のイデアは善だとプラトンは言います。
すべての人間の魂には「善のイデア」の記憶があり、善とは如何なる物か潜在的に知っていると主張するのです。
これは、大乗仏教の主張する「仏性」と非常に似ています。
「仏性」はすべての人間や動物などあらゆるものに備わっており、心を澄ました人間はそれを感じることが出来ます。
哲学的英知を備え「善のイデア」を理解した哲学者が国家を統治するのが一番良いのだというのが、プラトンの主張です。
これは精神的な貴族主義とでもいうべき物で、衆愚になる民主制よりはるかに優れたものなのです。
プラトンはまた、「善のイデア」によって神話や慣習など狭いポリスでしか通用しない価値観からもっと人類に共通した価値観を求めた哲学の目的にも合致します。
すべての人間は同じ「善のイデア」を備えているからです。
プラトンの説では、人間が死ぬと魂はイデアの世界に行き、そこで幸せに過し、様々なものの理想形であるイデアを見ることが出来ます。
その後またこの世に生まれてきます。
そこでこの世の様々なものを見ますが、それが何であるかはイデアの記憶によって分かります。
この世にあるものは全て、イデアのブサイクな模造品であり本物よりはるかに劣るものです。
プラトンの哲学はイデアの世界にある理想的な状態を説明しています。
しかしそれはこの世で見ることが出来ず、見るのはそのブサイクな模造品だけです。
ですから現実の世界がプラトンの説く哲学と違っていて当然なのです。
ここにもギリシャ哲学の伝統が受け継がれています。
一つの閃きから数学的に演繹した結論が正しく、現実がそれに合わなくてもそれは現実が仮の姿だからという考えです。
プラトンの説くイデアの中で最高の位に位置するのは善のイデアです。
この「善のイデア」を「神」に置き換えるとそのまま宗教の教義になります。
実際にキリスト教の初期の神学者であるアウグスチヌスは、プラトンの善のイデアをヤハウェの神に置き換えました。
輪廻転生を否定するなど細かいところは違いますが、基本的な構造は同じなのです。
このアウグスチヌスのキリスト教神学は、13世紀にトマス・アキナスが新しいキリスト教神学を作るまでカトリック教会の公式な神学でした。
プラトンが死んでから1500年以上、彼の哲学はヨーロッパを支配し続けたのです。
プラトンの弟子がアリストテレス(紀元前384年~322年)で二人の年齢差は43歳ぐらいです。
アリストテレスは非常に博学で様々な古代の学問を集大成した学者です。
その哲学は非常に難解です。
私は彼の哲学を一応説明しようとも考えたのですが、書くのも大変だし読むのも大変なので書かないことにしました。
後で必要になればその部分を書くことにします。
アリストテレスの哲学は、一言で言えばプラトンの哲学を常識と照らし合わせて矛盾しているところを修正したというものです。
例えば、プラトンはイデアの世界という理想の世界が存在するとしていましたが、それがなぜ存在するのか説明していません。
おそらくイデアの世界はプラトンの思いつきでそれを証明できなかったのでしょう。
証明できないから、アリストテレスは永遠の理想世界を認めませんでした。
このようにアリストテレスはプラトンの説の説明できないところを修正したのですが、その結果無味乾燥のつまらない学説になってしまいました。
しかし、アリストテレスの哲学はプラトンまでの哲学を上手く説明しようとしただけ、玄人好みのものでした。
アリストテレスはギリシャの北方マケドニアで生まれ、彼の父はアレクサンドロス大王の父王の侍医でした。
そういう経緯で、アリストテレスが学者として有名になったとき、彼はアレクサンドロス大王の家庭教師になったのです。
アリストテレスはおそらく一所懸命にアレクサンドロスに学問を教えたのでしょうが、弟子であるアレクサンドロスは真面目に先生の言うことを信じていなかったようです。
アリストテレスの哲学は狭いポリスを前提にしたものでしたが、アレクサンドロス大王は狭いポリスを統合した広大な大帝国を築きあげたわけで、両者の発想が全然違うのです。
アリストテレスは弟子の大王がポリスを抜け出し、大帝国を築くという前代未聞のことをやっているのにその意味を理解できなかったようです。
アリストテレスが現状に対する深い洞察力を持たず、単に過去の学問を切り貼りしただけのつまらない男だと評価する人は多いのです。
古代では、アリストテレスはプラトンの影に隠れてあまり目立たなかったのですが、中世の終わりごろになって俄然評価が上がってきました。
アリストテレスを境目として哲学はガラッと変わりました。
世の中がガラッと変わったからです。
哲学は永遠の真理を追究しているはずのものですが、実際の哲学の学説はその時代を敏感に反映しています。
哲学も使い捨てなのですね。
紀元前384年 アリストテレス生まれる
356 マケドニア王国にアレクサンドロス大王生まれる。
家庭教師はアリストテレス
338 アレクサンドロスの父王がギリシャを征服
アレクサンドロス王子はこの戦争に参加
336 アレクサンドロス大王即位
334 東方遠征に出発
8年間でペルシャ・エジプト征服
326 インドに到達
323 アレクサンドロス大王死去
322 アリストテレス死去
アレクサンドロス大王がまだ10代で王になっていない時に、マケドニア王国はギリシャ連合軍を打ち破り征服しています。
このときからギリシャの各ポリスは独立を失い、マケドニアの版図の一地方になっていきました。
更にアレクサンドロス大王が即位してから、マケドニア王国はインド西部まで至る広大な大帝国を作りました。
アリストテレスはこの歴史的大変動を直接体験し、弟子のアレクサンドロス王の死も知りながら、「世の中変わった」ということを認識できなかったようです。
ギリシャのポリスがそれぞれ独立していた時は、「どうすればそれぞれの人間がポリスの立派な市民になれるか」が哲学の目的でした。
プラトンは、知恵を磨いて善のイデアを会得して立派に行動すればその市民も幸せになれるしポリスも栄えると考えたのです。
ポリスは市民の数がせいぜい1万人の非常に小さな社会ですから、それぞれの市民の行動が直接ポリスに影響します。
それぞれの市民が積極的にポリスの政治に参加することが当然の社会で、戦争ともなれば全員が兵士になって戦いました。
ところがマケドニアが大帝国を築くと、一地方になりさがったポリスの市民の意向など全然政治に反映されません。
軍隊も職業軍人の世界になり、市民が義務として戦争に行くこともなくなりました。
世の中が変わってしまったのです。
ところがアリストテレスは相変わらず、独立したポリスの市民はどうしたら良いかを説き続けていました。
アリストテレスが生きていた時代、ギリシャ北方のマケドニア王国が強大になり、アテネとかテーベなど従来からのブランドのポリスはマケドニアの鼻息をうかがうようになりました。
アレクサンドロス大王が王子の時、マケドニア王国はギリシャ連合軍を打ち破って実質的に各ポリスを支配するようになりました。
そのアレクサンドロスが20歳で王になって、3万人の軍隊を率いて東方に遠征しペルシャを滅ぼしインドの一部まで含めた大帝国を築いたことは皆さんもよくご承知だと思います。
このアレクサンドロス大王は政治的・軍事的な天才でしたが、非常に粗野な男だったようです。
酒に酔って、自分の大事な家老を槍で刺し殺したこともあったのです。
こんなわけで家来が彼に心酔していたわけではなかったようで、彼が30代前半で死ぬと家老たちは未亡人と幼い息子をそっちのけで勢力争いをしました。
この家老たちの権力争いをデアドコイ戦争と言いますが、織田信長が死んだ後の豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家や徳川家康などの家老たちの権力争いとそっくりです。
アレクサンドロス大王は先生のアリストテレスの教えなど無視して、大帝国を統治する組織を作りました。
マケドニア人を職業軍人とし、ギリシャ人を行政官とした中央集権体制を作り上げたのです。
こういう客観的な情勢を理解せず、素人の市民が軍人にもなるしポリスの政治も行うというポリスを最優先にするポリス人間になれとアリストテレスは弟子のアレクサンドロス大王に教えたのです。
そして完全に弟子に無視されました。
アレクサンドロス大王が死に、家老たちが彼の領土を分け取りした後も状況は変わりませんでした。
家老たちの横領した領土というのも広大なもので、とてもポリスなどという狭い都市国家ではなかったからです。
セレウコスという家老はペルシャからインドにいたる領土を支配したし、プトレマイオスという家老の領土はエジプト全土だったのです。
結局ヘレニズム時代を通じて、広大な領土を支配した王国群は、それぞれが職業軍人とプロの行政官を備えた専制国家だったのです。
こういう時代のある程度の財産と教養に恵まれた男たちの生活は気楽なものだったと思います。
彼が全盛期のアテネに生まれていれば、軍隊に従軍して戦争に行かなければならなかったし、平和な時代には役人としての勤めを果たさなければなりませんでした。
ところが、ヘレニズム時代には彼のやるべき公務がなかったのです。
気が向かなければ、軍人になることも役人になって書類に埋もれる必要もありませんでした。
その一方、この時代は社会が無秩序でした。
専制国家同士の戦争がしょっちゅうで軍隊の略奪暴行に遭ったし、プライドを持った市民が頑張っていなかったから治安も悪かったのです。
そういうなかで、男たちは自分で状況を変えることが出来ずに受身になっていきました。
この時代もそれなりのストレスはあったわけです。
我々がそこそこの財産を持ち教育を受けて、ヘレニズム時代に生まれたと想像してみるのも一興かと思います。
貧乏人や奴隷なら日々の生活に追われているでしょうが、なまじ学校で哲学を教えられると現実とのギャップに悩むことになります。
プラトンにしてもアリストテレスにしても、善を守ってポリスのために全エネルギーを注げと教えているのです。
ところが自分は、マケドニア人の支配する巨大な国家の政治に参画することが出来ず、彼らが勝手に争い世の中が変になっているのを横から見ているほかはないのです。
自分がどうすることも出来ない社会的混乱というのは耐え難いものです。
そしてその解決策を提供するはずの哲学が使い物にならなくなっています。
こうなると自分の力に自信が持てなくなったわけで、なんらかの積極的な善を達成しようという気持ちにはなりません。
それよりも個人的に不運を避けようというようになっていきます。
この時代は占星術が大いに流行りました。
自分が所属する社会を何とかしようという気持ちが薄らぎ、個人的な幸福を求めるようになりました。
ギリシャ人nお哲学者は、どのように善なる国家を作るかという設問を設定しなくなり、「人間は邪悪な世の中で有徳になりうるか?受難の世の中で幸福になりえるか?」という問題に取り組みはじめたのです。
真面目にものを考える人は主観的で個人主義的になっていき、その流れの中から個人の救いというキリスト教が現れたわけです。
ヘレニズム時代には、エピクロス学派、キニク派、懐疑学派という哲学が生まれましたが、これらは皆個人の幸福を考える哲学です。
さらにストア学派も生まれましたが、これだけが社会をどうすればよいかを問題にした学派で、ローマ人がこの学派を尊重してローマの公式哲学になっていきました。
英語のシニカル(皮肉な)という言葉はキニク学派が語源です。
日本語では犬儒学派といいますが、これはこの学派の代表的な哲学者であるディオゲネスが犬のような生活をしていたからです。
アレクサンドロス大王がコリントというポリスを訪れた時、その地の有力者は皆彼に会いに来たのにディオゲネスだけはやってきませんでした。
そこで大王の方から体育場でひなたぼっこをしていたディオゲネスに会いに出向いて、「何か希望はないか」と聞きました。
そのときの彼の答えが「あなたにそこに立たれると日陰になるからどいてください」とだけ言ったということです。
この話は非常に有名なのでご存知の方も多いと思いますが、こういう逸話からキニク学派は「皮肉」と理解されるようになったのでしょう。
キニク学派というのは洗練された哲学を否定し素朴な善だけを認めるという考えで、政府や私有財産、結婚などの社会的な約束を否定しました。
奴隷制度も認めず「徳」を非常に重視し、これに比べて財産や社会的地位などなにほどのことがあろうかという態度です。
このシニク学派のこの世の楽しみに対する軽蔑が受け継がれ、やがてストア派になって行きました。
懐疑学派というのは、道徳に対しても疑いを持ったのでこういう名前が付けられました。
人間は住んでいる国の習慣に順応するもので、それが特に合理的根拠を持っているわけではないと考えるのです。
真理など分かるはずがないということから、現在を楽しむにかぎるということになっていって、この学派は一時的に大流行しました。
しかし世の中が宗教色を深めていき、救いの道はこれしかないと独断的に教える宗教が栄えるのにつれて、この学派は衰微していきました。
エピクロス学派も現在は大いに誤解されています。
エピキュリアンは英語で美食家の意味で、エピクロス学派は快楽主義者とされています。
しかし、これは創始者であるエピクロスの弟子に娼婦が大勢いたので、そういう噂がたったからです。
エピクロスはパンと水だけの質素な食事に満足していました。
美食をすると食べ過ぎて腹痛を起こしたり、痛風になって不幸になります。
また、快楽を得るために金を稼ごうとしてあくせくしかえって不幸になります。
だから肉体的な快楽を抑制し心の平静さを得るのが一番幸せなのだという主張です。
このようにヘレニズム時代の哲学は、如何にして個人的な心の平安を得るかをテーマにしたものでした。
エピクロスの話を続けます。
彼が考えた哲学というのは、幸福な人生を送るには実際にどうしたら良いのかを教えたもので常識から成り立っており、論理学や数学を駆使したものではありませんでした。
公的な生活から逃げることを薦めたのは、権力を得るに従って自分をうらやんで害を加えようとする人間が増えるからです。
たとえ不幸を逃れたとしてもそのような状態では心の平和は不可能なので、人目につかずに暮らすのが良いのです。
彼は神の存在を信じていました。
神が存在していないとすれば、いつでもどこでも神の存在が信じられ大問題となることはありえないから、という理由からです。
面白いことに彼は神もエピクロス主義者だと考えていました。
公的なことに煩わされるのは神も嫌がり、宇宙の統治などという余計なことはしないと考えたのです。
神々は人間世界の営みなどには介入しないのです。
神は人間のことなど無関心なので、神が定めた運命などはないと考え、占いも信じていませんでした。
エピクロスは神を信じていなしたが、それは人間にとっていてもいなくてもよい様な神であって、伝統的なギリシャの神々への信仰には嫌悪を感じていました。
ギリシャの神々はあつかましい残酷なものだったからです。
今の我々はギリシャの神々をスマートなものだと思っていますが、実態はそのようなものではありませんでした。
バッカス信仰では、全裸の女たちが野生動物を生で食い、人身御供もありました。
オリンポスの神々も人身御供を要求しましたが、それは神話にもそういうエピソードが残っていることからも分かります。
エピクロスが生きていた時代(紀元前300年前後)にはまだ人身御供の習慣があり、戦争などのような危機に際して行われたのです。
ローマ共和政の最後の時代には、自由思想が流行してエピクロスの思想は上流階級に人気がありました。
しかし初代皇帝であるアウグストスが、ローマの伝統的な徳や宗教を復活させてから、評判が悪くなっていきました。
私はローマ時代のエピクロス学派と聞くとペトロニウスを思い浮かべます。
彼は「クオ・バディス」という小説に登場する重要な人物です。
この小説はポーランド人のシェンケビッチが書いたもので、彼はこれでノーベル文学賞を貰っています。
ペトロニウスはネロ皇帝のお気に入りでネロの趣味の先生をしていましたが、実際は彼を馬鹿にしていました。
そしてネロに恨まれたら、あっさりと美女と風呂に入りながら自殺したのです。
エピクロスに関連してギリシャ人の宗教の話をします。
古代のギリシャには悪いことをした者は地獄に行くという考えが既にありました。
公式のギリシャ神話であるオリンピア神話は地獄という考え方に対してあまりはっきりとは書いていませんが、ハデスという地獄の神は登場します。
しかしプラトンは地獄の責め苦をその著作で書いていますから、哲学者も含めて地獄という考えをギリシャ人一般が信じていたと考えてよいようです。
別にキリスト教になって初めて地獄という考えが出てきたわけではないのです。
また輪廻転生という発想も古くからギリシャにありました。
こういう意味では日本人と古代ギリシャ人の宗教観は意外と似ていたようです。
疫病・地震・敗戦などは神に敬意を払わなかったためだとも古代ギリシャの一般民衆は考えました。
どうも古代ギリシャの文学や芸術は、ギリシャ人の伝統的な発想である民間信仰という点に関して非常に誤解を招きやすいと思います。
エピクロスは、このような古代からのギリシャ人の信仰は、人間に一定の行為を強制し心の平安を乱すとして嫌悪したようです。
このような地獄に落ちるかもしれないという恐怖心から解放されるようになって、人間は自由になり幸せになれるとエピクロスは考えたのです。
エピクロスが生きていた時はマケドニアの武将たちが互いに争い、非常にストレスがたまる時代でした。
だから死んだ後もあの世があってまた面倒くさいことを続けなければならないと考えただけでうんざりし、死んだら完全に消えてしまうと考えて心が落ち着いたのです。
このエピクロスの思想は一般民衆には普及しませんでした。
いつでもどこでも「死の恐怖」というのは大変に強く、それに対する適切な説明が出来ない思想ははやらないのです。
仏教は死を真正面から見据えた教えですし、キリスト教も善良な信者は復活し神と共に幸せな生活を永遠に送れると説いています。
ストア主義を始めたのはゼノンというフェニキア人で現在のシリアに住んでいて、最初の頃の弟子もフェニキア人が大部分でした。
当時のシリアはギリシャ系のマケドニア人が支配していましたが、やがてローマの領土となったので、ストア派というのは他のギリシャ哲学とは毛色が違うのです。
ゼノンの哲学はキニク派の影響を受けていて、肉体的な快楽を軽蔑しています。
また、ヘラクレイトスという哲学者の影響も受けています。
ヘラクレイトスはヘーゲルの先祖のような人で、弁証法を提唱しました。
ヘラクレイトスによれば、世界は神々が作ったものではなく、対立するものが闘争しているものだと考えます。
互いに対立するものは、もう一段高いレベルで調和すると考えるのですが、これは弁証法の考え方です。
そして最終的に「一なるもの」に収斂していきます。
逆にこの「一なるもの」から全てのものが派生します。
この「一なるもの」を神と考えると分かりやすいです。
つまり宇宙は神の正義の法則に支配されていると考えるのです。
このようにキニク学派とヘラクレイトスの影響を受けて、ストア派というのは禁欲的です。
また、自然情け深い神神によって定められていて、全体が目的を達成するように設計されているとも考えます。
そしてこの目的は人間のためにあるのであって、牛や馬は人間の食料になるために存在し、蚤やしらみは朝になってわれわれが目覚めるのを助けるためにあるのです。
神は世界の魂であって、人間一人一人がその魂を含んでいると考えます。
なにやら全てのものが仏性を持っているという大乗仏教の教えに似ているのです。
このようにストア派は質素な生活と世界の正義を神のルールだと説いたわけで、その教えは支配者が喜ぶものでした。
ストア派の創始者であるゼノンは、「万物は自然と呼ばれる一つの単一組織体の一部であり、個々人の生活は自然と調和しているときに善なのだ」と考えていました。
「徳」とは心が自然と一致している状態なのです。
この発想は、古代からのギリシャ人の発想そのものです。
はるかな昔からギリシャ人は、「自然法則が様々な勢力をバランスさせ、それぞれの勢力は定まった境界を持っている」と考えてきました。
彼らにとって正義とは、「定まった境界を侵さない」というものです。
財産や健康などという肉体的な慰安はとるに足らないもので、自然の定めた境界・掟を守ることが正しい」とゼノンも考えていたのです。
これは何度もいうように日本人の「あるべきようは」と同じ発想です。
ゼノンはフェニキア人ですがこういうギリシャ人の伝統的な発想を唱えたのです。
さらに「不平等が悪いわけではなく、他の縄張りを侵すのは悪いことだ」という発想は支配者に非常に都合がよいのです。
こういうわけでストア派哲学は、当時地中海を支配していたギリシャ人・マケドニア人に受け入れられていきました。
このゼノンがいうところの自然法則は、ルールであって「神」という非物質的なものとは違っていました。
ところが後期のストア派は霊魂の存在を認め、その思想は神の教えというように変わっていきました。
こうなるとストア派の思想というのはひとつの信仰になっていきました。
「徳」を守ることはそれ自体が目的なのであって、何かの役に立つから大事にするということではなくなっていったのです。
私は人間の大集団を統制する思想というのはこういうものだと思います。
多くのキリスト教徒にとっては神を信じることが大事なのであって、それによって何か良い事があるから信じるわけではないのです。
日本人も「無欲になって自然の中で自分のいるべき場所にいるのが正しい」と思い込んでいるわけで、それが自分に有利か不利かなどとは考えません。
ストア派の思想も同じで、「徳」を守ることが正しいという考えが芽生えてきたのです。
このストア派の哲学は、ローマ人の支配的な哲学になることによって歴史に大きな足跡を残しました。
ストア派の「徳」というのは少し変わっていて、悪い情熱だけでなく全ての情熱がいけないのです。
妻や子が死んでも深く悲しんではならないし、友情を持ちすぎてはなりません。
ストア派では有徳であること自体が目的であって、何か別の目的のために有徳になろうというのではないのです。
公的生活は義務なのですが、人類に利益を与えよう(世の中を平和にしようとか食糧不足を解消しようとか)という欲望から政治家になって努力してはなりません。
世界の平和とか食料の提供といったものは人間の本当の幸せではないからです。
ストア派の代表的な人物はローマ皇帝だったマルクス・アウレリウス・アントニウスですが、紀元後2世紀後半の人で5賢帝の最後の人でした。
5賢帝の時代というのはローマが平和で経済的に繁栄した時代だと一般的には言われています、実際にローマが平和だったのは四番目の賢帝だったアントニウス・ピウスの時までです。
5番目のマルクス・アウレリウス・アントニウスが皇帝のとき蛮族が攻め込んできてローマの運命は下り坂になっていきます。
彼は四番目の賢帝であるアントニウス・ピウスの養子になり、養父の死後皇帝になりましたが、同じくアントニウス・ピウスの養子で自分とは養兄弟だったルキウス・ウェルスを自分と同格の皇帝にしています。
べつにそんなことをする義務はなかったのですが、道義上の理由からそうしたのです。
このルキウス・ウェルスは無能でマルクス・アウレリウス・アントニウスの足を引っ張っただけでした。
マルクス・アウレリウス・アントニウスには政治的・軍事的な才能がなく、人を見る目もありませんでした。
自分の実子であるコモドゥスを跡継ぎにして皇帝にしたのですが、彼は余りにも無能だったので殺されています。
この支配者としての資質に欠けるマルクス・アウレリウス・アントニウスが五賢帝の一人になっているのは、彼の真面目な性格のためです。
彼が皇帝の時代は蛮族が領内に侵入していたので、司令官として多くの時間を野戦場で過ごしました。
軍陣のさなかに彼は「自省録」という日記を書いていますが、哲学的な考えや皇帝としての義務のことを書いているだけで政治的・軍事的な事柄は書かれていません。
彼にはこの世のことなど関心がなかったようです。
しかし皇帝の義務に忠実で一生懸命に皇帝業を勤めたのです。
当時ストア派の思想はローマの支配者層の常識でしたから、「義務」を最優先にしたストア派に忠実な彼の態度に人々は感銘を受けたのです。
ローマ皇帝にしてストア派哲学者だったマルクス・アントニウスは、宇宙と調和する生活が正しいと考えていました。
神は、人間を指導する役割を持つデーモン(人間に潜む神的な力)を与えたと信じていました。
このデーモンというのはキリスト教でいう守護天使と同じものです。
マルクス・アントニウスは、運命は永劫の昔より決まっているとも考えていました。
殺されるという不幸にあったとしてもそれは昔から決まっていたことであって、殺人者が彼の運命を変えたわけではないのです。
「いかなる人間も他人に害を与えることは出来ない」というわけです。
マルクス・アウレリウス皇帝の言動を見てみると、どうも矛盾を感じてしかたがありません。
彼は、現世の幸せは無意味であると考えています。
その一方で、皇帝として国民の現世の幸せのために奮迅の努力をしています。
このことは、外敵を防いだり食料を確保するということが、国民の幸せだと考えているということです。
ということは、現世の幸せは本当は無意味なのだが、次元の低い連中にとっては幸せなのだということです。
これは「幸せ」には二種類あるという価値のダブル・サタンダードです。
この二つの「幸せ」を結びつけるのが「義務」というものです。
高いレベルにある者は「義務」として、低次元の連中の現世の幸せを確保してやらなければならない。
しかし自分自身はそんなものに惑わされてならない。
これはまさに、支配者の思想そのものです。
ストア派の思想で重要なのは「自然権」ですが、哲学が生まれた経緯を振り返ってみると自然権という発想をストア学派が持ったのも納得できます。
古代ギリシャの各ポリスは、他のポリスには通用しない独自の正義を持ち、それを表現したのがそれぞれのポリスの神話でした。
その正義はポリスを一歩外に出ると通用しないものでしたので、その後貿易や軍事同盟など「国際化」が進展すると、神話に代わる多くのポリスに共通の価値観が必要になり哲学が生まれたのです。
紀元前300年ぐらいから、ギリシャ人の支配する世界はアレクサンドロス大王の東方遠征によってエジプトやペルシャなど異民族の住む地域まで拡大しました。
その後地中海を取り囲む広大な地域はローマが支配するようになりましたが、ローマ人はストア哲学にほれ込み、自分たちの哲学にしました。
ローマ人はストア派哲学によって様々な民族が住む広大な版図を統合しようとしました。
ローマの支配階級は、征服した異民族の支配者も自分たちの仲間にしてその支配に協力させました。
例えば、征服した部族の王や貴族にローマ市民権を与え、更には元老院議員にし、その師弟をローマに留学させストア派哲学を学ばせたのです。
ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」を読むと、彼の敵味方となったガリア人の指導者の多くは若いときローマに留学していて哲学的な議論も出来たのです。
このようにして広大なローマの版図内の支配者は、ストア派哲学によって何が正しく何が正しくないかを判断するようになりました。
この場合、ローマ人もローマに服属している弱小国の支配者もそれぞれの国内では、伝統的な価値観に基づいて生活していました。
その一方、彼らはローマ全体を考えるときはストア派の哲学に基づいて考えました。
ストア派哲学では、自然と調和する生活が正しいと考えていましたが、自然は民族による差別をしませんから結果的にあらゆる民族に共通の価値観になるのです。
このようにして「自然法」という概念が成熟していきました。
この「自然法」は自然という人類共通のものから来ていますから、全ての人間は平等であるという発想を根底に持っています。
ストア派のローマ皇帝だったマルクス・アントニウスは「省察録」に次のように書いています。
「全ての人間に同じ法律が適用され、平等な権利と平等な言論の自由とを尊重して行われる政治体制が望ましい」。
この思想の影響を受けて古代ローマでも次第に奴隷制度はよくないという考えが広まっていきました。
また、男と同権を主張する女性たちもこのころ輩出しましたが、彼女らの言動は現代の「ウーマンリブ」運動家など足元にも及ばないほどですが、これも「自然法」の影響です。
この自然法はキリスト教に大きな影響を与えました。
ストア派哲学者であったマルクス・アントニウス皇帝は紀元後2世紀後半の人でした。
彼の時代から急に北方蛮族の侵入が激しくなり、彼はそのために東奔西走して疲れ果て死んでしまいました。
彼の死後実子が皇帝になるのですが、無能だったので軍隊の幹部に殺されました。
この時代、かつてローマを繁栄に導いた元老院は名前だけで皇帝の飾りに成り下がっていましたし、市民はかつての活力を失っていました。
そうして軍隊だけが政治勢力としての実力を保持していたのです。
マルクス・アントニウスの息子を殺害した後、各地域に駐屯していた軍隊の司令官たちが互いに皇帝になろうとして争うようになりました。
国境を守る軍隊が互いに戦っていたので、北方の蛮族も好きなように侵入し始めました。
まさにローマの終わりの時代が始まったのです。
日本人のローマ史家である塩野七生は、「ローマの各時代の彫刻を見るとそのときのローマ人の心理状態がよく分かる」と面白いことを言っています。
ローマが隆々としていた時の彫刻は、写実的で力強いです。
しかし落ち目になった時代の彫刻はまるでヨーロッパ中世の作品のようで、写実性がなく非常に幼稚な感じで、どの彫刻も個性がないのです。
彫刻を見るだけで、この時代はもはや中世なのだなと感じることが出来ます。
また経済的な衰退のために軍隊の数も激減しています。
かつてのローマ軍は、各地に駐屯している軍団を合計すれば30万人ぐらいあり、皇帝が直接率いる遠征軍は10万人を下りませんでした。
しかし落ち目になった時代には皇帝が率いる軍隊も1万人や2万人程度になってしまいました。
この数字は中世そのものです。
14世紀の百年戦争でイギリス王やフランス王が率いた軍隊も五千人や1万人ぐらいです。
もう一つこの時代の特徴として、宗教が大いに流行ったことが挙げられます。
これも中世と同じです。
ヨーロッパの中世は、蛮族の侵入によりローマが滅びた時から始まるのではなく、3世紀から始まっているのです。
ギリシャやローマの伝統的宗教は現世幸福を得るためのものでしたが、ローマも下り坂になると、多くの人はこの世に絶望しあの世に希望をつなぐようになりました。
当時のローマには様々な宗教が流れ込んで栄えていましたが、一時期はペルシャ製のミトラ教が流行しました。
しかし結局はキリスト教が絶望した人にもっとも良く慰めをもたらしました。
キリスト教はギリシャ的な要素も多く吸収し後の世にこれを伝える役割を果たしたのですが、ギリシャ的なものをキリスト教に橋渡ししたものに新プラトン主義というのがあります。
新プラトン主義を始めたのはプロティノス(204~270年)という男です。
彼の時代は蛮族の侵入とそれによる農村の衰退によって財政が破綻し、政府は比較的豊かな都市に重税を課しました。
その結果、豊かな市民は都市から田舎に逃げ出して都市も衰退しどうしようもない状態になりました。
プロティノスは現世の破壊と悲惨から目をそむけ、善と美の永遠の世界を瞑想したのです。
プラトンは、本当に存在するのはあの世であるイデアの世界で、現世はイデア世界のお粗末な影に過ぎないと考えました。
この末世にプロティノスはプラトンの思想を復活させたのですが、キリスト教の哲学者はイデア説を大いに参考にしました。
天国をイデアの世界に重ね合わせたのです。
こういうわけでプラトンの哲学はキリスト教でも重んじられました。
初期キリスト教神学者である有名な聖アウグスティヌスは、プラトンを「あらゆる哲学のうちもっとも純粋で輝かしいもの」でプロティノスを「プラトンが再現したようだ」と言いました。
プロティノスの時代には、生き延びることが今の我々には想像も出来ないほど大変なことだったようです。
とにかく戦乱と疫病で人口が半減し、生き残ってもいつ蛮族に殺されるか分かりませんでした。
不幸がすぐ目の前に迫っており、幸福は遠く離れて現実には見ることが出来ません。
幸福は頭の中で考え出すものだったわけで、このような幸福を味わうには、日常生活の感覚を無視し超感覚的な世界の実在性を信じる楽天的な性格が必要でした。
プロティノスは、頭の中に幸福を見つけようとした人だったのです。
天国が美しいとそれをイメージするのも容易なので、プロティノスは非常に美しい言葉でイデアの世界(天国)を描写しました。
私はヨーロッパのキリスト教とアメリカのキリスト教は違うと感じています。
想像によって天国を味わうやり方は、現世の絶望を経験しなければ生まれないのではないでしょうか。
アメリカのキリスト教が、超越的な希望よりは地上での義務や日常生活の進歩に多くの関心を持っているのはこういう絶望がなかったからだと思います。
そしてアメリカ式のキリスト教が朝鮮や支那に渡り新興宗教となっているのも、その現世利益的な性格の故だと思います。
キリスト教というのはユダヤ教とギリシャ哲学が混じりあったものですが、ユダヤ教の教義というのは非常に単純です。
ユダヤ教ではヤハウェという全能の神が全宇宙を創造したのですが、キリスト教はこのヤハウェの神をそのまま使用しています。
ヤハウェの神を信じた正しいユダヤ人は、この世で納得できない扱いを受けても天国に入ることでちゃんと帳尻が合います。
この考えはキリスト教でも受け継がれています。
ユダヤ人だけが神から愛されていて異教徒は絶滅すべしという選民思想は、「選ばれた人」というように少し変えられてキリスト教に入っています。
この発想はキリスト教の根底に根強くあり、何かの折に社会の表面に出てきます。
例えば第二次世界大戦の時、アメリカは日系人を強制収容所に入れましたがドイツ系はそういう扱いを受けていません。
こういう事態はアメリカ人の宗教的感情以外に理由を説明できません。
また大航海時代にスペイン人は南米のインディオを大虐殺しましたが、これを積極的に推進したのはキリスト教の宣教師です。
「義」「博愛」というのもユダヤ教からキリスト教が受け継いだものです。
救世主(メシア)という発想もユダヤ教のものですが、異教徒を撃退し征服する有能なユダヤ王というものからキリスト教ではイエスという宗教的な存在に変わっています。
初期のキリスト教はユダヤ式に単純なものでしたが、徐々にギリシャ哲学の影響を受けて変化しています。
キリスト教の「信条」というのは、ユダヤ教の戒律がギリシャ哲学の影響で大きく変わったものです。
ユダヤ教の戒律というのは生活全般を規制する法律のようなものです。
例えば、男子は割礼しなければならないとか、ひずめのない動物や鱗のない魚は食べてはならないというものです。
キリスト教はこういう瑣末な法律を排除してそれを「信条」にしました。
信条というのは「道徳的基準」というべきものでこれを破っても警察に捕まえられて裁判にかけられるというものではありません(イエスは律法に違反したので死刑にされたのです)。
「信条」という信念を持つことが重要なのであって、これはギリシャの哲学者が「善」に絶対的な価値を置いたのと同じ発想です。
また、ストア派哲学で「義務」を尽くすことが正しいと考えられたのとも同じです。
このようにキリスト教の教義の部分はギリシャ哲学で組み立てられたのです。
世の中に新興宗教が次々と現れては消えていく中で、なぜキリスト教が大宗教に成長したかということは非常に興味深い問題です。
これには色々な学者が様々な説を唱えていますが、ギボンのいうことはなかなか説得力があります。
一つはキリスト教が寛容でなかったという理由が挙げられます。
キリスト教は一神教で、自分たちだけが天国に行けると確信していました。
仏教で効果がなかったら神道にしようかなどという選択の余地がなかったのです。
こういう非寛容は、時として自分たちの宗教に対する非常な熱意を生みます。
奇跡もキリスト教が大宗教になった理由の一つです。
イエスは死者を蘇らせたり、病人を治したりしました。
またイエスの死後、彼の弟子たちも突如として奇跡を行う能力を持つようになりました。
奇跡は別にキリスト教だけでなく、色々な宗教が宣伝しています。
仏教の経典でもお釈迦様が超能力を発揮したと書いていますし、オーム真理教の麻原彰晃は空中浮揚できると称してその姿をビデオで公開していました。
しかしキリスト教は聖書で奇跡を大きく取り上げて積極的に宣伝するなど、他の宗教よりはるかにその扱いを重視しています。
この奇跡重視は現在も変わらず、カトリック教会は「奇跡」の報告を受けると十年・百年単位の時間をかけ、ノーベル賞学者を大動員して調査をしています。
聖書に書かれている奇跡に感動したことがきっかけで入信する人が、今でも多いのです。
キリスト教徒が強固に団結していることも将来の発展の要因でした。
キリスト教はローマでは禁止されていましたから、キリスト教徒は団結しないと生き残れなかったのです。
そして、軍人や官僚などの支配者に積極的に布教する戦略を採りました。
その結果軍人にキリスト教徒が多くなり、コンスタンチヌス皇帝が敵と戦って勝った時、部下のキリスト教徒の将校たちは口々に「これはキリスト教の神のおかげだ」と宣伝したのです。
つまり、キリスト教はその団結力によって強力な政治的圧力団体になったわけです。
コンスタンティヌス皇帝もすっかりその気になって、キリスト教の禁止を解除し公認しました。
ギボンは、死後の「復活」死後もキリスト教の勢力拡大に貢献したと主張していますが、復活は多くの宗教で主張されていましたから、キリスト教の特徴ではないと私は考えます。
古代エジプト人なども復活を信じてミイラを作ったのです。
アウグスティヌス(紀元354~430年)、アンブロシウス、ヒエロニムスの三人は教会の三博士といわれていますが、彼らは同年輩でそれぞれの分野で活躍しカトリックの基礎を作り上げた男たちです。
彼ら三人が行ったことを読んで行くと素直に「偉い人たちだったのだな」とは私にはとても思えません。
当時蛮族が侵入してローマは大変な時だったのですが、彼らは現実的な対処によって信者の現世での苦しみを和らげようという気持ちがまるでないのです。
ヒエロニムスは修道院制度を作ったということでカトリックでは非常に高く評価されていますが、彼は蛮族が侵入して皆が略奪暴行に苦しんでいる時に貴婦人に対して婦徳を守ることがいかに大切かを説いています。
アンブロシウスは、教会の権力・権威を皇帝より高めることに成功した人です。
皇帝が現世の安全・秩序の維持に不可欠な処置をしたことに対し、それが教会の権威を損なったとして大反対し皇帝の命令を撤回させたのです。
彼らの行為により現世の悲惨がますます大きくなっていきました。
彼ら三人は非常に頭がよく教養もあり滅び行くローマに対する愛情も強かったのですが、現世に対する関心が完全に欠如しているのです。
私は彼らに関する記録を読んだあとしばらくぼう然としていましたが、やがて一つの結論を得ました。
彼らの性格が異常だったのではなく、そういう時代だったのだと。
現世の不幸を防ぐ方法がなくそれを甘受するしかないとしたら、意識的に現世のことを頭から追い払うようになってしまうのです。
理性的なギリシャ・ローマ文明に背を向けて、多くの人がなぜキリスト教という哲学から見たら荒唐無稽な宗教に走ったかは、この観点を無視しては分からないのです。
滅亡が避けらないものであるなら、人々に忍耐心を与え宗教的希望を持ち続けさせるのが良いと考えて「神の国」を書いたのがアウグスティヌスです。
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