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武蔵野航海記
不干斎ハビヤン
1543年にポルトガル船が種子島に漂着して、日本に鉄砲を伝えました。
実は王直というチャイナの海賊の船にポルトガル人が同乗していたのだという説もあります。
その6年後の1549年にはあのザビエルが来日し、キリスト教の宣教を開始します。
江戸時代初めのキリシタン人口は八十万人といいますから、日本の全人口千五百万人の5%にあたりものすごい勢いでキリスト教が普及したのです。
短期間にキリスト教が広まった原因はいろいろ考えられますが、教義を理解して入信した者は少なかったでしょう。
キリシタンが禁教になったとき、信者だと嫌疑をかけられた者は、そうでないことを証明させられました。
そのためにイエス・キリストの像を足で踏む「踏み絵」をさせられましたのです。
しかし、あれはキリスト教の教理からするとまったくナンセンスです。
神以外のものを崇拝するのは「偶像崇拝」で硬く禁じられています。
イエス・キリストの像も偶像ですから、命と引き換えにする値打ちはないのです。
キリスト教に無知な幕府の役人が、仏像と同じようなものだろうと考えて「踏み絵」を考案したのは納得できます。
しかし当時のキリシタンの指導者が「あれは偶像だから、足で踏んでも信仰とは何の関係もない。どんどん踏め」と何故言わなかったのか不思議です。
幕府が禁教令を出した後はヨーロッパ人の神父は国外追放されて日本には居ませんでした。
しかし、もし残っていたらこういう指示をしただろうと思います。
残った日本人キリシタンの指導者は、キリスト教の基本的な教理さえ分っていなかったのでしょう。
当時の日本人信者の一人に不干斎ハビヤンという人がいました。
子供の頃仏門に入りましたが、若くしてキリスト教に改宗しました。
宗教的な素養があったのでポルトガル人神父に重用され補佐役を勤めていたようです。
日本人信者のリーダー的存在だったらしく、幕府の儒教顧問だった林羅山が訪ねてきて論争をしています。
イソップ物語を翻訳したのもハビヤンです。
しかし後に彼は棄教し、キリスト教を非難する文章を書いています。
表面的に見ると彼は自分の思想を変えたように見えます。
しかしキリスト教を誤解して入信し、本当のことが分ったので棄教したのが実態です。
従って彼は自分の思想を実際は変えたわけではありません。
なお私が不干斎ハビヤンの存在を知ったのは、山本七平先生の「日本教徒」という著書を通じてです。
本節はこの「日本教徒」の内容に示唆された部分が多くいわばその要約です。
ハビヤンはヨーロッパ人の神父に日本語及び日本の思想を教える為に「平家物語」の要約版を書きました。
このためにはハビヤンが自分なりに「日本の思想」を理解しなければならず、結果的にこの「平家物語」はハビヤンの「日本論」になっています。
ハビヤンは、自然界を一つの秩序と考えていました。
自然界は恩に対する態度により人間を賞したり罰したりすると考えました。
そしてその収支はこの世だけでなく来世と合わせるとバランスするというのです。
「恩というものは一種の債務だからそれは返さなければならない。しかし恩を施したことを権利と考えてはならない」というのがルールです。
恩を施した側が、相手に対して権利を主張するのは作法から外れます。
恩を施した相手が返そうとしないときは、相手に対して「恩を受けたので返さなければならない」という返恩の義務を思い出させるという態度をとるべきなのです。
これを、恩を施したことを「権利」と考え見返りを要求する者は「おごれる者」になってしまいます。
「おごれる者」は滅びます。
この考え方には「神」という絶対的な基準はありません。
恩の貸し借りという人間関係があるだけです。
このハビヤンの考え方は明恵上人の「あるべきようは」と同じ考え方です。
自然が正しいのであり、神などという絶対的な基準はありません。
明恵上人は無欲になれば自然と調和でき全てがうまくいくと考えました。
これをハビヤンは「恩を施したことを権利と考えてはいけない」という表現で同じ事を言っています。
「受けた恩は返さなければならない」というのも、無欲に自分の立場を考えれば当然の話ですから、これも結局同じ事を言っています。
皆さんは既に感じていると思いますが、この考え方は今の日本人にも当てはまります。
日本人は「義務」を果たさなければならないとは考えますが、「権利を行使する」という考えが伝統的にありません。
ハビヤンはこのルールを「平家物語」で説明しています。
清盛の息子重盛は古来良く出来た人物とされていて、彼の早死が平家滅亡の原因とさえ考えられているのです。
「恩」の貸し借りのルールをわきまえていたというわけです。
清盛が太政大臣になり大いに栄えている最中に鹿ケ谷の陰謀が起きました。
これは後白河法皇を中心にした従来からの公家グループが企てた平家転覆の陰謀です。
この陰謀が発覚した時、清盛は後白河法皇の忘恩を激しく怒ります。
清盛は法王のために何度も命がけで戦ってきたという恩を施したのに、それに感謝しないというのです。
清盛は法王に対して「感謝」を要求する権利があると考えたのです。
そこに息子の重盛が現れて「天地の恩論」を展開します。
人は天地に恩を感じなければならない。
しかし天地は人間に対して「恩を施した」と権利を主張しているわけではない。
人はこれと同じように行動すべきだというのです。
そして法王が清盛を太政大臣にし、多くの所領を与えたという「恩」を清盛に思い出させます。
結局清盛も態度がうやむやになってしまいました。
この清盛の態度をハビヤンは「人を人とも思わない」とし、平家物語では「おごれる者」としています。
清盛を初めとした多くの平家の男達が驕り高ぶったために滅びたのだと考えるわけです。
重盛は後白河法皇に対する「忠」と父清盛に対する「孝」を同一水準に置いて、「忠ならんと欲すれば考ならず」と両者の板ばさみになって嘆きました。
しかしチャイナでは重盛は悩む必要はありません。
号泣すれば済むのです。
主君に対しては三回諌めても主君が進言を取り上げなければ、君臣の契約関係を解消して去ればよいのです。
親に対して三回諌めても聞かれなかったら号泣して従わなければなりません。
親子関係は契約ではないからです。
私の想像ですが、チャイニーズの重盛に対する評価はあまり高くないのではないでしょうか。
親より他人(主君といえども他人です)を優先したからです。
白拍子の姉妹がいて、姉が妓王、妹を妓女といいました。
妓王は清盛の愛妾となりました。清盛は五十過ぎ、妓王は二十歳前。
清盛からの経済援助で妹や母親までも毎日を楽しく暮らしていました。
三年たったある日、仏御前という十六歳の白拍子が、呼ばれもしないのに清盛に自分の舞を見せようとして面会を求めました。
卑しい身分の者が呼ばれもしないのに面会に来たので清盛は怒って「追い返せ」と怒鳴りました。
それを「可哀想だから、舞を見てあげましょう」と妓王がなだめました。
呼んでみると凄い美少女で舞いも上手かったので、清盛は正体を失って、仏御前に「妾になれ」といいます。
仏御前もそれが目的で清盛に会いに来たわけですが妓王に遠慮して「妓王に悪いから勘弁してください」といいました。
清盛は「なに、妓王が邪魔だというのか。ならば妓王を追い出そう」ということになってしまいました。
仏御前は驚いて辞退しましたが、清盛が聞かないのでそのまま清盛の世話になりました。
翌年清盛は妓王に使いを送り「仏御前が寂しがっているからやって来て舞を舞え」と命令しました。
清盛の命令に背いたら都を追放されます。
それでも妓王は出かける気になりませんでした。
ここで母親は恩論を展開します。
三年も愛された恩を娘に思い出させます。
そして「都を追放されたら年老いた自分は悲しい。せめて都で死なせて欲しい」と親に対する孝という義務を思い出させます。
「恩「と「孝」を持ち出された妓王は清盛の館に出かけました。
清盛は妓王の舞が気に入りまたやって来て仏御前を慰めろと命令しました。
このときの母親の態度は日本の基準では合格です。
娘を育ててきた「恩」を権利として主張するのではなく、娘の義務を思い出させる行動をとったからです。
最初は死んでも嫌だといっていた妓王は、義務感に目覚めて「自主的」に清盛の館に出向きます。
日本人のいう「自主的を尊ぶ」とは義務を促すやりかたを言います。
清盛からまた来いと言われその屈辱感で家に帰った後妓王は死のうと思いました。
妹も一緒に死ぬといってくれました。
そこでまた母親がいいます。
「妓王の恨みはもっともだが、娘二人に死なれた私は生きていても意味がないので一緒に死ぬ。
しかしまだ死期の来ない母親を死なせるのは妓王の罪になる。罪を犯し来世に悪影響が出ると大変だ」といい妓王の自殺をやめさせました。
母親は妓王に自殺をやめて自分を養えという権利の主張はしていません。
今まで育ててもらった恩を返す義務を示唆しているだけです。
「受恩の義務は拒否できるが、その場合は罪になるぞ」と脅かしているわけです。
受恩の義務を果たさない罪は他人から罰せられるものではありません。
相手が罰を主張するということは相手が権利を主張していることになってしまうからです。
従って、この種の罪は「罪の意識」がない者には通用しません。
清盛には通用しないわけです。
また日本人以外はこの罪の意識はありませんから、外国人にも通用しません。
妓王とて清盛から恩を受けたことは分っています。
しかし彼女が死のうと思ったのは自分の権利が侵害されたからです。
彼女の権利とは「恩を受けたことに対して、自主的に恩返しする義務を行使する権利」です。
清盛に先に権利主張されたために、自分から進んで義務を果たすチャンスが失われたのを怨んだのです。
日本人はこの屈辱を味わうのがいやだから「自主的」に行動するわけです。
翌日妓王は死ぬことを止めて親子三人尼になり嵯峨野に隠棲しました。
嵐山のそばの嵯峨野にある妓王寺がその場所だったのです。
このとき妓王21歳、妓女19歳でした。
一年後、仏御前が三人を訪ねてきて尼になり三人と一緒に余生を送りました。
このとき仏御前17歳。仏御前は清盛に追い出されたわけではなく、恩人の妓王に申し訳なく思っていたので、頭を剃り明け方清盛の屋敷を抜け出してきたのでした。
仏御前は妓王から「科(とが)」を許されて四人で余生を過ごしました。
「科」というのは受恩の義務を拒否したわけではないが、様々な理由でこれを遂行できない状態の時に使います。
妓王が清盛にとりなしてくれたので仏御前は清盛に会えたわけですから、仏御前は妓王に恩があります。
しかし清盛が許さないので暇をもらえなかったのです。
そこで逃げ出してきたのです。
仏御前は清盛から逃げ出して尼になることで科を解消することが出来たのでした。
受恩の義務のあるものがそれを果たさなくても、相手はどうしようもありません。
恩返しの権利の行使が出来ないからです。
こうなると「怨み」を持つことになります。
この怨みが積もり積もると当人に作用すると考えられています。
清盛は「人を人とも思わない」罪を重ねているわけですから、多くの被害者の「恨み」が積もっていき、これが最終的に平家を滅ぼすことになったのです。
ハビヤンは、他の日本人と同じように人間は自然の一部であり、その中の本来自分が占めるべき位置にいるのが良いと考えていました。
この自然の秩序に従っていれば成功し、破れば敗者になるのです。
そして敗者に対しては因果応報という慰めが与えられます。
過去生で義務を果たさなかった報いを今受けているという説明です。
また今義務を果たしていれば、今生でも良いことが起き、来世も保証されます。
結局人間は長いスパンで考えれば皆同じだという平等主義ともなります。
そしてキリスト教を信じれば、仏教・神道・儒教など他の宗教よりもっと上手く自然の秩序に一致できると考えてキリシタンになりました。
キリスト教という従来の日本の思想とは全然違う思想を理解するためには、先ずは自分の思想をはっきりと認識しなければなりません。
恐らく彼は日本人で初めて日本とは何かを真剣に考えた人でした。
そして彼のたどり着いた結論が、「恩に対する人間どうしの関係」という考え方です。
その彼がキリスト教を疑問に思うようになったきっかけがポルトガル人の神父の態度でした。
ポルトガル人の神父達が彼らの権利を堂々と主張し論争したからです。
キリスト教というのは神と人間の契約です。
それによって人間の権利と義務がはっきりしています。
他の人間に対する権利と義務も神との契約によってはっきりしています。
キリスト教のいう最後の審判というのは、神との契約を守ったか否かだけを判断します。
日本人のように人間同士の関係ではありません。
「権利」は神との契約で保障されているものですから、堂々と主張できるものです。
「権利を主張する」ということから、ハビヤンはキリスト教が従来の日本人の思想と相容れないということを悟ったのです。
またキリスト教の絶対的な基準が「神の正義」であり、日本人が「自然」に最高の価値を見出すのとも違うことも分ってきたのです。
ハビヤンだけでなく戦国時代末から江戸時代初期の日本人はキリスト教を相当研究しています。
彼らは明治以後の日本人と違ってヨーロッパの文化に対して劣等感を持っていません。
カトリック教会は1582年にキリシタン大名の縁者など四人の日本人少年を「天正遣欧使節」としてヨーロッパに派遣しました。
日本での布教活動が成功したことをヨーロッパに宣伝するためでした。
一行はスペインで国王に会ったり、ローマでは法王に会いローマ市民権を与えられたりしています。
少年達はヨーロッパの宮殿や大寺院を見ても驚いていません。
信長の築いた安土城や京都の繁栄を見た目には大したものとは思えなかったのです。
軍隊にしても、日本の大名の軍隊は最新兵器の鉄砲を多数装備し、動員数も十数万人でヨーロッパの軍隊を凌駕していました。
彼らはヨーロッパの都市に日本人売春婦が多いことに驚いています。
彼女達は奴隷として売られてきたのです。
ヨーロッパの商人は、当時男女の日本人多数を奴隷として日本で購入し、ヨーロッパ、東南アジア・アメリカ大陸に売りさばいています。
日本人の男奴隷は兵士として、女奴隷は売春婦としての需要が多かったのです。
当時どれぐらいの日本人が奴隷として海外に売られていったのかはっきりはわかりませんが、数十万人になるという説もあります。
秀吉や江戸幕府がキリシタンを禁止した理由のなかで大きなのが、キリスト教商人による日本人奴隷の貿易に対する反感です。
少年達はヨーロッパ文化にあこがれているといった様子は見えません。実に冷静に観察しています
18世紀初めシドッチというイタリア人の宣教師が、布教のため日本に潜入し捕らえられて新井白石の尋問を受けました。
シドッチは「日本の法律を守るから布教させて欲しい」と頼みましたが、これを白石は拒絶しました。
日本の社会とキリスト教の社会は根本的なところで違うということを当時の知識人は理解していたのです。
シドッチのいう「法律は守るから」という考え方は、人間同士の関係以前に、神という絶対的な存在を前提としています。
この考え方は、人間関係がすべての日本社会とは相容れず、社会を混乱させることを白石は見抜いたのです。
各人は自分がなすべきことを自然に理解し、その義務を果たすという社会の形を維持することが統治者の勤めであると白石は考えたのです。
日本人がこのような「自然が善」という考えになったのは、7世紀に国家という広い社会を作った時に、「儒教」という自分達の考えとは全然違う政治思想を導入して大失敗した反動です。
これに懲りて、万人に共通する世界観を作り上げて社会を運営しようとは考えなくなってしまったのです。
そして人間関係を「当事者同士の納得」「恩に対する人間同士の関係」で処理するようになったのです。
そして戦国時代末にキリスト教と対決することにより、日本人は自分達の思想をより自覚的に把握するようになったのです。
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