武蔵野航海記

武蔵野航海記

封建制度

寄り道ついでに封建制度のことも説明したいと思います。

私は今江戸時代のことを書いています。

江戸時代の社会制度は封建制度だといわれています。

そして儒教の生まれた2500年前のチャイナも封建制度で儒教は封建制度を基礎にした政治思想だと説明されています。

しかし、チャイナの封建制度は日本やヨーロッパの封建制度と全然違います。

黄河流域は農業に適した土地ではありません。

下流は大洪水が頻繁に起きるし、上流は流れの侵食のために川の水が上手く使えません。

黄河を渡るのは非常に大変なのですが、唯一簡単に渡れるところが洛陽周辺で、ここが交通の要衝なのです。

この渡河点を中心に商人が集まって文明が生まれました。

商業都市のなかで勢力のあるものが、植民都市を作り広域商業ネットワークを作り上げました。これが古代のチャイナの王国です。

この商業王国という性質は、最後の王朝であった清まで受け継がれています。そして現在の共産チャイナも同じです。

チャイナでは、王や皇帝は流通業の頂点に立つ経営者のことです。秦の始皇帝以前のチャイナの商業システムを封建制度といいます。

日本やヨーロッパの封建制度は、君主が臣下に農地を与える代わりに軍事的な奉仕を要求する契約関係です。

臣下はその土地の年貢収入により自分たちの生活を支えまた主君への軍事的奉仕に必要な出費をします。

しかしチャイナでは、広域をカバーする商業ネットワークの支部である地方の商業都市に、世襲の管理人を任命することです。

商業都市の管理人に任命された臣下はその都市の商業経営を行い、そこからの収益で自分たちが生活をし自警団を維持します。

これらの世襲の管理人が諸侯でしたが、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵というランクがありました。

余談ですが明治の日本はこの名称を貴族制度を作ったときに借用しました。

要するにこれらの諸侯は商業経営者でした。

この周の封建制度が乱れ各地の諸侯が強大になって互いに争ったのが春秋戦国時代です。

チャイナの歴史書を読むと、戦争で勝ったほうが得たものとして具体的な商業都市の名前を挙げているだけで、その結果国境線がどうなったかの説明がありません。

彼らにとって重要なのは商業都市であってその周辺の農地には無関心です。

このようにチャイナの封建制度には年貢を徴収する農地を封土とするという発想がありません。

孔子はこの戦乱の時代に生まれました。

そして道徳よって周の初期のような平和な世の中を復活させようと考えたのです。

皇帝の臣下である諸侯が主君に忠誠であれば戦争がなくなるからです。

従って儒教が理想とする社会は周の初期です。

孔子が尊敬する政治家であった「周公旦」は、武力で殷王朝を滅ぼし周王朝を作り上げた武王の弟で周の制度を確立した男です。

このようにチャイナの封建制度は商業を基礎としていますから、その道徳である儒教も非常にドライで割り切った考え方をしています。

社長である皇帝に要求されるのは経営能力です。

商業で儲けるには「商機」や情報が大切です。また従業員を上手く働かさなければなりませんから人間関係が大事なのです。

そしてこの経営能力のある人物が「聖人」なのです。

有能であれば贅沢をしても構わないのです。女が好きでもいいのです。

社長である皇帝がアホだったら支店長である臣下も迷惑ですから、もっと優秀な社長に交代させようと考えたのです。

これが易姓革命です。

また正確・迅速な情報が商業には不可欠ですから、漢字というコミュニケーションの手段を持っている儒者が重宝されたのです。

ところが日本に儒教の一派である朱子学を導入した連中は日本とチャイナの封建制度の違いを知りませんでした。

日本の大名というのは百姓の親玉です。この百姓の親玉を統制するのにチャイナの商人の道徳を使おうとしたのです。

そこから色々な無理が生じてきました。

農業というのは天災という問題はありますが、働いたらそれだけの収穫がある産業です。

真面目に働くことが大事で商業のような投機的才能を必要としません。

商業は真面目なだけではダメで情報分析力と判断力が要求されます。経営者の個人的資質の影響が大きいのです。

日本人の国民性とチャイナの道徳にはその差異があります。

そこで日本に合わないところは勝手に修正を加えました。

これが江戸時代の朱子学が本場のものとは似ても似つかない別物になった理由です。


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