武蔵野航海記

武蔵野航海記

水戸学

18世紀末からロシアの船が日本近海に出没するようになりました。

1815年にナポレオンがフランスを追い出されてヨーロッパが平和になってからは、イギリス船も日本に来るようになりました。

1824年5月イギリス船が常陸の国(茨城県)の大津の浜にやってきました。

ここは御三家の一つである水戸藩の領地です。

イギリス人が浜に上陸したことを聞いた藤田幽谷(ゆうこく 1774~1826)は息子の藤田東湖(とうこ 1806~1855)に出撃を命じました。

幽谷は水戸城下の古着屋の息子でしたが、異常な英才に注目されて15歳で大日本史の編纂を続けていた彰考館のスタッフになりました。

そしてイギリス人が大津の浜に上陸したときは彰考館の総裁でした。

当時19歳だった東湖に「異人を退去させよ。云うことを聞かなかったらぶった切って来い」と命令したのです。

東湖は幼い頃から毎日、父に靖献遺言に載っている文天祥の「正気の歌」を聞かされて育った尊皇攘夷少年です。

東湖は頼もしくも「はい」と返事をしたので、親父の幽谷は息子の初陣の門出を祝って親類・友人を集めて宴会を始めました。

その宴会の最中にイギリス船が立ち去ったという情報がもたらされました。

この異人の上陸は水戸藩に深刻なショックを与えました。

幕府も翌年「無二念打ち払い令」を出しました。

外国船は余計なことを考えずにとにかく撃退せよということです。

この頃から日本の学問的雰囲気が一変しました。

それまでは外敵など考えられない平和な時代で、日本人は自由闊達に色々なことを考えていました。

しかし外敵の脅威が現実のものとなって、日本を守る武士たちは国防問題を必死に考え始めたのです。

幕府が無二念打ち払い令を出した1825年に会沢正志斎(せいしさい 1782~1863)は「新論」を書き藩主に提出しました。

正志斎は幽谷の弟子で後に彰考館の総裁になる男です。

藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖の三人は水戸学の代表的な人物です。

幽谷が水戸学の思想の基礎を作り、正志斎が「新論」を書いてその思想を体系的に表現しました。

そして東湖は情熱的な詩や行動で全国の青年武士を興奮させ、藩主斉昭(なりあき 1800~1860 1829年から藩主)の側近としてその思想を実践の場に移したのです。

水戸藩の実力をバックにした東湖の言動は幕末の前半までは日本中の志士の希望の星でした。

正志斎が書いた「新論」は幕末の志士たちのバイブルで、これを読んでいないと一人前の志士とは認められなかったというほどの本です。

「新論」は全体としては日本の危機を深刻に憂いていますが、個々の内容を見てみるとそれほど過激でもありません。

新論の「国体」編は、神国日本は太陽が昇ってくるところという書き出しで始まっています。

日の神の子孫である天皇が皇位を継いでいて易姓革命がないために世界の中心になっているとしています。

しかし日本の軍備が充分でないので西洋の夷狄が日本を侵そうとしている。

これに悲憤慷慨したので、幕府がなすべき国家政策を大名の家来という身分である私(正志斎)があえて提言するのだと書いています。

百年以上前にある程度完成していた「大日本史」は、イザナギ・イザナミや天照大神などの神話はほとんど触れていません。

まだ不確かなことは書かないという実証主義があったのです。

しかし「新論」では神話を事実とし、これがゆえに日本は世界の中心なのだと神がかりになっています。

天照大神が日本の国家組織と道徳を定めて世の中は平和に治まっていたが、その後仏教やキリスト教という邪教が入っておかしくなったとしています。

そしてその後の現在の徳川の世までの日本の歴史の概略を書いています。

「形勢編」で世界の列強の現状を説明し、「虜情編」で西洋諸国が布教しようとしているキリスト教が如何に危険であるかを論じています。

そして「守禦編」で採るべき政策を論じています。

「新論」では天皇が日本の正統な支配者であるとしていますが、政治を委託された幕府の存在を認めており討幕の考えはありません。

仏教を邪教だと非難していますが、これは儒教の立場では当然のことで特に新しい思想ではありません。

日本の軍備がお粗末なのは、兵農分離で武士が領地を離れ都市に集中したからだと考えています。

都市に住めば衣食住の全てにお金がかかり、また贅沢にもなるので武士が貧乏になってしまいました。

従って正規の家来を雇うことが出来ず無職の者を雇って辻褄を合わせようとしていますが、彼らは実際の戦闘では何の役にも立たないわけです。

また物価が騰貴しそれに比べて米の値段が低迷していますが、これは日本中で米が余っているからではなく武士が都市に集中しているからだとしています。

武士が都会で生活するのにお金がかかるので、田舎で米を投売りして商人に買い叩かれるから米価が安いと考えるのです。

大名が財政難なので年貢が増え、百姓も米を地元で投売りせざるを得なくなるというわけです。

そこで武士を帰農させ大名が米を兵糧として備蓄すれば、市場に売りに出る米が減るから需要と供給の関係で米価が上がると考えたのです。

大名の財政難が解消され兵力も増やせますし、日本の各地の大名の軍備が充実すれば夷狄が日本のどこに上陸しようが反撃できるというわけです。

これが「新論」の経済政策と軍事政策です。

商業が盛んになった当時に武士の帰農を提言するというのは時代錯誤ではあります。

しかし大事なのは「新論」が問題点を全部挙げていることです。

政治体制論、国内外の情勢分析、経済政策、軍備と日本の問題点を挙げて総合的に論じているのです。

このように日本を総合的に論じたものはそれまでなかったのです。

さらに重要なのは、この「新論」が幕府を強烈に非難していることです。

家康以来の政策は、幕府の永久政権化のために諸大名の力を殺ぎ民を愚かにして幕府の権威を高めるというものでした。

このような政策は幕府の統治には役立ちますが、夷狄の脅威が現実になった今では間違いであり早急に改めるべきだと主張しています。

そのために大名に金を使わせる参勤交代や土木工事の見直しも提言しています。

自藩の利害を超えた日本全体の見地からの発想なのです。

この点に日本中の武士が感激したわけです。

水戸藩という御三家の重臣が藩の公式な見解として「新論」を書いたわけですが、こんなことはそれまでなかったのです。

この辺の事情も「新論」が日本全体に非常に大きな影響を与えた理由のひとつです。

水戸藩はこの水戸学という思想に基づいて幕府の政策を実際に変えようとしたのです。

幕府は従来から政治は家来筋である譜代大名にさせていました。

そしてかつてはライバルだった外様大名や徳川の一族である親藩大名は政治から遠ざけていました。

ところが親藩の代表である御三家の水戸藩が斉昭という殿様を使って幕府の政策に口を挟みだしたのです。

イギリス船が水戸藩の領内に上陸した1824年から5年後に、水戸藩主が亡くなり重臣たちは11代将軍徳川家斉の子供を養子に迎えて藩主にしようとしました。

これに対して亡藩主の三男の斉昭を擁立したのが水戸学の信奉者でした。

重臣たちは個性的な斉昭が自ら政治を行うのを警戒し彼が藩主になるのに反対したのでした。

1829年に藩主となった斉昭は従来の重臣を遠ざけ会沢正志斎や藤田東湖を側近として藩政改革に乗り出しました。

水戸藩は最高の家格でしたが貧乏ということでも一流だったのです。

財政状態の改善はあまり効果が上がりませんでしたが、水戸学の主張である軍備の増強を熱心にやっています。

鉄砲隊の強化、軍艦の建造及び藩士の土着化です。

またキリスト教の流入を警戒して、オランダとの貿易を停止するように将軍に意見書を出しています。

そうこうしているうちにアヘン戦争で清がイギリスに負けたという情報が入り日本中が衝撃を受けました(1842年)。

幕府は夷狄の武力を恐れて無二念打ち払い令を撤廃し、薪水令を出しました。

異国船がやってきたら薪と水を供与してお引取り願えというのです。

幕府の弱腰に業を煮やした斉昭は幕府に対する積極的な介入を開始しました。

斉昭は幕府に質素倹約を迫り軍事費を捻出しようとしました。

そして一番無駄が多いのが大奥でしたから大奥の刷新を図りました。

また大奥の女たちが異国との戦争を嫌がり将軍に弱腰外交を薦めるのを警戒したという事情もありました。

しかし昔から大奥に手を付けた政治家は失脚していますが、斉昭も強烈な反撃を受けています。

また朝廷にも工作をしています。朝廷から幕府に対し「海防を厳重にせよ」という命令を出させたのです。

こうした一連の斉昭の幕政に対する口出しは、従来の譜代大名と大奥の反発を招きました。

その一方で幕政に参加できなかった外様や親藩の大藩は日本の防衛を真剣に考えた斉昭を支持しました。

斉昭を中心とした親藩・外様大名グループと井伊直弼を中心とした従来の譜代守旧派の二つの派閥が出来たのです。

そして斉昭の思想である水戸学が外様・親藩の武士達に浸透して行きました。

その結果、水戸学の主張である尊皇と攘夷も日本中にさらに広まっていったのです。

この時斉昭のブレインとして活躍した藤田東湖の人気というのは絶大でした。

鍋島痩閑(佐賀藩主)や島津斉彬(薩摩願主)といった大名と友達付き合いをし、西郷隆盛、橋本左内、佐久間象山、横井小楠といった一流の者たちとの人脈がありました。

彼がいる限り幕府の改革は成功すると思われるぐらい信用されていたのです。

ここまで読んでくると水戸学というのは国粋主義で夷狄のものは何でも嫌だと考えていると感じてしまいます。

しかし実際は現実を客観的に掴んでいます。

科学技術や軍事力はヨーロッパのほうが日本より格段に進歩していることも分っていました。

だから水戸藩の改革の時も蘭学者を新たに採用しています。

そして兵器を生産するために反射炉や造船所も作っています。

藤田東湖や藩主の斉昭は攘夷を続けるのは不可能だと悟っていました。

しかし開国という現実的な政策を口外せず攘夷を唱えたのは武士の精神を高めるためだったのです。

殿様や武士は支配者として自分達の階級に誇りを持ち、武士が日本の中核だと考えていました。

この武士の精神の緊張を緩めては日本に良くないと考えたのです。

水戸藩の尊皇攘夷というスローガンは意外と政治的なものなのです。

水戸藩の藩主の周りに結集した外様や親藩の大藩の藩主やブレインたちも水戸学を通じて開国が不可避であることは分っていました。

幕末とは非現実的で単純な攘夷論から現実的な開国論に日本が移行するプロセスだったのです。

1863~1864年にかけて薩摩と長州が西洋の軍隊と戦って苦戦しました。

その過程で、開国し国力を増強して日本の独立を維持しようというように攘夷論が変化していったのです。


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: