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武蔵野航海記
輪廻転生
最近、三島由紀夫の「豊饒の海」を読みました。
これは「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四部作で彼が市ヶ谷の自衛隊で切腹をする前に書いたものです。
いわば彼の「遺書」で、彼の生涯を通してたどり着いた結論が書かれているのです。
「春の雪」は映画にもなったのでご存知の方も多いと思います。
ストーリーは、明治末に維新の元勲の孫で侯爵家の一人息子だった松枝清顕と幼馴染の伯爵令嬢聡子とのラブストーリーです(春の雪)。
清顕は宮家の許婚だった聡子と不倫関係になるのです。
そして堕胎した聡子は関西の尼寺で出家し、清顕は尼となった聡子に会うために無理をして春の雪のなかを尼寺に通います。
そして体を壊して二十歳で死ぬのです。
清顕の魂はその後次々と転生し、清顕の学習院の同級生で親友だった本多繁邦がその一部始を目撃するのです。
清顕の魂は彼の教育係りだった右翼青年の息子・飯沼勲に生まれ変わり、剣道の達人になります。
そして世直しをするために、昭和初期に財閥の巨魁を暗殺します。
この勲の裁判で弁護士を勤めて、彼が清顕の生まれ変わりであることを本多は知ります。
結局、勲は財閥のボスの暗殺に成功し、その場で割腹自殺します。二十歳でした(奔馬)。
勲はタイの王女に生まれ変わり、日本に留学して本多と知り合いになります。
彼女はその後タイに帰りコブラに咬まれて、昭和二十年代に二十歳で死にます(暁の寺)。
本多は王女の生まれ変わりだと信じた青年・安永透を養子にしました。
しかし彼は実は生まれ変わりではなく、二十歳を過ぎても醜く生き続けます(天人五衰)。
三島由紀夫の小説「豊饒の海」の始めの三部の主人公たちには「純粋・無垢」という共通点があり、三島は彼らを肯定的に描いています。
松枝清顕は勉強をするでもなく、スポーツをするでもない世間の基準では出来の悪い息子です。
聡子を意識した時も一直線に彼女に向っていったわけではありません。
彼女によって心の平安が乱されたことを不本意に思い、依怙地な態度をとるのです。
そして聡子と宮様の結婚が天皇に裁可され、新聞発表されてどうにもならなくなってから積極的な行動を開始します。
清顕の魂が転生した勲は、昭和初期の右翼青年で日本の再生を願い、財閥の巨魁を暗殺して自殺した純粋な青年です。
勲の魂が転生したタイ王家のジンジャン姫は、全てにルーズで怠惰な熱帯のお嬢様です。
そして日本の女と同性愛にふけります。
三島由紀夫がこの三人を通して言いたいことは明確です。
三人は自分の本心に忠実だったということです。
自分の本心が正しく、それと反する世間の価値基準のほうが間違っているのです。
世間というのは世俗的な欲望で本心を曇らせている大人で満ちていますから、彼らは社会で生き延びていくことができません。
だから彼ら三人は、大人の入り口である二十歳で死ななければならなかったのです。
「あるべきようは」という原則を貫こうとして死んだのです。
三島由紀夫は第一部の「春の雪」で松枝侯爵邸の立派な図書室を描写しています。
多くの蔵書の中でただ一つ「靖献遺言」を具体的な本としてあげています。
また勲の父で清顕の教育係りだった飯沼が作った右翼の結社の名前が「靖献塾」です。
江戸中期に浅見絅斎が「靖献遺言」を書き、これが明治維新を招来したことは以前にこのブログで書きました。
彼は本場の儒教をまるで別の儒教もどきに変えた男です。
「外見で判断できるルールに従わなければならない」という大原則を無視し、本心の通りに行動するのが正しいとしたのです。
三島由紀夫もこの「靖献遺言」に心酔していたのです。
私は三島由紀夫は、日本人の精神文化をきちんと理解していたと感じました。
輪廻転生という考え方はアジアにもヨーロッパにもありました。
ギリシャのオルフェウス教団は、魂は古くなった肉体を離れ新しい肉体に宿ると考えていたのです。
またインドのバラモン教は、人間の本質がアートマン(自我)であり、これが新しい肉体に移ると考えたのです。
このアートマンとは我々が魂と考えているものです。
このように輪廻転生という考え方は、魂と肉体は別物であり、魂は不滅だという考え方が前提になっています。
実はこの前提を世界の二代宗教である仏教とキリスト教は認めていません。
ユダヤ教やそこから派生したキリスト教やイスラム教は肉体と魂を別物と考えていないのです。
イエスははりつけになって死んで三日後に復活しました。
そして弟子たちの前に姿を現したのです。
イエスははりつけの時に、腹に槍で刺された傷ができましたが、彼は弟子たちにその傷の穴に手を入れさせたのです。
ヨーロッパの名画にはこの場面を描いたものがあります。
復活とは魂の復活ではなく、我々が今生きているような肉体を備えた状態になるということです。
従って、最後の審判の際に全ての人が復活するというのは、何百億人という人間が肉体を持った状態になるということです。
イスラム教もユダヤ教やキリスト教の影響を受けて出来た宗教ですから、魂と肉体を一体と考えている点では同じです。
イスラム教でも神の審判があります。
神の前に合格した者だけが天国に入れますが、生前の行いに対する厳しい審査を通過しなければなりません。
しかし異教徒との戦いであるジハードで戦死したものには、このような厳しい審査はなく、戦死したという事実で十分なのです。
そして天国に行った戦死者は、何度愛の行為をしても処女を失わない美しい乙女を楽しむことができます。
だから今でもイスラム教徒の若者は自爆テロを行うのです。
宗教の強力さを如実に感じることができますね。
このように一神教では、肉体と魂は一体なので、輪廻転生もありえないのです。
キリスト教は輪廻転生を認めていません。その代りに肉体の復活を信じているのです。
これはカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教とも同じです。
このことは信者が信じるべき重要事項を整理した「使徒信条」に明確に書かれています。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。
信者は「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」るのです。
しかしキリスト教の初期には輪廻転生を肯定する教派もあって大論争が続きました。
結局、輪廻転生否定派が勝ったのですが、肯定論者も大勢いたのです。
しかし輪廻転生はあるのではないかという疑問は今も絶えません。
仏教はインドの宗教的伝統の中から生まれてきた宗教です。
インドの伝統的宗教であるバラモン教では、魂(アートマン)が肉体とは別に存在し転生を繰り返すとしています。
そして生前の行動により次に生まれ変わる環境が変わるという因果応報を唱えています。
この教理は社会の最高階級で僧侶であるバラモンが作ったので、バラモン階級の利益を侵害した場合は、「来世はとんでもないことになるぞ」と脅かしています。
お釈迦様は、このバラモンの教えのうち輪廻転生は認めましたが、アートマンの存在を認めませんでした。
本当の自分である魂(アートマン)は存在しないが輪廻転生はあるのだというのです。
「魂がないのなら一体何が転生するのだ?」という難問にお釈迦様の弟子たちは悩みました。
そして大乗仏教は「阿頼耶識(あらやしき)」というものを想定してこの難問を解決しました。
三島由紀夫は、輪廻転生を唯識論で説明しようとしました。
「春の雪」で清顕の子を堕胎した聡子が出家したのを、奈良にある法相宗の月修寺に設定しています。
月修寺は実在しないようですが法相宗はあります。
今は衰微していますが、奈良仏教の一つでかつては非常に盛んでした。
法相宗の有名なお寺としては、薬師寺や清水寺があります。
法相宗の根本経典は「唯識三十頌」で、存在と認識について深く研究していた宗派です。
人間には見る・嗅ぐなどの五感がありますが、その奥の奥に阿頼耶識があるというのです。
阿頼耶識については三島由紀夫も「豊饒の海」の中で説明していますが、簡単に言うと「記憶装置」です。
DNAといっても良いかもしれません。
例えば小川のジョージの阿頼耶識には私が生まれてから以後の経験だけでなく、先祖の記憶も含まれています。
両生類やアメーバ時代からの記憶も含まれますから、何十億年の経験が蓄積されているわけです。
この阿頼耶識に蓄積されている情報が個々人で違うので、外界の受け取りかたもまちまちです。
例えば、牛を見てある者は「汚い、臭い、不潔だ」と感じます。
またある者は「大きい」とその巨大さに驚きます。
別の者は「ステーキにしたら美味そうだ」と食欲をそそられます。
同じ牛を見ても三人が認識した物は違うのです。
また牛を見て「不潔だ」と感じた者が死んでしまえば、「汚い牛」という認識は消滅してしまいます。
これは「あらゆるものは実在しない。ただ認識があるだけだ」というお釈迦様の教えそのものです。
この考え方はDNAに非常に似ています。
人間が蛇を怖がり忌み嫌うのは、人間の遠い先祖が爬虫類にいじめられた記憶がDNAに残っているからだというのです。
また犯罪をおこす者はそのようなDNAを持ち、ガンに侵されるものはそのようなDNAになっているのです。
DNAが人間の認識を決め行動を起こさせるのと同じように、阿頼耶識が人間の認識を決め行動を決めていくわけです。
人間がなにか行動をしたらその記録が阿頼耶識に追加されます。
だから阿頼耶識は絶えず変化しているのです。
このように「阿頼耶識は記憶装置であり、自分の意思を持った主体性のあるものではないから、魂などというものではない」と仏教の唯識論は主張します。
しかし阿頼耶識とDNAで違うところもあります。
DNAは親から子へ受け継がれるものですが、阿頼耶識は人間が死んでから数十年たって数千キロはなれた個体に転生します。
時間と空間が断絶しているのです。
また阿頼耶識は道徳的判断をします。
善因善果、悪因悪果という一定の道徳的基準で、その阿頼耶識を矯正するような環境を持つ運命にある固体を選んで転生するのです。
これは阿頼耶識が主体的に判断し行動するということではないでしょうか。
これは記憶装置ではなく、魂というものだと私は思います。
私の仏教に対する理解が浅いのかもしれませんが、魂というものは存在しないという仏教の教理にはどうしても納得できないのです。
キリスト教や仏教の教義が肉体を離れた魂だけの存在を否定しても、多くの人が魂の存在を信じていました。
そして「あの世」がどうなっているのか多くの人が研究を始め心霊学が発生しました。
心霊学の元祖はスウェーデンボルグ(1688 ~ 1772)です。
彼はスウェーデンの牧師の息子に生まれた鉱山技師でした。
そして鉱山開発によるスウェーデン王国への多大の貢献が認められ貴族に列せられました。
またニュートンなどと親しく交わった科学者でした。
また彼と親交のあったドイツの哲学者カントは彼を大いに尊敬しています。
スウェーデンの田舎町に滞在している時に突然意識不明になり、首都ストックホルムが火事になっている情景を見ました。
このように彼の霊媒としての能力は生前から評判が高く、色々な人から霊視を依頼されています。
彼はロンドンで亡くなりましたが、20世紀初めに彼の遺骸が故国に返還された時、スウェーデンはその受け取りに軍艦を派遣するという最高の礼遇をしたのです。
彼は「霊界日記」を残しましたが、その迫力は大変なものです。
その本の最初に下記が書かれています。
「私は二十年以上の間、肉体をこの世に置いたまま、霊となって死後の世界・霊の世界を訪問し、その世界を自分の目と体験により理解してきた。
このたび私がこの世を去るあたりその記録を出版しよう」
そして予め予言していた1772年3月29日に死んだのです。
スウェーデンボルグがある日寝ようとしていたら、ベッドの脇に不思議な人物が現れました。
そして「お前をこれから死後の世界に連れて行く。お前はそこで霊たちと話をし、見聞したことをこの世の人間に伝えよ」と言われたのです。
その後彼は「死ぬ技術」をマスターし一人で自由に霊界を訪問できるようになりました。
「死ぬ技術」とは魂を肉体から抜け出させる「幽体離脱」のことです。
彼は霊界で様々なことを見聞しました。
人間は死ぬと霊になりますが、この霊も「霊体」ともいうべき体を持っているというのです。
死んでから少したつとこの霊体が肉体と分離します。そしてこの時に「お迎え」が来るのです。
個々の霊は本来所属する霊の集団があるのですが、死んで新しく霊になった者が自分たちの集団に属するのかを確認に来るのが「お迎え」です。
人間は死ぬと霊になりますが、しばらくは精霊界に留まりそこで霊界の基礎知識を学び霊界に行く準備をするのです。
死んで新しく精霊界に来た霊の大部分は、生前に思っていたのと精霊界・霊界が全然違うので大混乱します。
スウェーデンボルグは牧師などの宗教家に大いに苦言を呈しています。
「牧師たちは霊について何も考えず、誤った考えを人々に植え付けている」。
精霊界で準備ができた霊はいよいよ霊界に移動します。
霊界は非常に広大で、海や山や川(三途の川?)があります。
そして少なくとも数千億の霊の村があるというのです。
そして同じ性質を持った霊がそれぞれの村に住んでいるのです。
霊界には「霊界の太陽」があるのですが、それは霊の胸の高さにあり霊がどの方向を向いても正面にあるというのです。
新しく霊界に来たものはこの「霊界の太陽」というこの世の尺度では理解できないものに出会って魂消るそうです。
そしてこの「霊界の太陽」が霊のエネルギーを供給するのです。
霊界は三層に別れ、霊的進化の高い霊が上層にいるのです。
霊の想いはそのまま相手に伝わるので、霊界には秘密というものがありません。
空間の概念が無く、思っただけで数千キロを瞬間に移動できます。
また時間の概念もありません。
精霊界で準備をした霊は自分の意思で霊界の村を選びその仲間入りをしていきます。
この世での夫婦や親子といった関係であっても最終的にはバラバラになってしまうのです。
また霊にも男と女があり、この世と同じように男は理性に優れ女は感情に優れているようです。
そして霊界にも結婚があります。
これは肉体的な結婚ではなく、男女の霊の霊的・精神的な結合だということです。
霊は精霊界での準備の後霊界に移動するのですが、我執にとらわれている霊は別の醜悪な霊界を選ぶのです。
一般的にはこれを地獄界といっており、宗教では神が罰として霊を地獄界に投げ入れるとしていますが、実際は自分からこの世界を選ぶのだそうです。
常に他を凌駕し支配しようとする霊は、このような性質を持った霊たちに親しみを感じるのです。
そしてその醜悪な霊界で対立・闘争にふけるというわけです。
この世の宗教では、その教義を守ったら幸福な世界に行けると教えていますが、スウェーデンボルグはこんな教義はデタラメだとしています。
各々の霊の内心に対応する霊界に行くのです。
またスウェーデンボルグは輪廻転生を霊界で目撃しています。
アジアの兵士が敵城に夜間侵入した瞬間に首を切られ、精霊界に飛び込んできたのです。
彼は自分が死んだはずなのに精霊界で「生きている」ことに呆然としていました。
ところがしばらくして彼が精霊界にも霊界にもいなくなってしまいました。
その後スウェーデンボルグはアジアの国で前世を記憶している子供が出現して大評判になっていることを耳にしました。
そしてその子供の話の内容が、首を切られた兵士が言っていた内容と全く同じだったのです。
私のつたない説明ではスウェーデンボルグの見聞を十分伝えられませんから興味がある方は是非彼を研究してください。
ヨーロッパではスウェーデンボルグの評価が極めて高く、心霊研究が盛んになりました。
イギリスに本部がある「スウェーデンボルグ協会」は今でも活発に活動しています。
スウェーデンボルグが亡くなって70年ほど後の1848年に「ハイズビル事件」が起きました。
アメリカのハイズビルという田舎町に中古の家を買ったフォックス一家が引っ越してきました。
この一家の二人の少女の寝室は二階にあったのですが、夜毎に壁を叩く音がするのです。
原因不明のノックに一家は悩んでいたのですが、二人の少女が壁に向って「イエスだったら二回ノックしてね」といって、「あなたは幽霊か?」と聞いたのです。
そうしたら二回ノックがあったのです。
このようにして少女たちと幽霊の会話が成立し、この幽霊は行商でこの家で殺され地下室の壁に埋められたということが分ってきたのです。
そして警察立会いのものに壁を崩したら白骨死体が出てきたのです。
この事件が報道されて、ヨーロッパとアメリカでてんやわんやの大騒動が起きました。
後にこの家族は「これはいかさまでお金目当てにやったのだ」と新聞に告白したり、またそれを否定したりしました。
そして心霊現象を認めない一派がこの一家を金で買収してインチキ発言をさせたことも明らかになりました。
このようにこの事件の真偽は未だにはっきりしていません。
しかし、これをきっかけにヨーロッパとアメリカで「心霊学ブーム」が起きたのです。
トルストイなど19世紀後半の小説には上流階級の夜会で霊媒を呼んで「降霊術」を行うという場面が頻繁に出てきます。
特にイギリスで降霊術が盛んに行われ、面白半分のも勿論ありましたが、真面目なものもあったのです。
中でも有名なのはモーリス・バーバネルを霊媒とした降霊会で、50年以上続いたのです。
バーバネルはこの世側の霊媒ですが、霊界側の霊媒もいて「シルバー・バーチ」と名乗っていました。
この降霊会の記録も出版されています。
このようにして「あの世」の構造を明らかにしようという「心霊学」という学問が出来てきたのです。
19世紀後半から特に盛んになった超常現象の研究は日本でも行われました。
明治末に東京帝国大学の助教授だった福来友吉は、「念写」に成功しました。
霊媒が「念」を写真機のフィルムに送り込み映像を作るというものです。
弘法大師空海を「念写」で写したとされるものが特に有名です。
この念写は当時世界的に大評判になったのです。
ところが日本は江戸時代中期以後宗教とか超常現象を真面目に考えない風潮になっていて、福来博士は東大から追われてしまいました。
日本ではこんな情況でしたが、ヨーロッパやアメリカでは超常現象の研究が進んでいました。
特に第二次世界大戦後の冷戦時代に、アメリカとソ連では超能力の研究が軍事力増強の一環として盛んに研究されました。
高度な技術を持った霊媒に敵の軍事機密を探らせようと考えたのです。
ロシアに超能力者が多いのは以前ソ連政府が彼らを養成したからです。
またアメリカの警察には超能力者がいます。彼らの霊視能力で犯人を捜すわけです。
このように世界レベルでは、超能力を現実の力として活用する段階になっています。
この辺の事情は、日本の民放の興味本位の番組にもアメリカやロシアの超能力者が多数登場しているので、皆さんもなんとなく分ると思います。
このような心霊学が盛んになり、「あの世」や「輪廻転生」の研究は現在も行われています。
催眠術も輪廻転生の研究に関与するようになってきました。
精神科の治療の一環に、患者に催眠術を施して幼児期に受けた精神的影響を探って治療に役立てようという「催眠療法」があります。
あるときこの催眠療法を行っていたところ、過去に遡りすぎて、患者が突然過去生のことを語りだしたというのです。
私自身はこの催眠術による過去生の探求がどの程度の信憑性を持っているのかよく分りません。
実はこれと同じような現象がエドガー・ケーシーの「ライフリーディング」でもおこっています。
エドガー・ケーシー(1877 ~ 1945)はアメリカ人で、本業は写真屋でしたが心霊治療で非常に有名な男です。
日本でも彼に関する本が何冊か出版されています。
彼は睡眠状態で患者の病状を把握して、目が醒めてからどういう治療が必要かを伝えるのでした。
睡眠中(スウェーデンボルグと同じように幽体離脱して霊界に行っていたということになります)に患者の生涯の記録を読むというのです。
そしてそのなかには過去生の記録もあったのです。
彼はこの治療を信仰の一環として行っており、謝礼は一切受け取りませんでした。
彼に限らず、信用できそうな超能力者は心霊をメシのタネにしていません。
ケーシーは敬虔なキリスト教徒ですから輪廻転生を否定していました。
ところが、彼が睡眠状態から醒めて患者のことを語る内容に、患者の前世まで言及することが多かったのです。
彼はこの矛盾に非常に悩みましたが、最終的に輪廻転生を確信するようになりました。
現在も輪廻転生に関する研究が盛んに行われています。
残念なのはこれらの研究結果が真実だという確証が得られないことです。
実際に死後の世界を経験してみないと確信が持てないのも当然です。
そもそも科学というのは全て仮説であり、少し前までは真実だと思われていた仮説が覆されるということが頻繁に起こっています。
だからどんな科学的結論も「これは仮説であり、本当のところは分らない」という疑問を絶えず持っている態度が正しいと思います。
輪廻転生は確かに存在するという研究結果も多く出ています。
そのなかに「群霊」というアイデアもあるのでこれをご紹介したいと思います。
スウェーデンボルグのところで書いたように、似た霊どうしが一つの村に集団で住んでいるということです。
そしてこの世に転生した魂は、この村の霊を代表しているのだという説があるのです。
つまりこの霊界の村の霊を寄せ集めた魂がこの世に転生するのであって、特定の霊がそのまま転生するわけではないというのです。
この世の人間は霊界の集団の分霊を集めたものだということになります。
自分が不当に酷い運命を持っているからその分、来世は幸せにならなければ損だと思っている因果応報論者には物足りない結論かもしれませんね。
この先研究が進んでも、輪廻転生が確実に存在するという証拠はなかなか出てこないような気がします。
各人が、個人的に考えを深めていって何らかの推論を持つしか方法はなさそうです。
尚、キリスト教は霊と魂が不可分だとしていますが、この教義と最近の研究で霊にも体があるようだということからその両方を矛盾無く説明しようとする説が出てきました。
「神智学」では、人間の体はラッキョウのように異なる体が幾重にも重なっているのだという説を唱えています。
肉体の外側に目に見えないアストラル体などの体があるというのです。
死して死んだら肉体からは離脱するが、アストラル体などはそのままだというのです。
これだと霊と体は一体だという教義が守れるわけです。
輪廻転生を肯定する研究結果はたくさんありますが、必ずしも過去生の行為で自動的に現世が決まるというものでもないという見解が多いのです。
「教育説」なのです。
つまり不完全な魂をよりハイレベルにする教育のためにそのような環境に生まれ変わるというのです。
例えば、バラモン教や日本の仏教の説話などの古典的な輪廻転生説では、片輪に生まれるとか極貧家庭に育つというのは、過去生での悪行の報いだと解釈します。
しかしこれは魂により広い視野を持たせるためだというのです。
精神障害を持つ体に転生した魂はハイレベルのものが多いそうです。
また前世では金持ちだった魂は、金銭よりも大切な存在に気づくためにわざわざ極貧家庭にうまれることがあるというのです。
現世での状態から過去生を推定するのは間違いなのです。
輪廻転生説といっても古典的な「因果応報説」と「教育説」は全然違うのです。
古典的な「因果応報説」は現実社会の不平等を支える働きをします。
「お前が貧しく力が無いのは前世の悪行の報いだから諦めよ。そしてお前の環境で本分をつくせば来世はもっとよくなる」というのです。
これは支配者にとって非常に好都合な解釈ですから、宗教団体を通じて盛んに宣伝されます。
そして結果としてこの「因果応報説」が主流となっています。
一方の「教育説」では現世の不平等は個人の過去の行動とは無関係で、社会の不正・不平等を是認する理論になりません。
そこから不正を直視し変革を目指す姿勢が生まれます。
インドなど「因果応報説」が支配的な国では社会が停滞しているのも当然なのかもしれません。
日本の仏教も「因果応報説」が主流ですが、仏教そのものの信用が無くなってきましたから、その影響が薄くなっていると考えられます。
これから私自身に関する面白いエピソードを紹介します。
二十年以上前のことですが、当時私は瞑想センターに通っていました。
日本で言えば禅寺の一般公開の座禅会と似たようなものです。
このセンターはイギリスに本部を持つ大組織で、有名な小説家であるコナン・ドイルも設立に参加したものです。
何人かが車座になって瞑想をするのですが、座禅と違って脚を組むのではなく、補助イスを使いました。
瞑想する時間は一時間ぐらいで、その間にかなり有名な霊媒師が感じたことやその者に関係のある霊と交信した内容をメモして、瞑想終了後に発表するというものでした。
時には瞑想中に自分が感じたままを書くという自働書記もやりました。
私は月に一度ぐらいの頻度でその瞑想会に参加していました。
最初は瞑想するのが苦痛で何の結果も得られませんでした。
そしてある時、いきなり脳裏に大きな黒い目玉が私をじっと見据えているのが見えたのです。
私はすっかり魂消てしまいましたが、霊媒師によると霊視能力が出始めるときは目玉が見えるそうです。
その後は瞑想に入ってしばらくすると、額のあたりに様々な映像が浮かぶようになりました。
映画のような鮮やかな映像です。
夕焼けを背景にした古墳など日本に関連したものが多く見えました。
あるとき、瞑想中に感じたことをそのまま書くという実験が行われました。
私の脳裏に「少女」が浮かび、彼女のニックネームと遊んでいる場所のイメージが沸いてきました。
そしてそれが詩になるのです。
私はそれらを感じたままに書きました。
瞑想終了後、私はその詩を皆に発表したところ、隣に座っていたオバサンが大騒ぎを始めました。
彼女は幼い時ヨーロッパに住んでいて、そのときのニックネームが私の詩に出てきたものと同じだったのです。
そして大きな川とその周辺の野原の情景が詩と全く同じだというのです。
このオバサンはガラガラした性格で大きな声で友人のオバサンたちと話をするので私は苦手でした。
ところがその日は私の隣が空いていたので、私は執拗に彼女に隣に座るように薦めたのでした。
私は彼女が苦手なのでこんな行動を本来とるはずがないのです。
なんでこのとき彼女を誘ったのか未だにその原因がわかりません。
彼女も友達のオバサンの隣に座りたかったのですが、私がひつこく誘ったので私の隣に座ったのでした。
そしてこのような「事件」が起きたのです。
あるとき瞑想センターで瞑想をしていて、額のところに映像が浮かびました。
草がまばらにしか生えていない広大なステップを中空から見下ろしているのです。
まるでヘリコプターの上から撮影しているようでした。
そして遥かかなたに煙が立っているのです。
この映像は徐々にズームアップされ、「煙」が大きく見えるようになっていきました。
そしてこの煙は土ぼこりだということが分ってきました。
そしてだんだんに詳細なことが見えてきました。
この土ぼこりは一団の騎馬部隊が走っているために起こっていたのです。
そして一人の騎馬武者が馬に乗っているところがま近に見えるまでになりました。
私はなんとなく「これは私だ」と感じました。
このときちょうど霊媒が私の後ろに立ってノートを書いていたのですが彼女がバタバタと騒いでいることを気配で感じました。
やがて瞑想が終了し、霊媒が私に関してのコメントを発表しました。
最初に「貴方は面白い前世を持っていますね」といったのです。
「貴方の後ろに来たらものすごいほこりで喉がむせてしまいました。
彼の着ていた鎧は日本のものではありませんね。ヨーロッパのものでもありません。インドの北の砂漠地帯のものですね」と言ったのです。
馬を走らせていた男が着ていた鎧は、日本の仏像の周囲に本尊を守っているガードマンのような像が着ているものと似ていました。
あれはインドの鎧だそうです。
彼女は私が見たのと全く同じ映像を見ていたのです。
そして彼女に鎧の知識などないと思うのですが、何故かあれは日本やヨーロッパのものではなく、シルクロードのものだと言ったのです。
瞑想センターで私の前世がシルクロードの騎馬武者だったというようなことを経験したからといって、私がそれをそのまま信じているわけではありません。
それ以上の裏付けが無いので、私にとっては一つのエピソードにしかすぎません。
また前世の「私」は既に小川のジョージに転生しているわけで、霊界に騎馬武者の私がいるはずがありません。
何物かが私の前世は騎馬武者だったというメッセージを送っているわけで、その正体がわからない限りこのメッセージは信用できません。
但し、私は瞑想センターに通って別のことに確信を持ちました。
それは、人間は潜在的に超能力を持っており、少し訓練すれば誰でもそれを使えるようになるということです。
ある霊能者は私が未来予知能力を持っているといっています。
私の予知能力といってもたいした事はありません。
ある会合に出席する直前に、どうにもその会合に出るのが嫌になることがあります。
しかしその気持ちを抑えて出席して非常に不愉快なめに遭ったということが何回かあります。
例えば、今年の3月末に私は何回かお花見をしましたが、そのお花見に関連して起きた事件です。
登場人物をわかりやすいように説明します。
良雄・・私の友人です
ゴンタ・・良雄の知人ですが、環境によるものか人とまともな会話を交わすことができず私は彼が大いに苦手です
良雄とゴンタは一度お花見をしようと約束していて、私もその約束があることを知っていました。
そういう状態の時に、私は良雄をお花見に誘ったのです。もちろんゴンタは誘いません。
私は良雄がゴンタをお花見に連れてきて嫌なことがおきるのではないかと非常に心配しました。
しかし3月末のお花見当日には良雄はゴンタを連れてこなかったので、私はほっとしました。
そして先週、私は良雄とまた会いました。
私は別にお花見をするつもりはなかったのですが、良雄は八重桜がまだ咲いているからそのお花見のつもりだったのです。
そしてそのお花見に良雄はゴンタも招待していたのです。
そして困ったことになってしまいました。
このように私は「お花見で嫌なことになるぞ」ということを予知していたのです。
しかしそれは私が考えたように3月末におこったのではなく、もっと複雑な事実関係の末、先週起きました。
このようにせっかく予知をしていても、それを真剣に考えないと回避できません。
その結果予知どおりのことが起きてしまうのです。
しかし、「これは何かの予知だ」と考えて対処したこともありました。
数年前ですが、有利だと考えて投資をしようとしました。
しかしそれを実行しようとした時に、猛烈な頭痛が三日ぐらい続いたのです。
そこで気力を失い、投資をやめようと考え直したら頭痛は治りました。
元気になってまた投資をしようと思ったら頭痛が復活したのです。
そのとき私はこのサインを真剣に受け取り投資を中止しました。
結果的にはこの投資をしていてもお金を失うということはありませんでした。
これはお金でなく、時間とエネルギーに関する警告だったのです。
投資をすれば神経とエネルギーを使いますが、今考えると、私は他のことにエネルギーを集中すべき時期だったのです。
「この程度の事は私も経験している」と皆さんは思われると思います。
誰でも予知能力はあるのです。
訓練すればそれが鋭くなるという事だと思います。
しかし予知しても、それを有効に活用できる時とできない時があるようです。
私が調べたり経験したりした範囲では、輪廻転生があるか否かはわかりません。
しかし目に見えない世界が存在するということは確信しています。
また、私が輪廻転生という言葉で連想することの一つに源氏物語があります。
三十年近く前に初めて源氏物語を原文で読んだ時、というより本を買った時は文章があまりに難しいので読めませんでした。
その後、円地文子の現代語訳を読んで、そのあまりにも美しい世界に驚嘆しました。
それから何回と無く源氏物語(現代語訳)を読みました。
最初は、空蝉・夕顔・夕霧と落葉宮との関係・宇治十帖などといった華やかな物語が好きでした。
そのうちに源氏物語全体を流れる「因果応報」というテーマに関心が移ってきました。
登場人物全員の運命が、浮き沈みし変転しています。
この運命の変転は平家物語の「諸行無常」を感じさせます。
そして運命の変転にそれ相応の理由があるのです。
光源氏は義理の母である藤壺に子供を産ませますが、晩年に彼の正妻だった三ノ宮が柏木の子供を産んでしまうのです。
彼は運命に仕返しをされているのです。
光源氏の若い時の奔放な生活は須磨・明石への流浪という結果を生み、そこで苦労することによって都に帰ることが出来ました。
明石で彼は明石の上を得、彼女は彼の子供を産みました。
ところが明石の上が産んだ娘を光源氏は取り上げて、当時の正妻である紫の上の養子にしてしまいました。
明石の上の身分が低いために、宮家出身である紫の上の子供にしたほうがこの娘に有利だろうと考えた結果でした。
光源氏のこの処置を明石の上も納得しています。
身分の違いは前世での行いの結果であるという因果応報の教えに納得しているからです。
光源氏と明石の上の間の娘である明石の姫君は、幼い頃に生母から引き離されるという不幸を味わいました。
しかし、これは彼女が後に天皇の正妻(中宮)となることで報われます。
光源氏は決して無理をしません。
彼の生母のライバルで天皇の正妻である弘徽殿の女御は、かねてから自分の息子のライバルである光源氏を敵視していました。
その弘徽殿の女御の妹でいつかは天皇の后にしようと考えていた朧月夜の君を光源氏がきずものにしてしまい、弘徽殿の女御が激怒します。
自分のまいた悪行の種が自分を窮地に追い込んでいることを悟った彼は、無理をして都に留まろうとはしませんでした。
決定的に不利になる前に自主的に須磨に退去しています。
自分と関係した女たちの扱いも無理をしていません。
彼女たちの背負っている運命にふさわしい待遇をしています。
過去の行為の結果である彼女たちの現状に逆らって、一人の女を特別扱いするということがないのです。
最愛の紫の上に対しても、天皇の娘である三ノ宮に正妻の地位を明け渡させています。
これからも分るように光源氏の行動原則は「因果応報」です。
光源氏が日本人に圧倒的な人気があるのは、彼が日本人に深くしみこんでいる「因果応報」の原則に従っているからではないかと私は思っています。
過去の自分の魂の行動の結果として、現世の自分があるという「因果応報」のほうの輪廻転生の思想です。
光源氏や彼を取り巻く登場人物たちは、自然現象である因果応報によって動かされ、人間関係を作り上げています。
そして美しい日本の自然の中で彼らの運命は変転しています。
ここでは自然と人間関係が一体となって、さらに大きな「自然」を形成しています。
私は源氏物語に、日本人の発想の根本にある、自然物の一部である社会に自分のいるべき位置があると考える「あるべきようは」の萌芽を感じるのです。
日本の思想の根底には現状を肯定する「因果応報」系統の輪廻転生説があるようです。
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