武蔵野航海記

武蔵野航海記

続続「日本人のための憲法原論」を読んで

もう一つ、ドイツが「自虐」を克服したのは、周囲の国と共通の価値観を持っているからです。

キリスト教という共通の文化をもっているから客観的な判断が期待できるのです。

人間に対して残虐なことをするという神に対する罪は、ドイツ人が犯してはならないのと同じように、アメリカ人もチェコ人もしてはならないのです。

ですからドイツに対して行った残虐行為を周囲の国も認めざるを得ないということです。

ドイツが「自虐」を克服しつつあるのに対して、日本は非常に情けない状態です。

広島・長崎の原爆や都市に対する空襲による非戦闘員の虐殺に対して、日本政府はアメリカに公式の非難もしていません。

ソ連は日本の捕虜を何の権利もなくシベリヤに連れて行き、強制労働をさせて多くを死なせました。

満州にいた日本の婦女に対するソ連軍の強姦はひどいものだったと聞いています。

支那や朝鮮は、その国にあった日本の財産を没収したまま返そうとしません。

支那の国民党の蒋介石は、日本に対して賠償を請求するつもりはないと宣言して日本人を感激させました。

事実は、日本から没収した財産のほうが賠償でとれる金額より大きいからそうしたに過ぎません。

これらの戦勝国の残虐な犯罪に対して日本政府は(ということは公務員である教職員やマスコミは)非難声明をしていません。

北朝鮮が没収した日本の財産は時価で数兆円になるそうですが、これは日本に返還すべきものです。

しかしこれについて日本人は殆ど知らされていません。

日本人とドイツ人の「自虐」に対する違いはどこから来たのでしょうか?

これは明らかに両者のもっている文化の違いです。

ドイツは言うまでもありませんが、ギリシャ・ローマからの伝統とキリスト教の信仰がベースになった文化を持っています。

その根本には「契約」という概念と「神の正義」があります。

国家というのは「神の正義」を実現するために便宜的に人間の集団が作った組織です。

神の正義の実現を神から委託されたと考えれば王権神授説になるし、国民との社会契約に基づくと考えれば民主主義になります。

いずれにしても、神の正義がルールであり、国家という実体があるわけではなく、最終的には国民一人ひとりに分解されるものです。

ですから戦争で残虐行為が行われた場合は、その罪を犯したのは個人です。

数万人の非戦闘員を虐殺せよという命令があったのなら、罪はその命令を出した責任者個人が負うべきものです。

責任のない下っ端が罰せられることはありません。

国家がこのような大掛かりな犯罪を防げなかったということは、その組織は不出来だということで、人間の幸せに合致するように作り変えればよいわけです。

このようにドイツ人にとっては、国家とは人間の集団を効率よく機能させるための組織です。

国家という実体があるわけではないので、罰せられるのはあくまでも個人です。

このような考え方から、ドイツは戦勝国の裁判とは別に、自国で戦争犯罪人を逮捕し罪を負わせています。

負け戦を起こしてドイツ人を不幸にしたという罪と、神の正義に反することをしたという罪です。

ドイツ人に対する残虐行為が神の正義に反するから、チェコの大統領を怒鳴りつけアメリカの大統領の目の前でアメリカの野蛮さを非難したわけです。

そしてチェコ人もアメリカ人も同じ神を信じ恐れているから、こういう非難が成立するのです。

それでは日本人はどうなのでしょうか?

私のブログや本(日本人の精神風土の起源)に何度も書いたように、日本人の発想の根底にあるのは「あるべきようは」という思想です。

日本の国家というのは、1300年前の律令国家以来、律令制や民主主義といった外来思想を借りて作られています。

これらの制度は、その本場では儒教やキリスト教という価値観を実現するために考え出された機能的なものです。

しかし日本人はこれらの国家制度の思想的な面を理解せず、単に組織を効率的に運用する技術としてしか考えてきませんでした。

制度の根底にあるその民族が持っている善悪の基準には無関心でした。

民族の世界観に根ざしたものではありませんから、古くなり使い勝手が悪くなれば新しいものに気楽に変えてきました。

明治になってそれまでの儒教を変形させた体制を捨て去り、ヨーロッパの社会制度に切り替えたのもその一例です。

そして実際には国家というのも自然の一部として扱っていたのです。

日本人の考える自然というのは、山や川といった自然も、人間や動物・植物をも含み、さらには国家や大きな集団も含めたものです。

そしてそれぞれは自然の秩序のなかにいるべき場所があり、そこから逸脱しないのが正しいと考えるのです。

鎌倉時代になって京都の朝廷など何の存在価値がなくなっても、自然物として存在している以上、分相応にひっそりとしていればその存在を容認しました。

これが「あるべきようは」の思想です。

明治から敗戦までの日本の国家思想は「天皇教」ですが、これは従来の日本人の天皇に対して持っているイメージを作り変えて、キリスト教に近いものにしたものです。

そしてキリスト教を基にして作られた国家制度や資本主義の体制を、キリスト教の神を真似た天皇の思想に接木のように移植したのです。

ところが敗戦によって、この天皇教も効率が悪いということが分かると、天皇という自然物を「象徴」として日陰の存在にし、流行の民主主義に乗り換えました。

また敗戦と同時にやってきたアメリカ軍によって、「日本は侵略国家で悪」という戦勝国の発想もそのまま受け入れました。

これが時代のはやりで、それに従っていれば当面はしのげるからです。

このようにして「自虐」が作られていったのです。

日本にはキリスト教のような絶対的な存在が示す善悪の基準というものがありません。

自分が本来いるべき場所にいれば、他者と紛争が起きず全て上手くいき、これから逸脱して無理をすれば、問題が噴出して上手くいかなくなると考えます。

結局、他者の立場を考えて問題を起こさないようにすることが良いことになります。「相手の身になって考える」ということです。

他者との関係の良し悪しという相対的な善悪しかない社会なのです。

そしてアメリカ人も支那人も朝鮮人も「相手の身になって考える」であろうと勝手に誤解したわけです。

日本人はすぐに謝りますが、謝られた相手も「向こうは謝っていることだから」とそれ以上責任を追及しません。

これは「私は自分のいるべき場所から逸脱しました」という罪の表明であり、これを反省したということは「本来の自分のいるべき場所に戻った」ということです。

相手が「真人間」に復帰したわけですから、相手方としての以後の紛争の原因が取り除かれたわけで、それ以上責任を追及する必要がないわけです。

このような「あるべきようは」という発想を日本人以外は持っていませんから、相手が謝罪したらどこまでも責任を追及してきます。

このような文化的な伝統の中では、ドイツ人のような神の正義に合うか否かというような反省は得られません。

またもう一つドイツと違うところは相手が違うということです。

ドイツの相手はみなキリスト教国で、ドイツと価値観を共有しています。

だから同じ尺度で判断します。

しかし日本の相手である支那や朝鮮と日本は全く違う文化・価値観を持っています。

支那の価値観の根底にあるのは宗族という男系の先祖を同じくする血族集団です。

そしてこの支那全土に散らばっている宗族集団同士を統合して国家を作り上げるのに用いた思想が儒教です。

ですから、儒教の道徳では宗族に対するものが最優先で、それと矛盾しない範囲で皇帝に対する道徳が要求されます。

ところが日本には宗族というものがなく、日本の一族は支那人から見たらまがい物です。

養子によって血族以外のものを平気で一族として扱いますが、支那人には信じられないことです。

日本人の集団の基礎は血族関係にあるか否かに関係なくともに働く仲間は一族だというものです。

これは日本の企業の行動を見れば分かると思います。

支那の道徳のもう一つの基準は、自分との親疎によって扱いを変えなければならないというものです。

宗族関係にあるものは、自分と一番親しいので大事にしなければなりません。

また血縁関係にはなくても親しい友人は大切にしなくてはなりません。

このように支那人の道徳は、自分を中心にして同心円を描いて波紋のように広がる人間関係を前提に作られています。

支那の皇帝が一番大事にしなければならないのは、自分の宗族です。その次は日頃苦労を共にしている忠臣たちです。

外国の国王も支那の皇帝の家来ではありますが、それほど親しくありませんから他人行儀になり、あまり世話をしなくても構いません。

この外国の国王にも親疎の区別があり、朝鮮王とは伝統的に親しく、インドネシアやシャム(タイ)の王様とは親しくありません。

日本はこの支那の皇帝を中心にした国際秩序に組み込まれるのが嫌だったために、1300年前に天皇を名乗りました。

「天皇」というのは「皇帝」と同格です。

支那の皇帝は自分と同格のものの存在を認めませんから、日本の天皇も伝統的に認めていません。

この辺は私の著書「日本人の精神風土の起源」に詳しく書いています。

つまり、日本は伝統的に支那の価値観を受け入れるのを拒否しているわけで、存在自体が支那人から見ると「悪」なのです。

朝鮮は伝統的に支那を宗主国としていて、支那の価値観に従っていますから、支那の価値観に反している日本をヒステリックに非難しているというのが本当のところです。

このように支那や朝鮮と日本は共通の価値観を持っていず、自分中心の政治思想にこりかたまっていますから、日本とまともな話のできるわけがないのです。

こういう状況で「自虐」を発揮するととんでもないことになります。

それはすでに「靖国問題」で日本人もだいぶ分かりかけてきています。

話が少し横道にそれるかも知れませんが、支那人の道徳に関して私の体験を書きたいと思います。

最近は、支那とビジネスをする日本企業が非常に増えてきています。

そして支那側の行動が最初の約束と全然違い、契約書をたてにとって裁判してもらちが明かず、身ぐるみはがされて日本に逃げて帰る企業も増えています。

今から10年以上前のことですが、私は日本の誰でも名前を知っている大企業とビジネスをしていました。

その日本企業が、タイのサイアムグループと一緒になって支那でビジネスをすることになったのです。

サイアムグループというのは、日本には似たようなものがないほどタイの実業界では大きな存在の企業集団です。

王様が筆頭株主で実質的なタイの国営巨大企業です。

新しい分野に進出する時は、その分野で世界のトップ企業と合弁会社を作ります。

自動車ならトヨタ、タイヤならミシュラン、化学ならダウ・ケミカルという具合です。

実はこの会社の幹部は殆どが支那系の華僑なのです。

彼らと名刺を交換すると、表には英語でタイの名前が書かれています(余計な話ですが、タイには苗字がないのですね)。

ところが裏を返すと、漢字で支那式の名前が書かれています。

10年前でも支那人相手のビジネスは非常にリスキーだというのは日本人の間で常識になっていました。

だからこの日本 ― タイ ― 支那のビジネスを危ぶむ日本人は多かったのです。

しかし、サイアムの幹部も支那人だから同じ支那人どうしで何とかなるだろうということでゴーサインが出ました。

サイアム側の責任者の先祖の出身地が、支那側の企業と同じ省だということも安心材料でした。

そして実際にビジネスをやったところ、サイアムは散々な目に遭ってバンコクに逃げて帰りました。

日本の企業は金銭的には出資金を損したぐらいでしたが、技術を盗まれるという相当なダメージを受けました。

そしてこのときに日本人や私は、支那人どうしという関係は支那にはないということが分りました。

日本人どうし、フランス人どうし、お互いに親近感を持ち、商売もうまくいくというのがありますが、そういう関係が支那にはないのです。

後日、私はサイアムの幹部とゆっくり雑談をするチャンスがありましたが、そのときにあの支那での失敗の話が出ました。

さすがにサイアムはあの失敗の原因を徹底的に分析し、出した結論の一つが、支那人の同心円を描いて波紋状に広がる人間関係の道徳なのです。

親しい関係になればなるほどお互いの相手に対する義務は大きくなります。

同じ宗族に属していれば、無条件でお互いが最高の義務を負いますが、血縁関係にないときは実際の親疎によって関係が決まります。

その場合、郷里が同じとか同じ先生に教わった兄弟弟子だという関係は、かなり強力な材料ではありますが、絶対的なものではなく、お互いがどれだけ相手を信頼しているかという個人的な関係なのです。

支那人は民族の違いという意識が希薄です。それは広大な支那で省が違えば言葉も通じず同じ民族という意識を持ちようがないからです。

同じ省でも町が違えば言葉が通じないことも多いのです。

支那というのはご存知のように資源が少なく人口ばかりが多いところですから、昔から競争が激しい社会です。

生存競争が激しいので他人を一切信用しません。

そこで宗族とか親しい友人という狭い範囲でお互いに助け合って生き延びようとする社会なのです。

他人は競争相手ですから、基本的に何をしても良いということになります。

支那の王朝末期の戦乱の時代には人口が1/10や1/3にまで減ってしまうことが何回かありました。

1~3割が減るのではなくて、7~9割が死んで1~3割になってしまうのです。

戦乱で食糧がなくなると、他人どうしが食糧を巡って殺しあい、場合によっては食糧として食べてしまうからです。

支那の企業の幹部から見たら、サイアムの幹部は支那人かもしれませんが赤の他人であり何をしても良い存在だったのです。

結局、支那人の性格を作った根本の原因は激しい生存競争だということになります。

この敵対する他人同士の支那人を治めていくために考案されたのが、儒教であり、ことさらに道徳を強調するのも現実には道徳が守られていないからです。

辛亥革命を指導した孫文は支那人の結束力のなさを嘆いています。

「ヨーロッパ人は手のひらでグッと握れば固まる土のようだが、支那人は手を開けば指の間から落ちる乾いた砂のようなものだ」

日本人は儒教の本だけを読んで、支那を聖人君子の国と誤解し現実をきちんと理解しないので、とんでもない目に合い続けているのです。

第10章「ヒトラーとケインズが20世紀を変えた」で、小室博士は経済を論じています。

そして日本は民主主義が機能していないために、資本主義経済ではなく社会主義経済になってしまっているというのが博士の結論です。

博士はジョン・ロックから説明を始めますが、彼は民主主義の理論を作り上げたと同時に経済学の創設者でもあります。

既に説明したように、ロックの考えた自然状態というのは各人が私有財産を持ち労働によって富を作り出し、自然法というルールもありました。

国家が無くても所有権は存在しているのですから、その所有権を侵害する権利は国家にはありません。すなわち所有権は絶対です。

また国家のない自然状態でも各人は経済活動を行っていて別に問題はありません。

経済は国家とは無関係に発展するわけで、国家が出来ても経済の仕組みを変える必要はないということになります。

ロックの考え方の経済的側面を発展させたのがアダム・スミスで、「自由放任」を主張しました。

経済活動には国家は干渉せず、個人や企業の利潤追求に任せておけば、後は「神の見えざる手」が、資源の無駄使いをなくし最も効率の良い経済状態になるというものです。

このアダム・スミスによって資本主義は理論的な根拠を得ました。

つまり、ジョン・ロックの考えた自然状態は、自然人が社会契約を結んで国家を作るという民主主義という政治思想を生み出し、また「自由放任」という資本主義の理論も生み出しました。

資本主義と民主主義は同じ思想的温床から発生したのです。

そして自然状態で存在している自然人というのは、キリスト教の神を信じ合理的に考える人間を前提にしています。

ジョン・ロックやアダム・スミスの考えた国家の役割は、国民の生命と財産を守ることだけで、極端に言えば泥棒を捕まえて火事を消していれば良いわけです。

これを「夜警国家」と言います。

国家が経済活動に関わらないのが一番良いという夜警国家の思想で、19世紀までは問題がありませんでした。

20世紀初頭までのヨーロッパ経済は高度成長期だったからです。

こういう状態の1929年に大恐慌が起きました。

当時全盛だった古典派経済学は、市場に調整機能が働いてやがて景気は自力回復力を持っているというものでした。

各国政府はその理論どおり経済には手を出さずにじっと待っていたのですが、一向に景気が回復しませんでした。

ここで小室博士はケインズという経済学者の新しい学説を説明し、その弱点やその後現在までの経済学の発展を説明しています。

簡単に言えば、従来の古典派経済学は、経済が拡大し短い不況時を除けば作ったものが売れるという状態では有効に機能します。

しかし、生産方法が進歩して簡単に増産が出来るようになれば、市場は自律回復力を持たなくなるとケインズは考えたのです。

消費する数より生産能力の方が多くなり、このギャップを埋めるには意識的に消費を増やさなければならないわけです。

といって、不況に苦しむ消費者にもっと物を買えといっても、買えないものは買えません。

そこで政府が公共投資に金を使えというのです。

1兆円のプロジェクトを実施すれば、1兆円分生産が増え、民間は1兆円収入が増えます。

一般的には、収入が増えると大体その8割を消費に、2割を貯蓄に廻すので、8000億円消費が増えます。

すると8000億円民間の収入が増え、その8割がさらに消費に廻ります。

このように波及効果が拡大していって、最終的には当初の公共投資の5倍の5兆円の消費が増えることになります。

アメリカのルーズベルト大統領は、このケインズの理論を認めて実施しようとしましたが、大反対にあって中途半端にしかできませんでした。

当時は経済活動に政府が口を出すことは悪いことだと考えられていて、大統領の政策は違憲判決を受けてしまったのです。

一方ドイツのヒットラーは、ケインズの学説など知らなかったのですが、その天才的な理解力から公共投資が不況脱出の道だと理解したのでした。

そしてアウトバーンの建設と軍備増強に金を使って見事にドイツ経済を立て直したのです。

ここまで読むと、今の日本政府のやっていることはケインズの主張通りで正しいということになります。

ところが小室博士は、日本がやっていることはケインズの主張とはまるで違い、彼が日本の現状を知ったら怒りのあまり墓から飛び出してくるだろうと言っています。

ケインズは消費や設備投資という需要を増やす手段として政府による公共事業のほか、利下げをあげています。

金利が下がれば民間企業は銀行からお金を借りて設備投資をするからその分生産が増えるというのです。

ケインズはこの政策を行う上での注意事項をいくつか挙げています。

一つは金利を下げすぎてはいけないということです。

金利を2%以下にしてしまうと、銀行預金をする気がなくなるが、その分消費して楽しむわけでもなく、たんす預金になるだけだというのです。

もう一つの注意事項は、「公共投資を永く続けるとその効果が無くなる」というものです。

あまり永く政府が経済に介入し続けると、その国から経済の自由が消え社会主義になってしまうのです。

社会主義国では、すべてが計画経済で誰も自発的に働こうとはしなくなります。

三番目の注意事項は、公共投資を行う役人が無私で正しい判断をしなければならないということです。

そして今の日本はこの三つの注意事項をすべて破っているから景気がよくなるわけが無いと小室博士は主張しています。

小室博士は、最近3年間の日本の経済状態の若干の改善は全く無視しています。

2003年4月を底にして、株価は上昇しているし、企業業績も回復し、様々な経済指標は景気の回復を指し示しているのです。

現在の景気回復が一時的か本格的なものかを断言する能力は私にはありません。

株価はいい加減下がると自律反転して上がり始めるものだし、企業業績の回復は、個々の企業の努力による部分が大きいです。

ただ事実として言えるのは、政府の負債が1400兆円という途方もない金額になったということです。

年間の国家歳入の35年分でありとても返済できる金額ではありません。

ケインズはこんな日本の状態を予想していなかったのでしょう。

イギリスであれば(ケインズはイギリス人です)、こんな無茶な公共事業をやる政府は信用しないでしょう。

従って政府の国債は買われず、長期間の公共投資などしたくても出来ないからです。

イギリスは国民が社会契約で政府を作ったという思想が浸透していますから、このような状態になる前に政府を変えているはずです。

ところが日本のお金を持っているお年寄りたちは、銀行を未だに信用してお金を預け、銀行はその金で国債を買い続けていてケインズの理論に逆らっています。

日本の銀行が危険な国債を買い続けているということは独自の経営判断をしていないということで、すでに国営企業になっているということです。

お年寄りたちがこんな危険な銀行にお金を預け続けている原因は何だろうかと、私なりに考えて見ました。

一つはお年寄りたちが日本の仕組みを信頼しているということです。

お年寄りたちは敗戦の廃墟から日本を立ち直らせた方たちであり、こういう日本に対して誇りをもっているからだと思います。

またお年寄りたちが若い時には年金制度はまだありませんでした。

その後年金制度ができた当初は強制加入ではなく任意加入だったのです。

その結果、お年寄りたちは自分たちが払い込んだ掛け金よりはるかに多くの年金を得ています。

さらに健康保険制度にしても、自分たちが払っている金額よりはるかに大きな恩恵を受けています。

こんなありがたい政府やそれが行政指導する銀行をますます信頼するようになったということです。

また敗戦後の超インフレで自分たちの預金通帳が紙切れになったことが国家の責任だという認識がありません。

日本人にとって国家とは自分たちが作り上げた機能的な組織だという発想がなく、自然物のひとつだと思っています。

敗戦の原因となった軍部中心の国家は荒れ狂った台風のようなもので、それが過ぎ去ったあとアメリカ軍というもう少しましな自然物が日本を占領したという感覚です。

そして預金通帳が紙切れになったのは台風の被害だという認識です。

政府が公共事業を長期間続けてきた原因は、日本の政治が利権になってしまったからです。

日本では、ともに働く集団が強固な運命共同体を作ります。

代議士は選挙のために政府から地元にお金を取ってくるということをやっていました。

これを長年続けている間に、地元の応援者との間に運命共同体である利権集団を作り上げました。

ですから初代が隠居するとその息子が跡を継いで二世議員が続々と生まれてくるようになったのです。

運命共同体は日本全体の利益より内部の利益を優先しますから、国家財政が破綻する恐れがでてきても公共事業を止めようとしないのです。

三年前から、景気が徐々に回復してきたのは企業業績が急回復して、それが景気回復を主導したという感じです。

莫大な金額の公共投資は、企業が自力で業績を回復できるまでの時間稼ぎだったとも言えると思います。

先の見えない不況を目の前にして、企業は大胆な人員整理を行い、これによって業績は急回復しました。

最近になり、景気が回復するにつれて日本の企業は雇用を増やしてきましたが、この増えた人数の大部分は契約社員であり正社員は減少傾向のままです。

ご存知のように、同じ仕事をしても正社員と契約社員は給料が全然違います。

これは給料が働きに対する対価ではなくで、身分に対する支払いであるということです。

日本人は「共に働き同じ釜の飯を食う仲間は一族だ」という強固な発想が古代からあります。

ともに働く仲間が運命共同体を作り、その存続発展を最優先するという発想が、明治維新後の日本の大発展をもたらしました。

また戦後の高度成長を支えました。

その一方で強固な運命共同体を作った軍部が日本を滅ぼしました。

いずれにしてもどの時代でも日本は運命共同体が基本的な単位だったのです。

そして今回の不況に際して、企業は運命共同体の構成員を見直したのです。

高度成長期は、末端の者や下請け群も含めて全ての労働者を運命共同体に取り込んでいました。

しかしこの不況でさすがに、共同体のメンバーを選別し、多くの者をはじき出したのです。

そして中核部分だけを正社員として共同体のメンバーにとどめたのでした。

このようにして、今話題の「格差社会」が出現しています。

したがって、この「格差」は能力や働きによるものではなく、運命共同体にしがみつけた者と、はじき出された者の格差です。

また、運命共同体に留めるかはじき出すかの判断は単純に個々人の能力を基準にしたものではありません。

能力以前に、各人が運命共同体に所属するという覚悟ができているか否かが重要な基準です。

運命共同体に所属するということは、共同体の利益を他よりも優先するということです。

国の法律と共同体のルールが抵触したら共同体のルールを優先しなければならないということでもあります。

そして企業が法律を犯し刑事責任を追及されそうになると、共同体のメンバーはその責任を一身に背負う覚悟が求められるのです。

すなわち、司法の手が会社の幹部に及ぶ前に中間管理職が自殺するわけです。

このような覚悟を示した者だけが共同体に留まれるわけです。

今回の不況を克服する過程で、日本の企業はそのメンバーを厳しく選別することにより、伝統的な運命共同体をより強固なものにしました。

運命共同体の内部と外部を差別するということは、適用するルールが別だということです。

正社員は身分が保証されていますが、契約社員はいとも簡単に解雇されるということです。

これは全ての人間に同じルールを適用するという近代社会を支えている大原則に反します。

小室博士が主張するように、日本はますます民主主義から遠ざかっているようです。

小室博士は、日本は長い間公共事業を行ってきたために経済が社会主義化していると警告しており、その例として土木業界を挙げています。

公共投資がなくなれば、土木業界はたちまち潰れてしまいます。

こういう状態で規制緩和をしても元来が資本主義ではないのだから効果は期待できません。

それよりも日本人全体が資本主義の精神に立ち戻ることのほうが先です。

そして資本主義の前提になるのが民主主義だから、民主主義をよみがえらせなければならないと博士は主張しています。

結局憲法を復活させなければならないことになるのです。

私は博士の主張に下記を付け加えます。

産業別に生産性をアメリカと日本で比較すると、日本が優れているのは製造業の一部などわずかでサービス業や公共部門などはアメリカより効率が悪いのです。

10%の効率の良い産業が残り90%の能率の悪い分野をカバーして日本を引っ張ってきたのです。

そして今回の不況を通じて、10%の強い製造業はますます強くなり、90%はますます社会主義化しだらしなくなりました。

以前より両者の格差が開いてきています。

そして今や90%の非効率の産業と1400兆円の政府負債が、10%の頑張っている製造業の足を引っ張っているという状態になっています。

この10%の効率の良い製造業にしても資本主義の原則に依拠しているのではなく、運命共同体化を強化して体制を立て直しています。

今後は90%の非効率な産業と1400兆円の政府負債を10%の効率的な産業が支えきれるかの問題になります。

90%の日本人が社会主義化した発想になっていますから、今後の日本はかなり苦しいことになるような気がします。

また、90%があまりにもたれ掛かり過ぎると、10%の製造業が日本から脱出する恐れもあります。

トヨタなど優良企業の経営者は、これ以上企業に負担をかける様であれば、色々な部署の海外移転もやむをえないという発言を繰り返しています。

実際、日本企業が負担している税金や社会保障費用は、外国より相当高いのです。

日本の優良製造業が外国に移転すれば、相手国の大統領以下が大歓迎するでしょう。

小室博士が日本国憲法の復活が急務だと焦っているのももっともです。

小室博士は11章「天皇教の原理」でいよいよ天皇を論じていますが、この11章がこの本の中心です。

小室博士は天皇に関して山本七平先生から多くの示唆を受けています。

私も日本を考える上で山本先生から多くのものを学んできました。

山本先生は別に博士でもなければ大学の教授というわけでもありません。

山本書店という「日本一小さな出版社」の社長さんで、1921年(大正10年)に生まれ十数年前に亡くなりました。

親の代からのキリスト教徒で、青山学院を卒業すると同時に陸軍少尉となり、フィリピンで九死に一生を得たという経験を持っています。

第二次世界大戦のときの日本軍のだらしなさを身をもって体験し、戦後日本とはどういう国なのかをずっと考え続けてきました。

そして30年ぐらい前にイザヤ・ベンダサンというペンネームで「日本人とユダヤ人」という本を出しました。

有名な本なので知っている方も多いと思います。

どうも社会科学の分野で学問的な業績を上げている日本人は、大学の教授でない人が多いようです。

戦後の日本は戦勝国の価値観が強制されたために、大学ではまともな研究ができないという面もあるようです。

在野の先生である小室博士は、この山本先生の考えからヒントを得て、この本の11章を書いています。

結論は「天皇教によって、日本は白人国家の植民地になることを免れ、経済的にも成功した」というものです。

この11章を読んで、小室博士は「日本再生のためには天皇をもう一度神にするのが、現実的な方法だ」と日本人に示唆していると私は感じました。

小室博士は、デモクラシーという政治形態は人類の歴史の中で非常に特殊で、予定説という摩訶不思議な教えを持ったキリスト教がなければ始まらないという話からはじめています。

またデモクラシーが生まれてもそれが順調に育つわけではなく、ナポレオンやヒットラーという独裁者を生み出す要素もあります。

日本人はデモクラシーを当然のシステムだと思っていますが、これは大きな間違いです。

現に、曲がりなりにもデモクラシーらしき政治が行われているのは、ヨーロッパと北米を除けばわずかしかありません。

ではなぜ日本が曲がりなりにもデモクラシーの国になりえたか?

明治維新は、日本の独立を維持するために行われました。

そして当面の課題は、近代的軍隊を持つことと、幕末に結んだ不平等条約を撤廃し日本が完全な主権を持った国としてヨーロッパ諸国に認められることでした。

不平等条約を撤廃交渉のために欧米に派遣された岩倉使節団は、まともに相手にされませんでした。

そして近代国家にならなければ仲間として認められないということを痛感したのですが、近代国家とは資本主義と近代的法体系(民主主義)を備えているということです。

資本主義は近代的軍隊を支える工業力とお金を持つためにも不可欠ですから、以後日本は資本主義体制を目指してまっしぐらに進みました。

そして分かってきたのは、資本主義を実現するのに必要なのはその精神だということです。

資本主義の精神とは、生活のために働くのではなく働くこと自体に意義を見出す発想です。

キリスト教の予定説では神がその人間の職業を決めたのであり、労働は神の命令であり天職です。

だからわき目も振らずに働くのが真面目な信者の務めなのです。

戦前の政府が軍国主義のための保守反動教育を行ったというのはとんでもない事実の捏造だと小室博士は憤慨しています。

明治政府は必死になって資本主義の精神を国民に叩き込もうとしました。

最初はアメリカの教科書を翻訳してそのまま教えましたが、これは失敗しました。

そのときに文部省が二宮尊徳を発見してこれは大成功しました。

二宮尊徳の教えとは「労働は金儲けではない」ということです。

人間は正直に働けば、お天道様はちゃんと見ているというもので、これは江戸時代の鈴木正三や石田梅岩が唱えた「勤勉の思想」そのものです。

鈴木正三や梅岩の心学は私のブログでも書いています。

資本主義や民主主義を実現するためには、更に平等の精神が必要です。

神の前には全ての人間は平等であるという思想です。

ところが日本にはキリスト教の信仰はありませんし、ついこの間までの江戸時代は強固な身分制の社会です。

そこで明治政府は「一君万民」の思想を採用しました。

日本人は天皇の赤子(子供)で皆平等だという発想です。

この一君万民の思想は幕末に生まれてきたもので、天皇の下に日本を統一国家にしようという発想から尊王思想と結びついたものです。

幕末の志士たちは未曽有の国難に直面して、天皇を中心とした政府を作り日本の独立を維持しようと努力しました。

そしてこのために邪魔になる幕府を潰してしまいました。

彼らは下級武士の出身でしたが、日本の独立の邪魔になると分かると自分たちの特権の源である武士の身分を否定することにも躊躇しませんでした。

このように尊皇攘夷運動というのは、昔から続いている伝統であっても不合理なものは打ち破るというエネルギーを持っている思想です。

明治政府は日本を近代国家にするためにこの尊皇攘夷思想を活用し、それを基に「天皇教」を作ったのです。

これと「勤勉の思想」により、日本が資本主義化する思想的背景を作り上げました。

すなわち、

1、 天皇の下の平等 ・・法の下の平等

2、 合理的な精神・・伝統でも不合理なものは廃止する精神

3、 勤勉の思想・・労働は金儲けではなく、神聖な義務で一心不乱に働かなければならない

つまり「天皇教」というのはキリスト教の神の代替物なのです。

そしてこの天皇教の基礎になった尊皇攘夷思想は、江戸時代に作られたもので、山崎闇斎や浅見絅斎という朱子学を日本的に変形した儒者が始めました。

この経緯については私の以前のブログを見てください。

天皇が神格化されたことについては色々なことが言われていますが、そうした既成のレッテルで片付けたのでは、明治の日本がやろうとしたことはわかりません。

もし明治日本が天皇を神格化せずに、単に制度や法律だけを輸入して近代化しようとしたら、大失敗に終わったであろうと小室博士は言います。

第二次世界大戦後、世界中に有色人種の国家が誕生しましたが、ほとんどの国の民主化は失敗しました。

戦後の歴史観では、「戦前の日本を支配していたのは国家神道であった」と考えられていますが、小室博士は明治政府がした天皇の神格化を神道の一変形と考えるのは無理だと考えています。

神道とは自然崇拝の原始宗教で、大木や巨岩などに八百万の神が宿っていると考えているものです。

そして伝統的な神道の考えでは、天皇は皇祖神である天照大神直系の子孫で、いわば神主であってそれ以上ではありません。

ところが明治政府は天皇をキリスト教の神と似た現人神にしたわけですから、天皇教という新しい宗教だというわけです。

確かに小室博士の言うことのほうが正しいようです。

天皇教を国家神道と呼べないことは、明治維新になって古くからある神社のほとんどが政府の手によって破壊されている事実からも明らかだと小室博士はしています。

天皇や国家と関係の深い神社は破壊されなかったが、儀式ばかりか教義に至るまで変更させられたそうです。

その結果、江戸時代までの神道は明治になって消えうせてしまいました。

「天皇は現人神であって絶対である」というのが天皇教の教義です。

そしてそこから、天皇を前にしては一般の日本人はどんぐりの背比べであって皆同じだという「天皇の前の平等」が出てきます。

もう一つの教義は「日本は神国である」というものです。

日本神話では、天皇の先祖は高天原から地上に天下って来ましたがそのときに主神である天照大神はこう言いました。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、吾が子孫が王であるべき地なり」。

つまり、天照大神の子孫が治めることに決まっているこの日本は、神によってお米が良く採れ繁栄が約束された土地だというのです。

これは旧約聖書でユダヤ人に与えられた「約束の地」と同じような概念です。

但し、古代ユダヤの神は条件を付けました。

「神との契約を守るならば」イスラエルの地はお前たちのものだという条件です。

ところが、日本神話ではこのような付帯条件がありません。

つまりどんなことがあっても日本は栄えるし、天皇が駄目な男でも日本を統治し続けるというのです。

これは予定説です。

これは元寇を撃退したりして異民族の支配を受けなかったことにより証明されています。

キリスト教の予定説を信じたヨーロッパ人は神の栄光を信じてこの世に怖いものがなくなったように、天皇教の予定説を信じても怖いものがなくなりました。

「神の国」だという安心があったから資本主義化やデモクラシーに向って突進していき、その成果が日清戦争や日露戦争の勝利という形で得られました。

そして日本は「神の国」だという確信がますます強くなっていきました。

ヨーロッパの近代に宗教改革が起こり、予定説を信じたプロテスタントは、従来のカトリック教徒だったときとは人が変わってしまいました。

真面目になり、よく働くようになり、また合理的にものを考える様になり、不合理なものに対して徹底的に抵抗するようになりました。

幕末・明治維新にもこれと同じことが起こりました。

下級武士たちは、「神の国」を作るために自分の所属していた藩の利益に反してまで命がけで奔走しました。

そして維新後は武士の特権をすべて捨ててしまいました。

明治4年に行われた廃藩置県を見てイギリスの公使だったパークスは「天皇はまさに神である」と驚きました。

明治維新は尊皇思想によって成し遂げられましたが、その思想を信じていたのは、武士の一部だけのごく少数でした。

多くの庶民には尊皇思想など関係がなく、伝統的な価値観をもち続けていました。

この伝統主義を打ち壊し、日本を近代資本主義国家にするために、尊皇思想を「天皇教」に変えたのが伊藤博文でした。

博文は憲法制定のためにヨーロッパに勉強しに行き、近代ヨーロッパ憲法思想の背後にあるのがキリスト教であることを理解しました。

しかし、日本にはキリスト教がないし、他にしっかりした宗教もないので、天皇をキリスト教の神の代替物として明治憲法を作ったのです。

このへんの経緯については私もブログ(明治憲法)に書きましたので、読んでください。

小室博士も指摘していますが、天皇をキリスト教の神の代替物にすることには大きな問題があります。

ヨーロッパの憲法は、国王が勝手なことをしないようにその権力を制約するためのもので、国王と国民の契約です。

ところが「天皇教」では、天皇は神であり何物にも拘束されないものです。

この神にどうやって憲法を守らせたら良いかというのが大問題なのです。

そこで明治憲法は他の国の憲法には見られない特殊な契約になっています。

すなわち、明治天皇が先祖である皇祖(天照大神)、皇宗(歴代の天皇)、皇考(明治天皇の父である孝明天皇)と契約を結びその遵守を誓ったのです。

国民と天皇との契約ではなく、天皇とその先祖との間の契約になってしまいました。

明治憲法は、天皇と国民の契約になっていなかったために、「憲法とは国家の行動を縛るものである」という意識が日本人に最後まで定着しませんでした。

これが結局昭和になって軍部が天皇の名をかたって日本を敗戦に導いてしまったのです。

この明治憲法との関係で、小室博士は天皇には戦争責任はないと断言しています。

私も同じ意見をブログに書きました。

明治憲法体制下の国家を「立憲君主国」と呼びますが、これは憲法によって君主の権力を制限する体制です。

紙に書いた憲法があるか否かでなく、実際にその憲法が有効に君主の権力を制限しているかどうかで立憲君主国か専制君主国かを判断しなければなりません。

そしてその判断のポイントは「拒否権」だと小室博士は言います。

政府の決定に対して、君主が拒否権を発動できるのであればその国は立憲君主国ではありません。

明治憲法の55条には、「国務大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず」という規定がありましたが、輔弼とは君主の行政を助けることです。

これは天皇に最終決定権があるとの解釈もできますが、憲法の場合大事なのは慣習です。

つまり天皇が拒否権を発動することが実際に許されていたかという点が問題なのです。

天皇には拒否権がなかったとして小室博士は、日清戦争の時の事件を証拠に上げています。

私はこの事件を知らなかったので非常に驚きました。

日本の軍部や外務省は断固として清と戦うつもりでしたが、明治天皇はもう少し外交交渉をやってみるべきだと考えていました。

一方の政府は明治天皇の意向など無視して開戦の準備を進め、ついに明治27年の7月25日に日本軍は清軍を攻撃することにしました。

この情報を入手した明治天皇は大いに怒って伊藤博文首相に攻撃中止命令を出せと命じました。

さすがの博文もこれには恐れ入って攻撃中止命令を参謀本部と外相に伝えました。

ところが陸奥外相はこの天皇の命令を握りつぶして発信させませんでした。

かくして日本軍は清軍を攻撃し戦争になりました。

明治天皇はこれにむくれかえって、本来なら皇祖・皇宗・皇孝の陵に開戦の報告をする勅使を出す予定だったのですが、「これは朕の戦争ではない」といって勅使を出さなかったそうです。

この開戦の直後、伊藤内閣は閣議で対清開戦を正式決定したのですが、明治天皇は黙って裁可したそうです。

このときに明治憲法55条の解釈が確定し、日本の立憲君主体制も確立したわけです。

だから憲法という観点から見たら天皇に戦争責任などあるわけがありません。

「もし昭和天皇が日米開戦を拒否してくれたら敗戦は避けられた」という人がいますが、それをした瞬間に日本は天皇独裁の国になってしまいます。

日清戦争の時に日本の立憲君主制度が確立しましたが、当時はまだ薩長の藩閥政治が行われていました。

その後、「天皇の前の平等」という特殊な前提ではありましたが、デモクラシーの考え方が育ってきました。

そして大正の初期に、尾崎愕堂(がくどう)が有名な桂内閣弾劾演説をして藩閥政府を崩壊させました。

そしてその後は、平民出身の衆議院議員が首相になる政党政治が行われるようになったのです。

この「大正デモクラシー」が昭和に入って消えてしまった理由を小室博士は第12章「角栄死して、憲法も死んだ」で書いています。

戦前の日本は天皇教が支配していましたから、「民主主義」というのは恐れ多いとして「民本主義」という言葉を使っていました。

小室博士は、「国民の代表たる議会が権力を縛るという意味では、民本主義は紛れもなくデモクラシーであったのです」と書いています。

しかし私は、これは言いすぎだと思います。

デモクラシーの根本にあるのはキリスト教の信仰です。そしてすべての人間は神と向かい合って緊張した関係を持っています。

最後の審判で、各人は自分の行いを神に申し開きしなければならず、他人の弁護は期待できず、他人の行動を弁解のために使うこともできません。

人間は一人で神に立ち向かわなければならず、神は人間をそれに見合うように独立した者として作りました。

ジョン・ロックの言う「自然人」とはこういう者で、自分のことを自分で決める権利を本来持っているものです。

ですから社会契約とは、各人が持っている権利の一部を国家に委託したという構成になっています。

こういうデモクラシーの考え方と「天皇の赤子」とは発想がまるで違います。

小室博士は勿論この違いを承知しているはずです。

しかし、博士は日本国憲法を復活させる希望を日本人に残すためにあえて大甘の評価をしたのだろうと私は思います。

いずれにしろ博士の書いた本の内容を説明していきます。

大正デモクラシーとの関連で考えた時、大きな転機となったのは昭和11年(1936)に起きた2・26事件です。

このクーデターは昭和天皇の緊急避難的な措置により未遂で終わりましたが、この事件を見て世間は軍部批判を差し控えるようになりました。

ことにその傾向が強かったのがマスコミで、軍を批判すればどんな目に遭うか分らないと自己規制を始めたのです。

世論も軍人の「憂国の情」をほめたたえる声は強かったのです。

2・26事件の6年前から大恐慌が始まっており、当時の日本にはケインズも天才ヒットラーもいなかったので、政府も議会も議論を重ねるだけでした。

こうした状況を見て日本を議員に任せておけないと考えたのが軍人で、これらの軍人を支持する国民が増えてきたのです。

ナポレオンやヒットラーのところで説明したように、国民の多くが「デモクラシーなどいらない」と考えたらどうしようもありません。

こういう風潮に対して、「議会こそが自由の最後の牙城」として戦った気骨のある国会議員が何人かいました。

その例として小室博士は、「腹切り問答」の浜田国松代議士と「反軍演説」の齋藤隆夫代議士をあげています。

2・26事件の翌年の昭和12年に浜田議員の演説を聞いた陸軍大臣が、「浜田君の演説の中に軍人を侮辱する発言があった」といったのです。

これに対して浜田議員が「軍を侮辱した発言があったら私が腹を切るが、なかったら君が切腹せよ」とやったのです。

これで議会は大混乱になり、陸軍は議会の解散か浜田代議士の政友会からの除名のどちらかを首相に迫りました。

そして処置に困った広田内閣は総辞職してしまいました。

しかし浜田代議士は何の懲罰も受けませんでした。

明治憲法の52条には、議員が議会内で行った発言に対して院外で責任を問わないという規定があってそれが守られたからです。

「腹切り問答」の3年後の昭和15年に齋藤隆夫議員は「反軍演説」をしました。

「昭和12年から始まった日支事変では戦死者が10万人を超えている。

軍はこの事変を聖戦と呼んでいるようだが、戦争には正しいも悪いもない。

問題なのは戦争で日本は何を得るかである。ところが政府は支那の主権を尊重し、領土や賠償を要求しないといっている。

それではいったいここまでに浪費した軍費や損害をどのようにして埋めるつもりか」という理路整然とした内容でした。

ところが衆議院本会議は、齋藤代議士の発言は「聖戦目的を侮辱するものだ」として彼の除名を決定し発言は議事録から削除されてしまいました。

それだけでなく議会は「聖戦貫徹に関する決議案」を可決しました。

言論の自由が議会の砦であるはずなのに、その砦を議会自らが明け渡したわけで、「議会の自殺」です。


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