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武蔵野航海記
「日本人のための憲法原論」を読んで 6
社会や国家という人間の集団は組織を持っていますが、通常その組織は彼らの価値観から導き出されます。
ローマの組織は、その中に住む雑多な民族の思想を包括する共通の正義を実現するような組織になっていました。
支那の組織も儒教の教えを実現する組織になっていましたが、7世紀の時点では、律令制度という具体的なものになっていました。
当時の日本は部族連合とでもいうべき頼りない組織だったのですが、それを統一された強力なものにしようとして、この律令制度を支那から輸入しました。
このようにして左大臣や大納言などの中央官僚や国司という地方行政官の役職ができました。
班田収受を実施して税制を確立し、律令という法体系を支那からほとんどそのまま輸入しました。
またインドに発生した仏教が支那に入り、本場のものから変質した仏教も導入しました。
インドの仏教は世俗には背を向けてひたすら修行をするというものだったのですが、支那仏教は国家から庇護を受ける代わりに国家を精神的に支えるものになっていたのです。
この変質した支那の仏教も日本は輸入し、「国営仏教」として普及に努力しました。
さらにこれらの制度を充実させるために、頻繁に留学生を送り支那の制度を学ばせました。
このように儒教の教えを実現する道具としての律令制度を整備していきました。
律令制度は道具ですから、現実の社会に合わなければ変更すべきものですが、儒教の教えとの整合性をとって変えていかなければなりません。
律令制度は支那の社会に合わせて作られたものですから、日本で実施してみて多くの不具合が出てきました。
従って日本の現状に合うように大修正が必要です。
ところが肝心の基になる儒教を理解していませんから、どう変えたら良いか分らなかったのです。
また根本の思想を分っておらず道具である律令制度そのものを権威としてしまいましたから、よけいにそれを変えるのが難しかったのです。
だから何と日本政府は律令を変えずにそのままに放置したのです。
そして日本の実体に合わない律令の規定は無視しました。
またどうしても必要な組織は、律令に追加規定するのではなく、「令外官(りょうげのかん)」として新設しました。
律令に規定の無い組織という意味です。
この令外官には、関白・内大臣・中納言・参議・征夷大将軍・検非違使などがあり、どれも非常に大きな役割を日本史上果たしたものばかりです。
日本人は律令制度を修正せずに放置し無視するようになりましたが、それが廃止されずに名目だけでも存在したために人々の邪魔になりました。
大きな岩が道の真ん中に鎮座して往来の邪魔をしているようなことになったのです。
そうして日本人は、国家組織を日本人の正義とは無関係に存在する自然物と考える様になってしまいました。
日本の周囲に支那以外に大勢力があって別の世界観があったならば、儒教は支那人だけに通用する正義だと相対的に見ることもできましたが、当時の日本の環境はそのようにはなっていませんでした。
ですから、共通の正義を作り上げて人間の集団を規律あるものにするという普通のやり方を採らなかったのです。
そして共通の正義が無い状態で、人間同士の関係を円滑にする方法として「あるべきようは」という発想が出来上がりました。
社会も国家も個々の人間も自然物で、それぞれが自然の中で本来自分がいるべき場所にいるのが正しいという「感覚」です。
自分のいるべき場所・果たすべき役割が客観的に規定されているなら、これは「世界観」です。
キリスト教の正義や支那の道徳はこういうものです。
自分も他人も同じようにその正義を理解できるようにするために「聖典」を持ち、大原則から徐々に細かく規定するという体系的な構造になっています。
キリスト教の「聖書」、ローマの「ローマ法」、儒教の「四書五経」などがそうです。
ところが日本人は、この体系化ができませんでした。
日本人の正義を体系化するには儒教を否定しそれに匹敵する正義の体系を作らなければなりませんが、そのような環境にいなかったからです。
その結果、人間の集団の中で自分のいるべき場所・果たすべき役割を感覚的・直感的に理解しようとしたのです。
一番簡単に自分があるべき状態を見つける方法は、大勢の意見が一致することです。
自分と相手の意見が一致すればそれが正しいのです。
ですから日本人は「相手の身になって」相手と意見を一致させようとします。
10人全員の意見が一致すればこんな素晴らしいことはありません。
しかし8人は賛成したのに二人が反対の場合は、正義の原則に照らして少数派を説得することができません。
こうなると少数派は「我を張って」正しくない状態にあるということになります。
そうして二人を村八分にします。
日本人は、大勢が正しいとしている意見に自分が賛成できないとき、「ひょっとしたら自分はあるべき場所にいないのではないか」と不安になります。
あるべき場所にいないと判断されたら村八分という制裁に遭いますから、非常に厳しい選択を迫られるわけです。
そして自分の本当の気持ちを抑えて大勢に合わせようとします。
このようにして「空気」が出来上がるのです。
「そんなことならいっそこと、儒教とかメモクラシーという建前を廃止してすべて話し合いのやり方を採ったらよいではないか」という意見が出てくると思います。
しかし何千万という人間が話し合いをして結論を出すのは不可能です。
ですからたとえ建前だけでも原則は必要で、それで日常の生活を円滑に進めるわけです。
日本の法体系がヨーロッパからの輸入品で、それで民事紛争や刑事事件を処理しているのはこの一例です。
しかしこの輸入の体系を日本人は理解しているわけではないので、国家の基本的な戦略を決める基準とはなりません。
日本国憲法が機能していないのはこういう理由です。
国家組織の原則が日本の本当の原則ではありませんから、古くなったら新しい舶来品と交換しました。
これが日本の歴史のエッセンスです。
儒教やデモクラシーは輸入品で日本の実情に合いませんから「令外官」が必要ですが、これはなにも平安時代だけにあったものではありません。
現代の「令外官」として、自衛隊と国立大学があります。
日本国憲法は輸入品ですが、その鬼子として憲法第9条があり国防軍を禁止しています。
そしてデモクラシーの原理を理解しているわけでなく、憲法という道具自体を「権威」にしていますから、それを変えることが出来ません。
そこで「日本国憲法」という新しい「律令制度」を無視し、自衛隊という令外官を作ったのです。
日本国憲法第89条は、教育の為に税金を使ってはならないと規定しています。
アメリカの有力な大学は私学で、税金の受け取りをむしろ積極的に拒否して卒業生などの寄付で運営されています。
これはヨーロッパの「大学の自治」から来たものです。
89条はこの考え方ですが、とうてい日本人の感覚と合わないので国立大学が令外官としてあるのです。
日本の大学は私学も含めて国からお金をもらっています。
国がパトロンなわけで、パトロンの意向を無視できるような状況ではありません。
ですから、「大学の自治」がないのです。
日本人が、自分たちの正義の体系を作り上げず、外国の価値観を都度輸入してきたのは、今までに説明した事情からです。
そして外国の価値観はどうしても日本人の腹に入りません。
儒教を日本人は千年以上学び続けましたが、ついに理解出来ませんでした。
日本人はデモクラシーが如何なるものであるかも理解していませんが、これは「日本人のための憲法原論」で小室博士が説明した通りです。
日本人がデモクラシーや儒教を理解できないのは、これらの思想と「あるべきようは」とが基本的なところが正反対だからです。
デモクラシーや儒教はそれぞれの背景に正義の体系を持ち、それを社会で実現する組織論です。
国家とはキリスト教社会や支那社会の正義を実現するために人間が作り上げた機能的なものです。
一方日本の「あるべきようは」は、日本人に共通する正義を前提としていません。
自分のいるべき場所を直感的に知るのが「あるべきようは」ですから、輸入品のデモクラシーや儒教を声高に主張するのは、かえって「あるべきようは」に反するのです。
ですから、「あるべきようは」という「感覚」をそのままにして、デモクラシーや儒教を導入するのは初めから不可能なのです。
明治政府は、日本に資本主義とデモクラシーを導入するためにキリスト教の代替物として天皇教を作りましたが、70年後の敗戦で消滅してしまいました。
戦後になってアメリカが日本にデモクラシーを定着させようとしましたが、見事に失敗しています。
日本人が、デモクラシーを理解することは良いことです。
完全に理解することは無理ですが、世界の大勢を占めている思想ですからそれを少しでも理解することは有意義だと思います。
しかし、デモクラシーを理解する努力とそれを日本に定着させる努力を混同してはなりません。
明治以後、日本は二度にわたって非常な危機を迎えていますが、これは日本に正義の体系がないからです。
正義の体系がないから、強力な運命共同体の独走を日本人が抑えることが出来ないのです。
運命共同体は、日本全体の利益より自分たちの共同体の利益を優先します。
戦前最大の運命共同体は軍部でしたが、日本人は彼らが自分たちの組織の利益を優先して日本の利益に反することをするのを阻止できませんでした。
そして戦後の最大の運命共同体は官僚組織ですが、今の日本は彼らの独走を抑えることが出来ていません。
官僚を抑えるべき国会議員や県会議員自体が、選挙区の幹部と運命共同体を作り上げてしまい、地元に税金を呼び込むことばかりに熱心で本来の役割を果たしていません。
このように日本人が強力な運命共同体の行動を抑えることが出来ないのは、日本人全体の正義の体系がなく、「あるべきようは」で行動しているからです。
日本の「あるべきようは」という「感覚」と輸入品のデモクラシーや儒教などの「思想」は相容れず二者択一の関係です。
従って、日本人がまずしなければならないのは、「あるべきようは」という伝統をそのまま維持するか改めるかを判断することです。
こういう判断を抜きにしてデモクラシーを形ばかり日本に定着させようとするのは無意味です。
日本の中には様々な運命共同体が存在しています。
企業・中央官庁・地方自治体などで、これらは自分の共同体の利益のために頑張っています。
運命共同体は絶えず他の運命共同体や個人と接触して、お互いの関係を作りつつあります。
そのときに「あるべきようは」という発想で互いの納得した関係を都度作り上げているのです。
その関係は確定した原則から導き出されたものではありませんから、状況によりまた両者の関係により絶えず変化します。
ある運命共同体が力をつけてくると、他者との関係もそれにつれて変化してきます。
以前は容認されなかったこの運命共同体の行為が黙認となり、次に容認になり最後には積極的な支援となって行きます。
そこには、日本全体に共通する正義からそういうことがあってよいか否かという視点がありません。
だから特定の運命共同体が力をつけてくると、それを有効に制御することができなくなり、それに引っ張られてしまうのです。
日本人というのは、様々な優れた特性を持つ優秀な民族だと思います。
日本列島という特殊な環境の中で、自分たちの文化を発展させ「あるべきようは」という発想も作り上げました。
「あるべきようは」というのは、閉鎖された社会ではそれなりに有効な仕組みだったかもしれません。
しかし現在のように日本が外国と様々な交渉をしなければならなくなるとこれがマイナスになります。
外国との交渉は平和な中での貿易や文化交流もありますし、戦争という激しい関係もあります。
こういう中で、「あるべきようは」という発想は日本を潰しかねないのです。
官僚の腐敗というのも、鎖国状態では日本を潰すことにはなりませんが、開国すると外国との競争という新たな事態に対応できなくなります。
江戸幕府という日本の中央政府は黒船が来る前から機能しなくなっていました。
黒船が来て外交・戦争という問題が新たに出てきたとき、まるで有効な方針を打ち出すことができず、日本全体に非常にマイナスの存在となってしまいました。
日本人同士のあいだでうまくいっているから、「あるべきようは」はそれで良いではないかという議論にはならないのです。
私は「あるべきようは」という「感覚」はこれからの日本には良くないと考えます。
キリスト教や儒教などの世界観は、その内容を客観的に明らかにし誤解が起きないように体系化しています。
このためにローマ法・聖書・四書五経などの「聖典」を持っているのです。
日本人も、正しいと考えていることを体系化するべきなのです。
そうすれば、誰もがその内容を客観的に知ることができるようになります。
そして特定の運命共同体が独走しようとしても、体系化された日本人の正義でそれを抑えることができます。
日本は1億人以上の人口や素晴らしい経済力と永い伝統を持っています。
また勤勉さや優しさ、美に対する鋭敏な感覚など優れた特性を持っています。
ですから、日本人の正義が体系化できれば、これはデモクラシーや儒教などの思想と肩を並べるだけの影響力を持つ思想になります。
それを、日本人の良いところを全て置き去りにして、輸入品を追いかけるのは壮大な無駄以外の何物でもありません。
これを実現するには「あるべきようは」という「感性」を変えていかなければなりません。
実はこの「あるべきようは」という感性を日本人に叩き込んでいるのが「型にはめる」というやり方だと私は思っています。
馬が草を食い、蚊が血を吸うのは自然なことで、自然物はすべて型を持っていると考えるのです。
「人間にはあるべき型がある」と日本人の精神的性癖を喝破したのは、江戸時代中期に心学を興した石田梅岩です。
「あるべきようは」という「感覚」とある原理から考える「思想」とは相容れません。
「あるべきようは」というのは、関係する人間がすべてこの感覚を身に付けていないと成立しません。
感覚的にあるべき状態を受け入れずに「理屈」をいう者がいては、全体の「あるべきようは」の秩序が保てないのです。
ですから「あるべきようは」という行動原則を受け入れないものは排除します。
これが「村八分」です。
そして、その人間が「あるべきようは」を受け入れているか否かを外観から判断する基準が「型」なのです。
一定の立場・役割を持った人物が期待されている「型」を守っていれば、この人物は「あるべきようは」に従っていると判断されます。
いわば「型」は「踏み絵」であり、「あるべきようは」と「型にはめる」は、表裏一体の関係なのです。
このあるべき型があるという考えは日本人の心理の根底に根強くあります。
茶道は、自然物としての人間が本来持っている発想を型で表現しようとしたものです。
茶道をマスターすれば、自然に「あるべきようは」の感覚が身に付くというわけです。
剣道でも歌道でもおよそ「○○道」というのは、人間が本来持っている「人間性」を型にしようという発想です。
高校野球の選手は坊主頭でなければならず、「正々堂々と」野球をしなければなりません。
高校生の球児の一途さは坊主頭に現れるわけです。
甲子園で選手代表がする「選手宣誓」は、毎年全く同じで「型」にはまっています。
日本人がなにか技術を習得するときは、皆これになってしまいます。
「極める」とはこの「型」を会得し、更には自然と一体となる感覚を会得することなのです。
絶対的な原則がある社会ではこういう現象は起きません。
剣術は敵を殺す技術というだけのものですし、食事の作法というのは育ちがいい事を示す振る舞いでしかありません。
こういう瑣末な技術が人間の生き方・思想となることはないのです。
日本の社会は無意識のうちに若者を「型にはめる」教育をしています。
日本の中学校や高校が生徒の服装や髪型にやたらにうるさいのは、「この型にはめる」という発想を叩き込もうとしているのです。
若者の服装にうるさいのは何も日本だけではありません。
どこの社会でも外見から人間を判断しようとしますから、その場に合った服装は社会で生きていくためには必要な知識だからです。
数学や音楽といった科目の同じように服装という「科目」ですから、出来の悪い生徒に対してはそれまでの話です。
アメリカの場合でいえば、服装が不適切というのは数学の出来が悪いのと同じで馬鹿にされますが懲罰はされません。
懲罰されるのは学校のルールを破った時です。
しかし日本の場合は、服装がだらしないと懲罰の対象になります。
これは服装という「型」が社会の掟となっていることを示しています。
中学校や高校の服装や髪型を巡る騒ぎは非常に大きなものですが、これは日本の若者にとって「型にはまる」ことが非常を苦痛だからです。
日本人は生まれた時から「型にはまっている」わけではありません。
まさに日本人の発想である「あるべきようは」を叩き込んでいるのです。
この場合、「型にはまる」ことが大事だということを理路整然と説明されることはありません。
せいぜいこれは「日本の伝統的な美しさだ」とおしえられる程度です。
その一方で、「民主主義」とか「自主性」などの大切さは輸入理論で教えられます。
この「型にはまる」というのと、「民主主義」の自由や「自主性」はまるで整合しません。
一方は「感覚」であり、もう片方は「思想」ですから、整合するわけがないのです。
これでは教わる若者が納得するはずがありません。
若者の服装の乱れを嘆く教師や親は、自分たちの無意識の価値観が若者たちに受け入れられないことをもっと深刻に考えるべきです。
自分たちが理路整然と説明できないで、自分たちも若い時は反発していたことを若者に強制しているのです。
ここから分ることは、日本人にとっても「型」にはまるのはつらいということです。
素直に型にはまった子供が良い子で、これを拒否した若者が落ちこぼれになります。
そしてこの「型」「あるべきようは」を受け入れた良い子たちが運命共同体に所属し、従来の日本社会を維持していきます。
そして、「落ちこぼれ」との間に日本的な「格差」を作っていきます。
これではいつまで経っても、強力な運命共同体の利害で日本全体が害されるという図式を断ち切れません。
「型」にはめられた日本人は没個性的になって行きますが、これは単に個性的な魅力が無いとか面白くないとかの問題だけではありません。
日本人の正義を作り上げる上での大きな障害になっているのです。
今の日本では体制に批判的な者を「左翼」と称していますが、彼らの主張はつまるところ「型」や「あるべきようは」への反発です。
この左翼たちは自分たちの反発の本当の原因を自覚できなくて、輸入品の「デモクラシー」「人権」などの言葉を使って体制を批判しているわけです。
しかし本来「デモクラシー」や「人権」は、国家権力と個人をどう関係付けるかという思想で、「型」と対決するものではありません。
だから彼らの主張はピントが外れており説得力がないのです。
例えば、「自衛隊・戦争反対」という理由にしてもそうです。
戦前の日本人は軍部という強力な運命共同体が日本を支配してしまって、国民が非常に苦しみました。
当時の日本人は特定の運命共同体の暴走を阻止できなかったのですが、現在も国民性は変わらないから今度も軍隊の暴走を阻止できないだろう。
だから「軍隊反対」だという主張です。
日本人は、強大な運命共同体の支配を阻止できない国民性だということが分っているわけです。
そこで同じことが今後起きないように「民主主義だ」「人権だ」と輸入品の言葉を使うわけです。
そうであれば日本人の正義を作り上げて、強力な運命共同体が独走できない国民性を持つようにするべきです。
ところがそう考えるのではなくて、軍隊そのものを否定するわけです。
外敵に対する防衛力を放棄するということは、一番大事な正義である国民の生命財産を守ることを放棄するということです。
こんなおかしなことを言っているので信用を失っているわけです。
そうして、ことさらに日本軍の悪逆振りを自国民に宣伝し国益を害しているわけです。
シビリアン・コントロールが確立したら日本軍を復活させるという説明をするのでしょうが、そのために「民主主義」を導入するわけです。
しかし「民主主義」の本質が分っていませんからどうしようもありません。
「民主主義」はキリスト教というれっきとした宗教です。
ところがインテリ日本人の通例として「宗教は悪だ」と信じ込んでいますから、正義の根源である絶対的な権威を持てないわけです。
このようにして辻褄の合わないことばかり言うようになるわけです。
日本人は、国家が自然物で既にあるものと思っていて、国民の正義を実現する道具だという発想になっていません。
従って、政府を自分たちの正義・利益のために絶えず作り変えていくという発想がありません。
日本が戦争に負けた後、日本人はアメリカ軍の占領を歓迎しました。
昨日まで激しく戦っていた敵を今日は大歓迎するというのは壮大な奇観で、単に強者に媚びるというだけでは説明できません。
アメリカ軍が日本の軍部を退治してくれたというわけで、マッカーサー神社を作って占領軍の司令官に感謝したのです。
自分たちが出来なかった政府を変えることを外国人がやってくれたのです。
現在のアメリカの大統領の父親であるブッシュが大統領として日本に来た時、ある財界人は彼にこう言いました。
「我々日本人はアメリカに親近感を持っている。戦後の物資が乏しい時に食糧を恵んでくれ、民主主義を恵んでくれた。」
日本人自身が国家の行動を変えられないので、変えようとするときは外部の力を利用します。
いわゆる「外圧」です。
日本の国家という岩のような自然物を変えたり位置を変えようとするときは、「外圧」という台風を利用するわけです。
この発想はいわゆる左翼も同じです。
支那やソ連といった共産党が支配する国家体制のほうが、アメリカ式の国家より良いという言い方で、現在の日本政府を非難しました。
支那をモデルとして日本の現状を非難するわけですから、モデルたる支那は理想の状態でなければなりません。
だから理想とすべき国の都合の悪い現実は全て隠蔽します。
試みに三十年ぐらい前の新聞記事を読んでみるのも良いと思います。
当時の大新聞は、「毛沢東の指示で全ての支那人は蝿退治を行い、支那には蝿がいなくなった」と書いています。
このように洗脳された日本人が最近になって支那を旅行し、トイレの不潔さと蝿の大軍の襲来に魂消たわけです。
また、支那が異民族の国である満州・チベット・ウイグルを軍事力で侵略し、独立運動を弾圧しているということを、今でも大新聞は殆ど記事にしていません。
結局、現状に批判的な「左翼」も支那やソ連を理想郷として、日本への「外圧」として利用したのです。
最近になり、支那やソ連の現状が国民に明らかになってきたので、彼ら左翼は以前のような元気がありません。
日本人が国家を自然物と考えるのは、「あるべきようは」という発想からです。
またこの「あるべきようは」は今の日本に大きな不幸をもたらしています。
そしてこの発想を育成しているのが、「型にはめる」という考え方です。
結局、私は今の日本に必要なのは「型にはめる」強制をなくすことだと考えます。
これによって多くの日本の若者をたまらなく憂鬱にし、彼らの能力を押しつぶす不幸の原因を取り除くことができます。
さらに「型」への強制をなくすことによって「あるべきようは」という感覚を弱めることができます。
「型」への強制を止めるということには、現に存在する日本独特の「型」の内有害なものを取り除くという行動も含まれます。
文化を発展させるというのは、従来からあるのもの一部を破壊し新しいものを付け加えるという破壊と創造の両方が起きるということです。
この活動は非常にスケールが大きく時間がかかるものですが、こういうやり方しか社会を本当によくすることは出来ないと考えます。
応急処置はそれだけのものでまた元に戻ってしまうのです。
この文化活動の結果、国家とか社会というのは自然物ではなく、正義の実現のための道具であり、機能的に改良していくべきだと考える様になります。
そして、日本人の正義を論理的に体系化しようという気運も同時に起きてきます。
そうすれば、次に日本人が何をすべきかが具体的に分ってきます。
すべての現象の根底にあるのが、日本には世界観・原則がないということであり、その場その場で無理を避けるやり方が大変な問題を引き起こしているということが分ってくるのです。
「民主主義を学ぶことも結構だが、それより先にすることがあるだろう」というのが、私が「日本人のための憲法原論を読んで」で感じた結論です。
「日本人のための憲法原論」を読んで、を終わります。
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