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武蔵野航海記
ローマ史を読みました 3
ギボンは15歳でオックスフォード大学に入学しました。
ヨーロッパやアメリカの大学は神学校であるというのが基本です。
フランスのソルボンヌ大学、イギリスのオックスフォード、ケンブリッジ大学は神学校でした。
アメリカのハーバート大学はメイフラワー号で新大陸にやってきた最初の移民(ピルグリムファーザース)が作った神学校が起源です。
だから現在の様々な学部は神学部が分かれたものです。
哲学、文学、法学、経済学、物理学などはもともと初めは神学の一部だったのです。
ケンブリッジやオックスフォードはユニバーシティーと称していますが、その中は多くのカレッジに分かれています。
カレッジは宿舎で、その中で学生がフェローという指導員と一緒に生活しています。
宿舎といっても日本の大学の寮のように、大部屋に何人かが寝起きを共にするというのではなく個室があります。
身の回りの世話は召使がするのであって、かなり優雅な生活です。
このカレッジが一つの単位でこの中で多くの教育が行われています。
このいくつかのカレッジが集まった集合体をユニバーシティーといっているのです。
ギボンが入ったのはモードリン・カレッジでしたが、モードリンというのはマグダラのマリアが訛ったものです。
マグダラのマリアというのは新約聖書に出てくる女で、イエス・キリストの足を自分の髪で洗った者と書かれています。
一般的には彼女は娼婦でイエスに接して悔い改めたと考えられています。
しかし最近話題になった「ダビンチ・コード」ではイエスの妻だったということになっています。
いずれにしてもその名前からも分かるようにモードリン・カレッジは非常に宗教的でした。
ギボンは一人で三部屋を占領し、自分専用の召使にかしずかれて学生生活を始めました。
このようなことからも分かるようにイギリスの大学というのは、金持ちの跡取りを強固なキリスト教信者に育て上げるのが最大の目的です。
尚、イギリスのユニバーシティーとカレッジの伝統を受けてか、アメリカの大規模な総合大学をユニバーシティーといいますが、小規模な単科大学はカレッジといっているようです。
アメリカにMIT(Massachusetts Institute of Technology)がありますが、日本ではマサチューセッツ工科大学として知られています。
ユニバーシティーやカレッジという名称を使っていませんが、これは工学が技術であって精神的な宗教とは無関係だと考えているからです。
このようにキリスト教の文化圏では、ユニバーシティーとはキリスト教の信仰を強固にするために関連する学問を教えるところです。
ギボンもイギリスの支配者の一員として、キリスト教の教養を高めるためにオックスフォードのモードリン・カレッジに入学しました。
ところがギボンは入学して間もなく改宗してしまいました。
先祖伝来のアングリカン・チャーチ(英国国教会)の信仰を捨て、カトリックに改宗したのです。
彼は思想的なものを突き詰めて考える性格でした。
イギリスでは唯一の正しいキリスト教の信仰とはアングリカンチャーチの教えでカトリックは邪教ですから、ギボンはモードリン・カレッジから追放されてしまいました。
オックスフォードを追い出されたギボンを、父親はスイスのローザンヌの私塾に入れプロテスタントの信仰に戻るように仕向けました。
ここにギボンは数年滞在しましたが、その間にプロテスタントの信仰に戻り、後のローマ史研究に必要となる教養と完璧なフランス語を身につけました。
またこの地でシュザンヌという娘と婚約しました。
彼女は貧しい牧師の娘で、彼女の両親は金持ちの御曹司との結婚を大歓迎しました。
一方ギボンの方は貧しい娘との結婚を父親が許すはずがないと考え、後に婚約を破棄しています。
シュザンヌは美しく賢い娘だったらしく、ギボンに婚約を破棄され父親にも死なれた後は娘たちを教えて生計を立てていました。
このシュザンヌに目を留めたのがネッケルというスイス人でした。
ネッケルは有名な大銀行家でフランス革命の初期に活躍した男です。
フランスのブルボン王朝の末期は非常な財政難に陥り、ルイ16世はネッケルの信用を利用して財政を立て直そうと考え、彼を財務大臣に任命しました。
ネッケルは貴族に課税しないことが財政難の原因だと考え、王に貴族への課税を提言します。
ネッケルの提案はフランスの第三階級に熱狂的に歓迎されましたが、ルイ16世はこれを拒否しました。
これによりフランス革命の機運が一挙に盛り上がりましたが、ネッケルはフランス革命の導火線に火をつけた男です。
大金持ちのネッケルはシュザンヌの才色兼備に惚れ込み彼女を妻にしました。
シュザンヌにとってギボンとネッケルのどちらが望ましかったかは分かりませんが、彼女は大富豪である財務大臣の奥方に納まったのです。
後にネッケル夫妻の招きでギボンはパリを訪問し、革命前のフランスを十分に観察しています。
このようにギボンの青春時代は右往左往の連続でしたが、この経験が彼に人間への洞察力を与えました。
また宗教というものを深く考えた人で、キリスト教だけでなく様々な宗教を研究しましたが、孔子のことにも著作で言及しています。
イギリスに帰ったギボンは陸軍の中佐を勤めた後下院議員になり、英国の政策の正当性を主張する広報担当のような役割を果たすなど実際面でも活躍しています。
ギボンはヨーロッパ大陸周遊の折にローマを訪れましたが、この時のことを次のように書いています。
「私は本来あまり熱狂に動かされない性格で、自分が実際に経験していない熱狂を気取ることを軽蔑してきた。
しかし自分が始めて永遠の都に足を踏み入れた時の私の心を揺さぶったあの強烈な感激を忘れることが出来ない。
寝付けない一夜を明かした翌日、私は昂然としてフォルム(古代ローマの中心地)の遺跡を踏んだ。
その昔ロムルスが立ち、キケロが論じ、カエサルが倒れた一つ一つの記憶すべき場所が直ちに私の目に焼きついた。
そして陶酔の数日間を経過の後に、私はやっと冷静な気持ちに戻って細かい探索に着手することが出来た」
私もまったく同じような感激を経験したので、ギボンの感じたことが良く分かります。
この感激から彼は「ローマ帝国衰亡史」を書くことになったのです。
ギボンは18世紀後半のイギリスの上流階級で生きていました。
当時のイギリスは階級が厳然として存在しており、宗教も実際の生活を規制する大きな存在でした。
また彼の祖国は世界制覇の途上にあり、その過程で多くの戦争をしていました。
フランスと植民地争奪の戦争を行い、アメリカの独立に手を焼き、インドの土侯の反乱を経験し、革命フランスやナポレオンと長期にわたる消耗戦を行っています。
自国の安全は「平和」というお題目を唱えて得られるものではなく、ましてや金で買うものでもなく、自国民の血と汗で確保すべきものでした。
また宗教が社会に及ぼす巨大な影響力も身をもって体験しています。
ギボンが生きていた環境は、宗教が大きな力を持ち、自国の安全は自国民の血と汗で確保するものでした。
また、世界制覇の途上にあったイギリスは、征服した国を力で押さえつけるだけでなく自分たちの正義で相手を説得しなければなりませんでした。
アメリカ独立戦争やフランス革命が起きていてヨーロッパやアメリカがてんやわんやの状態でした。
「自由・平等」「民主主義」という言葉も出来たばかりで後世のように圧倒的な力を持っていたわけでもありません。
多様な価値観が並存している状態で、様々な思想を冷静に考えることが出来たのです。
宗教は非常に拘束力が強かったのですが、幸いなことにギボンは改宗騒ぎを起こして様々な宗教を研究しており、宗教に対しても客観的な態度をとることができました。
また元の婚約者だったシュザンヌからフランスの社交界を紹介され、当時のフランスの啓蒙思想家たちとつきあっています。
変な先入観を持っていないわけで、私はギボンが古代ローマ研究に非常にふさわしい立場にいたと思っています。
ギボンと正反対なのがモムゼンです。
彼は20世紀初めの人で「近代思想」に浸っていました。
彼にとって「共和制」というのが絶対的な価値を持っていましたから、ローマが「共和制」から「帝政」になるのが残念で仕方がなかったようです。
彼のローマ史は「共和制」のところまでで、帝政時代を書いていません。
さて、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を読むと、ローマが滅びた原因の一つはキリスト教化したことだと彼が考えていたことが分かります。
キリスト教の信仰が従来のローマ人のRES PUBLICAを破壊したというのです。
そして古代ローマ末期にキリスト教が普及した理由として、従来のローマの伝統的宗教は人間の魂の救済という点で不完全だったからだとギボンは考えました。
蛮族の侵攻、飢饉、疫病、官吏の苛斂誅求、盗賊の跋扈などで当時のローマ人は現世への希望が持てなくなってしまいました。
彼らに対して従来のローマの多神教は「確実な来世」を約束することが出来なかったのです。
ローマ人の宗教は多神教でした。
多神教というのは現世利益です。
これは日本の神道も同じで、神社でお賽銭を捧げお祈りすれば、家内安全・一陽来復という現世での幸福が得られます。
その一方で人間が死んだ後はどうなるという将来像を示していません。
地獄と極楽という考え方は道教の影響を受けた支那仏教の発想で、本来の日本の神道にはありません。
古代の日本人は死を眠りのようなものだと考えていたようです。
秋に植物は種を残して死にますが、種は翌春に芽を出して眠りから覚めるのです。
死は一時的な現世の生活の中断で、死後の世界が独立して存在するとは考えていなかったようです。
ローマの多神教も同じで、お祈りをすれば神々が人間の現世での悩みを解決してくれるというもので、魂の救済ということは根本の教義に含まれていません。
ローマが強力で人々が現世の生活を謳歌しているときは、これらの神々への信仰も盛んでした。
しかし、ローマも末期にまるといくらローマの神々にお祈りしても現世の生活は良くなりません。
現世を諦めて来世の救済を求めてもローマの神々は応えてくれません。
ローマの神々の存在価値がなくなってしまったのです。
一方のキリスト教では諸々の不幸は全て神が決めたものであって、祈ったところでそれを取り除いてくれるわけではありません。
その人間に不幸を与えるのは神に考えるところがあるからで、それがあるべき状態なのです。
このような不幸にも係わらず神を信頼し続ける者が来世で幸福になれるというのがキリスト教です。
現世への希望をなくしたローマ人がキリスト教によって精神的な安定を得ました。
ローマ人の生き方が現世を中心にしたものから、来世を最重視するものに変わっていったのです。
このような理由でキリスト教は非常な勢いで信者を獲得していきました。
奇跡もキリスト教が普及した大きな原因です。
イエスキリストだけでなく、その弟子達もイエスの死後あちこちで死人をよみがえらせるなどの奇跡を行っています。
これは教義などという難しいことは分からない庶民にも神の威力と実在を分からせる良い手段でした。
カトリック教会は今でも奇跡を認定しています。
最近の有名な例としては、フランスのルルドにある泉が奇跡に認定されました。
医者がさじを投げた難病の患者が神の存在を信じきって泉に身を浸すと直ったというケースが続出したのです。
いまでは、観光バスで連日多くの信者が押し寄せています。
カトリック教会は奇跡の認定には非常に慎重で多くの学者を動員して、数十年という時間をかけたうえで認定しています。
この奇跡の認定にはカトリック信者のノーベル賞学者がよく動員されていますが、これらの学者は科学と奇跡は矛盾しないと主張しています。
その理由は二つで、一つは科学というのは不完全で全て仮説に過ぎないということです。
科学の進歩によって次々と従来の常識が覆され続けており、現在の知識から奇跡を否定するのは人間の傲慢だという考えです。
また自然法則を定めたのは神だから、その神が一時的に法則を変更できるのは当然ではないかとも考えます。
たしかに奇跡を否定する根拠はあまり確かなものではありません。
奇跡を信じるか馬鹿にするかは個々人の判断ですが、少なくともローマ末期の時点では奇跡が大きな影響を及ぼしたことは認めなければなりません。
また、人間が一つの思想や宗教を信じるときは、その教義の内容もさることながらそれを説く人の人格が大きく影響します。
あんな立派な人の言うことだから本当だろうということです。
ローマ末期のキリスト教指導者には全身全霊で神を信じた立派な宗教家が輩出したのです。
これらの宣教師の輩出もキリスト教普及の原因です。
旧約聖書の出エジプト記にユダヤ人の指導者であるモーゼが神と会ったという記載があります。
あるときモーゼはシナイ山に一人で登りました。
山の中でモーゼは赤く燃えている炎のようなものを見つけました。
この炎は神だったのですが、モーゼとその神が話をしたのです。
モーゼは神に対してその名を尋ねたところ、神は「YHVH」と答えました。
古代のユダヤ語(ヘブライ語)は母音を表記しないので、正確な読み方は分からないのですが、以前はこのYHVHをエホバと読むのだと考えられていました。
しかし最近はヤハヴェと読むのが正しいということになっています。
このYHVHという言葉は英語のBeingと同じ意味でBe動詞の現在分詞形です。
Beは存在するという意味ですから、Beingはその現在進行形です。
「過去に存在し、現在も存在し、将来も存在し続ける」という意味です。
私の手元にある英語の聖書では、ここのところを「I AM」と書いてあります。
私は存在するものだというわけです。
日本の聖書では「私は有って有る者」と書かれています。(出エジプト記 第三章 14節)
つまりYHVHというのは神の名前ではなく神の特性を説明した言葉で、時間を超越し永遠の過去から未来まで存在し続ける神ということになります。
全宇宙を作った神ですから、当然時間と空間を超越した絶対的な存在です。
このような全能の存在ですから、被造物である自然界に存在する物と同じはずがありません。
これを自然界に存在する山、人、動物などの姿をした像のような物と表現してしまうと神を誤解するもとになってしまいます。
人間に似せた仏像のようなものを作ってしまうと、神を人間のようなものだと誤解してしまうのです。
一神教が偶像礼拝を固く禁止したのはこういう理由です。
一神教であるキリスト教は偶像崇拝を禁止し、また他の神を拝むことを禁止しています。
一方、ローマのインペラトールは自分を神として礼拝するように命令しました。
このインペラトールの命令をキリスト教徒は拒否したのです。
偶像崇拝は悪魔の仕業であり真の信仰から信者を遠ざける許しがたい行為なのです。
そうしてインペラトールの命令を全て無視しました。
公的な儀式に参加しないだけでなく、蛮族が攻めてきているのに軍務に就くことも拒否しました。
軍務だけでなく、およそローマの公的な仕事に従事することを拒否したのです。
そして自分たちだけのコミュニティーに閉じこもり他との交渉を一切断絶しました。
こういうキリスト教徒の態度を、インペラトールを初めとする従来のローマの支配者は大いに怒りました。
諸民族がお互いの伝統や宗教を尊重することで平和な世の中を実現しようとするローマ人に共通する価値観(RES PUBLICA)に反するからです。
ローマの支配者はキリスト教徒を「無神論者」と呼びました。
従来の様々な民族の宗教を否定したからです。
こうしてローマはキリスト教を禁止し、信者に棄教を求めました。
ローマ政府によるキリスト教弾圧のことを、キリスト教徒は非常に誇張して書いています。
ローマの官吏がキリスト教徒の娘たちに改宗を迫り、見逃して欲しかったら自分のいうことを聞けと迫りましたが、そこに天使が現れて娘たちの安全は守られた・・・・
ギボンはこんな話は全てデタラメだと書いています。
ローマの官吏のキリスト教徒に対する態度は非常に温和で強引なことはしませんでしたが、後世は全てキリスト教徒になってしまったのでこんなデタラメを指摘する者がいなくなってしまったのです。
私も色々なローマ時代の記録を読んでみて、多神教を信奉するローマ人は非常に温和だという印象を受けました。
絶対的な正義がないので、その正義の敵を絶滅しようとする激しい憎悪が感じられないのです。
この点でローマ人は、今の日本人に非常に似ていると感じています。
戦争中に日本人が非常に残虐なことをしたという「神話」がはやっていますが、ローマ人も同じように捏造の被害に遭ったのです。
キリスト教は信者に対して偶像崇拝と他の神を拝むことを禁止していますが、その一方で現世の権力には従えとも命じています。
イエス・キリスト自身も「神の物は神に、カエサルの物はカエサルに返せ」と言っています。
たとえその地上の権力が異教のもので暴力によって作り上げられたものであっても、いったん成立してそれなりに安定したものは神がそう定めたからだと考えるのです。
この発想は後世の王権神授説に繋がっていきます。
近代ヨーロッパのように権力の正当性は国民の同意に基づくとは考えておらず、初期のキリスト教徒にとっては神の指令に由来したのです。
キリスト教徒がローマのインペラトールの命令に従わなかったという事実は、地上の権力には従えというキリスト教の教えに反します。
私はかねがねこの点をおかしいと思っていましたが、ギボンも同じ疑問を持ったと見えてこのことも著書に書いています。
ローマの末期は蛮族の侵入・疫病・天災で騒然としていましたが、これをキリスト教徒は異教徒への天罰と考えていました。
異教徒が神の劫火で焼き尽くされた後に神の国が出現すると考えました。
そして、この世の不幸がどんどん大きくなっていくので、この世の終わりは近いと思ったのです。
近いうちに訪れる神の国を待ち焦がれて、この世の生活に興味を失ってしまったのです。
そして、過去に受けた被害の一切を赦し、むしろ新しい侮辱を求めよという究極の絶対服従の教義を重視したのです。
蛮族から受けた被害も赦し、また蛮族が襲ってきたらその被害をまた受けようというのです。
だから軍隊に入り蛮族と戦おうとは考えなかったのです。
キリスト教徒には今でも時間的な切迫感というのがあって、信仰心が高揚した時は「神の国は近い、今悔い改めないと間に合わない」と考えます。
こんな発想は今の日本人には考えられず、従ってこんなことを考えた人間が大勢いたとはとても信じられないかもしれません。
しかし、現在の常識で過去を判断してはならないのです。
当時、キリスト教徒は一般の人からは乞食と思われていました。
キリスト教に入信した者は財産を全て協会に寄付し、信者は協会の財産で共同の生活をしていました。
貧乏生活はわずかな間だから、神の教えどおりの無欲な生活をしたほうが、神の国では幸せになれると考えました。
短い現世の不幸と永遠の神の国での幸せをはかりにかけて、こっちのほうが有利だという結論を出したわけです。
自分から入信した両親は良いとして、その子供たちは教育も受けずに貧しいままで町をうろうろしていたので、異教徒は彼らを乞食と思ったのです。
極限の状態になったら人間はこういう行動も取るのだとギボンは書いています。
私もそうかもしれないと思いました。
ローマ政府の禁止にもかかわらず、キリスト教徒はどんどん増えていきました。
増えたといっても社会の過半数になったわけではありません。
キリスト教がコンスタンチヌス大帝(このインペラトールはキリスト教に対する功績によって大帝と呼ばれています)によって公認されたのは西暦313年ですが、これより少し前の時点のキリスト教徒人口は5%程度と推定されています。
わずかに5%でしたが、この5%は教会という組織を中心に結束していました。
残りの95%は、ローマが健全だった頃の市民とは違い公共のために(RES PUBLICA)という気概を失い、国家には多くを期待していませんでした。
ローマ政府の高官にもキリスト教徒が次第に増えてきました。
キリスト教が禁止されていましたから、彼らは今のインペラトールはキリスト教に好意的か否かを絶えず注意していました。
こういうときにコンスタンティヌスがインペラトールになったのです。
歴史家の中には、コンスタンティヌスがキリスト教徒の力を利用しよういう政治的な動機でキリスト教を公認したのだと考える者がいます。
こうなれば信者の絶対的な忠誠を期待できるからです。
しかしギボンはコンスタンティヌスの言動を調べて、彼がキリスト教に魅力を感じていたからだろうとしています。
彼に献身的なキリスト教徒を将軍や高官に任命しましたから、それを見た官僚たちは争ってキリスト教徒になりました。
当時のローマ軍の下級兵士はゲルマン人が多かったのですが、新しい自分たちの司令官が彼らにキリスト教への入信を薦めました。
宗教などにはあまり関心がなかったゲルマン人兵士は抵抗なくキリスト教徒になりました。
こうしてコンスタンチヌスのキリスト教公認をきっかけに官吏と軍人にキリスト教信者が激増しました。
この頃にはキリスト教の教会も軍隊に対する反抗的な態度を捨て、キリスト教徒が軍隊でインペラトールに忠誠の誓いをすることを認めるようになりました。
更には敵を前にしたキリスト教徒の兵士が武器を捨てたら破門にするという決議までしています。
4世紀初めのキリスト教はアリウス派とアタナシウス派という宗派が激しく対立し、お互いに相手を異端だと罵り合っていました。
両者の違いは三位一体を認めるか否かという点です。
三位一体というのは、父である神と子であるイエス及び聖霊という三者が同じものだという考え方です。
聖霊というのは神の霊的なエネルギーを指していますが、これに関しては両派ともさして違いはありません。
問題は神とイエスが同じか否かという点で、アタナシウス派は同じだと主張し、アリウス派は別物だと考えたのです。
異教徒にとってはどうでも良いような議論ですが、当事者のキリスト教徒にとっては大変な大問題で、互いに相手方の指導者を蹴落とそうと大騒ぎをしていました。
アリウス派の勢力が強い地域に、アタナシウス派の司教が赴任してこようものなら、民衆の暴動が起きるという具合です。
両派とも異教徒と戦うよりもずっと多くのエネルギーをお互い同士の争いに使いました。
乱闘騒ぎで多くの死者を出すことなど珍しくありませんでした。
当時のキリスト教徒は、彼らを弾圧するローマ政府に抵抗するより前に仲間同士で戦っていたのです。
両者の争いを、キリスト教を弾圧しているはずのインペラトールが仲裁をしたという笑い話のようなこともありました。
ギボンは両派の教義を詳細に説明していますが、皆さんはそんなことに興味はないでしょうし、私もめんどくさいから書きません。
インペラトールのコンスタンチヌスは313年にキリスト教を公認しましたが、325年にはギリシャのニケーア市で宗教会議を開きました。
アタナシウス派とアリウス派の対立に結論を出すためです。
そして会議の結果アタナシウス派が勝ち、三位一体が正しいということになりました。
敗れたアリウス派はその後も容易に勢力は衰えませんでしたが、最終的に国教化したアタナシウス派のインペラトールに大弾圧されて消滅しました。
アタナシウス派が正しいキリスト教の信仰だということになったのですが、後にこの派はローマカトリック教会とギリシャ正教会に分裂しました。
ローマカトリック教会から近世になってプロテスタントが分離しました。
ですから今存在しているキリスト教は全てアタナシウス派の系列です。
そしてローマカトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント諸派とも三位一体説を採用しています。
ギボンはキリスト教徒で、彼が書いた「ローマ帝国衰亡史」はキリスト教徒の読者を対象に書かれていますから、三位一体は当然の話なのです。
だから彼の著書は三位一体説が勝った経緯は詳細に書いていますが、何故これほどまでに三位一体が大問題になったのかを異教徒にも分かるようには説明していません。
以下に書くのは私の考えで、ギボンや他の歴史家が言っているものではありません。
この問題は、時間と空間を超越した万能の神ということと、神との契約という二つの側面に関連していると私は考えています。
前にも書いたように、キリスト教の神YHVHは過去に存在し今も存在し永遠の未来まで存在し続ける時間を超越した神です。
一方のイエスキリストは、ユダヤという弱小国のそのまた田舎であるナザレに生まれ、30歳台前半で刑死した人間です。
わずか30年少ししか存在しなかった時間的に制限された存在です。
しかも十字架にはりつけにされて死んでしまった弱い存在で、とても万能の神といったものではありません。
だからイエスを素直に見れば、彼は人間であって神ではないのです。
アリウス派はイエスをとても偉い預言者ではあったが神ではないという素直な解釈をしたのです。
一方、なんとしてもイエスを神にしたいアタナシウス派は、イエスは死後三日目に復活したから神の永遠性は保たれていると主張しているのです。
イエスは完全な人であったと同時に神であったのです。
そんなに万能の神であれば、イエスを捕まえにきた役人をエイとばかりにやっつければよいではないか。
またはりつけにされても死なずにヘラヘラ笑いながら、そこから天に昇っていけばよかったではないかという反論が出てきます。
神の永遠、神の万能という観点から見れば、アリウス派のイエスは神ではないという説の方が素直です。
三位一体説のもう一つの側面は、キリストの贖い(あがない)、神との契約という問題です。
一神教というのは神と人との契約が基礎になっています。
契約というと、人間同士の約束と日本人は考えます。
しかし、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教が起こった中近東では、契約とは本来は神と人とが交わすものでした。
お互いの約束とは言っても、神と人間が対等な立場で契約を交わすわけではありません。
人間同士の対等な契約であれば、価格やその他の条件をお互いの合意で変えることが出来ます。
しかし、神と人との契約書は神から突然人間に提示されるもので、人間はそれに対して「ここのところは少し都合が悪いから変えてください」とはいえないのです。
神が一方的に提示した条件を認めるか拒否するかのどちらかしか出来ない契約です。
シナイ山に登ったモーゼは、ここで神から十戒という契約内容を記した石版を渡されました。
神は「この契約を守ればお前達を幸福にしてやろう。破ればひどい目にあわせるぞ」と言ったのです。
モーゼはこの内容に一切反論せずユダヤ人のところに持ち帰りました。
そしてユダヤ人を説得し十戒を受け入れることにしました。
契約が成立したのです。
ところがユダヤ人はこの神との契約内容を破ってばかりで、そのたびにひどい目に遭い続けました。
敵に国土を占領され、最後にはバビロニアの都に拉致されてしまいました。「バビロン捕囚」です。
散々な目に遭って、ユダヤ人はやっと神との契約を守ることの重大さに気がつきました。
そして、神と交わした契約内容だと彼らが考えた内容を律法という形に整理しました。
この律法を忠実に守ることに全エネルギーを注ぐことになったのです。
この律法の中には、男子は割礼を受けなければならないとか聖日(金曜日)に働いてはならないという規定もありました。
また食べてはならない食物も規定されました。
このような状態の時にイエスが登場したのです。
イエスがやったことを一言で云えば、神との契約の更改(変更)です。
キリスト教の聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」で出来ていますが、これは旧契約書と新契約書という意味です。
イエスは「神を信じるだけでよい」と言いました。そして細かい律法など気にしなくても良いと言ったのです。
これは真面目なユダヤ教徒からすれば大変なことです。
自分たちが守ってきた律法を中心とした契約はもはや有効ではないと宣言されたわけですから。
ユダヤ人がイエスを殺したのはこのためです。
イエスは方々で説教をし、また多くの病人を癒し死者を蘇らせたために、大変な人気者になりました。
時の大祭司カヤパをはじめとするユダヤ教徒はイエスの行動に不安を抱き彼の行動を監視しました。
そうするとイエスが律法の規定をどんどん破っていることが分かりました。
例えば、イエスは病人を治し死者を蘇らせたのですが、これは医療行為です。
この医療行為を聖日に行ったのですが、これは「聖日に仕事をしてはいけない」という律法に違反する行為なのです。
このようなわけで、イエスはユダヤ教徒から色々尋問されたのですが、彼は簡単に言えば「律法など糞食らえ」という意味のことを上品に言ったのです。
この段階でイエスはユダヤの犯罪者となりました。
そして裁判所に呼び出されたのです。
イエスの裁判は新約聖書でも重視され様々に書かれています。
当時のユダヤはローマの支配下にありましたから、裁判の管轄の問題やローマの総督であるポンテオ・ピラトとユダヤの祭司たちとの関係などです。
裁判でイエスは律法に価値がないことを堂々と主張しました。
そこで問題は次のレベルに移行しました。
即ち、神との契約を変更できる者は神しかいない。
お前は神なのかという問いです。
イエスは自分が神ではないとは言いませんでした。
ここでイエスの死刑が確定したのです。
ただの人間なのに神と称して、昔からの神との契約をけなしたと裁判官が判断したからです。
イエスは死刑判決を受けましたが、そのあとゴルゴダの丘で実際にはりつけになるまで、色々な形で公衆の面前で辱めを受けました。
とげが着いた冠をかぶらされて頭から血を流しました。
オリーブの冠はローマのインペラトールがかぶるもので、地上の支配者であることの象徴です。
ユダヤでは支配者を「メシア」といいましたが、これは「頭に油を注がれた者」という意味で神から支配者であることを認められた者です。
旧約聖書では「そのうちにメシアが現れる」と書いています。
異民族に支配されていたユダヤ人はメシアが現れて、征服者を追い払ってくれるのを待ちに待っていました。
イエスが現れて様々な奇跡を見せたとき、ユダヤ人たちは彼こそメシアだと思いました。
ところが彼は神の国を説くだけで、いっこうにユダヤ独立軍を率いて決起する様子がありません。
ユダヤの民衆は失望し、これはイエスへの憎悪に変わりました。
ユダヤの大祭司や裁判官はとげの着いた冠をイエスに被せ、「イエスはお前たちが期待したメシアではなく、ただの詐欺師だぞ」ということを指し示したのです。
イエスが死刑になったのは彼が神であることを否定しなかったからですが、頭から血を流し背負った十字架の重さに倒れた弱弱しい男はとても神とは見えません。
ユダヤの支配者たちは、頭から血を流し十字架の重さで倒れたイエスを一般民衆に見せましたが、これは彼がメシアではなく神でもないということを証明するショーだったのです。
イエスが死刑になって三日後に、番人をつけて厳重に監視していたイエスの墓は空になっていました。
この報告を受けた大祭司は真っ青になりましたが、民衆が「やはり彼は神であったか」と思うことを恐れたのです。
そして報告者には金をやって堅く秘密を守らせました。
この様にイエスが神か否かは、敵味方ともに決定的に重要なことだったのです。
キリスト教は、イエスが血を流し十字架にかけられたことを逆手にとりました。
「神がわざわざ地上に降り立ち悲惨な目にあったのは、身をもって契約が変更になったことをお前たちに示すためだ」というわけです。
尚、メシアはユダヤの支配者という意味でしたが、いまではイエスのことも指すようになりました。
アリウス派のようにイエスを神と認めない立場は、神との契約の変更という問題をクリヤー出来ません。
人間でしかないイエスが神との契約を変更することは出来ないからです。
神の永続・万能という性質及び神との契約変更の権限の問題で、アタナシウス派とアリウス派はどちらも弱点を持っていました。
両派の抗争が長い間決着が着かず、深刻な事態になったのは以上に述べたような理由です。
そこで313年にキリスト教を公認したコンスタンチヌスは325年にギリシャのニケーアで宗教会議を開きこの問題に結論を出したのです。
アタナシウス派の三位一体説が公認されたのですが、この会議でキリスト教の信仰のエッセンスである信条が出されました。
ニケーア信条と言われるもので、現存している全てのキリスト教の宗派が信奉しているものです。
極めて重要な信条なので全文を下記します。
唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を私は信じます。
唯一の主イエス・キリストを私は信じます。
主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体です。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
主であり、いのちの与え主である聖霊を私は信じます。
聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。
二ケーア信条はキリスト教の信仰のエッセンスです。
神は宇宙を作った全能の存在で、その神はイエスという人間の形をとって一時的に地上に舞い降りました。
そしてその神は、自らはりつけになって死ぬことで人間の罪を一身に背負いました。
旧契約では人間の犯した罪は自己で負うという自己責任の考え方だったのですが、新しい契約では神がその身を犠牲にして人間にもっと有利な内容になったのです。
イエスは死にましたが、三日後によみがえることにより永遠の神という属性を維持したのです。
最後の審判のときに神の国が現れ、死んだ人間は生き返り、神は彼らの行いを裁くのです。
そして罪の許しを得るには、神を信じ洗礼を受けてキリスト教徒になるしかないのです。
神は人類全てのためでなく、洗礼を受けて神を信じるキリスト教徒のためだけにわが身を犠牲にしたのです。
これは契約という発想からは当然のことで、神は契約関係にない者は相手にしないのです。
このニケーア信条を読んでまず感じることは、現世に関することは何も書いていないということです。
人間の生命・財産の安全確保とか各民族の習慣・宗教を守るとかいう内容は一切ありません。
一方、ローマ人の共通の価値観であるRES PUBLICAは、現世のことだけです。
自国の安全保障を中心に考え、自分たちの生命・財産・慣習を守ろうというものです。
ローマがキリスト教化したということは、ローマの現世を中心にした価値観が、来世を志向したものに変わったということです。
もう一つのニケーア信条の特長は、各民族・各人の個性を尊重するということが一切書かれていないということです。
神が人間に提示した契約内容が価値判断の基準となったわけですが、この基準はローマ人もガリア人もゲルマン人も全て同じです。
また小川のジョージに対するものと山田の花子に対するものも同じです。
一方のローマ人のRES PUBLICAは各民族の個性を最大限に尊重したものでした。
これをローマ人はトレレンティア(寛容)といいましたが、キリスト教にはこの寛容がないのです。
このようにキリスト教は従来のローマ人のRES PUBLICAを真正面から否定したもので、ローマのインペラトールがキリスト教を国教にしたということは、従来の価値観を放棄したということです。
ローマはキリスト教化したことで、現世の幸せを追求して現実的に行動するという伝統的なやり方を放棄しました。
そうしてあの世の幸せを願う宗教国家になりました。
ローマがローマでなくなったのです。
来世を中心に考える分だけ現世の対応が甘くなり、ローマはどんどん内部崩壊を早めていきました。
そして476年に西ローマは滅びたというより溶けてなくなりました。
インペラトールが死んだ後、もはや誰もその後を継いでインペラトールになろうという者がいなくなってしまったのです。
残った広大な版図には侵入してきたゲルマン人が多くの王国を建てましたが、これらは随時ローマカトリックの信仰を受け入れていきました。
ローマ法王を中心にした宗教体制がヨーロッパ全域を覆ったのです。
中世のヨーロッパは「暗黒時代」と言われていますが、これは今の現世の幸せを中心にした発想からの見方です。
宗教を重視し、経済や軍事・治安などへの関心がその分薄くなったために、今の視点から見たらだらしのない社会だったのです。
ヨーロッパの各地に割拠した王国はとても国家と言えるような代物ではなく、大名のサークルのようなものでした。
この時代、ヨーロッパを実質的に統治していたのはローマカトリック教会でした。
いつの時代でもどこでも、責任を自覚した者はそれなりに緊張しています。
ヨーロッパを統治していることを自覚していたローマカトリック教会は、統治の仕組みを作り上げました。
人材の発掘・育成に熱心で、全てのことに生まれが優先する社会のなかで教会だけは身分に係わらず才能のある人物を重用しました。
優秀な人材が教会という当時唯一のまともな組織で鍛えられたので、高位のカトリック神父は優秀な官僚でもありました。
中世の王国の大臣に高位のカトリック神父が多かったのはこういう理由です。
フランスなどはかなり後までこの傾向があり、ルイ13世の大臣だったリシュウリューやルイ14世の大臣だったマゼランは共にカトリック教会の枢機卿でした。
イギリスでも歴代のカンタベリー大司教は国王の大事な顧問でした。
カトリック教会はヨーロッパ統治の組織としては司教区を作り上げました。
村々の教会には司祭がいて村民の指導者になっていましたが、司教はその地方の中心都市に住み、多くの司祭を監督してその地方の行政を行ったのです。
また教会法という法体系も作り上げました。
ヨーロッパ全土に統一的に適用する法でなくてはなりませんから、結局ローマが全版図に適用していたローマ法を下敷きにしたものになりました。
各大名も領内に通用する慣習法を持っていましたが、サリカ法などゲルマンに起因する粗雑で過酷なものでした。
こうなると裁判を受ける方も教会法の適用を望みます。
イギリスではこうした事情から「字を読めるものは神父であり、教会法を適用する」という約束事が出来上がりました。
カトリックの神父には教会法が適用されますからそれを狙ったのです。
裁判を受ける者が字を読めない場合は、聖書の決まった場所を暗記して裁判官の前でそれを暗誦し神父と認められるということになったのです。
ヨーロッパの諸王国は、カトリック神父によってカトリックの組織を通じてカトリックの教会法によって統治されていたのです。
前にも説明しましたが、ローマ法はストア派というギリシャの哲学の考え方を基礎に作り上げたものです。
ストア派の哲学はギリシャのソクラテスの流れをくむもので、イデーという人間なら共通して持っている価値観を前提にしています。
このイデーに従った道理は様々な価値観や慣習を持った民族にも等しく妥当するものです。
この人類共通の価値観と考えられたものから導き出されたものがローマ法です。
ローマ人は自分たちの政治体制をRES PUBLICAと考えていましたが、これは市民が共通に持つ価値観に基づいて政治を行う体制を指します。
ローマ法はRES PUBLICAを具体的にしたものだったのです。
ローマが滅びた後、ローマカトリック教会はこのローマ法をキリスト教的にアレンジして教会法を作り上げました。
キリスト教化する前のローマ人が共通に持っていた価値観は現世的なもので、自分たちが作り上げた国家とわが身の安全を第一に考えていました。
国の安全と治安が維持されれば人々は安心して働けますから、経済的に非常に繁栄し平和な社会が実現しました。
さらに自分たちの伝統的な宗教や習慣も守るべきものと思っていました。
ローマ人はこういう価値観そのものをRES PUBLICAと呼んでいました。
またこの価値観に基づいて行動する国家もRES PUBLICAといっていました。
この場合、政府・支配者と一般の市民が価値観を共有し対立していない状態になります。
RES PUBLICAに対立する言葉は専制政治・恐怖政治という力で反対者を押さえつける体制であって「共和制」ではありません。
RES PUBLICAに依拠した政治を行うなら、世襲の王政でも終身の大統領とでもいうべきインペラトールでも構わないのです。
そしてローマ法はこのRES PUBLICAという価値観に基づいて作られました。
ローマがキリスト教化して消滅した後のヨーロッパはカトリック教会が支配しました。
カトリック教会は広大なヨーロッパを統一して統治するために教会法をつくりましたが、これはローマ法を下敷きにしたものでした。
ただしローマ法は現世的なRES PUBLICAを基準にしたものですから、キリスト教としてはこれを認めるわけにはいきません。
そこでRES PUBLICAを「神の正義」という価値観に置き換えました。
神の正義を前提にしてヨーロッパ全土に共通する法律を作り上げたのです。
中世のヨーロッパ人は全員がキリスト教徒でしたから、神の正義に基づいて政治を行うことが正しいというのは皆に共通したものでした。
こういうことから教会の中でRES PUBLICAという考えが生き延びました。
皆に共通する価値観で政治を行うべきだという考えです。
もしも世俗の王国が神の正義に反することをしたら、それを神の正義に立ち返らせなければならず、どうしようもなくなったらその王国をつぶさなければならないと考えたのです。
この場合、その世俗の王国が神に反しているか否かを判断するのはローマカトリック教会だけです。
実際にイギリス王やドイツの皇帝がローマ法王に逆らったことがありましたが、カトリック教会はこの理屈を使って王や皇帝を破門しました。
これをやられた王や皇帝は抵抗できず、法王に膝まずいて許しを乞いました。
中世の強力な権力を握ったローマカトリック教会は、神の正義に反する世俗の権力は潰しても構わないと考えました。
実はこういう発想は初期の力の弱い時期の教会にはありませんでした。
イエスが「神のものは神に カエサルのものはカエサルに返せ」といったように、世俗の権力には従うべきだと考えていたのです。
一方、世俗の権力の方としても良好な関係さえ維持しておけば、ローマカトリック教会は王国を支えてくれるありがたい存在です。
神が国王を任命したのだという王権神授説を使えるからです。
なにしろローマ法王は神の代理人で、法王が「あの国王は正しい信仰を持った立派なひとだ」といえば誰も反論できなかったからです。
このようにして国王とローマ法王がお互いにもたれあう関係が出来上がり、高位のカトリック神父が王の政治の代行を行うまでになりました。
そしてこのような状態になったときにルネッサンスと宗教改革が起きました。
ルネッサンスというのは、ひたすら来世での幸福を追い求める(という建前の)カトリック教会に対して、「古代ローマのようにもっと現世の幸せを追求しても良いではないか」と主張したものです。
「古代のギリシャ・ローマの全ては今より素晴らしかった」というのが、ルネッサンスの合言葉になりました。
はじめにルネサンス運動が起きてカトリック教会の権威が揺らいだところで宗教改革が起きました。
宗教改革というのは、「カトリック教会はうそつきだ」というものです。
プロテスタント(カトリック教会に抵抗する者という意味です)は、カトリック教会の言うことを信用せず、キリスト教の教えを聖書だけから知ろうとしました。
カトリック教会の言うことは聖書に書いていないからウソだと主張したのです。
聖書を読む限りでは、イエスは「神を信じたら神の国に入れる」とは言いましたが、「善行を行ったら神の国に行ける」とは言っていないのです。
ところがカトリック教会は「善行を行ったら天国に行ける」と言ったのです。そして善行の最たるものが教会への寄付なのです。
この違いは非常に重要で、カトリック教会はこの違いを一般信者が知ることが無いように聖書の現地語への翻訳を禁止していました。
ですから、ルターやカルヴァンなどのプロテスタントの指導者が真っ先にやったことが、母国語の聖書の刊行でした。
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