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小人
アジズ
... 誰が掴めないのでしょう。誰が分かろうとしていますか。思考がやって来る前のこのゼロ地点は何ですか。どんな思考よりも前に、既にアナタは存在しています。ソレが分かりませんか。
The State of Presence
殆どの人間がMeそれ自体に気付いていない理由は、意識と知性レベルが低いからです。認識とアウエアネスはマインドからやってきます。しかし機械的で無意識な思考プロセスがマインドをコントロールしているので、マインドを覚醒の道具として使うことができません。
I Amを認識するために、人は無意識のマインドを超越して、アウエアネスのエネルギーが、まさにその主体、Meの根元、内側へと向かうようにしなければなりません。マインドを超越するのは「留意」と呼ばれるI Amの「相」です。「留意」とはNowにある意識的マインドの質で、思考・感情・周りの状況に対して注意を払っています。ソレは白昼夢を越えて、私たちの思考プロセスの中に気付きをもたらします。唯一この「留意」のみが私たちを意識的にNowに居させます。それ以外の何物でもありません。
述べましたように、唯一「留意」だけが無意識で機械的なマインドから我々を解放してくれるので、この「留意」の鍛錬が全ての真のスピリチュアルな鍛錬の土台となっているのです。この鍛錬の神髄は、「留意」をソレ自身に向け、自らに気付くポイントに持ってくることにあります。
この段階で集中の焦点として、例えば「今、ここ」という思考を用いる事ができます。人はこの思考に対して完全に意識的に注意深く、Nowにありつつマントラのようにそれを繰り返さねばなりません。この訓練で思考に向けられた注意力の存在を経験します。しばらくそれを注視したら、今度は「マントラに気付いているのは何なのか?」「今ここ、というこの思考の背後にある注意力は何なのか?」をハッキリ認知するように求められます。
人は注意力の焦点をいかにして注意自体に向けるかを修得します。するとメンタルな対象物から離れたものとしてこの注意力ソノモノを経験できます。Presenceが生まれるのはココです。Presence、純粋なアウエアネス、あるいは観照意識とは、I Amの「留意の相」に付けられた名前なのです。
忘却から覚醒へ
人間意識は「私」の進化だ。無意識の「私」、あるいは下位形態の「私」はマインドと同一化してしまっている。その場合「私」は、心理的事柄との絡みにおいてしか自己を感じることがない。コレを忘却状態と呼ぶ。
「私」の進化の高位形態がステート・オブ・プレゼンス。そこで「私」は、自己認識の留意としてソレ自身を感じる。
Turiya
第四の状態がステート・オブ・プレゼンス、つまり自己想起意識、マインドの中にある「私」のセンター。
●●{ゴミとダイアモンド}
生徒:私はOSHOがこう言われるのを聞きました、「ノーマインドで座っていると、暫くして何かが起こる」貴方はこの言葉をどのように理解されますか。
ノーマインドで座っている時は何かが起こる必要などありません! 私たちは常に何かが起こるのを待っています。それが問題なのです。私たちはとても惨めです! 思考を越えた状態に達して、それでも何かそれ以上のものを切望している人など想像出来ますか!
アナタを満足させるものなどあるのでしょうか。何かが起こるのを待っていたら、それはもうノーマインドではないということが分かりませんか。第二の頭を探していてはいけません。一つで充分です。
自分のポケットにダイアモンドが入っているのに、ゴミ箱で食べ物を漁っている乞食の話を知っていますか。殆どの探求者はこの乞食みたいなものです。自分の内なるダイアモンドを使わずに、死ぬまでゴミを漁っています。
この「エンライト」という言葉は落としてしまう方が遥かにいいのです。それは全ての探求者の血と肉を毒してきました。傲慢な言葉であり、本来の目的に反して、エゴがそれを用います。エンライトではなく、リアリティーをお探しなさい。
●{観照--アウエアネスへの焦点}
生徒:今日私は強い怒りを経験しました。それを観ようとしましたが、ステート・オブ・プレゼンスを失ってしまいました。
なぜ怒りを観たいのですか。観るならもっと面白いものがあると思いませんか。夕日や綺麗な花のほうを観たいとは思いませんか。探求者はかなりマゾ的です。恐ろしいものを観るのを好みます。ネガティブな感情、怒りやジェラシー、羨望や欲望などを見つめるのが大好きです。こんなものの何がそんなに面白いのですか。普通は醜いものは見たくないものでしょ。
怒りを経験したら、その感覚と共に居て、その背後にあるアナタのプレゼンスの中に自分の中心を据えなさい。呼吸してリラックスします。戦わず、ただ怒りを有らしめて、しかしリラックスしたまま呼吸します。怒りを観るのではなく、むしろその背後にあるこのアウエアネスに焦点を当てなさい。そこに留まり呼吸します。待ちます、すると怒りは過ぎ去ります。
●人生最後の瞬間のように
呼吸しています。完全に今にいて、全てを受け入れ、辛抱強く。時の流れに辛抱強くありなさい。瞬間瞬間を十全に経験する中でくつろいで下さい。あたかもコレが人生最初で最後の瞬間であるかのように。辛抱しなさい。忍耐は受容への鍵です。サレンダーへの、手放すことへの、Nowへの鍵です。体と一緒に動かないようにして下さい。また、心地悪さや落ちつきの無さも辛抱して下さい。全てを在らしめ、且つ穏やかに距離を保ち続けます。
もし動く必要がある場合は完全なアウエアネスと共に動きます。機械的に動かないことです。手を動かすとき、脚を動かすとき、つま先を動かすときに分かっているように。このようにしてマインドから来る無意識の妨害を防ぎます。
マインドは非行為の状況に窒息します。何もしてはいけない場合、マインドは途方に暮れるのです!それでいろいろ騒ぎを作りだします。ワタシは動こうとして体の中にいろんな痛みや、かゆみ、しびれなどの感覚を作りだします。もし上手くいかなければ、夢の中に、居眠りや睡眠などの中に連れて行くのです。
こういったマインドの傾向に対処するためには忍耐強くあらねばなりません。マインドはちょうど甘やかされた子供のようなものです。辛抱強く、強い態度で毅然としていなくてはなりません。しかしながら誰がマインドに対抗しているのでしょうか?誰が忍耐強くあろうと努めているのでしょう?ソレはアナタの知性です。知性とはマインドの知恵です。インドではこれをブッディと呼び、単なる機械的マインドであるマナスと区別しています。そうです、私たちはアナタの知性に語りかけています。I Amへの入り方を教えています... マインドとその回避的小細工を手放す術を身につけ、ビーイングの純粋性へと忍耐強くサレンダーしていくにつれ、「この瞬間」がピュアーな至福であることを発見するのです。
時には座っていて退屈を感じるかもしれません。それはOKです。退屈を在らしめて下さい。受け入れ、しかし同時により深くその中へ入って行きなさい。あたかも退屈の感覚の中へとダイビングして行くかのように。自分を退屈にコントロールさせてはいけません。より深く退屈に入って行き、その中でただリラックスしていくにつれ、退屈の別の局面を発見することでしょう---- 平安です。
退屈の感覚は良い兆候です。なぜならそれは、既に「この瞬間」に触れていることを意味するからです。アナタはその神聖な入り口にいるのです。次のステップは、忍耐強く、この感覚をトータルに受け入れ、次にその中へと深くくつろいで行くことです。垂直にサレンダーすると、退屈を超えた所、在るがままのリアリティーの直接的経験の中に移行します。
この瞑想の終わりまで、ただ呼吸します。完全に今に居続けて、瞬間ごとにビーイング(存在)に明け渡します。瞑想状態がひとりでに姿を現すのを許しながら...、そしてそれは、Nowのパワーによってなされているのです。
●初心者
みなさんの多くが純粋なアウエアネスの状態にイニシエートされています。しかし本当にソレが既に目覚めた状態だと信じていますか?自分を信じているでしょうか。自己の仏生を信頼していますか?あるいは依然として第二の頭を探しているスピリチュアル乞食のままでしょうか?
求道者の大多数が抱えているメインの問題は、ある種の劣等感です。なぜならエゴは自らを証明したがり、現実において、より良くなろうとするからです。私達の自己の値打ちを見つける努力は、それとは正反対のものを創造します。自己価値の感覚です。
社会に暮らすことから来るこの無価値の感覚と共に、再び私たちは精神的な道に入ります。ブッダをスーパーマンと見なし、自分たちを取るに足らない者と見るのです。探求者がブッダを見る見方は、普通の人々が権力を持つ政治家や皇帝達を見るのと同じだとお気づきですか?同じ投影です。
劣等感から自分を解放しない限り、アナタは自身のセルフを決して信じないでしょう。劣等感は謙遜ではなく愚かさです。無価値だと感じているのはエゴなのです。エゴは自己中心的でプライド高く傲慢なばかりではありません。エゴは自己憐憫し、いつも罪悪感を感じていてコンプレックスでいっぱいでもあるのです。この実体のない自己イメージの周りを回ってるエゴ-マインドゲームから抜け出す唯一の手段---それはマインドを超えて行くことです。
真の謙遜とはマインドのものではありません。それはセルフのサイレンスです。人が謙遜状態にいるとき、自分が控えめだとは知りません。自分が控えめだと知った途端、もはや控えめではないのです。
アナタの仏性を信頼して下さい。人が本来ブッダだということを信頼するのは傲慢なことではありません。それどころか、それは究極なるものに払う敬意なのです。アナタは何でできているのでしょうか?創造の光ではないでしょうか?「自分は取るに足りない者だ。悟りなんてもったいない」と考えながらあちこち歩き回り、自分を哀れんでいるなんて、ホント、病気です。
実はそれは謙遜ではなく、エゴの傲慢です。エゴは自身を強化することで傲慢になるだけでなく、自己否定を通しても傲慢になります。それは更にもっと洗練された別形態の傲慢です。アナタは神聖な存在であり、惨めな探求者ではないのです。自分を尊敬し、内なるブッダに敬意を払って下さい。
みなさんの中にはステート・オブ・プレゼンスが覚醒のエッセンスだと信じていない人もいます。なぜなら「爆発」を経験しなかったからです。なんと馬鹿げたことでしょう。みなさんは偉大な悟りや驚愕すべき突破感、光の爆発など、あらゆるナンセンスな禅やヒンズー教の逸話を吹き込まれているのです。
こうした逸話はアナタの探求を鼓舞するかわりにマインドを毒し、両肩に重荷のようにのしかかっています。この重荷を投げ出しなさい!自由になるのです!悟りに関するあらゆる概念を忘れ、マインドから消し去り、内側を綺麗に洗い清め、フレッシュに無垢になるのです。真実を見いだし、真理の概念や解釈に囚われない真の初心者となりなさい。
●初心者
アンタらの多くのモンが純粋なアウエアネスの状態にイニシエートされとる。そやけどホンマにそれが既に目覚めた状態やと信じてなはるか?オノレを信じとるやろか。自己の仏性を信頼しとるかいな。あるいは相も変わらず第二の頭を探しとるスピリチュアル乞食のままでっしゃろかな。
求道者の大方が抱えとる主な問題は、ある種の劣等感や。なぜならエゴはオノレを証明したがって、現実においてより良うなろうとするからや。ワシらの自己の値打ちを見つける努力はそれとは正反対のもんを創造するんや。自己価値の感覚やな。
社会に暮らすことから来るこの無価値の感覚と一緒に、またワシらは精神的道に入ってまうんや。ブッダをスーパーマンとみなして、自分らを取るに足らんモンと見るんやな。探求者がブッダを見る見方は、普通のモンが権力を持つ政治家や王族達を見るんと同じやと気付いてなはるか。同じ投影やで。
劣等感からオノレを解放せーへん限り、アンタはオノレのセルフを決して信じはせんやろな。劣等感は謙遜やのうて愚かさなんやで。無価値やと感じとるんはエゴなんや。エゴは自己中心的でプライド高うて傲慢なだけやない。エゴは自己憐憫して、いつも罪悪感感じとって劣等感でいっぱいでもあるんや。この実体のない自己イメージの周りを回っとるエゴ・マインドゲームから抜け出すたった一つの手段---それはマインドを越えて行くこっちゃ。
ホンマの謙遜とはマインドのもんやない。それはセルフのサイレンスや。人が謙遜の状態におるとき、オノレが控えめやとは知らんもんや。オノレが控えめやと知った途端、もう控えめではないんやからな。
アンタの仏性を信頼しなはれ。人が本来ブッダやいうことを信頼するんは傲慢な事やない。それどころか、それは究極なるもんに払う敬意なんやで。アンタは何で出来(デケ)てんのや?創造の光やないか。「自分は取るに足らんモンや。悟りなんぞもったいない」てなこと考えながらあちこち歩き回って自分を哀れんどるなんぞ、ホンマ、病気やで。
実はな、それは謙遜やのうて、エゴの傲慢や。エゴはオノレを強化することで傲慢になるだけやのうて、自己否定を通しても傲慢になるんや。それは更にもっと洗練された別形態の傲慢や。アンタは神聖な存在であって、惨めな探求者やないんやで。オノレを尊敬して、内なるブッダを拝みなハレ。
アンタらの中にはステート・オブ・プレゼンスが覚醒のエッセンスやとは信じとらんモンもおる。その訳は「爆発」を経験せなんだからや。なんとバカげたこっちゃろな。アンタらは偉大な悟りや驚愕すべき突破感やら光りの爆発なんぞ、あらゆるケッタイな禅やヒンズー教の逸話を吹き込まれとんのや。
こうした逸話はアンタの探求を鼓舞する代わりにマインドを毒して、両肩に重荷のようにのしかかっとる。この重荷投げ出しなハレ!自由になるんや!悟りに関するあらゆる概念忘れて、マインドから消してもうて、内側キレイに洗い清めて新鮮に無垢になるんや!真実を見つけ出して、真理の概念やら解釈やらに囚われん、ホンマモンの初心者になんなハレやー。
覚醒--両尖の剣
質問:座っているときは注意力ソノモノを経験できますが、外に出ると内側とのつながりを失います。何かコメントして頂けますか?
アウエアネスが完全に覚醒していないためにそのような困難を経験するのです。アナタは二つの現実、内側と外側を同時に経験する事ができません。内側への気付きと外側への気付きを同時に経験することができないのです。アナタの気付きは内か外かのどちらかです。
しかしアナタが学んでいるのはこれら二つの現実を同時に経験することです。それが気付きの経済作用です。覚醒した気付きは両端が尖った剣のようなものです。外に突きつけられていると同時に内にも向いています。一部は常に純粋な「I」つまり主体に気付いていて、他の部分は自在に生に参加している、そういう能力の開発を我々は望んでいます。
しかし初めはこの能力の獲得は困難であり、人はなにがしかの訓練を経る必要があります。アナタは赤ん坊のように徐々に成長します。最初にステート・オブ・プレゼンスを認識し、次にゆっくりと、活動の中でソレをキープする術を身につけます。歩いたり、食べたり、読んだり、他人と関わったりする間ソレをキープする事を修得します。
常に気付きを内側に保ち、アウエアネスの中心に向けます。成長するにつれてチャレンジは増大し、最もかき乱される状況でもステート・オブ・プレゼンスをキープできるようになるでしょう。自己想起の継続を作り出すにはマインドにとてつもないエナジーが必要です。だから難しいのです。しかしそのうち徐々に容易になります...それが進化というものです。
質問:大変な努力が必要です。時間がかかりすぎると思うのですが...。
長時間かかりますが、かかりません。私たちは特別な時代に生きています。進化は本当に加速しています。この次元は沸々と煮えたぎっているのです。過去に20年かかった事が今は数カ月で可能です。なにも慰めで言っているのではありませんよ。これは現実なのです。
ですからこれは本当に個人進化への投資に値する時代なのです。なぜなら結果がすぐに出るからです。しかしまた道の途上には困難もあります--人はシンプルに多大の努力をしなければなりません。それがアナタの責任です。実際、選択の余地はありません。無意識に逆戻りするか、光の中に成長するかのどちらかです。選択の余地は無いのです...それが分別というものです。人はこれらの困難を乗り越えねばなりません、そうすればサポートも得るでしょう!
ステート・オブ・プレゼンスを認識していますか?目を開けているときソレを感じることができますか?どのような経験でしょうか?頭の中にソレを経験していますか?
二つの修行
質問:サットサンに参加する以外に、日々の暮らしで従うべき肉体的手法や行動パターンがあるのでしょうか。
まず定期的に瞑想しなくてはなりません。時にはリトリート(集中瞑想)をする必要があります。しかし最も重要なことは、マインドの中のアウエアネスのセンターを認識し、ソレを行為の中にもたらす事です。アウエアネスのセンター、つまり、ザ・ステート・オブ・プレゼンスは座禅姿勢の中のみにとどまらず、あらゆる状況下で培われるのです。どういう状況でもソレを覚えている必要があります。歩いていようが、食べていようが、話していようが...。
しかし、もしステート・オブ・プレゼンスを認識しない場合、さらに困難なことになります。なぜならどのように修行していいか分からないからです。その場合はシンプルに、常に呼吸と繋がることをお勧めします。ただ呼吸に気付いていて、周りの状況に覚めている。これがステート・オブ・プレゼンスを認識しない方々にとっての二つの基本的修行です。
今はココにあらず、ココは今なり
生徒:貴方の言われる、「居るべきはココでなく、今」というのは理解に苦しみます。私たちはいつも「ココ今」に居るようにと教えられてきました。なのに貴方は「今」しか仰いません。説明して頂けますか。
教えには多様なレベルがあります。基本的な教え、赤ん坊の為のものがあり、深く突破して行く教えがあります。例えば殆どの教えは環境に覚めていることについて語り、経験的な現実への気付きを教えます。大多数の探求者にとって、修行とは自分の行為に気付いている事を意味します。
しかし私たちはここで「行為に気付くな---むしろ行為者に気付け」と言います。「ココ今」...この良く聞く言葉は完全に正しくさえありません、なぜならNowが本当は何なのか誰も知らないからです。それは「ココと現時点」とでも呼ばれるべきものです。現時点とは経験的現実と我々との繋がりの象徴です。経験的現実とは生の客観的側面の直接の経験の事です---見るもの、触るもの、聞こえるもの...。大多数の人にとって、これがマインドから外に出る唯一の手段です。周りの状況に気付いている場合、アナタは少なくともメンタルな耽溺からの救いを経験します。しかしソレは依然として夢です。「ココと現時点」に居ることは夢の中で意識的になるということです。それはある種、「醒めて見る夢」です。(笑い)
アナタが経験として記録することは全て過去です。現時点とはNowではなく隣接した過去なのです。皆さんが聞いているこの言葉さえ過去のものです。何故なら音や視覚が伝わるには時間が必要だからです。相対的に近いために今起こっていると思うのです。しかしそれは幻想です。毎晩見る星たちはもう存在していないのかもしれません。光がこの惑星に到達するには途方もない時間がかかるからです。たぶん私たちは、大昔に死滅した星たちを愛でているのでしょう!
Nowは非常に速いのです。ソレは直接のものです。既に存在します!アウエアネスさえも隣接の過去の中に認識されるのです。問題はNowへの扉はどこにあるのかということです。もし経験すること全てが既に過去だとしたら、どうやってNowを知ることができるのでしょうか。
入り口はビーイングです。ビーイングはNowの垂直のリアリティーに相当します。ソレは直接のものです。そこへ行く手段は手放すこと、非行為... アナタはNowに到達できませんが、Nowがアナタに到達出来るのです!アナタに出来るのは、手放すことで自分を即応可能な状態にすることだけです。アナタの不在の中に「在るがまま」が顕現します。邪魔をしたら過去しかありません。Nowの住処はどこにもないのです。
来たらず、去らず、留まらず、ただ存在しています。
生徒:どのようにビーイングに焦点を合わせるのでしょうか。
ビーイングに焦点を合わせることはできません。ビーイングはアナタではないからです。只ビーイングへと手放して行けるだけです。焦点を合わせたいと望んでいる人の不在---そこにビーイングは在ります。
立派な人--アナタ
生徒:貴方の話を聞かせて頂けませんか。五歳の時に最初の目覚めを体験するなんて驚きです。
私の話を手短にしますと---私はココ、今に居ます!
生徒:立派な人に会うチャンスはそうそう有るものではありません。貴方の「道」を聞くことで、私の道を見つける助けになると思うのですが。
立派な人とはアナタのことですよ!シンプルに御自分にお会いなさい。そんなに難しいですか。ただ呼吸してリラックスします。内側の立派な人に出会いましたか。
生徒:難しいです。手伝ってくださいますか。
この一大事の中で、私たちはお手伝い以外は何もしてませんよ。しかし、アナタのマインドが邪魔をしています。マインドは常に不幸で、絶えず「より以上」を探し求めています。マインドを手放さない限り惨めなままですよ。発見とは探すのを止めることです。ただ「在るがまま」へとリラックスしてお行きなさい。
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●立派な人--アナタ
生徒:貴方の話を聞かせて頂けませんか。五歳の時に最初の目覚めを体験するなんて驚きです。
ワシの話を手短にすると・・・ワシはここ、今におります!
生徒:立派な人に会うチャンスはそうそう有るものではありません。貴方の「道」を聞くことで、私の道を見つける助けになると思うのですが。
立派な人とはアンタの事やで!シンプルにオノレに会うたらええ。そないに難しおまっか。ただ息してくつろぎなはれ。内側の立派な人に会えましたかいな。
生徒:難しいです。手伝ってくださいますか。
この一大事の中で、ワシらは手伝い以外なーんもしてまへんで。そやけどアンタのマインドが邪魔しとりまんな。マインドは常に不幸で、絶えず「より以上」を探し求めてまんのや。マインドを手放さん限り惨めなままでっせ。発見とは探すんを止めるいうこっちゃ。ただ「在るがまま」へとくつろいでお行きなはれ。
エゴとソウル--進化の複雑さへの理解
生徒:貴方はアウエアネスとビーイングの後でハートを最後に目覚めさせると仰いました。OSHOは最初にハートが来て、その後でビーイングだと言われます。どちらが正しいのでしょうか。
進化は直線的ではありません。全ての探求者が同じ場所から始める訳ではないのです。既に目覚めたハートと共に生まれてくる人たちもいます。私たちが提供するモデルは独断的なものではなく、大多数の探求者に当てはまる基本的骨子です。なぜ私たちは最後にハートに働きかけるのでしょうか。もちろんそれには理由があります。
最初からハートに働きかける場合、アウエアネスの目覚めが遅延する可能性があるのです。なぜならハートは非常に女性的で、マインドの不完全な集中を溶かしてしまえるからです。アウエアネスの目覚めには男性的エナジーが必要です。人は本当に集中しなければなりません。それ以外に手段は無いのです。普通の人間にとってアウエアネスの結晶化は大変な仕事です。ハートに働きかけることは美しいのですが、あまり早期にそれをやると、ただ単に完全に無意識のままに留まるかもしれません。
なぜ私達はハート以前にまずビーイングを強調するのでしょうか。それはエナジーがビーイングへと行くためには丹田へと引きつけられねばならないからです。もしハートに焦点を合わせていたら、このエナジーを下に持ってくることが難しくなります。殆どの場合それは既に上に上がりすぎていますからね。別の見方をしますと、既にビーイングがなければ、人は意義深いやり方で真にハートに到達する事はできないのです。そのような場合は単に感情的で表層的なハートの層しか体験しません。本当に深くハートに入っていくには、単にそれを感じるだけでなく、如何にハートの中に「在る」かを学ばねばなりません。
ハートとハラは表面上分かれているように見えて、実は海底では繋がっている二つの島のようなものです。ビーイングとハートが出会うとき、二つは一つに溶け合います。その後はもはや両者間に違いは無くなります。
いろいろな魂が異なる進化の味わいを持っています。ですから個人的指導が行われねばならないのです。一般的教えがあり、個人への教えがある。そのような教えは皆さん一人一人のユニークさを考慮のうえになされます。アウエアネスより先にハートが活性化されるべきケースがあります。例えばハートがあまりにも閉じてしまっている探求者の場合です。ハートが閉じ過ぎている場合は、まるでハンディキャップを負っているようなものです。何かが根本的に為されねばなりません。
賢明に思慮分別を持ってスピリチュアルな教えを見て下さい。OSHOの信奉者の多くは、どちらかというと独断的で想像力に欠けているようです。彼らはOSHOを引用するのを好みます。「OSHOがこう言った...」OSHOが何を言ったかではなく、真理が重要なのです。誰彼となく盲目的に引用したりせず、むしろ「理解」しなさい!
自分の真理を見つけなさい。ただ単に外側の教えに従っていてはいけません。アドバイティストやブッディストやOSHOイストにならないように。また決して彼らを否定することもないように。研究し、学び、比較し、確かめて、自分の知性の炎でテストしてみなさい。しかし要は、素っ裸のリアリティーを直接知ることだと知りなさい。
どんな信奉者にもならないことです。信奉者は死んだ探求者です。信奉者になりたがるのはエゴであってソウルではありません。ソウルは真理のみに従い、真理は人類の如何なる伝統にも属さないのです。
どうか私達がここでOSHOから学ぶことに反対しているとは思わないで下さい。ラジニーシは偉大なマスターであり、別格のマスターでした。しかし盲目的に彼に従えば、アナタ自身が彼の教えに背くことになるのです!サニヤシンの中には他のマスターの元に行くことはOSHOへの裏切り行為だと思う者もいます!なんと馬鹿げたことでしょう!マスターとは誰なのでしょうか。OSHOとは誰でしょう。マスターに型や名前は無いのです。OSHOとはプーナやオレゴン時代から知っている特定の人物だと思っていたら大間違いです。それはアナタが、まだスピリチュアルな道に入ってさえいない証拠です!
エゴとソウル2---真のノーマインド
本題に戻りますが、進化には当然、全地球的な原則があります。自分自身の道を見つけることは、人類が獲得してきた全ての知識を落とすことだ、などと考えるべきではありません。そんなことは幼稚かつ非現実的であり、単なる愚かな傲慢さの表明でしかありません。
覚醒のサイエンスは、過去数千年の間に発達してきました。たとえ各個人が自分のユニークなブループリント(設計図)を認識する必要があるとはいえ、それでも我々のブループリントは、人間進化の地球的ブループリントの中に含まれています。ですから誰もが少なくともある程度、I Amに目覚めなければならないのです。
誰もがアウエアネスを目覚めさせる必要があります。誰しもハートを目覚めさせる必要があり、なにがしかのビーイングとの繋がりに到達する必要があります。しかしどれ程深く行くかは、特定のソウルの潜在能力と願望次第です。全員が絶対状態を悟る必要はありませんし、ステート・オブ・プレゼンスをフルに確立する必要もありません。それは誰の成就に於いても必要不可欠という訳ではありません。
進化と覚醒の正しいビジョンを持つことが絶対に不可欠です。例えばアナタはラジニーシのサニヤシンの大集団の一員です。このグループの基本的条件付けは、ある幼稚なマインドの否定と、頭の中に居ることに対する殆ど本能的とも言える反発です。このグループにおいて非常に好まれる、いわゆる「ノーマインド」の概念は、その言葉を正しく理解せずに用いられてきました。ノーマインドとは頭の中にエナジーが無いことではありません。それは思考を越えたスペースに居る状態のことなのです。
しかしながら、事実このスペースは思考を含んでいますし、アウエアネスに関する限り、それは頭の中に位置しています。もしサニヤシンが自分達の姿勢を変えないなら、彼らに変容を体験出来る道はありません。マインドを超越するには、人はこのマインドの中に居なければならないのです。マインドを見つめるだけでは充分ではありません。何千年見つめ続けたところで何も起こりはしないでしょう。
ところで、観照もまたマインドの中にあります。なぜなら、それは知性の機能だからです。ノーマインドは何も観照しません。ノーマインドはただ単に在るだけです。サニヤシンは、ひたすらハートとビーイングの中に居ることを望みますが、もし彼らがアウエアネスを目覚めさせなければ、ただずっと無意識なままに留まるでしょう。本物のハートはアウエアネス無しには存在しません。アウエアネスに欠けるハートは、マインドの潜在意識の活動に覆われてしまうのです。
そのようなハートはマインドが支配していますので、それ自体不誠実なのです。別の面から言えば、アウエアネスの無いビーイングには深みもありません。なぜなら、誰がハートとビーイングを認識するのでしょうか。この誰とは誰のことでしょう。それはソウルであり、ソウルが意識的である為にはアウエアネスが必要です。また知性として存続するためには自己想起を必要とします。誰がハートに入って行こうと決めるのでしょうか。それは知性ではないでしょうか。しかもセンターの無い知性は信頼性に欠け、ハートをそれとして支える事が出来ないのです。
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