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甲斐の銘菓「くろ玉」を茶道の先輩が送って下さいました。「澤田屋 くろ玉 HP 」真っ黒ですね。まん丸で‥上手く開けられなくて形が少々歪になってしまいました。まん丸に直そうと思ったけれどあまり指で触ると指紋がついてしまうのでそのままで‥半分に切ってみました。あ〜〜中身は「青えんどう」なのですね。美味にございます今日で1月も終わりです。近くのお宅の紅梅も咲き始めました。では、私も紅梅のお茶碗で一服点てて「くろ玉」と一緒に‥少し濃い目のお抹茶を点てて頂くとくろ玉の甘さ美味しさがより一層、口の中に広がります。しばらくしてお隣さんから朝摘みの苺を頂きました。そのお返しに私は「くろ玉」をお裾分けをしました。和菓子も良いですが果物も良いですね。口の中がさっぱりしました。なんと、長閑で暖かな睦月の最終日でしょう。にほんブログ村
2024.01.31
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昨日の玉椿の「玉霞」に続いて「日本水仙」が咲きました。八重咲でとても香りが良い水仙ですがこれもまた、だいぶ遅い開花です。さてと‥2024年の桜の開花予想はだいぶ早まっているらしい‥1月も、もう終わりを迎えるので我が家の「子滝桜」に寒肥をしました。腐葉土と籾殻と糠を混ぜた手作りの寒肥です。寒肥は、本来は木々の根っこの周囲を掘って肥料を与えるのですがそんなスペースは我が家の狭庭にはありませんので毎年、上から土と一緒に寒肥します。よ〜〜く混ぜて土を均します。「今年も綺麗に可愛く咲いてね」と愛情たっぷりにお世話をしました。枝垂れ桜の周りを囲んでいた貝殻も並べ替えです。「初夏になったらまた、貝殻を拾いに行ってくるね」と桜に向かって言いながら一つ、一つ、並べてゆきます。どうせ、ニャンズにぐちゃぐちゃにされてしまうのだけど全部が全部、ごちゃごちゃにされてしまうわけでもありません。その証拠に貝殻の下は一年経っても、ほとんど雑草は生えません。素晴らしいグランドカバーの貝殻なんですよ。この暖かさで行けばあと1ヶ月ちょっとぐらいで花が咲くだろうと思っています。え〜〜〜っと去年の開花は‥あ〜〜やっぱり、「3.11」の頃でした。じゃあ、今年は暖冬だからも少し早く咲くかも知れない「3.11記念の子滝桜」です。にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.30
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暖冬のせいでしょうか‥今冬は、なかなか咲かなかった裏庭の冬椿。2ヶ月ぐらい、咲き遅れの冬椿の「玉霞」です。例年なら11月の下旬ぐらいから咲き始め、春の椿が咲き揃うころまで咲いてくれている筈なのに‥我が家では一番咲いている期間が長い花なのです。今年は、なんと遅咲きで今日、やっと一輪咲きました。2023年は返り咲きや狂い咲きの花が多かったけれどこの冬椿は記録的に遅咲きですこれは、明日は咲きそうです。玉椿が咲いてくれると広間の室礼にすごく役立つのです。どうしちゃったのかって思っていましたが咲いてくれて「嬉しい」「玉椿」ですにほんブログ村にほんブログ村
2024.01.29
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高層ビルの窓から見る夜景はまるで宝石箱をひっくり返したように眩いばかりに美しいですね。そんな高いビルの窓をお掃除してくれるお仕事。たまたま、間近で見るチャンスがありました。実に「カッコイイ」お仕事ですね。あっという間にキレイにしてしまうのです。危険なお仕事ですが慣れてしまえば、そんなに辛い仕事ではないと言います。何故普通のお仕事って就労時間が7〜8時間ぐらいアルバイトでも4〜5時間は働きますがビルの窓拭きは、1日、1〜2時間なのだそうですあまり慣れてしまうとかえって危険なので短時間作業だとか‥カッコイイなぁ〜って思ったお仕事でした。さて、私はこれから今日も日帰り温泉ですにほんブログ村
2024.01.28
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1974~1975年5月までに企業爆破事件は起こった。>1974年8月30日 - 「狼」班による三菱重工ビル(現:丸の内二丁目ビル)爆破(三菱重工爆破事件)。 8名が死亡、376人が重軽傷。10月14日 - 「大地の牙」班による物産館(三井物産本社屋)爆破(三井物産爆破事件)。16人が重軽傷。11月25日 - 「狼」班による帝人中央研究所爆発(帝人中央研究所爆破事件)。12月10日 - 「大地の牙」班による大成建設本社爆破(大成建設爆破事件)。9人が重軽傷。12月23日 - 「さそり」班による鹿島建設資材置場爆破(鹿島建設爆破事件)。>1975年2月28日 - 三班合同による間組本社ビルと同社大宮工場爆破(間組爆破事件)。5人が負傷。4月19日 - 「大地の牙」班によるオリエンタルメタル社・ 韓国産業経済研究所爆破(オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件)。4月28日 - 「さそり」班による間組京成江戸川作業所爆破(間組爆破事件)。1人が重傷。5月4日 - 「さそり」班による間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破(間組爆破事件)。その頃、私はまだ大学生だったが就職の決まった会社での研修期間の頃だった。衝撃的に覚えているのは先輩の社員と一緒に取引先の人たちと夜になっても打ち合わせをしている時のことだった。物凄い音がした。「間組爆破事件」であった。爆破事件があちこちで起きていることは承知していたけれどまさか、自分が居るすぐそばで爆破事件が起きるなんて想像も出来なかった。それから、その後商談はどうなったのか?そこにいた人たちはどういう行動をとったのかも覚えていない‥正直に言えば爆破事件に本当に遭遇したのにこの爆破事件の時の自分の行動はあまり思い出せない。昨日、半世紀も逃亡を続けていた連続企業爆破事件の容疑者が見つかった。メディアに報道されている犯人の手配書は、この50年の間どこに行っても掲げられていた。50年‥氏名を偽りながらどうやって暮らしていたのだろう‥あの頃、あちらこちらを爆破して何をどう変えたかったのだろう‥さて、話を当時に戻そう‥この頃、偽の爆破予告が相次いだ。私は、飯倉にある会社に勤めていた。ランチタイムが始まる頃だったと思う。突然、館内放送が大声で流された。何が起きたのか全然判らなかった‥今までそんな放送は一度もなく大体、なんのことか理解が出来なかった。どう言ったのかは全部は覚えていないけれど「貴重品やバッグやカバン類は持たずに身一つでただちにビルから避難して下さい。」こんな内容だったと記憶している。何が起きたのかは全く知らされずにビルの外の交差点の向こう側に大勢が避難した。その後、警察だか機動隊だかなんだか分からないけれど大勢の人がやってきた。ビルから出てきた人たちで交差点近くは騒めきたっていた。よく見るとその群衆の中には会社の偉い人たちも他社の会社の人たちもたくさん混じっていてカバンを持っている人は警察の人に何か聞かれたり手荷物チェックをされ厳しい表情に双方がなっていた。交差点付近はすぐに通行止めになり物々しい状態に刻々と変化していった。2〜4時間くらい外で待っていて何がどうしたのかを知ったのは随分あとの事だった。「〇〇ビルに爆弾を仕掛けた」という電話があって私たちはこのビルから誰も彼も全員外へと出たことが分かり爆弾事件なので何かを持って外に出ることは禁止なのでありビルの中にいた人は全員、身元の調査が行われた。この偽爆弾騒ぎの事は何故か、よく覚えている。たぶん、「間組爆破事件」の後だったし社会人としても少しは大人になっていたのかも知れない。その後も、都内ではあちこちで「爆弾予告」の偽の電話や手紙が届き、落ち着かない日々が続いたのである。考え方の違いは誰にでもどの国でもある。それを何も関係のない市井の人たちに害を及ぼしたり命を奪うことはたとえ、その人たちが言っていることに一理あったにしても決して許されることでない。ただのフェイクでは済まないのである。そのあと、取引先ともギクシャクして悩んでいる人がいたことも事実である。「悲しい余談」財布を持って外に出ることが出来なかったので外にいる間にお腹が空いてしまったが近くのレストランや喫茶店にも入れなかった。会社の中高年のオジ様たちは交差点から少し奥に入ったところのツケの効く麻雀店で時間潰しをしていた。何しろ、この現場から立ち去ってもダメなのです「あ〜小銭だけでも持ってくれば良かった‥」「いったい、いつまで此処で待機してればいいの?」で、このBlogを書いていて気がついた‥今だったらスマホも持って出てはいけないのかも知れない‥混迷の時代は今も続いている。にほんブログ村
2024.01.27
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「徳川家重」(とくがわいえしげ)は、1711年(正徳元年)に八代将軍吉宗の長子として紀州藩赤坂中屋敷にて生まれ、幼名は「長福丸」と言う。1716年(享保元年)、父の徳川吉宗が八代将軍に就任することとなり、長福丸も父に付き従って「江戸城二の丸」へ入る。1725年(享保10年)に14歳で元服。そして20歳になった1731年(享保16年)には、皇族である「伏見宮邦永親王」の第4王女「増子女王」と結婚。徳川家重は生まれながらの虚弱体質で、障がいのために発する言葉が不明瞭でありそのせいか多くの人との交流を好まず、大奥に籠りがちで、青年となってからは酒色にふけり猿楽能楽を好み益々健康を損なっていくことになる。どこの家でも現代もそうであるかも知れないが長男があまりに頼りなく酒と女と道楽に溺れていたら「後を継がせる」のを躊躇うかも知れない。それは、八代将軍吉宗も同じであった。家重の弟の徳川宗武は幼い頃より勉学に励み、聡明であったと伝えられている。ここに「継嗣問題」が頭をもたげてくるのである。徳川家の基本は「直系の長男による相続」これを破ることで兄弟間や親族、さらには派閥に与する家臣らによる後継者争いにより徳川家内部の秩序が乱れるのは避けたい。いろいろあって残念ながら徳川宗武の擁立にはならず1745年(延享2年)、徳川吉宗は隠居して「大御所」となり、徳川家重は36歳で九代将軍に就任。さて、徳川家の話の中でよく出てくる言葉に「御三家」がある。「尾張徳川家」「紀伊徳川家」「水戸徳川家」そして吉宗が定めた「御三卿」がある。田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)これは、九代将軍を決める時に生まれ出た結果とも言える。さて、この頃の「大奥」であるが‥家重は父 吉宗が大御所として後見役をしていた間は勿論ものことであるが宝暦元年吉宗が亡くなってからも将軍としての政治は行なっていない。と言うことは「大奥」で過ごすことが多く特に側室お幸の方を寵愛した。元文2年、まだ家重が世子時代に徳川本家の第一子として嫡子誕生。幼名は家康ゆかりの「竹千代」と名付けられてのちに「家治」と名乗る。吉宗はこの孫の家治を寵愛し期待をを寄せる。この間、家重のもっぱらの近習は大岡忠光である。忠光は16歳で家重の小姓となり家重に気に入られ宝暦元年には一万石の大名に取り立てられ、同6年には武州岩槻二万石の城主となる。忠光は家重の不明瞭で聞き取りにくい言葉をよくよく聞き分けることができたことから巧みに家重の気分を察することが出来たと言う。当然ながら家重のとのコンタクトとは忠光無しではうまく行かないので忠光は表使いも大奥でも権勢を持ったと言える。この忠光に認められたのがあの「田沼意次」であった。大奥でもこの時代はかなり乱れていたことは想像するに難く無いが大御所吉宗や大岡忠光などの支えがあり享保の改革期よりも幕府財政は少しは安定し幕府の貯金銀も増加している。九代将軍家重は徳川将軍の中で最も暗愚な将軍と言われているが暗君を擁して専権をふるうような人物も出てこない。酒と女色に溺れてはいたが元来、病弱のためそんなに多くの子も成していないのが平穏を保てた一つの理由であったやも知れぬ。1745年、八代将軍吉宗が逝き1760年、大岡忠光が逝きいよいよ側用人「田沼意次」の時代がやってくる。にほんブログ村
2024.01.25
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暮れからお正月にかけて着ていた着物や小物類を片付けました。特に、帯揚げ、帯締めは仕舞い置く引き出しを変えたので一枚ずつ、一本ずつ取り敢えず、整頓しました。数えてみると帯締めは60本ほどありました引き出しは帯締めだけでいっぱいです帯揚げも色順はバラバラですがアイロンをかけて皺をとって並べ数えてみると54枚ありましたこれだけあるから着物を着る時にどれとどれを組み合わせるかで悩んでしまうのです。着物は、ここ4〜5年の間にずいぶん処分しました。数えてはないけれど50枚ぐらいは生徒さんや又従姉妹にあげてしまいました。それでも、なかなか片付かない和箪笥です帯もよく締めるものだけにしてあまり締めない帯は畳紙に包んで箪笥の盆に仕舞いました。整頓は簡単ですが整理は、そう簡単には出来ませんね〜とは言え、片付けは終了しました余談昨夜の不思議なこと‥夜9時ごろから雨になりました。真夜中には雪になると予報が出ていました。10時半ごろ、門を閉めたかの確認に外に出ると冷たい霧雨でした‥が‥ほんの束の間、なんとお月様が見えたのでした。「え”〜〜雨が雪に代わりそうなのに‥」昨夜は、十二夜ぼ〜っとしている月が私を見ている様でした。「月待人」です今日1・24は、当市は朝から上天気です。にほんブログ村
2024.01.24
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天から雨が降ってくる。その形は、雨だったり霙だったり雪だったりと‥その恵みで地球上の生物は生かされている。雨は空から降り注いで流れとなって低いところへと休まずに進んでゆく。雨の雫が流れとなって川になる。川から流れてしまうだけではない。(上の3枚の写真はネットからお借りしました)それを堰き止めるのが森林である。森の役目は水を溜めておく「水瓶」。そこから少しずつ窪地に水が溜まり湖沼になってゆく。湖沼の水も海へと続いている。水が無ければ生きてはゆけない‥地球は今現在「水の惑星」でありほとんどの生物は水無しでは生存は不可能に近い。天から降った雨はやがて大海に流れ込み、それはまた水蒸気となって天空に戻り、雨となる。素晴らしい地球の循環システムである。この「水」をどうにか引いてきて生活に利用しているのが私たちである。元日の能登大地震で今もなお、被災者が困っているのは「水」である。「断水」‥大きな災害が起きるたびにこの「断水」が付いて回る。例え、台風で雨がものすごく降っても「断水」なのである。去年の6月に我が家周辺は台風のために老朽化した水道管や下水道管が壊れてしまった。その工事はいまも続いている。家の周りの道路は日替わりの様に場所を移って工事を続けている。工事完了は「3月末」と言われている。<あっ、水道水はちゃんと出ていますよ>能登地方の水道管の復旧工事は2月末、3月末、4月末とそれぞれの地域で異なるが、それでも出来るだけ早くのどこよりも優先的に工事がなされているのだろう。復旧工事をしている方々には頭が下がります。本当にご苦労なことだとお察し致します。蛇口を撚ればすぐに「水」が出る。日々、当たり前の様に思っていることだが一旦、「水」が出ないとどうしようもないのである。「断水」は東日本大地震の際には私自身も経験している。毎日、給水場に行くのは大変なことだった。自然の災害はその途轍も無い「力」で襲ってくる。防ぐことは出来ない。どう頑張っても「防災意識」を高めるくらいが関の山であることも知っている。ともあれ、1日でも早くに水道の水が出る様に祈るばかりである。(水道管と蛇口の写真はネットからお借りしました)小さなことかもしれないけれど私も車で家を出る時帰る時迂回しないでいつも通りの道を通りたいと思っている。おや当市にも天気予報で❄️マークが付きました冬将軍がやってきました。雪は今夜なのでしょう‥あまり居座らないで過ぎ去っていただきたいと心から願うところです。にほんブログ村
2024.01.23
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昨夜、「大河ドラマ」を見ていました。よく皆が云うところの「王朝時代」って何時の辺りのことを言うのか‥日本史に詳しくない方のためにちょっと「王朝時代」のさわりだけ書いてみることにしました。平安京は桓武天皇の延暦13年(794年)の遷都によって始まりましたが「万代宮(よろずよのみや)」と宣せられたのは平城天皇を経て嵯峨天皇の御代になってからのことでした。嵯峨天皇は、すべて「唐風」によって儀式を行うことを本旨とされました。嵯峨天皇の弘仁時代はまさしく唐風文化の最盛期でもありました。しかし、日本を取り巻く東洋の政治は動乱機に向かいやがて、中国の「唐」も衰退してゆきます。宇多天皇の寛平6年(894年)に菅原道真の献言により遣唐使の廃止され朝鮮半島の新羅が滅び渤海も滅亡してしまいました。日本も唐にならった律令の制度が崩壊に向かい新しい令外(りょうげ.令に規定されていないこと)の官や組織が生じてきます。朝廷の人たちの生活も唐風な瓦葺の建物から木造で板の間に畳を敷いて座る形式となってゆきます。これに伴い服装の形態も変化し「今様」と呼ばれる女性の唐衣、裳、五つ衣、十二単、男性の、束帯、衣冠などへと変化してゆきます。「王朝時代」と呼ばれるのは平安時代の内、前期を除いて藤原氏による摂政、関白としての行政体制が中心であった10世紀から11世紀後半までの時代でありこれに続く「白河法皇」の院政時代へと続いてゆくのです。さて、大河ドラマ「光る君へ」に登場してくる女性の中で主役の「紫式部」と同様に大変に教養溢れる女性があと、二人います。紫式部さんよりも先輩格になる女性です。今週の大河に初登場した女性。「赤染衛門」です。詳しくは上記をクリックしてください。百人一首59番 「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけてかたぶくまでの 月を見しかな」現代語訳をするとあなたが来ないと分かっていたらためらわずにさっさと寝ていただろうに。あなたを待ってるうちに夜が更けてしまい、とうとう明け方に西に傾こうとする月を眺めてしまいました。これは、代作と言われています。赤染衛門の姉妹さんのどちらかのために代わりに詠んだと伝えられています。そして紫式部と言ったらこの女性は外せませんねー「清少納言」です。上の図は「香炉峰の雪」の場面ですね。清少納言の「枕草子」は「源氏物語」と並び称されますが「枕草子」は随筆の最高峰ですし「源氏物語」は物語の最高峰で比べようもありません。王朝時代には多くの女流歌人がその魅力を一気に爆発させました。今、現代においてもこれだけ素晴らしい文章、和歌、物語を書けるうら若き女性はそうそう居ないと思います。紫式部の書き残した「源氏物語」は世界各国の40以上の言語に翻訳されているそうです。平安時代、鎌倉時代、室町時代安土桃山時代、江戸時代、明治、大正、昭和、平成、そして令和へと連綿と続いている「王朝の雅」への憧れ。それは、宮中で行われたきた儀式が私たち庶民の間にも定着していったからかも知れませんね。大寒を過ぎれば春を告げる「立春」がやってきます。その立春の前日が「節分」ですから今でも、やはり宮中行事は少しづつ姿を変えながら繋いで続いているのですね。にほんブログ村
2024.01.22
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七十二候(大寒・末候)「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」大寒(1月20日から2月3日)は二十四節気の第24番目にあたり、一年で最も寒い季節です。1月30日から2月3日までは、七十二候の第72番目にあたり、鶏が卵を産み始める時期でもあるので「大寒」の食べ物はと言うと「卵」になります。今日は、朝から寒いです。空はほとんど曇っていて気温も低くニャンズは珍しく外には出かけずに朝からずっと暖かい部屋で寝ています。甘酒を作りました。酒粕をたっぷりとお砂糖もたっぷりと作りました。出来上がりに黒豆と生姜を入れてゆっくり飲むと身体が温まりますね〜やけに外が静かなので窓から見てみると‥雪です‥雪がハラハラと舞っています。積もりはしないと思うけれど夕方から雨になり明日は本降りの雨の天気予報が出ています。雨も降ってくれないとカラカラ天気は解消されません。水は「天からの贈り物」ですから一雨欲しいところです。昨日のワクチン接種した左腕が重く少し痛いです。今日もダラダラと家でビデオを見て猫と戯れて過ごしましょう‥あっ寒いから日帰り温泉に行こうかな〜にほんブログ村
2024.01.20
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ここ3〜4年、世界中でいろんなことがありました。世界の危機はいつから始まっていつ終結するのでしょう‥新型コロナウィルスのパンデミックから各国での紛争、戦争、政治の腐敗混迷する経済、飢餓、殺戮‥年が明けたら明けたで能登における大地震や羽田炎上、政治の裏金など嫌なことばかり続いています。今日は7回目のコロナワクチンを接種してきました。この新型コロナウィルスは年が移り変わろうが新しい年になろうが全然、どこ吹く風で相も変わらずに変化をし続けて巨大な勢力を保っています。2024年になってコロナウィルスは、またバージョンアップして私たちの身体を棲みついてその子孫を残そうと懸命な努力をしているかのようです。人間は、戦争なんかやってる場合じゃないことは分かってくるくせにどうしても己の利益を考えてしまうのですね。悪いことにお金を使っている暇があるなら、次の世代が明るく笑って暮らせるような世界にしたいとは思わないのでしょうか‥そう言い続けている人間社会ですが有史以来、一向に強欲な心を改められない人間です。私たちが、世界の諸事情に振り回される間にウィルスはどんどん進化し人間なんかに負けない「力」を得てゆくのでしょうね。今現在、インフルエンザとコロナウィルスそして、日本人の国民病とも言える花粉症が流行ってきました。あ〜〜、どれもこれも鼻や喉や熱が出たりしてなんの病いなのか即座に判断できないようですどうしましょうね‥どうしようもないのかも知れませんね今日は、大人しくして撮り溜めしてあるビデオを見て過ごしま〜〜すにほんブログ村
2024.01.19
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朝から、花木センターに行って春の花を探しました。今回は切り花では無く寄せ植えの花を探してセンター内をぐるぐる巡りました。クリスマスもお正月も終わって花も今はバーゲンセール中なのです5株の花をやっと選びました。小さな白いデンドロビューム。赤いミニシクラメン。プリムラ.ジュリアン。かなりお得な単価で買い求めることが出来て満足な私ですさぁ、物置に重ね仕舞ってあるそれなりの植木鉢を選んで寄せ植えしましょう1時間ほどで出来上がりです。この下向きのデンドロビュームがなんとも可愛いシクラメンが下向きなのでそれに連動しているかのようでしょう赤いシクラメンと紫色と黄色のプリムラジュリアンが目立ってイイかもです。白、赤、黄色、紫色、緑、茶色ここに薄い色合いの花は入る隙間がない程の原色最強の色の組み合わせだと思うのですが‥出来上がりの春待つ寄せ植えです。松ぼっくりは冬の名残ですよぉ〜そして、これから花の色はだんだんパステルカラーの春へと向かって行くのです。余談:ちなみにこの花の値段は全部でいくらだったと思います当たったらすごい目利きですよ〜にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.18
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小正月から大寒そして立春ですが明日から「冬の土用」の入りになります。広間の室礼を変えました。大正月が終わって女正月で年神様をお見送りして新しい季節を迎える準備の期間ですね。2024年のNHKの大河ドラマは紫式部と藤原道長の物語「光る君へ」が始まりました。平安時代の歴史上の登場人物をご存知の方は問題はありませんが、なかなか相関図が難しいのではと感じています。せめて、「百人一首」ぐらい知っていると登場してくる人がどんな人かは分かるかもしれませんが‥天皇家のことも歴代天皇がどのように政治に関与してきたかを少しぐらい知っている方がドラマを理できると思います。「源氏物語」を描いた大河ドラマではないので、源氏物語を読んでいてもよくわからない大河ドラマなのです。「花の生け変え」暮れに買った啓翁桜がまだまだ綺麗に咲いています。千両も赤い実がぷっくらとしています。香合は干支の「龍」の紋様です。脇床には羽子板をまだ飾っています。女らしい羽子板は魔除け厄除けでもあるので今月いっぱいは飾っておこうかと思っています。今日は「阪神淡路大震災」から29年です。あの時の高速道路の横倒しの映像は衝撃的でした。それから、幾度となく大地震に襲われている日本ですがいくら防災しても地球の揺らぎには勝てる筈もありません。巨大な「力」を秘めている地球に抗うことは神域に触れることでもあります。とにかく、それぞれの人の穏やかな暮らしを願っての睦月半ばすぎです。さてさて、着物も片付けましょう。帯は母の帯を締めました。これは、道行ではなく被布です。着物と長襦袢は新品を身につけました。新しい長襦袢の色が個性的でしょこんな色の襦袢は売ってはいないので染めて頂きました。着物は娘の七歳のお祝いの時の着物を染め直して私が死ぬまで着られそうな色と模様に染め上げました。もう着物も作りません。そんなに先が長いわけではありませんものねにほんブログ村にほんブログ村
2024.01.17
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小正月は、1月15日ごろの行事です。主に14~16日までを小正月と呼びます。(地域によって違いはあります)大正月に対して小正月は「女正月」とも言われていますね。さて、お茶仲間のお知り合いの方の〇〇宮さんから「小正月の茶会」に招待されました。つまり、今回は私は「お客様」です。まずは、立派なお家に驚きました。ご挨拶やら茶会の準備のお話やらでなかなか席入りにはなりませんでした。左程、親しくはないので写真を撮ることは軽々しく出来ない感じでほんの数枚撮っただけでした。お菓子担当の友人はお菓子を一つ一つ丁寧に盛り付けていてちょっと緊張した面持ちでしたね〜可愛いお菓子でしょう‥友人と、その〇〇宮さんと二人でお作りなったそうです。お抹茶との相性の良い甘さのお菓子でしたがお菓子の名前を尋ねるのを忘れてしまいました内うちの初釜だそうで〇〇宮さんもご自分の家でお稽古ができるので私よりも年上ですが茶道を頑張って上のクラスを目指しているそうです。いくつになっても挑戦するのは良いことですね1月15日から明けて16日今日は、とても寒いのですが我が家のお床の室礼も変えましょうか‥小正月が過ぎれば今週末には「大寒」を迎えます。二十四節気の最後の季節分けです。暦の上ですが春は足音も立てずにそぉ〜っと近づいてきてくれるのですね。梅の蕾が膨らみ始めるのももうすぐ‥かな‥にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.16
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「サザエさんが体験王国いばらきにやってくる!!」あの有名な「サザエさん」のオープニングに茨城県が紹介されるのはなんとも嬉しいですね。私もこの県に住んで25年余り‥「ふるさと」ではありませんがこのオープニングを見ていると行ったところばかりです。「水戸の偕楽園」「ひたち海浜公園のネモフィラ」「あんこうの吊るし切り」「筑波山と帆引船」「袋田の滝」「鹿島神宮」「笠間の菊」「竜神峡」「茨城県フラワーパーク」「筑波山」他にもサザエさんで紹介されているいろんな場所に出かけて行っています。その辺りが根っからの県民ではない証拠です。去年の秋から年が明けても「茨城県」を紹介してくれています。干し芋は日本一の美味しさです。オープニングの最後に「猫のたま」がメロンの上に乗っていますが茨城県はメロンの一大産地でもあります。なんだか心が弾みます皆様もお住まいの県のいろいろな場所に行かれてみるのも良いと思いますよ。さぁ、私はこれから「小正月の茶会」に出かけます。にほんブログ村
2024.01.15
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どっちにしろ東京駅は利用するわけなのでちょっと銀座に行きましょう「ミキモト」のディスプレイは相変わらずに綺麗です。「和光」のディスプレイはどうなっているでしょうおっと‥「辰年」ですね〜〜正面から見るとこうなります「力」入っていますね〜「辰」は「龍」と書けば十二支の中で一番カッコイイものね三越の入り口の龍はずいぶん、可愛らしく控えめでした。夜の帳が降りて銀座はクリスマスの時とはまったく違った顔を見せています。銀ぶらは、やっぱりホッとします。「松屋」もスッキリしていました。ウインドショップは楽しい着物を着ている人は銀座でも少ないのねー7〜8丁目、新橋辺りなら着物の人も多いのだけど4丁目から有楽町、東京駅周辺では私以外で着物の人は見かけませんでした。(デパートでもです)デパ地下でお弁当を買って帰ります。おかずいっぱいのお弁当をGET美味しく頂きましたにほんブログ村
2024.01.14
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首都高速を通って行くとなんと有難いことに「富士山」が見えて来ました。遠くに霞んではいますが「初富士」ですよ〜あ〜〜もうこれだけで嬉しいですね以前、住んでいた世田谷の家からは毎日、富士山が見えましたが今の住まいからは富士山はなかなか見ることが出来ません。本当に嬉しい一時でした。昨日は煎茶道の初茶会。茶会を始める前に親先生のリクエストにお応えして千葉県市川市にある法華経寺に皆でお参りいたしました。こちらの法華経寺の支院だったお寺がある事件で江戸時代に世間をアッと言わせるのですがそれはまた、「大奥」考察の時にお話するとしましょうお参りも済んでタクシーで親先生宅へと急ぎます。先発隊は、もう「大福茶」の準備を済ませている筈です。五果のお祝い。前もっての写真は撮れませんでしたが五果とは李・杏・棗・桃・栗でどれもドライフルーツで一つずつ5種類をそれぞれの懐紙に取り分けます。その後でお屠蘇を頂きます。(今回は酒蔵から樽酒を分けていただきました)茶道はこの頃は煎茶でも抹茶でもお正月のお菓子は「花びら餅」が専らです。「大福茶」は焙じ茶を更に焙じて熱々の焙じ茶の中に小粒の梅干しと昆布と塩を入れたものです。一煎だけですがお茶碗が大きいのでお菓子と一緒にゆるりとお茶を頂きます。もう一つ、普通のお煎茶も点てました。お菓子もまた別のものを用意いたしました。私もそうですが誰かが用意して誰かがお点前をして誰かが片付けて次の準備をするので写真はそうそう撮ることは難しいのです。少し、遅い時間になりましたがお昼の時間です。何か手作りと思ってはいたのですが時間も予算も限りがあるのでお寿司を注文することにしました。皆で、集まって思い出話やらこれからのことを話してあっと言う間に午後4時過ぎになってしまいました。慌てて、全部片付けて親先生のお宅を辞去したのは5時を回っていました。あ〜疲れた朝から着物で、たくさん動いたので皆と別れてドッと疲れが出て来ました。これから、電車に乗って高速バスに乗って2時間半ぐらい掛かります。もう暗くなってしまったし‥思っていたよりも寒くないし‥少し気分転換して帰ることにしました。にほんブログ村
2024.01.13
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今年初めてのお墓参りです。杉の枯れ葉枯れ枝がたくさん落ちていました。お墓を綺麗に掃除して供花してお線香を焚いて「今年もまた毎月通いますよ〜」と手を合わせました。お線香はいつも杉の葉を燃やして火を付けますが昨日、近所で火事があったので火の用心に特に気を遣いました。朝のうちは曇っていましたが墓参の間は、晴れ間が出たので少しは暖かく感じました。それに掃除をすることで身体も動かすからもありますね。クロガネモチの赤い実も葉もいよいよ、春を迎える準備が始まっているように感じました。我が家のサザンカがようやく咲き始めました。暖冬なのでしょうね。咲くのが遅すぎですよ〜サザンカの葉っぱはもう色が冬色に変わってしまっています。まあまあ、元気なのはシャコバサボテンです。今年も綺麗に咲き続けています。さてと、今日は「鏡開き」お供えの餅の中にパックされた切り餅が入っているので今日は、どうやって食べようかしら三宝も片付けましょう。お正月飾りもぼちぼち片付けていきましょう。午後からは今日もまた病院に行ってお薬を頂いてきます。今日は車で出掛けています水道工事、ご苦労様です。にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.11
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良いお天気です白い飛行機雲が伸びています。さて、我が家の周辺は、あちらこちらで「水道工事」をしています。年が明けて我が家のすぐ隣で工事が始まりました。この水道工事の発端は去年2023年6月の台風2号が原因です。我が家は水道管の破裂で床上浸水しました。応急的な工事は夏のうちに終わりましたが本格的な工事が暮れから家の周辺の住宅道路の各所で始まっています。水道の役目はとても大事ですからきちんと直して欲しいと思っています。が‥ただ、私が車を家から出すときは一々、工事の人に了解を取り工事車両を退いてもらってから車を入れたり出したりですのでとても面倒なのです。まぁ、工事している人も面倒だとは思うですが‥家の前の道路は車両通行止めが続いています。今日は、病院に行く日でしたが車で行かず、徒歩で行ってきました。病院までは歩いても12〜3分なのでそれほど、大変ではなくそれに今日はとても暖かな日でした。(明日も違う病院なのです)病院から帰って来ると工事の人たちが‥「火事だよ火事」「まだ、消防車が来てないな」「あっ来た」サイレンの音が聞こえて来ました。黒い煙がモクモクと上がっています。「〇〇さんの家らしいよ‥」火事とても近いところでの火事でした。すぐに鎮火しましたがお天気続きで乾燥注意報が出ている地域なので「火の用心」ですね。騒ぎも収まりしばらくして空を見上げるとトンビがくるりと輪を描いていました。安全確認かしらねーにほんブログ村
2024.01.10
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江戸時代の将軍の中で徳川吉宗ほど、映画やドラマ、TVでトップスターの座を独り占めしていた将軍様は他にいないだろう。さて、将軍職などその立場的に到底無理だった吉宗は紀州藩主として財政再建の手腕をふるっている最中、将軍職を継ぐ話がもたらされます。1716年(享保元年)に7代将軍「徳川家継」が、わずか8歳の若さで病没したからです。本来であれば、徳川御三家筆頭の尾張徳川家から次の将軍を輩出するところですが、尾張徳川家は「尾張藩は将軍位を争うべからず」と言う不文律が立ててあったため、積極的に将軍位就任運動を行なうことはありませんでした。その結果、紀州藩で財政を立て直すことに尽力していた徳川吉宗が、8代将軍に就任することになったといわれています。「徳川吉宗」といえばいわゆる「享保の改革」ですが長くなるので‥詳しくは上記をクリックしてください。吉宗は将軍職に就くと真っ先に、間部詮房と新井白石など家宣以来の権臣を罷免。この時、大奥は困ったでしょうね。何しろ、「諸事倹約」「武事奨励」を命令し自らもそれを実践したのですから。「一汁一菜、酒一献、木綿の着物」吉宗は、紀州藩の財政改革と同じく、まず幕府の財政改革に着手。贅沢の限りを尽くしていた幕府の財政は、もはや破産寸前。そして、そこへ持ってきて大勢の夫人や女中が生活していた大奥が、財政難にさらに拍車をかけていたわけです。吉宗は質素倹約を徹底し、幕臣の贅沢を禁じ、さらに、大奥の女中たちを大量に解雇して、大奥にかかる費用を大幅削減することになるのです。吉宗はこのほかにも有名な改革の一つとして「目安箱」や「小石川養生所」の設置。火事の多かった江戸の庶民の家の屋根を藁葺き、板葺から瓦葺に改め、広小路や火除け地を増やし、更には、新田開発も吉宗の時代から始まります。お庭番、つまりは隠密をそばに置き町奉行として「大岡越前守忠相」の抜擢、荻生徂徠、青木昆陽など異色の学者も登用しました。それとなんと言っても吉宗は「米」である。農民対策であり、吉宗の時代には米の価格が激しい変動をみせていました。天災が非常に多く、疫病も蔓延し吉宗はこれらを「倹約」によって切り抜けようとしたがそれは出来ませんでした。米価調節の困難、財政逼迫の結果、幕府はついには貨幣改鋳を行わざるを得ませんでした。簡単に言ってしまえば、「享保の改革」は失敗したのです。江戸時代における<三大改革>「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」いずれも失敗だったと言うことになります。徳川の時代に「大奥」のことがあまり取り沙汰されないのもこの吉宗の時代です。江戸幕府における「中興の祖」と呼ばれた吉宗。時代はこの辺りから江戸庶民が作り出す風俗、文化も変わってゆくのです。ちなみに徳川家将軍の家系図を9代将軍まで載せておきます。(見えにくくて申し訳ない)思っていたよりも子供の数が少ないのです。吉宗には5人の子供しかいませんでした。その内、源三と芳姫は幼くして他界しているので成人したのは、3人だけなのです。吉宗は長男「家重」に家督を譲り自身は「大御所」として9代将軍の行末を見守ることになります。にほんブログ村
2024.01.09
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友人のお孫さんが成人式を迎えました。小さい頃から知っている女の子が20歳の儀式に出席するのです。お目出度いです。式典の前に友人の車に乗って私にその晴れ姿を見せに来てくれました。まぁ、綺麗で可愛らしいこと従姉妹さんも同じく成人式ということで二人でその晴れ姿を見せてくれました。大振袖は華やかですね〜顔と全体像とツーショットの写真はBlogには、載せませんが本当に若い娘御が綺麗に着飾っているのを見るのは私まで心がウキウキします。少し、照れくさそうでしたがたくさん、写真を撮ってあげました。花束を用意していたのですが一つしか用意していなかったので式典後に半分ずつ分けてねと伝えました。おめでとう成人式‥か‥自分の成人式、娘の成人式あ〜もう遠い昔の話ですにほんブログ村
2024.01.08
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危機は常に無関心と隣り合わせにある‥と、私は思った。悲しみが来るときは単騎ではやってこないかならず軍団で押し寄せる(シェークスピア)にほんブログ村
2024.01.07
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暮れに生けた啓翁桜がだいぶ花開いてまいりました。考えてみれば、そうですよね。もう生けてから10日近くも経っているのですもの。本来なら「元日」に色紙に書く「般若心経」も地震や火災事故などで出鼻を挫かれてしまいやっと書き上げました。毎度のことですが色紙に写経する時は緊張感があります。文字の失敗は色紙を一枚無駄にしてしまうので気を引き締めて書いています。書き終えたらお床に飾り置いて一年の安寧を祈ります。毎週、書いている写経も書き終えました。元日早々から想像し難い事が起きてしまい今年のスタートは何かどこかが抜け落ちてしまった感がある令和6年ですね。写経をすると気持ちが落ち着きます。そして、何より日常が戻ってきます。脇床の横に飾ってある大きな羽子板を改めて見ました。娘の初めてのお正月にと父が買った物です。「孫」とは可愛いのですね〜その娘は私に今年のお正月に「もうこの歳じゃ子供を産む気にもならないし‥」と、言っておりました。人生は、明日どうなるかは誰にも予測出来ません。良いことも悪いことも‥ただ、今、こうしてBlogを書いてUPしたり暖かいサンルームで猫と戯れたり好きなものを好きだけ食べることが出来てのんびりと庭の草木の春への芽吹を満喫できることに有難いと思う1月6日の土曜日です。にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.06
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落ち着かない1月3日の朝がやってきました。羽田炎上のニュースを見ると細かいところが少しずつ分かってきました。朝食を食べ終わった頃に娘からLINEが届きました。「朝の飛行機が欠航になりました。」と‥「え〜〜〜飛行機に乗れないの」「分からないけど又、今、振替てもらってるので何時発になるかは分からない。」しばらくして「10時の飛行機に乗れそうです。」と‥そして、1時間ぐらい経ったところでまた、LINEがきました。「また、欠航になった‥」と‥そうよねーあれだけの火災が滑走路上で起きてしまえば消火、調査、安全点検などいろいろと執り行われるのだからいくら、羽田に4本の滑走路があってもそうそう、ほかの飛行機が飛べるわけもありません。我が家から近いところにある茨城空港にも多くの飛行機が振り替えで着陸していると近所でも話題になっている。そして、午後になって、娘からLINEが届きました。「2時の飛行機に羽田から乗れるようになったよ。搭乗手続きをしてまーす。」と‥それから、夕方になって娘は、やっと福岡空港に無事に着陸しました。何んと言うことでしょうね。結局、娘は1月3日を棒に振ったことになりました。羽田空港は国内で一番、混み合っている飛行場です。この羽田炎上で私もこんなことを経験することになりました。娘から預かっているスーツケースを郵便局に持って行くと‥「中身は衣類ですぐに必要なものは入っていませんか航空便でなくて陸路になりますがそれでもいいですか」今まで、娘にたくさん物を送っていますが「陸路」と言う言葉を聞いたのは初めてのことでした。羽田の事故は配送、郵送にも皺寄せが来るのですね。(今日の段階で羽田での欠航便は200便以上です)辰年、これからは、昇竜であって欲しいと願うばかりです。娘もバタバタで仕事にも多少の支障は出たけれど、正月三が日も過ぎてだんだん普通の毎日が始まりました。地震はまだ続いているけれどまずは、復旧に向けて強く心を持ち、すぐ隣の人と手を取り合って‥寒さが厳しくならないように心の底から祈っています。にほんブログ村
2024.01.05
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元日の夜能登半島地震のことが気になってずっとTVを付けっ放しで見ながら、私は3.11の時のことを思い出しては、娘に話していました。被災地の人たちをテレビ越しに見ると当時のことが鮮明に蘇ります。元日の当市は一度しか地震はありませんでしたからニュースを見ながらの夕食になりました。鰻と〆さばがメインのちらし寿司。ご飯の量は3合ですが娘は「美味しい」の連発で全部、たいらげてしまいました。ビールもお酒もどんどん流し込んでゆくかのようでしたこの他に「おでん」も作りました。他にもお正月用のいろいろなものを肴に地震の情報をずっと見ていました。翌日、娘は羽田から福岡に帰ることになっています。元日の夜も結局、午前4時ごろまで地震やら、災害やらいろいろな話をしました。娘は、熊本地震の折には薬剤師として現場でボランティア活動をした話も語ってくれました。明け方まで話し込んでいたので1月2日は、二人とも10時半ごろに起きました。なんだか、いつものお正月とは違った胸にしこりが残るという具合でしたがブランチタイムの食事を作りました。ニシンの昆布巻きの煮付け鮭の炊き込みご飯ホタテととびっ子のお刺身小鉢いろいろハンペンと小さいお餅の入った汁物など‥鮭の炊き込みご飯は残った分でおにぎりを作りました。娘は荷物をまとめて宅配便で送るものと持って帰るものとに仕分けしながら帰り支度をしています。娘が急に言い出しました「あっ特急電車は全車指定だっけお正月中は全車指定だったかも」慌てて、スマホでチェックし始めました。普段は特急電車でも自由席はあるのですがお正月ですから新幹線の「のぞみ」と同じように全部指定席なのかもしれませんね。しばらくスマホと格闘していて‥「良かった3時台の特急の指定が予約出来たギリセーフだった‥あと残り1席だった‥その後の電車は満席だー」忘れ物は無いか点検をし、パジャマから洋服に着替えてお化粧をしてなかなか時間が掛かります。娘が帰る支度をしている間に私は食事の後片付けとお持ち帰り用のおにぎりをパックに詰めました。娘が帰省するとものすごく忙しい私ですが今年は元日から大惨事を目にしてお正月を祝って良いのか戸惑う時間が多かったように感じていました。「あっ、そろそろ駅に行かないと‥」品川まで一直線で品川から羽田に向かうのです。駅で別れを告げて家に帰った私は、何はともあれ部屋の片付けとゴミの収集と洗濯をしました。洗濯はコインランドリーで乾かしてようやく一服したのが6時少し前‥地震は、その後どうなったのか心配でTVを付けると‥「羽田空港炎上」「Yahoo!ニュースから現場の様子」ゆっくりしてもいられず娘に電話しました。娘は電話に出て落ち着いた口調で「何か私、忘れ物でもした」「羽田空港で飛行機が燃えてるのよ」「え〜〜〜〜うそーなんにも放送とか流れていないよ。」しばらくLINEでやり取りして娘が羽田炎上を確認し自分の乗る飛行機が飛ぶのか飛ばないのかがはっきりしたのでその画像を送ってきました。ほぼ、全便欠航7時の飛行機に乗る筈だった娘は結局「羽田泊まり」を余儀なくされ3日の朝一の飛行機に振り替えてもらうことになりました。それからは、羽田周辺のホテルの予約を焦って探して、なんとかホテルの予約が取れてホテルの部屋にチェックインしたのが夜の10時過ぎでしたその後、娘からのラインにはこう書いてありました。「滑走路が使えずの欠航は補償は何もないらしいの」‥だそうですつまり、JALであれ、ANAであれホテルを用意してくれるわけではないのですね‥なんとまあ、お正月早々に大変なる出来事が二つも重なりその一つに自分の娘が現場に居合わすなんて‥夜も11時を過ぎて娘からLINEが送信されました。「明日は朝に福岡に帰れそうだけど今夜の夕ご飯はママが作ってくれたおにぎりだよ〜」まっ、とにかく無事で良かった‥それだけは良かった。地震はまだまだ続いている‥不安が募る正月2日の夜が暮れました。にほんブログ村
2024.01.04
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令和6年(甲辰)睦月<明157/大113/昭99/平36年>毎年のお決まりの広間でのご挨拶。新しい年、2024年です。今年は娘も晴れ着を着てのご挨拶に加わりました。おせち料理は作りませんでしたがとりあえず、衣も改めての新年の乾杯をしました。娘の大好物のマグロと鰹のお刺身を用意しました。お雑煮もたんと頂きました。人心地ついてから地元の神社に初詣。駐車場はいっぱいで停めるのに時間が掛かりました。おや、ここでも「花手水」です。コロナ明けでもあるので参拝客が今までで一番多かったような気がしました。御神籤も久方ぶりに引いてみました。水に浮かべると文字が出てきます。厄落としの「厄玉割」もすることになりました。御神籤は干支にちなんで「龍」に結びつけて今年一年無事で過ごせることを願いました。誰もが「良い年」にしたいですものね。たくさんの参拝客がいる中で着物姿は私たち母娘だったことには少し驚き‥家に帰って着物を脱いでいると‥「緊急地震警報」が鳴りました慌てました何しろ、着物を脱ぎかけの時ですから‥母娘共に大慌ててで洋服に着替えましたが靴下がよく履けない状態でした当市は震度3でしたが2階に居たので震度4ぐらいに感じました新しい年の初めにこんな大地震が起きるとは‥この地震からあとの時間はTVを付けっ放しで地震情報を見ていました。お正月番組も放送中止でしたね。「辰年」「龍」は「天、地、水」を操る神様の乗り物。どうかお鎮まり下さいませ。どうか‥にほんブログ村
2024.01.03
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大晦日、娘が帰ってくるので大晦日の夕食は「蟹鍋」です。娘が帰ってくるととにかく、食事の支度に大童になります。普通の人の三倍は食べる娘だからです。蟹鍋とそして蟹雑炊には大喜びの娘でした。あまり、面白くもない紅白歌合戦をBGMにして「ゆく年くる年」を見ながら年越しそばも作りました。年が明けて令和6年になりました。お喋りが続き朝の4時過ぎまで食べて飲んで笑ってまた、食べて飲んでが続きました「お正月の広間の室礼」新しい年のお軸は狩野永叔「富士桜図」桜の季節にしか飾らないお軸だけれど「桜の季節」は「桜紀行」で私は出かけてしまうことが多いので今年はお正月に飾りました。脇床には立派なお重とお銚子飾り。お重の中にはお饅頭やらお菓子をいっぱいに詰めました。ミニ羽子板も飾ってみました。色紙は「今東光」の「夢」お正月らしいでしょうか‥と‥お目出度い雰囲気の夜が更けていくのでした。年が明けてのことを順追って書いてゆきます。にほんブログ村にほんブログ村
2024.01.02
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