全17件 (17件中 1-17件目)
1
哲学を学んでいるといくつかの乗り越えることが難しい壁に当たる。一番は何と言っても「愛」の問題‥「愛は地球を救う」は当たらずしも遠からずであることは間違いないが‥これは、ちょっと保留事項‥皆と話すと意見の食い違いが多発するのが「労働」に対する問題。そもそも「労働」を社会的に認められて尚かつ賃金を得ることだと思っている人が多い。そんな人に限って地球温暖化だとか原発廃止だとかエコだとか雇用、福祉、資源、利益などの表面性に重きを置き闘志に燃えて議論する。勿論、どれを取り上げても重要な事であることぐらいは承知している。そこで自然との共生共存があまり得意でない人間にとって「自然の恵み」とはなんであろう?「自然の恵み」を考えると何も「農業」「漁業」に限ったことではなく「技術者」にも同じ事が言える。自然の恩恵を「労働」と照らし合わせてみよう。自然を相手に完全なる人に都合の良い設計図などを描くことは先ず不可能である。自然に手入れをする場合、人間に出来る事は努力、辛抱、根性の三つしかなく、「勤勉さ」は、これを分節した表現とも言える。例えば、ここ2〜3年猛威をふるっているのが突然の「ゲリラ豪雨」だ。1時間に100ミリを越すような雨に人は為す術を持たない。而も雨が止んだらそれでもう全部が元に戻る訳ではない。誰かが人知れず、何日も掛けて泥水を掻き出し、壊れた箇所を直し植木や花壇の片付けや汚れ物を洗濯する。ニュースに取り上げられないとすぐに忘れてしまいがちであるがそうした「家事労働」にはゲリラ豪雨の際だけではなく日々の暮らしの中にいつでもある家の仕事だ。毎日の家事労働(簡単に炊事洗濯を含)にはさほどの達成感もなく、ましてや賃金も払われず社会的に敬意も向けられない。しかし、誰かがこうして手入れをしてくれるからこそ、所謂「仕事」にも専念も出来るということである。そして、それは「時間の流れ」の中に存在しており、その労働の成果が実りやがて「果実」となるのである。つまり、実りはいつも「後から遅れてやってくる」事を意味し、「感謝する」「思いやりの心」はこうした目に見えない小さなところから生まれ育つものである。「自然の恵み」とはどういう事なのか‥地球を食尽そうとしている我々は深く考えねばなるまい。余談:昔、ある人が私にこう言った。「どうして働かないの? 共稼ぎは普通だよ。どうして家にいるの?」又、ある人は私にこう言った。「君は金子など貰って働くことなど無いんだよ。 君が此処に居てくれるから僕は仕事を頑張れる。」どちらが私の存在を認めてくれた人かそれは、改めて書くべきでもない。◇過去記事「仕事or労働の公正さ」にほんブログ村にほんブログ村
2013.07.26
コメント(4)
人類も地球生物の一つである。「ヒトと地球環境との関わりの変遷」1、環境に支配されていた時代2、環境にほぼ調和していた時代3、環境創出を文明化の基礎体力とする見方の時代4、環境に与えたインパクトの重大さに気付いた時代このような過程は一言で言えば地球環境循環システムの乱れであり全能のヒトと自負してきた誤りはいかにヒトの知が自然界の多彩に比べひどく小さいかに気付いていないにも関わらず人類は「科学万能」を創出したという悪気の無い無知を想定できなかった点にある。大震災を起きても戦争やテロなどが起きても「言い訳」の材料としての「想定外」「思いがけない」「想像だにしなかった」「不慮の事故」などと述べる。科学がまるで神のように言われる時代にも膨大な「不測の事態」「未知の事柄」が存在するのだと云う謙虚な認識に欠けていた人類である。ここに来て地球温暖化と異常ともいえる爆発的な人口増加‥安全性への脅威を生む元凶としてのヒトを知ることが重要である。にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.06
コメント(0)
ビッグバンから始まる膨張する宇宙のイメージを描けない人も少なくないであろう。始まりがあるものには終わりもある。個体に誕生と終焉があるように種にも発生と絶滅がある。すべては「飛沫の夢」のような出来事であり無常に過ぎてゆく。現代社会において科学技術は人類史上最強の宗教とも言える。そして、これを信じる人は多く、この信仰により我が身のみならず人類の運命も変えることが可能かに見える。が、個体の不老不死と同じく世代を重ねる人の営みに永続などないのではなかろうか?爆発的に人口増加を続けている人類がこのまま永久に続くと思うだろうか?地球も生命体であるから永遠ではなく、タイムスケール、寿命があると考えた方が現実的である。発展と進化のその先に必ずや終焉が待っていると考えるのはそれほど不自然な事ではない。にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.02
コメント(0)
広辞苑には、英語のcultureに対応する概念は「人間が自然に手を加えて 形成してきた物心両面の成果。 衣食住をはじめ、科学、技術、学問、 芸術、道徳、宗教、政治など、生活様式と内容を含む。」とある。つまり、西洋では文化とは精神世界の側面文明とは技術的、物質的側面を指している。 これが日本語の文化と文明の常識的な使い分けである。 これらの概念は「西洋」からの輸入品であるらしい事がわかる。ナポレオンボナパルト以前には文明の名において他国の侵略を正当化すると云う筋書きはない。しかし、今はどうだろう?文化的にも文明的にも破壊的思考が蔓延している。またぞろ、世界は空気感染の性悪な風邪にかかってしまったようだ。にほんブログ村
2012.02.12
コメント(0)
脳の基本構造‥ 脳神経細胞(ニューロン) 心を生み出す基本的な物質の単位は、 脳神経細胞であり、かつその個々が活動状態に あることである。 その活動状態を細胞からの「出力」 あるいは、「応答」という観点でとらえると 一般的には、 「興奮」あるいは「発火」とよばれる現象に あたる。 又、「発火」しない状態を「抑制」状態という。 したがって、個々の細胞の活動状態は 「興奮」と「抑制」のいずれかの状態を とることになる。 この細胞に心が宿る。 心は脳神経細胞で出来ているので 複雑であることは間違いなく休む暇もない。
2012.01.28
コメント(0)
「時機を測るものと測らないもの」世に従はん人は、まづ、機嫌を知るべし。<徒然草155段>にこう記されてある。ここで云う「機嫌」とはなんであろうか?これは、「時機」のことであり、つまり、世間の流れに従おうとする人間は何事をするにも時機をよく測ることが大切である。と述べている。しかし、人間の生死のような事は時機に関わることもなく、真に大事なることは時機など見計らってはいられないとも述べている。常に時間の森に拘束されている私たちの日常の生活での知恵は、広い視野から見れば意味の薄いものであり、日常の背後に隠されていろ真実こそが大切なのである。余談:いわゆる「ご機嫌」を取らないとすぐに「ご機嫌斜め」になる人がいる。狭い心に広い視野は生まれない。
2011.08.15
コメント(0)
「音楽」は音を楽しむもの。人類の永い歴史。いろいろな国々で多種多様の文化を営む上で「音楽」もまた確立されていったのであろう。五線紙の最初は聖歌と聞いている。口伝では、ちゃんと「音」を伝承することが困難だったので、記録用に五線紙が作られたらしい。五線紙はいわば、音の調子やメロディラインを「文字化」したのである。我が国に西洋式の記譜法が導入されたのは明治になってからである。洋楽は学校教育の場で制度的に普及し専門、非専門を問わず、学校の役割が音楽教育の中で増大し、それを他の国より発展させたのは、製紙、印刷、楽器と言う産業である。古くから伝承されていた邦楽も音符と製造された楽器で容易く演奏出来るようになり、それらの楽器の需要も音楽教室やお稽古文化によって支えられ拡大した。こうして、音楽の英才教育も盛んに行なわれるようになった昨今であるが、少子化により存続が難しい状況にある。しかし、非制度的な学習法は音楽教育の中で我が国の伝統を守り根強く生きている。西洋音楽には見当たらないが、邦楽の三味線には、「口三味線」と云う伝授法があり、これは誠に良く出来ている。まず、これは他の楽器にはない教え方である。三味線を覚える際に現在は音符もあるのだが、ドレミだけではなくチントンシャン、トチチリチンとか云うだけで何処の弦を押さえるのが分かってしまう。メロディラインもこの口三味線に添っているので自分が間違ったかどうかもすぐに気付く。何故なら三味線自体がその音を出すからである。(チンとかシャンとかツンという音色)学校の音楽は楽譜を見ながら覚えるものであるが、これは、楽譜は無くても覚えることが出来る。又、歌うことも同様で洋の東西を問わず、五線譜には表記出来ない音がある。それは、声もまた楽器だからであり、それに加えて、自分で出す音なので、毎回微妙に違い、歌い方も都度変える事が出来る。五線譜の通りに演奏し、歌っても人々の感動を得られないのは周知の事で、自分らしい演奏、自分らしい歌い方でプロに育っていくものである。最初は制度的に基本を習得しても最終的には非制度的の方が個性を尊重し、発揮出来るのである。だからこそ、非制度的な教育も又、意義があるのである。因に、私は楽器は空っきし苦手で駄目である。三味線の各部の名称
2011.06.30
コメント(0)
先ず、「策定者」が誰であるかをはっきりさせなくてはならない。芸術文化政策の策定者が「国家」でないものを大まかに挙げれば、それは国際機関、各地方自治体、法人、個人に分けられる。グローバル化した現代においては、さまざまな問題を考慮しつつ芸術を国際的に、又は個人的に策定し実施している。芸術活動には観賞活動や作品の展示、演奏、上演などが当然含まれるが、国家としては外交上、諸問題をそれぞれに抱えているので出来ないことも多々存在する。例えば、ユネスコのような国際機関は国家間を越えた国際的な世界平和と安全を維持しながらそれを達成している。国内における各超自治体も地域の特色ある芸術をバックアップしている。祭事や伝統芸能などがそうであり、また法人も例に挙げれば、民間企業でありながら芸術に対しての支援活動、及び、観賞活動をしている。かつては、洋の東西を問わず、芸術の分野は王室、皇室、貴族、大富豪などが芸術家のパトロンであった。現代においてのパトロンは一般の人達が多く、一定のポリシーをもって芸術や芸術団体を支え応援している状況にある。国家とそうでない策定者の違いを述べる場合、国家以外は、その各々の集団の規模や大きさは多種多様であるが、国家の利益や外交などを第一重要事項としては考えず、ある意味、平和理な策定者となれる。芸術は本来、個人的な作品や表現であるが、それが国家と言う名のもとで個性を充分に発揮出来なかった不運の時代も過去にあった。今現在、特にわが国は、博物館、美術館が他国と比較すると沢山存在している。それも「国立」が最も少なく「私的」「地域型」が多く、全てを「個人」で営んでいる人もいる。大勢の人々に埋もれた芸術を広く知ってもらうためには、こうした水面下の小さな活動がやがて実を結び、今まで、目に触れなかった芸術が世間に認められるようになり、そして、何よりそれらを保護し、伝え、時代に添う形で維持し、守ってゆくのが「国家」でない策定者の責務と考える。
2011.06.08
コメント(0)
本居宣長の古典研究の概論本居宣長は、賀茂真淵の志を継ぎ、古事記の研究を完成させ、国学の体系も完成させた。日本固有の「物のあわれ」が文学の本質であると提唱し、文学は善悪を基準とする道徳とは別の価値観を持ち、その心は偽りや飾りのないものであり、我が国固有の精神であり、儒教や仏教の教戒的な文学観を否定し、文学の真の価値を発見し、道徳からの開放を果たしている。皇国日本は、大昔から脈々と伝わる自然の情緒や精神を第一義とし、外来的な文明や思想を批判したのである。「物のあわれ」は、他人の痛切な心情に自らも深く共感することを可能にすることにある。「古事記伝」の画期は当時の人々に衝撃的に受け入れられやがて、国学の源流を形成してゆく。*「物のあわれ」‥ 人の心の中には、「良心」ばかりが存在する訳でない。 人に巣食う「鬼」も又「哀れ」なのである。*「本居宣長記念館」
2011.03.01
コメント(0)
私たちの人生の多くは、仕事との関わりを通して、その一生が過ぎてゆく。仕事に励んで、成果を挙げ、日々、心を砕き、勤勉に働き、時間を大切に消費し、規則正しい生活を送る毎日の中に、幸福感や充実感の大部分が依拠している。ある人の曰く、働かざるは食うべからず。汗水垂らして必死に頑張り、現実の社会に関わる事で、自分が世の中から除け者にされず、むしろ、有用な者として求められ、貢献が期待され、それに応えて役割を果たして、世間に寄与することが人生の喜びである。それなのに、何故に君は働かないのか?毎日、のほほんと暮らしていて世間に恥ずかしくないのか?今は、高齢者でも働く。とにかく、働き者を見習うべきである。この問題になると、私は絶句してしまう。かなり前にも、「どうして、ちゃんと働かないの?皆んな辛くても働いているんだよ!」と言われたことがあった。「働く」は「はたが楽にはなるけど自分は楽にはならない。」こんな事を言う人は多分、「人」と言う字は、支え合っている。「商」は「飽きないから」とでも言いそうである(苦笑)意味も分らずに、いい加減に大事なことを自分勝手に正論めいたように言ってはならない。漢字には、ちゃんとした意味がある。お間違えのないようにして頂きたいものである。「働く→人が動くこと」「人と言う字は、ヒトが二本の足で立っているから」「仕事や労働」は、必ずしも賃金が発生するとは限らないのである。未就業の子供、家庭を守ってくれる主婦、不幸して身障者になった方、加えて、病気や老いに苦しむ弱い立場の人こそ、現実社会の欠陥と問題点を鋭敏に察知するのである。これから、社会に荒波に揉まれて巣立ってゆく人は、将来の仕事と労働のために基礎的な知識や能力を学習しなければならない。今の複雑で高度な社会では、それは一生涯学習という形をとることになる。私とて何もしていない訳ではない。多少の金子を頂くこともある。確かに、仕事仲間や朋輩と協力して地域貢献に役立つような労働はしてはいないのだろう。しかし、人は、誰かに何かに教えてもらわなければ、前には進めないのである。生活が苦しいと云って、コンビニのパンで一日を終える人、家を建てたいから、ローンを組んで夫婦で働き、子供を自分で育てられない人、馬車馬のごとく労働し、何一つ趣味も持たず、広い世の中も知らずに時を過ごしてしまう人、事業を拡張したいから借金をして周囲を裏切る人々‥複雑怪奇な経済社会の波間に揺られ、私たちは嫌でも高齢社会のなかで老いを迎え、死に臨むことになる。学びながら、精神社会を考えてゆかねばならない。人間は、無知と怠惰にうつつを抜かせば墓穴を掘ることになる。労働の根拠は、自己の生存の確率に向けて、対象支配の知恵を学習し、自己生存の中に自立性の痕跡を打ち立ててゆかざるを得なくなるという事に他ならず、仕事や労働にまつわる諸問題を己の非力さに耐えつつ解決するように精進することである。最終的には、人間は自らが作り出した運命を生きるよりほかにはないのであり、自分の理想とする事業と眼には見えない幻影としての理念に向けて仕事をし、労働する。報われないかも知れない。無念かも知れない。理不尽かも知れない。人間労苦の世界に生きる事は、愛の心に横溢して生き抜いてゆくことのうちに己の存在、生存の意義があるのである。「足るを知ること」は、かなり老いても知ることが出来ない。やはり、生涯、学習は必要である。多くを望まなければ、なんとか平穏に晩年は過ごせるものである。因に、教育プログラムを持っているのは、ほ乳類ではヒトとミーアキャットだけである。あとは、本能のままに完全体なのだろう。
2011.02.27
コメント(0)
(2008年の論述から)「発話することの能動性」 ことばの行為「ほめ殺し」に関して興味深い世界の会話の具体例。褒めちぎることで相手を不利な状況に陥れたり、相手の意欲を失わせることが「ほめ殺し」であり、社会的慣習により決まっていると言われるがそうではない世界もある。日本の伝統文化の茶道における茶会はこの社会的慣習とは少々異なる。いわゆる、茶会での発話、会話には決まり事があり、それに従って亭主と客人との間に会話が成り立つようにプログラムされている。茶会は、会話を許される客人は最初から決められおり、亭主と客の関係は、左程上下関係は無く、ほぼ同レベルである。そうした状況下で、お互いに誉め合いながら茶会は進行する。*客人「誠に結構なお服加減で美味しゅうございます」*亭主「不加減でございました」褒められたら謙遜して応対する。長年、この世界に身を置くと困る事が生じる。それは、褒めようの無い場合でも褒めなければいけない時である。*客人の心中(いったいどうしてこんなに優秀でセンスの良い 筈の先生がこんなにもお粗末な菓子や茶や花を選んでしまった のであろうか?しかも、ご本人は良いと思って気付いていない。)その場にいる会話を許された諸先生方は苦慮しながらも褒めなければならない。誉めている様で誉めてはいない言葉を会話に盛り込みながら、相手の出方を見る。美味しくないお茶が出された場合には*客人「大変に高価なお茶でございますゆえに私などにはとても難しく‥」*亭主答えて曰く「まぁ、そうおっしゃっていただけると私どもは 誠に嬉しゅうございますが、先生はもっと 御入手困難のお茶をお使い遊ばしますでしょう‥」こんな調子で、室礼全般を誉めたり謙遜したりが繰り返されるのが昨今の茶会である。表情は、双方共にあくまでもにこやかに柔らかい日溜まりのような空間を創り出す。社会規範も慣習も些か、逸脱しているように思う節もあるが、ある一定の水準に達した方々には、この嘘で固めたようなほめ殺しの世界観が心地良く感じるのが不思議なのである。皆、「ほめ殺し」と最初から知っている。解っていての「ほめ殺し」はことばという道具を上手に使いこなしていると言える。こうした熟練されたことばを流暢にさらりと言えるようになるまでには2~30年ぐらいは要するのである。*と、書いて教授に提出して 評価は、どうだったか? 大学教授には理解が出来なかったようである。 とは言え、大変に興味深く感じたことは その点数が答えている(笑) 無事、単位取得!
2011.02.26
コメント(0)
「危険な書物の越境について」書物が国境を越えるということは、その国の宗教、思想、文化とありとあらゆる面が国外に持ち出される事である。(危険な書物)と云われる本は、危険思想、若しくは他国に知られたくことや、時の権力者にとって望ましくないもので而もそれが越境することによって利潤も生む本である。洋の東西を問わず、危険書物の越境は、各国で今も行なわれている。密輸や海賊版作成は、見つかれば何処の国でも必ず罪に問われる。しかし、その危険を冒しても書物が国境を越えるのは「需要」があるからでる。人は見てはいけないと言われると見たいと思うものである。そこに経済が絡めば、供給者が必ず現れる。特に、宗教と思想に関しては多くの危険な書物がある。宗教の奥義を説く書物は、今も昔も危険な要素を孕んでいる。書物がそこに、ただあるだけならば、本は性別も国も身分も教養の高さも何も問うたりはしない。だからこそ、それぞれに問題が生じる訳で世界三大宗教の教祖達(キリスト、ブッダ、ムハンマド)は、いずれも書物を書いてはいない。しかし、需要があれば、伝えたいと思う人や業者は、あの手この手を屈して供給する。その結果、翻訳や印刷技術、輸送運搬や通信手段の技術も向上する。世界は、インターネットの時代を迎え、書物も手軽に手に入れる事が可能にはなったが、ネットは余りにも情報過多で、その中から一冊を選ぶのは困難であり、又、何でも手に入る訳ではない。滅多な事では、お目に掛かれない書物も多種多様に今も存在している。書物も、漫画も風刺画も写真も映画も皆、同じにそれぞれの国のモノの考え方、見方、文化そして危険分子を抱えながら、世界中でリアルタイムで、善くも悪くも取引されている。人は危険なモノに憧れに似た感覚を持つのではないだろうか?奇麗な薔薇には棘がある。どんなにハイリスクであっても「危険な書物」は魅力的なのであろう。哀しくも人は貪欲である。「地域文化研究」における意見書。 これは、単に「書物」の事ではなく、何事に於いても 同様の事が言える。 人は見たり聞いたりすると、その情報が 嘘でも本当でも心が揺らぐものである。 揺らがぬためには、いろいろな意見を知っておくことも 大事である。「一方聞いて沙汰するな!」「悪魔でも聖書を引くことが出来る、 自分の身勝手のために‥」
2011.02.18
コメント(0)
「藤岡作太郎」「国文学史 平安朝篇」藤岡の国文学史研究の方法は、文学の生成と変遷を考えるに当たり、社会学、風俗民俗学宗教史、美学、倫理学など、文化的条件を視野に入れ、正確豊富な資料に基づき、科学的態度と、すぐれた鑑賞力をもって文学的価値を明らかにしている。藤岡の独特の格調高い文章は、「評者みずからして平安朝の一人になりて、以てその時代を見る」に記述されている様に、平安朝の時代背景をあらゆる面を考慮し、理念が先行する文学史の具体性を回復した。文学史を研究する場合、己の感情や想いを全く除外し分析しても、それはデータ照合のようにも感じる。資料は重要ではあるが、それをどう読み解くかが研究者であり、藤岡のこうした方法が日本美術史研究の成果にも繋がる。
2011.02.12
コメント(0)
「ハラスメントの心理」2004.9 月の論述から‥「ハラスメント」とは「嫌がらせ」の事である。1、「セクシャルハラスメント」2、「パワーハラスメント」3、「モラルハラスメント」ジェンダーから見るハラスメントは、女性の側に被害が多い。1の「セクハラ」は、かなり世間に浸透し、男性はその言葉遣いにも気をつけるようにはなって来ているが、実際に職場などではまだまだ続けられ、被害者が増えている。しかしながら、昨今、女性の管理職も増えている事から、男性もまた被害者になり、その数も増えている。2の「パワーハラスメント」は「ドメスティックバイオレンス」に代表される。暴力で相手を押さえつけ、逃げ道を奪う最も卑劣な嫌がらせ行為である。これに悩む人の数は増加し続けており、やはり、被害に遭うのは女性が多い。今回は、3の「モラルハラスメント」に関して論ずる。これは、精神的に相手を追い込む事で身体には一切、傷を付けたりせず、じわじわと相手の心の奥深くまで一生消えない傷を負わせる。「モラルハラスメント」とは、モラル・ハラスメント(通称モラハラ)とは、精神的な嫌がらせのことで、このモラルハラスメントもDVの一種である。?なぜなら、直接的な暴力は振るわずに、精神的な暴力を振るうというとこが同様である。?モラルハラスメントは、一言で言えないくらい千差万別であり、被害者が素直な人であればあるほど、巧みな言葉に惑わされて、自ら犠牲的立場をとりつづけてしまうこともある。つまり、加害者が自己満足を続けたいがために言葉で操っていることに、被害者自身気づかないということが大きな問題点である。しかし、モラル・ハラスメントを受けつづけると、被害者は抑うつが高まり、うつ病に移行してしまったり、支配から抜け出したのちにも、PTSD(トラウマ(心的外傷))に悩まされる。こうしたリスクを避けるためにも、本人がモラハラの被害に早めに気づいて加害者の支配から脱出する必要があるのですが、それにはまず加害者の特徴を知っておくことが肝心である。例を挙げると(モラルハラスメントの加害者)・いつも自分が優位に立ち、賞賛が得られないと気がすまない。・他人の気持ちに共感することや、心を通わせあおうという 気持ちがない。・他人にあこがれて近づいても、すぐに嫉妬で心がいっぱいに なる(ただし、嫉妬が何なのか本人が理解していない)・他人をほめることをしない。欠点をあげつらい、いつも 悪口をいっている。・自分の考え方や意見に異を唱えられることを極度に嫌がり、 無条件に従うことを要求する。・自分の利益のためなら、他人を平気で利用しようとする。・自分は特別な人間だと思っている。・政治的な意見や趣味など、相手の考えを嘲弄し、確信を揺る がせる。・相手に言葉をかけない。・人前で笑い者にする。・他人の前で悪口を言う。・釈明する機会を奪う。・相手の欠陥をからかう。・不愉快なほのめかしをしておいて、それがどういうことか 説明しない。・相手の判断力や決定に疑いをさしはさむ。・自分の機嫌の良し悪しで態度が変わる。・機嫌が悪い時は話しかけても無視する。・些細なことで怒鳴る。・正論のように話す(違うか?違わないだろう?)など。・不規則な自分の生活のペースに合わせたがる。・家族、同僚、妻、恋人、子供の病気に対して冷淡な態度を とる。・セックスの強要。・後だしジャンケンのような言葉を用いて相手を追いつめる。などの行為をする人は「モラルハラスメント」の加害者である可能性が高い。何故、このような人間になってしまうのか?それは、幼少の頃の生活に起因するところが多い。理路整然としているようで、よく観察してみると、なんとも子供っぽく、理論や定説にはほど遠く、冷静に判断出来ればそのようなハラスメントは受けずに済むのであるが、そうはいかない社会的立場や経済が絡み合うと、その泥沼からはなかなか脱出出来ないのが現状である。加害者は、不完全に大人になってしまう、アダルトチルドレンなのかも知れない。而も自己愛性人格障害でもある。自己愛性人格障害とは、ありのままの自分を愛せず、自分は優越的で素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込み、過度に歪んだルールである内的規範が弱いケースであるため、加害者も知らぬままに病んでいる事もある。<後述>「モラルハラスメント」 止めて欲しいですね。 私自身も被害者であるから、今もPTSDに悩まさせられる事が ある。加害者の心理は何歳になっても子供なのであろう。 イイ年をして、自分にとって不快な事が起きると 言葉たくみに他人を貶め、辱める行為。そんな事は 「大人」はしてはいけない。 それは、「恥知らず」の行為であり、大人の仮面を かぶった「ただの出来の悪いガキ」である。 しかし、誰かが諭したとしてもなかなか優しく素直な人には なれないのかも知れない。 世の中が「複雑怪奇」であればあるほど、目には見えない 嫌がらせに人々はどんどんストレスを抱え、やがて完治しない 病いに取り憑かれて行くのだろう。 みんな、仲良く‥人の心の痛みを知る大人になって欲しい。
2011.02.10
コメント(0)
「生物の進化と地球環境」平成19年の論述より「生物の進化が地球環境を変え、また、その変化が新たな生物へと つながる。このような現象を酸素と生物の関係をバクテリアに例 をとって説明する。」◇深海底バクテリアは、非酸素型環境に適した、所謂、嫌気性バクテリアであり、これに対して、シアノバクテリアは、原始的な原核性生物で、酸素発生型光合成の能力を初めて身に付けた好気生バクテリアに相当する。酸素発生型光合成は、細胞内共生を通して、全ての緑色植物(呼吸の進化よりさらに新しい出来事)の共有する機能となる。しかし、シアノバクテリアは、自ら酸素は発生しているものの酸素分子が強い毒性を持つことが問題となる。この問題を克服するには毒物である酸素を無毒化することが必要であり、さらにそれに加えて化学エネルギーの取り出しを必要とする。つまり、有機物の分解(酸化)をすることにある。有機物は二酸化炭素と水にまで、完全に酸化される。自然界は、穏やかな反応系を選び、長期間、「海」という化学的に安定した低エネルギーレベルの環境の中で生きてきた。大気中の酸素濃度が、上昇し高まるとオゾンが形成される。オゾンの層は危険な紫外線を遮断する。低エネルギーの「海」に住む生物の内、いくつかがオゾン層の完成をひたすら待って陸上へと進出し進化した。光合成生物は、陸に上がることに依って、その光合成能力を飛躍的に増大させ、それが、多様な生物の出現を促すことに繋がる。大気中の酸素濃度の増大と種の多様化とが軌を一つにしていることは、生物の進化上、特筆に値し、生命環境は、ここで第一級の大転換機を経たことになる。陸上でも生物携帯が地球生命体のいっそうの多種多様の工場に繋がったと言うことである。それは、環境との相互作用系の拡大の成果である。?「オゾンの名前は‥」奇妙なにおいからギリシャ語で臭いを意味する Ozo, Ozein から Ozon と名付けた。
2011.02.09
コメント(0)
「人と話す」2008年の講義「話すことは難しい」より第一章 人前で話をすると… 第1節 上手く話せない、思う事の 十分の一も伝えられない 第2節 話をする前に、あがってしまう 第3節 相手からの反応が鈍いと感じる 第4節 話が進まない 第5節 自分の話は相手に伝わったのか?第二章 先ず、大事なのは、何を話すのか? 第1節 話す内容のチェック 第2節 話には順序がある 第3節 話の組み立て方 第4節 相手のレベル、自分のレベル 第5節 話の中で一番相手に伝えたい事第三章 相手が居ると言うことは、どんな事か? 第1節 相手の反応に注意する 第2節 相手の興味を引くことも必要 第3節 相手に対する自分の印象 第4節 相手のペースと自分のペース 第5節 相手の意見を尊重しながら 自分の意見を述べる第四章 話題とは? 第1節 話すべき重要課題以外の話 第2節 閑話 第3節 相手の好みを知る 第4節 タブーとされている話 第5節 本筋に話を戻すタイミング第五章 話を円滑に行う方法 第1節 話の切り出す時の言葉 第2節 話の起承転結に添える潤滑油 第3節 フォローの仕方 第4節 次回への期待感 第5節 話の切り上げる時の言葉第六章 説得と納得 第1節 似て異なるもの 第2節 説得しようと思うと失敗する 第3節 言い訳しない 第4節 撤回しない 第5節 納得&諒解第七章 印象の遠景 第1節 第一印象より重要な事 第2節 本当の自分の見せ方 第3節 相手を上手に褒める方法 第4節 好印象を相手に植え付ける 第5節 信頼関係と、述べてはいるが、言葉は難しく、相手に自分の全部を理解して頂くことは甚だ、困難を極める。言葉が持つ情報は、大きな「力」がある。話をしてみなければ、何も前には進まない。「目は口程にモノを言う」と言われているが「目」は言葉を語ったりはしないのだ。「目線」「目配せ」「目付き」‥声に出して話してくれなければやはり、はっきりは分からない。人と話すことに臆病になっている人が昨今多い。自分の言葉で自分の意見を述べることを恐れてはならない。また、相手に理解されない場合も含めて自分の言葉遣いがどうであるのかをチェックすることも重要である。先ずは、「日本語」「国語」から、その次に「外国語」であり、それが、順番を守ることも忘れてはならない。 参考 ポライトネス理論 グライスの会話の原則 リーチの原理
2011.02.09
コメント(0)
「正と負の評価」大不況が続き、円高は進み、地球温暖化問題を抱え、核やエネルギーが絡む様々な国のあり方など、毎日、毎日、どうしようもない、やり場のない世界を垣間みると「地球規模で大変なんだ!」と考えさせられる。バブルの乱痴気騒ぎは、とうに終わったものと私は静かに生きてきた。しかし、「イケイケ」「ワイワイキャーキャー」は20年経ってもそんなに変化はしてはいないと気づいた。情報は溢れんばかりで、どれもこれも選ぶのに苦慮し、メディアに乗せられているようにも思う。不景気でも賑やかで華やかなモノが前面に現れているのも実情であり、人々はそれに憧れ、自分を見失いがちになっている。要するに、個人の考え方などは、周囲の状況にかなり左右されるということである。さて、このような世界状況に応じて個人がどのような態度をとるべきか?「石の上にも三年」確固たる信念を変えないことを褒める言葉。「君子豹変す」の様に状況に応じて対応を変える柔軟さを褒める諺。正と負の評価の言葉が存在してる。どちらも誠にそうであり、耐え難き耐えて生き抜くか、チャンスを逃すよりも、時世に合わせた生き残り戦略を選ぶのか?つまり、日々加速度的に変化する状況に対応するためには、決まった正しい間違いの無い方法があるわけではない。その時の個人の判断、知識、趣向を持って、その場に合わせて様々に難問?に取り組み「結果良ければすべて良し」といった具合にそれを乗り越えた人たちの上手くいった結果や、人の心をつかんだ結果が言葉になり長い時を経て生き残ってきたのだろう。そこで、私は考える。「正と負の評価」が判るようになったという事は私にもそれなりの人生観が出来たということである。年を取ったという証拠である。長生きする秘訣は老いること。「老い」とは、どんな世界なのだろう?それは、未来であり、未経験の世界である。未経験の領域は誰にも分からない‥これから、どんな時代になったとしても、正と負の評価は為されてゆくであろう。風は吹いて風となり、水は流れて水となり、日は昇れば沈み、春には花が咲き、秋はその葉を散らす。自然に対する畏敬の念も忘れがちな昨今である。しかし、自然の中に「善悪」など存在しない。ただ、季節が移り行くだけのことである。それが美しいのか?醜いのか?それは、人の心がそう思うのである。人も自然の一部、歴史も季節も繰り返されるが、私の人生は一度切りである。正と負‥日々発生する事象、様々な現象などの表面上の多色使いなる彩りに目を奪われずに、本質のもたらす論理的な帰結を軸とし、物事を判断してゆく覚悟が大事であり、それは自分の短い歴史の反省の上に成り立つものである。
2011.02.06
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1