星界の道~航海中!~

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【堀上人に富士宗門史を聞く】3



 先月号につづいて御多忙の堀上人を畑毛にお訪ねし、日寛上人以後の富士宗門の歴史について、いろいろ有益なお
話をお聞きした。

【學頭寮の復興】

 ○前号では日寛山人までの歴史について概略のお話をねがつたんですけれども、その後の主なできごとについて、今日は引き続きお願いいたします。
 始めに學頭でございますが蓮蔵坊を復興なさつたというようにいわれておりますけれども、そのことについて、お願いしたいと思いますが……。

【堀上人】 ええ、蓮蔵房は例の、道師と郷師との七十二年の事件のためにですな、御本山では、その当時、ちよっと、あの地所が汚れたというような気持でしよう。ですから、ほとんど、うつちやってあったですね。ですからほとんど建物もなかったらしいです。
 それでですな。日精上人が要法寺から大右寺へ入られてから外形上の復興は敬台院殿の助力でもってできたのです。堂の修理再建、それから寺中の宿坊の割りかえなんかが立派にでき上ったんですけれどもね。
やはり、その學寮はそのまま、うつちやつてあったんですね。敬台院殿は細草檀林の新建に力をいれられたですね。そして、本山の教学の方は、あまり力を入れられなかつたんです。ですから、本堂やいろいろな建物も完備したんですけれども、どうも、學寮の再建までは及ばなかったんです。
 それから、二十五代の日永上人が、いろいろの計晝をされることが趣味の人で、精師が大きく復興されたあとに、いろいろなまた新しいものをこしらえたのです。ですからいろいろな什具というようなものですね、今の釣鐘であるとか、それから、まだ、そのほかにも、澤山ありますが、そういうものに、永師の銘がはいっていますから。釣鐘はちよっと前にできたんですけれどもね。そして、その事業の中に、今の御経蔵ができたんですね。御経蔵ができて、明本の一切経を買って入れた。相当したでしよう。お山に今日まで残っておりますからね。

○ そのときのが……。

【堀上人】 ええ、そのときのが。小口書きは日寛上人が書いてござるです。それで虫はつきませんでね。唐紙の薄い地です。そのかわり、扱いを粗末にすると破れちやうです。
 その経蔵もできるし、日永上人によってさまざまな計書が實行されて、學寮もおこされたのです。學寮をおこすについてもですね、學頭になるべき人を、こしらえなけりやならん。そこで、このときに學頭になられたのが寛師です。
 この当時の細草檀林は春秋二季に通ったのです。三ケ月づっ続けてね。その間の六ケ月は、本山にいるか、または地方の住職寺に帰るか、どつちかだったのです。學僧は所化よりもですね、住職務の人が多かったのです。所化もありますけれどもね。寺をもった人が相当に檀林に通っていた。細草檀林ができたためにですね、今の千葉県の本城寺ができて、それから真光寺は、その前にできていて真光寺に寺中が三ケ寺ありましたからね。そういうところにも檀林の依暇中の学僧をいれたんです。それから江戸に帰って、常泉寺・妙縁寺・常在寺というようなところにつとめている若い学僧もあったですね。しかし、どっちかというと本山に還った方が、所化としてはノンキですからね。ですから、本山に帰る方が多いので、そのために本山に學寮ができたわけです。その時にできた学寮は今の図書館の石垣の上に、南を正門として今の図書館の門よりも、ちよっと西の方になりますか。
そこにあって、東西に分れて、所化寮があつたです。その上に今も残っております學寮の講堂ですね。それから学頭のいる庫裡などがあった。ちよっと、永師のときの再建と今のは、様子がちがいますけれども、位置は大がい、あの位置にありました。この日永上人の御建てになったのは慶応二年に焼けて、しばちく再興ができなかったですが、明治二十三年に私の師匠(日霑常上人)が再建した。そして、今の形はちよっと日恭上人時代に変りましたけれどもですね。
左の佛間の左の方に上段があってね。そこに、■式の台をおいて、そこで御書の講義をするというわけです。師匠(日霑上人)も、それを計畫して自分でやろうという考えでしたが、そのときは七十四歳だったのです。病気さえなけりや、壮健でしたから自分でやるっもりであったんです。その前に六壹を再建されてね。それで、六壷で御書の講義をやったのですよ。

 ○ 六壺つて、どういう意味なんでしよう。

【堀上人】 六壷というのはね。あれは宮中に六壷という室があるんですよ。そういう名をうつしたらしいですね。

○ 何をやるところなんでしようか、本来は……

【堀上人】 そう、六壷というのは、宮中でいろいろな事務をとるところですね。それでで御開山時代の六壷は、たしかな■は残つておりませんけれど、いい傅えによると間口が十二間ですか、十二間四角ぐらいの間口を四つに仕切ってあった。そして、東の入口が佛間で、そこで大ぜいの人が勤行することができた。西南の角が末寺弟子等の集會所。それから西北の方が事務所で、東北の方が御開山上人の居間と。こうなつていたらしいです。

 ○ その全体を六壷といつたのですか。

【堀上人】 そうです。ですから、六壷の六の字にこうでいしていえばですね。六つの部屋がなくちやいけないですけれどもね。
そういうことは、くわしく説明した本がありません。

【學頭日寛上人】


【堀上人】 それで、先程のお話をつづけますと、日永上人が學寮を作つて日寛上人を学頭にするという■定でできた學寮です。

 ○ この当時からの方は、大てい猊座に上られるまえに学頭になったでしようか。

【堀上人】 そうです。そういうことですね。
それで、実績からいうと、日永上人が學寮をおこして、そして、日寛上人を学頭にしたんですからね。日寛上人が學頭の初代となるべきですけれどもね。いくらか寛師も御けんそんの意味でしょう。初代の学頭ということをヽうけられなくてねその書きものも残つていませんですけれども、その意味でしょう。ですから、寛師は学頭というものを、日目上人を初代として、二代目が日有上人、三代目が日精上人となつていて、日寛上人は六代目の學順になっていますよ。ともかく、学頭としての職を始められたのは日寛上人です。

 ○ 本来なら、その學頭という方が、お所化さんを集めて講義をなさるという、たてまえなわけですね。

【堀上人】 ええ、それですけれどもね、どつちかというと、日寛の學頭のはじめは、あまり小さい所化は聴講生、つまり修学生になつていなかつたですよ。牡牛の者ばかりですね。ですから、あの時分の所化というものは大所化です。塔中の住職、または末寺の住職としてつとまるような年をとつた人でも、志願して本山にのぼつて、寛師の講席にあずかる。または寛師の講席にあずかるまえに、細草檀林にのぼつておる。
そして檀林の休暇のときに本山に帰って、例の学寮に生活してたんですね。

 ○ この当時の方々は、ほとんど、もう細草檀林へ行かれたのでしようか……

【堀上人】 そうですね、末寺の人もありますけれどもね、寛師の講義を聞いた人の名が、ところどころ寛師の書きものの端にありますがね。それをみますと、末寺の人もありますけれども、大がい、どつちかというと、末寺の住職でもなくて年をとつた所化で、将来に次の学頭になるとか、能化になるとかというような有望な人が多かつたですね。それから、大ぜいのため学寮ではせまくて本堂でやられたこともある。開目抄などは御堂でしょう。

 O 「予四十九歳の秋、時々御堂に於て開目抄を講ず……」なんて、三重秘伝抄にありますね。

【堀上人】 ええ、そうです。御堂のときは所化は東西に分れてね、相当の人が集つたらしいですね。四十人、五十人と書いてあるのがありますからね。それが小僧ではないんです。みんな列席するのは、洛中住職や末寺の住職でなくても、年配はみな、住職のできる年配の人ですから。四十ぐらいで講席にでた人がたくさんありますよ。観心本尊抄の寛師の御講義をきいて、その内容を書いた人が五六人ありますからね。みんな年寄りですよ。そして塔中住職でも何でもないです。ですから、日因上人や日東上人、日忠上人なんていう人も三十、四十ぐらいの年配ですね。次の学頭になつた日詳上人などは四十以上でしょう。

 ○ ああ、そうですか。

【細草檀林】


 ○ ちよっと前後しますけれど、細草檀林は、いつできたのでしようか。

【堀上人】 ええ、あれは大綱ですね。東金の檀林から分離して細草の、ちよっと東金から離れたところにできて、そこからまた分離して細草にできたんです。そして、そのときの講師が八品の妙蓮寺の學曾だったのです。要集にその歴代表がのつております。そのころ細草の地方に地所をあげる人がいたのです。というのは、あの時分、材のいくらか経濟上の関係もあったでしようそういう僧侶の大ぜい集るところができれば、何かと村の調子がいいですから。それで、まあ、地所をあげる人があった。地所はあがつたんですけれども、建物をたてる人がなかった。

 ○ 細草檀林というのは正宗の人ばかりじゃない……

【堀上人】 ええ、細草檀林はね、富士諸派とね、それから八品だ。顕本はこなかつたです。八品の一部と、富士ですが要法寺はあまりこないのです。要法寺は小栗栖檀林をもっておりますから……。全部こないわけしゃない。地方の関係から、細草に通うのが便利な人は細草に通ったけれども、わざわざ京都から、細草に通う人はなかったらしいです。ですから、まあ、細草檀林のはしめはどつちかというと大石寺が金主で、妙蓮寺の貫主が學頭で能化であって、やつてきたのですね。

 ○ 檀林では佛教だけ教えたんですね。

【堀上人】 ええ、仏教だけ。というのは、あの時代は大概その學林の親玉である天台宗の叡山の檀林が衰えてね。そして関東に檀林ができたのです。埼玉県の仙波にですね。あそこも田舎檀林として……仙波は川越のそばです。

 ○ 沼田あたりにもあつたでしよう。

【堀上人】 沼田は、あれは一致派の檀林ですね。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 檀林のおこりはですね、叡山が戦國時代にだんだん衰微して、そして田舎の檀林が各方面にできるですね。関東にできたなかで一番大きいのが、その川越の近くの仙波檀林です。それから相模にも美濃にも檀林があった。まあ、檀林がいくっにも分離してしまったわけです。

 ○ 大石寺の猊下なんかは、みんな細草檀林を通ってきたようですね。

【堀上人】 ええ。その以前はですね。大綱檀林出身もあれば沼田あたりの出身もあるんですよ。そして、細草ができてから、みな細草に行ってしまって、ほかの檀林には行かなくなったです。はじめはお山の貫主さんも檀林出身でない人が多かったですね。それで日精上人が檀林出で本山の貫主になつたはじめです。要法寺からきた人には、細草に縁のある人が少いです。というのは、日精上人あたりは細草檀林のできない前の人ですからね。

 ○ 細草って、どの辺ですか。

【堀上人】 ええ、細草はね、今の、廣瀬の本城寺から、南東にあたる海岸ですよ。細草村という村があります。干葉県東金市の南東です。そのあとは、小さな六尺か七尺の水が流れて、そこに橋でもかかっていたらしいですね。今は、その橋も残っていません。ちよっとした建物が一棟残っていました。今はどうか知らんけれども。私が調査に行つたときには、四間四面くらいなのが残っていました。
 はしめは妙蓮寺と兼幣の檀林であったのですけれども、やっぱり八品の中でもですね。鷲巣や岡宮あたりは細草に行ったらしいのですけれども、どうも歴代表をみるというと、妙蓮寺出身が多いようです。妙蓮寺は……八品の方は尼ヶ崎の檀林が大きいですからね。ですから八品の全体はこなかたですね。それから、だんだん後になってきて、檀林の開闢百年、百五十年となつてくるとね、ほとんど大石寺檀林になってしまったですね。というのは、ほかの富士……要法寺は別ですが……富士六山が大石寺ほど盛んにはならないでね。だんだん衰微していた。北山は、徳川初期は盛んでしたがね。いろんな悪いことがあって、そうですね、三四十年の間に相当な火事が十ぺんもあったという。それですから、すっかり寺の形を復興するのに困っちやって。ですから、檀林どころじゃないです。

○ みんな焼けたんですか、北山が。

【堀上人】 ええ。

○ 檀林どころじゃなくなった。

【堀上人】 ええ、檀林どころじゃないです、食うのに困っていたです。それで北山では自分の寺では維持ができないから、いろんな方面の寺からですね、貫主をもつてきてその力でもって回復しようとした。明治になってからも、それをやりましたね。

○ あの、日志なんかそうですね。

【堀上人】 ええ、日志もそうです。今度の片山なんかも、その流儀ですよ。身延からもってくるなんて、けしからんですね。もう、ほとんど百年、二百年の前から、そういう習慣があるんです。

○ 檀林では主に台學をやつたんですか

【堀上人】 ええ、檀林は主に御書法度でね御書は表向きに研さんできない。内緒ではかまわん。御書を表向きにやるというとね諍論がおこるからできなかった。
  大綱から沼田にきて、沼田から細草にきたみです。大綱は顕本ですがね、顕本と衝突して、そこで沼田ができて、沼田がまた富士門下の人と八品の一部が衝突して、そして細草にうつつたんです。そういう争いが何からおこるかというと宗学からおきる信仰からおこってくる。ですから、よく背の人がいっておりますけれども、細草でさえですね。宗祖の御影の衣がしよつちゆう變つちやうんだ。能化が変るというとね。
 富士門の能化が出るというと薄墨の衣をきせる。八品の能化が出るというと緋の衣をきせるという。そんな関係があった。

【人格のすぐれた方】

○ 日東上人や日忠上人が細草檀林で教をうけたという覚真日如という方は……

【堀上人】 日寛上人のことじやよ。

 ○ 日東上人なんかは、亡くなられるときに、御本尊様に亡くなられる日を御書きになったと家中抄にありますが……

【堀上人】 そういうこともあるんでしよ。それで、寛師の直弟ではないですけれどもね。寛師の次の方が詳師、それから東帥、忠師、因帥と続いていますが、みんな寛師について學問せられた方ばかりです。ですから寛師のそばについていた人で貫主になった方が四人あって、それから、貫主にはならなくても、能化で、末寺でも相当の地位にたった人が三四人あるです。それから寛師の御弟子でですね。寛師の御在世に、まだ八つか九つの小児であった人が後になつて日元上人と日堅上人になられた。

 ○日寛上人様は亡くなられる日を予期されたり、また先はどの日東上人の例などお珍しいことですね。

【堀上人】 やっぱり、あの時代は一般の人の人気が違っていたでしょう。そういう、その想像されないような、いろいろな伝説が残つておりますね。今はあまりそういうことがありませんね。そういう清浄な、きれいなことは少くて、どっちかというと、理屈つぽい人、學間でもする人がえらいと思われて……。

 ○ 末法の末法なんていうことになりますね。(笑)

【堀上人】 ええ、末法の末法。(笑)ですから、また、信者の見方でもそうですね。あまり清浄な坊さんで世事を超越したような人は喜ばない。少しぐらい悪いことをしても、話がうまいとか学問ができるとか、とかという人は貴ぶ。わしどもの知っているかぎり、日布上人なんていう方は、もう、とっても行いは立派な人でしたねえ。生ぐさいものは食わないですね。御馳走というと、ソバだ。そのソバもですね。シイタケのだしなんか、めつたに使わないで、ときどきにでるキノコのだしでも使っておれば相当のダシだ。東京の御信者は困つちゃって、「お山のおソバも結構じゃけれども、このダシじゃ、どうも……」といっていた。醤油だって、『キッコーマン』なんていうのは、お山では、ほとんど、みたこともないのですから。手づくりの、からい醤油でした。
 身体が大変お強かったからね。足が達者でした。そうですね、ゾーりとか下駄とかそういうものは、はかれなかったですね。高い足駄ですね、高足駄をはいて、そしてあゝいう山を音もたてずに飛んで歩いたことがあった。そんなに身体が丈夫でした。御堂に上らないで、上り段のところにうずくまって、お講の始まるまえにお経を読んでおられた。人が大ぜいくるとうるさいから、早く起きられて、かならず、お経をよんでござったです。そういうふうな、潔ぺきなお方でした。お山では大きな7トンが敷フトンになっていますけれども、その大きなフトンを、そのまま敷かないで、二つに折つてね、中に身体をはさんで敷いてござった。謙そんなお方でした。

【日因上人と板倉公】

 ○ 日寛上人のあとの日因上人のときはずいぶん、いろいろ坊をお建てになったり……五重の塔をお建てになったり……

【堀上人】 そうです。日因上人は長生きでした。八十三歳ですね。それで壮健なんでとっても、身体もでつかい人だったらしいですね。カも強かった。いろいろな力の強い伝説が残っておりますね。邪魔になる石をころがすとか、なんとかね。(笑)したがって、そういう勇気がですね、いろんな書きものの中にあふれているのですね。あふれているが。とっても文字がわかりにくい。いつかあんた(小平教学部長)にお目にかけましたかね。みんな、あんなむつかしい書き方でした。歌よみでしてね、歌がたくさん残っておりますけれどもね、よめない。そんな、せっかく書きものがあるんですから、私が寫しかえて、一般の人もよむようにしたいと思っております。

 ○ この前のは三重秘伝抄の五解釈だったんですか。日因上人の………

【堀上人】 ええ、三重秘伝抄です。注釈書が三部ばかりあって、あとはよしてありますがね。それがあることになっているんだが、どこにしまったの か、わからんのじや弱っちやってね。美濃の大きな本で紙は三十丁弱ですけれども、厚い紙の大きなものです……

 ○ 日因上人が三間三答の論講を修むと績家中抄にありますが……

【堀上人】 三間三答の論講というのは、叡山の論義の儀式をうつしたんですね。論義の次第ですね。問者と答者というのがありましてね。問者というのは、どっちかというと、若い學者がつとめるんですね。答者というものは、立者ともいいますがね、それは老僧の主な人がやる。それから、どうかすると立者になり答者になる人は、貫主さんがやることもあった。
 ○ ああ、そういえば、湊先生の小説に出ていたね。比叡山でやったなんてありましたね。

【堀上人】 ええ。叡山の儀式をうつしたんです。

○ このときに、日因上人が板倉勝澄公を折伏なさったということが書いてありますね。

【堀上人】 板倉は、例の、板倉周防守と通稱している徳川初期の京都の所司代をやつていた、あのやかましい板倉勝重公の子孫です。その本家ですね。板倉の宗家です。板倉は幾軒にも分れていますがね。

○ 周防にいたわけですか、板倉周防守は……

【堀上人】 いや、周防守は守號で、そこにいたというわけじやないです。まあ、戦国時代から守號は、ほとんど虚禮でしたね。王朝時代は、守というと、その國の政治をする人をいつたもんですけれどもね。後に戦国時代からは、一つの美名になっていたですから、守號をもたんと幅がきかんということまでになった。ですから、その国とは関係のない守が多いです。

 ○ 羽柴筑前守なんていったって、秀吉はそこの筑前にはいないんだから。

【堀上人】 ええ、そうです。一国を治めるだけの力のない人でも、何かの縁故でもって、守號を名のることができたですからね

 ○ 勝澄公と、天草の乱で戦死した方とは、どういう関係にあるんですか。

【堀上人】 あれはですね、勝澄公の本家の先祖が島原で戦死されたんですね。

 ○ 邪宗退治をやったようなものですねその当時……

【堀上人】 そうです。

 ○ だけど当時は、まだ信心していなかつた。それは、ずっと前の話だったから。

【堀上人】 ちよつと、えらすぎてね板倉が戦死しないでもよかっだですけれども自分が先にたって死んだ。

○ 松平伊豆守をよこされるというので自ら先にたって死んだんじやないか……

【堀上人】 自分が大将であって、しかも、自分で片づけないというと、自分の顔にかかわる。面子にね。それで自分が卒先してやったから、戦死した。それだけまた勇気があったんですね。

【五重の塔の建立】

 ○ 今の五重の塔は日因上人のときのものですか。  

【堀上人】 ええ、日因上人があらゆる資産を入れて五重の塔ができたです。勝澄公がもとですけれどもですね。私どもに、その時の因師の書きものが残っておりますけれどもね。全部でもって、その時分の金で四千何百両という金だ。その中の千二百だったか、千八百を勝澄公が出した。
 それからその時分に、大阪はあまり繁昌しませんでしたね。
 大阪の繁昌は、また、ずっと、後ですから。でも、いくらか、あった程度だ。江戸の講中は大ぜいだっな。それから関東方面に今でも古い寺が残っています。それもほとんど、まとまって干両は出せなかったんでしょう。ですから、どうしても、二千両弱の不足ができてきた。で、因師がやりくり算段で、もう、大がいのものを、それに入れちやった。御自分の、長いこと隠居されて、どっちかというと裕福でしたがみんな出された。日寛上人の残された戒壇基金とか何とか、そういう金もその中に入れちやった。           〇 日寛上人様の残された基金は、このときに……

【堀上人】 そう、そのときに、お使いなさった。それで、あとで、寺中から問題がおこったんですけれども、しようがない。そのときの扱いが、書類に残っている。それを、まあ、志のある貫主様がですね、寛師の御志を残さなければならぬといって運動されたこともありますけれども、それは成功しないで、そのままになっている。今の淳師ならば、そういう考えができるかもしれませんけれどもね。ちよっと、思いきりのいい人でなくちやね、そんなことはできないですよ。

 ○ それから、同じくこの三十一世日因上人の頃にヽ造立する坊舎とあって、州東坊・宗順坊・清光坊・西山坊・神座堂等々……

【堀上人】 しかし、建立になっていますけれどもね、一とう大きな因師の隠居所というのは東之坊です。東之坊の位置は、今のお塔に渡る川に近い方の位置にあってね。
古い寛師堂の隣りにあったですね。古い寛師堂というのは、角にちよっと杉林があって、高い地所があるでしよう。あれが寛師堂でした。その寛師党をですね、常唱堂といって、あそこで日寛上人が六人のお題目を唱える坊さんをおいて、そして常題目をかかさなかった。隣りへ東之坊といって、でっかい坊ができた。そこへ因師がござった。あとのですね、小さな坊は、日因上人がちよっと、ござったこともあろうけれども、主にいろいろな人が住んだですね。いろいろな人が住んだですから、坊の名は残っていますけれどもね、その坊が百年■いたとか、五十年続いたとかいうことは、たしかではないのですよ。名ばかり残つて。ですから名を合せるというと三十五六もの坊があつたことになるが、ずつとあるのがないんですよ。坊籍ばかり多い。よく続いた坊は東之坊が割に続いた。一とう永く続いたのは○○坊ですね。今の本山の隠居所になつている。そして石之坊が今残つていますがね。あとの坊はほとんど、もう、坊籍も残つていないです。


【各地の法難】

 ○ それから、三十二世から四十八世の日量上人くらいまでの間に何か特別のことはなかつたでしようか。

【堀上人】 その間にですね。御本山では、そうですね、善悪ともに歴史に残るようなことはなかったらしいですね。末寺では、いろいろな事件があつてね。

○ ああ、そうですか。法難なんかも、このころ、あつたわけですね。

【堀上人】ええ、法難もあつたですね。加賀の金澤の法難なんかはながいこと続きましたからね。ほとんど明治まで三百年間、続いてきたんですから……。不幸にして金澤に末寺をもっていなかったのがその原因ですね。末寺があれば、法難はなかった。
新しい寺をつくるということが問題でね。古い寺ならば、どんな邪宗でも何でもかまわない。新しい寺をつくるということは、もう、ほとんど禁制ですから。中間に手続きしたこともあるんですよ。やはり、この、金澤あたりの大藩に縁がうすくてね、成功しなかった。ですから、仙台の法難なんかも、そんなようなものなんですね。布教には覺林坊が成功したけれども、あんまり成功が早かったですから、かえって邪宗の坊主からにらまれて、そこから寺社奉行にうったえて、おかしな悪名をつけて三十年も島流しにされちやった。

 ○ 仙台の法難は、ほとんど覺林坊……

【堀上人】 仙台は覺林坊の法難が始めてですね。

 ○ そのほかには。

【堀上人】 そのはかには、玄妙房という人が法難にあったのです。

 ○ ああそうですか。

【堀上人】 玄妙房の法難は覺林房ほど、本当の法難にあったのしやない。名儀上の法難ぐらいでね、それは、佛眼寺に住職していたときてすね、例の身延派の孝昌寺にねいろいろな衝突があって、それがもとになって葬式があって、出すとか出さないとかのゴタゴタから藩の命にさからうというので、おっぱわれちやった。

 ○ 信州なんかは……

【堀上人】 信州は先祖が干ケ寺詣りしてねそして偶然、大石寺に参詣して、そして信仰なさったのです。それですから、わずかばかりの人を集めて信仰していたですね。
それが自然この、檀那寺に聞えたですから問題になって、そして信仰をさしとめるとか、なんとかいう問題になった。それでもひそかに、ある人々は信仰していた。

 ○ 信盛寺は明治時代になってからできたのですか。

【堀上人】 ええ、そうです,建物は、そう厳格じやないけれど敷地はね、街道から上って、のぼりきったところにある。その構造がほとんど塀をまわしてあって。一見、その、城廓の形をなしているですね。

 ○ 特別に信州の場合は、つかまったり殺されたりしたことはなかったのですか……

【堀上人】 つかまったことは、ある。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 そして、幾分か自由を束ばくされてね。どういうことしていかんとかいうことがあったですね。城倉の本家ばかりじやなかったです。城倉にくつついているほかの人も、いくらか法難にあったのですね。

○この城倉氏は今はないですか、信州には。

【堀上人】 いいえ、城倉はいくらもありますよ。

 ○ その系統の人が、いま……

【堀上人】 そう、その系統の人が今でもおります。






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