北海道のアウトドア!

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スピリチュアル

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■川を見つめて■

川の流れは穏やかになり、激流ともなり、落ち跳ねては大海を目指す。その水面は人生の場面を思わせるように数々の表情を現し、全ての生命と共存しながら流れるからこそ、無数の環境と自らを浄化して、その生命を謳歌する。

人はこの営みを見つめて美しいと感じる。しかし川が川である意味と、この世界に川がどれだけ必要なものであり、地形や生態系にどのような幸をもたらし、どこまでの能力を秘めているのかほとんど知る由もない。

その偉大な働きは近年になり「重要」であることが知られてはいるものの、そのほんの一部でさえも解明はされていないように思う。


人の心も穏やかになり、激流ともなり、落ち跳ねては大志を目指す。そして人の行動は人生の場面を思わせるように数々の表情を現し、全ての生命と共存しながら生きるからこそ、無数の繋がりと自らを昇華して、その生命を謳歌する。

私はこの営みを見つめて美しいと感じる。しかし人が人である意味と、この世界に自分がどれだけ必要なものであり、地球や人々にどのような幸をもたらし、どこまでの能力を秘めているのかほとんど知る由もない。

人心の偉大な働きは近年になり注目され研究はされて来ているものの、そのほんの一部でさえも解明されていないように思う。



■知っているのに知らないこと■

第一、私たちには知らないことが多すぎる。いいや、知っているのに分からないことが多すぎるのだ。

鳴りそうだと思った電話が鳴りだす。

逢いたいと願った人が突然現れる。

同じ言葉を考え一緒に云ってしまう。

不安にかられた日に、それが事実となる。

これは、日本古来より「虫の知らせ」として私たちが知っている現象の一部である。しかし、どうしてかは説明できないし知らない。そもそもこの「虫の知らせ」とは「第六感」といわれるものだ。

これは人が持つ知覚能力の内、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、以外の、一般常識としては存在しないと信じられている感知能力のことである。それらの能力は現代まで「テレパシー」とか「霊能力」などと呼ばれてきたが、そんな特別なものだろうか?

もし、「虫の知らせ」が「テレパシー」とか「霊能力」だとしたら、これは特別なものになってしまう。何故かといえば「いかがわしく」なるからだ。


■川の流れのように■

川の流れを見つめるように人を見つめ解明しようとした人がいる。それは自分を知ることが「不明を明らかにする」ことを知り、探し求めた人々だ。

1500年前の天台は「八識・九識」といい。

20世紀のフロイトは「集団的無意識」といい。

現代のシェルトレイクは「形態場」といった。


それは、人が持つ意識は偉大であり、素晴らしい営みを内在していて、意識の深いところでは全ての心が「繋がっている」と明言している。これは現代になってやっと実験証明されてきたが、その一部しか知る由もない。しかし、わからないが解ること。「虫の知らせ」を解明している。

そう、人はテレパシーでもなく霊能力でもなく、自分のもっている無限の力量(つながり)を知ることで本来の自分を見つけることができるのだ。


捜し求めているものは

この心の奥底に

ひっそりとたたづむ

垣間見た者は涙するだろう

ただ喜びに 静かに



人は自分を知るために生まれて来た。それは実験でもあり挑戦でもあるが、とても長い道のりなのだと感じる。

現代の科学は証明でできないものを「無いもの」としてきたが、それでは中世の科学者を痛めつけた「魔女狩りの教会」となんらかわらない所業ではないだろうか?

知っているのに知らないもの。それは川であり人であり、全てである。そんな懐がいまこそ大切な時代になってきた。


■スピリチュアルという言葉■

21世紀は心の時代といわれる。なぜなら、いままで人々は物質に支配されてきた。その反省と後悔がこの言葉を作り出したかにも見えてくる。

川の流れが激しく、自分に見合っていないのならば川を掘り、流れを変える。そのデメリットも知らないままに。

自分が気に食わなければ、人の心に土足で上がり込み、命さえも奪ってしまう。そんな人間の「業」に皆があきあきしてきたのだろうか。

スピリチュアルという言葉がある。これはスピリチュアリティ(Spirituality)の略でもあるが、この国では「霊性」といかがわしい訳をする。

ちがうのだ。

「意識論的、あるいは精神論的生き方」だと私は理解している。とってつけたようにスピリチュアルな先生がテレビやメディアに登場して「生き方」を説明するが、彼らは決して意識や心を説明しない。

それはまるで、飛行機には乗せるが飛行機の飛ぶ論理を説明していないことに等しい。不安である。知りたいが解らない。とても不安である。だからこそ商売にもなるのだ。これはとても罪なことであり、人間の一番の崇高な部分を商売にしていることが許せないのである。

この混沌として、何でもありえるであろう現代に意識を深めつながりを求めることは、私のスピリチュアルにはとても大切だと感じるが、それは自分でしか知ることの出来ない、自分の孤高な能力だ。

知ってはじめて「つながり」を理解し、人生を転換できるものだとおもう。無限の力にたどりつけるのはメディアでも雑誌でもなく孤高の自我の確立であり、しかも、それは見渡すことにより、どこにでも営まれている自然のことわりの中に生きているのだ。


■わからないのに効果があるもの■

チャネリング(channeling)という言葉もある。

これは常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の存在・神・霊界人・未来人・宇宙人など)から、特別な能力によって情報を交信することだとされるが。私は深層意識に潜り込みつながりを自覚する行為に他ならないと感じる。

それほど人のスピリチュアルは優れていると感じるからだ。入り口が違うのだ。このままでは宗教に埋没してしまい、苦しむ人々もいるだろう。

本当の人間の能力とは開放されるものであり、それだから発達し駆使できる時代が訪れるはずだ。宗教というひとくぐりに束縛されるほど、本来の人間性は愚かではないと感じる。

そこで「開放」という言葉を考えて見る。

セラピスト(therapist)という言葉もある。人を癒し、病気や怪我や社会環境から人々を救い、社会復帰させようとする素晴らしい療法士のことだ。その手段はたくさんある。

イルカ。イヌ。ヒト。香り。運動。物語。声。音楽。。。。

それらに随時に人々を触れさせて幸福と癒しと復活を促す人々のことをいう。しかし、説明はできないことが多い。

このような実績がある。との経験論でのことも多いのだが「結果」がついてくるから素晴らしい療法なのだと感じる。

触れさせること。「つながる」こと。それはやはり自分を自覚し知る過程でもある。その自分は自分でもわからない大きな川。

いまこそ、精神の世紀が訪れた。だからこそ、本当のスピリチュアリティを探す時代になったこと。それが少しのことでも、私は喜んでいる。


*** 今日のお別れポエム ***



海 を 渡 る 風



数珠繋ぎのテトラポットを登り

いつも地平線のありかを探した


カモメは空で首をかしげながら

背伸びする僕に不思議そうだね


心は遠く海を渡ってゆくけれど

身体は海を歩んでいけないんだ

優しい家族がいた彼女の元へは


波よテトラポットを濡らしてよ

僕の絆を湿らせて強く滑らかに


数珠繋ぎの想い出をいだくまま

もっと大きく背伸びをしてみた






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