京子がサイドテーブルに置かれていた花束に気がつき
「これ…」とつぶやく。
はっと気がついたように本から顔を上げて、京子の視線の先の花束に目をやった。
「あぁ、それ七瀬さんって人からいただいた花束…」
だが彰人は、そこまで言って口ごもった。
「そう。七瀬さんからいただいたのね」
さらりと言い流す京子。しかし彼は、その花束を見つめたまま深く考え込んでいるようだった。
「…七瀬」
「え?」
彼のつぶやきに、京子が不安げに問い返す。
「七瀬って…」
京子は彰人に駆け寄り
「彰人、何か思い出したの?!」と尋ねた。
しばらく黙って考え込んでいた彰人だったが
「ごめん。やっぱり無理だ。何も思い出せない」と大きなため息を落とし、頭を抱え込んだ。
「そう。まぁ、無理に思い出そうとしなくても、そのうち思い出せるわよきっと」
心の中で明らかに安堵している自分に、京子は彼に気づかれぬよう僅かに苦笑した。
その夜、彼はまた夢を見た。とても長く至福に満ちた夢だった。
春。君は僕の誕生日を知ると、僕に内緒でバースデーパーティーを計画してくれた。
チャイムを押してゆきのアパートに入ると、ゆきが待っていてクラッカーを鳴らす。
「お誕生日おめでとう!」と花のような笑みを浮かべて彰人に駆け寄るゆき。
自分の胸に飛び込んできた彼女を優しく受け止めて、また彼も満面の笑みで
「ありがとう」と答えた。
「さぁ、入って」とゆきに招き入れられた部屋のテーブルの真ん中には、青いセントポーリアの鉢植えが飾られ、たくさんの料理が既にセッティングされていた。
「わぁ!すごいご馳走だね!それに花まで!さすが花屋の娘」と微笑する彰人。
「この花、セントポーリアの花言葉は…」
「何?どうしたの?」
でも彼女は、恥ずかしそうにクスリと笑って
「なんか照れくさいから、後でこの鉢植え渡すときにカードも袋に入れとくから読んでみて」とだけ言った。
セントポーリアの花言葉…『小さな愛』。君が一番好きだった花。
夏、2人で行った花火大会。捨てられた子猫がずっと僕らの後を付いてきてた。
「きれいだねぇ、花火!」
と微笑む彼女の膝の上で、白い子猫が喉をゴロゴロと鳴らしている。
君は子猫を抱いたまま、ずっと光の降り注ぐ空を見つめていたね。
そして、ふいに彼女が彰人を見て言った。
「いいかな?アパートだけど」
「うん。ばれなきゃいいと思うよ。なぁんて、無責任過ぎるかな?」と優しく微笑する彼。
その言葉にゆきはぱっと笑顔を輝かせて
「だよね。ばれなきゃいいよね」と無邪気に笑った。
それから子猫に向かって
「一緒に帰ろうね」と微笑みかける。
ティンク。君が子猫に付けた名前。僕らの結婚が決まったときも、君はちゃんとティンクに報告してたね。そんな君を素直に可愛いと思った。
秋。君は何やら一生懸命編んでいるようだった。
「ねぇ、何編んでるの?」
「秘密」
「少しくらい見せてくれたっていいじゃん」
「だめ!秘密なんだから」
そう言ってゆきは、さっと編みかけの何かを紙袋へと入れた。でも顔はとても嬉しそうに笑っている。
「あぁ、早くクリスマスこないかなぁ」
僕の顔を見上げてほほ笑む君は、まだあどけなさの残る少女みたいだった。
そして、冬がやってくる。まだ誰も気づくことのない大きな悲しみを連れて…。
「でも、イブには帰ってこられるんだよね?」
「うん。多分、夜にはなると思うけど、それは大丈夫」
「よかった」
幸せそうにほほ笑んだ君。そのほほ笑みを、僕達の幸せを永遠に閉じ込めてしまえたなら…。
2人の乗った車の上に、工事現場の足場を組んでいた鉄骨が崩れ落ちる。迫りくる恐怖。一瞬がとても長い時間に感じられた。