佐竹台8丁目25番地―12

「最期の戦い」('98/12/27)


コート、タートルネック、ジーパン、靴下。
黒系統に統一した。
喪服を意識したからだ。
なぜなら目の前で、応援するチームの
「最期」を見取る可能性があったからである。

----
'98年のサッカー界を一言で言え、といわれれば
普通は「フランスW杯」「3戦全敗」が真っ先に出てくると思う。

次に出てくるのは、「中田英寿、ペルージャ衝撃デビュー」かもしれない。

しかし、同時にこの年はJリーグの変革の年でもあった。
翌'99年からJリーグは2部制を導入することが決定し、
J1参入決定戦が行われた年。

そして激震が走ったのが、「横浜フリューゲルス消滅」という発表。
一応、体裁は「横浜マリノス」との合併、という話ではあったが、

「フリューゲルスから6名のみを選択し、マリノスが優先的に獲得する」

という事実は、フリューゲルスが解散する、とほぼ等しい内容だった。

---
10月某日、当時大学3回生の私はいつものように遅く起き、
適当に授業を受けソッコーで帰ってTVをつけた。
ちょうどB'zのベストアルバム「Treasure」を大学生協で購入し、
聞こうとした矢先だった。
昼過ぎのフジテレビ系のワイドショーで境鶴丸アナが
「今日のニュース一覧」のコーナーで、
この話題にトップで触れた。


驚愕。


それだけだった。
その日の昼休み、何も知らず
当時所属していたサークルの後輩と
「まあ、フリューゲルスは勝ち点的に来年もJ1残留はほぼ決まりや」と
口にしてから2時間経たずして知った事実。

朝に知っていたら、多分この日は大学には行かなかっただろう。

---
その後、「存続署名活動」「募金」等の運動が横浜で行われたが、
当時京都に在住していた私には何も「できなかった」。
ただ、このニュースを
「残留に向け、京都サンガには朗報」
と報じた京都テレビを恨み、
「やっと横浜が1つになる」
と祝電を送った当時の横浜市長を恨んだ。
「ニュースステーション」に緊急生出演し、
「私の手元に来た時点では、合併は既に決定済の段階で、
どうしようも無かった」と述べた
当時の川淵三郎チェアマンを、心の中で「偽善者」と罵っていた。

---
だが、実際に行動を起こそうと思えばできたはずだ。
例えば、私が所属したサークルでの集まりで署名を求めたりとか。
だから、正確に言えば何も「しなかった」。
どうせ、もう決まったこと、変わらない、と諦めていた。

---
しかし、チームは違った。
選手達は、試合前の記念撮影時、
左腕にあるスポンサーマーク「ANA」を隠して写った。
もちろん、抗議の意味を込めてである。

ニュースで、ホーム三ツ沢でのJのリーグ最終戦の後訴えた、
当時のエンゲルス監督の、たどたどしい日本語での挨拶。
「誰でもいい。助けてください」

それに対し、直後に、同じ場で当時のフロントの人間が
「合併は既に決定事項であり…」との文書を機械的に読み上げた。

---
そして最後の戦いが始まった。
第78回天皇杯。
負け=即チームの「死」を意味する戦い。
そして勝ち続けても、翌年の1月1日までの
「延命治療」でしかない大会。

---
最初、チーム内では、
「若手を起用し、スカウト達に見てもらおう」
「普段の控えの選手の売り込みの場にしよう」
という声もあったらしい。

しかし、出た結論は「ベストメンバーで、全力で戦う」だったそうだ。

---
それでも、「フリューゲルスファン」を語る私は
青春18切符片手に旅行に出ていた。
雪の新潟から福島をのんびりローカル線で回っていた。

12/23の準々決勝は神戸ユニバでの試合。
同年前期Jリーグ戦覇者のジュビロとの戦い。
京都からなら、距離的に十分日帰りで見に行ける。

しかし見に行かなかった。
どうせ勝てないと思っていた。

---
確か埼玉県の大宮駅で
ムーンライトえちご号を待っていたときだったろうか。
「フリューゲルスがジュビロを破った」という事実を知った。

「ファン」を名乗っていた自分を恥じた。
応援するチームが全力で戦っているのに、
勝ち続けているのにそこから目を背け、
見に行かない自分を恥じた。
準決勝は大阪の長居で、ということは知っていた。
心は決まった。

---
サッカー好きの同じサークルの友人が超多忙だったため、
特にサッカー好きではない別の友人と観戦した、
15:00キックオフの鹿島戦。
試合前、長居のビジョンでは、決勝進出を争う
13:00キックオフの名古屋―清水戦を映し出していた。
1-1の展開で笛が鳴り、延長突入が決定した。
そして、ちょうど時を同じくして、
試合開始に向けたメンバーが発表された。

---
GK1楢崎正剛。DF13前田浩二、3薩川了洋、4佐藤尽。
MF12波戸康弘、5山口素弘、8サンパイオ、6三浦淳宏、10永井秀樹。
FW9吉田孝行、22久保山由清。
3-5-2の、オーソドックスなフォーメーション。
フリューゲルスが'98年に散るのか、'99年に散るのか。
一見「無意味」で、同時に「大きな意味を成す」試合が始まった。

---
試合展開についてはあまり覚えていない。
覚えている範囲内で書く。

前半7分位に、永井秀樹のミドルがゴール隅に飛び込み先制。

そして前半30分頃、事件が起きる。
鹿島FWのマジーニョがDF薩川と小競り合いとなり、
突き飛ばし、即赤で退場となる。
同時に薩川にも黄が出され、後方から
「累積で決勝無理だよ~」っという声があがり、後ろを振り返る。

しかしその後、5分程度もしないうちに、薩川には2枚目の黄が出され、
数的有利な時間帯はあっという間に終わった。

---
よくサッカーではDFの退場とFWの退場では
前者の方が痛い、という話を聞くことがある。

経験者ではないのでよく分からないが
なんとなく雰囲気は分かる。
守備の方が選手間での約束事が多いこと、
そして1つ1つのプレーにより高い確実性が求められること、
等が関係しているのでは?と思う。

---
しかし、難なくフリューゲルスは4-3-2に変更。
ボランチのサンパイオ、山口が中央で網に掛け、
高さには男・前田と佐藤がことごとくはじき返す。

そして1点ビハインドで、当然前掛かりになる鹿島の
ジャブのように執拗な攻撃を
耐えて、耐えて、ひたすら耐えて、
時折カウンターで決定的な場面を築く。

ただそれの繰り返し。それに終始した試合であった。
無骨な、無策な、無粋なサッカー。
華麗さなどはいらない。
美しさなど求めてない。
はなからこの戦いは「生き残るため」の戦いである。

その他に覚えているのは、

フリューゲルスの決定的なシュートを鹿島GKが1本防いだこと、
鹿島が途中交代で柳沢を入れてきたこと、
終了間際に時間稼ぎでフリューゲルスが原田武男を投入したこと

くらい。

正直、見ているだけで、必死だった。
ゴールを死守する選手達から伝わってくる
気迫を受け止めるだけで必死だった。

そしてその気迫が相手を上回った。
ただこの試合を一言で表せば、それだけのことだった。

それだけのことで、同じ'98年の元日には0-3で完敗した相手に
ゴールを割らせること無く、
そのままタイムアップの笛が鳴った。

---
フリューゲルスは「生き残った」。
目の前の1998年12月27日が最期の戦いでは無くなり、
自動的に命日は1999年1月1日に決定した。

フリューゲルスはその歴史を'99年まで伸ばした。

そしてご存知のとおり、
'99年の元日に国立霞ヶ丘競技場で
清水エスパルスを2-1の逆転で下し、
文字通り「有終の美」を飾ったのである。
TVで見ながら嬉しいのに、寂しかった。

---
マリノスは結局、6人の選手を指名した。
吉田孝行、永井秀樹、三浦淳宏、佐藤一樹、波戸康弘、久保山由清。
久保山以外の選手はマリノスに入団し、
'99年からは「横浜・F・マリノス」と改称された。

---
そしてその他のメンバーは、というと、
誰一人として所属先の無い選手は生まれなかった。
また、5名増員したマリノスも、
その分他の選手を解雇する、という手段は取らなかった。
というより、取らせなかったのである。

---
先述で「偽善者」と非常に失礼な表現を用いたが、
川淵三郎チェアマンを代表とするJリーグ協会が、
「選手雇用の継続」を大前提にして動いた。
その結果、
山口、楢崎は名古屋、
'00年のナイジェリアWユース準優勝のメンバーである
遠藤保仁、手島和希、辻本茂揮は京都に、
また佐藤尽、当時入団1年目のFW大島秀夫も京都に、
氏家英行は大宮に、
久保山と、川崎にレンタル中だったFW服部浩紀は清水に、
薩川は柏に。男・前田は磐田に。MF原田はC大阪に。
サンパイオは再び母国・ブラジルのパルメイラスに。
全ての選手の行き先は覚えていないが
(最低1年間は)雇用を約束されたのである。
これは、間違いなく、称えられるべきことだ。
合併を止めることは出来なくても、
最善策は採られたと考えるべきだろう。

---
どうしてもこの事件と思いが重なってしまう出来事が'04年に起こった。
オリックスブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併、
そして大阪近鉄バファローズの歴史に終焉が訪れたことである。

---
オリックスと大阪近鉄の件については、
また別の機会に意見を書こう、と思っている。
その時には
「予め100年を構想して、必要な枠組を整備した上で始められた
 歴史の6年目('92のナビスコ杯含めれば7年目)の試練」

「何も無いところから始まり、必要な枠組みを全く整備せず
 放置し続けてやってきた歴史の70年目の試練」
の違いを詳しく書きたいと思う。

---
とりあえず
前者は解雇者を出さずに
被害を最小限に食い止めることができた。
後者は1,2年目の選手の雇用継続は約束し、それは実行できたが、
結局Bu,BWから約10名以上の非契約選手が出た。

各チームのレベルからは一段階離れた、上部の機構が
機能し、明確な方向性を示した一例と、
機能せず、そもそも機能することを前提としていなかった一例、
の違いと言えばいいのだろうか…

---
Jの方は完全で優れたシステムだ、とは
述べるつもりは毛頭無い。
Jが70年も歴史を続けられるかは誰もわからない。
ただ、現実に起きたことを、
私なりに解釈して表現してみただけだ。

---
話がそれたので元に戻す。
私は個人的に、
'99年に誕生した「横浜Fマリノス」を
「よこはままりのす」と発音することにして生きている。
たった4年間応援したチームだったけど、
正直、「えふ」をつけるのは悔しいからだ。

---
そして同じく、'99年に誕生した
「横浜FC」を設立以来応援しているが、
絶対に「フリューゲルス」とは名乗って欲しくない。
(いまさら名乗る気もないだろうが)
「横浜FC」の発祥の最大の要因が
「フリューゲルス消滅」だったのは揺るがない事実だが、
全く何も無いところから、たった2ヶ月で特例だったとはいえ
JFLに加入できるチームを作り上げた人々、集った選手達。
そして多少ゴタゴタはあったが、きっちりと2年連続
JFLで優勝し、'01年にJ(J2)に新規加盟を果たした、
彼らの努力・苦労・功績は「横浜FC」の名によってのみ
アイデンティファイされていると思っているからだ。

---
ただ、Jリーグで最初のダービーマッチだった
「横浜ダービー」の新バージョンが
早く実現して欲しいと思っている。
もちろんJ1で。
そして強い「マリノス」相手に。
そして横浜FCが勝つ試合を観戦するのが私の夢だ。
それまで、ずっと「マリノス」は強豪であり続けていて欲しい、と思う。

(※’07/03/10、この夢は、ついに叶いました!!ありがとう、横浜FC!!)

---
独語で「翼」を意味する「フリューゲルス」は
'99年、快晴の元日に、一番美しいかたちで宙に旅立ったのだ、と
私は今、勝手に解釈して生きている。

---
この件は、私の生活に大きく影響を与えた。
「ファン」ってそもそも何なんだろう?と考えさせてくれた。

その後
「ファン」=「できるだけ近くで応援するもの」
と自分なりの答えを出し、
TV視聴だけでなく、積極的に観戦に行く様になった。

だからこそ、その結果私は「佐竹台」になったのだし、
「アーチスト」の「芸術品」を実感出来た。
加えて、さまざまな人々と知り合うことが出来た。

そして以前よりも、もっともっと、中毒ってくらいまで
私は野球(パ主体)・サッカー(J主体)好きになれた。

---
あんなに嫌いだった全日空だったが、
現在岡山在住の私が出張、遠征等で関東に行くときは
今ではほぼ必ずANAを利用している。

その理由は、マイルが目的でも、Edyが目的でもない。

ただ、ANAの機体の色の組み合わせ
「白、水色、青」
に懐かしさを覚えて
自然とそちらを選択しているだけである。

---
…ってすいません、格好つけようとして嘘つきました。

正直に言うと
カードが無いと毎回手続きが不便だったのと、
カード作るときに、やっぱりEdyに惹かれたのと、
私的に、伊東美咲>矢田亜希子だったからです。

…もし矢田亜希子→仲間由紀恵に変わったら
すぐに、ずばっとまるっとすりっとJALに乗り換えます。

ただ、あの色の組み合わせを見ると、懐かしさを覚えるのは本当です。


['05/01/31]


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: