窓辺でお茶を

窓辺でお茶を

「あの戦場体験を語り継ぐ集い」





・軍隊は映画「真空地帯」のとおり。殴られたが、男にしてくれた軍隊に感謝している。上陸作戦はなかったがアメリカの爆撃があった。苦しみは戦闘だけでなく、病気や組織内のこと。戦友たちの霊を背負って戦争体験を話し続ける。


・海軍で戦艦「武蔵」の生き残りのかた
米軍による第一波の空襲から四波、五波、と武蔵を狙ってきた。地獄の責め苦。艦内の病院のようになっていたところは「人間の塩辛」状態だった。靖国神社で慰霊祭を死ぬまでやっていく。


・陸軍?で中国にいたかた
戦争とはあなたの愛する人が殺されるということです。150日にわたる3000キロの行軍、空腹と疲労、蛇や蛙も食べる。自殺、逃亡するものが出た。戦友がマラリヤで死んだ。もう戦争はいやだ。今日の平和は先輩の犠牲の上にある。改憲はぜったいいけない。


・満鉄勤務、現地入営のかた
幹部候補生だったのできびしい演習。自分の時間は便所に行くときだけ。傷病兵となって一足先に帰還したが、戦友はほとんど死亡。


・陸軍でパラオで隊長だったかた
200名の舞台の隊長だったが、上陸後、下痢、テング熱に悩まされ、小隊長として指揮できるか自信がなくなり自決しようと胸を撃った。心臓をはずれ、精神病者として内地へ。戦友の多くは死亡、生き残った人も地獄を見た。常にうしろめたさが胸をつきさす。平和運動を戦死した戦友への儀式として行っている。


・陸軍で中国にいたかた
次々とコレラが発生し、野戦病院といっても薬も消毒薬もなく、隔離して収容しておくだけ。さわってはいけないと命令され、病人が水をくれとハンゴウをさしだしても無視した。隊が前進することになり、患者達は焼き殺された。遺族には白木の箱に紙切れ一枚。これが戦争の無情。


・戦艦「高尾」に配属されたかた
「武蔵」「大和」など100艘あまりの大艦隊で心強く、頑張ろうと思った。無料で官費旅行ができた。よき戦友、上官とめぐりあえた。


・満州にいた女性
日本人は外に出ると外套をはがされ、義兄は青龍刀で切られ殺された。八路軍、ソ連軍、国民党がくると聞き、逃げようとしたが八路軍につかまり、兵として4年間協力させられた。日本に帰れたのは戦後53年後。


・関東軍歩兵分隊長だったかた
配属されたのはまったなしの戦場だった。62年間日本が平和に繁栄しているが、太平洋戦争の戦場に散った210万人の犠牲の上に築かれたことを忘れてはならない。最近実態が明らかになってきたが、満州事変から太平洋戦争に至ったのは、軍部の暴走、陸軍の好戦派を阻止できなかった無能な政治、国民、無責任は報道の責任である。自衛隊の紛争地域派遣、テロ特措法に反対。


・陸軍で中国にいたかた
80名以上のうち、帰還できたのは20名。靖国神社に集まっているが、戦友が神様になっているはずがない。食料がなくて中国人の村から徴収してきて、それでも足りず栄養失調になった。幽霊でもいいから会いたい。


・18歳で陸軍航空兵として満州に行ったかた
戦闘機はぼろで100キロ爆弾が積めず50キロ爆弾を積んだ。出撃すると燃料が足りないので帰れない。スターリンと瀬島のせいで60万人が捕虜収容所に収容されたがいまだ戦後補償を受けていない。耕しただけ畑がもらえると言われて移住した開拓団ともども国に捨てられた人々といえる。アメリカの行う戦争に賛成する風潮が起きないように孫子に伝えなくてはならない。
権力・政府・軍は、ことばでは国民の生命、財産を守るというが、うそである。


・満蒙開拓義勇青年隊のかた
最後の一兵まで戦うといって、持ち物をすべて焼き、爆薬を爆発させた。チチハルまで行ったが汽車が動かないので分散して知り合いの家にいた。ソ連がはいってきた。引き揚げが始まって列車に乗ったが、栄養失調で途中で亡くなる人は落として進んだ。2度と戦争はしないでください。


・少年飛行兵だったかた
15年に陸軍学校に入学。18年に卒業して満州へ。ソ連に対する訓練をした。ハヤブサで南方へ。昭和20年1月18日が初陣だった。武者震いかブルブル震えた。


・今85歳のかた
70~80年前の日本を今の若い人は想像できないだろう。1941年12月8日の宣戦布告は軍部の暴走であり、政府、政治過に重大な責任がある。1億国民すべてが軍国主義に塗りつぶされていた。


・マレー半島上陸作戦に加わったかた
よく生きていた。とにかく戦争をしてはいけません。


・シベリア抑留体験者のかた
17歳で抑留された。人間が絶えうる限界を越える重労働と栄養失調。赤化教育を受けた日本人にいじめられたが、自分に正直に一生懸命働いた。現在も国を愛する心は変わっていない。


・ニューギニアで軍医だったかた
補給がとだえ、飢えとマラリアに苦しんだ。精神力だけでは勝てず、多数の命が失われた。「必勝」の気概を持つことはいつの時代にも通用するが、物質的背景がなくては。「滅私奉公」の裏返しの状況が今のあってはならない事件を起こしている。


・フィリピンで戦ったかた
飛行機もなくなり、稚気混み作戦しかなかった。米兵との戦いも大変だが、栄養失調やb表記に悩まされた。フィリピン63万人のうち50万人が戦死した。


・対馬丸乗組員
学童疎開のこどもたちを乗せ昭和19年8月疎開船1号として他の船と護衛艦と一緒に出発。見張りの当直を終えて部屋で休憩していたところ、敵の潜水艦を知らせる汽笛が鳴り、爆発があった。魚雷が3発命中した。沈没してから泳いでいかだを繋いで7人を救助、3日漂流して救助された。


・落下傘部隊
訓練中から事故があった。見学した両親が「落下傘が開かなかったのがあった」というので、あれは人形だと言っておいた。奇襲攻撃を受けて死にそうになった。91歳を過ぎたが、戦争より悲惨なものはないと語ってゆきたい。


・軍の醜さ、人道をはずれた遣り方に悲憤慷慨しながら天皇の命に従ってきたが、ミンダナオ島に派遣され、来るのは敵機のみ、友軍は一揆も来ず。山河口で戦えと言われたが、戦うに弾なし、生きるに食なく、ジャングルに分散して配送。ことばにできない苦しみだった。憲法9条を守ることに87歳の老骨をひっさげて頑張るので皆さん力を貸してください。


・知覧 特攻隊のかた
6月19日出撃命令を受けた。大変な悪天候で3機で出発したが、1機は墜落、もう1機と引き返した。それ以降出撃命令は出なかった。戦争がいかに国民を不幸にするかを訴えたい。亡くなった人たちが天皇や大日本帝国のためだなどということはない。戦争は悪である。


・ニューギニアで父が戦死した女性
父の記憶は全くない。白木の箱に紙切れ1枚がはいっていたと母に聞いた。母が再婚してからは父の話は出なかった。胸の中にずっと空洞があった。昨年この会に参加して元兵士に話を聞き、戦争のむなしさと悲惨がじわじわと身体に沁みてきた。父の無念と悲しみに近づけた。


・中国で軍医だったかた
中国人に赦されない残虐行為をした。昭和31年に帰国。戦争体験を話し戦争の悲惨さを伝えている。
7年間で14名生体解剖をしなければならなかった。当時は気持ち悪いと思ったが、悪いこととは思っていなかった。緊急手術の技術を高め、日本兵士の命を救ってまた前線に返さなくてはとの一念に凝り固まっていた。軍名だと言い逃れはできない。麻酔はしたが生きたまま盲腸、腸を切ったり腕を切断した。衛生兵や看護婦にも手伝わせた。2000名から3000名いたはずだが、誰も語らない。


(実は衛生兵だった身近な人に聞いたことがあります。花柳病と結核に罹っている中国人に軍医が空気を注射すると、その人は謝謝といったそうです。治療してやるとだましたものと思われます。亡くなると、頭蓋骨をのこぎりで切るよう命令され、恐いし切れないし大変だったそうです。その後ナイフで肉をそぎ落とし骨格標本にするのを手伝わされたとのこと。優しいおだやかな人がそんな作業をしなければならなかったとは…「戦争は鬼かきちがいだ」と言っています)







(工事中)


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