窓辺でお茶を

窓辺でお茶を

本箱(人生に関する棚)


・「遊んで遊んで遊びました」
・「露の身ながら」
・「夢の靴職人」
・「百歳の美しい脳」

「仏の教え ビーイング・ピース ―ほほえみが人を生かす―」ティク・ナット・ハン 中公文庫

 ティク・ナット・ハンのアメリカでの講演内容を編集した本です。
ティク・ナット・ハンは1926年ヴェトナム生まれ、16歳で出家、アメリカの大学で学び、ヴェトナムに戻ってから戦争中「行動する仏教」の指導者になりましたが、渡米し平和提案をしたところ帰国不能になり、南フランスにプラムビレッジを開き、そこで亡命生活(本は1999年刊行)という人です。

 とてもわかりやすい言葉で書かれていますが、「すごい!」と心の中で連発しながら読みました。

 例をあげれば、1枚の紙に詩人なら雲が浮かんでいるのを見る。雲なしに水はない、水なしに樹は育たない、樹なしに紙はできない。太陽も必要、樹を伐るきこり、きこりが食べるパンになる小麦やきこりの親もその1枚の紙の中にある。1枚の紙は宇宙全体の存在を表している。同じように個人は個人でない。

 ボートピープルの12歳の少女が海賊に強姦され海に飛び込んで死んだという手紙を読み、瞑想の結果、武器をとって海賊を殺すのなら簡単だが、もし自分がその海賊と同じ村に生まれ同じ境遇で育てられたなら自分も海賊になっていただろう、海賊を撃つなら私たちすべてを撃つことになる、なぜなら、私たちすべてがこのいきさつに多少なりとも責任を持っているからである、と考えます。

 仏教において最も重要な戒律は、はっきりした心をもって生き、なにが起こっているかを知ること。私たちの日常生活、ものの飲み方、何を食べるかが、世界の政治的状況と関わっている。瞑想はものごとの内側を深く見、どうしたら自らを変え、どうしたら状況を変化するかを見通すこと。
爆弾のありよう、不正義のありよう、兵器のありよう、私たち自身の存在のありようが不可分である。

 政府の自由は私たちの日常の生き方に依存しているという言葉もあります。

 うまく瞑想するには、たくさん微笑することが必要ということです。微笑することは自分自身を取り戻し、自らの主権者になることだから。
呼吸(数を数えながら)により体と心を鎮め、ほほえみ、生きることのできる唯一の瞬間が現在の瞬間でしかない(過去や未来でなく)ことをはっきり知る。

 他にもすごい!(語彙がなくて)と思ったのは、怒り、憎しみ、むさぼりは戦って破壊し絶滅すべき敵ではない、絶滅させようとすれば、みずからを分断して一方を目覚めた人(仏陀)の味方とし、他方を悪魔の味方としてしまい、みずからに暴力をふるうことになる。はっきりした心で、「怒りが私の内にある、私が怒りそのものだ」と自分自身に言い聞かせ、もっと建設的なエネルギーに変えるべきだというところです。
慈悲深く怒りの世話をしなさいとは、思いがけない言葉でした。
   ティク・ナット・ハンは決してきれいごとを言っているわけではなく、ヴェトナム戦争中には共産主義者と反共産主義者の両方を理解して平和をつくろうとしたため、仲間の中には両方から疑われて命を落とした人たちがいたり、理解を求めるために焼身自殺した僧もいたそうです。

 そして、どちらか一方については和解させることができなくなるから、どちらにもつかないけれど、不公正に対しては勇気を持って発言するべきだと語っています。
家族、友人、志を同じくする人々などの共同体で一緒に瞑想することも勧めています。
理解するには見識と知識をのりこえることが必要、など、仏教が平和の宗教と言われるゆえんの叡智が詰まった本、仏教徒でなくても(私も違うけれど)ぜひ多くのかたに読んでいただきたいと思います。


「遊んで遊んで遊びました ~リンドグレーンからの贈り物~」   ジャスティーン・ユンググレーン著   うらたあつこ訳   出版 ラトルズ

 子供の頃、「ながくつ下のピッピ」や「やかまし村」を愛読しませんでした?
子供の頃、リンドグレーンのこのシリーズが大好きで、楽しくて楽しくて、どうして書いている人はおとななのにこんなに子供の気持ちがわかるのだろう?と、とても不思議に思いました。
その創作の秘密がこの本を読むとわかります。

 1992年春、ジャスティーン・ユンググレーンは84歳のリンドグレーンを尋ね、インタビューをしました。そして書いたのが、この本です。

 アストリッド・リンドグレーンはストックホルムのほぼ中心地、ヴァーサ公園に面したマンションに住んでいました。そこに住み始めて50年、「ピッピ」「やかまし村」「エーミル」「おもしろ荘」「やねの上のカールソン」「ミオよわたしのミオ」「はるかな国の兄弟」などがそこで書かれました。

 アストリッドは1907年スモーランドの農家に生まれ、兄グンナルとスティーナとインゲヤードというふたりの妹がいました。「やかまし村」そっくりの環境で育ったということです。兄妹はとてもよく遊び、作品に出てくる遊びはほとんど実際に遊んだものなのだそうです。とくにグンナルとアストリッドは遊びを発明する天才でした。
母は厳しいけれども、とてもやさしくもあり、くどくど小言を言わず、子供は遊べないと困ると考えていました。

 リンドグレーンは、スモーランドに生まれなくても、子供は空想したり、遊びを自分で発明する力がある、と言いつつ、テレビの前に釘付けになっている子供が心配だと言います。テレビは子供のこころを荒廃させるから。

 アストリッドは19歳で未婚の母になりました。スウェーデンでも、当時は未婚の母などとんでもない、という時代だったので、ストックホルムに出たものの、子育てしながら働くのは無理で(おそらく保育園などの制度がまだ整っていなかったのでしょう)、息子ラッセを一時的に里親に預けたり、両親に預けたりしました。23歳のとき、ステューレ・リンドグレーンと結婚、娘カーリンが生まれます。子育てに専念しますが、後に、ラッセは、母は普通の母親のようではなく、自分が率先して一緒に遊びたがったと語っています。

 アストリッドは生涯子供の心を忘れなかった人だったようです。この本の表紙もなんと、木登りしているおばあさんの写真です。夫や息子に先立たれるなど、悲しいこともありましたが、自分の内なる世界にはいりこんでいるときには、どんな悲しみも痛みも忘れられたと言います。

 著者は最後にこう述べています。
「アストリッドは、私たちが普段見慣れているありふれたものの後ろには、いつも、もう一つの世界―かすかなやさしい光に包まれた神秘的な世界―があるのだと言おうとしているのではないでしょうか。けれども、それは、悲しみを味わってはじめて見つけることができるのです」
 リンドグレーンはこのインタビューの10年後、94歳で亡くなりました。

 またリンドグレーンの本を読みたくなりました。まだ読んでいないものも何冊もあります。


「露の身ながら    往復書簡 いのちへの対話」   多田富雄 柳澤桂子著   集英社

 新進気鋭の遺伝学者として目覚しい成果をあげつつあった31歳のときに正体不明(当時)の難病を発病し、以来30年以上にわたって痛みと闘いながらベッドでキーボードを打ち、本を書いてきた柳澤桂子氏と、免疫学者として、新作能の作者として、八面六臂の活躍中に脳梗塞で倒れ、障害者となった多田富雄氏の往復書簡です。

 おふたりとも、身体は意のままにならなくなってしまいましたが、幸い知性は鈍ることなく、障害について、生きるということについて、遺伝や生物学、教育について、また音楽について述べ合い、クローンや核、内分泌撹乱物質(環境ホルモン)への警告を発し、重度障害者でも、生命を大切にした生き方を守ること、生命のルールを守って生きることの大事さを、どんな形でも訴えていくことができる(多田氏)、戦争の恐ろしさ愚かさを伝える仕事をはじめたい(柳澤氏)、と希望を持って結んでいます。

 多田氏は半身不随、話せない、食物や水が飲めないという障害を持つようになって、最初は死ぬことばかり考えていらしたが、今では生の感覚の方が旺盛になり、古い自分の半身の神経支配が死んで新しい生命がうまれつつある、と思えるようになったそうです。そのたちなおりの過程が書簡に現れている、と柳澤氏も指摘しています。
健康だったころは生きているという実感を持たなくなってしまっていた、という言葉が印象的です。

 おふたりの強靭な精神力にも感嘆しますが、おふたりを支える家族の優しさ、強さにも頭が下がります。
まだ何かできるかも、という勇気を与えてくれる本です。


「夢の靴職人」サルヴァトーレ・フェラガモ著 掘江瑠璃子訳 文藝春秋社

 フェラガモというと、「高級ブランドの靴」というイメージですが、創設者サルヴァトーレ・フェラガモは1898年ナポリの東にあるボニート村に14人兄弟の11番目として生まれました。
食べ物は自給自足という、つつましい生活をしている家族で、兄や姉たちはアメリカに渡って仕送りをするようになりました。
サルヴァトーレはよちよち歩きの頃から向かいの靴屋の店でじっと仕事を見ていました。9歳で親は仕立て屋や床屋に弟子入りさせましたが、関心を持てずやめてしまいました。当時靴屋は卑しい仕事とされていたので靴屋になりたいといっても聞いてもらえませんでした。

 6歳になる妹の洗礼(堅信?)式にはかせる白い靴がなくて悲しんでいる母を見て、サルヴァトーレは靴屋に白いズック生地と道具を借りてきて、家族が寝静まるのをみはからって作り始めました。なぜか作り方はわかっていたそうです。明け方父が起きてきたが「早くおやすみ」とだけ言い、翌日妹たちは真新しい靴をはいて教会に行くことができました。
靴屋の見習いになるのを許され、最初は子守など雑用ばかりだったけれど、めげずに少しずつ教えてもらったり見て覚えたりして、ついには親方はサルヴァトーレ少年に仕事をまかせっぱなしにして遊んでいるようにまでなります。

 同じように気をつけて採寸しても足にあうといって喜ぶ人と、まめができたと苦情を言う人がいることを不思議に思っているうちに、勧める人もあってナポリに行き、何軒かの靴屋で働きますが、どこも採寸のやりかたは同じでした。

 おじにお金を借りて故郷に戻って最初の靴屋を開いたのは、もうすぐ12歳、という時でした。
店は順調でしたが、アメリカの靴工場に勤める兄の強い勧めでアメリカに渡ったサルヴァトーレが見たのは機械化された工場で、出来上がった靴もとうてい受け入れられるものではありませんでした。映画関係の仕事をしていた兄の紹介で映画に使う靴を制作するようになり、そのうちにすべて任されるようになったばかりか、俳優たちもプライベートで靴を作りに来るようになりました。世界の王族や貴族も買いに来るようになります。

 その間も夜学に通って骨格の勉強をしたり、たえず研究を続けた結果、土踏まずを支えるようにすれば踵とつま先にかかっていた体重の負担を分散できることを発見します。

 「私は前世も靴職人だったのに違いない、未完成だったので仕事を続けるため、再び生まれてきたのだろう、なぜなら初めて妹たちのために作ったときから作り方がわかっていたのだから」と書いているように、フェラガモは靴作りを天命と考え、独創的なだけでなく、足にフィットし、幸せに歩ける靴を追及し続けました。交通事故にあって足を怪我したときには治療用のギプスを考え出し、足が痛くて歩けない人に適切な靴をつくることで、その人たちの肥満が解消したり、イライラが治ることに喜びを見出していました。
足を手に持っただけで人の性格がわかったそうです。

 注文がさばききれなくなって、アメリカでは手づくりの靴職人がいないためイタリアに工場をつくろうと、イタリアに戻りますが、職人は自分のやりかたを変えたがらないので、若い人たちを集めて教えながら生産を始めます。 ところが戦争が起こり、輸出できなくなったり、良質な材料が手に入らなくなったり苦境に立たされます。その中で手にはいる材料で工夫したウェッジソールは大流行します。

 靴さえ作れれば幸せという職人気質ゆえ、倒産したり、ドイツ軍にはアメリカのスパイと疑われ、ヒットラーの愛人エヴァ・ブラウンの靴やムッソリーニのブーツも作っていたため戦後はまた苦しい思いをしましたが、信念と勤勉さ、古いお客の支えで乗り越えました。終生「私は一介の労働者」といい、あえて自分にレッテルを張らなくてはいけないなら、「国際派」であり、人生で会ったいろいろな国の人々には根本的な違いはない、私たちは、共に働き、共に話し合ったり意見をことにしたり合意したりといった普通の生活を続けていたかったと書いています。
戦時中靴が作れなくなってしまったとき、40歳になっていたフェラガモは家庭を持つ夢を思い出し、嫁探しの旅に出て、故郷の村で20歳のワンダと出会って結婚します。

 「私は腕を磨いている最中だ…この五体でなし遂げられなければ他の人の手で実現するだろう。我々は永遠の流れに身をゆだねている。永遠の流れに終点はない」と書いた4年後フェラガモは世を去りますが、その仕事はワンダ婦人と子供たち、孫たちが引き継いでいます。

 3版の前書きとしてワンダ夫人は書いています。
「私たちは今もあの頃のようにあなたの夢をかなえるため歩き続けています。なぜって、あなたはいつも私たち一人一人の胸に行き続けているのですから」

 天職として靴をつくる喜びにあふれ、それは人が美しく快適に歩けるといって喜ぶことへの喜びであるので、読んでいてじつに爽やかな気分になれました。最初に靴職人になったころ、家族の靴は暇を見て作っても、自分は長いこと裸足だったのだそうです。

 最近小学生がテレビ番組で「ITの会社の社長になりたいけど作るのは大変なので、株で儲けたお金で友好的買収をしたい」などと言っているのを見るにつけ、投資教育より先に教えることがあるだろう、と言いたいです。投資する人だけでは世の中成り立たないのだから。


「100歳の美しい脳」デヴィッド・スノウドン著 DHC

 日本版の副題は「アルツハイマー病解明に手をさしのべた修道女たち」。 原題はAging with Grace
 著者のデヴィッド・スノウドン博士は1986年「ナン・スタディ」の予備研究に着手しました。なぜ修道女を研究対象に選んだのか、というと、修道士でもよかったのですが、修道院なら同じ仕事、同じ収入で同じものを食べ、独身、受けられる医療も同じなのでアルツハイマー病の原因を解明するのによりわかりやすいデータが集められると考えたからです。

 スノウドン博士は1990年ケンタッキー大学メディカルセンター内サンダーズ・ブラウン・エイジングセンターに移り、678人の修道女を対象に華麗とアルツハイマー病の研究を本格的に開始しました。死後脳を提供することを条件に参加者を募ったため、どれだけの人が協力してくれるか心配でしたが、「私たちは子供を産まないというつらい選択をしたけれど、アルツハイマー解明という遺産を次の世代に残せる」といって多くのシスターたちが参加してくれました。

 研究に協力しているノートルダム教育修道女会は家族を通して社会を変革できると考え、貧しい子女に教育を授け人格形成することを目的に最初ドイツで設立された修道会で、ほとんどのシスターが教職を経験しています。

 100歳を過ぎてかくしゃくとして、毎日1組ずつミトンを貧しい人のために編んでいる人がいたり、80歳、90歳過ぎても肉体も精神も元気な人がいる一方で、身体が不自由になったりアルツハイマーを発症している人もいるのはなぜなのか?

 遺伝子も関係しているが、その遺伝子を持つ人すべてが発症するわけではない。
学者の間でも意見が分かれていて、脳内のアミロイドもしくはプラークが原因という人と、異常な形のタウ淡白がもつれて神経原繊維変化を起こすのが原因という人がいるそうです。

 亡くなった人の脳を見ると、アルツハイマーに特有のプラークがあっても症状が出ていなかった人もいるし、さほど病変が起きていないのに、症状が出ていた人もいる。
プラーク、神経原繊維変化があって、脳出血などがあると症状が出るようです。
 この会のシスターたちは20歳前後で初誓願を立てるときに自伝を書いているが、語彙が多く、豊富な内容を複雑な文章で書いていた人はアルツハイマーにならずかくしゃくとしている。
若い時に脳を鍛えておくとよいのか、と著者は書いています。

 水銀が問題視される歯の詰め物は関係が見られませんでした。 アルツハイマーになった人は血液中のリコピン(トマトなどに含まれる)が少なかったそうです。
研究はまだ続いています。

 ドイツ生まれでナチスを逃れてアメリカに渡ったシスターは67歳のときに少女時代からの夢を実現させてアフリカに行き、ケニアではじめての植林を成功させ、80歳でアメリカに戻った、と読むと、年だからと諦めてはいけないと思ったり、読むうちにシスターたちの明るく心温かい様子が浮かんできて、読んでいると元気が出る本です。



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