窓辺でお茶を

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本箱(戦争と平和の棚)


・銃口
・置き去り


「千鳥ヶ淵へ行きましたか 」石川逸子詩集

(2006年3月30日記)
 桜が今を盛りと咲いています。
四谷から市ヶ谷の土手や千鳥ヶ淵もきれいなことでしょう。水辺に咲く桜はまた格別です。
千鳥ヶ淵に戦没者墓苑があることはお花見にそぞろ歩きながらも頭の隅にあったけれど、それ以上深く考えたことはありませんでした。

 石川逸子さんの詩集「千鳥ヶ淵へ行きましたか」にも、知らぬげにお花見をする人々が登場します。
石川逸子さんは千鳥ヶ淵でふつふつときこえてきた死者たちの声を少しでも掬い上げたかったとあとがきに書いています。

 「名もなき人々」とよくいうけれど、戦争で亡くなって本当に名前をなくしてしまったお骨が埋葬されているのが千鳥ヶ淵です。その数約35万柱。軍人と、戦闘に加わって亡くなった民間人だそうです。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 詩人はたくさんの遺骨が納められた霊園の部屋で戦争の犠牲になった人びとを想起し、呼びかけます。
母が非国民と呼ばれることも恐れず必ず帰りなさいと言ったのに戻ることのできなかった特攻隊員、日本の軍人として戦犯になり処刑された朝鮮の若者、口封じに手榴弾で殺された従軍慰安婦…

 この前、テレビでいまだに野ざらしになっている遺骨がたくさんあると言っていました。


「銃口」三浦綾子著 小学館文庫

 昭和元年、旭川に住む竜太は小学校の4年生になりました。竜太の家は祖父の代からの質屋で恵まれた家庭でしたが、父はおむつを持ってくる女にもお金を貸してやるような人情のある人でした。
新しく担任になった坂部先生は高圧的でなく教育熱心な上、生徒のひとりひとりの家庭の事情まで思いやって親身になる心温かい教師でした。そんな先生を見て、竜太は自分も教師になろうと決意します。

 竜太がいよいよ教師になるころ、治安維持法が反対を押し切って成立し、共産党員がおおぜい逮捕されました。政治には関心がなく、坂部先生を思い起こしながら子供たちの教育に一生懸命取り組み始めた竜太がある日突然逮捕されてしまいます。
 同じく教員になっていた、竜太が小学生のころからほのかに思いを寄せていた芳子の誘いで、竜太は綴方教育連盟の集まりに1度だけ行ってみて出席者名簿に名前を書いたからでした。竜太は芳子と結納を交わす寸前でした。 同じように何十人もの教師が逮捕され、でっちあげの証拠で共産主義者として拘留されていましたが、なぜかこのことは新聞には載らず、人々の知るところになりませんでした。

 小国民を熱心に育てていた自分がなぜ、と思ったものの、竜太は退職願を描くことを強制され、気力をなくしてしまいました。が、同じく逮捕されていた坂部先生とつかのま会えたことで気を取り直します。面会も手紙も禁止され数ヶ月拘留されたのち、やっと釈放されましたが、坂部先生は身体の具合がよくなかったところに拷問を受けたせいで亡くなっていました。竜太は就職しても尾行や嫌がらせ的な聞き込みのため、退職を余儀なくされ、家業の質屋を手伝っていましたが、芳子と満州で教師をしようと決意します。その矢先、召集令状が…

 軍隊には蛮行を得々と話す輩もいましたが、生涯の友となれる人にも出会ったことが終戦後生涯を教育に捧げる決意につながります。

 これは、フィクションの小説ですが、1941年に実際に起きた「北海道綴方教育連盟事件」をもとに描かれています。「綴方教育連盟」とはヒューマニズムにのっとって綴り方(作文)を通して全人的な教育をしようという教育熱心な教師たちの会でした。50人をこえる教師たちが治安維持法違反容疑で検挙されました。

 三浦綾子さんはこんな時代が二度と来ないようにとの警告をこめてこの小説を書いたことと思います。
しかし現在「平成の治安維持法」と呼ばれる「共謀法」が継続審議になっています。
 犯罪組織を対象にしている、などの文言は法文にはありません。つまりいくらでも拡大解釈することができ、二人以上の一般市民(サークルなども)も対象になります。労働組合や住民運動なども弾圧される恐れがあります。 犯罪など共謀しないから自分には関係ないとはいいきれないのです。
くわしくは こちら をご覧ください。

 「銃口」は芳子と竜太の「昭和もとうとう終わったのね」「本当に終わったと言えるのかなあ。いろんなことが尾を引いているようでねえ」という会話で終わっています。


「置き去り ― サハリン残留日本女性たちの60年」吉武輝子著 海竜社

 吉武輝子さんは以前、一時帰国した中国残留孤児の女性たちから聞き書きしたものの、あまりの重さに本にまとめることができなかったそうです。その後サハリンに残留日本女性がいることを知り、彼女たちの生きた証をどうしても本にしようと渾身の力を奮い起こして、本人たちに会って話を聞き、この本を書き上げました。

 サハリンの日本女性たちは中国残留孤児より数が少なく、国際結婚をしているという理由で長い間日本政府に無視されてきました。しかし、国際結婚といっても、実際には父や兄を殺すなどと脅されて強制されて結婚した人が大部分でした。
 ロシア人と結婚した人もいましたが、多くの人は朝鮮人と結婚しました。朝鮮人の夫たちは日本の一員として徴用されて樺太に来ていた人たちで、終戦で立場が一転し、それまで差別され支配されてきた恨みと故国に帰る希望を砕かれた絶望から、自暴自棄になり、暴力をふるったり、おだやかな人でも酒におぼれて身体を壊す人が多かったそうです。
特に南の出身の人たちは鉄のカーテンと政治の壁に阻まれ、望郷の念を抱きながら亡くなった人もいました。
戦争のツケは一番弱い人たちにまわされ、きれいに後始末されることはありえない、と吉武輝子さんは書いています。

 地上戦が行われたのは沖縄だけだと思っていたら、サハリンでもあったそうです。8月15日に終戦となったはずなのに、サハリンではその後もソ連軍の攻撃が行われ、民間人の被害をくいとめようと白旗を掲げて交渉に向かった軍使たちは国際法に違反して殺されてしまいました。軍用犬も射殺されていたそうです。
引き上げ船も3隻日本の領海内で正体不明の潜水艦に撃沈されています。

 8月12日には日本人の農民が朝鮮人17名を日本刀でなぶり殺しにする事件が起きており、戦争の凶暴性にさらされると、ときに潜在的な民族差別の報復への恐怖心が常軌を逸した狂気に走らせるのだと分析されています。

 日本人であることを隠して暮らしてきた人も多かったのですが、1990年「サハリン日系人会」ができ、それに先立つ1989年「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」が発足してその努力の甲斐あって、やっと帰国が可能になりましたが、永住帰国ができることになっていざ飛行機に乗ろうというときに倒れて無念にも遺骨で帰国することになった方もいました。

 本はひとりの残留日本女性の言葉で結ばれています。 「戦争は海外に出て国の利益のために一生懸命に働いて生きている人たちを捨てるということです」




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