JAPANESE GIRLS&BOYS

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蟻蛾塔


『蟻蛾塔』


 あと少しだ――

 そんな希望が、私の足を突き進ませる。



   *  *  *  *  *



 ただただ真っ白い砂の平原。
 見渡す風景には人の姿は私以外になく、砂漠に生息しているトカゲなどの小動物でさえその姿を見ることはできない。
 いや、果たしてここは砂漠なのだろうか。
 それにしては気温がちょうど良く、心地よい。
 私はもう一度辺りを見渡した。
 一面に、明らかに人が建造したであろう巨大な塔が幾本も建っている。その数は計り知れない。見たところその光景は地平線の向こう側までも広がっていそうだ。

 私は一つの塔に歩み寄って、その入り口らしき穴から中を覗いた。
 塔の内部は外見から想像していたよりもずっと狭かった。
 見ると、壁伝いに螺旋階段が設置されており、塔の上層部まで続いていた。塔が長すぎるので、その頂上はここから見ることは出来ない。

 私は振り返ってその塔から離れた。
 何故だか直感でわかるのだ。
 一度入れば、もう後戻りは出来ないこと。
そして、今の私が捜し求めているのはこの塔ではないということも。

 私はまた歩き出した。
 靴の中に砂が入って気持ちが悪いので、靴を脱ぎ、素足になった。
 さらさらとした砂の感触が心地よく感じられた。
 靴はここに捨てていこう。


 しばらく歩きながら、妻のことを思い出した。
 私の心の中にはいろんな妻の一面があるが、中でも一番印象深いのは、いつだったかここと同じように真っ白な病室で語ってくれた時のことだ。



   *  *  *  *  *



「私、蛾が好きなの」
「………蝶じゃなくて?」

 私は病室のベッドで上半身だけ起こした妻にそう尋ねた。
 そう、蛾よ、と妻は答えた。

「……蝶は嫌いなの」
「そりゃまた、どうして?」

「う~ん、まぁいろいろな理由があるけど………」

 妻はしばらくそうやって考えていた後、私にこう言った。

「蛾ってさ、光に集まるじゃない。蝶は花に集まるけど、それは花の甘い蜜の香りに誘われてでしょ? それって結構弱いものだと思わない。誘惑に打ち勝てないっていうか、なんていうか。それに比べて蛾が光に集まる様は、なんていうか、希望の光に向かって飛んでいってるみたいでカッコいいじゃない?」

 斬新な意見だとは思った。
 しかし、場合によっては蝶だって光に集まるだろう。それに、それだけの理由をとれば別に蛾でなくても良い。
 それに、蝶が花からの蜜の摂取を拒否していれば、ただ成長できず死ぬだけである。

 ケラケラと笑う私を見て、妻は顔を膨らませてすねてしまった。
 そんな妻に、私は自分の考えを述べた。

 妻はため息を一つついて、
「相変わらずね」
 と、言った。

 相変わらず、というのは私が物書きという職業がら現実的な思考ばかりしてしまうことについてだろう。
 しかし、私に言わせればこの考え方は生まれつきであるし、自分でも最近のSFの考え方にはついていけるぐらいのキャパシティは持ち合わせているつもりだった。

 妻は私の目を見た。
 その真剣な眼差しに、私はようやく気付いた。
 この話題の意味を。

 ベッドの上。
 脇に置かれた点滴による栄養分摂取によって生き永らえている体。

 蝶は………彼女だ。

“蝶は嫌いなの”
 先程言った妻の言葉が頭の中に浮かんだ。

 彼女は、蛾になりたがっているのだ。
 かつて、彼女は私にこう言った。
“私は生まれつき短命です。ですから、きっと貴方よりも先に逝ってしまいます”
 医者にも既に長くはないと告げられている。
 それを虫の命になぞらえて、それでも蛾のように希望の光へ手を伸ばし、生きたいと願っているのだ。

 しかし、現実はそう甘くは無い。
 彼女は蝶にしかなれない。
 いや、蝶でいなければ生きられない。
 そして、それでも生き永らえることしか出来ないのが今の状態だ。

 私の脳裏に、先程自分が考えていた事柄が過ぎった。
“蝶が花からの蜜の摂取を拒否していれば、ただ成長できず死ぬだけである”
 妻のか細い右手は、今にも点滴のチューブに伸びそうであった。今考えてみれば、おそらくそれは気のせいだっただろうが。

「お、おい! 変なことは……」
 私がそうやって慌てると、妻はクスッと笑い、
「少し休みます」
 そう言ってベッドに横になり、瞳を閉じた。

 それ以降、二度と妻はその話題を話すことはなかった。



   *  *  *  *  *



 私は耳が悪いほうだ。
 だから、羽音が聞こえたというと嘘になるだろうか。
 とにかく、その気配を感じた私は顔を上げた。

 それは、羽を広げても5センチほどしかない小さな蛾だった。
 それが、私の目の前をヒラヒラと舞っていた。

「――」

 私は無意識のうちに妻の名前を呼んでいた。
 その蛾は、まるで私を拒むように、あるいは私を誘うように私から離れていく。

「――、待ってくれ!」

 私はその蛾を追った。
 歩き詰めで疲れ果てた私の今の足ではうまく走ることは出来なかったが、それでもその蛾に遅れることは無く後を追いかけることが出来た。

 時折、目の前をいく蛾の姿を見失うこともあった。
 しかし、視界を漂う無数の鱗粉が道しるべとなり、的確に私を導いてくれるのだった。



 どれだけそうやって歩いただろうか。
 その蛾は、ある一つの塔の中に入っていった。
 これこそが、これこそが私の捜し求めていた塔だと思った。
 そして、蛾の後を追って塔の中へ足を踏み入れた。

 塔の内装は、初めて覗き込んだ塔のものと同じだった。
 中は薄暗かったが、歩き回るのに支障をきたすほどではなかった。
 見上げると、塔の頂上、天辺のところから光が漏れていて、その光が最下層の私のところにもかすかに届いてきていた。
 私は何故か一種の焦燥に駆られ、狂ったように螺旋階段を上り始めた。

 二段飛ばしで、一心不乱に階段を上っていく。
 気付いた時には、私はそうとうな段数を上り終えていた。
 しかし、まだ塔の頂上の光は近づいた気配を見せない。
 私は荒い息を抑えるために、立ち止まり、膝に手をついた。

 砂漠を歩き回った疲れと、今行った無茶によって、足の疲れは半端の無いものになっていた。
 当然だ。
 もう私もそれほど若くない。

 私は自分の年齢と共に、妻に結婚を申し込んだ時のことを思い出していた。

 年が八つほど離れた私に、そんなことは気にしないといってくれた妻。

 彼女の両親も、快く私たちの結婚を許してくれた。
「病弱な娘だから、花嫁姿も見せずに逝ってしまうものだとばかり思っていましたのに……本当に親孝行者です、あの子は……」
 そう言って、彼らは涙を流すのだった。

 彼女自身も、
「私は貴方よりも先にあの世へ逝ってしまうでしょう。だから、必ず貴方を悲しませてしまいます」
 そう言って涙ぐんだ。

「そんな悲しいことを、言わないで下さい」
 その時、私はそう答えたし、心の底からそんなことにはならないで欲しいと願っていた。

 しかし、実際はその通りになったのだ。


 不意に、私は無数の気配に囲まれていることに気が付いた。
 振り返り、今まで自分が上ってきた階下に目をやると、そこには巨大な黒い影があった。
 その影がごわごわと蠢いている。
 途端に私は理解した。
 それは蟻の大群だった。
 何万、何億、いや、それ以上の数の蟻たちが体を寄せ合い、私のすぐ後ろまで迫っていた。
 私は驚いて、危うく階段から足を踏み外しそうになった。
 私の足によってはじかれた瓦礫の欠片が、螺旋階段の中央の闇に消えていった。
 しかし、落下音は聞こえてこない。
 まるで闇に飲み込まれたようだ。
 実際には、おそらくそれほどまでに蟻が積もっているのだろう。

 もう後戻りは出来ない。
 いや、そんなつもりなど初めからない。

 私は蟻に急かされるかのように再び塔を上り始めた。
 私が上るのと同じくして、蟻たちも階段を滑るようにして這い上がってきているのを私は背後に感じていた。

 そうだ。
 蟻で思い出したことがあった。
 あれは、まだ妻が入院する前のこと。
 私の田舎の実家に、妻が無理をしてついてきた時のことだ。



   *  *  *  *  *



「虫が多いのね」

 妻は縁側に座って、日向ぼっこをしているようだった。
「虫は嫌いかい?」

 私がそう聞くと妻は、虫にもよるわねと言った。
 そんなの誰もがそうではないか、と私が思っていると、そんな考えを見透かしたのか、妻は笑い出した。

「具体的に言うとね……蟻。蟻は嫌いよ」
「蟻かい?」

 私は、蟻が嫌いだという妻がここにいることを不憫に思われた。
 何故なら、私の田舎は山里だから、彼女の言うとおり虫が多い。
 蟻などどこにでもいるような所だった。

「どうして嫌いなんだい?」
 そう私が尋ねると、彼女はう~んと唸って、
「わかんない、なんとなくかしら?」

 拍子が抜けて、私は変な顔をしていたのだろうか。
 妻は私の顔を見て、先程よりも一層ケラケラと笑った。

 私は驚いていたのだ。
 しばらく付き合っていてわかったことだが、彼女は嫌いなものは必ず理由があってそれを嫌っている。
 好きなものでも同じだ。
 だから、そんな彼女の口からなんとなく嫌いといった曖昧な言葉が出たこと事態が珍しいのだ。
 ひょっとしたら、本当はその理由を言いたくなくて隠しているだけなのかもしれない。

 その時、私はいつか絶対彼女からその理由を聞きだしてやろうと思ったのだ。



   *  *  *  *  *



 そんなことを、今になって思い出すとは皮肉なことだ。
 まぁ、おそらく直接彼女に尋ねたとしても、その答えは知りえなかっただろうが。

 心なしか、呼吸しづらいような気がする。
 空気が薄くなってきたのかもしれない。
 見上げると、頂上の光が先程よりも格段と近くなっていた。
 過去を振り返りながらも、私は確実に階段を上がっていたようだ。

 不意に、蟻たちが動きを止めたのを感じた。
 何事だと立ち止まり前を見ると、無数の鱗粉が舞っている。

「……君か」

 私のすぐ目の前を、先程の蛾が飛んでいた。
 手を伸ばせば届く距離だ。
 しかし、私はそうしない。
 それをすると、彼女が逆に遠ざかってしまうような気がしたからだ。

 その蛾はヒラヒラと風を読むかのように舞いながら、塔の更に上層部へと飛んでいった。
 思えばあの蛾を見たのは、塔の中に入ったのを見て以来だ。

 その蛾に習って、私も再び階段を上り始めた。
 蟻たちも再び蠢き出す。

 ふと気が付いた。
 塔の頂上の光を目指して登り続ける私。
 その姿こそ、妻の言っていた蛾の姿ではないか。
 今の私は………蛾、だ。

 皮肉な話だ。
 ――、見ておくれ。
 私も、蛾になれたよ。

 私は、先程から私の前に姿を現す蛾が妻であることを前提にして、そう言った。
 私の瞳からは、すでに大粒の涙が零れ落ちている。
 泣いたのは久しぶりだった。
 私は彼女の葬式でさえ涙を流すことはなかったのだから。

 だが、今はこうして涙している。
 そして、悲しみながらも感動しているのだ。
 彼女の人生に。
 死してようやく願いを叶えた彼女に。

「ま、待ってくれ」

 私は彼女の後を追って、塔をまた上ろうとした。
 そして、涙を拭こうと顔を俯いた時、涙で歪んだ私の視界が、階下に広がる広大な闇を捉えた。
 そして、悟った。


 蛾は光を目指す。
 暗い地中に巣くう蟻たちには光は必要ない。
 光の対となるのは闇。
 階下に広がる漆黒の闇。
 その正体は―――蟻だ。




   *  *  *  *  *



 突然、蟻たちが牙を剥いて私に向かって襲い掛かってきた。
 まるで大波のようになって向かってくる彼らを寸前でかわして、私は駆け足で階段を上り始めた。

 背後から闇が迫ってくる。
 私は、頂上の光を目指して一心不乱に足を動かした。
 もはや足の疲れは痛みに変わっている。
 それでも私は走り続けた。



 やがて、肉体も限界を越えた頃、私の体を光が包んだ。
 私はいつの間にか頂上にたどり着いていた。
 背後の闇が急速にその気配を消していった。

 塔の頂上の壁に、直径30センチほどの穴が開いていた。
 そこから光が入ってきているのだ。

 その差し込む光の柱を軸に回るようにして、あの蛾がヒラヒラと舞っていた。

「――」

 私が彼女の名前を呼ぶと、その蛾はそれに反応するかのように一度こちらに向かって飛んできたが、すぐに引き返して壁の穴の方へ向かった。

「待ってくれ!」

 私は急いで手を伸ばしたが、その時にはすでに蛾は穴から塔の外へ出てしまっていた。

 穴から覗くと、蛾は天高く、光り輝く太陽へ向けて飛んでいく。

 私は穴から身を乗り出して声いっぱいに叫んだ。
「私も連れて行ってくれ!」
 その咆哮は、砂漠の風景に溶け込むばかりで、彼女に届いている気配はない。
 私はただただ涙を流し、うな垂れた。

 これでは、私はただの蛹のままではないか。



   *  *  *  *  *



 私は耳が悪いほうだ。
 しかし、確かに聞いた。
 あれは、彼女の声だ。

 私は顔を上げて、空を見上げた。
 太陽の中。
 眩しすぎて直視できないその光の球の中心に、それはあった。

 太陽よりもずっといい色で光り輝いているそれを、私は希望の光だと思った。

「私は……共には行けないのか……?」

 私の問いに、彼女は微笑み、そして何かを口走った。


 その瞬間、私は背後に引き寄せられ、階段から足を踏み外した。



   *  *  *  *  *



 あれは、いつだったか。

 病院の彼女の個室。

 私は、彼女が死んだら、私も共に死ぬという決意を彼女に告白した。

 すると、妻は大粒の涙を流しながら、それだけはやめてくれと、絶対にそんなことはしないでくれと、私に懇願したのだった。

 したら祟るとまで言われ、私は複雑な気持ちになったのを覚えている。



   *  *  *  *  *



 螺旋階段の中央の闇の中を落下している。
 しかし、その闇は先程私に襲い掛かってきたものとは違い、どこか眠りに着く前の暗闇のような心地よさがあるものだった。

 そんな心地よい闇に包まれながら、薄れ行く意識の中で私は思っていた。

 私は、蛾にはなれない。

 そう気付かされた。

 生きている者と、死んでいる者。
 蛾になれなかった私と、蛾になれた妻。
 貴方にはまだまだ先がある。
 幸せになる機会がある。

 妻のあの言葉は、私にそう教えてくれた。

 あの時、彼女は今まで愛してくれたことと、こうして探してきてまで共にいたいと思ってくれたことへの感謝の意味をこめて、病院で死の間際にいった言葉と同じ言葉を口にしたのだ。

 何を言ってるんだ。
 それは私の台詞だ。

 なぁ、――。
 まず初めに謝っておくよ。
 いろいろと、すまなかった。


 そして、今まで……本当に―――。


 薄れ行く意識の中で、私はその言葉を口にした。




   □  □  □  □  □



「ありがとう」

 私は、その本を妻の墓石に供えてやった。
 私が約2年ぶりに書き上げた小説だ。

 本のタイトルは『蟻蛾塔』。

 別に洒落でそう名づけたわけではない。
 今までの妻との記憶と、あの体験を踏まえれば、それがぴったりだと思ったからだ。

 あれが夢だったのか、それとも現実だったのか。
 それはわからない。
 しかし、私は確かに覚えている。
 あの時の痛み、悲しみ、そして妻の言葉。

 ――。
 私は生きているよ。
 君の分まで。
 そして、けっして君のことを忘れたりなんかしないぞ。
 たとえこれから先、私が他の誰かと結ばれたとしてもだ。
 そう誓ってやるよ。

 私は立ち上がって妻の墓石から離れた。
 そして、黙って立ち去っていく。

 しばらく歩いたところで、思い出したかのように私は振り返った。


 私は蛹のままでいい。

 だが、いつか孵化して蛾になれた時には……
 その時まで、君が待っていてくれるのなら……
 それなら……。


「その時は……また……よろしくな」


 妻の墓石は、差し込む夕焼けを反射して光り輝き、まるでこれから始まる私の第二の人生に、希望の光を差しているかのようだった。



                         終


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