草加の爺の親世代へ対するボヤキ
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理解ということを考える際に、先ず最初にその理解の対象として考えるのは自分自身でありましょう。もっとも身近な存在である自分自身について、述べてみましょう。私は現在70歳と数ヶ月をこの世に生を享けてから閲しているわけですが正直のところ、未だに自分の事をよく分かっていない。完全には理解できていない。恐らくはこの中途半端な状態のままで、遠からずのうちにあの世に旅立って行くことになるのでありましょう。それはそれで止むを得ない事と半ば諦めながらも、出来る事なら、もう少し自己の正体を突き止めてから、この生を終えたいとも望んでおります。毎日、学習塾で八歳の子供から二十歳過ぎの若者までと接している所為か自分が古希を過ぎた「立派な老人」であることすら、殆ど忘れている。 ―そう言ったら少し言い過ぎでしょうか、ともかく気持ちは彼らと同じような錯覚を持ちながら、毎日を送迎している。これは一見極めて当たり前のようでいて必ずしもそうではない。自分では「恵まれすぎている」と受け止めている。漠然と、停年過ぎの老後の生活を想像していた時には、全く思いもかけなかった幸せに遭遇している。全く自分自身の手柄などではない。誰に感謝したらよいのか、良く分からないので、浅草の観音様にお参りする時には、感謝の言葉を述べている。それも、並木の藪で御酒を飲むついでの参拝ですから本当の信心からは程遠い、怪しからぬ見かけだけの似非信心者なのですね。しかし、最近は神もしくは天からの間接的な「語りかけ」がはっきりと感じられるように、自分としては理解しているのですが。本当のところは良く分かりません。なにしろ信じるか、信じないかの領域であり、客観的な説明や合理的な証明の仕様がないのですから厄介なのですね、こればかりは。自己をよく理解するには、反省や自己批判などの自分自身と向き合う時間を持つだけでは充分ではない。どうしても社会や、自然との係わり合いを深め、様々な体験を重ねる必要がある。しかし、それにも限度がありますから如何しても中途半端のままで、生を終える定めにあるのでしょう。それでよいのだ、と肯定しながら謙虚に、しかし前向きに、プラス思考で、柔軟に中途半端な妥協は排して、己に与えられた時間を有効活用する、活力有るエネルギッシュな生き方を続けて行きたいと念ずる事、頻りである今日この頃なのです。しかしそれは最後の悪あがきとははっきりと違うので、自己や絶対を勝手気儘に「狭く」限定してしまう恣意を嫌う、本能的な意志のような気さえしています。私の人生は、これからが本番だ。そう笑って楽しげに言える老人が一人くらいいてもよいのではありますまいか!?
2013年12月05日
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