草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

×

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2026年02月10日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
警固の武士共、朝(あした)にこれを見付けて、何事をか如何なる者が書いたのであろうか、とて読

みかねて、則ち上聞(じょうぶん)に達したのだ。

 主上はやがて詩の意味を御悟りなされて龍願殊に御快く笑わせたまえども、武士共は敢えてその

来歴を知らず思い咎める事もなかった。

        詩の来歴 呉越両国の爭い

 そもそもこの詩の心は、昔異朝に呉越と言って並んだ二つの国があった。この二つの国の諸侯皆

王道を行わず、覇業を務めとしていたので、呉は越を伐(う)って取ろうとし、越は呉を亡ぼして併

合しようとした。

 このように相争う事が累年に及んだ。呉越が互いに勝負を易(か)えたので、親の敵となり子の仇



          越王句践 范蠡の諌を聞かずに 呉国を撃つ

 周の季(すえ)の世に当たって、呉国の主をば呉王夫差(ふさ)と言い、越国の主を越王句践と申さ

れた。

 或時にこの句践が范蠡と言う大臣を召されて宣いけるには、呉はこれ父祖の敵である。我いまだ

これを撃たないで徒に年を送っている事、嘲りを天下の人から受けているだけではなくて、かねて

は父祖の尸(かばね、屍)を九泉(きゅうせん、墓場)の苔の下に辱めている恨みが有る。

 しかれば我今国の兵(つわもの)を召し集めて、自らが呉国に打ち越えて呉王の夫差を亡ぼし、父

祖の恨みを散ぜんと思う。汝は暫くこの国に留まって社稷(しゃしょく、社は土地の神、稷は穀物

の神、君主が居城を建てる時にこの二神を王宮の右に祭り、宗廟を左に祭る。転じて宗廟または国

家の意味に用いる)を守るべしと宣いける。

 范蠡が諫めて申したのは、臣が密かに事の仔細を計りけるに、今の越の力を以って呉を亡ぼそう



は僅かに十万騎でありまする。

 誠に小は以って大に敵しないでありましょう。これが呉が越を亡ぼし難いひとつであります。次

には、時を以って計るに春夏は陽の時で(萬物が発生の時で)忠賞を行い、秋冬は陰の時で、刑罰を

専らにする。

 時は今、春の始めであり、これは征伐を行う時ではありません。これが呉を亡ぼし難い理由の二



差の臣下に伍子胥(ごししょ)と言う者がおります。智が深くて人を懐け、慮(おもんぱか)り遠くし

て主を諫める。彼が呉国にいる間は呉国を亡ぼす事は難しく、これが理由の三つ目でありまする。

麒麟(きりん、中国で聖人が出現する前に姿を現すと言う想像上の動物)は角に肉が有って猛き形

を現さず。潜龍は三冬(さんとう、冬の三か月、孟冬・陰暦十月、仲冬・陰暦十一月、季冬・陰暦

十二月)に蟄(ちっ、隠れる)して一陽来復(いちようらいふく、陰暦十一月。冬至の日を言うがこ

こでは冬が去り春が来る義)の天を待つ。

 君が呉越を合わせられ、中国に臨んで南面(天子の位について)にして孤称(孤とは徳がないこと

で、諸侯が臣下に対する自称。帝王となる意)しようと言うのであれば、暫くは兵を伏せて、武を

隠し、時を待ち給うべきでありましょう、と申した所が、その時に越王が大いに怒って宣いける。

 礼記(らいき、儒教の最も基本的な教典である経書のひとつで、周礼・しゅらい儀礼・ぎらいと

あわせて三礼・さんらいと言う)に父の讎(あだ、敵)とは共に天を戴かずと言っている。我は既に

壮年に及んでいる。が、呉を亡ぼさずにいる。共に日月の光を戴くのは人が辱める所ではないだろ

うか。

 これを以て兵を集める所に、汝は三つの不可を挙げて我を止める事、その義一つも道に叶わず。

先ず兵の多少を数えて戦いを致すべからずんば、越は誠に呉に対しがたい。

 しかれども、軍の勝負は必ずしも勢の多少には依らない。ただ時の運に依る。又は将の謀に依る

あろう。されば呉と越が戦う事が度々に及び、雌雄は度毎に易(か)わっている。これは汝が皆知る

所である。今更にどうして越の小勢を以って呉の大敵に戦う事は叶わないと我を諫めるのである

か。汝の武略が足りない所の一つである。次に、時節を以って軍の勝負を計るのであれば、天下の

人は皆時を知っているぞ。誰が軍に勝たないだろうか。

 もし春夏が陽の時で、罰を行わないというのであれば、殷の湯王(とうおう)が桀(けつ)を討った

のは春である。周の武王が紂(ちゅう)を討ったのも春だ。周の武王が紂を討ったのも春である。さ

れば天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かずと言っている。

 しかるに汝は今、征伐を行う時では無いと我を諫めている。これは汝に知慮の淺い所の二、次

に、呉国に伍子胥なる者が有る間は、呉を亡ぼす事は叶わないと言うのは、我遂に父祖の敵を討っ

て恨みを泉下に報ずることはあるべからず。

 ただ徒に伍子胥が死ぬことを待っていれば死生に命あり、又は老小前後する。伍子胥と我といず

れを先とするか。この理を弁えずに、我は征伐を止めるべきであるか。これが汝の愚の三である。

 そもそも我、多日(たじつ)に及んで兵を召す事は定めて呉国にも聞こえているであろう。事が遅

滞して却って呉王に寄せられるならば、悔いた所で益が有る筈はない。先んずればすなわち人を制

し、遅れる時には人に制せられる、と言う。事は既に決している、しばらくも止むべからず。

 と言って、越王は十一月二月の上旬に句践自らが十万余騎の兵を率いて、呉国へと寄せられた。

 呉王の夫差はこれを聞いて、小敵をば欺くべからず。とて、自ら二十萬騎の兵を率して呉と越の

境の夫木偏の升県(ふしょうけん)と言う所へと馳せ向かい、後ろに会稽山を当て、前には大河を隔

てて陣を取った。

 わざと敵を計る為に三万余騎を出して、十七万騎の兵を後ろの山蔭に深く隠して置いたのだ。

       越王句践は 会稽山に囲まれて 呉王に下る

 さるほどに越王は夫木偏の升県に打ち望んで呉の兵を見た所、その勢は僅かに二三萬騎には過ぎ

ないと思われて、所々に馬を控えている。

 呉王がこれを見て思ったのは、相手に似ずに小勢である。と侮って十万余騎の兵を同時に馬を川

水に打ち入らせて、馬筏(いかだ)を組んで打ち渡した。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026年02月10日 16時28分37秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: