草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月21日
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島津は元から物馴れたる馬上の達者、矢継ぎ早の手利きであるから、少しも騒がずに、田中が進ん

で懸れば、あいの鞭を打って(敵が切りつける間に馬に鞭を打って)、押しもじりにはたと射る。 

田中が妻手(めて、右手)に廻れば、弓手を越えて丁と射る。 西国名誉の打ち物の上手と北国無双

の馬上の達者とが、追いつ、返しつ駆け違い、人混ぜもしないで戦いける。前代未聞の見物であ

る。

 さる程に、嶋津の矢種も尽きて、打ち物にならんとするのを見て、かくては叶わないとや思った

のか、朱雀の地蔵堂より北に控えたる小早河、二百騎にておめいて(叫んで)懸った所に田中の後ろ

にいた勢がぱっと引き退きければ、田中兄弟・頓宮(はやみ)父子、かれこれ四人の鎧の透間内冑に

各自が矢を二三十筋、射立てられて太刀を逆さまについて皆立ち竦み(立ったままで動かず)にぞ死



 美作国菅家の一族 有元兄弟の戦死 美作国(岡山県の管轄)の住人、管(かん)家の一族は三百余

騎にて四条猪熊まで攻め入って、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸け合って(騎馬戦を

して)時が移るまで戦ったのだが、後方の味方が引き退いた體を見て、元来引くまいと思っていた

のか、又、向かう敵に後ろを見せまいと恥じたのか、

 有元菅四郎佐弘(すけひろ)・同五郎佐光(すけみつ)・同又三郎佐吉(すけよし)兄弟の三騎が近づ

く敵に馳せ並べて引き組んで臥した。

 佐弘は今朝の軍に膝口を切られて、力が弱ったのか、武田七郎に頸を掻き切られて、佐光は武田

二郎の首を取った。佐吉は武田の郎党と刺し違えて共に死んだ。

 敵の二人も共に兄弟、味方の二人も兄弟であるから、死に残ってもどうしようか、いざや、共に

勝負をしようと、佐光と武田七郎とが持っていた頸を両方に投げ捨てて又もや引き組んで差し違え



 これを見て、福光彦次郎佐長・殖月(うえつきの)彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦三郎種

佐・鷹取彦二郎種佐が同時に馬を引き返してむず組んではどうと落ち、引き組んでは差し違え、二

十七人の者が皆、一所にて討たれてしまったので、その陣の軍は破れてしまった。

          妻鹿長宗の勇力 鎧武者を人磔に取る

 播磨の国(兵庫県の管轄)の住人・妻鹿(めが)孫三郎長宗と申す者は薩摩氏長の末(子孫)で、力が



 生年十二の春の頃から、好んで相撲を取ったのだが、日本六十余州の中には遂に片手にもかかる

者はいなかった。人は類を以て集まる習いである故に、相伴う一族の十七人皆がこれ世の人には越

えていた。

 されば他人の手を交えずに一陣に進み、六条坊門大宮まで攻め入りたりけるが、東寺・竹田から

勝ち戦をして帰った六波羅の勢三千余騎に取り巻かれて、十七人は打たれて孫三郎一人が残ったの

だ。

 生きていても甲斐の無い命であるが、君の御大事、これに限るまい。一人なりとも生き残って後

に御用にこそ立ちたいものだと、独り言してからただ一騎西朱雀を指して引いたのだが、印具(い

ぐ)駿河守の勢五十余騎がこれを追いかけたのだ。

 その中に、年の頃二十ばかりなる若武者がただ一騎で馳せ寄って、引いて帰る妻鹿孫三郎に組み

付こうと近づき、鎧の袖に組み付いた所を、孫三郎はこれをものともせずに長い臂をさしのべて鎧

の総角(鎧の胴の背の二枚目の板に環を打って付けた揚巻結びの太い組緒で房を大きく長くしたも

の)を引っ掴んで宙に引っ提げて馬にのったままで三町ばかり行ったのだ。

 この武者は然るべき者の子であろう。あれを討たすな、とて五十余騎の武者が後について追った

のだが孫三郎は尻目にかけてはったと睨み、敵も敵によるぞ。一騎だからとて我に近づいて過ちを

するでない、欲しいのであればそれ、是を取らせよう、受け取れ、と言い、左の手に引っ提げた鎧

武者を右手に持ち替えて、えいっと投げたところ追撃していた六騎の頭上を越えて深田の泥の中に

姿が見えなくなるほどに打ち込んだ。

 これを見て、五十騎の者共は同時に馬を引き返して遠足(素早く走る事)を出だしてぞ逃げたのだ

った。

 赤松入道は殊更に、今日の軍に頼み切りたる一族の兵共、所々にて八百余騎が討たれたので、気

が疲れ力が落ち果てて八幡・山崎にまた引き返したのだ。

       主上 自ら令修金輪法 給事 付 千種殿 京合戦の事
         船上山の皇居に於ける 御手法とその効験

 京都での数箇度の合戦で、官軍は毎度打ち負けて、八幡・山崎の陣も既に小勢となってしまっ

たと聞こえたので、主上は天下の安危は如何にあるかと宸襟を悩まされ、船上の皇居に壇を立てら

れて天子自ら金輪の法(金輪仏頂尊を本尊として、天変災異や所望産生の為に祈ること)を行わせ

給う。

 その七箇日に当たる日の夜に、三光天子(日天子・月天子・星天子のこと。一に三光天とも名付

ける。即ち、日・月・星のこと)が光を並べて壇上に現じ給えば、御願は忽ちに成就するであろう

と頼もしく思召されける。

      千種忠顯 大軍を率いて 京都に入り 六波羅に推寄する
           六波羅勢の 対陣

 さらばやがて大将を差し上せて赤松入道に力を合わせ、六波羅を攻めるべしとて六条の少将忠顯

朝臣を頭の中将として、山陽・山陰両道の兵の大将となして、京都に差し向けらる。

 その勢が伯耆の国を立った時には僅かに千余騎と聞こえたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・

丹後・丹波・若狭の勢共が馳せ加わって、程も無く二十万七千余騎になりにける。

 又、第六の若宮は、元弘の乱の始め、武家に囚われさせ給いて、但馬の国に流されさせ給いしを

その国の守護・大田三郎左衛門尉が取り立て奉り給いて、近国の勢を相催し、則ち丹波の篠村に参

会した。

 大将の殿中将は斜めならず喜んで、則ち錦の御旗を立てて、この宮を上将軍と仰ぎ奉りて、軍勢

催促の令旨を成し下されける。

 四月二日に宮は篠村を御立ち成されて、西山の峯堂を御陣に召され、相従う二十万騎、谷の堂・

葉室・萬石(まんこく)大路(おほみち)・松尾・桂里に居余って、半ばは野宿に充満した。

 殿法印良忠は八幡に陣を取った。

 赤松入道圓心は山崎に屯(たむろ、陣営)を張った。

 その陣と千種殿の殿の陣との距離は僅かに五十町程なので、方々牒じ合わせてこそ京都に寄せら

るべきであるのに、千種頭中将は吾軍の多いのを頼みにしたのか、密かに日を定めて、四月八日の

卯の刻(午前六時)に六波羅へぞ寄せられた。





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最終更新日  2026年04月21日 08時44分46秒
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